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メタムジカ

阿蘇の地は、火の気が強すぎて五行が不安定であり、そのために栄えては滅ぶ、という歴史を繰り返している。これはいかにも北欧神話的であり、そのとどめを刺したキリスト教が大友宗麟キリシタン聖都市ムジカに象徴できるのであれば、室町中期から戦国にかけての阿蘇周辺は北欧神話を阿蘇神話として再話するための格好の舞台設定となろう (室町戦国九州のイメージ自体は、伝記漫画を参考元とする (毛利元就龍造寺隆信大友宗麟島津義弘立花宗茂)。また、五十音図で「あ」から「そ」へまっすぐ指を動かすと「く」を通る、すなわち「クトゥルー」ということで、クトゥルフ神話 (この本は、初出の話名等も記述しているため、クトゥルフ系諸本中では最もデータベース的だ) との関連も検討しておきたい。

  • 少弐・龍造寺をドワーフになぞらえれば、大内は巨人、大友はカトリックで島津をプロテスタントと見なせよう。

元禄:阿蘇

以上を「神話的背景」として、私自身はその元禄的展開に諸話を展開したく思う (元禄史概観元禄武士日記上忠臣蔵、浅松健のオカルティック忠臣蔵三部作「元禄霊異伝」「元禄百足盗」「妖臣蔵」)。元禄として注意しておきたい点は、おおよそ以下の通りであろう。

  • 竹刀稽古が剣道の主流となるのは江戸後期になってから (そもそも、剣術が武家の主流となるのが、江戸になって槍の所持が禁じられたからであり、剣術研究はそれ以降の事象である)、であり、町人が剣道道場に通い始めるのもその頃から、である。従って、元禄の剣術稽古は真剣や木刀主体の非常に危険なものであり、武家の占有物であった、と考えて良い。すなわち、武家がなお武家として敬い畏れられていたのが元禄の世であり、それゆえの形骸化や堕落が武家内部でははっきりと見えてきたのも元禄の世である (上の日記や忠臣蔵を参照)。忠臣蔵の義士を一時預かりしたのが熊本藩主の江戸屋敷だが、彼の武断主義で熊本藩の財政は火の車であり、当時としては突出した一揆数を記録している、すなわち元禄の退廃と言えどもその主体は江戸屋敷住みの話で、阿蘇のような現地はそのための収奪で不平不満の蓄積する農民や借り逃げしようとする殿様に呆れる町人らと一触即発の、まさにマカロニな「事実上の植民地状態」であった、と見なしてよい。
  • 熊本藩の剣術は示現流系のようだが、対農民一揆のためか柔術の流派の方が多い
  • 熊本藩の忍者は冷遇されていたようで、一揆側につくことも多かったのではないか、と思える。
  • 阿蘇周辺は高地ゆえ冷害が深刻であり、ゆえに自ずと社会主義的な官僚システム (助け合いシステム) がむしろ農民レベルで試行錯誤的に生成されていた。
  • 熊本藩領主細川家は当初から農民の帯刀や名字取得を積極的に推進し、農村の末端に至るまで権威主義的身分制度を細分適応した。この政策が上記の傾向とうまく噛み合い、阿蘇周辺は元禄期には既に現人口と同じ人口密度へと至っている (こうした「反兵農分離」は熊本藩の他にも、人口が少なく土地的に大規模農業化しずらい諸藩にも見られる)。
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