象徴弁証法
ショーペンハウアーの悲観哲学・厭世哲学を主とし、そこに唯物弁証法を「象徴弁証法」(Symlectics、妥協弁証法とも) として導入する。なお、自殺とは厭世からの脱出の試みであり、従ってそれは反厭世主義の最後の抵抗であって、自己とは盲目の意志の自己回帰的派生、すなわち自己もまた盲目の意志の具現の一つに他ならないのだ、と達観すれば、この世もあの世も同じく悲観的世界でしかあり得ないのだから、自殺という行為は端的に無意味なものでしかない。
科学的前提
暴れ川 (盲目の意志) は、諸々の治水対策 (弁証法的構造化すなわちイデア化) を講じることで安定した水系 (自己持続を指向する閉じた系) になる。同じように、(この地球上では太陽に由来する) 不定形な余剰エネルギーは、構造化されることでそのエネルギーを定量的に消費する安定相として持続可能になる (もちろん、そのエネルギーが尽きればその構造も自然に解体する。構造化は部分的なエントロピー減少 (イデア的静態化) であり、エントロピー増大 (盲目の意志) という自然則への対抗的持続性は、不定形な余剰エネルギーが構造として具現する形でのみ確保されるからだ)。
暴れ川の例自体からも分かるように、自然現象は可能ならば自発的構造化すなわちイデア化を形成または志向する。水系循環や大気循環はカオス系的構造化に留まるが、やがては自己再帰的構造化、すなわち「閉じた系」、この地球では生命現象が相当、を産出するに至る。根本的な生命現象である植物の存在理由は、太陽の余剰エネルギーを地球の岩石的様態の分解土砂化へと転化することであり、人間を除く他の諸生命現象は植物の補助のためにある、と見なせる。人間の根拠的な存在理由は地中に蓄積された植物由来エネルギーの解放であってやはり植物の補助なのだが、その副産物として、不可視の領域の構造化すなわちイデア界の把握という能力を与えられた。哲学とは、この能力を研究する学問なのである。
「閉じた系」の認識は、動物においては、その系の持つ余剰エネルギーが自身に取り込み可能かどうかを判定する、という試行錯誤を通じて象徴弁証法的に進化してきたのであるが、それは「自己構造の投影」すなわち擬人化 (擬自化) の発達という形での「観念」の進化なのであった。構造化は物理面でそうであるように観念面でも常に最適化 (ミニマライズ) を志向する。しかるに、観念面においてこの最適化志向が解除されたのが人間に他ならない。人間にこの進化を促したのはイネ科という爆発的かつ長期的に余剰エネルギーを蓄積できる植物系の登場であり (人類史の初期にはイモ類が主要植物だったが、イモ類は水分を多分に含むために長期保存が困難であった。古代中南米文明を含む石器的文明の限界はこれに由来する)、ウマ目の高速移動による広汎化からウシ目による厳重な消化でもなお消費しきれなかったそれが、最後に用意したのがリミッターを解除した内面化で余剰エネルギーを無限大に消費できる人間という脳特化生物種なのである。
観念の内的最適化を喪失した人類にあって、観念すなわちイデアは妄念と心内だけでは区別できなくなった。イデアは具現し、妄念は具現しない。イデアの具現可能性を探求するのが科学であり、唯物論である。唯物弁証法はしかしここでは、妄想の具現化を正当化しないように発散的・進化的・暫定的に用いられねばならず、このような唯物弁証法を象徴弁証法と呼ぶ。
自然現象における自発的構造化は、象徴弁証法の発現例であり、構造からそれを在らしめた象徴弁証法を推定する方法論が帰納法である。ここにおける「sym (共に在ること)」は余剰エネルギーの相互における配分のやり取りであり、従って総エネルギーは構造化の前後で不変である。一方、人間は不可視領域における構造化を別の「閉じた系」すなわち「イデア」の具現化に繰り込むことができ、この「追加」構造化によってその系の保持する総エネルギーが増大する。これが「労働」の本質であり、その増大分の余剰エネルギーは、追加構造分を了解することで他の人間の不可視領域へと取り込むことができ、これが労働生産物の「消費」なのである。
集合論は、「仕組み」を性「質」として多「量」を統合する点で、それ自体が弁証法である。一切の数学は集合論によって定義できるのだから、数学は唯物弁証法による観念の体系化に他ならない。ただし、唯物弁証法が動的事態を対象とするのに対し、数学はループ定義のみ扱う点で静的事態、すなわちイデアだけを対象とする。
存在論
存在とは、他存在への制約に他ならない。
制約の改変不可能に思えることが客観性の由来であり、改変可能に思えることが主観性の由来である。既に過ぎ去った事物の改変不可能性ゆえに、前者はまた過去であり、後者は未来でもある。事物の改変可能性が尽きて改変不可能へと転じる時点が現在である。常時流転する世界にあって、並走的に現在に留まり続けるものは、その現在性によって過去を否定するものであり、すなわち現在に常住するものはそのままで象徴弁証法的存在に他ならない。
数式は、それ自体は過去に属しても、それが再帰的に生成する結果は可能性の範疇に留まるので、主観世界・未来世界における客観性の由来となる。同様に、再帰的に自己生成する存在は、未来における客観性を可能性として保持する。
主観が過去の制約の編み目を編み直すとき、すなわち目的論的体系のうちに過去の事物を位置づけ直すとき、その事物の意味が改変可能になる。これが預言 (詩) 的再帰、すなわち未来から過去への再帰である。
意味論
文脈において、後発要素が先発要素の意味範囲を収束するならば、それは「式の検証的現れ」であり、すなわち「過去記述の文脈」だが、逆に意味範囲を拡散するならば、それは「式の逸脱的現れ」であり、すなわち「新たな式への予感」としての「未来形成の文脈」である。前者が数的文脈、後者が詩的文脈であり、前者は言語学の意味論へ譲るとして、哲学的課題として検討されるべきは後者、すなわち「詩的意味論」であろう。
詩的文脈が実際に新たな式をもたらすならば、それは数的文脈への帰還であって、なぞなぞ、パズル、推理小説がこの系に属する。その新たな式がしかし、「かくあり得た過去」にのみ成立するならば、それは述懐であり、過去の一点の永遠への聖化であって、象徴主義はこの系に属する。従って、純粋に詩的文脈に留まり続けるものこそは「芸術的文脈」であって、それは一種の「異世界の召喚」なのである。
その異世界を、より単純なルール体系によって構築されている現実模倣世界とするのがいわゆるラノベ系である。ルール体系が確定されている以上、新たな式もまたそのルール体系の具現であり、この点で推理小説に類似する (現実模倣世界が現実-アルファなルール体系で得られるものがファンタジー、現実+アルファで得られるものがSFである)。逆に、ルール体系そのものを問いつめるのが純文学であろう。純文学では、現実のルールシステムとは異なるルールシステムに依拠する人物を主人公として、彼のルールシステムを描きつつ、それと現実のルールシステムとの葛藤を描くことで、後者を遠景的・逆照射的に浮かび上がらせる仕組みになっている。
批評とは対象の是非を明証することであり、是非とは目的論的意味付けなのだから、目的論的理想状態すなわち対象のクラスを見出すために象徴弁証法的問いただしが必要となる。
文芸論
作り手にとっては、内なる曖昧な意向の試行錯誤 (推敲) 的探求が「量」であり、無数の試行錯誤の果てに自ずと「仕組み」が見えてくるとき、量は「質」へと転化し、「曖昧な意向」の機械論的探索から「仕組み」の目的論的検証へと切り替わるのが、唯物弁証法の文芸的内実、すなわち「科学的文芸論」である。
読み手にとっては、逐次的に推移する「シーン」同士の弁証法的関係から「事態」(文脈) が自ずと仮想され、その「事態」から逆に各シーンおよびその諸要素の意味が目的論的に推定される。科学的批評は、読み手ごとに可能な諸偏向 (歴史批評すなわち作り手の人生へのなぞらえも、印象批評すなわち読み手の人生へのなぞらえも、そうした偏向の一種である) を弁証法的に比較吟味して、それらから「普遍的な読み」を提示することをその使命とする (普遍的な読みとは、唯一絶対の解釈、という意味では無く、いかなる種類の解釈にも同様に現れるもの、のことだ)。