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人類性差仮説

性差原理

人類における性差の根本原因は、卵巣が左右交互に機能すること、である。

これに応じるために、女の脳は左右協働型であらざるを得ず、逆にこの制約を受けない男の脳は左右統一型として機能する。これにより、女の筋肉は左右協働を旨とし、男のそれは中央主導を旨とする。

(以下は元々私のホームページにあったページ情報であり、「仮説」として改めて再構築するためにはまだまだ未検査な素材だが、性差を哲学する際の参考になれば、と、とりあえず公開しておく)

呼吸に関する女の主筋肉は大胸筋であり、男のそれは腹筋である。呼吸は、その筋肉の発達は胎児状態のうちに始まり、そして死ぬまで止む事は無い。これを手術でむりやり入れ替えることは不可能だ。なぜなら、入れ替えられた筋肉が呼吸のための運動を開始するまでは人工心肺等で生命維持する必要があるが、人工心肺等を使っている限り、いつまでたっても呼吸のために必要な筋肉の鍛錬が為されないからである。そして何より、左右に分かれる大胸筋を制御するには同じく左右が2つ同時に働く女型の脳が必要であり、一方ひとかたまりの腹筋を制御するには、一時に左右いずれかしか働かない男型の脳が必要なのだ(左右2つ同時だと、2系統の指令が衝突して制御できなくなる)。すなわち、呼吸に関する主筋肉の男女差を入れ替えるためには、脳それ自体をも併せて入れ換えねばならない。脳は自我の場なのだから、これを入れ換えたらもはや自己同一性は保証されない。そう、事実上、この性差を入れ替えることはまったくに不可能なのだ。

呼吸の主筋肉が大胸筋である時(以下「女系」と呼ぶ。また、この系の主体を「女」と呼ぶ)、腹筋はほとんどそれ自体は不随意となり、胸骨のすぐ下から恥骨のすぐ上まで、隙間が詰まった一枚板のような状態になる。女に可能なのは、大胸筋と括約筋で体内圧を変化させることにより、これがあたかもふくらんだりへこんだりするかのように「見せかけられる」だけだ。この一枚板化によって、女の腹部はほとんど曲がらなくなる。代わりに曲がるのは胸骨の下あたりと股関節であり、前者の運動を大胸筋(を主とする筋肉群)、後者の動きを括約筋(以下同様)が司る。大胸筋が左右に分かれるように、括約筋も尿道系・肛門系の2つに分かれ、その(運動の支点としての)コントロールはやはり女型の脳を必要とする。さらに、大胸筋が二の腕を支えることで、女は肩では無く肘を動かす筋肉が発達し、また、括約筋とつま先の動きが連動することから分かるように、括約筋と連動する太腿によって、女は膝では無くつま先を動かす筋肉が発達する。以上をまとめれば、女における運動の支点は肘・胸骨下(女のウエスト位置)・股関節・つま先である。

呼吸の主筋肉が腹筋である時(以下「男系」と呼ぶ。また、この系の主体を「男」と呼ぶ)、大胸筋はほとんどそれ自体は不随意となり、肩まわりの筋肉と腹筋とを連結するだけの板状のもの(この特徴は女の腹筋でも見られるように不随意的筋肉の特徴であり、逆に随意的筋肉はどちらかと言えば丸っこいふくらみ状になり、またそのためにそれらの個々の大きさは(面積的には)それほど大きくはならない。すなわち、女の大胸筋は板状では無く、二の腕付け根裏へと足が伸びる勾玉に近い形である)になる。男に可能なのは、腹筋と肩の筋肉とで挟むなり引っ張るなりして、この大胸筋を盛り上げたりへこませたりすることにより、あたかも大胸筋自体が動いているように「見せかけられる」だけだ。大胸筋が不随意的となることで、男の胴体部の運動は肩の筋肉と腹筋との(あたかも大胸筋を相互間を結ぶロープに見立てた)連動によって動かされることになる。肋骨の密度の関係から、この場合、外面的に曲がって見えるのはへそ回りと肩の下の部分(肋骨部上部)であり、女のウエストにあたる肋骨下部は肋骨の密度と腹筋の密度との関係からほとんど曲がらない。女の腹筋(ブロック)が恥骨上まで伸びているのと異なり、男の腹筋(ブロック)はへそのすぐ下で、背筋を通じて骨盤へと接続しつつ終わっている。へそ回りで曲がるのはこのためだ。また、男の腹筋は女のような一枚板状では無く、複数の筋肉群(サブブロック)に分かれそれらが連携して1つの運動を生成するようになっている。このために、男の腹筋部には女のそれには無い縦横の溝が皮膚上にも現れる。鍛えた男のそれを観察すれば、そうしたサブブロックがへその上には左右1つずつ合わせて3段あるが、へその下にはそれらより弱めのが1段だけしか見えないのを把握できよう。さらに、男では膝が、肩および地面と連動する形で筋肉が発達している。以上をまとめれば、男における運動の支点は肩・へそ回り(男のウエスト)・膝である。

これらの筋肉群の差異は、すべて、呼吸の主筋肉が大胸筋であるか腹筋であるかによっておのずと形成されるものである。すなわち、その呼吸に関する「根源性差」は、運動における体の動き方および筋肉の付き方・発達の仕方における性差を決定付けるものである。

腹式呼吸において、女はへそより下の腹筋部分で腹部の膨張・収縮運動を行い(括約筋により、腹筋自体の随意的運動では無い)、男はへそより上の腹筋部分で同運動を行う。このために、腹部において膨張・収縮が最も大きい部位は、女ではへそ回り、男ではちょうど女のウエストに当たるあたり(腕を真っ直ぐ下ろした時の肘のあたり)である。一方、胸式呼吸の方も、女は大胸筋を用いて上下に肋骨を動かすのに対し、男は背筋を用いて左右に肋骨を動かす(このために、いわゆる腕を大きく広げて深呼吸のポーズは男には有意味でも女にはほとんど無意味な動作である。女は別に腕を大きく広げなくても深呼吸できるのだ)。

なお、写真等で以上を検証する際に、ハイレグ水着が非常に見間違えやすいので注意されたい。私は以上を割り出すために、私自身の在り様はもちろんのこと、他にもインターネット上の様々な写真やエロ写真集(素っ裸なので以上の検証のために大いに役に立つ。もちろん、女ばかりでなく、男、つまりはホモ写真集・雑誌や果てはニューハーフの写真集まで検討したが、残念ながら、少年のそれらに関しては、確定できるほどの量を入手できなかった(幼女〜少女の、いわゆるロリータ系は幸いに手元にあった(私は元来男に萌えるタイプだが、少年との差異が気になったのと、あと少年のそれらの代用になるかと思って3冊だけゲットしたのである。後者の目的には、「どうも何か違う」という違和感が先立って結局役に立たなかったが)。ちなみに、私が大学生の頃に古本屋で安く入手した資料なので、それらの入手自体は関連法成立以前の、すなわち(不道徳ではあるが)非違法行為である)。それで、少年のそうした差異に関しては、とりあえず成人男女の差異を割り出し、それが幼女〜少女にも見られることを確認してから、TV等で時たま流れるその手の映像(例えば小学校のプール開きや運動会、あるいは裸祭り等)をすかさずチェックすることでとりあえずの確認としている状況だ(今までのところ、やはり少年たちの体の動き方(や抑揚の付け方、後述)も上の男のそれに準じ、女のそれに準じる幼女・少女たちとは明らかに異なっている))を参照にしたのだが、その時に数日間頭を悩ませたのが、まるで男のウエスト位置で体を横に曲げているように見える1枚の女のハイレグ水着の写真だった。数日後、不意に、それがハイレグ水着による目の錯覚であり、その女もちゃんと女のウエスト位置で体を横に曲げていることに気づいた次第である(つまり、ハイレグでは女のウエスト位置があたかも男のウエスト位置であるかのように見える構造になっているのだ)。そんなわけで、ハイレグ水着系の写真をチェックする場合は、まずへその位置を見定めてから体の動き等を検討すると良い(時々CG等で女のウエスト位置にへそがあるのがあったりするが、それはむろん論外だ(これもまた、ハイレグ錯覚効果にまんまと騙された例であろうか)。ごくまれにその位置にへそがある女がいないでもないが、99%は男と同じ、すなわち骨盤の上端ライン上にへそがある(ここがそのまま男のウエストで、女のウエストはもっと上、肘の位置にある。もちろん、男女とも単に胴の一番細い部分であるだけで無く、そこで胴が曲がる最重要な運動支点である))。骨盤の上端は、と言うと、ハイレグの切れ込みは骨盤の出っ張りに引っ掛けて留めるのが元々の由来なので、その切れ込みの一番上、すなわち見た目では足の付け根に見える部分あたりが実はへそのラインである(股間からここまでが骨盤部だ、見た目はその切れ込みの上から胴の曲がる部分までがあたかも骨盤部のように見えるが、もちろんそれは錯覚である)。

さらに、女系では、腹筋の一枚板形状のために、体内の熱が胸部および股間部からもっぱら放出されることになる。普通女系ではそれら2つの部位は神経が発達した敏感な部分であり、また大胸筋および括約筋の発達から、それ自体が発熱しやすい部位でもある。すなわち、女系における体温調節のカギは胸部と股間部の措置の適切さにある。逆に言えば、これらの部位の発熱によって全身の血行促進が為されるために、これら以外の部位の筋肉の発熱作用はかえって弱い。男の場合は、そうした特殊部位は無い代わりに、全身のどの部位の筋肉でも自在に発熱させることができる(精巣の低温維持のためにも、これ(と恥骨上に発達した筋肉が無いこと)は重要だ)。また、男はへそ回りと膝が運動の支点になるために、その間の股関節は主体的には動かない。このために、男の股関節は股間に対して鈍角にしか曲がらないが、これもまた精巣の低温維持のためには重要なことだ。逆に、女では股関節が運動の支点であり、ここは主体的に、股間に鋭角に動かすことができる(これを司るのは2つの括約筋であるために、それら2つの協調作用が不可能になる鈍角にまで開くと股関節の運動の主体性は失われ、骨盤の動きが固定される。ちなみに、この状態で体を折り曲げさせるとへそ回りで、と言うよりは骨盤の形に沿って胴を曲げさせることもできなくはない(非常に苦しい姿勢だが))。

かように列挙したのは、これらがそのまま、男服・女服の各々の機能合理性の根拠になっているからだ。ブラジャー・パンティは女の特殊な放熱の仕方に応じたものであり、また鋭角に曲がる股間では、ズボンではさまざまな不都合が生じスカートの方がより適切な衣服となる(対放熱という点でも、女系にはスカートの方がより適切である)。なお、男にあっては、ズボンである必然性は必ずしもない。と言うのは、ズボンは元々遊牧系の騎乗用の衣服であり、騎乗習慣が無かった農耕民族では男もしばしばスカート型の衣服(と言っても、女のスカートと異なり、へそ回りにウエストが来るようになっている)を用いていたからだ(労働者はどちらかと言えば動きやすさからパンツ(腰に布をおむつのように巻く)姿の方が普通だったようだが)。ただ、現在ズボン型がこれほど普及しているのを見れば、何がしかの利点があるのかも知れない(私は女系なので、男系にとってどれが良いかはよく分からない)。

なお、脂肪は主だった筋肉にぶら下がる形でつくので、以上の差異から、男と女では肥満時の、特に腹部の脂肪のつき方は異なる。女では腹筋が不随意的なので、脂肪はもっぱらへそより下につき、それが積み上がる形でへそより上へと至る、いわゆる西洋梨型の太り方だ(厳密に言うと、恥骨の上あたりにはあまり脂肪はつかない。と言うのは、股関節で曲がる時にはこの部分も(皮膚と肉が)曲がるのと(よし脂肪がついてもこの動きで押し上げられてしまう)、あと、ここに脂肪がつくと股間部からの放熱が著しく妨げられるからだ。それで、女の脂肪太りで腹部で一番出っ張るのはへその少し下あたりである(大体子宮・卵巣と同じ位置だ))。男は逆に、腹筋が強いので、先ず第1にへそより上に脂肪がつき、その一部が垂れ下がる形でへそより下がふくらむ、いわゆる相撲取り型の太り方になる。なお、これらのことからも、どの部位から脂肪がつくかを観ることで、どの部位の筋肉が随意的に強いかを割り出すことができる(もちろん、結論は既に書いた通りだ)。

脂肪、と言えば乳房だ。ここにすら男(この場合は乳房を人工的にふくらませたニューハーフおよび相撲取り等の太って胸がふくらんでいる男)女の性差が現れる。というのは、その乳房がぶら下がる大胸筋の、特に底辺部分の形が男と女では決定的に異なっているからだ。

一般に、成人女性の大胸筋は乳房に隠れて見えない。だが、現在では、大胸筋の形が分かる幼女の写真は(よくヨーロッパ等で見かけるような、家族で海辺に来て素っ裸で遊ぶ少女の写真、つまり、初めから終わりまで「エロ」が目的では無い写真は、あまりに性器が丸見えなのを除けば違法では無いと思うが(ただし、無論、親なり誰かなりがそれをロリエロサイトに掲載したりさせたりしたら、その時点でエロ写真相当となって違法となるだろう))ご法度である(少年の方は上半身裸が普通なので、プールにでも行けば思う存分観察できよう)。それで、私自身の少年時代の、大胸筋の形がはっきりと分かる写真を掲載しておこう(本人による&科学・医学的目的なので、違法とはなるまい。そもそも全然エロく無いし)。

真中が私だ。ここで注目されるべきは、別に肩や腕を上げていないにも関わらず(つまり、肩・腕・手を自然に下ろした状態で)、大胸筋の底辺が見事なまでに半円状に丸くなり、かつ、外側の上へと上がる部分が、真正面から丸見えになっている、というところである。この2つこそが、女の(随意的)大胸筋の形態的特徴なのだ。男の(不随意的な)それはどうか、と言えば、底辺はほぼ横真っ直ぐの直線であり、外側の上へと上がる部分は体の側面に回り込むので真正面からは見えない。特に見た目ですぐに分かるのは、女の大胸筋の底辺は(上の写真からも分かるように)乳首の下辺りでは既に上へと向かう大きな傾きになっているのだが、男のそれは、乳首の下あたりではまだ緩やかに下へと向かっている(乳首を少し行き過ぎてから初めて急な角度で上へと向かう)、という違いだ(インターネット上で少年相撲の写真をゲットすることで、写真の私とほぼ同年齢の少年でもやはり男型の大胸筋であることを確認した。また、大胸筋が非常に未発達なのでは、という仮定は、上の写真のように胸骨が透けて見える場合、男は大胸筋そのものがほとんど見えなくなる、ということを写真で確認しているので(上では大胸筋はくっきりと見えているのだから)正しくない(そもそも、女の大胸筋は胸骨のところで閉じてはいない(男は閉じている)ので、ポーズややせ具合次第では胸骨が透けて見えてしまうことは別に珍しくもない現象である。特に、おおよそ中学生以下の少女・幼女では、よほど太っていない限りは胸骨は透けて見える方が普通である(少年は、よほど痩せていない限りは胸骨は透けて見えず、代わりに大胸筋がそれを覆うようにぴったりと合わさっているように見える(と言うか事実合わさっている)のが普通だ)。肩内側の筋肉が弱いので、大胸筋に覆われていない胸骨部分には肉も脂肪もそれを支える筋肉が無いためにつきにくいからだ。逆に言えば、大胸筋がくっきりと見えながらなおかつ胸骨が透けて見える在り様は、肩回りの筋肉もまた男型では無くやはり女型であることを証するものである))。乳房は、大胸筋にぶら下がる脂肪の塊である。そう、乳房の形態は、この大胸筋の形態の男女差に決定的な影響を受けるのである。

以上を念頭に置いてニューハーフの乳房や相撲取りの胸の太り方の形を検討すると、やはり乳房自体の底辺も直線的で、かつ大胸筋底辺の傾きに促される形で大きく「外側」へと開いてしまっているのが分かる(乳房の形態的頂上が、乳首よりも外側にずれてしまっている)。一方、女の乳房は、底辺は見事なまでに半円で、かつ乳房の形態的頂上と乳首の位置が一致している。大胸筋底辺の傾きに促されて脂肪が「内側」へと向かうようになっているからだ(そうなることは上の写真から容易に想像出来よう。なお、「内側」へと向かうのは真っ直ぐ立った場合で、寝そべったり背中を反らすほどに胸を張ったりするとさすがの女の乳房も(そうなるほどの充分な大きさがあれば、だが)底辺より外側部分の方が位置的に低くなるために重力の自然な作用に従って「外側」へと開く)。以上が分かれば、もはや男女の大胸筋の形態差を知るのにあえて違法の危険を冒して幼女を参照する必要は無い。乳房(と男の人為的あるいは自然(ようするに肥満)な胸のふくらみとの形態差)それ自体が大胸筋の男女のかような形態差をも雄弁に語っているからだ。

脂肪のつき方の性差は、さらに尻にも現れる。女の骨盤の恥骨下端は浅く広く平らに近く、男のそれは深く狭く下へと突き出している。また尾てい骨も男のそれが恥骨下端に合わせるように真っ直ぐに近く下へと伸びているのに対し、女の尾てい骨は同じく浅い恥骨下端に合わせるようにさながらサソリの尻尾のようにクルリとしかし内側へと曲がっている(男が骨盤だけでは女のようには座れないのはこの性差のためだ)。さらに、女はこの付近では股関節の筋肉が発達しているが、男はそれほどでも無い。これらの理由により、尻に脂肪がつく場合の女のベースは「W」型、男は「V」型になる。つまり、尻においては、女は脂肪が両側面へと流れやすく、男は逆に背骨に沿う中心線へと集まりやすい。大胸筋部とは今度は男女で結果的に生じる形は逆転するわけだ。特に分かりやすいのはいわゆる尻の割れ目で、女はここが開き気味なのに対し、男はグッと閉まっており、ここが開き気味な男は皆無とすら言っても良い(男は大抵尻の割れ目に何かを挟んだままにできるはずだが、女は普通それはできない)。ただし、この部分は特に女では、きついパンツ等で後から修正できるために、男女の尻を見分ける決定点とは言い難い(ただし、きつく締めれば締めるほど、必ずと言ってよいほど「はみケツ」することになる。男の方ははみケツはせず、意図的にそう見せる時も、「V」字型で股関節へ下りるほど脂肪が少なくなるために、(女のそれを自然とすると)不自然に高いところまでパンツの裾を引き上げねばならず、結果的に女と同様なものとしてのはみケツはやはり不可能である。つまり、はみケツは「女の特権」(あるいは回避不能な宿命)なのだ(ちなみにスパッツや少年的ショートパンツ型半ズボンでも、股関節線に尻の脂肪が覆い被さる形になる、という点で「はみケツ変化形」にやはりなる、と見なせる))。

もっと決定的な(すなわち後天的に修正不可能な)男女の尻を見分ける方法は、女の尻ではもっともふくらむ点が腰の下半分に来るのに対し、男は逆に腰の上半分に来る、ということに注目することである。特に、尻を突き出したり座ったりした時にはこの差が如実に出る(特に座った時、男は尻の割れ目が必ず閉じるが、女は逆に必ず開く。また、いずれにしても女は上に行くほど小さく見えるが、逆に男は上に行くほど大きく見えるようになる)。立っている場合は人によってはやや微妙だけれども、その場合も仮想の「尻の上下中間ライン」(尻の割れ目の上端と下端との中間を横切るライン)を想定すれば、女はごくわずかであってもそのもっともふくらむ点は必ずこのラインよりは下になり、逆に男は必ずこのラインよりも上になる(これを簡単に言えば、女の尻は三角形、男の尻は逆三角形(台形のように見える場合も必ず逆台形)である)。あるいは、歩行時等は、男の尻は中央上部がもっとも厚く逆に左右側面後ろ側下部は薄く、一方女は左右側面後側下部がもっとも厚く、逆に中央の特に上部は薄い、ということに注目した方が判定しやすいかもしれない(これは、カバンや腰に巻いたカーディガンあるいは普通のスカート等で隠すことはできない。以上から、それらにもっともよくぶつかる尻の部位が男女で大きく異なるからだ。これらぶらさげ系は、もっとも厚い部位までは尻に密着する(ただしカバンで女の場合は隙間が空く)がそれより下は浮いてしまうので、それらぶらさげ系グッズの男女でもっとも速く大きく回転する部位の性差がむしろ逆にはっきり浮き出てしまうのである。これを避けようとして尻に触れないふくらんだスカート等を使うと、それはそれで今度はウエストの性差がはっきりと浮き出てしまう(既に述べたように、女は胸骨下のウエストから下の胴体部はどの部位でも同じ方向に回転するが、男はへそ回りのウエストの上下で逆の回転になる。胸骨より上をウエストに取ってさらに尻部が(歩行時は)ふくらんで尻に触れないスカートは例えばチョゴリ等がこれだが、この場合はこの場合で、今度は股関節で歩くか膝で歩くかの性差がやはりはっきりと浮き上がってしまう(男がチョゴリを着て歩くと膝の部分が脚を前に出すごとにふくらむことになるはずだ)。結局、尻の性差は運動時の最重要ポイントであるがために、(およそ不合理で超動きづらい服でも発案しない限りは)どうやっても隠すことはできないのである))。なお、特に詳しくは書かないが、どんなトリッキーな手法を使ってもこの尻の性差は覆せないことは検討済みだ(ただし、ジッと綿密に観察されなければ(特に歩いたり動いたりせずにただ単に突っ立っているだけならば)誤魔化すことは必ずしも不可能ではあるまいが)。ヒトという種の生殖において無意識に性別を判定するための最重要なキーポイントだからであろうか(一般に誤魔化そうとする人は顕在意識を出し抜く方法論を取るが、人々に「変な感じ」を抱かせるのはおそらくにこの無意識的性判定こそがそれなので、顕在意識を出し抜けたからと言って安心せずに、さらにこの無意識的性判定をも出し抜く手法を検討すべきであろう(証拠は無いが、感触的にはこれは不可能に思えるほど難しいだろう、と思う))。

尻のこの割れ目の性差は、腰部分における体温調節の性差をさらに詳細化させる。すなわち、女の股間前部は膀胱等の保温もあってそこからは熱が逃げにくく(ゆえに一般的にはより温度が低く)、従って股間部の熱はもっぱら肛門と尻の割れ目から外部へと放射されることになる(すなわち、女の股間は前面部より背面部の方が普段的にも熱い。これは、尻下部に隙間ができやすいスカートの方がズボンよりも女の体温調節に適すること等をことさらに裏付けるものだ)。逆に、男は尻部からは熱が逃げにくく(すなわち温度が低く)、これによって精巣部の冷却効果は尻に逃げる形で男根には及ばないことになる。これによって男の股間は背面部より前面部の方が普段的にも熱い(より放熱・発熱が盛んな)ことになる(男がよく「玉のあたりが蒸れる」というのはこのためだろう。ちなみに私は、夏等で股間に汗をかく時(蒸れて感じる部位)はもっぱらズボン股間の中央の線より後側で、前側はむしろ汗で濡れたズボン等で冷えて袋が縮むほどだ(ようするに、私の腰回りの体温分布は明白な女型である))。

尻を(馬跳びで両手に膝をつく姿勢のように)突き出して振る、という動作において、男は尻上部が大きく動き、女は尻下部が大きく動く、と上に書いたけれども、これはさらに観察してみれば、回転軸の違いによることが分かった。つまり、女は尻を振る時に背骨を回転軸とし、一方男は前後反対側の男根(からへそ回りのウエストへと伸びる仮想線)を回転軸としているわけである(より正確には、女は肋骨背側から背骨を通って骨盤背側、男は胸骨から腹筋を経て骨盤前側が胴もしくはその一部を回転させる時の回転軸だ)。女がバニーガール姿で(要するにハイヒールで)尻を出来るだけ高くあげてその「ウサギの尻尾」を振る時には一見その尻尾が一番大きく動くように思われるけれども、この場合もよく観察すれば、実は尻尾よりもその下、太腿の上端あたりが最も大きな動きを見せることが分かるだろう(上品に軽く振れば、尻尾とその部分とは背骨を軸に逆方向にすら回転することになる。その対称相対性がその優美さ・上品さの正体(肯定的否定もしくは否定的肯定、すなわち「恥じらい」の視覚化)であるわけだが、男が同じようにしても尻尾が最も大きく派手に振られるのでかような対称相対的動きがまったく生じない(つまり、恥じらいに欠ける自己主張ばかりの下品な動きとしてそれは受け止められてしまうわけだ))。

腰を前後に振る場合でも、男は水平に勃起した男根が真っ直ぐ前後する動きをし、一方女はそのあたりはちょうどブランコのような回転運動になる(だから、女がディルドー等を男根相当部分に装着しても非常に抜けやすいので男のような激しい前後運動はできない。これはもちろん私の肥大化陰核の場合でも同様だ(普通のディルドーの半分ほどの長さしかないので、ことさらに抜けやすいであろう)。あえて腰に手を当てて固定し出来る限り男のそれのように振ると、男根部の動きはもはや水平前後運動というよりは上下運動に近くなる(これは私自身が実際に試して見て驚いた。なんでそんな動きになるのかはよく分からないが、ただ、明らかに背側がこの上下の回転運動の軸になっていることははっきりと分かる)。この場合も、回転の一部としての上下運動なので男根相当部の水平位置は大きく移動し、つまりは正常位の抱っこポーズで相手を固定してもアッという間に抜けてしまうことは明白だ(相手が逆の動きで腰を振れば一回目で既に抜けてしまうであろう。そうならないようにする唯一の方法は相手も同方向に腰を振ることだけだが、これでは挿入された男根相当物はほとんど動かなくなるのでやはり限りないほどに無意味である。ただ、この回転は明らかに「股間底部の尿道海綿体根元部分を前後に擦りつける」動きなので、それをするなら(要するにレズの互いの女陰を擦り合わせる動きなら、または女陰部を全体的に男根に擦りつけようとする動きなら)むしろこの上下的回転運動の方がより適切ではあろう))。

ともあれ、どれほど大きくあるいは注意深く腰を振っても男女はその回転軸がまったく異なるので同じ動きにはなり得ず、つまりはこれも1つの先天的性差ではある(ちなみに、以上から男は腰を振るほど遠心力から尻上部に脂肪が集まり、一方女は尻下部に脂肪が集まることになるので、尻の形の性差がより強調されることになる)。

この、腰の前後動と同様の性差が、「手に握ったものをシェイクするように振る」動きにも如実に現れる。つまり、例えば清涼飲料水のジュースの缶等を振る時、男は缶が上下に真っ直ぐ動くように振ることができるが、女は手首(もしくは一の腕のちょうど真ん中あたり)を支点とする振り子運動になってしまうのだ(特に高速に振る時は、上下で無く手首を回す形の斜めから水平に近い振りになる。手首の関節の在り様からそういう動きの方がはるかにやりやすいからである)。このために、極端な例で言えば女は男の自慰におけるそれのような縦方向に直線で高速で振りの大きい手の動かし方ができない(せいぜいゆっくりと不器用にそしてすぐに腕が疲れてしまうような動かし方ができるぐらいである。ちなみに、では私はどうやっているのか、と言うと、実は腕では無く男根(状陰核)の方をこそ動かしているのだ。具体的に言えば、ギュッと握りつぶすように握るとそれは皮の内部でツルッと逃れてググッと奥の方(ちょうど女陰のあたりの方)へと引っ込む(と言うか押し込まれる)。これで手を緩めればまた海綿体のふくらみに従って元の位置へと戻って来るので再びギュッと握りつぶすように押し込む、ということを繰り返すのだ(だから、手は普通横から握るのでは無く亀頭相当部を真上あるいは斜め上からすっぽりと包む形になる))。なお、素手では分かりづらいので、その場合はその素手の場合の動かし方をしっかりと覚えて、それから改めて缶やペットボトル、棒等の長い物を持って同じ動かし方をやって見よう。少なくとも女の場合、素手なら上下に真っ直ぐ動いているように見えた手が、しかし棒を持てばその両端が明らかに振り子系の動きをするのが分かるはずである(さらに、無理にでも肩から振るようにして自分からは真っ直ぐ上下に振っているように見えたとしても、横から見るとやはり振り子系のままだったりする。注意されたい)。

これまで長い間「謎」であった男女の肩まわりの性差がようやくに判明した。一般に、肩は外見上、三角形に近い「なで肩」か、横一直線に平行の「平肩」か、の2つに、極論すれば分類できる。男のボディビルダーは皆一様に「なで肩」なので、男の場合は腕力を鍛えるほどになで肩になるわけだが、これはもちろん、背中の僧坊筋等が強化膨張するからである。ところが、女のボディビルダーは皆「平肩」だ。実は、女におけるなで肩は、腕力が「無い」ために腕が大胸筋の力で下に引っ張られ過ぎることによって生じる。つまりは、女の場合は男とは逆に、腕力を鍛えるほどに平肩になるのだ。肩と腕の筋肉が大胸筋の引き下げる力に充分に対抗できるようになるからである。現在、女におけるなで肩はかなり少ないが、それは無論、現代では女たちが充分に腕力等を鍛えているからである。一方逆に、普通の男たちの間になで肩が少ないのは、当然ながら上に述べたように「鍛えが足りない」ためだ(おそらくに、掃除・洗濯を日々やっているかどうか、で差が出るように思う。それらはけっこうに腕力を要する動作だからだ。あともう1つは、女たちが「ダイエット」のために体を鍛えているせいもあろう)。おおよそ、女で明白なまでになで肩なのは、スプーンより重い物を持ったことが無い(と比喩できる)貴族の姫たち(ダヴィンチの絵の女たちがこの典型例だ)か、あるいは腕力をつけたくてもつけられない芸術家(特に指先の器用さ・繊細さを要求される一部の楽器演奏者。なお、同楽器群の男の演奏者は当然ながら皆平肩である)か、のいずれかであると考えて良い。

結局、鍛えた男と鍛えていない女、鍛えた女と鍛えていない男が外見的には同型の肩になるわけだが、上で述べたように「なぜそうなるか」が異なるので、細部を見れば同型と言えどもやはり男女では異なる。なで肩では、男の場合は僧坊筋が首を背後から覆うようにつくので、「首の付け根」自体はそれら筋肉に埋もれて隠れ、結果として首は太く短く見えるようになる。一方女の場合は首の付け根がそのままなで肩の三角形の頂点だ。つまり、男は「盛り上がるなで肩」であり、女は「引き下がるなで肩」である。平肩では、首まわりにあまり性差は見られなくなり、代わりに「腕の付け根の上端」の性差が現れる。女は鍛えて腕が引き上がるようになった結果の平肩なので腕の付け根上端が肩平面より少し上に来るが(大胸筋の引きに抗するための必然的現象であり、なで肩タイプでもよく見るとその部分自体はやはりそうなっている)、男のそれは(無意識的に引き上げる必要がまったく無いので)肩平面よりやや下に来る。意識的に(ひょいと肩をすくめる形で)この部分を上げていてもやはり性差はあり、男は単純にその部分だけが上がるだけだが、女は首の方へ寄る感じ(あえてこれと比べれば、男は外側へと離れる感じ)で見方によっては首自体が下に大きく引き下がるようにも見える(肋骨部も同時に上がって来るためで、首を引き下げているわけでは無い)。後者に関して、これは私の経験なのだが、女の肩は平ベルト式のバッグや短い2本紐式のスポーツバッグを担ぐには思い切り向いていない。この2つの形式は、実は「揺られるたびにより高い方へと登る」ように作られているのだが(だから鍛えた、すなわちなで肩の男は平然と何の不適切さも感じずにこれを使える)、女の場合は「より高い腕の付け根上端」の方へとずれて行ってしまうのだ。結果、(特に上が薄いシャツ1枚で肩の形態があらわになる夏には)数分ごとにバッグが肩から外れ落ちるわけで、いちいち肩に掛け直すにもわずらわしいことこの上ない(中学生の昔から何でこんなにすぐ外れるの? と疑問に感じ続けて来たが、最近ようやくこの理由が分かったわけだ)。女の肩に向くのは、出来る限り細い「糸(ストリング)」型のそれもできれば1本だけの紐式のもので、このタイプなら揺れても上に登らず、高い腕の付け根上端に引っ掛かって留まるのでおよそいつの間にか肩から外れるという不具合は生じない(ハンドバッグ等明白に女用なので私は今はまだそのタイプを使うつもりは無いが)。ただ、その形状の性質上、細くても丈夫な皮や金属(鎖)に限られ、また肩に食い込むのでバッグ自体もあまり大きくは出来ない。ちなみに、なぜ平ベルト式等が「高い方へ登る」かと言えば、例えば男のなで肩にこれを下げると、外側(首に向かうのと逆の方)の部分が「浮く」からだ。全重さがかかる内側はその負担を逃そうとしてねじれ、このねじれに巻き込まれるようにして外側は首の方へと引き寄せられ、もって首、すなわちなで肩のより高い方へと登るわけである。女の平肩(なで肩ではどうなるかは私は知らない。たぶん、この現象が生じるほどに重いバッグを担ぐこと自体が難しいだろう)ではこの「浮き」が生じず、ただしバッグ自体は「大きな腰」に跳ね飛ばされる形でベルトを引きずりながら(浮きとねじれが無いので、滑るように軽快に外側へとずれて行くのだ)外へと微妙にずれて行く。そして腕の付け根まで来て初めて「浮き」が生じるが、それはむろん「内側の部分」に生じ、このために一気に肩の外へと跳び外れてしまうわけである。

「腕付け根上端」は医学事典等で調べると三角筋がそれに当たるようだ。私の肩では、この三角筋は小さく固まってさながら二の腕の骨の延長のように感じられる在り様になっている。つまりは、女の二の腕の骨は、その上端では無く、ちょうどトンファーのように、それより少し下で肩に接続している、と見なすと、肩まわりの動き方の把握が容易になる。いわゆるガッツポーズをするとこの三角筋部は二の腕の骨に押し上げられるように鎖骨を乗り越えて首の方へと接近しつつ、二の腕(肘)が肩との水平線より上に上がることを阻止する(より正確には、肩と水平の位置さえもけっこう苦しい。このために、女のガッツポーズでは普通肘は肩よりずっと下に留まる)。男の三角筋は女よりはるかに大きく柔軟で、二の腕の動きがその上端の肩との接続部きっちりのところで回転するのを保証する、つまり、女のトンファー型の動きでは無く、ごく普通の関節部の動きになる(女のそれでは、三角筋は、大胸筋の引き下げに抗して腕を引き上げておく、という「不随意持続型」の在り様に特化されているようだ)。このために、ガッツポーズでも三角筋部が鎖骨より内側に入ってしまう、ということが無く、他ならぬその三角筋に引き上げられる形で肘は肩と水平はもちろんそれ以上に上げることもできる(女において、肘を肩と水平より上に上げる場合は、三角筋を鎖骨より前に出すことで、鎖骨とかち合って止まる事態を避けねばならない。具体的には、背中側が引き上がり胸側が引き下がり首をすくめる形において初めて肩より上に上げることが可能だ。この形は必ず両腕で行わないとできない。片腕だけでは一見肩より上に上がるように見えても、よく見ると肋骨部が傾いて鎖骨の方を下げているわけで、鎖骨を水平の基準とすれば、それより上にはまったく上がっていないのである)。また同様に、両腕を胸の方にすぼめる形(いわゆる「だっちゅーの」の形)でも、女においては三角筋そのものが二の腕とともに前へと回り込むので、肩幅そのものがかなり狭くなるように見える(寸法等の正確な肩幅は(少なくとも女では)三角筋より内側の間を測るので、これが狭くなることは無い。なお、このために、冬でもその方の手を前方下へ伸ばして何かを取ろうとすると肩に掛けた(平ベルト式の)バッグがずり落ちる)。男では三角筋は所定位置に留まり、すなわち見た目の肩幅はまったく変わらない。

私において、実に長い間、男物の長袖シャツでは、腕を下ろしている時にちょうどの長さのを選ぶと、腕を上へと上げた時にカフスまわりが不快なほどにかなり強く引き下げられる、という「なぜ?」な経験をしている(だから、腕を下ろしている時に少し長めに感じる(同じ腕の折り曲げた指でカフスまわりを押さえて引っ張れるほど:女がよくやるポーズだが)ようなシャツを私は選んでいる。もちろんこれでも腕を上に上げるとカフスまわりは引き下げられるのだが、シャツが大きめな分カフスまわりの太さも太いので、腕を引っ張ることなく袖だけが引き下がるわけだ)。これは、上で見たように、女では肩と水平より上に腕を上げると鎖骨が、すなわち肋骨部がそれに合わせて引き下がるためだ。ようするにわきの下がほとんど変わらない男に比べ女でははるかに伸びるわけで(トンファー・モデルでイメージして見よう)、この伸びの分を袖が相殺できずにカフス部の引き下げとして現れてしまうわけである(女物のシャツやブラウスはおそらくにこの現象に対処済みだと思われるが(さもないと女たちから苦情が来るか、あるいは不人気になって売れ残るだろう)、私はまだそれらを着試したことは無いので断言はできない)。

立ち姿において、女はバランスを取るに際し、足の爪先部(地面に踏む力を与えているところ。女は普通足の前半分)〜女のウエスト(の前側の方)の2点間の延長線を垂直軸にし、男はかかと(地面に踏む力を与えているところ。男は普通足の後ろ半分)〜男のウエスト(前部)もしくは肩部(肋骨部上半分から肩のあたり。足が側面方向へ出る時や胴が後ろに大きく反る時等、男のウエストがかかとの垂直上に来れない場合)の2点間の延長線を垂直軸にしていることが分かった。拳法等で蹴る動作時に女は腰が真っ直ぐ伸びる軸足より前に出、男は等角に曲がる軸足の垂直上に腰が来るのはこのためだったのだ(女は上半身を少し後ろに傾けるので、女のウエスト部が軸足爪先部の垂直上に来る)。また、フェンシングの突きでも、女は前の足の膝が足の爪先より前に出、男は爪先の方が前に来るが、これは、女では蹴りと同じく爪先部が女のウエスト部を垂直上に支え、一方男ではウエスト部の回転が女ほど柔らかくはないためか、かかとが垂直上に肩を支える構造になるためだ。ともあれ、何と実に驚くことに、側面の立ち姿やあるいは運動時でも足の全体重をかけた踏み込みに応じるのがへそあたりまたは肩あたりかあるいは胸骨下あたりかを見定めるだけで、実にあっけないほど簡単に男女が見分けられてしまう、こんな超簡単な方法があったのだ(私は、立ち姿に限らず座位や寝位等その他の如何なるポーズでも、体重の支えに応じるのがへそあるいは肩あたりかそれとも胸骨下あたりかで男女は見分けられる、と直感するが、厳密にチェックしたわけでは無い)。

なお、同じ内股でも男と女とでその印象が異なるのは、この垂直軸の性差のためだ。女は普段骨盤が前傾しているが、これは爪先〜女のウエストの垂直軸を確保するための必然的前傾で、逆に言えば、爪先の脚への距離が変わればこの傾きも変わる。そう、女の内股では骨盤の前傾傾向が消えてより真っ直ぐ立つようになる、簡単に言えば「女は内股になるほど腰が前に出る(前傾度が浅くなる)」(内股度がひどい時は後傾すらすることになる)。一方男では、普通かかと〜男のウエストの垂直軸を使っているのが、内股になるほど体重を支える部位はより中心に近い足の前部へと移って来るので、必然的に骨盤は前へとずれる男のウエストを支えて前傾気味になる、すなわち簡単に言えば「男は内股になるほど腰が後ろに引く(前傾度が深くなる)」(ただし、肥満による内股では、男のウエスト前部の重心位置が肥満によって元々前へとずれているので、特に骨盤が前傾することは無い)。これは股関節あるいは男のウエストより上を大きく前傾させている時でも同様である(この場合は肥満の男も腰が前に出ないので女のそれとは印象が異なるようになる)。いわゆる「オカマな内股」(腰が引けている)がどう頑張っても「女の内股」(腰が前に出る)にならないのはこのためだ。

特に太った相撲取りにおける「一見」女のウエスト位置での曲げおよび回りが確認された。「一見」という言葉から分かるように、よく見ればまず位置が厳密には異なり、次にそれら曲げおよび回りは女のウエストに比べれば度合いが小さ過ぎる。

女のウエスト位置は、衣類のサイズ指定で定義されるところでは「肘の高さ」だ。女において手首の高さが股間の高さに等しく、また肘において腕はほぼ等しく二分されるので、これはすなわち「女のウエストは胴のちょうど上下真中の位置」だということを意味する。

相撲取りのケースではよく見るとそれら曲げおよび回りは「脂肪の遠心力・たるみ」によってそう見えていることが明らかなわけだが、この時、一見女のウエストに近い位置がそれら遠心力・たるみの支点になる、ということは、これはむしろ逆にその位置がそうした脂肪の動きを支え止められるほどに「がっちりと固定されている」ことを意味する(たぶん、普通の男の肥満体では肩部が支点になるので相撲取りのような曲げ・回りはもっとずっと上になる。「鍛えられた肥満」という相撲取りの特異性ならではの現象だろう)。さらに、その遠心力・たるみの最大点は相撲取りではその位置とまわしとの上下真中あたりになっているが、これから下の支点はやはり男のウエスト位置にあることが分かる。女ではこの最大点は脂肪のつく女のウエストと恥骨上との中間からちょうど男のウエスト位置あたりになる(普通の男の肥満では、肩と男のウエストの中間からちょうど女のウエストあたりが最大点になるだろう(いずれも「真の運動支点」で遠心力は最小になるための現象だ)。これらの理由から、この3者では「一見」現れる曲げ・回り位置は各々異なる。女の肥満では男のウエストあたり(骨盤があるために、女では遠心力・たるみの最大点と見かけ上の曲げ・回りが現れる位置が同じになる)、男の肥満では腋の下(胸囲)から肋骨部上部あたりだろう)。 声の性差

大胸筋と腹筋の違いは、もちろん声関係にも決定的な性差を与えている。特に明瞭なのは抑揚の男女差で、女が大胸筋という肺の動きを直接コントロールできるものによって音楽的なまでに多様な抑揚を与えるのに対し、男は腹筋から横隔膜を通じての間接的なコントロールなので、その抑揚はアナウンサーの朗読的な一本調子なものだ。抑揚の中でも特に、文末において、女は同じオクターブ内で高さをコントロールするのに対し(このために、非常にしばしば尻上がりに聞こえる)、男は女と高さは同じでも必ずオクターブ下げてしまう(このために、男の言い方は必ず文末が下がって聞こえる。女は同じオクターブに留まるので男ほど大きく文末を下げることは出来ない)。これは息継ぎのために文末では肺の空気を出来る限り抜くからだ。男はこの時、腹筋で肺を押すわけにはいかないので、最後の音は肺だけの力で出さなくてはならない。このために、最後の音がオクターブ下がってしまうのだ。一方女は、大胸筋を使うので、最後の一押しは残る力で一気に肺を押すことになる。このために、最後の音がより強く高いものになるのである(フ・フーという2段階のため息ですら、2番目の方が強く高くなる)。女の男言葉が男よりはるかに乱暴に聞こえたり、男の女言葉が女よりはるかにヒステリックに聞こえたりするのも、これら抑揚の根源的性差と言語の抑揚とがうまく噛み合わないためだ(女の普通に聞こえる男言葉や男の普通に聞こえる女言葉は、書き取ってみれば既に本来の男言葉や女言葉とは別になっている(女の女言葉や男の男言葉ではまず見られないはずの「文末語の削除や追加」がある)ことが分かるだろう)。

このようにして、服装と抑揚の性差もまた、やはり呼吸の主筋肉が大胸筋であるか腹筋であるか、によって決定付けられている。そして、そうであるがゆえに、これらもまた(本来)男女間で交換不可能なものだ。 顔の性差

大胸筋・腹筋と直接的な関係は無いが、それによって示唆される「脳の性差」は顔の筋肉にも反映されている。すなわち、男の顔と女の顔には、その胴部と同じくらいに決定的な性差が存ずる。それは、あたかも胴部の筋肉の性差のミニチュアのようだ。すなわち、男の顔の主筋肉は両眉中央から口中央の1本線であり、女のそれは両眉外端から口両端の2本線である。

この性差によって、男は普段から眉根元が中央へと下がり(両端が上がる)、口が中央へと上がる(両端が下がる)傾向があり、女は逆に普段から両眉外端が下がり(根元が上がる。両眉中央と両目中央との上下幅が明らかに男より広い)、口両端が上がる(口中央が下がる)。これは、それらの主筋肉が普段から鍛えられているために、そうでない部分より(軽度の緊張によって)小さめになるからだ。

女は眉を人工的に描いたり、また男の中にも明石屋さんまや堺正章のように両眉の中央が上がっている人がいるから、結局顔の性差は不明なのではないか、と思う人もいるかも知れない。が、そんなことは無い。

どれほど眉を人工的に描こうとも、女の眉は根元はほとんど動かず両外端が動き、根元が動いて両外端が動かない男の眉とは異なる。このために、さすがに真正面から見ると見分けづらいが、ほんの少しでも顔を傾ける(特に前傾)と、眉と目の動き方(ずれ方)から男か女かはっきり分かってしまうのだ。すなわち、男の両眉中央と両目中央はそんな場合強い時にはX型にくっつくほどになるが(目のまわりが女よりくぼんでいるためもある)、女はそこは真正面の時と同じ幅のままなのである。また、男の笑顔では両眉中央が上がり、口中央が下がる(鼻の下が延びる)。明石屋さんまや堺正章のケースはこの例だ。女は逆に、笑う時は両眉外端が上がり(相対的に根元は下がって見えるが、実際に動いているのは外端だけである)、口両端が上がる(口両端があたかも口裂け女のように耳の方に引かれる)。口の動きが男女では少し異なるが、これは女の方が、筋肉を耳の下へと伸ばす動き(笑う時は男女とも筋肉が伸びる)と口の端へと伸ばす動きの2通りが可能だからだ(後者をやると明白に口が突き出す、すなわち、不満を表明する表情が後者のケースである)。なお、女も両眉中央を上げられなくはないが、その場合、「ハ」の字形になる男と違い、両眉とも水平に、ようするに眉がまるごと上に上がる。これはもちろん、既に述べたところの眉を動かす主筋肉の位置の違いによる(私に限っては、「八」の字形に上げられるが、両こめかみが頭痛がするほどに痛む、というデメリット付きだ。ようするに、眉両外端の筋肉に(女は普通しない)内側に寄せる動きを与えることで擬似的に(かつかなりの肉体的無理を伴って)それっぽくできるだけで、この場合も、よく見ると、真中から外へとドーム状にふくらむ男の眉と異なり、さながら「人」の字のような、ちょうど地層が断層で押し合って上へとめくれたような形になっている(ようするに、眉間にしわが寄りつつなおかつ両眉中央が上がる、という、男にはできないはずの組み合わせだ(女なら理論的(実際にやるとかなりの頭痛がするはずなのでお勧めできない)に可能である)))。最後のこともあるが、検証する場合はどこが上がった下がったよりも、どの筋肉の動きでその形が形成されたか、を確認するようにすれば見誤りを避けることができよう。

私の顔を主にさらに検討してみると、女は眉の上下動と目のまわり(目のフレームと呼ぼう。眼球と皮膚とが接触する境界の形態のこと、ようするに目の形のことである)の上下動が一致することが分かった。顔を傾けたりしても眉と目との間の幅がほとんど変わらないのはおそらくにこのためである。また、これから分かるように、女では目のフレームの動きもまたその外側両端にある筋肉によって律せられている。女の目が切れ長気味・目尻が吊り上がり気味・左右の目の高さが異なる・両目間の幅が広い(女の目はこのいずれかあるいは複合である)のも、すべてこの構造から解することができる。男(これまでもそうだが、美術解剖学の本中の男のモデルの百面相でもっぱら確認した)は逆に、眉の上下動と目のフレームの上下動は反対の動きになる。すなわち、眉が下がる時は目のフレームが上がり、眉が上がる時は目のフレームは下がる。ようするに、眉等の場合と同様、男の目のフレームもまた中央部の筋肉によって律せられているわけだ(この理由から、女の目のそれらとは逆の類型が多くなることは書くまでもあるまい。なお、男女とも一括して上がる・下がると単純に書いているが、厳密には女の上下は目尻、男の上下は両目中央部側の動きであり、男女ともこの逆、すなわち女の両目中央部側、男の目尻はほとんど動かない(一見動いているように見える時は、顔そのものを上下に動かしているケースだ))。

なおまた、男でも笑顔で両眉中央部が下がっている例も見られるが、この場合は目自体は笑っていないことに注意しよう(それに何より、眉の形からして、両眉中央部の筋肉の動きがこの笑い方を作っていることは明白である)。なお、「笑っている目」の形態は、男の場合は、目のフレーム自体は下へ動こうとする場合にむりやりまぶたを閉じようとする力で形成される。目のフレームが下まぶたの位置へとずれ込んでいるために、ああいう形になるわけだ(まぶたの動きは眼球の筋肉と連動しているので、必ず眼球を覆う位置にその動きは生じる)。男は眉を下げると目のフレームは上がってしまうので、この「笑っている目」を作るための要件が満たせないのである。ちなみに「笑っている目」の女の場合は、口両端から頬・こめかみへと上がる両側面の動きと、その反動、特に口の動きに引っ張られる形で下へと向かう中央部の2つの動きによって形成される(中央部のこうした在り様は、女の腹筋のそれとほぼ同様である)。目のフレームは、従って、眉と同じく、両端が上がり内側が下がる形になる。この目の傾きに沿いつつ、口の両端に押し上げられる形(と言うか、口端と目尻とが引っ張り合う力)で頬が全体的に上に上がる(男は目元まで上がらずに途中でブロックされてしまう(中央部の筋肉を使うために、口から目への動きにおいて鼻(口中央に伴って上がらずに留まる)が邪魔になってしまうからだ)。口の端を上げる笑い方で男の頬がぽっこりとふくらむのはこのためである。女でも頬がふくらむ時があるが、それは男とは逆に、口端が上がる自然な動きを意志的に抑えた場合だ)ことによって「笑っている目」の形が形成されるのだ(まぶたを閉じる力は女ではまったく関係無い)。これらのために、男の「笑い目」では瞳が目尻側に寄り、女の「笑い目」では瞳は鼻の方すなわち内側に寄る(女の笑顔が「可愛い」とされるのはこの現象に拠る)。筋肉の強まりによって眼球が少し押されてしまうからだ。

これまでのものはすべて他の場所でおおよそを解明してから、そのエッセンスだけを書いてきたわけだが、この顔の性差だけはこのページ上で直接検討されたので、何だか難しくなってしまった。そこで改めて簡単に言えば、男女の顔の決定的性差は、眉と目の傾きの違いに端的に見出すことができる。すなわち、男では眉と目の傾きは反対方向に動き、女では同一方向に動く。この理由は上に述べた通り、男の表情筋が中央一本線であるのに対し、女のそれは左右両端にあるからだ。写真等静止したもので動きが分かりづらい場合は、両方の瞳の寄り具合に注目する。ほんの僅かな差なのだが、女の瞳はいわゆるカメラ目線では中央に寄り、そうでない場合は逆に外側に離れる。男は逆に、カメラ目線では外側に離れ、そうでない場合は中央に寄る(理由は不明だが、おそらくにこれは筋肉では無く錯覚による現象だろう。女の瞳がカメラ目線で中央に寄ること自体は、女の目が「無限焦点」で、正確に焦点を合わせる男の目より可能焦点距離が短いからである(このために、女の目は可能焦点距離を越える範囲では左右の遠近感覚が等しい。すなわち、両目でも片目でも距離感は変わらない))。なお、呆けている時や性的快感に浸っている時はこの逆になるので注意しよう。すなわち、そんな時女の瞳は離れ男の瞳は寄る。

以上でもまだ分かりづらい時は、眉の付け根(内端)と目の付け根と、どちらがより内側(鼻寄り)にあるかを見る。眉部の骨の隆起の性差により、このタイプでは女は必ず眉の付け根の方が内側に来、男では逆に目の付け根の方が内側に来る(男で眉の付け根の方が内側に来る場合は、その部分で必ず眉と目の傾きが逆方向になる)。

ちなみに、新生児等の性別をこの原理で見分ける時は、次のようにすれば良い。両眉の間を指でそこの筋肉を動かせないほどにしっかりと押さえた状態でなお眉の両外端を普通に動かせればその新生児は大胸筋系、すなわち「女の子」であり、逆に両眉外端あたりを同様に押さえてなお両眉の間を普通に動かせればその新生児は腹筋系、すなわち「男の子」である(新生児に限らず、自己の性に疑義がありながら太って大胸筋の形状が見えない人等もこの方法で簡単確実に自己判定できる)。

さらに、私の顔において、「口をへの字に曲げることができない」ことも分かった(やろうとしても、曲がると言うよりは突き出してしまう。いわゆる「鼻の下」、すなわち鼻と口の間がまったく伸び縮みしない(できない)ためだ)。また、眉に関してもさらに、眉の根元を寄せると同時にまぶたが眉と同じ動きで下がってしまうことが分かった(ようするに、眉とまぶたがまったくに連動している)。これらはいずれもTVの男女等で確認できることでもあるので、やはり私の顔の表情を形成する筋肉の有り様は「女型」、すなわち目・口の両端の筋肉の動きが主である、と見なしてよいだろう(「男型」は上に書いたように、眉間から口真中を縦に通る筋肉の動きが主である)。従って、男にはできても女にはできない顔つき、逆に女にはできても男にはできない顔つき、があること、すなわち「表情の性差」も在ることになる。

しばしば男たちは「女はいつも取り澄ました顔をしている」と言うけれども、私の顔の筋肉の動きを上のように検討したところでは、実際には女は「男のようには顔を崩せない(眉と目の間、鼻の下を広げたり縮めたりできない)」と言うのが本当のところである。別に、無理して取り澄ました顔をしているわけでは無く、顔の筋肉の性差のために元々そういう顔つきしかできないようになっているのだ。

この顔の筋肉の性差は、眉間および額のしわの出来方をも左右する。眉間のしわは、男の場合は両眉の付け根に1つずつ合わせて2本主線ができるが、女の場合は両眉根元のちょうど中間に1本だけ、両眉より下まで伸びる形(男のそれは両眉根元に回り込む形になるので、眉より下まで真っ直ぐ伸びることは無い)で主線ができる。また、額のしわは、男の場合は額の下半分にできるが、女の場合は額の上半分にできる。さらに目の周りにおいて、男の目じりのしわは垂れ、女の目じりのしわは跳ね上がる。また、目の鼻の方の端(目の根元と呼ぼう)あたりにおいて、男はもっぱら目の下が眼球に沿うようにぷっくりとふくらむこともあって目の根元の下にしわが生じ、女は逆に目の上が眼球に沿ってぷっくりとふくらむこともあって(ただし、女のこれは男のそれほどははっきりとは分からない。判別し難い時は、眼球によると見なされるふくらみが目の下に確認されるかどうかを見れば良い。少なくとも私が確認した限り(眼球のふくらみ云々に限って言えば私がチェックしたのは日本人のみで(たぶん東洋系はすべて同様だとは思う)、西洋人等の場合は見ていない)では、男にはまず確実にそれがあるが、女には老齢(または衰弱等)による目の周りの窪み化によって浮き上がる場合以外は目の下に眼球のふくらみはまず見られない。ちなみに、私はむろんその部位はふくらみどころかまったくぺったんこである(この性差は少年少女時代でも既に明白で、下手をすると誕生直後にすらすでに在るかもしれない。私の、まだ新生児時代の沐浴写真ですらかようなふくらみは確認できなかった一方で、私の幼稚園時代の写真にいっしょに写る少年たちには明らかに例外無くこのふくらみが見られる)。なお、目の下のくまとかがあると分かりづらいが、その場合は眼球に沿った形になっているかどうかで見分ける(くまは眼球に沿った形では無く、下まぶたから自然に垂れる液のような形に生じる))目の根元では上にしわが生じる(このしわは眼球に沿った、いわば対角線的に下がるまたは上がる線である。目とほぼ平行に走るしわ(とその間のふくらみ)には男女差は見られないので混同しないようにしよう。なお、女の場合はむしろこのしわができることで初めて目の上が眼球に沿ってぷっくりとふくらんでいることが判明する方が多い)。これらのしわの出来方から逆推しても、やはり男の顔の表情の主筋肉は中央部、女のそれは両側面部であることが明白だ(なお、私の場合は、左眉の傷のために、額および眉間のしわは右眉の方へといくらか歪む。だが、この歪み自体、この歪みが生じる部分の動きが眉の傷で遮断されてしまうような間接的なものであること、すなわち、その歪みが生じるのと反対側である両側面部こそが筋肉によって直接動かされている部分であることを証するものだ)。

ところで、このように顔の筋肉の性差がおおよそ明らかになった以上(スター・ウォーズシリーズの男女において以上の典型例をいくつも見ることができる。チェックしてみよう)、ここからまた男女の筋肉の本質的違いも明らかにすることが可能だ。上のしわができる場合において、女は両側面の筋肉は伸ばし、男は逆に中央部の筋肉を縮めている。一方、笑顔等の緩んだ顔では、男は中央部の筋肉が伸び(鼻の下が伸びるのはこのためだ)、逆に女は両側面の筋肉が縮む(口の両端が引き上げられるのはこのためだ。ちなみに、男のそれっぽい笑顔はすべて、顔を前傾させることであたかも口の両端が上に上がっているかのように見せている、すなわちフェイクであることに注意しよう(実際、女ではむしろ大抵頭部はやや後傾させる、つまり、笑顔においてはややあごを前に出して上から見下ろすような形になっている))。そうなのだ、力を入れない状態において、男の筋肉は伸び、女の筋肉は縮むのが基本形なのである(目の周りのしわや男に固有の目の下に目立つ眼球のふくらみ等の男女差の理由はここまで分かって初めて判明する。それらのしわができるのは表情が緩む時であるわけだが、この時、女は主筋肉自体は縮むために目の周りの皮膚は押し下げられ(この動きは額を引き下げつつ眉まで下がってそこで大部分が止められ、このゆえに女にはしばしば眉の上に脂肪的ふくらみが見られる)、男は逆に主筋肉は伸びるので目の周りの皮膚は押し上げられるのだ。これら皮膚の移動が不動の眼球によって阻止されることでそれらのしわ(と男はさらに目の下の眼球のふくらみの明白化)が生じるわけである)。つまり、男が筋肉に力を入れると言うことは筋肉を意志的に縮ませることであり、逆に女が筋肉に力を入れると言うことは筋肉を意志的に伸ばすことなのだ(ひどく簡単なテストがある。腕を指先まで一本の棒のように真っ直ぐ伸ばす場合と、力こぶモードで同じ側の肩を掴むかのように曲げる場合と、どちらがよりたやすくいわゆる力こぶの部分を緊張させられるかチェックして見よう。女は伸ばす方がより簡単に力が入り(ちなみに力こぶ様に曲げる場合も、わきの下〜肘外側〜手の甲の方の伸びる力をこそ主に使っている)、男は曲げた方がより簡単に力が入るはずである(ちなみに、と言うことは、例えば腕相撲において、男は肘を前に出した方(こぶしが肘より自分側に来る形)が良く、女は逆に肘を引いた方(肘がこぶしよりも自分側に来る形)が良い、ということもこれで分かる))。もちろん、このことは全身のどの部位の(随意(的)な)筋肉でも同様である(女が男にはできない足指部位のみによる爪先立ちを簡単にできるのもまたこのためだろう。実際、その時、足は尻から足指付け根までさながら一本の棒のように真っ直ぐである(逆に、女にとっては、膝や足首を曲げながらの爪先立ちの方がはるかに大変だ(それよりも前にバランスが取れないが)。あと、蹴り上げる時も女は股間前部を縮めるのでは無く尻回りから膝裏へと筋肉を伸ばす力をこそ使っていることも以上から明らかとなる。同様に肘打ちも背筋を伸ばす力、爪引っかきも二の腕から肘にかけての筋肉を伸ばす力を用いているわけだ))。上の方で述べた顔面の性差的諸特徴は以上の理由からすべて間接的表れであることが明らかなので、個々の要素の有無にこだわるとかえって紛らわしい。最終的判断は、以上を総合した上で、それらが中央の筋肉の縮みに由来するものかあるいは両側面の筋肉の伸びに由来するものか、を見定めればおおよそ間違い無く男女を判別できるだろう。

以上のことは、男女が異性の筋肉の動き(による各性に特有的な運動)をそっくり模倣するのは原理的に不可能であることを意味する。外見的にどれだけ似せても、筋肉の伸縮の仕方はまったく異なっているのだから、練習すればいつかはそっくりな動きになる、と言うことは無い。逆に、練習すればするほど、異性とはまったく異なる筋肉が発達してしまうのであれば、部分的な見せかけ的模倣程度ならどうにかできても、筋肉の全身的協調作用としての全身的模倣はおそらくに100%不可能であろう。

私においては、女の笑顔は特に何とも感じないが、男の笑顔や照れは「可愛い」とか「魅力的」とか感じてしまう(幼稚園の頃から既にそうだ)。一般に、男は女の笑顔が可愛いと言うので、これは理解し難いか、あるいは「本当は女の表情に感じる印象を男へとシフトさせているだけだ」とこじつけて理解してしまうかもしれない。だが、なぜそうなるかの理由を知れば、素直に納得できるようになるのではないか、と思う。

同性の表情に魅力を感じないのは、筋肉の動かし方が同じなので、直感的に自身の表情の作り方との呼応から相手が何を考え感じているかがツーカーで分かってしまうからであり、逆に異性の表情には筋肉の動かし方がまったく異なるためにかような直感的理解が生じないので、それはすこぶる神秘的に感じるのだ(「可愛い」と言うのは、この時に、それが「相手の思考が読めない>無心の笑顔」に思われてしまうからである。同性における「可愛い笑顔」が常に相手の「白痴性・バカっぽさ」(という理解)と併起するものであることに注意しよう(例えば少女マンガでも、「ファミリー!」でフィーが同じ女のデビーの笑顔に「ついつられて微笑んでしまう」とあるが、このデビーは明白に「おつむの弱い女」として描かれている。そうでなければ、一般に同性の笑顔は「ふてぶてしさ・不敵さ」という印象が普通であろう)。なお、無論、異性に対しての場合はかような意識せざる見下し的価値判断は先行しない。そこに未知性という「無限の可能性への開かれ」が同時に感得されるためである(この理由で、しばしば異性の笑顔は、同性の目から見れば明白に「バカっぽい」ものでもなお変わらずもっぱら魅力的という観点においてのみ強い印象を与える、つまり、異性の笑顔に「白痴性・バカっぽさ」を感じるということは非常に稀(あるいはもしかしたら皆無)である))。女においては、男の笑顔が可愛いと言うことは一般的では無いではないか、と思うかも知れないが、それは、女の多くが男を「怖がっている」がために、その神秘性はむしろ「何を考えているのか分からない不気味さ」に感じられてしまうからだ。母親において、自身の産んだ赤ん坊にあってはさすがに「息子の笑顔が素敵」という意見は多く見ても「娘の笑顔が素敵」という表明は稀なので、やはり根本的には私と同じく、「異性(すなわち男)の笑顔は可愛い」と感じるのがむしろ基本的であることが分かる(男においても、相手の女に対する警戒心が先立つ時は、その笑顔は可愛いと言うよりは不気味で得体の知れないものであるように感じるであろう)。以上のことは、もっと端的に、「異性が何を考え感じているのかは分からないのが普通」ということからも妥当であることが分かる(さもなければ、恋愛における微妙な手さぐり的接触や相手の心の読み違えはまったく生じないはずで、ようするに「恋のいざこざ」という現象はまったく生じないはずであることに注意しよう)。

ちなみに、いわゆる性同一性障害の人々に関しても、以上のことから逆推して彼らの表情における筋肉の動かし方からさらには脳の性差まで明白に(自己)判定できる。およそ、彼らの話において、彼らの言うところの異性(他の人から見れば同性)の表情の神秘性への言及は、私はまったく目にしたことは無い。これはすなわち、彼ら自身の主張とは裏腹に、彼らの根源的性差・脳の性差はその生物学的性と同一であることを示唆する有力な証拠の一つだ(無論、これだけでそうだと断言できるものではないが)。

ところで、これらのことは、生物学的に不可能とされている「男の脳を持って生まれた女」のみならず、「女の脳を持って生まれた男」もまた在り得ないことを示している。既に見たように、女の脳では腹筋による呼吸をうまく処理できないからだ。すなわち、それらいずれのケースも、すべて「心理学的」症候であって、「生物学的」症候では無いのである(だからといって、性転換という治療が不要だ、と言う事では無い。性に関するかような偏移は、それが心理学的症例であっても、肉体的変更無しの「正常化」はまず不可能であることは経験的に確かめられている。私がここで言いたいのは、「性転換」という最後の手段でさえ完全な異性化には至らないのであれば(冒頭に述べたように、よく考えれば性染色体はなお元の性のままなのだから、それは元より不可能なのだが。忘れられがちなような気がするが、性染色体は体中の全細胞に保持されている。例えば、女の赤血球はXXであるためにXYの男の赤血球より重い(Y染色体はX染色体に比べ、はるかに小さく軽いため))、その前後の心理学的ケアがなおさらに重要である、ということだ)。 脳(精神)の性差

五感にも性差があることは医学的に既に分かっているが(視覚と味覚は男の方が鋭利、聴覚・嗅覚・触覚は女の方が鋭利(前者は開けた空間での狩りに役立つ五感(味覚は「あれを食べたい」という意欲を湧き上がらせる。女の味覚が男より劣るのは、多少の飢えは我慢して「待つ」ためであろう(女が自分は我慢してでもごく自然に子に優先して食料を与えられるのも、この味覚的意欲が乏しいゆえの賜物ではある))、後者は閉じた空間(密林や暗闇等)で役立つ五感だ(聴覚はまた片言の赤ん坊との会話意欲を促し、嗅覚は赤ん坊や生理に関する匂いへの意味感知性と耐性(不快な匂いも、意味や由来・意義が分かればそれほど不快では無くなる(この敏感さと耐性との両立的発達は、他の五感でも同様である。真に敏感なる者は同時にまた最もそれに耐えられる者であり、かような耐性を持たない敏感さは心理的恐怖の投影に過ぎない虚偽の敏感さである))とを促し、触覚は赤ん坊を抱きたい意欲を促すものでもある)。どうも、これまで検討してきた肉体的性差から見ても、人間における男女の性差は「狩猟時代」において著しく発達・分化したものらしい(根本的理由は、人間の新生児の特性のために、その何年にもわたる妊娠〜子育て期間中は女が一定の場に留まらねばならなくなったことにある。「留まる」には閉じた空間内が有利であり、またこの期間中男は1人で何人分(私がざっと計算した限りでは、1人の男は普通自分も含めて4人分の食料を調達できるようだ)もの食料を稼がねばならないために開けた空間で狩る能力が著しくUPしたのであろう))。鋭利と言っても、程度の差では無く、感覚器分布度の差、すなわち可能分別深度の差であり、修練によってこの差を逆転させることは出来ない。修練による感度UPは、得意な感覚や記憶の援用等で鈍い感覚を補佐できるようになることであって、その鈍い感覚自体が鋭くなるわけでは無い)、これについては特に検討する必要は無い。私の知る限りでは、これらによる性差の混乱は特には見られないからだ(厳密に見れば、例えば夫婦喧嘩等は案外にこの五感の性差に由来することが多いようだが、夫婦間の連帯意欲を刷新する等「良い結果」をもたらす場合が多いので、特にこれを性差の混乱とは見なさない)。

視覚に関して非常に重大な性差が見出されたので書いておく。「女には高さの空間感覚が無い」。女は、高さという視覚的空間情報は、同一平面上の「距離・配置の差異」へと転換された形でのみ理解している、つまり、それを立体空間情報では無く、あくまで平面上の情報としてのみ認識する。男は、自分よりはるかに背の高い相手に本能的に恐怖を感じ、また背の低い相手は本能的にこれを軽んじるが、女にはこの「高い相手への恐怖」も「低い相手への軽んじ」も無い;それらの情報は「自分を包み込める」か「自分が包み込める」か、いずれにせよ「平面的広さ」としてのみ認識されるのだ。また、幅は楽に飛び越えられるほど狭いのにやたらに深い溝を飛び越えることに女は本能的恐怖を感じる(はずだ)が、これは、その深さが平面情報へと繰り込められる際に、幅への追加距離情報として認識されるので、やたらに幅があるように錯覚されてしまうためである。この手の性差本で「女は地図が読めない」という形で知られる現象の、その根本原因はおそらくにこれである。

味覚に関して、男より女の方が、また高齢者より若者の方が、より薄い味でその味覚を認識できる、という調査結果が公表された。そこにおいて、そのことを「より味に鋭い」と表現していたが、これは無論逆、すなわち、「より薄い味でその味覚と判定できることはそれだけ味覚が鈍い」と理解せねばならない。なぜなら、「味にうるさい」ということが「味覚の濃い薄いを適切に認識できること」である以上、それは「最良の濃度」への感覚がよりピンポイントでなければならないことを意味するからだ。つまり、その味覚を認識できる濃度の範囲が広いほど、その味覚の適正濃度への厳格さが低くなってしまう(曖昧化してしまう)のである。コーヒーが良い例だ。子供にとってそれは「ただ単に満遍なく苦い」だけのものだが、年を取るほど、その「苦み」の味わいをより適切に味わい分けることができるようになる(そしてこの調査からすれば、女より男の方がコーヒーの味の違いをより厳密に味わい分けられる、ということになる)。前者を「味に鋭い」とし後者を「味に鈍い」とする表現がまったくの逆であることは、この例1つからでも明白であろう。

創造することの性差、は、これがしばしば文壇等で性的差別・搾取を生む元となっているようなので、これは検討しておく必要があるだろう。

根本的に言えば、男は第2の表現が第1の表現に従属し、逆に女は第1の表現が第2の表現に従属する。具体的に、文章に関して見れば、男の文章では、「意味」は冒頭文で完結的に現れ、続く文群はその「意味」を詳説するものである(すなわち、「結論>証明」の形式)。一方、女の文章では、冒頭文は「謎」によって相手(読み手)の注意を喚起するものであり、「意味」(謎解き)は続く文(群)にこそ現れる(すなわち、「Q&A」の形式)。簡単に言えば、男のそれは1個人による演説(あるいは手紙)形式、女のそれは会話形式だ。これは脳の男女差と如実に一致するのであれば、男女がこれを交換することは不可能である。

女がなぜ男式の書き方ができないか、は、これは私自身のことなので良く分かる。後が続かないのだ、最初に意味の完結する文を出してしまうと。結果、よしんば男式の書き方で始めたとしても、結局、冒頭文は続く文群とは意味的に独立した「孤立文」となってそれらとは有機的に結びつかず、第2文を「謎提示」としてそこから改めて女式の書き方を展開するしかないのである。

男は、なぜ女式の書き方ができないのだろうか。何を言うべきか、が書く前から十全に分かっており、書く過程でこれを「流し去る」ことができないからだ。このために、どれほど女式にのっとって書こうとも、必ず冒頭文が続く文群と有機的に結びつきつつ1つの整った構造を形成してしまう(さもなければ、冒頭文を書いた時点で流れがストップしてそれ以上何も書けなくなる)。すなわち、男が「謎提示」の冒頭文をよしんば書き得たとしても、続く文群がそれに従属せざるを得ないことで、その「謎提示」自体のうちに「完結的意味」が既に含まれることになってしまうのだ。

さらに厳密に言えば、これは抑揚の性差と同じく、脳の性差にこそ由来する、と考えることができる。と言うか、抑揚の性差こそが単に喋り方のみならず言語の用い方それ自体の性差の根源でもあって、小説等に現れる(根源的)性差もこれに拠る、と考えるべきだろう(言語は内的イメージを客観化、すなわち他者へと伝達可能なものとする時に、陰に陽に作用するものなのであれば、一切のコミュニケーションはいかなる手段を用いようともこの性差から逃走し得ない、と見なされて良い)。私は会話をはじめ、歌や詩、小説や考察において「いかに始めるか」(歌句では上句)に困ることはまったくと言って良いほどに無いが、「いかに終わらせるか」(歌句では下句)に困ることが非常に多い(またここから逆に、「(例えば自分の方に注意を向けさせる等のために)相手のそれまでの行為をいかに終えさせるか」にもやはり困ることが非常に多い)。どうやらこれは女型の特徴らしく、逆に男は「いかに始めるか」に困ることが非常に多いようだ。

以上の性差は、男の方が明白に「演繹的(原理から細目を導出する)」なので一見女の方は「帰納的(事例群から一般則を導出する)」であるように思われるかも知れないが、それは違う。帰納法も実際には「有意味な事例のみを列挙する」点で実はそれら自体(特に最初の事例)が既に「結論(群)」であって、形式上の結論を含む続く文群はその詳説に過ぎないのだ。

女の言語原理は、男との性差という観点から簡潔に言えば「再帰的」なのである。事例群(謎)は相互に響き合って、一般則では無くむしろ「その女自身をより深く広く(つまりはより適切に)表現する」もの(ひどく簡単に言えば「より気持ち良いもの」だが)、つまりはより個別的・現実的・具体的な「意味」へと変貌する。そして、この変貌自体が既にして「新たな事例」として再びそれまでの事例群と再帰的に響き合うのだ(なお、少なくとも私に限っては、私を取り巻くすべての夢や現実も「事例群」を形成してその響き合いに参加しているようだ。アニムスの外在化という私に固有の事態のゆえであろうか)。女にとって、「謎」とは「男(読み手)を試すもの」では無く、「ともに解き明かすべき『何だか気持ち良く無いもの』」である、つまりは、女は(真摯に)書き始める時には彼女自身が「謎の答え」はまだ知らない。下手をすると、書き終わってもまだ「何だかよく分からない」場合すらしばしば有り得る(私は何か言いたいことがあって書くのでは無い。何か分かち合いたいもの(普通は正体不明の沸々と湧き上がる喜び)がある時にのみ書こうという意欲が初めて現れ、そしてその分かち合いが十全に満たされたと感じた時にその意欲は消失する。なお、このために、私においては分かち合うべき何物かが蓄積される、時間等に十分な余裕のある時に小説は書かれ、蓄積よりはむしろ消失の方が多になる忙しい時等はより問題解決的な考察等に興味の方向が切り替わることになる(別に意図的に切り替えているのでは無く、そのように自ずと志向する方向性が環境に随行して切り替わるのであって(植物が、葉をより茂らそうとするか花を咲かせようとするかを決めるのとほとんど同じことである)、つまりは私自身にとっては小説も考察も同じ「行為」に過ぎない))。男には理解し難いかもしれないが(私にはよく分からない)、女にはそれで十全にOKだ。なぜなら、これは「妊娠・出産・子育て」の言語的に抽象化された姿に他ならないからである。つまり、そうした書き方は、女の本能的欲求をむしろそうであってこそ十全に昇華し得る、「楽しい・意欲が湧く最良の書き方」なのだ。そうであれば、逆に、「真の意味で男のように書く」に際しては、彼女は自らの本能と真っ向から衝突することになる。イメージは本来的に無意識を通じて本能の意志の具現として(あるいは認識されたものへの本能による解釈として)浮上するものなのであれば、この状態ではまったくイメージが続かなくなることは明白ですらある。

男の場合は、おそらくに、自らの内なる意欲を強く太く一本化してこれを読み手(女)の内部(心)へと届け、その意欲を受けて(受胎して)相手が「変わる」、というものがその本能的ベクトルではないか、と思う。これを女と比せば、男においては「結ばれる」までが重要であり、一方女にとっては「結ばれてから」こそが重要である、という差になって現れる。だから、「シンデレラ」等の典型的な話は、実はすべて「男にとって女とは何か」を娘たちに「教え諭す」ものであって、だから家父長化へと変化する時代に明文化されたのである(元来は「男の手口」をこっそりと娘に教えるものであったのではないか、と思う。母が娘に語るに、「継母」と母との同一視は娘には困難なのであれば(同一視すればもはや娘は母の語りには耳を傾けまい)、かような「女を悪者として描く」ことは実は男(父をも含む)が母から娘をさらうための手口の1つなのだ、と反言的に教えた、というわけだ)。ともあれ、「結ばれる」ことは根源的には明白な「結論」であって、ゆえにこの結論が揺らぐような書き方は男にはできない(本能に反する)、と言って良いだろう(昨今の家庭化した男たち、すなわち「友達のような夫婦」は一見理想的だが、「社会と噛み合わない本能(すなわち悪)」を克服はせずに自己封印してしまうために、子供たちをその「悪(含ストレス一般)」に大して「無免疫」にしてしまう点で、あやうい「今の幸せだけしか見ない」関係ではある。親は子に対して、ワクチン化された悪の顕現でもあるべきなのであって、ゆえに男女の性差や本能の自己封印的否定は単なる「自己中心性」の優しげな発露に過ぎない、と言わざるを得まい。幸いに現在はTVやゲームが「ワクチン化された悪」の提供元としてかろうじて子供たちに働きかけているけれども、その「一方向性」はその必然的限界であって(さもないと子供たちの数だけ作り手が必要になり、さらにある子供に有意味はものは他の子供には有意味である可能性が低くなる。つまりはそれらの持つ集約的発信性という利点はまったくに失われる)、やはり親による双方向性的な問題解決への導き(ちなみに、友人的な親は子供に対し隙(弱味・欠点)を見せないおよび本気でぶつかっていけない(つまりは絶対的安心感を与えない)点で一方向性的ガイドにしかならない(親自身が認める隙は子がともに解決するための隙にはならないので、それでは意味が無い。(本当の、親が子にそれを指摘されることで狼狽するような)隙を見せない、とはこの文ではそういう意味である))がより良き手段として期待されるところではある)。

「いずれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひける中に、すぐれて時めきたまうありけり」

超有名な源氏物語冒頭文である。作者はもちろん女だ(ちなみに、原文はすべて句読点無しのひらがな)。ここには2つの謎提示がある。「いずれの御時」および「時めきたまう(女)」だ。読み手は当然ながら「いつ? 誰?(そして、なぜ?)」と気をひかれるが、作者は絶妙に身をかわしつつこれらの問いをはぐらかし続ける。確かに固有名詞は速やかに与えられるものの、この作者がこれを語らねばならない理由、すなわち、それら固有名詞群の「普遍化された姿(意味)」が現れるのは、実にこの作品の最期まで待たなければならない。華やかに思えた貴族社会が遊びのうちに自らの意義の喪失に苦しむ「時代」、この苦悩の体現者としての「時めきたまう(女(たち))」とその救いを探求する放浪の騎士たる光源氏。彼の中途での死は問題をそれら女たち自身へと突き返す。そうだ、男たちもまた、時代の退廃の中で救いを求めて苦しんでいる。この「なぜ」を読み解き得た時、この退廃の時代の中にさえも女たちは自らの存在理由・生きるに値する理由を見出すに至るのだ。

この冒頭文が、男の手によるものだったなら、作者が男だったなら、彼は「いつ」という時代背景を詳説しつつ、「誰」の中に権力闘争の匂いを嗅ぎ取り、「なぜ」を勝者の自己弁護・自己称賛か敗者の怨嗟の表明へと結論づけるような形でこの物語を書き連ねたことだろう。さもなければ、彼にはあえてこれを語らねばならない理由が無いだろうからだ。よし現代の男が源氏物語をモデルとして同様な話を書いたとしても、その裏には常に「時勢の権力への暗黙の批判」が塗り込められることになるに違いあるまい。いずれにせよ、それらにあっては、「いつ」は「今」、「誰」は「権力闘争の犠牲者」と、「完結的意味」が与えられることになってしまうのであり、これらの意味においては、この冒頭文はもはや「謎提示」では無く、それ自体が1つの完結した「結論」文となるのである(すなわち、この冒頭文に以降の展開がすべて凝縮されて象徴的に「宣言」される)。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった」

これまた超有名な「雪国」の冒頭文および次文である。作者は今度は男だ。冒頭文が、「話の続き」への関心をまったく引き起こさないことに注意しよう。「雪」が「霊」の暗示字だと分かれば、この冒頭文が「能舞台」の設置であることが分かる。次文は冒頭文の水平移動を上から下への垂直移動へと言い換えたもの(すなわち冒頭文を従属的に補強するもの。冒頭文の無いこの次文だけでは意味は成立しない)で、これは能役者への「霊の降下」を示している。小説の題名が端的に語るように、ここで作者の「伝えたいこと」は、すべてが来たりすべてが去る能舞台それ自体の「意義」、自らをかような能舞台に例える作者の「自負」である。そして、かく「不動の背景」へと自らを転じることで、作者は「この悪しき時代(太平洋戦争の頃の作品)は来たりまた過ぎ去るもの。私は、少なくとも私のかく生む芸術は不動の背景へと自らを塗り込め耐え忍びつつ生き延び続けるのだ」と「一大宣言」を放っているのである(ちなみに、同作者の「伊豆の踊り子」も、「出づ・能・踊り子」で能への示唆を含む)。

女なら、少なくとも私なら、次文で「トンネルを抜ける前」へと時間を戻し、「いかにトンネルを抜けたか」の過程を延々と書き連ねてしまうだろう。というのは、この冒頭文を「謎提示」と理解するならば、ここで答えられねばならない「謎」は、「なぜ国境のトンネルを抜けねばならなかったか」あるいは「なぜ雪国へと行かねばならなかったか」だからだ。あるいはさもなくば、次文以降は冒頭文とは有機的につながらないエピソード類が展開されることであろう(アガサ・クリスティが、このやり方で「ずるい」と言われたことがある。冒頭文にすべての謎の答えがありながら、次文以降と連結していないために、読み手に忘れ去られてしまった、あるいはそこに含まれるものが次文以降で有機的に関連しつつ展開されなかったために重要で無いと見なされた、そういう「読み手の心理」技を使ったからである)。

短歌等でも、やはりこの性差はかなり如実に見られる。すなわち、「男歌」は上句が「宣言(結論)」で下句が「その証明」(自己の情緒の宣言とその例証:自己愛的確証)、「女歌」は上句が「謎提示」で下句が「その答え」(自己の情緒の不明性の暗示とその推定:自己否定的心情流露)になっているものが「普通」なのだ(例外がどれほどあるかまでは私は知らないが、脳の性差という根拠から見れば、おそらくに例外は「無い」。なお、ここで言う上句・下句は意味ブロック上の区切りであって、形式上の区切りとは必ずしも一致しない。従って、上句のみのもの(男に固有であろう)や下句のみのもの(同じく女に固有であろう)さえも可能性としては在り得る)。俳句でも(少なくとも男句では。女句は私は知らない)同様だ(これらの最も簡単にして強力な判定法は、上句・下句に分けて、下句を隠して上句だけでも全体の場合と歌句の意味印象はほとんど変わらないが上句を隠して下句だけにするとまったく別の歌句のような意味印象を与えるの(ようするに上句だけでも歌句が意味印象上は成立するが、下句だけでは成立しない)が男歌句、その逆に、上句を隠して下句だけでも全体の場合と歌句の意味印象はほとんど変わらないが下句を隠して上句だけにするとまったく別の歌句のような意味印象を与えるの(ようするに下句だけでも歌句が意味印象上は成立するが、上句だけでは成立しない)が女歌句である)。ここでは簡便さのために、俳句の例だけあげておこう。

「古池やかわず飛び込む水の音」

「しずけさや岩にしみいる蝉の声」

「菜の花や月は東に日は西に」

「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」

いずれも、第1の5音部が、「雪国」の冒頭文とまったく同じ機能を果たしている。すなわち、続く7・5はこの冒頭の5の本来的に秘め持つ「趣き」を続く7・5で「例示」される「来たり去るもの(たち)」を通じて強調するものに過ぎない。「かわず飛び込む水の音」は「古池」という「宣言されるべき趣き」の「具体的証明」なわけである。女句の適例がどうも見つからないので、あともう2つ、男歌と女歌の典型をあげておこう。

「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」

「玉の緒よたえなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする」

前者は男の歌、後者は女の歌だ。前者の構造は、「雪国」や上の俳句群とまったく同じで、下句は上句の「すさまじさ」をことさらに強調するもの・証明するものに過ぎない。一方、後者では、下句(ながらへば〜、から)は上句の激烈な叫びの「なぜ」に答えるものであって、この下句が無いと歌の「意味」が完結しない、すなわち「意味」は下句にこそ担われている。しかし、人はこれらの歌の性差を本能的・フィジカルなものでは無くジェンダー的なものだと考えるかもしれない(ともに平安末期〜鎌倉初期の歌だ)。そこで、最後に私自身の歌を1つあげておこう。

「雲間より漏れ来る光葉を照らし風吹き渡る春は来にけり」

光が漏れるほどの隙間が雲の間に生じること、目前の、木の一番下の方の葉にも光が当たるほどに茂った木の葉が揺り動かされること、これらはすべて関東地方に特有の強い「春の風」すなわち春一番によってこそ生じるものである。すなわち、この歌は下句が無いと意味が完結しない。「舞台」(不変なるもの)は下句に在り、「役者」(来たり去るもの)は上句に在る。すなわち、これは題材は一見男歌的でも、その詠いぶりは典型的な女歌のそれなのだ(さらにまた、「雲間〜光」は男根からの射精、「葉を照らし」は「女陰のほてり」、「風吹き渡る」は風の触感的理解から膣内での男根の摩擦、「春」は体が「張る」、「来にけり」は「いく」ことだ(けり>蹴り>足の突っ張り。全体的にまた、「葉」が女陰の癒着的閉じを、「風」が女陰の肛門への代用的切り替えをも示唆する)。女歌、特に女俳句はかように、本人すら気づかずに「淫猥」であるものが圧倒的に多い。理由は(ずっと後ろで)後述する)。

俳句で、ようやく女句を得た(参照は、ほとんどがそうだが、古本屋でゲットした平凡社「世界名作全集別巻 日本詩歌集」山本健吉編昭和34年初版本定価260円(古本屋での買値350円)に拠る。イザナギ・イザナミの歌から1959年までの日本の代表的な和歌・俳句・詩詞を文庫サイズ812ページにまとめた(私にとっては)便利なリファレンスだ)。杉田久女と竹下しずの女である。この2人の句の(この詩歌集に掲載されている)ほとんどに共通するのは、句末に「私」の肉体感覚が置かれていることだ。そしてここから逆に、句頭には「私の肉体へと訪ね来たるもの」が置かれていることが分かる。上で女歌の特徴と説明したのとまったく同様に、句頭に「来たり去るもの」があり、句末に「不変なるもの(我)」がある(この「闇の感覚写生」により、彼女らの俳句は短歌的な「心情・肉感の発露」すなわち「艶」へと強く傾くものになっている)。「艶」と言えば蕪村だ。彼の俳句はどうなっているだろうか。

「ゆく春やおもたき琵琶の抱心」

ここで、感覚的・艶なのは「ゆく春や」における「気だるさ」なのだから、やはりこちらは男歌同様、「結論と証明」の形になっている。ちなみに、私自身の句はどうかと言えば、

「春と夏秋冬過ぎて双葉かな」

やはり「来たり過ぎ去るもの」が句頭に、「不変なるもの」(この場合は輪廻回帰する生命。双葉は生命の始原の形態であり、種の中にして既にその形を宿すのだから、植物の輪廻の全過程に通奏する「不変なる素型」の象徴である)が句末に来ている。女歌(女句)はしばしば無意識的に「女の器官」を歌のテーマに選ぶが、この双葉もまた2つの卵巣(を通じての生命の継続)の象徴だとも見なして良いだろう(さならば、句頭の「過ぎ行く時間・巡る季節」は妊娠期間のことだとも言えよう)。

俳句で恰好の対比的な男女句を得た。「菜の花の明るさ海にこぼしけり」「菜の花の道燈台へつづきけり」、前者が男の句、後者が女の句である。これを分析するに、前者は「自己(既知、過去)から周囲(今直面しつつある(既知へと転じつつある)未知、すなわち現在)へ」、後者は「周囲(現在)から自己(過去、人の営みの伝統的連なり)へ」という形になっており、かつまたこの差異はそれらの句のあった句欄の全句に共通していることが分かった(ただし、俳句では時々名前が男女不明の場合があり、それらは検討から除いている)。

例えば前半が「自然」について述べていれば、男句では後半は「より大きな自然」となり、女句では逆に「より身近なあるいは人の歴史や社会を感じさせる事物」となる。前半が「人のこと」なら男句の後半は「自然」であり、女句の後半は「それを包み込むような歴史性・社会性」である。これらをさらに抽象すれば、男句は「空間的(展開)」、女句は「時間的(収束)」と言うことになるだろう(つまり、男女はそうした互いに異質な事柄の発見に心を動かされる、という点で明白な性差がある、と言うことである。ただし、鑑賞的にはこの傾向は逆になる、すなわち、ある性はむしろ異性の作品にこそ常なる「新鮮さ」を感じることになる;その「自分に対する異質さ」が常に「新たな眼差しの提示」として感じられるからだ(もちろん、その性にとって異性のその「新たな眼差し」は習得不可能であり、ゆえにそれは「常に新た」であると感じられることとなるわけである))。

「古池やかわず飛び込む水の音」

「しずけさや岩にしみいる蝉の声」

「菜の花や月は東に日は西に」

「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」

「ゆく春やおもたき琵琶の抱心」

これらはすべて「身近な自然からより大きな自然へ」の形であり、すなわち典型的な男句である。芭蕉の2つは「古さ」「しずけさ」が1点から周囲の空間へと広がる様を吟じ、最後の蕪村の句は「ゆく春」が琵琶に無数に圧縮されつつ「自然の歴史性」を通じて「より大きさ自然」を顕現させている。

「春と夏秋冬過ぎて双葉かな」

私のこの句では、「双葉」は普通人手による育てやまたはその状態でこそ社会的流通性を得られるのだから、やはりこの観点から分析してもこれは女句に属することが分かる。

マンガでは、男のそれは、冒頭部に「ヒーローのユニークさの簡潔かつ印象的提示」が置かれ、以降はすべて、この「ユニークさ」がいかに転変する状況で「己を貫いて行く」か、が描かれる。一方、女のそれは、冒頭部では「ヒーローあるいはヒロインの日常的風景」が描かれつつも、そこに隠れる「謎」がひそやかに暗示され、以降はこの「謎」が徐々に明らかになる過程が描かれる。この「謎」は当初外部からの「インパクト」として認識されるのだが、ヒーロー・(特に)ヒロインは続く遍歴のうちに、実はそれが自らに内発的なものであったことを知るに至るわけだ。

内発的、と言えば、男の描くヒーローは「邪」を内発的契機として持ちつつ、かような内発的邪を持たないヒロインに支えられる形でこの「内発的衝動」を自らの制御された「邪を破り善を為す力」へと転換して行く。ヒロインに邪が現れる場合でも、その邪は外発的・環境強制的なものであって、それはむしろ「かような外圧に負けないヒロインの清らかな心の強さ」をこそ称賛するための「仕掛け」だ。ところが、女の描き手にあっては、この構造は男女が逆転する。すなわち、ヒロインの方こそが内発的邪を持ち、これによる圧迫のためにヒーローが一時的に「邪なる者」と誤解されつつヒロインから遠ざかるかのように感じられる。このことがヒロインをして自身の内発的邪に気づかしめ、これを克服せんとする過程でヒーローが「それを手伝い導く者」として戻って来るのだ。

私の小説群は、むろんのことだが、すべて後者、「女の作り手」による形に等しい。この逆、すなわち男が上の女的構造作品を描き、女が男的構造作品を描く、ということは可能なのだろうか。

前者男的構造が「結論と証明」へと帰着し、後者女的構造が「謎と答え」の形であることに注目すれば、かような「性転換」は不可能であることが分かる。と言うのは、前者は結局「己を貫く」という言葉から分かるように「内部から外部への突進」すなわち「狩り」であり、後者は「外部から内部への組み入れ」すなわち「妊娠・出産・子育て」であるからだ。これを入れ替えようと目論むのは自らの本能に逆らうこと、簡潔に言えば「自己の絶対的否定」(すなわちその目論む意欲それ自体の否定)になってしまうのである。

「地球へ」は一応少年を主人公としてはいるものの、その構造は「日常>謎というインパクトの爆発>答え探し」という典型的な女的作品である。ここでは、盲目の巫女イシスに注目しよう。敵キースは明らかに(意味的には)彼女の「子」だ。つまり、彼女の内発的邪が具体化したものである。彼によるイライザの停止はイシス自身の「邪の内発性への気づき」であり、従って続いて現れる「父なるもの」は、ジョミー自身のヒーローとして復活した姿である。キースがこれをも止めるのは、女にとってヒーローとは保護者では無く「導く者」だからだ。これにより、ジョミーは「マグマ」という最終形態へと変じ、イシスを敵への愛(内発的邪への愛>自己肯定)へと導く。「地球へ」は女によって描かれた最も少年マンガ的な作品(の1つ)だと見なされているが、実は以上に分析したように、これは「純然たる少女マンガ」であって、決して「男的作品」では無い。

「エヴァンゲリオン」における「日常にひそむ謎」は冒頭の「レイの幻影」として描かれているが、既に書いたように、女的作品では「謎」は「外部からの衝撃的インパクト」として当初は把握される。ところが、このレイは「インパクト」というにはあまりに弱々しい。実際には、このレイは「ヒーローの内部から外部へと投影された」「内発的邪の『善なる影』」に他ならず、これの探求はひっきょう「狩り」に他ならないのだから、結局「エヴァンゲリオン」はいかにも少女マンガ的なものへの傾きが含まれてはいても、その本質は「純然たる少年マンガ」に他ならないのだ。

「エスカフローネ」および「ウテナ」はさらに意図的に少女マンガを模した作品だが、やはりいくつかの点で「少女マンガ」とするには不備がある。「エスカ」では、ヒーローが邪へと転じていないこと、ヒロインが着ずっぱりである点が肝要だ。特に後者は、ヒロインがこの「異界」という外圧に染まることなく、本来の「清らかな心」を保持し続けていたことを意味する。さらにラストでヒーローが「空に浮かぶ面影」となるが、これはいかにも「アニマ的理解」、すなわち、女におけるアニムスを「アニマの女版」としか把握出来ていない証拠だ。アニマをどう引っ繰り返してもアニムスにはならない。両者は根本的に異質なものなのだ(「噴き出すマグマ」と「空に浮かぶ面影」を比べて見れば、この「異質さ」がどれほどのものか分かるだろう)。かくして、「エスカ」における「少女マンガ的なもの」の取り込みはあくまで技法的・知識的なものに留まり、この作品それ自体はなおかような「衣装」をまといつつもやはり「純然たる少年マンガ」である(構造的にも、「日常」と「謎」が完全に分離してしまっている)。「ウテナ」では、ウテナが「至善のヒロイン」、アンシーが「邪を『まとわされた』ヒロイン」で、しょっぱなからいきなり「邪の内発性」が完全分離という形で否定されてしまっている(統合はアンシーが「邪の源」を振り払った時、すなわち彼女自身が「至善のヒロイン」という内的不動性を獲得した時に、初めて可能とされている)。ヒーローは、「劇場化」という操作で作品の外部へとその身を隠している(「王子」は単なる「誘い餌」だ)。ようするに、「ウテナ」は丸ごと、ちょうど「マウスによる性別実験」そのもの((予定調和な)結論を「狩る」こと)なのであって、当然ながら女にはこんな描き方は出来ない(そこまで自分を客観化出来るなら、そもそも何も描くべき問題など無い)。

高橋留美子作品でもやはり以上の理論に外れはしない。「うる星やつら」で、ラムという外部からのインパクトはしのぶの内発的邪の具体化であり、これを理解する過程でしのぶは「あたる(とチェリー)という導き手」の元にサクラと融合しつつ竜之介化する。これは必要なことだ。というのは、ラムは常に外部的インパクトを与え続ける存在という制約を持つ(長期連載のためにどうしても必要な措置である)ので、「地に足をつけられない」。地に足をつけられない、と言うことは、「(心理学的に)成長できない」ということだ(結局ラムが最後まで「幼い」ままであること・男へのアプローチがまったく進歩していないことに注目しよう)。かく得られた「竜之介ヒロイン」を「徹底的に地上化する」ためにこそ「らんま1/2」は在った(ラムは呪泉郷へと抽象化される)。この過程で、しかし問題として徐々に浮上して来たのが、「あたるを取り込んでしまったこと」である。竜之介と彼の「外見の相似」から分かるように、あたるは「保護する殻」として竜之介に取り込まれたのだが、このために、「ヒーローが見えなくなってしまった」のだ(飛鳥の「割れたメガネ」、らんまの「男に戻れない」こと、はこの暗示である)。「犬夜叉」とは、まさしくこの「あたる」を「あかね化した竜之介(かごめ。あかねはあたるに代わる新たな殻)」から(奈落として)引き剥がしつつ、この隙間より「真のヒーロー」を垣間見んとする試みなのだ(つまり、犬夜叉とは、うる星最初期の「まだ真面目な少年だったあたる」が長い時を経て復活した姿である)。かくして、高橋留美子作品もまた、やはりその本質においては「純然たる少女マンガ」であって、一度たりとも「少年マンガ」で在ったことは無い。

以上のうち、特に男の手による「女化作品」で、「(ヒーロー(すなわち作者)の)自己の絶対肯定化」という現象が見られることに注意しよう。これは明らかに、そうした「女化」が必然的に持つ「自己否定力」への対抗的反作用だ。これはひっきょう、それら「女化作品」が、実際には「女を狩る」ものへと変質してしまうことを意味している。ヒーローが自身の内発的邪を暴走させこれに支配されてしまったのだ、これらの作品では。と言うのは、男が男という自己を否定することなく「女化」を推し進めるのは、女を「男が片手間で理解できる存在」すなわち「男の成り損ない」へと貶めることに他ならないからである。「アニマの女版としてのアニムス」こそはまさしく、その「男の成り損ない」だ。だが、実際にはそんなアニムスは存在しない。「男装したアニマ」は結局アニマ以外の何者でも無く、従ってそれと自己同一化しようとする男は必ずや「アニマの奴隷」へと転落する。結果は「自己の絶対肯定」すなわち「自我のインフレーション」だ。「女化」するからには、二度と男には戻れない決意で「完全女化」することだ。そう、「女への性的欲望」、「女を得ること」はもちろん「女に成る」という欲望さえも彼は捨てなければならない。さもなければ、彼は女に成れば成るほど、重度のナルシストになるしか無い。しかし、この結果は不毛だ。性転換者たちの語るところでは、かように「(現時点で可能な限りでの)完全女化」を達成した時、すべての性欲を失ってしまう、と言う。女への性欲はもちろん、男への性欲すら失う(性ホルモンは、性欲を「喚起」はするが、それ自体が性欲を生み出すわけでは無い。このことを誤解している人が非常に多い。異性のホルモンを導入したからと言って、同性への性欲が生じるわけでは無いのである)。つまりは、自分が女にならねばならなかった「根拠」をすべて失ってしまうのだ。これらの理由により、「異性化」は、(もししたいなら、だが)慎重かつ細密にこれを遂行しなければならない。本能は、わずかの隙でもそこから入り込み全体を乗っ取って本質的な「本能との親和性」を必ずや確保しようとする。「異性のふり」に酔い痴れることはむしろ本能にとっては好都合だ、それはあまりに隙だらけの「白昼夢」だから、なんとなれば本能はシステムすべてをひそやかに乗っ取ってしまえるからである。それは、本能との(精神的)生死を賭けた、いつ終わるとも知れぬ死闘になることを覚悟しなければならない。しかも、その結果は恐ろしい程に不毛だ。この死闘の間、本来在るべき精神的成長はすべてストップしてしまうからである。こんなわけだから、「異性化への試み」は(私から誘っておいて何だが)、試食程度に留め、それにのめり込むことは(そうしなければ自分の人生は無に等しい、としか思い得ないほどに決意が固い場合を除いて:性転換しなきゃダメ、と思い込んでいた人が、異性装療法レベルで充分な満足を得られた、というケースもしばしばある。また、思春期前に是非とも、と焦る人も多いが、以上で見たように、思春期前でも男は男であり女は女であって、「完全な異性化」はその頃に手術してさえ不可能なのだから、この焦りははっきり言って無意味である(そればかりか、思春期の成長以前に本来的性ホルモン分泌を止めると、かなりの確率で「類宦官症」という特異な体型(脚が短く腕が異様に長い)あるいはターナー症候群的症状(背が10歳以前の状態のまま伸びなくなる)になってしまいかねない))絶対に避けるようにしよう。

ゲイ・レズの一般的認識では、異性は「(自分を理解しない)白痴的なまでに至善な(常識外をまったく理解できない)存在」か、さもなければ「(自分を理解できる)真の意味で至善な存在」かのいずれかとして把握されている。驚くべきことだが、本人たちが自ら「体は男でも心は女」あるいは「体は女でも心は男」と豪語しているにもかかわらず、彼らの精神的在り様は「(異性を至善なるものとしてしか夢想できない)同性の一般的なそれの極端化されたもの」に過ぎないのだ。すなわち、その心はまったくに異性化してはいない。

なぜ、ある性の者はどうあっても異性を「内発的邪を持つ存在」として夢想できないのだろうか。

「内発的邪」を持つ、ということは、一瞬毎に「善であるか邪であるか」を主体的に選択できることである(「至善なる異性」は、その裏返しである「まったくの邪(すなわち外発的邪)である異性」(この異性は最終的には邪という仮面の裏の至善を明らかにすることを運命づけられているのだから、結局は「至善なる異性」のヴァリエーションに過ぎない)も含めて、「非主体性」をその最大の特徴とする。男の描くマンガ等で、ヒロインの非主体性が時々問題になったりするが、実際には女の描くマンガ等におけるヒーローも「非主体的」である(彼は必ずヒロインを救わねばならないのだ))。異性にリアルさを追求しない、という場合は、結局作者の幻想の投影として、至善か至邪かいずれかの異性しか描き得ないのだから、「主体的異性」を描くためにはどうしても「(少なくともその本質における)リアルさ」への眼差しが必要になる。

「リアルな異性」とは、突き詰めれば「その性に固有の思考法で善悪の決定を行う異性」である。そうなのだ、ある性のものが内発的邪を持つ異性を描こうとすると、どうしても、既に述べたところの、男の「結論>証明」、女の「謎>答え」の両方ともが自らにおいて出来るようにならなければならないのである。ところが、これをもし出来たとして、その場合、彼/彼女は自らが両性化してしまうことによって、「異性を導入する必然性」そのものを喪失してしまう。「異性」とはひっきょう、「恐るべき外部」へとその者を誘い出すことで、未だ統合されていなかった無意識領域を統合せしめる(ように働きかける)存在なのだから、この「異性」が喪失されることによって「残された外部」もまた同時にその意義を喪失し、つまりはこの両性化した彼/彼女はもはやいかなる精神的成長も不可能になる。精神的に成長できないものは当然ながらもはや物語を紡ぐことはできないのだから、「リアルな異性を描く」という目的は永久に達成不可能になるわけだ(幸いなことに、これまで見て来たように、「両性化」はそもそも肉体特に脳の物理的性差のゆえに「元々が不可能」である。ここの論理展開は、かような「科学的・観察的『事実』」になお疑義を感じる人々のための「付け足し」に過ぎない)。

こうして、ある性の者が内発的邪を持つ異性を夢想することは不可能であることが証された。だが、以上のことは、実はもっとはるかに重大な「理解」へとそのまま転用できる。内発的邪を持つ異性のその主体的意思決定を夢想しようと試みる者は、みなおしなべて、以上の理由から、各々の冒頭文、「決定>>>」あるいは「謎>>>」を発したまま思考が(「>」を延々と繰り返す形で)停止してしまう。実は、かく思考停止状態に宙ぶらりんで留まり続ける「冒頭文」こそが、アニマ・アニムスの「本体」なのだ。すなわち、アニマとは「答え無き謎」に他ならず、アニムスとは「証明無き結論」に他ならないのである。すべての男女は、この、内部的に思考不可能な「答え」あるいは「証明」を、外部的異性の言動に潜む「性的本質」への直観を通じ、各々の時点で自らの可能な限りを(既に形成されつつあるアニマ・アニムスの程度に応じて深まる理解力をもって)かき集めることでのみ、このアニマ・アニムスを「心内に具体化された絶対的外部存在性」として「育てる」ことができる。無意識の各要素は、統合によって意識エネルギーという「太陽光」を与えられるのを欲するので、それらがこのアニマ・アニムスを通じて顕在意識を「誘惑する」のだ。そしてこの「誘惑」は、すべての無意識が統合されるまで止むことは無い。少なくとも現在では、普通はこれが完了する前に人は死期を迎えてしまうので、結局私たちはその生涯をかけて「アニマ・アニムスという真の恋人」を追い求めつづけるわけだ(追い求めなければ、自分の「(無意識的)部分」はぽっかりと穴が開いたままである)。この意味では、実際に肉体に在って愛し合う2人の具体的異性は、「アニマ・アニムス探求の同志」へと位置付けられるべきであろう。

「内発的邪」だけでは抽象的過ぎて、具体的分析に使いづらいかも知れない。具体的には、一般に、ヒーローあるいはヒロインの対異性への愛が、確固不動なるもの(非主体的)か、迷うもの(主体的)か、を検討すれば良い。さらに、この「迷い」が内発的なものなら、その迷いを持つヒーローあるいはヒロインは確実に「内発的邪を持つ主体的存在」である。逆に、その迷いが外発的なものならば、それを持つキャラは非主体的存在である。

私の最新の小説である「アシュトンのあれ」で見てみよう。シンディのアシュトンに対する対応は明らかに揺れているが、これには外発的理由は一切述べられていないので、これが「内発的邪」の1つの典型的な現れである。一方、アシュトンの方の「迷い」は、シンディが垣間見せたその内発的邪に対する「恐怖」に明らかに基づいているので、これは「非主体的迷い」だ。一般に、男の描くヒーローは、この内発的迷いを「自己肯定」によって突破解決し、一方女の描くヒロインは「自己否定」(迷うのは自分のわがままに過ぎない、等)によってかような迷いを克服している。一見すると紋章剣の選択においてアシュトンの自己肯定が現れているように見えるが、これを選ぶことはシンディの「期待」が先行しているので、実際には彼は「(長剣を良しとする)自己の否定」を通じて紋章剣を再獲得している。逆に、シンディは最後に自分のわがままを認めることで自己否定しているように見えるが、ゴルバがこの「わがまま」を引き継いでアシュトンの主体性をさらに奪うのだから、実は自分のわがまま、すなわち「内発的邪」を貫徹しているのだ(ただし、これはスターオーシャン2ndストーリィ(の時間軸)へと解決を持ち越すための特殊な措置であり、普通はこんな風には自己貫徹はしない)。

もう1つ、「ボーマンのあれ」では、ボーマンの主体的状況が2ヶ所あるのだが(冒頭部と次の日の朝の部分)、そこでの彼の描かれ方がほとんど支離滅裂になっていることに注目しよう。これは、私にとっては異性である「男」を(話の都合上仕方なく)無理に主体的に動かそうとして失敗した、いわば「ある性の者が主体的異性を描こうとするとどうなるか」の典型例である。女たちの内発的邪によって「その振る舞いのベクトルを制約される」ことで、ボーマンが打って変わったように生き生きと動き出す様にも注目しよう。最後の方はまた何だか気が抜けた風になっているが、これは、オペラの離脱からも分かるように、女たちに迷いが生じたからである。と言うのも、プリシスの邪の発現がいくらか「外発的」だからだ。この迷いを打破するために、女たちはあえて「祝祭的わがまま」の全面的発露に身を投じる。このために、「ボーマンを罰すること」は、女たちにおいても「ともに自分らをも罰すること」(恥ずかしい行進にあえて参加すること)として把握されるに至る(この罰がオペラには及ばないのは、彼女がいち早く「主体的に」この悪循環から身を引き得たからである。つまり、この、女たちが自らをも罰すること、は彼女らが主体性を取り戻すためにこそ必要なものであったわけだ)。

「ベルセルク」のガッツと犬夜叉とを比較すれば、前者の「迷い」は明らかに内発的であり、後者のそれは明らかに外発的である(この外発性に抗うほどに、犬夜叉の「愛」が確固不動なものであることを見よう)。逆に、キャスカらガッツを巡る女性陣の「邪」は常に外発的に強要されたものであり(蛾の妖怪たちでさえそうだ)、かごめの邪はまさしく人形桔梗としてかごめ自身の内部から生まれたものであることが示されている(エスカと異なり、かごめの着ずっぱりは、本来戦国に属する彼女があえて現代人の「ふりをする」点で、「装われた至善さ」である。それは、邪を帯びる桔梗があえて至善を意味する巫女の衣装であることと軌を一にするものだ)。

ところで、「創造」では以上のようにくっきりと性差が現れるわけだが、「受容」の方はどうだろうか。私において、(女の作り手による)「守護月天」のシャオと(男の作り手による)「グルグル」のククリ、という表面的には似た部分の多い(感情移入が容易な)ヒロインたちが、実際のところは如何に把握されているのか、を検討することでこれを探るものとしよう。

シャオとククリは似てはいるが、その「変容過程」は正反対である。すなわち、シャオを現在との違和感を、(邪であった)過去からの継続を止めることで解決しようとしているのに対し、ククリは逆に「忘れ去られた過去」へと遡ること・思い出すことでこれ(邪である現在)を解決しようとしている。前者は明らかに「なぜ過去以来自分はかく在れたのか」という「謎」を問題とする「手探りの答え探し」、すなわち典型的な「女式物語」であり、同じく後者も明らかに、現在のククリを「結論」として、それを成り立たしめる理論、すなわち「それを証明する過程」を割り出そうとする、すなわちはこれまた典型的な「男式物語」である。こんなわけだから、シャオに見られる主感情は「過去とはまったくに異質な未来への不安」であり、ククリのそれは「忘れていた過去を知ることへの不安」である。この違いにより、彼女らの「とりあえずの応急措置」も、シャオは「現在に対して距離を保つ」こと、ククリは「現在に没入して過去を忘れ続ける」こと、とまったく正反対のものになる。

私自身の在り様は、私のこれまでの創作や考察(の背景的に流れるもの)から見ても、明らかに「シャオとこそ同一」だ。そしてこのために、私にはこのマンガの作り手の在り様が、さながら自分のことのように(あるいは親しい友人のことのように)分かる。と言うとおこがましいかもしれないが、彼女がこの作品を通じて何をどうしようと欲しているのか、こそが第1に気になり、シャオ自体はむしろそのための「通路的道具」としてこそ把握されている。つまりは、私はシャオ自体では無く、むしろそれを描く作り手にこそ感情移入しているのだ。

一方、ククリは、私にとっては「こんな風に在れれば素敵かも」と思わせる、誘惑的存在である。この「素敵」は明白に性的なものであり、つまりは「ククリみたいに男との恋愛に没入してみたい」と思わせるものだ。決して、「ククリみたいな女になりたい」という意味では無い。注意されたい。「〜してみたい」という願望は、逆に、「それは自分とは違う」という現状認識と常に表裏一体である。ここで、私がククリと同一化するのは、従って、「自分とは違う自分」へと「飛躍する」こと、つまりは、「過去からの継続を男による見守られのうちに断ち切る」こと、を意味する。これは「証明無き結論」への身の開きであり、このために、私にとってこの作者は「過去からの継続による共鳴や批判」を一切許さない、つまりは「感情移入せずにただ見守るべきもの」としてこそ立つ。このために、私は「守護月天」の方は作者が特に言わなくても行き詰まっていること(現在この作品は休刊中)に自ずと気づいたが(同じところで堂々巡りしている)、一方「グルグル」の方は作者が自らそれを明かすまで(最新の14巻で「はまったか?」等自問自答している(この作者の「はまり」は、ゲーム等で重要なことをし忘れて堂々巡りに陥ったことを意味する語で、語の本来としては「熱中する」の意味))そのことに気づかなかった(ただ、この巻になって急に絵に熱意の込められが感じられなくなったこと、つまり作者のやる気が急激に失せていることは、前後の脈絡が無い、流れ上無意味な絵が時々現れることで気づいたが)。こんなわけで、私にとってククリとは、「男の手に全面的に委ねられた自分」、すなわち「男のいいように振り回される(ことを喜びとする)自分」であり、逆に言えば、「男(作者)の自分に対する性的欲望」をかき集めるためのいわば「橋頭堡」としてこそ把握されている。

以上を単純化すれば、シャオは私にとって、作者に対し能動的(主体的)に接する契機であり、一方ククリは、作者に対し受動的(非主体的)に接する契機である。では、太助とニケはどう把握されているのだろうか。

太助とニケの最大の違いは、前者がシャオを呼び出したことは後悔せずにただ彼女が離れて行くかも知れないことに不安を感じているのに対し、後者は自分がククリを連れ出した(呼び出した)ことにこそ不安を感じ、彼女が離れて行くかも知れないことは念頭にすら無い、ということだ。実際には、太助の場合はシャオを呼び出す意図はまったく無かったのだから、シャオの方から押しかけた、と見なして良い(2度の召喚、特に2度目はシャオ自身の意志によるもの、が必要な所以である)。彼女の方から押しかけたからには、太助に「シャオを必要とする理由」が無いと、彼女には居場所がまったく無くなって困る。そう、太助においては、その「不安」でさえも「非主体的」すなわち「それ以外の可能性を許されない在り様」なのだ。私において、「男を非主体的に把握する」ことは簡単なことなのだから、これは太助の把握においても例外では無い。ただし、同時に、この太助は「何か新しいものをもたらしてくれる」ものでは在り得ず、ゆえにこの把握はまったくに性的なものでは無く、むしろ「ヒロインを道徳的に規制するもの」すなわち「規範としての男」として典型的なアニムスであり、言い換えれば「安心感の枠組み」そのものなのであれば、それはつとめて「恋人的と言うよりは父・兄的」存在ではある。そう、少女マンガにおける「恋愛」は、実は「恋愛」では無く、「自己の家族への再組み込み過程」すなわち「家族内における自己の定位置の手さぐり的把握」に過ぎないのだ。女たちが「恋愛そのもの」を見出すのは、実に少年マンガのヒロインへと感情移入する場合だけなのである。この意味で、太助(に限らず女によって作られたヒーローすべて)は、あくまで「女によって把握された男」に過ぎず、「男そのもの」では無い点で、いささかの不満を残す(おそらく、少女マンガ家たちが恋愛をひたすらに描き続けて飽きることが無いのは、この「不満」のゆえだろう。同じ現象が、少年マンガ家では「実際に自分の体でやるべきこと」をあえてマンガとして描く場合に生じている)。

ニケのひょうきんぶりは、おそらくにククリを喜ばせるための「サービス」だろう。太助がこんなことをしたらシャオに呆れられて去られてしまいかねないので、「彼女が去るかもしれない不安」を持つ男にはかような「サービス」は到底為し得ず、ゆえにニケにはそんな不安は設定されていない。代わりに、ククリの方に「非現実的なまでの対ヒーロー妄想」が設定され、時にこれの方こそがニケを不安がらせるほどだ。だから、ニケの「ククリを連れ出したことへの不安」は、「自分がククリの妄想に応じきれなくなるのではないか」という不安だ。この「妄想に応じること」は、喜びという「餌」を与えることなので、ニケの在り様は、その「何だか分からなさ」ぶりにも関わらず実にストレートに「狩りする男」のそれ、つまりは「男によって作られた『男そのもの』」なキャラである。そんなニケを女が、すなわち私が十全に把握する、と言うことは、そのギャグを事前に見抜いてしまうと言うこと、すなわちそのギャグで喜べなくなる、と言うことである。

私はいまだかつて女の作ったギャグで笑えたことは無い(ごくまれに「ひょうきんな仕草」を目にして笑うことはあるが。むしろ、私には女の描く「恐怖場面」の方がはるかに笑える)。少女マンガ全般においてギャグの比率が少年マンガより小さいのであれば、これは私がどうこうと言うより「女」自体の特性だろう。つまり、ギャグは元来「男的なもの」なわけだ。それは典型的な「結論>証明」構造なのである。うち、「結論」はギャグ自体として、それの「証明」とは一体何だろうか。「証明」は「具体例」でもあるのであれば、それはすなわち、より正確には「ヒーローのユニークさ」を結論とする「ギャグ」という具体的証明である、と見なせる。ところが、私は、この論証過程で既に明らかなように、ギャグをこそ「結論」として、その「証明」は無い、と把握していたわけで、これでは到底ニケを理解できるはずは無い。彼は私にとっては「証明無き結論(群)」の典型例として把握されていたわけだ。

「いた」と過去形で書いたが、かく男の描くヒーローの言動構造が明らかになった今、では、私にその「男そのもの」であるヒーローが十全に把握できるようになったのだろうか。「否」だ。と言うのは、そのためには、「結論」にまず第1に実感的に共鳴できる必要があるからである。「ヒーローのユニークさ」を直接に把握するためには、「ユニークで無い普通の男」(結論)が、主体的努力(証明)によって「ユニークさを獲得する」(結論の充実)ということの読み手における自己実践が前提的に必要である。この構造は「古池やかわず飛び込む水の音」とまったくに同じだ。「古池」という「普通の風景」(結論)が「かわず飛び込む水の音」(証明)という「主体的見出し」によって「聖化」された「古池」(結論の充実)へと転じる仕組みである。自己実践とはすなわち「創造的営為」である。という事は、この創造的領域にあって性差が「越えられない溝」として在り、そしてそこでは私は「女側」すなわち「結論>証明」とは異なる構造側に属しているのであれば、私には、ちょうど今こうしているように、理性的・分析的に「ヒーローのユニークさ」を割り出すことは出来ても、それを直接的・情緒的に「理解」することは元来不可能なのである(そもそも、理性的分析の与えとは「対象の普遍化」すなわち「ユニークさの殺ぎ落とし」なのであって、それを経て得られた「もの」は、実は、「ヒーローが主体的にユニークであること」だけである。つまり、「ではどうユニークか」は、女には永遠に手の届き得ない「視野」なのだ(「謎」として気づくことすら稀な「不可視的部分」である))。

女である私にあって、同性作品および異性作品の「受容」は以上の通りであり、これはおそらくに他のすべての女たちでも同様であろう(例えば、さもなければ少年マンガを消化吸収する形で少女マンガで「ユニークなヒーローあるいはヒロイン」系のギャグ物が興隆しても良いはずだが、実際には相変わらず少数派(と言うか、その系はすべて男性作家による少女マンガだ)に留まっている)。これの逆をすなわち男における受容の在り様、と単純に決め付けるのは、「男女は逆と言うよりは異質」という基本的なテーゼから見ても危険なのだが、今の私には他に取りようが無いので、「大雑把に見ればそう言っても良いと思われる」とだけしておきたい。

なお、女の手による作品において、同等の主人公的な2人の女があれば、一般的には(特に男の作品享受者たちには)これは「母と娘(作者)」の関係と理解されているようだが、私の分析する限りでは、この形はまず第1に「2つの卵巣」と疑われるべき構造であろうと思う(2つの卵巣は交互に機能し、すなわち一方が機能している間はもう一方は休止状態にある。この時、書き手である女は必ず活動中の方の卵巣に自らをなぞらえ、であれば「作者とイコール(と見なされ得る存在)でないもう1人の女」は必ずもう一方の休止状態の方の卵巣になぞらえられることとなる。この形においては作者が娘側へと片寄ることが非常に多いように思われるが、以上からその理由が明らかなのであれば(「母」が不在的な遠い存在であることは特に変なことでは無いが、「娘」が同様であるのは普通の家族関係として具象化するに際しかなりの無理がある)、まさしくこの解明1つをとっても、「2つの卵巣のことではないかと疑ってみる」ことの有意義さはあらわであろうと思う)。

男の寂しさは「自分を認めて欲しい人に認めてもらえないこと」に原理付けられる一方で、女のそれは「自分のいるべき場所にいないこと」に原理付けられることが分かった。つまりは、この2つが、上記の男の自己愛や女の自場愛の本能レベルにおける原形だと見なせる。と言うのは、これらは集団的狩猟経済及び集団的採集経済を行うための動機として理解できるからである。もう少し詳しく書けば、前者の「認めて欲しい人」には「獲物」さらには「世界」自体も含まれる。また、後者は「不安」と一言に言い換えることができる。またさらに、私がざっと見た限りでは、男たちは女の寂しさを如何に工夫しようとも結局は「認めてもらえないこと」としてしか理解できず、もちろん女たちも同様に男の寂しさを結局は「自分のいるべき場所にいないこと」としてしか理解できないらしいことがほぼ明らかである。つまり、男たちは女の言う「自分のいるべき場所」とは「そこでこそ自分が認められる場所」と理解してしまいまたそう理解して初めて共感できるのに対し、女たちは男の言う「認めてもらえること」とは「そここそ自分のいるべき場所」と理解して以下同様、というわけだ。

以上は、むしろ逆から捉えるとなお分かりやすいだろう。つまり、男たちは女も認めてもらえさえすれば寂しいはずは無いと思ってしまい、女たちは男も自分のいるべき場所にいさえすれば(たとえそこが世間や世界から自身を隠さねばならない場所だとしても)寂しいはずは無いと思ってしまう。後者の好例は「アシュトンのあれ」に見出すことができる。ここで私は、「長剣の達人になること=世間に認められること」「紋章剣の達人になること=自分のいるべき場所にいること」と暗黙のうちに定め、そして前者を否定して後者を受け入れることが彼の幸せとなろう、と考えたわけだが、こうして「男の寂しさ」が原理的に明らかとなった今振り返れば、これはどうしようもないほどに「女の価値観で描かれた男」であって(ちなみにシンディもまた自分のいるべき場所に到達したがゆえに幸福のうちに在る、と私はそこで見なしている)、おそらくにほぼ100%の男たちにとって受け入れ難い理解であるばかりか、そうした構造になっていると理解すること自体が困難なものではないか、とおそれる(私自身は、これまでで最も良く「男といふもの」が描けたものと自己満足していたのだが・・・。ちなみに、既存の私の創作ではすべて(後日さらに、他のところで触れた私の幼稚園時代の2つの夢さえもがやはり「アシュトンのあれ」系のベクトルであることが確認された)、「自分のいるべき場所にいるか否か」が男女を問わず満たされてあるか否かを判定する決め手となっている。言い換えれば、「認めてもらえないこと」は葛藤どころか問題としてすら、それらにおいては(まだ)認識されていない)。

男の創作では、時期的にも「千と千尋の神隠し」が恰好の例となろう。この話の焦点は「千尋がハクを認めること」であって、「自分のいるべき場所にいないこと」はそれを実現するための過程として、ちょうど私の「アシュトンのあれ」等で「認められること」が過程としてのみ理解され最後に否定的に放棄されるのと同様に、最終的には「取るに足らない幼稚な問題」として事実上放棄されている。要するに、「アシュトンのあれ」と「千と千尋の神隠し」は以上の見地に立てばそのベクトルがまったくに正反対なのだ。念のためにもう1つ例を出せば、「セイント・テール」でもやはり、「認められること=飛鳥Jrの良きライバルであること」は「自分のいるべき場所にいること=飛鳥Jr(という場)の保護のうちに良きライバルたることを放棄すること」で、こちらは「アシュトンのあれ」と本質的にはまったく同じベクトルである。宮崎監督は元々少女マンガを良く思っていないらしいのでさらに例を出せば、「ウテナ」のTVアニメ版の最後は「自分のいるべき場所に到達して封印されるウテナ」と「ウテナに認めて(共感して)もらえることで世に出るアンシー」と、やはりこちらは少女マンガ志向であるにも関わらず話のベクトル自体は「千と千尋」と同系である。この「ウテナ」と話の感じが似ている「黙示」ではしかし特に明白に「アシュトンのあれ」系のベクトルになっていることで(ネクタイ=刀=長剣)、両者の比較を通じて以上のより良い理解が得られるものと思う(ちなみに「エヴァンゲリオン」自体は「認めてもらえないこと」によって生じる葛藤に先鋭化されている。ここまで明白に「(男の)問題」が提示されながら、私が今の今までそれが「問題」となり得ることにすら気づかなかったことに注意しよう(宮崎監督にとって「自分のいるべき場所云々」が「問題以前」としてしか認識されない(ちなみにこれは監督のどの作品でも同様である;ナウシカが女として生きられる場を捨ててまで王蟲たちに認めてもらえることの方を選んだこと、等)のと同様に、私においても「認めてもらえること」はやはり「問題以前」としてしか認識されていなかったわけである。むろん、今こうしてむしろそれこそが男のより根源的問題であることが分かった以上は、今後の(既に作りかけのものは除く)創作においては「男とはそういうもの」という視点を念頭に置く所存ではあるが(ただし、努力はすれども実際に私が男たちをそういうものとして書けるかどうかは保証されない。なんなら、それは「根源的性差を超越する試み」という人類史的難問であろうことが予想されるからだ。狩猟経済に特化された本能にとって「一ヶ所に留まること」は目の前の獲物を見逃してみすみす飢え死にしてしまうことを意味し(ゆえに男の寂しさは焦りとしばしば同義である)、一方採集経済に特化された本能にとって「認めてもらえること」は敵(の獣)に見つかってしまって居住区等を襲われることを意味する(同じく、従って女の寂しさは不安としばしば同義である。与謝野晶子の「寂しからずや道を説く君」は典型的な「アシュトンのあれ」系ベクトルを持つが、「一生懸命に道を説くこと>言葉数が多いこと>女においてそれは無視したい不安を持つこと>不安=寂しさ」という理解は男たちにはほとんど不可能なほどに困難であろう(以上から、男においては道を説かずに女という場に引っ込むことの方が「寂しい」はずだからで、従っておそらくにほぼ100%の男はこの歌を「強い皮肉」として理解するものと思う。実際には、この歌で「寂しい」という実感を感じているのは男では無く女の方であって、その女の男への同情が強く感じられる点でこれは「いかにも女らしい優しさ(不安を認めれば、抱き合うという「場」の再確認でもっと簡単にそれを鎮めることができるのに、という誘いかけ)こそが主調の歌」である(「君死にたまうことなかれ」もやはり「アシュトンのあれ」系ベクトルで、かつ以上で述べたことがもっとストレートに分かり易く表明されている作品である、つまり、「寂しからずや道を説く君」と「君死にたまうことなかれ」は、本質的にはほとんど同内容の詩歌である)。「めぞん一刻」等、この歌と同様の理解が通る作品は少なくない))、つまりは、()内の補説から分かるように男にとっても女にとってもその試みは「あえて寂しさの王道を突っ走り極める」こと(男は焦りの極北を極めること、女は不安の極北を極めること)に等しいのだから、その困難さのいかなるかはそれだけでも何となくは感じ取れよう)))。

この後さらに考えて、そうした性差超越の試みは根本的に不可能ではないか、という結論にたどり着いた。と言うのは、女が男の認めてもらえない寂しさに気づかないこと、男が女の不安に気づかないこと、は、生殖における「より良い相手の選抜」という淘汰原理の人類における発現である、と理解されたからである。すなわち、もし女が男の認めてもらえない寂しさに気づけたなら、その女は同情において自分にアプローチするすべての男を無視できなくなってしまい、つまり「相手を選ぶ」ことが非常に困難になる。また、男が女の不安に気づけたならば、彼はもはや二度と彼女を置いて狩りに出ることはできなくなり、より広範囲の女たちと交わって遺伝子を「散らす」ことが非常に困難になる。そして、そうであるとすれば、それを試みることは必ずや人類の種それ自体による「非常に強い先天的禁止」作用に直面することになるはずなのだ。そしてよしその禁止をどうにか乗り越えてそれらの試みに成功したとして、その場合はその場合で選抜機能および散らし機能が実現の困難に直面することで、遺伝子そのものが弱り、あげくは人類という種の衰退的終焉を意味することになってしまうのである。

なお、ここで一つ注意すべきことは、女の「認めてもらえない不快感」は「女のくせに・女だてらに」と散々言われて育てられることによる後天的なものであり(私にこれに起因する情緒がまったくと言って良いほど無いのはこのためだ。私はかように言われたことはおろか、「男のくせに」とかすら言われること無く育ったのである)、このためにその不快感は男の先天的な「寂しさ」とは異なり「悔しさ」という別な形を取る、ということだ。前者は男を自己改善へと向かわしめるが、後者はもともと「認めないこと」が不条理の相であるために、「自分が悪いので無く相手が悪い」と女をして思わしめる要因となっている(これはさらに、相手が動かし難いほど巨大であったりする場合は、「自分の女に生まれたことが悪い」と見なされ、いずれにせよ「世の中はどうしようも無いことばかり」という諦観へと至ることになる。とまれ、この精神傾向は男の場合と異なり自己改善へと向かわしめることは非常に難しいのであれば、早々に改められることが求められる「女の良くない育て方」だと言えるだろう)。特に夫婦において、夫が社会的に認められない場合、まさしく以上の男女差によって、そのような状況に対し男はへこむ(寂しがる)一方で女はその尻を叩きまくる(悔しがる)というかなり芳しくない状態になってしまうという1つの普遍的とも言える現象において、この「認められないことへの性差」の好例とすることができよう(ちなみに、男が悔しがる場合は、誰が見ても明らかに自分より劣る相手に見下される時である(と推定される)。妻に尻を叩かれることはまさしくこれに相当するのであれば、実はそれは両者にとって非常に危険な状況なのだ、とすら言えるものなのだ(これによる悲劇を回避する方法は、夫が、あるいは夫妻ともが、かような夫婦間の不和が性差に起因するどうにもし難い相互反応なのである、と見定めることであろう))。

もう一つ、これも言及されておかれるべきだろう。私がこれらの原理に気づくまで、宮崎作品を初めエヴァンゲリオンやウテナ等男の手による作品にその系のベクトルが(一旦気づけば)非常にあからさまに描かれているにも関わらずまったく気づかなかったことからも分かるように、他の男女の圧倒的大部分においても、異性作品に伏在するかような逆ベクトルの原理に気づいていない可能性が極めて高い。その場合、それらの作品は、作者においてもっとも肝心なそれらのベクトル、すなわち肝要のテーマ自体は見過ごされて、かような重いテーマは持たない、気軽に享受できる純粋な娯楽作品である、と受け止められることになる(さらにおそらく、今の私のようにそのことに気づいてもなお、実際に享受している間は同様にしか感じられない可能性が高い。上の方で触れたように、異性の作品は「個々のエピソードのつながりの必然性が見えない」ために享受者の分析的思考を抑制する効果が強くある、つまりは「本能レベルにおいて幻惑的・魅惑的」だからである(ちなみに、「千と千尋」中に嘔吐の描写があることは私は見終わって思い返す時に初めて気づいた(新聞である男の人がさらに排泄の描写もあるようなことを書いていたが、私にはそちらは今なおまったく思い出せない。私が見ていてリアルタイムに気になったのは、時々千尋の扱われ方が乱暴過ぎるように感じたことぐらいだ(特に、窓から落ちて転がる場面。宮崎監督は「実際には不可能なことを実現する」ことにアニメの存在意義がある、という思想の持ち主なので、この乱暴さもまた「本当は不可能なのだけど」でもそれだからこそあえてそのように描いた、と言うことであろうとは思うが。ただ、このせいもあって、私にはどうにも千尋がジムシィと被って仕方なく、またこのために前半の彼女の少女らしい仕草がどうにも嘘くさく見えて仕方なかったことも参考のために書き留めておきたい。なおちなみに、後半の千尋はそうしたいかにも少女らしい仕草はまったくしていないが、この後半の千尋はただ決意するだけでどんな問題をもたちどころに解決してしまう「スーパーガール」として描かれているので、この変化は「少女の成長」の意味にはならない、つまり、「千と千尋」は少女の成長物語として受け取るにはあまりにも途中の飛躍が有り過ぎかつまた飛躍後の到達レベルがあまりにも高過ぎる(少年の成長物語で言えば、たった一度の試練を克服しただけで万能パワーを手に入れてしまったようなもの、あるいはRPGで言えば最初の敵を1匹倒しただけでいきなり最高レベルまで成長してしまうようなものだ。これではむしろ逆に「少女が夢の世界へ引きこもる話」ですらある、もしあくまで少女の成長物語として把握しようとするならば、だが)))。だが、以上の解析からさらに見れば、カオナシのそのむしろ豪快・痛快ですらある嘔吐(彼のそれはカエルを飲んだことに由来する代理的なもので、そのカエルの吐き出しとともに「吐く者」への対応は消える)は、「ハクの嘔吐」という主テーマを包む「照れ隠し」ではないか、と今は推定される))。

さらにもう一つ、どうやらこれも気づかれざる誤解が根強く広まっているようだが、女における「自分のいるべき場所」とは出来合いのパラダイスでも自分がいることが許される場所でも無い(この2つは男が女のそれについて類推する場合に陥りやすい最も典型的な誤解である)。それは精密に言えば「自分という存在が有意味で在れる場所」であり、いわば「自分にとってのささやかなパラダイスを構築するための余地(空き地、Room)」なのである。出来合いのパラダイスは「押し付けられた他者のそれ」であって、それがより優れたものであればあるほど、むしろ逆に「自らの貢献できる余地」が減ってしまうのでよろしく無い。また、「空き地」とはしばしば世間からも世界からも見捨てられた場所なのであれば、逆に「認めてもらえることの放棄」が「自分のための空き地を捜索・形成するためのより良い過程的方法論」として重視されることにもなるわけである。これを理解する一助として、上で述べた女の「寂しさとしての不安」は「今ここに対する不安」であって将来もしくは目の届かないはるかな遠くを対象あるいは原因とする不安では無い、ということにも触れておこう(私の観察する限りでは男たちの表明する不安はすべて後者に属するようだが、今なお引き続き観察中であって断言はできない)。つまり、女たちは今ここが自分のいるべき場所か否かは直観的に判定できるが、否であった場合にではそれを将来または目の届かないはるか遠くに在る目標として設定できる(男はこれが可能)のかと言えば答えは「NO」である、と言うことだ。そうした遠い目標にはそれが不安をもたらすものか否かという直観的判定ができないからである。不安が空間属性すなわち五感の受動態(個々に分かれて周囲の空間属性を短時間に広範囲に認識する五感の働き)に関わるものであるのに対し、焦りは運動属性すなわち五感の能動態(1つのベクトルに統合化された(そのベクトルを達成するために部品化された)五感の働き)に関わるものである、という分析も以上を理解する一助となろう。

併せて「焦り」の性差も記しておけば、男の焦りは未来形(失敗が目標達成を不可能にするのではないかという恐れ)、女の焦りは過去形(自分は間違ったことをしてしまったのではないかという恐れ)であり、後者は過去に為された言動の現在状況への影響と言うことなのだから、結局はそれは「状況把握の不備への気づき」であって、男の不安が突き詰めれば「焦り」へと収束できるのと同様に、女の焦りもまた突き詰めればやはり「不安」へと収束される。もう少し分かり易く書けば、男は目標さえ達成できれば過程の失敗は気にしないが、女は過程で重大な過失が無ければ目標達成の是非は気にしない。間違えやすいが典型的な例でもある男の完璧主義は「間違いの無いこと」を「目標」とすることであって「自分に間違いが無い」のならTPOに合わなくても気にしないが、女の過去形な焦りは「TPOを把握し損なうこと」によって生じる不安であって、TPO自体が明らかに間違いを引き起こす類いのものであれば(例えばTPOの把握という点でまったく無意味なほどに衒学的な知識の要請等)それによって自分が間違えても気にしない、という点で両者は異なる。つまり、「自分は間違ったことをしてしまったのではないか」という女の不安原因はより精密に書けば「自分は『状況に対して』間違ったことをしてしまったのではないか」というものであって、完璧主義な男の「自分は『自己の理念や(完璧であるという)自己定義に対して』間違ったことをしてしまったのではないか」とは異なることに注意されたい(この紛らわしさのために、男はしばしば女を「完璧主義者」と誤認して批判するようだが、それは性差への無知による典型的な誤認例であって、ゆえにそれに応じた男の方法論によって女のその「完璧主義」を直すことはおろか、期待される反発的応答等(男の完璧主義者の典型的反発例等)すらも得られないであろうことが原理的に明白となるのである)。

いずれにせよ、重要なことは女の不安・男の焦りは顕在意識的因果を超越して本能レベルで生じるものなので、普通人はそれが何に対するどんな不安・焦りであるのか言葉(を始めとして意識的に利用され得るすべての表現手段)で説明はできない、と言うことだ。それらが言葉等で説明できると言うことは顕在意識が無意識を完全に把握していると言うことになるが、その場合は無意識はより効果的な通路を利用できるのだから、あえて顕在意識を動かすために朧なしかし即座には癒し難い不安や焦りを引き起こす必要自体が無くなるからである。従って、逆に、その不安・焦りが何に対するどんなものであるか説明できるのであれば、それは本能的なものでは無く後天的なものであると考えられるべきである(思うに、より本能的な不安・焦りから一時的に目を逸らすための代償行為だろう。水を飲む夢を見ても渇きを癒すことはできないように、そうした代償行為をどれだけ積み重ねてもその本源的なものが癒されることは無いことからもそれが代償行為であるか否かは判定できるものと思う)。

現状と以上の分析との「表面的差異」の克服は普通の人々には困難かも知れないので、やはり詳説しておいた方が良いのかもしれない。「まだ華の間に存分に楽しまねば」という女たちの「焦り」は、「女は幼いほど良い」という男たちのより本源的な「焦り」を代償したものに過ぎない(男たちがその「焦り」に直面できない(それを自分たち自身の「焦り」として把握できない)のに対し、女たちが平然と直面できることこそが逆に、女たちにとってはそうした「焦り」は周辺的・瑣末的なものに過ぎないのだ、ということを示していることに注意しよう。女たちのすべてがこの「焦り」を代償しているわけでは無いことがそれを証している)。これは必然的に、女たちにとってはより耐え難い「不安」を男たちが代償するギブ&テイクの関係を要請し、もしこの要請が果たされねば女たちは裏切られたように感じて彼女らの「女の義務」を放棄し社会は崩壊するだろう。そもそも、「幼いほど良い」という発想は、母性崇拝から必然的に引き出される「幼児礼賛」が、男の子たちの「なぜ母は父より自分を選ぶか」の根拠付けとなっているからで、「幼く在りたい」ことへの男たちの「焦り」はそもそもそこに淵源している。つまり、これは実はより本質的には「父を受け入れられない・父のようになりたくない」ことへの焦り(遅かれ早かれいずれは自分も父のようになることへの焦り)なのだ(母性崇拝的状況で、女たちがより幼く在りたいと思うことはしかし「母となることへの否定」であり、矛盾する;ここからもその「焦り」が女たちに本来的なものでは無く、男たちのそれの代償であることが分かるわけだ。ちなみに、現状の男たちの「運命」への直面の拒否も同じ「焦り」に由来するものだと見なせる)。だから、もし男たちが女たちにとってより本来的なその「耐え難き不安」を代償するのでなければ、あるいはそもそも代償出来ないならば(現状を見るとこちらの可能性の方が高いようだが(「焦り」から逃げ出した男たちは逃げ癖がついてか「不安」からもまた逃げようとキョドっているように見える))、男たちはその自らに淵源する「焦り」に(「母に見捨てられること」への恐怖に;男たちがこの恐怖を克服できないことは、母の子育て失敗を意味し、すなわち母性への容赦無き冒涜である−−この構造が必ず生じてしまうために、今や「(宗教と化した)母性崇拝」は社会を破滅へと導く「邪教」であると断ずることができよう;「父性崇拝」の方がその結果においてはまだはるかにマシである(なぜ前者が必ず失敗し後者がそうならないか、も、突き詰めれば男の自己肯定性と女の自己否定性という先天的・本能的性差にその解を求めることができる))「勇気を持って」直面しなければならない。

同性愛者の体験談等を男のそれも女のそれも等しく目を通すことは普通の人には期待し得ないのであれば、それについては私が書いておくべきであろうとおもう(ただし、私の場合女の同性愛のそれは男のそれよりはるかに少ない。にも関わらず「等しく目を通した」と言い得るのは、男のそれについては多く目を通しているがために、女のそれに一般する男のそれとの相違点は一読しただけですぐに気づけるようになっている、と思われるからだ)。

女の同性愛は「理念的」であり「露悪的もしくは偽悪的」であり、相手には「精神的に異質な者」を選ぶ。「自分は女しか愛せない」とか「男という人種はどうしても好きになれない」という前提から出発するのが「理念的」と言うことだ。男のそれでは「たまたま自分が好きになったのが男だった」という形で「自分は男しか愛せない」とか「女は好きになれない」とかの自覚が得られるのは、女のそれがむしろ思春期の初期にこそその傾向が特に強いのに対し、おそらくに中年を過ぎてから、つまり世間的な女とつがうべきであるという強制性が消えてからである。男のそれは常に「自分はいけないことをしているのではないか」と言う疑義的不安がつきまとうが、女のそれにはこの傾向はまったく無く、むしろ「自分は悪である」ことを自他に示すことをこそ喜びとすらする。これら2つの傾向は、女のそれは明らかに「非本能的であるがために極端化された自己肯定」に由来し(さらに突き詰めればこれは自己否定性のバリエーションであることが分かる)、一方男のそれは「本能的であるがためにTPOを配慮する自己肯定」に由来していることは言わずもがなだ。女のそれでは相手に「自分と精神的に異質な者」を選び、さらに恋愛過程を通じてその「異質さ」をさらに際立たせようとするが、男のそれでは「自分と精神的に同質な者」を選び、さらに恋愛過程を通じてその「同質さ」をさらに高めようとする。こちらの傾向は、「友情」の性差がそのまま延長された形である。

このように、根源的性差は「同性愛」という男女の境界が曖昧になると一般的に考えられている領域でも、むしろなおさらにくっきりと現れている。

さて以上を原理的かつ判定基準的にまとめれば、「男は自分の心を自身としその体を最も身近なペット(のようなもの)とみなす」のに対し、「女は自分の体はおろかその心をも『自身を超越した(自分の思い通りにならない)最初の他者』とみなす」のである、ということに帰結できよう。この相違は脳の性差およびその脳への性ホルモンの働き方に根拠づけることができ、かつ「労働」と「子育て」とへの分化を本能レベルで根拠付ける(各々により有用な世界観である)ものなのでもあるから、少なくとも理論的には「例外はあり得ない」であろうと推定できる(事実、これらは性転換(切望)者の言動にも見出すことができ、またある性の者が創作する異性にも普遍的に見出すことができる(男の描く女は本質的には上の男型世界観を持ち、女の描く男も同じく上の女型の世界観を持つ、と仮定して分析すれば、それらにおける現実の女や男との(時にひどく微妙なしかしいずれであれ決定的な)違和感の由来が明白となる)ものである)。

さらに、以上を証左するために、性転換志向者の言動を分析してみよう。一般に、元は男で女になることを志向する者は「女を装い」、逆に元は女で男になることを志向する者は「男に成り切る」という差異が明白に見られる。このことは、前者が常に「実際の女以上の最高の女」たらんと志向するのに対し、後者が「とにもかくにも男のはしくれ」の位置で満足し、決して「最高の男」を目指そうとしないことでいとも簡単に証明される:「装い」は交換可能であるがゆえに優劣が自ずと生じ、一方「成り切り」は交換不可能であるがゆえにそこに優劣という発想は生じ得ないわけだ。これはまた、男脳の不断の選択志向と女脳の一途な自己投入性とに如実に呼応する現象であり、つまりは本能的性差のいかんともしがたい発現である。つまり、少なくともそのような在り方の性転換志向者たちは、他ならぬそれによって、自らが本来の性に属する者以外の何者でも無いことを図らずも自ら証明してしまうのである。

では、「女のはしくれ」に成れさえすれば良いと願う男、「最高の男」を目指す女、は、そもそも可能なのだろうか。否、だ。前者は不断の選択志向の停止を意味するが、そうなると「女になる」という選択への志向そのものが失われてしまうし、後者は逆に不断の選択志向の会得を意味するが、そうなると今度は「スタート地点の最悪さ」ゆえに、あえてそこから最高の男を目指すよりは、むしろこのままより良き女となる選択への志向がどうしても最大化してしまうからだ。つまり、非常に逆説的だが、真に異性の心を持つ者は、それが在り得たとしても、決して異性化を志向することは無い。またそこから逆に、「男のはしくれ」で満足する男・「最高の女」を目指す女、は、その心が異性化してしまっている可能性が高い(おそらく実際には、それらは自己防衛的擬態(この方法論自体は男的である)か、誰か他の人によって設置された目標を一途に追求している(こちらは女的)か、のいずれかのケースであろうと思われるけれども。ちなみここからまたさらに逆に、「普通」の、つまり各性に本来的な傾向は、男は「最高の男」を志向し、一方女は「女のはしくれ」であれさえすれば満足する、形であろうことが導き出される;最高の(あるいは超越的に特異な;この形態は「普通」者を無視する有り様で割り出せる)男と最高の女との英雄譚は少年マンガに普遍的に見られる形であるし、はしくれな(あるいは平均以下的特殊さから平均的普通さを目指す;こちらは「普通」者への劣等感が目印である)女とはしくれな男との色恋話も同様に少女マンガに普遍的に見られる形なのだから、この推定は少なくとも概要的には間違ってはいないと思う(ちなみに各々、逆の有り様はギャグとしてのみ導入される形がやはり普通に確認できる。逆に言えば、真摯で無い、男の「自嘲的に男のはしくれである」こと(「普通」にならんとする意欲の無さ)、女の「コミカルに最高の女である」こと(可愛い「最高」さ)、は他ならぬこのギャグのケースであり、真の意味での異性化では無い。なお、これらにおける、「自嘲的」はそれが環境的・運命的な必然性による「やむを得ざる一時的態度」に過ぎないことを、「可愛さ」は偶然の結果を演出することでやはりそれが「本来の意図とは異なる有り様」に過ぎないことを、各々ひそかに主張することで本能的志向とのコンフリクトを回避しているわけであるが、それがまた同時に「責任転嫁」でもあることには注意されねばならない。つまり、この方向の「異性化」は、問題の発生に対し、男においては「全部まわりのせいであって自分は悪く無い」という逃げ、女においても「最高さに伴う責任の忌避」というやはり逃げを、各々用意してしまうのであれば、これは本人はもちろん周囲にとっても非常に危険な「麻薬的異性化」である、という点で、ギャグ以上の乱用は避けられるべきものである、と私は思う))。

ともあれ、以上から明らかなように、性転換を志向することは、実はむしろ本来の性の究極化に他ならず、言い換えるならば、その方法では決して「完全に異性化したい」という願望はかなえられない;彼ら彼女らにできるのは、残りの人生をひたすら「装い」続けるかあるいはひたすら「成り切り」続けるか、だけであって、それではむしろ、普通の男女に可能な「異性へのさらなる理解」に対し目を閉ざし続けることにしかならない。つまり、結局、性転換を志向することは、自己の世界からリアルな異性性を徹底的に排除することであり、逆に言えば、むしろそれこそが本来の「無意識的動機」ではないか、とも私は思う。

かような「リアルな異性性の徹底的排除」が動機される最大の原因は、おそらくに「完全人格性」への強迫的切望であろう、と言うのは、そこにおいて、リアルな異性性は「人格の不完全さ」を如実に指し示してしまうからである。そしてこの切望を引き起こす最大の要因は、おそらくに「法と道徳の混同」であろう。つまり、この問題を解決する勘所は、「法的人格性」における完全さ(その権威の源泉)とは何か、という探求と、それを通じてのより適切で普遍的な再定義、にこそあろう、と私は思う。 衣服の性差

衣服の機能的目的の第1は体温調節であり、第2は身体保護である。特に危険な労働の減少した現在の衣服にあっては、前者の比率が極めて大きい。また、衣服の形態的ヴァリエーションを制約する最大の要因は「身体各部の動きやすさ」である。

体温調節の仕方は男女でまったく異なる。これは、男の筋肉が瞬発力、すなわち瞬間的・爆発的熱燃焼に特化されているのに対し、女の筋肉は持続的・浸透的熱燃焼に特化されているからである。これは根本的に言えば腹筋・大胸筋の動き方の差であり、簡単に言えば男は吸う時に腹筋を一気に縮め、吐く時は腹筋が元に戻る慣性だけを使うのに対し、女は吸う時も吐く時も大胸筋の持続的運動をともに用いる。これによる酸素の提供のされ方の違いが、全身の筋肉におよんでいるのであれば、この筋肉の性差、すなわち体温調節の性差もまた先天的なものだと言えよう。

以上を体温調節に限定して簡単に言い換えれば、「男の筋肉は熱しやすく冷めやすく、女の筋肉は熱しにくく冷めにくい」ということだ。従って、男は全体の筋肉間の調整だけで体温調節ができるが、女の場合は特別な方法が必要になる。女は、例外的に熱しやすく冷めやすい(すなわち血管と神経が特に集中している)胸(大胸筋)と女陰部(括約筋)(さらには子宮等内性器)における発熱と放熱を全身に浸透させることで体温調節を行っているのだ。この時、既に述べた板状の腹筋により、これらの熱伝導の経路はその腹筋部の上端であるみぞおち(胸骨下)で身内に一度潜り、下端である恥骨部で再び身体表面に現れる、という特殊なものとなる(子宮内の胎児の適切な成長のためにも、その部位すなわち腹部で発熱と放熱が展開されることは好ましくないわけだ(身体的化学変化は一定の温度を要する))。

かようなわけで、まさしくその部位を保護しつつ体温調節をより最適化するブラジャーとパンティー(ショーツ。全体的にぴっちりと包むような気密型のパンツ)の発明は、女性史における画期なのであった。これ以前は、女陰部の熱交換を最適化するには床すれすれまでのロングドレスで外気との直接的接触を断つしか無く、また同じく胸部も帯などでしっかりと巻き止めるしか無く、同時に、女に固有の「姿勢矯正」のためにも、女の衣服のヴァリエーションは著しい制約を受けざるを得なかったのである。

「姿勢矯正」はここで触れておこう。女は、一切の姿勢矯正をされずに育った場合は、バランス的理由から骨盤が前傾し肋骨部は後傾することで腹と首が突き出る姿勢になってしまう。腹筋を強化できないためだが、この姿勢は内臓が子宮を圧迫するのでよろしく無い。そこで、胸部下半分から腹部上半分にかけてコルセット的衣服で背骨を真っ直ぐ支えることで骨盤の前傾を防ぐとともに、袖を大きく重くして(腕輪等でも良い)肋骨部の後傾を防ぎ、かつ頭頂に重い物を載せることで(髪の結いでも良い)首の前傾を防ぐ、という措置が成長期の女にあっては(あるいはあまり運動しなければそれ以降も)必要になる(フェミニズムはこれらを「女の移動の自由を奪う衣服」と決めつけたが、実際にはむしろそれらは「女がより健康であるための衣服」である。現代人がいきなり昔のこうした衣服を着ると重くて身動きが取れないが、昔の女たちは幼時から日々これらを着ていたのであれば、「じきに慣れて」しまってそれらに応じた筋肉もつくのであれば、それらを着ていても特に重いとか動きづらいとか感じることなくかなり自由に動き回れたはずなのだ)。以上のことをたった1つの衣服で可能とするもう1つの女性史に画期的な発明、それがハイヒールである(実は、悪名高い纏足も同じ「意義」を持つ)。すなわち、ブラジャーとパンティーとハイヒールこそは、女の衣服のヴァリエーションを無限大に押し広げるとともに、「男女の同権化」をも推し進めた「女の三種の神器」なのだ(さらにもう1つ加えるならば、タイツあるいはタイツ型のパンストであろう)。

なお、ハイヒールに関しては現在悪評の方が高いが、それは「成長期以前から履き慣れていない」ためだ。女は元々、ハイヒール無しの裸足でも、あたかもハイヒールを履いているかのような爪先歩きができるようにできている(歩行の振動を胎児および内臓へと伝えさせないためだろう。男は歩行時の脚の付け根延長が斜めに交差しつつ外側へ逃げることとへそまわりのウエストによる遮断により、思いきりかかと歩きでも歩行時のショックが内臓に及ばないようにできている)。ところが、現在は成人前は平底の靴を履かせるために、多くの女たちが「かかとで歩く」癖をつけてしまっているのだ。ハイヒールは元々が「かかとで歩く」ためには作られていないのだから、そんな女たちにとってハイヒールが履きづらいのは当然のことである(彼女たちにとって昔の衣服は重過ぎて身動きが取れなくなるのとまったく同じ道理だ)。なお、現在主流の繊細で壊れやすい細いヒールは、「重さ」をできる限り削ぎ落とした結果なわけだが、これも「成長期以前から履き慣れるようにする」ならば、男の革靴のようなごつく重いヒールでも平気なはずだ(実際、例えば西部開拓期の少女たちや赤毛のアンの少女たちの靴は、ヒールのごつく重いショートブーツ型のハイヒールである)。

女においてズボンよりもスカート型の方が適切であること、あるいはズボン型でも「女に特化されたもの」が良いこと、およびシャツよりもブラウスの方が良いこと、は「身体各部の動きやすさ」の理由に拠る(呼吸の仕方の性差の衣服への影響は考えなくても明らかなのでここでは触れない)。

スカートであるべき理由は、女はへそ回りがほとんど曲がらない代わりに股関節が骨盤前部に対して極めて鋭角に曲がるために、この背側、すなわち尻から腿あたりの「屈伸時の伸び」が男よりはるかに大きいことに拠る(ちなみに、男はへそ回りの背側がもっとも伸びが著しい)。女に特化されたズボンも、このあたり(腰から腿にかけて)だけを限定して見れば、形態等において「スカート的」になっている。それともう1つ、女の歩行時は股関節が「回転する」ので、よし女に特化されたズボンでも、股関節あたりの劣化が激しいのであれば、服の持ち、という観点から見てもスカートの方がより良い(女は一般に(男物の固いジーンズ等をはいた時は特に)股関節まわりでズボンが擦り切れるはずだ(少なくとも私はそうだ)。男はといえば、膝が(女の股関節ほどでは無いが)回転するために膝まわりが擦り切れやすい)。

シャツとブラウスの違いは裾の長さと肩まわりである。男のシャツの裾が股間に達するほど長いのは、ズボンとの接触面を最大にすることでシャツを「固着」させるためである。この「固着」作用により、身体運動時にシャツにかかる負担はすべて肩から首まわりのゆとりで処理されることになる。男の運動時には肩部がまるごと傾くために、身体の伸びる部分の反対側に大きなゆとりが生じるわけである。一方、女は肩部は部分的にしか動かない一方で腰部が大きく回転するので、裾が腰部までかかっていると回転の支点である女のウエスト位置に大きな「引っ張られるねじれ」が生じてしまう。このために、ブラウスの裾はへそまで行くか行かないかというほどに短い。

肩まわりに関して、女は前へ腕を突き出す時肩は下がり、この腕を上へ上げるほどこの肩の下がりは大きくなる。すなわち「腕が伸びる」。ブラウスは袖の肩部を肩の方へとさらに食い込ませているために(つまり、袖の付け根ラインが、男物は縦真っ直ぐなのと異なり斜めになっている)かような状況では肩背中側の布を継ぎ当てることでこの「腕の伸び」に対応しているわけだが、男のシャツはそんなことはまったく関知せずに腕と肩とをくっきり分けてしまっているので、女が男物のシャツを着るとそうした場合に「袖口が肩の方へと引き寄せられる(ずり上がる)」現象に遭遇することになる。横水平に腕を上げた時はこうした現象は生じないが、後ろへと腕を上げた場合は今度は肩も上がるので「腕が縮む」、すなわち男物のシャツでは今度は逆に袖口が余ることになる(ブラウスなら、袖上部の肩へと食い込んでいる部分が肩の上がりを引き受けてこの余りを解消する)。どうと言う差では無いように思えるかもしれないが、腕を前へ伸ばすたびに袖口がずり上がりいちいち直さねばならないのは、特に何か仕事等(普通で言う仕事に限らず、掃除等も含む)をしている場合は「非能率的」過ぎるものだ。ボトム用衣服ほどではないにしろ、精神衛生的には女はやはり(男物の)シャツでは無くブラウスの方がより適切なわけである。

着物では女が左前、男が右前、西洋服では女が右前、男が左前だが、まず女の場合は「子に乳を与えた後でとりあえず的に素早く乳房をしまえる」必要性から、布地が堅くまた余裕も多目に取ってあるので引っ張るだけで隠せる着物では左前、一方布地が柔らかくまた余裕もあまり取っていない西洋服では右の下に挟み隠すために右前、ということだ;以上のことが成立するのは「子に乳を与えるのにもっぱら左の乳房を使う」場合、すなわち「抱きかかえる子の頭が自分の左肩の方へと来る」場合に限るが、実際にそれが最も普遍的な子の抱き方、乳の与え方である(利き手は問わない)。一方着物で男が右前なのは左にある刀を抜くに際し左前では右手が誤ってふところに入ってしまう恐れがあるから、西洋服で男が左前なのは右前だとマスケット銃の弾込めに不便だったからである(マスケット銃は銃口から弾を込める火縄銃でライフルの祖。基本的に右手指で引き金を引くので左手で銃身下部を支え持つ。弾込めをするには銃を自分の方へと引き寄せ立てる必要があるが、この時シャツが右前だと銃の後部等がシャツ内部へと入ってしまってもたつくことになる)。

これら以外の衣服も、すべて以上の応用として理解すれば良い。ようするに、男女の衣服差は、ほぼすべて先天的性差に機能的に特化されたものであって、いわゆる「ジェンダー」等の後天的(空想的・決めつけ的)理由による差は(華やかな飾りの有無等(ただし、「飾り」もそのうちのいくつかは体温調節的理由にこそ由来するものもあるが))ごくわずかなものに過ぎないのである。

ふと思いついて以下のテストをしてみた。

*サイクリングマシンの時速18km前後(ちなみにペダルは最も重くしているので脚の回転自体はそんなに速くは無い)/10分における衣服の影響

衣服の種類

脈拍

男的

130

女的

120

スク水

140

男的衣服は、長袖シャツとトランクスだけ(暑いのと、ペダルに絡まるのでズボンは脱ぐ)。女的衣服は、女パンツおよびブラ(相当物)とミニで袖無しなワンピース(相当物。ちなみに、衣類用語でミニ(スカート)は太もも上下中間ぐらいの長さを言い、普通男が言うようなミニ(股間ぎりぎり、太もも上1/3あたりのもの)はマイクロミニ等と言う。ここでは前者の方)。スク水はいわゆるスクール水着。なお、むろん、体調や実行時における違い等はあるが(各々別な日の不特定な時間(大抵夜遅め)に試行)、基本的には大体普段は男的衣類で130程度なので、大雑把には無視して良いと思う(ちなみに、そのマシンの脈拍表示自体がかなりアバウトなものだが、これらの試行相互の関係自体には影響は無いと思う。つまり、絶対値としてのこれらの脈拍は変でも、どの試行がどの試行より脈が速くなったか・遅くなったか、自体はそれなりに適切に表し得ているものと信ずる)。

脈が速くなれば、それだけ体は熱くなりまた呼吸も荒く大きくなる。この時、体熱の逃げが不十分で内部へこもると、肺内部の空気も熱せられて密度が希薄になり、その分呼吸(より多くの酸素を取り込むため)と脈(より多くの酸素を体中に配送するため)も大きくなる。従って、上の表の脈拍の衣服差はそれらの衣類の保温性および体温調節の方法論的差異の表れである、と見なすことができるわけだ。

スク水が一番暑いのは、それが「冷たい水で体が冷えないようにする」配慮を持つための当然の結果であろう(ちなみにこのことは、ワンピース型よりビキニ型の方がその明らかに高い放熱性を埋め合わせるための一層の発熱運動ゆえにより疲れやすいだろうことを示唆する(簡単に言えば、ビキニ型の方が体が冷えやすい、と言うことだ))。男的衣服と女的衣服では長袖・袖無しの違いはあるが、しかしむしろ私自身の実感としては、「男的の方が胸の谷間がより熱くなる」ことの方がはるかに大きな差である。これは、ブラによる谷間の放熱の乳房部(からさらに背部)の熱との平衡化が無いために男的では胸の谷間が冷えやすく、これを補うためにその部位の発熱運動がより大になっていることを示唆する現象だ。

ところで、女においては尻の谷間もまた胸の谷間と同様な放熱個所であることが既に把握されているが、この差異(トランクスと女パンツ)は「太ももの疲れ方の違い」として現れているようだ。すなわち、明らかに女パンツ(およびスク水)よりトランクスの方が太ももが疲労しやすい。これは、サドルに座る状態ではトランクスはいわゆる「はみケツ」を完全に塞ぐ形でカバーしてしまうために熱が太ももにこもりやすく、逆に女パンツはその「はみケツ」がブラにおける胸の谷間と乳房部とに類似する熱の平衡化を達成し得るがために太ももに必要以上の熱がこもらない、ということによるものと推定される。

実はこの現象の把握によって、ブルマーがスパッツより優れていることが明かされるのだ。すなわち、基本的に「はみケツ」せずむしろ尻を全方向的に圧縮的に締めるスパッツでは、尻の谷間の放熱はそのまま内部にこもって上昇し、ひいては肺の熱をより高くする作用があるのである。「だから」、スパッツは特にエアロビクスで愛用されるのだ。と言うのは、エアロビクスは有酸素運動なので、呼吸の荒さ・息苦しさが運動達成感の指標なわけだが、ブルマーや素のレオタードに比べ、スパッツの方がより速く体熱を上げて肺の空気を希薄化し呼吸と脈拍を大きくする作用がより大なので、エアロビクスに限っては運動達成感をより得やすいのである。むろん、これの欠点は、筋肉系が十分な運動を得るより前に呼吸が荒くなるので、結果として筋肉自体への運動効果はより低くなる、というものだが、美容、という目的に限って言えば体熱の上昇で全身の血行を短時間で良くしながらも筋肉自体はマッチョなほどには鍛えないという点ではむしろブルマー等の「はみケツ」系よりはスパッツの方が優れるとも言えよう。だが、言うまでもなく、筋力の上昇こそが第1の目的である一般的な運動においては、「息があがりやすい」という点でスパッツ(等「非・はみケツ」系)よりもブルマー(等「はみケツ」系)の方がより適切であることは疑いようがあるまい(なお、以上の議論は当然ながら男には当てはまらない。と言うのは男においては胴部の放熱個所は胸の谷間と尻の谷間に限定されず、むしろ逆にこれらの部位は基本的には「閉ざされている」からである(骨の冷却に直結するので不必要に胴内部が冷えやすいからであろう。あるいは、男の中年太りすなわち内臓脂肪太りは、それらの個所の筋肉の衰えによる閉ざしの弛みの結果としての内臓の慢性的冷えに由来するものなのかもしれない(女の方(更年期以降の内臓脂肪型太り)は筋力の衰えとエストロゲンによる脂肪化の停止で全身的な脂肪保温機能が低下するためであろう)))。

人工的性転換が体温調節能力をも転換するものでは無い以上、それによって特異な影響が生じることはおそらくに避け難い。その影響を精密に検討するならば、

男>女の場合:男の大胸筋は積極的放熱部位では無い、すなわち血管の集中度は高くないので、そこへの乳房の人工的形成は、その乳房を常に冷えたものとする可能性が高い。つまり、胸部から熱がもれやすくなる。また、男根および精巣という能動的放熱部位をすべて削除して女陰という閉じた形態にしてしまうことは、腰部の放熱性が著しく損なわれて熱がこもりやすくなることを意味する。

女>男の場合:乳房を取ってしまうことで大胸筋が外気により直接的に触れることになるので、この部位の放熱性が非常に高くなる。一方、人工の男根は積極的な血液の集中をもたらすものでは無いので、ちょうど男に人工の乳房をつけた場合と同じくこの部位は常に冷えたものとなる可能性が高く、逆に女陰が完全に閉ざされてしまうので、結果、その部位の熱気は逃げ場を失ってその多くが胸部へと向かうことになる(ちなみに、私においてはこちらの諸特徴が如実に現れている。男根的肥大化陰核は血液の集中による膨張こそ可能だが、それでようやくに普通の体温と同レベルで、非勃起時は明白に冷えてしまう)。

以上が具体的にどう現れるかは、体温調節は相互バランス的作用なのでその割り出しは非常に難しい。が、少なくとも1つ確かなのは、以上の変化が本来の体温調節機能に対し非常に大きな負担となるであろうことである(この結果、服装に関しての制約が普通の男女よりも大きくなることもまた確かだ)。 男の女に対する性的視線について

脳の性差により、男の本能欲は片脳を占拠する形で自己主張・自己顕示をできるけれども、女の本能欲は個々の欲が左右に等しく分かれて、自らに対等なるものと相互分析・批判する形で相殺されてしまう。これを防ぐために、女においては本能欲はタブー等の禁忌が無くても常に自らを仮装隠匿して脳の分析・批判機能を巧みにすり抜ける。つまり、女は自身の肉体の欲するところを暗喩、すなわち「嘘の理由」によってしか知り得ないし、また理解できないのである(このために、歌や俳句等象徴的イメージや語を駆使する表現では、女の表現は「本能欲(特に性欲)の発露」にまったくに無防備になる。つまり、自分ではまったく気づかずに「淫猥文学」を展開してしまうのだ(ただし、だからと言って別に男を誘っているわけでは無い。それは肉体的というよりは精神的な快感で、同じ「快」であるために、「本能欲(肉体)>無意識>意識」の象徴経路のうち「無意識>意識」の部分が無自覚に再利用されているだけである。つまり、そこに描かれているのは具体的・即物的性行為では無く、抽象化・高尚化された「意義」としての神話的性行為だ)。なお、男は自己決定による行為ですら性行為に罪悪感を感じるが、女はそれが自己決定による行為なら性行為に罪悪感はまったく感じない。男における性行為後の不快な虚脱感が女には無いためではないかと思う(女は性行為後は穏やかな幸福感、春の陽だまりで日光浴しているかのようなほんわかした感じになる。男に比べ体温が下がりにくいからであろう))。女が自らの本能的欲求に疎いのに対し、むしろ男が自身の本能的欲求の対象として女の本能的欲求に対しても鋭いのはこのためだ。

男の本能にとって喜ぶべき女は「健全に子を産み育てられる女」であって、男はそういう女であればあるほど性意欲を感じ、また、身近にいるのがそういう女で無ければ積極的に彼女をそんな女に変えることに本能的意義を感じる。従って、明らかに不健康であることが明白である、つまりは男の欲望が倒錯・混乱している場合を除けば、男の女に対する本能的欲求(つまりは性欲の嗜好性)にあえて従うことは、女をより肉体的にも精神的にも健康にする最短距離である可能性がかなり高い。

ただし、精神的、と言っても肉体と直接連携する無意識までのことで、女では無意識は上記したように男よりも対意識顕示性がはるかに低いので、女の意識にとっては男のそうした言動は意味不明なものとしてしか把握されず、従ってあまりに直接で露骨な発露は誤解されて女の心を傷つけてしまう可能性がある(心が傷つく、というのは、せっかく無意識が巧妙に形成していた本能欲の「脱出路」が意識の検閲に気づかれて壊されてしまうことを言う。こうなると無意識が別経路を形成するための意識下模索を通じて、それが完成するまでは女の心はかなり不安定になる)。

なお、「恥ずかしさ」は、その恥ずかしさを感じる部位の発熱・放熱を阻止することで心身の特に体温調節機能の平衡性を取り戻そうとする本能的運動であって、普通心身の十分な準備がなされていない時に生じる(女がパンチラを可とする場合と不可とする場合があるのはこの理由で理解できる。つまり、自分のパンチラが相手にどう見えているか事前に把握されていればそれは許容され、逆にどう見えているか不明ならそれは強い不安とともに著しい恥ずかしさを引き起こす(この場合、恥ずかしさはその不安を平衡化するための機能である)。パンチラ以外の、例えば山姥ルック等でも事情は同じで、相手にどう見えているのか事前に把握されていさえすれば女はそれをいとも簡単にすることができ、逆にどう見えているのか不明ならば強い不安とそれを補償するための著しい恥ずかしさを感じてそれをすることは非常に困難になる)。と言うのは、心身の十分な準備がなされていない時の意図されざる発熱・放熱は、その部位の内部を逆に冷やしてしまうからである(失敗して恥ずかしい、と言うのは、逆に、内部が冷えてあわてて皮膚表面の発熱でそれを補う、むしろ特殊な例だ)。従って、恥ずかしさの訴えは以上の過程の遂行中における重要なフィードバックとして、特に男は女のそれを軽んじて考えてはならない(ただし、女は性交時に頭部内はむしろ冷える(血流が減る)のだが、これによる赤面を恥ずかしさと本人が勘違いしてしまうことが結構に多いので紛らわしい)。 兄弟姉妹と性差

姉と弟では、弟において「男らしくあること=自身の女であることの否定=姉のような人間(女)にならないようにする」という連想で、弟が男らしさを目指す限りは姉には冷淡(見下し状態)であるのが基本形と推定される。一方兄と妹では、妹における女の本来的自己否定から、「女の自己否定性=男への肯定性=兄を見習う」で、妹は一般的にはその兄に対しては「あたかも弟のように振舞う」、すなわち「兄から見て色気ゼロ」となるのが基本形と推定される。これらは、近親相姦を避けるための本能による絶妙な先天的設定と思われ、そして姉の延長線上に母を、兄の延長線上に父を配置することがそのために可能である。

母が息子を男として(敬)愛するのはその息子の男ゆえの自己肯定性を助長する健全な(より本来的な)在り様であり、逆に教育ママとして息子をおのが意のままに成らしめようとするのは「母のような人間にする」意味から逆にその息子の男であることを否定する意味になってしまい、彼はこれを解決するために「見下し」をさらに「哀れみ」にまで高めねばならないことを迫られる(母性崇拝はこの「哀れみ」の極まった形であると考えて良い)。

一方、父が娘を女として愛するのは、彼女の「父を見習ってあたかも息子のように在る」ことの否定であり、こちらの方はおそらくにその女自身では解決できないので、「母による妨害的介入」が無意識的に必然化され、彼女はいわば「本来あるべき父」に自らをなぞらえてその妻たる母とともに「そうでない父」を圧迫することになる(父の「汚物化」は従って、男(あるべき父と化した娘)にとって他者たる男(そうでない父)はいかなる存在か、という社会一般の理念を踏襲したものであって、実は母は娘のこの父への態度を模倣しているに過ぎない、つまり、世間一般で考えられている「母が父を毛嫌いする>娘がそれを見習う」という順序は状況過程の誤読である(世間一般における「男にとって他者たる男は汚物的に扱われねばならない」という態度が父の汚物化の根本原因だ)。なお、以上から、父の娘に対する健全な在り方は、「息子で無くて残念」という思いをその言動の隅々から発しつつ「とりあえずの息子代理」として娘に接するのがそれであろうと思われる)。

姉にとって、女として弟を愛することは、おのれ自身の父等に対して息子的であろうとすることを否定し女であることの肯定になってしまうので面白くない。そこで、なお兄的に振舞いつつもおのれの兄としての不完全さを強く自覚することになる。一方、兄が妹を弟として認めてしまうと、妹の方に今度は「男であることへの自己否定」が生じ、女であるがゆえの弟としての不完全さを強く自覚させることになる(私自身において生じたのはおそらくにこそ最後のケースであろう)。

異性を含まない姉妹は不完全な兄と不完全な弟の組み合わせだが、この場合は相手のより女であることを強く感じることでおのれ自身の自己否定は充足されるので、互いに相手のさらなる女らしさを無意識的に要求し合うことになる(異性を含まない兄弟にはかような微妙さは無いのでその解析は省略する。いずれ、異性を含まない兄弟姉妹は「同性の友人(からさらに同性の親)との関係」の基調として参照することが可能だ)。

以上のことは例えば兄弟姉妹で一方の性が多過ぎる場合にも発生し得るが、その場合の表出される組み合わせは複雑であり、それは個別に分析判断されるべきものであろうと思う。

これまでの心理学では親子関係が基本で兄弟姉妹関係はそのバリエーションのようなものとされて来たわけだが、以上を見る限り、むしろ兄弟姉妹関係を基本とし親子関係はその特殊形とした方がはるかに簡潔で分かり易く、かつ問題解決のための示唆に富むことが明らかなわけで、また同時に以上は「男は本来的に自己肯定的」「女は本来的に自己否定的」とする性差学理論の威力を示すものとも言えるだろう。だが、後者に関して、世間一般的特に男たちの間にあっては、なお深刻な誤解があるように思われるので、これまで述べたこととも一部重複するだろうが、改めて念を押しておきたい。

男において自己否定性はどうあっても不快で不満足なものであるようだ(求道的自己否定は「より良き自己肯定のために過渡的に自己否定的に在る」ことなのでむしろ自己肯定性に属するベクトルであり、女の自己否定性とはまったくに異なる)。こう言うのは、女においては逆に自己否定性こそが快であり満足だからである(この典型は子供により多くの食事を与え母は少量のみを分け頂く、というごく普通に見られる母子関係の中に如実に現れており、すなわち本能的なものである(男なら普通はきっちり半分ずつ分けて「少ないがお互い様だ、いっしょに飢えを我慢しよう」と言うところではないかと思う))。女において、男のような自己肯定とは世間からの明白な逸脱であり、それは非常な不安をもたらすものであって、自己否定性の主体的選択こそがこの不安を解消し「安らぎ」を与える。男の描く女の自己否定はどうしても悲劇的悲しみを帯びてしまうようだが、それはあくまで男側の気持ちであって、それを悲しみとし結局女も自己肯定性を得ればもっと幸せになれるだろうとするのは「女というものを理解しない男の理屈」に過ぎない(実際には女に自己肯定性を実践させると必ず「思い込んだあげくの暴走」に相成る;より本来的な自己否定性の全面的否定、という相を経ねばならないことでストッパーが完全に失われるからだ。ちなみにこの弊害は、暴走時もけっこう迷惑であろうが、それよりもかような暴走状態が止まった際の本人における非常に強い喪失感にこそある。また、男における女的自己否定の実践も、やはり同様の理由で極端化したあげく、本来状態に戻るために代償的な現実存在の喪失が非常に強く要求されてしまう、という弊害がやはりある(思うに、現在の若者の短絡的犯罪の多くはこの因に拠るところが大きいのではないかと思う)。元々心理学では男女(に限らず、禁忌的(無意識的なもので社会的それと一致するとは限らない;社会的禁忌を破ることには心理的弊害はあまり無いが(まったく無いわけでは無い)、無意識的すなわち本能的禁忌を破ることはここで述べているように非常に危険である)区分けがされている領域)の境界を超えることは精神崩壊(すなわち廃人化)の可能性を含む非常に危険なものとされているので、実践するにおいてはくれぐれも慎重に、微速前進でゆっくりと咀嚼しつつ会得し、少しでも危険が感じられたら(他でも触れたが、昂揚的万能感は精神崩壊の前兆である可能性が極めて高い;これは非常に明白に無意識に対するストッパーが弱体化して(つまりは意識自体の管理能力が疲労等により極端に低下して)本来無意識内で処理されるはずのエネルギーが消化不良もしくは生のまま意識内へと侵食しつつあることを示す事態だからだ(理論的に考えてもその体験は必ず続く重い喪失感とペアになることは明白なので、そこまで至る前に象徴的スイッチ(女装・男装の儀式化もこの機能を果たし得る)を設置して自発的に中断すべきであり、この設置等の仕方(これは魔法等の神秘学に詳しく、学的心理学では普通扱わない)を知らない場合は「絶対的魔境である」と銘じて絶対に近づかずもしなりかけてもそれとの自己同一化だけは絶対的に拒否しつつ即脱出すべきである)。これは一見好意的・利得的に見えてしまうので、特に注意を要する)即中断してしばらくは様子を見るにとどめるべきであろう(いずれ、「おのれを超えたる存在への畏怖」の無さがかように不注意に無意識世界に踏み込んでしまう根本的原因なので、これが克服されない限りはそれを試みる人々は後を断たないであろうけれども(ちなみにそうした宗教的習慣を身につけていれば、昂揚的万能感等も「神の恩寵」等としてそれとの自己同一化という最悪の事態だけは避けることが可能だ;喪失感の方はそれだけでは避けられないけれども。それと、ドラッグはいざという時に意識による制御ができなくなる可能性が高いので、儀式化等に完全に封じた形(使い始めと使い終わりに非日常的所作等を行ってそれがハレの時場でのみ可能なものでありケすなわち日常とは完全に異質なものであることを使用毎に厳密に定義付ける。こうすることで、日常的意識の時にそれへの連想が不用意に意識内に侵入することを遮断することがより容易になる(この遮断を完全化するには強い意志力が必要だが、それを持っている人は逆にドラッグ等を含む神秘現象に頼むことはあまり無いであろう。だから、そうした人による無意識調査等の特別かつ非利己的な目的下での遂行でも無い限りは、儀式化されても安全とは言い切れないのであまり多用すべきでは無い))で使えない場合は使われるべきでは無い;ちなみに無論のこと、こちらもそれだけでは喪失感を避けることは無理だ(それと、ドラッグの方は脳の神経接続酵素の分泌異常をはじめ肉体自体にも良くない影響があるので(こちらによる廃人化は脳自体が変質してしまっている可能性が高いのでその治療はことさらに困難である)、できればそれ無しの方が良いことは言うまでも無い。無論、最良はそれらに頼ろうとするおのれの心の弱さに気づきそれをこそ改善することだ(非日常的体験の多用は例えドラッグによるもので無くても脳に化学的に悪影響を与えるであろうことは当然の理屈である)))))。

もう1つ、男の成長とは自己肯定性を主軸に部分的自己否定性を少しずつ(「納得」という了解を経て)組み込んでいくことなわけだが、女の成長とは逆に、自己否定性を主軸に部分的自己肯定性を少しずつ組み込んでいく過程である(前者はアニマを「調教」する過程として得られ、後者は外在的ルールをアニムスとして内在化していく過程で得られる。特に前者において、一見女に対する冒涜以外の何物でも無い暴力的エロマンガがむしろ男たちには必要である、と私が主張する所以である(女においても、そこにおける男をアニムスと見なすことでそれを有意義に利用できなくはない))。だから、幼児期には男は限り無く自己肯定的であり、逆に女は限り無く自己否定的である(もちろん私は後者であった、と言うか、私自身の成長過程を振り返ることでこの理論は会得された;なおただし、私の場合はいくつかの特殊な要因により、普通の女たちより部分的自己肯定性の会得がはるかに緩慢かつ不十分になっている可能性がある)。そして逆に、老年期は男はかなり自己否定的になり、女は自己肯定的になる(前者を「丸くなった」「角が取れた」、後者を「恥知らずになった」と言うのは周知の通り。なお無論のこと、事ここに至ってもなお本質的にはやはり男は自己肯定的であり女は自己否定的である)。異性化志望者は、残念ながらこの点で特に、本来の性の人々の進展とは逆ベクトルになってしまうことに注意されたい(だから、年を取るにつれ男であることが窮屈になって来たとか、まわりの女たちがどんどん恥知らずになってわけがわからなくなった、と不安に思うことは無い;かような進展はむしろ自然のものであって、元来異性化志望者はその目指す本来の異性者たちとは進展・進化・成長のベクトルが逆であったことがあらわになったに過ぎないからだ。逆に、これから異性化を志望する人々は、将来的にはその目指す異性者たちとずれが生じてしまうことをあらかじめ考慮しておこう(まわりに合わせておのれの理念をずらすか、あるいはおのれの理念を貫いて「かくあるべき異性」像を最後まで体現し貫くか、は個々人の自由であろうと思う))。

なお、最近しばしば「女は気まぐれ」という言葉をよく耳にするが、これは一面的で不完全な理解だ。正確には、「男が一貫性を期待する領域で女は一貫性を持たない」と理解するのが正しい(この逆も然り、「女が一貫性を期待する領域で男は一貫性を持たない」ことに注意しよう;ちなみに男の言う領域とは「対自己信頼性」のことで、女の言う領域とは「対他者信頼性」のことである。ただ、後者が愛情に関連する領域であることは私には分かるが、前者がより具体的にどういう領域を指すのかは私には分からない(それは少なくとも、女が「一貫的であらねばならない」価値を持つ領域では無く、むしろ「それに対して適時微調整的におのれを変えて行くことこそがそれに対するより誠実な態度」を取るべき領域なのだろうと思う(ただ単純に「女にとって一貫的であらねばならないほどの価値を見出せない」領域なのだとも思えるが)))。(男たちのこれに対する疑義のための)例証的には、マザー・テレサ等に見られる一貫性をあげれば十分であろう。

もう1つ、男女キャラを創作する際(と私の言動を理解する際等)に大雑把な指針となるような対応を見つけたのでここに書き足しておこう。男は自分において楽観的だが他者において悲観的であり、逆に女は自分において悲観的だが他者において楽観的である(またこの時、自分において楽観的で在れない場合に男は焦りや苛立ちを感じ、逆に女は自分において悲観的で在れない場合に不安や迷いを感じる)。これらは上までで検討されてきたような原理的対応(分析して行けば必ず現れる本質的対応(男の創作における男女キャラに男型へと収斂できる言動が現れ、女の創作における男女キャラに同様に女型へと収斂できる言動が現れる、と言うこと))かどうかはなお観察を要するが、少なくとも男の自己肯定性、女の自己否定性から自ずと導き出されるものではあり、その理論的基盤自体は堅牢なものではある。

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