ジェイル大橋

「ジェイル大橋」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る
ジェイル大橋」を以下のとおり復元します。
ベータ版8年度から参加。
数字的な目標や作成選手へのこだわりは特にない。

以下はやってて感じたことなどをドキュメンタリー風に。
内容は個人の感想であり、効果などを保証するものではありません。
敬称略。

-&bold(){初代 &size(16){ジェイル大橋}} 大卒22歳入団 早熟 AP:パワー 内野手
一族の祖。地獄(北海道)から野球を通じて人類を支配すべくやってきた悪魔である。
製作者と同名であり安易なネーミングを後悔するも今更どうしようもないので、製作者の分身であるということでひとつ手を打ちたい。

所謂大卒早熟でイーグルスにシーズン途中入団するやスタメンに定着、勝手がわからないためテレビゲームの片手間に練習をこなすも、まだまだプレイヤーの少ない時代ゆえ試合に出続け、強打者の片鱗を見せる。
余談となるがイーグルスにはこの年大卒野手が二人入団している。もう一人はあのいぶし銀、鮭のクリーム煮である。

2年目には早くも.273、11本55点を叩き出し、ジェイルの将来は順風に見えた。
しかし4年目を迎えるシーズン、興味本位で受けたトレードにより移籍したライオンズで無事控え落ち。大海の広さを知る。

 &bold(){ジェイルの教訓1:出場機会のあるうちはトレードは慎重に}

ライオンズは暗黒のまっただ中ながらも楽しかった。
ここでスタメン枠を若き日の巣鴨隼矢と争う。内野手と外野手で1枠を争っているわけなのでDHを巻き込んだ非常に手間のかかったスタメン争いだった。パリーグでないと(少なくとも平和的には)できない起用である。
打撃型は能力が高くないうちは、開幕でスタメンに入れてもその後成績が安定しないのですぐ外される可能性があり、開幕直後に上振れが起こるとほぼ1年起用される反面、下振れが起こると控え生活に甘んじることになる。
早熟なのでこの時点で既に成長期は終わっており、知見は得ても有効な手立てはない。9番ファーストとして隔年でそこそこの活躍。

 &bold(){ジェイルの教訓2:スタメン定着には守備が要る}

その後たまたま一度行った食事会で黄色遺伝子のおしゃべり好きなやる気スイッチと出会い、つぶやきに数編の恋の歌など流しながら一年半を費やし結婚。この時点で既に通常期すら終わっている。結婚翌年、衰えを感じ引退。


-&bold(){二代目 &size(16){大槻ケンヂ}} 大学中退20歳入団 普通 AP:守備 外野手
普通の人間を愛してしまった悪魔ジェイルが結婚式で呑み過ぎた後、ライオンズ球団寮の共同流し台で口からオエッと産んだ子。埼玉県出身。
入団が20歳とやや遅いのは、プレイヤーが大卒早熟に懲りながらも、増えつつあるBBL人口を睨み、下積み期間が長くなることを嫌ったためである。
元ホークス投手コーチ太刀川広巳は若き日の大槻ケンヂを見た際の第一印象をのちにこう述懐している――、
――「外野手で守備APとは茨の道を行くなぁと思った」。

BBL選手になりたい、息子がそう口にしたその日から、ジェイルは毎日厳しい守備練習を彼に課した。守れない選手は打ち続けなければ未来はない。その点守備力はポジションを安定させる。狩猟採集から農耕へのパラダイムシフトである。
外野を志望したのは単にそこがライオンズの一番薄いところだったからで、つまり大槻は生まれ育った土地を離れたくなかったのである。しかし彼をドラフト指名したのは、都会のチーム、ジャイアンツであった。

享楽的だった父を反面教師に大槻は堅実に力をつけていったが、当時ジャイアンツは黄金期を迎えており外野の壁は厚かった。入団から3年間、彼は年に僅か1本ずつのヒットしか放っていない。
4年目を迎えたシーズン、遂に二番センターに抜擢されると、フル出場を果たし新人王と最優秀守備の表彰を受ける。この年すでに23歳。
翌年一番センターに定着。しかしチームは主力選手の引退や移籍が相次ぎ、坂道を転がるように年々順位を落としていった。守備の好きな大槻にとってレフト日ファミ、ライトSCP-049両選手に挟まれ外野全域を駆けずり回る日々は楽しかった反面、済し崩しに三番、四番を打つに至って三割程度の打率は何の役にも立たなくなった。
率の出せる優秀な選手は多かった、少しばかりの長打力さえあれば下位を脱出できる見込みがあったにも関わらず、天はジャイアンツを気に留めなかった。自らに適性がないことはわかり切っていたが連日激しい肉体改造を敢行。身体の頑健さを犠牲になんとかPWをD50に乗せ二度のベストナインを獲得するも、低迷するチームを浮上させるに到底至らなかった。
…大槻は父親の膂力が猛烈に羨ましかった。幼い頃に見たライオンズのあのユニフォーム姿、右腕を突き上げゆっくりとダイヤモンドを回る父が夢に蘇ったことも一度や二度ではなかった。

 &bold(){ケンヂの教訓1:打率はそれだけでは勝利に繋がらない}

ジャイアンツの編成の中でのチーム貢献に限界を感じた大槻は、30歳でようやく手にした初めてのFA権を行使し、前年6位のタイガースへ移籍した。この決断には勿論、3年総額9億円という破格の条件提示も大きく影響したことは言うまでもない。

古巣ジャイアンツも定期的に大量離脱を繰り返すチームであったが、新天地タイガースは控えめに言ってそれを上回る荒野であった。この年、ケンヂの移籍と入れ替わりに計4人がFAでチームを去っている(関連:魚町事件)。
ミーティングルームではそのぶん熱烈な歓迎を受けた。同じく戦力流出にあえぐチームを見捨ててきた身には痛くもあったが嬉しかった、後はバットで応えるのみ。

このプレッシャーに精神力F19の大槻は空回りし、移籍初年は打撃不振、二年目は負傷離脱となかなか波に乗れなかった。特にこの二年目(29年度)のタイガースは94敗と深遠に沈んだ。トレードにて同年入団の仙波綾人とはこの頃よく傷を舐めあった、酒を片手に深夜まで語り合うも浮上の糸口は見えなかった。
だがこの間は悪い出来事ばかりではなかった。29年はエース首藤正道がFA権行使し残留。潮目は変わり始めていた。

補強ポイントでないところを探すほうが難しかった打線もじわじわと戦力充実し、足りないパーツがはっきりするに至り、ここでもジャイアンツ時代と同じ現象が起きた。還せる四番の不在。
四番センターとはひとつの浪漫として語られることもあるが実際のところはただただ悲惨である。

しかし30年オフ、大槻の運命を変える決定的な出来事が起きた。強豪スワローズから小豚ダブルのFA入団である。
彼は平時の打撃能力は凡庸だったがとにかく得点圏で強かった。ならば前でとにかく塁に出ればいい。幸いチャンスメイクする程度の腕力はある。後は仲間に任せて、何もかも自分でやる必要はない。大槻は7~8年ぶりに野球が楽しいと思った。

 &bold(){ケンヂの教訓2:野球はチームでするもの}

このラーメン二郎の小豚ダブルは奇しくも父親ジェイル大橋の同期、鮭のクリーム煮の息子であった。
この30年は守護神森重文もFA権行使し残留。さらにトレードで理論派リーフⅡ世を獲得。最終順位は5位と順位をひとつ上げたに留まったが、得点を前年比+110、失点を-60と改善しチームは大きく変貌を遂げた。

雌伏のときは終わったのだ。

~つづく~

復元してよろしいですか?