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leba

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過去

  • 幼時、家にあった太平洋戦史 (おそらくは偕成社版、全6巻中最後の2巻は無し) や分冊版日本史 (途中で購読を止めたらしく、原始から飛鳥時代までのみ) で風土記的な和風景に馴染む。初めて自分用に買ってもらった本は、私自身の強い要望で古事記物語。小学館の学習図鑑シリーズ (こんな感じのもの; 写真では無く手描きの精密なパノラマ絵が分かりやすくて、現在の写真系よりも未だこの系の方が好きだ) もほぼ全ジャンルあって、中でも昆虫の図鑑のアリが大好きで、近所のアリを見つけては様々な実験に付き合ってもらっていた (挙げ句、後に「節足動物の生物学」を入手したが、まだ未読ではある; ウェーベルンが植物の生態や構造に作曲のヒントを得ていたように、私は昆虫の生態や構造をシステムモデルとしようと思っている)。
  • 物心ついた頃から乗り物酔いが激しく、駅でも停車場でも2つまでがほぼ限界なので、徒歩と自転車で行ける範囲がそのまま私の世界のすべてだった (社会科見学は、嘔吐の苦しみと恥ずかしさと必ず引き換えだった。ただし、一度嘔吐してしまえば、安易に飲み食いしない限りは乗り物酔いも収まる。外の空気に触れると生じない場合がほとんどなので、船で酔ったことは無い)。さらに、尿意も2時間以上は保たせ難く、安全のため学校では授業間の小休み時間ごとにトイレにいかないといけないので、なおさらに私のリアル世界は狭い (いずれも、未だ改善しないので私のリアル世界は狭いままである)。
  • 幼時 (幼稚園では無く、団地有志による幼児の会に通った) にはよく、好きな男の子を誘って狭い密室的な空間に二人だけでこもる、という遊びをしては一人悦に入っていた。しかし本命はいつも大学生くらいの「青年」で、態度で愛着を示しては結果的にフラれる、失恋常習犯であり、そのたびに同世代の男の子に慰められる、ということを飽きもせず延々と繰り返していたように思う。
  • 男の子への躾は、女の本能には刺さらない。それで私は、躾られない野生の女として育ってしまったように思う。

  • 小学校へ上がる際に、男女代表的子どもたちの合議で、私は女側になるべきだ、ということになり、まあお試し的な感じで少女グループに2年間所属したのだけれども、「まったくときめかない」という理由で小3からはやっぱり少年グループ側へ自主的に戻ることにした。物心ついたときから既に兄二人と部屋を共有し寝るときも兄二人に挟まれて寝ていた (ただし常に布団を頭からすっぽり被っていて、直視は避けていた。母に裸を見られても何とも思わないが、父だと見られている可能性すらを恥ずかしがるのが私である) 私にとって、男っ気が皆無な状況は、静かで落ち着いてはいるが物足りないことしきりなのである (近くに男が居ると細胞レベルでときめくのが自分でも分かる)。
  • 少女グループに居た間に、私自身から提案したのは、特に親しい女の子との全力シーソーだった。地面を全力で蹴ることで、かなり激しくガッコンガッコン地面に当たり、一通り終えるとお互いスッキリと気持ちいい、というものだ。少年グループに戻った際にいの一番に男の子を誘ってやったら、しかし最初の一撃でその子が尾てい骨を押さえてもんどり打って痛がったので、内心おおげさだなあとは思いつつも謝り、男の子は嫌がる遊びなのだと得心して、もうそれ以降はこの遊びはしていない。
  • 新しいクラスに入って最初にすることは、ボス的少年を目ざとく見つけ、その女房的ナンバー2のポジションを確保することだった。基本的に男の子には無条件に甘く可愛がる方なので、他の男の子たちとボス的な子との仲介的役割を自認していた。
  • 自分から女と主張することはまったく無かったけれども、同じクラスになって半年もすれば、男の子たちの私への応対が女に対するそれになっていたので、無意識レベルで私が本質的には女なのだと得心していたのだろう、と思う。
  • どれだけ仲の良い友だちでも、許せない行為を一度でもすれば「永久絶交」で、もはや自分から話しかけることはもちろん、相手から話しかけられてもフンとそっぽを向いて相手しない私なのであった (とは言え、そんな相手は今まで一人しかいないけれども)。
  • 小学校低学年までは母が手直しして服が私に合うようにしてくれたけれども (もっぱら、ズボンの前開きを下方に付け直してくれた)、中学年以降は既製服のまま着るようになった。女の体は筋肉で熱調整しない代わりに胸骨部分と股間部分の体内熱放出をもって体熱維持の源泉とし、ゆえにそれらをしっかり覆う衣服によって熱の全身分散を補佐する必要があって、私も同様だったらしく、それらへの配慮の無い男の子用既製服では熱が放散しっぱなしで、一杯遊んで運動して健康体なのに、疲れやすくまた季節の変わり目ごとに風邪を引きやすかった。
  • 男の子用半ズボン (当時はホットパンツ的なもの) は、私の股関節が90度よりも鋭角に曲がるために、裾がいつの間にかずり上がっては「パン2◯見え」と男の子にからかわれて恥じらいつつ慌てて裾を直す、ということを繰り返していた (女用のそれ的なものは、一度だけ母がこっそり買ってきて「え、これぴったりじゃん!」と喜んでいたら「それ女の子用よ」と意地悪く言われてムッとして「女の子用なんて二度とはかないから!」とそれだけに終わったけれども、少なくとも男の子用に比べてはるかに伸縮性があったようには感じた)。
  • 小学時代、兄よりビートルズのレコードをもらい受け、てんとう虫プレーヤーで聴きまくり。熱烈な英国派に (ただし英語がいくらかでも分かるようになるのは高校時代の頃)。
  • カーペンターズ、ディラン、S&G、ABBA、クイーン等も兄から聴かせてもらうも、小学時代はビートルズ崇拝変わらず。
  • 生来の苛烈なる自己否定と嫉妬と憎悪に満ちた母への反感は、小学低学年時代が終わる頃にはその徹底が過ぎて燃え尽きてしまい、以降母とは腐れ縁の戦友的関係、自己否定は極まった挙句以降を死に損ないの余生と観じることとなる。
  • 小3の頃、錆びた折り畳み式ボンナイフをタンスに見つけ、ここまで錆びていれば手を切ることはなかろうと思って、玄関近くに生えていた小学生程度の高さのヤツデを切って遊んでいたところ、切りにくさについ力が入ったあげく、自分の小指を太さの1/3ほどまで切り込んでしまった。ドクドクと流血が止まらず、「これは死ぬ!」と恐怖して一生懸命血を吸いながら台所に駆け込んで洗うも流血は一向に止まらず、ワンワン泣きながらどうしようもなくて足をドスドス踏み鳴らしていると、騒ぎを聞きつけて2階北部屋暮らしの祖父が降りて来て、慌てず油紙でくるみさらに包帯を巻いて血は止まった。これが数年後に口裂け女事件として流布したのに気づいたのは、後に自分を巡るシンクロニシティに気づいてから、である。
  • 小4後半から小5前半にかけて、妙に小太りするとともに、精神的にもかなり不安定ではあった; 友達の男の子に急に言いがかり的口喧嘩を始めヒートアップした挙げ句ワンワン泣き出したり、とか。この時期を過ぎると小太りも自然解消した。代わりに体毛が伸び始めたが、私の体毛は、女では脂肪が蓄積される部位のうぶ毛が代わりそのまま伸びたもののようで、例えば足ではすねより太ももの特に背後側が盛大である。顔も目の下や首周りも伸びるのでシェーバーによる髭剃りが面倒だ (シェーバーの使い方も、男はシェーバー自体を動かすのに対し、私は両手でマイクのようにシェーバーを固定するように握って自身の頭の方を動かして剃る)。私の皮膚は雪見大福の大福の皮のように伸び縮みするので (未だこの伸縮は変わらない)、シェーバーの動きにつられて皮が伸びて髭が皮膚に埋もれてしまうので、それへの配慮と対処が必須である。
  • 小5後半にそのもんたよしのり的かすれ声からKNくんをとても可愛く感じるようになった。
  • 8ミリカメラをもう一人の兄と共同所有で買ってもらい、動画の作り方やアニメの作り方を研究。
  • 聖書物語を、新たなものを見つけ次第何種も読み漁る。また、家にあったジャポニカ百科事典の、特に西洋美術と日本美術の別冊をよく読む。ジャポニカ百科でエスペラントの存在を知り、強い興味を持つ。
  • 将棋クラブの友人の紹介で、日曜教会に数回行く。その帰り、「よくわかるマイコン入門 (趣味の技術入門)」とバトラーの「魔法入門」をゲット。その友人とは中学時代、何本もラジオドラマを作りテープに録音して楽しむようになる (自分は脚本担当で声はすべて友人が担当)。
  • 松田隆智の陳式太極拳老架式の本を発見即入手して独学で完習 (套路全式覚えたのはこれと形意拳だけで、弾腿、螳螂拳、八極拳、八卦掌、白鶴拳は拳風が分かる程度に断片的に習得しただけ)。

  • 中学時代、ビートルズをほぼコレクトしたので、クイーンとレッド・ツェッペリンのコレクトへシフト。
  • 最初は兄二人も入っていた柔道部に入ったけれども、自分よりも小さい子に見事な巴投げで一本取られてキャッキャと喜んでしまったので我ながら柔道を続けるのは無理だと思い、2年生は吹奏楽部に所属、最初はチューバだったけれども唾がドバドバ出るのでクラシックギター担当に替えてもらう。3年生はKISS大好きなグループがインド帰りのガンジー頭にレノン眼鏡の国語教師 (3学期に入る際に麻薬所持で逮捕、退職し以降はインドへ戻って行ったと噂に聞く) を顧問に軽音楽部を設立したので私もKNくんやピアノが得意な人とバンドを作ってギターで参加。
  • 兄からクラシックギターをもらい受け、左用に張り替え愛用 (その過程でブリッジを壊してしまい、そのままダウンチューニングで使用)。カルカッシを独学。
  • 母が買った一般家庭向け2オクターブ半ほどの音域のポリフォニックなミニミニ鍵盤キーボードを借りてバイエルも独学。
  • グレコのミニセミアコ (ES-335に似るがショートスケールでボディも一回り小さく薄いもの、時価五万以内の安物) を買ってもらい (これとピギーアンプの組み合わせは奇跡的に極めて良い音で鳴った)、小林克己のロックギター教室3巻制覇 (カールトンやリトナーあたりまで一応やったけれども、ジャズ系やフュージョン系は高踏的としてよくは思わなかった)。当時あったSONYだかの本でペンタを知り、徹底的に研究してペンタのアドリブならいくらでもできるようになる。なお、こうした過程から耳コピより圧倒的タブ譜派になり、ジョンジーのベースラインやベックのBlow By Blowの凄さ (ベックのフレージングはペンタ以外の何物でもない) も、タブ譜版が出て初めて気づいたほど。
  • 中2後半にラジニーシの本に出会い感動し、仏教や老荘思想の研究を始める。西洋哲学は、ソクラテスの弁明や饗宴はおもしろく読めたけれども、ヤスパースの哲学入門は最初の一行から意味不明だったので自分にはまだ早いと思い、東洋思想の研究に専念。
  • 作詞作曲は良い模範が無かったのでほぼ完全な独学。作曲の方はクラシックの作曲法を一通り独学するもロックへの接続路が見いだせず、ロック系の作曲は結局独学 (この過程で、自分には和声感覚がほぼ無いことに気づく (協和音程と不協和音程が程度の差ほどにしか感じない))。作詞も、作詩の本を読み漁って研究するも、作詞への接続路が見いだせず、ロック系の作詞は結局独学。なおこの過程で日本語自体に興味を持ち、ただしそちらは生成文法の日本語適用版習得あたりで満足する。
  • モーツァルトの交響曲40番のポケットスコアを入手し、第三楽章をMSXのBASICのMMLに入力してみたり (他に入手したポケットスコアはワーグナーのマイスタージンガー前奏曲)。MSXではMSX-CやアセンブラでFORTHやLispの移植を試みるも失敗。
  • ネットは、MSXのASCIIネットカートリッジ以来なので、界隈では最古参の部類だったりする。ネチケットや悪質者はテキストベースなBBS時代に散々目にして学習して来たので (壁に耳ありクロードチアリの時代だ; 現BIGLOBEの当時にクロード・チアリが管理人をする板があって、ちょっとでも怒らせるとすぐに出禁になる厳しさで有名だったのでこの諺パロが生まれた)、インターネット時代 (WWWはモザイクブラウザの頃から知っている) に移行しても特に問題は無い。MMOはUO第三期からと遅めだが、元々アクション系が苦手なためで、だからUOでも攻略本片手に「棍棒でハイド」を駆使できるようにして、ひっそり観光モードに専念してプレイしていた (極論すれば、モンスとのバトルも対人戦も元より興味も関心も無く、ただ「異界の風景」をいかに実装しているか、にのみ興味と関心があった)。
  • ちなみに、世界最初のHTMLブラウザはNeXT上のもので、NeXTのGUIはSmalltalkをOSレベルまで拡張したものであり、後のSTEP系として現MacのGUIにまで至る (NeXTのGUI、すなわちNeXTSTEPはObjective-Cを記述言語としており、登場時はモノクロ4階調ながら1120x832の精度で画面のように印刷できあるいは印刷されるように表示できる仕様だった)。私自身の最初のGUI体験はMSXのHALNOTEで、当時のMacと同レベルのGUIながら、まあ異様に遅かったので、あくまで参考用ではある (MacやWindowsの元になったパロアルト研究所のSmalltalkは、当時の動画がYouTube等で観れるが、モノクロとは言え存外速い、と言うかそのGUIが既にNeXTのそれに似ている)。
  • KNくんとは中2でまた同じクラスになり、運命を感じて他の男の子の友人からは距離を取り彼だけに構うようになったけれども、それを嫌がった彼に怒られてしまい、突然の意外なリアクションにびっくりしてワンワン大泣きしてしまったが、彼の困ったような「泣くなよ」に泣きながらもウンウンうなずいて、この事件以降泣かなくなった。私が泣くときは、クンダリーニから花火のようなものがヒュ~と背中を上がり脳でパーンと弾けてそれが涙となってあふれ出すのだが、その花火のようなものが二度と上がらなくなったのだ。
  • 身体の成長は中2頃以降変化せず、身長は他の高めの男子と同等なのに一人だけ幼児体型で、修学旅行の写真ではやたら目立つ。六頭身で、まわりの男の子たちに比べやたら胴長短足頭大で、にっこり笑った写真は口が大き過ぎて自分では「バケモノだ」と思ったけれども、まわりの男の子たちは可愛いと言ってくれたそのセンスがまったく理解できず、中には幾人かラブコールの態度を示す子もいたけれども、KNくん一筋だったのですべて無視した。
  • 軽音楽部でライブしたところ (中学レベルなのでまだ進行はグダグダ)、女の子の一人に刺さったらしく、その子と友だち二人が、帰り際に告白しそうなモーションをかましてきたが、私をネタに恋愛ごっこで遊んでいるようにしか見えなかったので、無視してさっさと帰宅した。その子はショックで大泣きしたらしく、その友だちの一人に後々まで恨まれるけれども、私は一切後悔していない (むしろ、相手の意向も問わず勝手に他人を巻き込んでのごっこ遊びは自他に良くない、ということにいつか気づいてほしい、と思っている)。

  • 高校時代、友人たちとバンドを作りドラムやベースも研究。前者はパラディドル本の発見と図書館で見かけた現代音楽の簡単な作り方の本 (音が出るなら何でどう出してもそれが音楽になる) で開眼、後者はZepのGood Times Bad Timesのジョンジーのベースラインに感銘を受ける。
  • 学校の図書室にあった世界の神話伝説、中国古典、仏教経典のシリーズを全制覇、ムーの記事を手掛かりに密教儀式や小周天気功および黄金の夜明け団系の魔術にもトライ、まあ周囲の気配の儀式による変化程度は感じ取れるぐらいにはなる (エノキアン儀式では、深宇宙の惑星を覗き見るがのような冷徹な気配が部屋に満ちるのを感じた。一方、さすがに歴史と伝統のゆえか、密教儀式では仏の守護かと思えるようなほど良く包み込むような暖かさを感じた)。あと、魔術的イメージング訓練の副産物として、ベートーヴェンの交響曲等の複雑な曲もそのまま「記憶」できるようになる (「記憶」をなぞりながら脳内再生しつつ主メロを鼻歌で歌えるようになる)。
  • 高校は男子校だったのだが、高3になるとまわりの男の子たちがみな急激に大人びて勝負ごとに本気に取り組むようになり、皆が私を超えて大きくまたは少なくとも立派なガタイと男らしい顔つきになったこともあって、初めて男というものに怖さを感じるようになった。

  • 大学時代、もっぱらドラマーとして軽音部に所属 (左利きの扇ぎ打ちだったのでセッティングに試行錯誤)、ステージ活動等も経験。
  • エスペラント四週間を発見、早速購入精読する。中国語・韓国語は、有声音・無声音の代わりに有気音・無気音を用いる発音システムにまったく馴染めず習得を断念、ゲール語はスペリングが難解過ぎて断念、ドイツ語はゲーテの野ばらを読める程度には独習、ロシア語は大学で週1時間の単位として一年間取るもそれ止まり。トルコ語とフィンランド語とアラビア語も少し齧った程度。Lingua Franca Novaを一通りマスターするとなぜかロマンス系諸語が何となく読めるようになったので、逆に本格的な習得はせず。

  • 翻訳者を志向し、英語の本格的な勉強を始める。5000から10000語程度の辞書を通読することで、かろうじて読みは困難なくできるまでに至る (一番最初に完読した英本は、Mac用のQuickBASICとSmalltalk/Vのマニュアルなのであった)。しかし働き過ぎで強迫神経症的なものになり、脳速度の半減で仕事にするには翻訳に時間がかかり過ぎることが判明、断念 (この症状はいまだ完治せず。私のミニマリズム志向は、半分はこのせい)。
  • 彗星が木星に墜ちた頃、シンクロニシティックな現象が自分の周囲に異様に多発していることに気づき、その解明のためにようやく重い腰を上げて西洋哲学や神学の研究を開始。

懐かしいアニメや特撮

  • かわいい魔女サブリナ (プレイリストは英語オリジナル版。日本では、テレビ東京で吹替版が放映されていた。「アーチーでなくちゃ!」のスピンオフで、これのさらなるスピンオフが「幽霊城のドボチョン一家」である; ドボチョン一家の日本語吹替版ではサブリナはミミーという名前に変えられている (英語オリジナル版ではサブリナのまま))。シュガー・シュガーが、私が思い出せる最も古い懐かしい曲。
  • 実写版ジャイアント・ロボが、私が全話思い出せる最も古い特撮番組である (何度も再放送していたので、私が観たのは本放送ではないかもしれないが)。
  • 日本製のアニメで、初めて熱心に初回から最終話まで追ったのは「魔法のマコちゃん」である。
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