情報価値論
希少性に基づく投機的価値の他に、情報はその普及において「労働者の時間を増大する」という永続的価値がある。情報が非対称である間は、その投機性ゆえに、情報は隠匿され、それによる利益を手放さないために、情報間の弁証法的運動は生じない (情報経済学の対象領域)。情報が一般に普及すること、すなわち非対称性を喪失して初めて、その情報をもってさらなる情報へ至らんとする「情報の資本化」が生じる。この「情報主義」社会では、非対称性の喪失ゆえに万人に「資本としての情報の運用」が可能となり、階級格差は生じない。代わりに生じるのは、無限の懐疑という「自己不信」すなわち新たな形の「自己疎外」である。それから逃れるために、相互承認の集団が形成される。相互承認が相互監視へと転じるのは「希少性の回復と独占」を目指してのことではあるが、そのとき情報は資本であることを止め、集団内カーストとして「具現」する、すなわち物質化する。
労働価値説を「時間の利潤価値化」へと突き詰めるならば、生成された情報の消費もまた、「時間の繰り込み」ゆえに「労働」と化す。すなわち現代は、情報の生成という労働と情報の消費という労働より成り立ち、前者はその困難さゆえに少数であり、後者はその容易さゆえに多数である。
時間価値は、「時間を忘れる」すなわち忘時のときに最善化する。忘時に達するには、享楽の限りを尽くすやり方と、修行的に耐え忍ぶやり方の二通りがある。前者は気力体力という限界があるので、後者の方が時間価値の蓄積には有意義である。資本主義の初期における労働のあり方は、忘時に達するまで単調作業を繰り返させるものであって、後者ではあったけれども、気力体力の限界ぎりぎりまで遂行させる、という前者を基準としたものでもあったので、労働者の気力体力を死に至るまで著しく削ぎ尽くすものであった。
価値とは、突き詰めれば「エントロピー減少の状態」すなわち情報の偏りではあるが、それ自体はむしろその状態を含む系全体のエントロピーをその分だけ増大させる、すなわちそれ以外の情報の普遍化を引き起こす。剰余価値はゆえに、系全体の再帰回路化 (仕組み化という普遍化) に用いることで、その入力における持続性を得る。これが、時間価値の蓄積とその資本としての回転という事態である。
現状から省みれば、唯物史観の正しい解釈は「革命」では無く「相互浸透」であって、すなわちブルジョアとプロレタリアートが相互に浸透し合い「労働者即消費者」すなわち「情報労働者」という単一階級へと昇華され、上に見るように新たな弁証法的対立は情報生成者と情報消費者とのそれとしてそこでは現れる。石炭とラジオの時代にはなお情報鎖国が可能であったが、石油とテレビの時代にはもはや情報鎖国は不可能となり、おのが支配の継続を目論む「元」ブルジョア階級は虚偽情報の流布をもって「仮想鎖国」化を指向するが、それが結果するのは「部分的時代遅れ」化であり、そこでは時間の価値は希薄化され、ついには経済的貧困化へと至る。