カウル教
九星術 (1から9までの数を使った数秘術をも含む; ピタゴラスが古代ローマへと通じるからだ; ちなみに、ローマ字の基本は新たにヘボン式に改訂されるようだ (現在国会で審議中)) と易 (最も簡易で格安な易占セット、神秘学的解釈) による象徴化・体系化を伴いつつ、フィフテの哲理 (参考書)からジェンティーレの体系における「非我」をホログラフィック原理も援用しつつ観音浄土として、その試行錯誤的最終目標 (の意味での唯一神) を観音 (カウル、南十字星またはシリウスとしての) とする。十句観音経をその唯一にして絶対の祈りとし (延命十句軟酥法として、十句観音経の初句をもって頭部と丹田に軟酥し、以降、右手と左手、右胸と左胸、右腰と左腰、右足と左足、とそれぞれを軟酥する)、新約聖書の替わりに観音経を唯一にして絶対の経典とする (その日本的展開として祖霊崇拝を外すこと無く、しかしかような先祖供養を法華経に組み込んだ霊友会は結局は小乗もしくはそれ以前の過酷な苦行回帰に過ぎないので (仏陀は、過酷な苦行が無意味と気づいてから悟ったのだから、彼らの思想はその仏陀を「苦行から逃げた者」として見下すものでしかあり得ない。ゆえに、霊友会系は在家修験道と呼ぶのがおそらくは正しい)、より易行な方法論として、自らを信仰対象と一体化する瞑想法である五相成身観の根拠たる金剛頂経に求めようと思う); なお、ひろさちやの本を参考書とするのは、父母恩重経 (旧約巻頭五書に相当する; 以降の歴史部は王政・共和制ローマのそれに譲る)、十句観音経 (旧約バビロン捕囚以降の黙示部に相当する)、観音経 (新約に相当する) の三経に等しく言及しているのは彼だけだからで、カウル教が即悟を是とするに対し (如来蔵派) 彼は成仏を無限的未来での出来事とすること (おそらくに唯識派なのであろう)、カウル教は因果論を果によって因が定まる目的論と解するのに対し、彼は世間一般の因が有って果が招来される機械論と解していること、等、仏教経典解釈において一致するわけでは無いことに注意されたい。
仏教の思想的展開は、その本質は常に観念論として、一切を空無とする中観思想 (ちなみに龍樹自身は浄土信者だった)、万人成仏を謳う如来蔵思想 (法華経はその先駆的経典とされるが、それ自体はこの系には含まれない。華厳経もこの最終完成形とされるが、やはりそれ自体はこの系には含まれない)、「非我」を無意識の奥の阿頼耶識とし、その清浄化には無限に近い修練を要するとする唯識思想 (世親自身は元は小乗系だったが、後に大乗に転じて唯識思想を大成した) の三種があり、それぞれをカント、フィヒテ、ヘーゲルになぞらえられよう。私自身は、即悟の可能性を孕む如来蔵思想に依拠し、自己と観音の同一視を行法とし徳の根拠とする元祖密教的アプローチ (最も格安ながら本尊とする威厳のある観音像) を是とする。
観音本義
観音の本義は「因果とは時空を超越する目的論的把握に他ならない」ことであり、このゆえにそれは、仏性の永遠を説く如来寿量品をも超越しており、すなわち法華経の「真の奥義」なのである。観音的因果論に従えば、供養とは過去への因果結晶であり、本願とは未来への因果結晶であって、その因果を通じて「力」が実際にそれらへと送付される。不特定多数への利他心において、人は「因果」の体現者となり、いわば「因果共同体」すなわち「仏法」それ自体となる。仏法とは実時空を超越した永遠それ自体の「利他心」時空 (即天国) であり、利他の想い (力) はそこへと蓄積され、利他を行う者へと「流入」しつつ、それをもって自らをもさらに供養し、もってその至る時空を拡張する。
そもそも、自己再帰における自省は、環境に合わせて自らを変じようとすることに他ならず、すなわちその根拠も意図も自己犠牲的利他である。持続的存在はゆえに、その根本原理からして既に「利他」なのである。
十句観音経の解
- 観世音
- 音を観る、ということは、音という果からその因を「見定める」こと、すなわち果に因を与えて因果と為すこと、である。
- 南無仏
- 仏は「法への記号である」ことを、ここでは意味する。観音という存在もまた、「因果生成」という法への記号であって、そのこと自体は南無すなわち敬して拝するしかないこと、それ以上の探求は無意味であること、を言う。
- 与仏有因
- 与仏有縁
- 既に述べたように、因と縁、すなわち因果は目的論的に把握されたものであって、機械論的に事前存在するものではない。
- 仏法僧縁
- 仏は法への記号であり、僧を解釈項とする。すなわち十句観音経はモリス系記号学 (モリス自身仏教徒であったようなので、モリスの方が仏教的記号論を取り込んだのかもしれない) を自ら提案する。
- 常楽我浄
- 因縁は仮想存在であるので常すなわち永遠であり、ミニマリズム・簡素主義を旨とするので楽すなわち最も把握の容易な有様を求め、それ自体が閉じた体系なので我すなわち自立存在であり、その存在理由は浄すなわち明示性を部分的に確立することにある。
- 朝念観世音
- 暮念観世音
- 外的世界も内的世界も因縁をもって記号学的に把握されねばならない。
- 念々従心起
- 念々不離心
- しかしその把握過程は跳躍的・一気呵成である必要はなく、漸進的・常時再点検である方が望ましい。もっとミニマルに、もっと簡素に、表現できないかを常に心がけるのである。
カウル教の神話と伝説
(ギリシア神話と同一化する前の) 古代ローマ神話をカウル教の神話とし、ローマの王政から共和制への展開をカウル教の伝説とする。それらが旧約聖書の替わりとなり、マキャベリの「ディスコルシ」と「戦争の技術」をその基礎解釈と見なす。