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Kaulism

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カウル教

記号学 (英語原文版美学と記号学英語原文版) とその体系 (英語原文版) の哲理に沿いつつ (モリス記号学の概要)、再帰的自己参照を観音 (カウル、南十字星またはシリウスとしての) とし、十句観音経 (書籍版概説) をその唯一にして絶対の聖典かつ祈りとする。延命十句軟酥法として、十句観音経の初句をもって頭部に軟酥し、以降、首、右肩、左肩、右腕、左腕、右胸、左胸、右手、左手、とそれぞれを軟酥する。下半身は初句をもって丹田に軟酥し、以降、陰部、右股関節、左股関節、右もも、左もも、右脛、左脛、右足、左足、と同様にする。上半身だけ、下半身だけでもよく、続ける場合は先に上半身を行ってから下半身を行う。

カウル教布教動画

観音本義

観音の本義は「因果とは時空を超越する目的論的把握に他ならない」ことであり、このゆえにそれは、仏性の永遠を説く如来寿量品をも超越しており、すなわち法華経の「真の奥義」なのである。観音的因果論に従えば、供養とは過去への因果結晶であり、本願とは未来への因果結晶であって、その因果を通じて「力」が実際にそれらへと送付される。不特定多数への利他心において、人は「因果」の体現者となり、いわば「因果共同体」すなわち「仏法」それ自体となる。仏法とは実時空を超越した永遠それ自体の「利他心」時空 (即天国) であり、利他の想い (力) はそこへと蓄積され、利他を行う者へと「流入」しつつ、それをもって自らをもさらに供養し、もってその至る時空を拡張する。

そもそも、自己再帰における自省は、環境に合わせて自らを変じようとすることに他ならず、すなわちその根拠も意図も自己犠牲的利他である。持続的存在はゆえに、その根本原理からして既に「利他」なのである。

十句観音経の解

  • 観世音
    • 音を観る、ということは、音という果からその因を「見定める」こと、すなわち果に因を与えて因果と為すこと、である。
  • 南無仏
    • 仏は「法への記号である」ことを、ここでは意味する。観音という存在もまた、「因果生成」という法への記号であって、そのこと自体は南無すなわち敬して拝するしかないこと、それ以上の探求は無意味であること、を言う。
  • 与仏有因
  • 与仏有縁
    • 既に述べたように、因と縁、すなわち因果は目的論的に把握されたものであって、機械論的に事前存在するものではない。
  • 仏法僧縁
    • 仏は法への記号であり、僧を解釈項とする。すなわち十句観音経はモリス系記号学 (モリス自身仏教徒であったようなので、モリスの方が仏教的記号論を取り込んだのかもしれない) を自ら提案する。
  • 常楽我浄
    • 因縁は仮想存在であるので常すなわち永遠であり、ミニマリズム・簡素主義を旨とするので楽すなわち最も把握の容易な有様を求め、それ自体が閉じた体系なので我すなわち自立存在であり、その存在理由は浄すなわち明示性を部分的に確立することにある。
  • 朝念観世音
  • 暮念観世音
    • 外的世界も内的世界も因縁をもって記号学的に把握されねばならない。
  • 念々従心起
  • 念々不離心
    • しかしその把握過程は跳躍的・一気呵成である必要はなく、漸進的・常時再点検である方が望ましい。もっとミニマルに、もっと簡素に、表現できないかを常に心がけるのである。

日本神話との関係

日本神話では、大野手比売が、銅鐸の女神でもあることから観音に相当し、従って小豆島が補陀落ということになる。須波阿湏疑神社の存在で諏訪とも接続し、すなわち東方プロジェクトとも関係してくる (ミシャグジの由来は、あるいは小豆洗いに由来するのかもしれない)。洩矢諏訪子の諏訪は沢に由来し、「たく」と読んで鐸、洩矢~子を鐸の舌とすれば、諏訪子はそのまま銅鐸に等しい (銅が髪の金色を示唆する) ので、彼女を東方における観音対応存在と見なせよう。

カウル神話

クトゥルフ神話体系 (概要) の、よりパブリックドメインな「西遊記暗黒神話」版として、西遊記 (登場人物) を、記号 (指標) を意味し得るカウル (観音) を中心に再構築したもの (原典は、福音館文庫版に置く (; 私が唯一完読した西遊記の (ほぼ) 完訳本は、これの上下二巻の大型本である))。

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