ジェイル大橋

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ジェイル大橋 - (2019/11/10 (日) 15:02:19) のソース

ベータ版8年度から参加。運だけでBBL世界を生きています。

こんなところまで来る人向けに、ややくどめに家系選手やプレイ当時考えていたことなどについて書き綴っていきます。
お口に合えばどうぞ最後までおつきあい下さい。勿論途中まででも構いません。


INDEX
#contents()

* プロローグ
 地獄の辺境に生まれ育ったごく平凡な悪魔の大橋くんは、将来家業を継ぐのがイヤで仕方ありませんでした。
 大橋家は地獄で代々官吏をつとめています。役人というと聞こえは悪くないのですが、彼の家が生業としているのは獄吏です。ただでもそこは地獄なのに、中でもとりわけ罪の深い亡者たちを集めた監獄で彼らをとても書き尽くせないような拷問にかけ続けなければならず、生産的でないのです。

 このような理由で家業を継ぎたくないと言いつつ、さりとて大した勉強もせずぶらぶら暮らしていた大橋くんでしたが、あるとき友達に誘われ、野球というのを始めました。地獄では最近注目され始めたスポーツです。
 彼はこの野球でなかなかの才覚を見せ、野球だけで名門地獄第一高校、さらには大学進学まで果たします。やがて時がたち卒業を間近に控え、いい加減腹を括るか姿を眩ますか、考えあぐねた彼は一か八か地上のプロリーグであるBBLへと志望届を提出。これがイーグルス編成部の目にとまり、地獄からの外国人選手第一号として、見事、球界入りを果たしたのです。

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* 父親 ジェイル大橋(8~17) #28 ~キャリアハイはプロ入り2年目~
:主なポジション|ベンチ時々ファースト
:出身地|地獄の北方大陸
:球歴|地獄第一高‐六道大‐イーグルス(8-10)‐ライオンズ(11-17)
:全盛期能力|ミートE39 パワーD55 走力F24 守備F21 小技F24 精神E35 怪我D48
:成長型・AP|早熟、パワー

 そんな訳でうっかりプロ入りした大橋くんでしたが大卒早熟。おそらく学生時代が彼のピークだったのです。野球に限らずいますよねそういう人。そのうえ第一世代の常としてゲームとデートばかりしている遊び人でした。
 見ての通り選手名と製作者名が一緒です。登録時に説明をよく読まず「はぇー何か名前2コも書くのか、まだるっこしいなぁ」的にコピペ入力したためこれが自分の名前になってしまったのです。アカウント文字列はこれよりも前に登録していますからこの後に及んで中の人を識別する文字列が必要と思わなかったんですよね。だって俺ペナはそうでしょ。アカウント=製作者名ですよね確か。
 まあね同じ過ちをしている人他にいないし全ては言い訳です。文字を入力する際には何の入力を求められているのかよく確認しましょう。
 ちなみにこういった不都合を専門用語ではゼウスの妨害と呼びます。

 一時は変えたくて仕方なかったんですけどもユーザー名変更が実装された頃にはもう、ジェイルさん大橋さんと呼ばれることに慣れ切っていました。
 10年で引退、入団2年目がキャリアハイ、ベンチ時々9番ファーストと製作者の分身扱いするには手頃な存在で今となっては重宝しています。
 選手としての彼を覚えている人は僅少なれども当時つぶやきに流していたデート日記はインパクトが強かったらしく、その後長く経ってからも覚えていてくれる人もいます。

 本物のジェイルはもっと格好いいのにBBLにいる人の大半はBBLにいつもいるこの残念なジェイルしか知らないであろうことは非常に遺憾ですね。

 引退後はギター一本抱えて地上を放浪し、地獄の家にはたまにしか帰りません。要は家業からのらくら逃げているのですが、彼に役人が務まらないことは家族のみならず一族暗黙の承知です。向いてないものは仕方ありません。

 家系打線では主に監督を務めます。

:通算成績|703試合 631安打 47本 238打点 14盗塁 4FP 打率 .238 出塁率 .296

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*長男 [[大槻ケンヂ]](18~35) #7 ~口から生まれたミスタータイガース~
:主なポジション|センター
:出身地|埼玉県
:球歴|所沢高‐大東大中退‐ジャイアンツ(18-27)‐タイガース(28-35)
:全盛期能力|ミートC60 パワーD53 走力E34 守備C72 小技F26 精神E37 怪我E40 引きずり 粘り〇 逆境〇
:成長型・AP|普通、守備
:獲得タイトル|新人王 最優秀守備外野手 ベストナイン(外)

 所沢の球団寮で生まれた大橋家待望の第一子です。父の野球人生は流れ落ちる星屑の如き駆け足であったためプロ入り時は未だ5年度世代の全盛期であり、中でもジャイアンツは当時リーグ連覇中、この時代に20歳入団で普通型を引き、さらに守備をアピってるにも関わらずみっちり3年間を控えで過ごします。入団直後にはなぜ僕を獲ったのかとさえ思いました。お陰でスタメン定着の年にはもう成長期に両足突っ込んでおり、そりゃ新人王も獲りますよね。

 彼は外野に守備は不要と言われた時代のバランス型外野手のパイオニアです。本当のパイオニアは多分もっと前にいると思いますが、彼はうるさかったので存在が広く認知されたのです。どのくらいうるさかったかというと新人王表彰を受けた折に隣でMVP表彰を受けていた笹木だろがい女史に「オーケンさんまだ新人王資格持ってたの」という金言を頂戴した程です。

 年に一人しか選出されない時代の外野守備タイトルを長年独占し続けたので守備の人枠に入っていますが、その実、守備ステータスはたったの72。Bすら達していません。予定ではBまでは上げたかったのですがとかく打撃と特殊練習に追われる人生でした。鍛錬本もコインもベッドもない環境でよくやったなと思います。
 余談となりますが当時はこのようにガチると練習消化が深夜に及ぶ仕様だったため生活にやや支障をきたしており、このゲーム面白いと思う反面、長くはやれないなとも思っていました。ちょうどこのあたりのタイミングでコインとベッドが実装されなければ大橋家はこの世代限りでグッバイとなったでしょう。それが正解だったような気は今でもちょっとするよね。

 話逸れましたがこのような必死の打撃練習の甲斐あって、守備表彰の合間にはベストナインを2回獲得。当時は守備もある程度考慮されての受賞と信じていましたが、後になってみると打点によるところが大きかったのだと思います。仕様がわからない以上は想像の域を出ないですが、要は戦力の薄いチームで適性がないながら中軸を打っていたことによる棚ボタ受賞だったのではないかということです。薄いといえども上位に高打率型の選手が二人揃っていたのも幸運でした。
 もう一つ忘れてならない要素は、団塊世代の転生直後の端境期であったことです。大量にいた5年度世代が一気に引退・転生を迎え、投手野手ともに極端に平均年齢が下がった頃、彼は既に普通型の山なりの成長期の頂点を過ぎていました。
 大卒早熟の父のたった10年で幕を閉じた不遇の現役生活がここに繋がっている訳です。万事塞翁が馬。そのうえ母から引き継いだ遺伝子は黄色でした。父は伊達に練習そっちのけでデートばかりしていた訳ではなかったのです(結果論
 また20歳で入団していたこともちょうどこの端境期に活躍できた要因として大きかったと思います。いくつかの巡りあわせが束になって重なっていた訳ですね。

 FA移籍後はまたやかましく活動し、チーム内外から「大槻さん」と親しまれ、いつしか時運に乗り人運に恵まれチームは優勝、最晩年にはミスタータイガースと呼ばれる名誉に預かります。
 たのしげ氏いわく新庄みたいな野球人生。詳細は下にある折り畳みの物語を読んで下さい(宣伝

 能力値的な話をすると、精々ミート60しかない守備型が毎年三割十本打っているというのは当時はオカルトに近いことでした。
 現在の常識で言えばまあまあなパワーとぼちぼちな足が打率を下支えしていたことは言うまでもありませんが、やっていた時には僕もなんでかなぁ程度しか思ってませんでした。強いて言えば粘り〇のお陰かなだとか。粘りと選球眼どっちかとなった時に粘りを選択する人も当時は少なかったのですよね。
 入団当初はたしか俊足凡打の屋鋪要みたいな守備職人を目指していたので、主砲不在のチーム状態が長く続かなければここまで大成しなかった可能性が高いです。
 操作する僕ではなく立場が育てた名選手ですね(適当

 ミートあたりアピって上手い人が初めからこの形を目指して育てていれば当時環境でも上位互換が作れただろう(そして打撃タイトルの一つも取らせてやれただろう)と思いますが、これが正解の一つであると誰も知らない時期です。
 そういう時期にミートAPで守備をやたらと上げることは普通しないはずなので、やはり守備APだからこそ辿り着いた完成形だったと言えるでしょう。そうだと言ってくれ。

 この大槻さんの後には一時期、多少守備に振った打撃型外野手がよく見られるようになりました。優勝への最適解として外野に守備が要る要らないは永遠のテーマかもしれませんが、やはり守れないよりは守れたほうがプロ野球っぽいですからね。

 とかく全方位に出来が良かったので、やがて世代が進むにつれ僕が生み出したものではなかったような違和感が生まれ、その後長いこと消えませんでした。

 引退後は一時地獄に帰り家業の獄吏を継ぎましたが、根が善良な彼には亡者を拷問にかけ続ける仕事が性に合わず、短期間で体重が20キロ近くも減ったため暇をもらって地上へ戻りました。
 現在は現役時代よく厨房に立っていた功績によりもんだろホールディングスで社長を務めています。
 バイトからたたき上げの社長ってあまりいいイメージがないですがお飾りだから問題ありません。
 あまりやることもないので公園でときおり野球を教えています。

#region(旧作 BBL大槻ケンヂ物語)
 普通の人間を愛してしまった悪魔ジェイルが結婚式で呑み過ぎた後、ライオンズ球団寮の共同流し台で口からオエッと産んだ子。埼玉県出身。
 入団が20歳とやや遅いのは、プレイヤーが大卒早熟に懲りながらも、増えつつあるBBL人口を睨み、下積み期間が長くなることを嫌ったためである。
 元ホークス投手コーチ太刀川広巳は若き日の大槻ケンヂを見た際の第一印象をのちにこう述懐している――、
 ――「外野手で守備APとは茨の道を行くなぁと思った」。

 BBL選手になりたい、息子がそう口にしたその日から、ジェイルは毎日厳しい守備練習を彼に課した。守れない選手は打ち続けなければ未来はない。その点守備力はポジションを安定させる。狩猟採集から農耕へのパラダイムシフトである。
 外野を志望したのは単にそこがライオンズの一番薄いところだったからで、つまり大槻は生まれ育った土地を離れたくなかったのである。しかし彼をドラフト指名したのは、都会のチーム、ジャイアンツであった。

 享楽的だった父を反面教師に大槻は堅実に力をつけていったが、当時ジャイアンツは黄金期を迎えており外野の壁は厚かった。入団から3年間、彼は年に僅か1本ずつのヒットしか放っていない。
 4年目を迎えたシーズン、遂に二番センターに抜擢されると、フル出場を果たし新人王と最優秀守備の表彰を受ける。この年すでに23歳。
 翌年一番センターに定着。しかしチームは主力選手の引退や移籍が相次ぎ、坂道を転がるように年々順位を落としていった。守備の好きな大槻にとってレフト日ファミ、ライトSCP-049両選手に挟まれ外野全域を駆けずり回る日々は楽しかった反面、済し崩しに三番、四番を打つに至って三割程度の打率は何の役にも立たなくなった。
 率の出せる優秀な選手は多かった、少しばかりの長打力さえあれば下位を脱出できる見込みがあったにも関わらず、天はジャイアンツを気に留めなかった。自らに適性がないことはわかり切っていたが連日激しい肉体改造を敢行。身体の頑健さを犠牲になんとかPWをD50に乗せ二度のベストナインを獲得するも、低迷するチームを浮上させるに到底至らなかった。
 …大槻は父親の膂力が猛烈に羨ましかった。幼い頃に見たライオンズのあのユニフォーム姿、右腕を突き上げゆっくりとダイヤモンドを回る父が夢に蘇ったことも一度や二度ではなかった。

 &bold(){ケンヂの教訓1:打率はそれだけでは勝利に繋がらない}

 ジャイアンツの編成の中でのチーム貢献に限界を感じた大槻は、30歳でようやく手にした初めてのFA権を行使し、前年6位のタイガースへ移籍した。この決断には勿論、3年総額9億円という破格の条件提示も大きく影響したことは言うまでもない。

 古巣ジャイアンツも定期的に大量離脱を繰り返すチームであったが、新天地タイガースは控えめに言ってそれを上回る荒野であった。この年、大槻の入団と入れ替わりに計4人がFAでチームを去っている(関連:魚町事件)。
 ミーティングルームではそのぶん熱烈な歓迎を受けた。同じく戦力流出にあえぐチームを見捨ててきた身には痛くもあったが嬉しかった、後はバットで応えるのみ。

 このプレッシャーに精神力F19の大槻は空回りし、移籍初年は打撃不振、二年目は負傷離脱となかなか波に乗れなかった。特にこの二年目(29年度)のタイガースは94敗と深遠に沈んだ。トレードにて同年入団の仙波綾人とはこの頃よく傷を舐めあった、酒を片手に深夜まで語り合うも、しかし浮上の糸口は見えなかった。
 だがこの間は悪い出来事ばかりではなかった。29年はエース首藤正道がFA権行使し残留。潮目は変わり始めていた。

 補強ポイントでないところを探すほうが難しかった打線もじわじわと戦力充実し、足りないパーツがはっきりするに至り、ここでもジャイアンツ時代と同じ現象が起きた。還せる四番の不在。
 四番センターとはひとつの浪漫として語られることもあるが実際のところはただただ悲惨である。

 しかし30年オフ、大槻の運命を変える決定的な出来事が起きた。強豪スワローズから小豚ダブルのFA入団である。
 彼は平時の打撃能力は凡庸だったがとにかく得点圏で強かった。ならば前でとにかく塁に出ればいい。幸いチャンスメイクする程度の腕力はある。後は仲間に任せればよく、何もかも自分でやる必要はない。大槻は久しぶりに野球が楽しいと思った。

  &bold(){ケンヂの教訓2:野球はチームでするもの}

 このラーメン二郎の小豚ダブルは奇しくも父親ジェイル大橋の同期、鮭のクリーム煮の息子であった。
 この30年は守護神森重文がFA権行使し残留。さらにトレードで理論派リーフⅡ世を獲得。最終順位は5位と順位をひとつ上げたに留まったが、得点を前年比+110、失点を-60と改善しチームは大きく変貌を遂げた。

 雌伏のときは終わったのだ。

 翌31年、タイガースの快進撃が始まる。前年5位から大きく躍進し2位。かねてから全盛期を迎えつつあった投手陣に打線がなんとか間に合った。この年、風来坊のリーフⅡ世がFA宣言残留。さらにトレードで堀田、シュタージ両投手を獲得し投手陣は厚みを増すも打線は薄氷一枚の状態が続く。のちに名選手に成長する中井りか、鬼塚流子も当時はまだ若かった。

 野手の補強があれば上に行ける。それは誰の目にも明らかだった、しかしフロントの考えは違った。
 32年、黒幕博士を獲得。33年、伊良部秀輝を獲得。マリーンズからの二年連続エース移籍は世間に衝撃を与えた。
 32年には大槻は二度目のFA宣言をして残留。獲得に名乗り出た球団の中には故郷ライオンズの名もあったが、最早大槻にタイガースを離れる理由はなかった。
 33年は氷精ちゃん、ラグラージをはじめとする計7名のFA宣言残留。
 翌34年、バファローズ帝国の瓦解に乗じ七尾百合子を獲得。さらに齋藤飛鳥との大型トレードでジャイアンツからK.D.ピロレーターを獲得。
 既にBBLに並ぶものはないと称される先発投手陣をなおも補強し、野手は現有戦力の底上げで頑張れという球団の熱いメッセージである。貴重な強打の野手であった齋藤飛鳥を放出し、空いた内野に守備もこなすカレーうどんを獲得するに至りその方針は猶更はっきりした。
 …野球は守りから。その球団の方針に選手団は従うしかなかった。

 32年、2位。
 33年、3位。
 34年、2位。
 大槻は既に全盛期を過ぎ、自らの選手生命がもう長くないことを悟る。この頃は体力の低下との闘い。
 順位は2位でもゲーム差は10。黄金期を迎えたカープの壁は厚かった。
 大砲の補強さえあれば。一年が過ぎるごとに暗黒期を支えたベテランがまた一人と去り、チームを焦燥感が覆った。

 そして迎えた35年、チームは球界一のクローザー岡田奈々を獲得。さらに遅咲きの強打者、山南敬助がレフトに定着。
 役者は揃った。

 シーズン開幕直後、暗黒時代を支えたエース首藤が引退を宣言。そこから堰を切ったように打線が繋がり、元より鉄壁の投手陣を強力に援護した。打線の破壊力を武器に追い縋るスワローズを突き放し優勝。

 その優勝の決まった試合、グラウンドに大槻の姿は、なかった。

 少し前から欠場の続く大槻を世間は訝しんだ。首脳陣との不仲説。グラウンド外での失態説。副業の影響説。様々な憶測が流れたが、理由は至極単純だった。
 体の限界。もう走れない。
 往年の身体能力は既になく、打撃も衰えを隠せない大槻に約束されたポジションは、今や見違えるほどに強くなったタイガースにはもうなかった。

 悲願の優勝を見届け、ゆっくりと歓喜の輪に加わる。
 若手にからかわれ、楽しい日々を過ごし、少しずつ強くなっていくチームを見守った、…幸せだった。
 春先には絶対に辞めないと言っていたのに。遣り残したことがもうない。清々しい気分だった。

 レギュラーシーズンを終え、引退宣言。

 ポストシーズンはベンチから見守った。
 まだ満足に試合に出られなかったあの頃、ジャイアンツのベンチから身を乗り出し、必死に声を出したあの頃の記憶が蘇る。

 チームはシーズン中の勢いそのままにポストシーズンを突破しBBLシリーズへ進出。
 パリーグから勝ち上がってきたのは、600点打線と称された百獣の王ライオンズ。幼い頃にやりきれない気持ちで父の背中と交互に見つめた、最下位と5位を行き来していた頃の面影はどこにもなかった。

 年間682得点を誇る打線と、防御率1点台の投手陣の対決に世間の注目が集まる。

 初戦こそお株を奪われる投手戦で落とすも、そこからはタイガース打線が爆発。三連勝で王手をかけ臨んだ第五戦。
 33年ぶりBBL1の懸かった先発のマウンドは首藤。
 そしてスターティングメンバーには、八番ライト大槻の名があった。

 これで決まると確信したかのような采配。しかし老兵にも意地がある。思い出起用とは言わせない。ライオンズ先発騎士タカユキから先制の一打を放ち一塁ベース上に拳を突き上げる。…この景色を見るのもあと僅か。

 明鏡止水となった胸のなか遠く六甲颪がきこえる。

 先発首藤は8回途中1失点の力投で後をリリーフに託す。イニング途中登板の氷精ちゃんが8回9回をシャットアウト。打線の援護を待つ。
 後のないライオンズも必死の継投。打線ばかりが取り沙汰されたチームだが、投手力もなければそもそもこの舞台には立てない。
 試合は膠着し、迎えた延長10回。表の攻撃を守護神岡田がいつも通りに退け、その裏。カレーうどんを二塁に置いて回った打席は小豚ダブル。
 投じられた球は魅入られるように内側へ。捉えた打球は放物線を描き、ライオンズファンで埋まったレフトスタンドに突き刺さった。

 均衡が、破られたのだ。

 地鳴りのような歓声を浴びてゆっくりと本塁ベースを踏みベンチへ戻ってくる小豚を、大槻は両腕を広げて迎えた。終に試合が決まる、それは同時にこの最高の相棒との別れの時が来たことを意味する。 

 この後チームはBBL特別ルールでさらに1点を加え、ゲームセット。
 タイガース、2年度以来33年ぶりBBL完全制覇。

 ベンチから飛び出した大槻は涙で溢れた両眼を拭おうともしなかった。遂に来た。ここまで連れて来てもらった。
 首藤とともに監督よりも先に宙に舞い、それからチームメンバーひとりひとりの手を握った。

 ああ、これで終わったんだ、とだけ思った。いい野球人生だった。

 大阪の街はこの33年ぶりの快挙に沸いた。市民に混じり道頓堀に飛び込んだカレーうどんは後ろ髪が少し溶けた。
 タイガースでの優勝を見ることなく去ったOB・OGからも、チームへ次々に祝福の言葉が届いた。
 移籍からの8年間ですら決して短くはなかった。33年という時間の流れに思いを馳せ、優勝できてよかったと心底から思った、穏やかな気分だった。

 野球っていいもんだ。
 BBL屈指の幸せな野球人生が、幕を閉じた。
#endregion()

:通算成績|2095試合 2408安打 123本 675打点 124盗塁 149FP 打率 .284 出塁率 .337

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*次男 [[滝本晃司]](36~62) #42 ~FA宣言5回からの44歳戦力外~
:主なポジション|中継ぎ、先発
:出身地|大阪府
:球歴|浪速高‐イーグルス(36-39)‐ライオンズ(40-53)‐ジャイアンツ(54-57)‐カープ(58-62)
:全盛期能力|球速G134 球質C64 変化E42 制球B80 スタミナC65 精神D54 怪我D46 重い球 気迫〇 奪三振〇
:変化球|シュート20 ドロップカーブ22
:成長型・AP|晩成、コントロール
:獲得タイトル|最多勝 最高勝率

 大橋家に成長型という概念が導入された最初の選手、また世間は18歳からが普通らしいよということで一族初の高卒選手でもあります。

 初代ジェイルが早熟という型だということは少なくとも引退時にはおそらく認識していたのですが、その経験はケンヂには生かされませんでした。理由は単純で、僕は2世代目になってもBBLwikiの存在を知らなかったのです。
 なもんでケンヂが普通型だと教えてくれたのはジェイルに続きまたもチームの先輩方で、それを知った時にはもう成長期を過ぎていたところも父親の轍をそっくりそのまま踏襲しました。

 …ここまでを踏まえての第三世代は、成長型判定初心者にもわかりやすい晩成でした。世間的には当たりとされている型ですが個人的にはハズレではない程度の位置で忌憚なく言うと中の下です。そういうこと言うと怒られるかもしれないんですけど僕には合わないの。
 とかく序盤から中盤が我慢の子。堪え性がなくしかもここまで早熟と普通しか経験していない僕にはこれがなかなか大変でした。学徒動員で試合に出てるとはいえ、能力が上がらなく成績改善せず変化のない生活に一時はフェードアウト寸前。

 詳しいところは省きますが実は滝本くんには入団前のバックボーンがあらかじめ用意されていました。そんなことをしたのは彼一人です。要するにこの試みは僕の中では失敗だった訳です。
 とにかく「人気者の兄を見て育ちやや斜に構えた弟」みたいな最初に用意したぼんやりとした方向性とこの中盤までの鬱屈があいまって、一時はかなり性格悪かったです。RPは自分が持ってかれないようにやらないといけませんね。

 さて、間の生活は長くなるので省くんですが、二度のFA移籍の末に辿り着いたカープで当時の投手最高記録に1年及ばない44歳で戦力外となりました。18歳で学徒動員されてから44歳で防御率5点をオーバーするまで一軍のマウンドに立ち続けた彼を僕は誇りに思います。
 実働27年ですから現実の日数に直すと二か月近い時間を共有したことになりますね。

 この44歳は投手では結構な上位にランクインしています。衰えと戦いながら過ごした最後の数年は楽しかったです。
 衰え始まるとプレイヤーが選手にしてやれることってほとんど何もないじゃないですか。
 ゲーム内のキャラクターが人の手を離れ自立する瞬間。PCからNPC、さらにその向こう数字の海、幾重のMath.Randomの彼方、そしてシミュレーションの彼岸へとだんだん遠ざかっていく。僕はと言えばただ一日おき21時の息災を祈り、あとは覚悟を決めて静かに見ているだけ。
 このあたり現実のベテラン選手を見守り、やがて見送る心理に似ています。

 戦力外に関してもう一つ思い出を。実は最後の年の終盤に、強力打線のジャイアンツ三連戦に三連投でほっぽり出される采配があったんですよね。そこまで安全圏で推移していた防御率がここで跳ね上がり、無念のリタイアとなりました。
 これさえなければもう1年はやれたはずです。このジャイアンツは40歳で畜生移籍(イニングの食える先発が不在となり透織暎一選手が先発転向の末過労死)してきた古巣だったのでその報いを受けたのかもしれませんね(適当
 いうて40歳なんだけども。

 思えばジャイアンツへやってきた時もわりと先発の薄いチームからの移籍でした。なんでそんなチーム事情も鑑みず移籍を繰り返したのか、一応言い訳すると、彼には甲子園のスターだった兄を生涯年俸で追い抜くという目標があったのです。
 しかし結局この目標は果たされませんでした。できることは全てやり、なおも僅かに6100万及ばず。マウンドに力尽きました。
 何せ目的もなく貯めた金ですので対する出費はごくわずか。勤続疲労も長年放置で強行出場を続け、ギャンブルもない時代に経済力129を記録しました。

 かくして細く長い野球人生を完走した彼は、やや気難しい倹約家というキャラクターが確立しました。
 モデルにした滝本さんは僕の一番か二番に好きなミュージシャンなのですが、やってみたらこの有様。とにかく一度の野球人生ですからやってみないとどんな出来事があるかわからず、どんな人になるかわからないので仕方ないですね。

 引退後は父ジェイルと兄ケンヂに務まらなかった家業を継いで地獄の大橋家を守り、一家の財布も主に彼が握っています。決して愛想良くはありませんが、ある部分では一番頼りになるしっかり者です。

:通算成績|794登板 投球回3127回 先発396 完投14 完封3 130勝 190敗 89H 15S 2614奪三振 防御率3.13

記事機能がなかった時代の引退記事
https://openbaseballlifenews.blogspot.com/2018/05/blog-post_26.html

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*三男 [[宮沢和史]](63~81) #14 ~ハバナイスデーの馬主の人~
:主なポジション|中継ぎ→先発→中継ぎ→抑え→先発→中継ぎ
:出身地|広島県
:球歴|崇徳高(準硬式)‐煉獄製鋼‐ライオンズ(63-78)‐ホークス(79-81)
:全盛期能力|球速A160 球質D53 変化E31 制球C60 スタミナD46 精神D49 怪我D45 守備E30 重い球 気迫〇
:変化球|Hシュート21 カーブ10 ツーシーム
:成長型・AP|正弦波、速球
:獲得タイトル|セーブ王

 またしても危険を冒しての20歳入団です。晩成の下積み生活が余程堪えたのでしょう。この頃の僕には自分は鍋底引かないという謎の自信があったのです。
 先代が球速G先発だったので次は速球で押すタイプの荒れ球リリーバーを育てたいと思い球速APを選択しました。荒れ球にしたかったのはTHE BOOMに「No Control」というアルバムがあるから、という説も僕の記憶の中には存在しているのですが多分こっちは後付け。150キロ投げたいなぁ等とうすらぼんやり考えながら志望届を提出します。
 20歳なので当然初期値は若干高く、球速は既に149キロありました。目標達成寸前です。

 これに複雑な顔をしていたところで水の人か誰かがBBLでは人数比的に+10キロくらいが現実と釣り合う感じがあるよと言ってくれたので、宮沢くんの目標はまずひとつ球速160キロと決まりました。
 もうひとつの目標はツーシーム。要は新球取得というのをやってみたかったのです。根拠はありませんが速球型との相性も良さそうに思えました。結果から言うとこれ別に要らなかったと思いますが欲しかったんだから仕方ない。
 入団先はライオンズでしたのでここでイメージが昔いた小野寺選手に固まります。ただし再現選手ではないのでフォークがないとかは些細な問題です。

 前述の通り荒れ球という設定があったので当初碌にコントロールを上げずにやっていましたが、当然結果が伴わないというか深く考えなくてもリリーフはひとつのフォアボールが致命傷です。
 じゃあ現実の小野寺はどうだったのかとかはどうでもいいんです。再現選手じゃないしそもそも小野寺は他もノーコンしかいなかったから致命傷でもよかっただけです。フォアボールが致命傷であることは小野寺も大沼も許もゲーム上の架空選手も変わらないです。

 この速球には自信があるのに抑えられない旨を彼は次兄晃司に相談します。そこで一喝まずはストライクを入れろと説教され開眼。…というのを経てあれやこれやしているうちに彼の能力値は後に確立され200年頃まで存在した投手テンプレに近づきました。
 当時は散らかった育成になって申し訳なかったと思ったものですが、今見るとツーシームを取りに行った時期を間違えた点を除けば充分ですね。
 もう少し言えばツーシーム取りに行かないでカーブを若干鍛えたほうが良かったでしょうが、とにかく腕も折れよと投げ込むのみのパワーピッチャーを目指していたのでむしろカーブは除去したいくらいでした。新球P消費して変化球を忘れるが欲しいですね。タダで気軽に除去させろと言わないのはそうするとナックル取得がテンプレ化しそうだから。

 チーム事情から途中先発に回ったりしながらやがて抑えに定着。ツーシームも球速も査定上では弱いのでお願いして譲ってもらう形での守護神就任でした。
 谷間の先発経験から上げていたスタミナ45は、当時の登板したらもう替えてもらえないという抑えの仕様では鉄腕リリーフというコンセプトにぴったりで、抑えで登板67に対し92イニング超を投げた年もありました。

 このころちょうどライオンズは戦力充実し、捕口選手とのバッテリーでBBLS制覇の胴上げ投手にもなりました。本人もポストシーズンで滅法強く、20試合に登板し防御率0.69。これより前の世代は3人あわせてBBLS出場1試合(野手のくせに)という大舞台に縁のない家系だったのですが、その鬱憤を晴らすかのごとく活躍を見せてくれました。

 そして迎えた衰え前年のFA宣言。正弦波といっても20歳入団なので未婚です。環境に何の不満もなく、結婚までの契約年数目的のFAは所属球団ライオンズからの3年提示を受け丸く収まる予定でしたが…、ここにホークスから3年総額10億近いオファー。
 ここでもまた長兄ケンヂの影がちらつきました。出来すぎた兄は弟の人生に確実に影響を及ぼしますね。あの兄の3億1000万を超える年俸提示はどうにも魅力的でした。重ねて行ったことのない球団へ行きたいという根無し草の血が騒ぎ、予定を変更し急遽福岡へ。この年ライオンズは主力のFAのタイミングが重なり、合計6人が流出。その後長く下位へ沈みました。

 これだけ流出すれば抑えの宮沢くん1人残ってたところでハッキリ言ってどうにもならないです。しかし残っても差し障りないところを合理的理由なく移籍したことも確かなんですよね。
 後述となりますがホークスでは得難い経験がありこの行動を後悔はしていません。しかしこれ以降僕は金額を見て無暗にFA移籍するのをしばらくの間やめました。悪いと思ったんすよね一丁前に。草生える。
 ただまあ出て来た以上は敵と言わないまでも対戦相手ですから、悪いと思っても口には出さないのがスマートかなと思っています。自分が逆の立場なら去った選手にかわいそうだの出なきゃ良かっただの四の五の言われたくないですからね。
 そう思うならここでも言うなって? こんなところねわざわざ来て読むのが悪い。

 さて、新天地ホークスではちょうどエースの稲葉浩志選手が水あたりを起こし、先発が不足していました。この人も一緒にやりたかった選手だったので非常に残念だったんですけども、彼が健在だったらそもそも宮沢くんに高額オファーが来たかどうかはわからんところです。
 移籍後ミーティングルームで第一声、よろしくお願いしますどこでも投げますと挨拶した時のことはよく思い出せます。そこはもう長く育ててもらったチームではなく、実績もありませんので文字通り一からのスタートです。
 ここで先発を頼みますと言ってもらったことは意気に感じました。先発経験あるとはいえ体力46しかないのでリリーフのほうが成績出るのは明らかですが、いっぽうチームは先発を必要としています。そうした中でチームの弱いところに入ってくれと忌憚なく言ってもらえたことが嬉しかった。来た甲斐があるというものです。

 …このように大見栄切ったはいいものの、先発でまともにやれる自信はまったくなく、内心は冷や汗モノでした。
 先発の何番目に入ったか記憶は定かでなかったのですが、今は年度とチームさえわかっていれば記録を見ることができるんですよね。確認すると先3でした。
 さて結果は故障離脱で1回登板回避した他は10勝挙げるなど、リリーフ陣の手をかなり借りながらも一応及第点の仕事ができ人心地、本当はもう一年先発がやりたかったのですが、若干の衰えにも関わらず生命線のスタミナだけが5ポイントも持っていかれ、元々46しかないところからこの衰えは先発としては致命的でした。
 このタイミングで今度は抑えのところ天の助選手水没の難が発生。再びチーム内で相談し久方ぶりの中継ぎへ入り、こちらは防御率0点台と結果を残せました。

 しかし、さらに迎えた3年契約の最終年は一族初の大きな衰えに襲われ、リリーフでも4点に迫る防御率となりました。やれたかということならもう1年やれたかもしれないですが最早戦力ではない。ホークスでの宮沢くんは長年の功労者ではなく、金でやってきた傭兵です。チームの若手に務まる仕事に甘んじるのは本意ではありません。
 ポストシーズン敗退を見届けすぐにチーム内に辞意と感謝を述べました。突然やってきて3年で去る選手に対し温かい借別の言葉をたくさんもらい感無量でした、所属中ずっと得失点で他球団をリードしながら優勝に届かなかったことは残念でしたが、その他に一点の悔いなく、非常に印象深い3年間です。

 こうして前半やや我慢はあったものの全盛期に強いチームで活躍し、好き勝手やった挙句カッコつけるだけつけてサクッと引退というなかなか無駄の少ない人生から宮沢くんの得た個性は、良く言えば天真爛漫で自由です。悪く言えば規範意識が低く奔放。

 また彼の人生を語るうえで忘れてはならないのがBBL競馬黎明期を飾った競走馬たちですね。特に引退の年に生まれたハバナイスデーは当時基準では圧倒的な強さで31勝を挙げ、帝王の名を欲しいままにしました。八冠馬は200年が経った今も他には出ていないんじゃないでしょうか。ちゃんと調べていないので正確なことは言えないんですけども。

 地獄に帰った後は諸事情でしばらく自宅に籠って過ごし、後に次兄の紹介してくれた仕事もどれも長続きはしませんでしたが、前述の「帝王」ハバナイスデーの出現以降は一躍有名馬主となり、今では大橋家の牧場部門を一手に管理しています。
 現在の彼は少し難のある性分ゆえ重なった罰点により地上の永住権を失っており、厳しい審査のある短期滞在手続を踏まなければ地獄から出ることができません。
 本人ももう地上へ戻ることはないと決めているのか、背中に翼、脚に鉤爪、尻に尾を生やして空を飛んで歩いています。ただし低速度ながらインターネットは使えるため、たまに競馬関連の記事なんか書いて寄越します。

:通算成績|735登板 投球回1335回1/3 先発71 完投0 完封0 66勝 61敗 93H 186S 1296奪三振 防御率3.09

結婚記事
https://bbl.webliru.com/information.php?info=n&id=954

引退記事
https://bbl.webliru.com/information.php?info=n&id=986

投手のコンバート実験
https://bbl.webliru.com/information.php?info=n&id=780

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*四男 [[貴水博之]](82~105) #1 ~自称埼玉のプリンス~
:主なポジション|セカンド
:出身地|福岡県
:球歴|馬頭高‐九国大付高(途中編入)‐ライオンズ(82-91)/埼玉(92-93)/埼玉ライガーズ(94-105)
:全盛期能力|ミートD50 パワーC66 走力E34 守備D47 小技F27 精神B76 怪我E44 対左〇 粘り◎ 逆境〇
:成長型・AP|鍋底、パワー
:獲得タイトル|ゴールデングラブ(三) ベストナイン(二)

 ここまで長男ケンヂはライオンズ球団寮、次ぐ二人はそれぞれ当時現役選手の兄の在所で育てられてきましたが、四男博之は厳格なおばあちゃんの手によって地獄で健康的に育てられました。彼は双子で生まれたためさすがに現役プロ野球選手に養育は不可能というのが表向きの理由ですが、その実、すぐ上の兄の和史が競馬狂の自由人すぎたためにやむなく家族会議が持たれた結果です。
 やがて隣町の高校へと進学し、ちょうど二年に進級しプロ入りが囁かれ始めた頃、自宅最寄りの鉄道が廃線となり通学が事実上不可能になってしまいます。どうせ家を離れるならと決断し地上の学校へ編入しますがここでも兄と同居の選択肢は初めからなく、人の子の級友たちと楽しい寮生活を送りました。

 これ以後の弟妹もほとんどが地獄で育ち、プロ入りに際して初めて地上へやってきています。出身地としてBBL球界へ届け出ているのは生まれた場所ではなく、地上で初めて住民票を取得した自治体です。
 要はこのあたりから出生まわりのエピソードを後付けするのが面倒になったんですが、かといって出身地も一向に追加されないために考え出した折衷案です。このさい地獄とかアホ言わんから「その他」をひとつ入れてくれるだけで世界広がるんだけどなぁ(Misaさん発案)。この訴えは定期的に行っていこうと思います。

 さて件の集団FA流出からたった3年、博之くんは未だ戦力不足に喘ぐライオンズへ運命的に入団。この時点でライオンズへはトレード2回のドラフト2回、長兄大槻ケンヂ以外の4/5名が吸い寄せられています。
 ミーティングルームへ小さな声でただいまと言ったところ楽パロ家の高卒ハーバード卒のはーまん選手に「まーた来たのか、今度は骨を埋めていくんだよ」と声をかけてもらい、うすぼんやりと生え抜きを意識します。
 もう選手紹介文が残ってないのですが、確か引退後ライオンズ過失傷害罪に問われた兄和史の仮釈放の交換条件として埼玉へ呪縛されたとかいう設定だった気がします。言っても生え抜き意識の低い一族なのでなかなか試合に出られなかったらトレード押しちゃうつもりではありましたけども。

 さて最初に護摩行を試したところ成長期でした。前の世代までは4人中3人が20歳以上スタートとか頭の悪い感じにやっていたのですが、この時だけはなんとなく嫌な予感がして高卒スタートしていたのが当たりましたね。パワーAPで初手成長期、ということで父親ジェイルの忘れ物を取りに行くべく早熟を期待しましたが…、2年後の審判は鍋底。ここまでに行動は使い切り本も1冊しか読んでいませんでしたので賭けとしては当たりです。
 まあ希望としては早熟だったわけなんですけども、個人的に初手で成長期引いた時点で鍋底に全プッシュする以外の選択肢ないと思っているのでそうしました。言ってしまえば賭けですらない。

 詳しい計算は長くなるしゴチャゴチャするので削って別の機会に譲りますが、僕の考える初手成長期のベストプラクティスは「丈夫な体を取る→19歳で練禁せず行動を使い切る→20歳から(早熟でも)鍛錬本読む→鍋底ならこの時点で小AP取れてなければ集中取る」です。
 いっぽう早熟なら鍛錬を取って集中〇は取らず、小APを手広く待って会えた時点で取るで正解でしょう。

 鍛錬本は一般に早熟でも読んだほうがいいと言われています。では成長期4になってしまってからでも読んだほうがいいのか。
 多分読んだほうがいいです。成長期2と4は期待値でいうとそこまで変わりませんし、効果は集中〇より強いと言われていて、しかも取得にかかるのは7回です。集中〇ですら衰えまでに採算がとれる(注:独自見解です)ことを考えると取るべきだと思っています。

 初手成長期論で長くなってしまいましたが、成長型があまり恵まれていないということで目標は六番サードあたりに定まりました。若手時代は実装されたばかりの公園で徒党を組みベンチを破壊するなど狼藉も働いています。
 以下は関連記事。
https://bbl.webliru.com/information.php?info=n&id=1278
https://bbl.webliru.com/information.php?info=n&id=1280
https://bbl.webliru.com/information.php?info=n&id=1282
https://bbl.webliru.com/information.php?info=n&id=1285

 その初手成長期ゆえに彼は早めにスタメン定着し、いつしかチームに戻ってきた兄・和史の仲間たちに囲まれ、そこそこな若手時代を過ごしました。
 しかし兄の業を何割か背負わされた博之の幸せな時期は長く続きませんでした。集団水死と主力の高齢化が重なり、少し回復の兆しを見せたライオンズはまた深く太平洋の奥底へと沈みます。その後は数年年長の堂上剛裕選手と二人身なし子のように育ち、ずらりと並んだ学徒動員のなか中軸を打ち、…そうして迎えたある年、BBL球界に激震が走りました。

 ライセンス問題による球界再編です。

 ライオンズは埼玉と名を変え、さらに埼玉ライガーズへと変貌を遂げました、そのライガーズとして迎えた最初の年、博之は打線の四番に座っていました。

 実力ではなく単に戦力が薄いのです。しかしこの埼玉の青いチームで四番を打つというのは、父親ジェイルの到底叶わなかった夢でした。
 父は野球人生のかなり終盤になるまで自分が早熟だと知りませんでしたから、時間をかければいつかは自分もチームの中軸を打つ時が来ると思っていたわけです。しかしその時は来ませんでした。キャリア終盤にはレギュラー定着すら難しく、31歳にして力衰え、引退。

 その夢を、まあ早熟ではなかったとはいえ、普通、晩成、正弦波と続いた後の鍋底の四男が現実のものにしたのです。当の父親はどれだけ嬉しかったことでしょうね。

 ただ、DC砲(砲?)の彼が四番打っていることからわかる通り、チームは極度の不振に喘ぎました。やがてシーズン100敗。
 これに天や人が哀れんだのか、翌年は球界を代表する選手の移籍が相次ぎます。中でもエース三好晴巳選手の存在は大きく、100敗からたったの2年で優勝、このあたりでベストナインも獲得しました。

 6番サードを目指して始まったところからこの頃打っていたのは2番セカンド。ずいぶん遠くへ来たものです。チーム編成がパワーと精神に偏っていたので仕方ありません。観念して守備を若干上げました。
 もっともサードだったらベストナインは取れなかった可能性が高いので、何が幸いするかはわかりません。

 強くはなったものの選手層が厚いという程ではなかったので、鍋底かつ大きな衰えを二度引いたにも関わらず、41歳の戦力外通告まで現役生活を送ることができました。最後の年もフルではないものの一軍出場し打率.192。
 激動の時代を駆け抜け、一球団一筋に24年。やり残しのない野球人生でした。

 引退に先立ちはーまん選手の縁者であるダース・ギンジ選手に旧交の礼を申し伝えたところ、はーまん選手は水あたりの予後が良くなく面会謝絶の様子。また更に三好晴巳選手の娘である朝海選手に先の礼を述べると、三好家はみな短命だから…と言葉を濁され、この人たち何なんだろと博之は思いました。

 引退後はかねてから兼任していたコーチ業に専念、のようなことを言っていましたが、ライオンズへの運命的入団からライガーズ一筋駆け抜けた人生があまりに爽快だったのでその後の引退記事でうっかり死なせてしまいました。
 そもそも怪我がちな選手でもありましたし丁度いいかなと。人ならぬ身の仮初めの肉体の酷使による致死性不整脈です。

 悪魔なので死んだといっても別にそこまで死んだわけではありませんが、当座の肉体を失い中の本体も散逸した状態なので、いつ来るかわからない復活の日までとりあえず地獄の実家の仏壇の奥に祀られています。何しろ死人を出すということは町内でも5000年ぶりの出来事であったため、葬式当日の段取りはとても大変でした。

 なお引退時の背番号は28です。ふざけて父の背番号を着けていたところ年俸が1億円を切り戻せなくなりましたが現役中長く着けていたのは1番ですので当欄では1番とします。

:通算成績|2817試合 2860安打 219本 1075打点 58盗塁 91FP 打率 .259 出塁率 .315

死亡記事
https://bbl.webliru.com/information.php?info=n&id=1934

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*長女 [[犬神凶子]](109~128) #40 ~一家で一番野球がうまい~
:主なポジション|捕手
:出身地|埼玉県
:球歴|堕ルシフェル女学院高‐広島レッドフィッシュ(109-128)
:全盛期能力|ミートB76 パワーD45 走力E30 守備C60 小技F28 精神B75 怪我D45 引きずり 粘り◎ 逆境〇
:成長型・AP|正弦波、ミート
:獲得タイトル|最高出塁率 ベストナイン(捕)

 アマチュア時代は女子高に通いながらもシュアな打撃が注目され、強化選手として大学生や社会人の練習に参加するなどした地獄球界期待の選手でした。当然BBL球界入りを本人も周囲も規定路線と信じて疑わなかったのですが、直前になってライガーズの兄が急死したため、地上行きをおばあちゃんに猛反対されます。
 この間競馬の結果が見られないことに業を煮やした兄和史が奮戦し、長兄ケンヂとの同居を条件に妹の地上行きをどうにか実現。ドラフト期限を過ぎていたところを次兄晃司のコネを使って何とかレッドフィッシュ入りを果たします。

 そんな訳で縁故入団という設定ですので凶子は移籍をしませんでした。仮にそうじゃなくてもキャッチャーだからねこのあたりは仕方ないね。
 凶子の育成には明確な目標がありました。黎明期の名捕手ジョーン選手です。打率型の最低限守れるキャッチャーで4割だか打ったりなんだり、若い頃のケンヂ兄さんも随分お世話になった人です。目指す形が明確であるということがこんなにも完成度を高めるのかと思いますよね。僕が育てたと思えないくらい非常によくできた娘で、長くチームの三番を務めました。
 この頃1~9番がすべて生え抜きという珍現象が起こり、BBLの誇る名言製造機である水の人に「本物の生え抜き打線」という謎の称号を頂戴しました。特に透織遠大さん三好朝海さんとの1~3番トリオは彼女の大事な思い出の一つです。

 このようによくできた娘だったにも関わらず変なRPがしんどかったのと、やはり捕手である関係上粘っても次世代の蓋になりそう、かつFA先含めてコンバートしたところでそこまでみんなが幸せにならなそうな状況でしたので若干の衰え1年目でさっさと引退してしまいました。デビューが遅く引退早かったので通算打率は高めです。なかなかね捕手は難しいですね。

 引退後は母校のルシ女で非常勤として歴史教えつつ野球部を指導しています。教え子たちは地獄女子野球界ではトップレベルの実力です。

:通算成績|1868試合 2309安打 83本 909打点 77盗塁 478FP 打率 .312 出塁率 .363 盗塁阻止率 .272

引退記事
https://bbl.webliru.com/information.php?info=n&id=2609

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*五男 [[浅倉大介]](129~151) #9 ~ノミネート外自薦から総選挙5位~
:主なポジション|セカンド、ショート
:出身地|広島県
:球歴|地獄第一高‐東京エンペラーズ(129)‐大阪ブルーバイソンズ(130-138)‐埼玉ライガーズ(139-142)‐東京スカイクロウズ(143-146)‐大阪ブルーバイソンズ(147-151)
:全盛期能力|ミートB76 パワーD45 走力E30 守備C60 小技F28 精神B75 怪我D45 選球眼○ 粘り◎ 引きずり
:成長型・AP|凹凸、ミート
:獲得タイトル|首位打者 最多安打 最高出塁率 ベストナイン(二、遊) ゴールデングラブ(二)

 博之の項でも軽く触れましたが彼は双子で生まれたので、同い年の兄がいました。しかしこの兄は出生直後から赤ん坊のまま仮死状態で眠り続け泣き声のひとつも上げなかったため、父ジェイルは仕方なく弟の博之だけ出生届を提出し、これを四男としました。

 しかしこの判断は間違いでした。状態はどうあれ生まれているのだからその時点でただちに役所へ届け出るべきなのですが、結局数十年間を無戸籍状態で過ごしたのちに目を覚ました彼をノコノコと届け出た行為が問題となり、その後の手続きは非常に煩雑に。最近生まれたことにしてしれっと届け出れば良かったのでしょうが後の祭りです。
 そのうえ父親はちょうどこのときBBLと絶賛コラボ中の秘密三国志の世界で共産革命に身を投じており長期にわたり音信途絶。不手際による諸々の面倒はすべて代理人の長兄ケンヂが背負いました。

 生まれてくるのに時間のかかる系の子供は洋の東西を問わずどんな物語や逸話でもだいたい天才でして、大介くんも多分に漏れず凹凸型です。
 ルーキーイヤーの終わったオフにいきなり舞い込んだトレードの話を受けてやってきた先は大阪。そこで20歳から一軍出場、22歳でレギュラー定着。28歳の若さで手にしたFA権を行使し埼玉で最強打線の二番を務め、さらに東京のカラスとなって4年、まさかの首位打者を獲得。この輝かしい実績をひっさげ3年10億円で大阪へ凱旋、40歳で戦力外になる頃にはコテコテの関西人になりました。

 彼は残した成績もさることながらあちこち移籍して歩き、しかも行く先々でわーわーとうるさい人だったので、同じ時代を過ごした人たちの記憶に若干残っているようで大変有難いことです。

 育成の話をすると初めての凹凸を育てるにあたり意気込みが過ぎて黄色スイッチの彼女を用意し、無事デートが二度目の練禁期間に食い込みました。さらにプロポーズ成功後、安堵したのか、タメとけば成長期2に化けるはずの行動回数を坂道ダッシュで数回消費。
 このあとの成長期では急な残業や飲み会が次々に襲い掛かりコイン持ってたにも関わらず行動回数溢れ、さらに最後の成長期では先述の秘密三国志で二番目に仕官した国が天下統一を果たした感激でグキりました。

 これねやった瞬間何が起こったのかわからなかったですね。手が滑って連打したわけでもないので普通に「せや練習もしたらな!」みたいなことを10分か20分前にも思って実行したということを忘れたのだとしか考えられないんですけども、これって前半生で行動回数滑らしたことと微妙に繋がっていると思うわけなんですよね。教訓が効きすぎて行動を消費し切るということに過剰にリソースが割かれた結果としてさっき練習したばっかじゃないかとかそういう部分への注意力が削がれたと。そういう強迫観念的なねアレですよね。一度にひとつしか覚えられないのかと言われればそれはその通りですと云うしかない。

 このような育成(育成?)にも関わらず立派に育ってくれて彼にはとても感謝しています。親がアホでも凹凸は強いですね。

:通算成績|2551試合 2937安打 29本 774打点 321盗塁 257FP 打率 .289 出塁率 .344

引退記事
https://bbl.webliru.com/information.php?info=n&id=3310

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*他人の空似 ジャイロ大橋(141~155) #56 ~成長型が成長する男~
:主なポジション|代打、ファースト
:出身地|北海道
:球歴|プロ入り前不詳(取材してない)‐東京エンペラーズ(141-155)
:全盛期能力|ミートD57 パワーC60 走力E30 守備E30 小技E31 精神D51 怪我C67
:成長型・AP|早熟35歳衰え、パワー
:獲得タイトル|ゴールデングラブ(一)

 これうちの子じゃないんですけども関係者なので載せときます。親は薄太郎さん。BBL世界に製作者コラボ数あれどもここまで事前の打ち合わせのなかったケースってないんじゃないかと思います。何せ僕が提供した情報って「パワーAPです」だけですからね。いやそれしか聞かれなかったからね。
 名前のモジリが突然脳天に降って湧いたところからの黎明期のベンチウォーマーのリメイクという中々アシッドのキマッた企画ですが、実際動き出してみると人んちの子ってほっといても成長するし、結果に何の責任もないからかわいいんですよね。当初従姉の子を見るような気持ちで応援していました。
 しかし自分が一切干渉できないという点でこれは本物のプロ野球選手の応援と同じだということに途中で気づいてからは大変。なかなかねヤキモキしますよね。結構ね僕は現実でも一軍当落選上の微妙選手に肩入れしてしまうことが多いのですが、まさかゲーム内でまで微妙選手に一喜一憂することになるとは思いませんでしたね。

 色々言ってますがちゃんとポイント抑えつつも立派な上位互換に仕上げてもらってうれしいです。このあたり暑苦しい記事があるのでお時間のあるかたは御照覧下さい。今後僕の頭からはおそらくこれを超える記事出ないと思いますんで。

引退に寄せた記事
https://bbl.webliru.com/information.php?info=n&id=3442
https://bbl.webliru.com/information.php?info=n&id=3444

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*六男 [[ジェームス小野田]](152~172) #6 ~家系随一の再現選手~
:主なポジション|ファースト、レフト
:出身地|大阪府
:球歴|黄泉比良坂国際高‐東京スカイクロウズ(152-155)‐兵庫チーターズ(156)‐広島レッドフィッシュ(157)‐千葉スカイオーシャンズ(158-170)‐兵庫チーターズ(171-172)
:全盛期能力|ミートC60 パワーA96 走力F19 守備E35 小技F29 精神B75 怪我E37 引きずり 粘り○ おかわり
:成長型・AP|凹凸、パワー
:獲得タイトル|打点王 本塁打王 ベストナイン(一、二、三、外) ゴールデングラブ(一)

 そろそろ主砲を育成しようと思い立ちホームランの打てそうなミュージシャンの心当たりを手繰って訪ね当たりました。このあたりジェームスからマーシーまで年末年始年度末から年度明けて多忙と重なり、大介さん以前にあったような出生に関するバックグラウンドや個人のプロフィルが全然ありません。別に今作ってもいいんだけど。何かこう書くからってヒネリ出すのも違うでしょ(面倒な人

 ここまで書いて空想の用意がないなら事実を述べればいいのではないかと気づいたのでそうします。先のとおり初めての凹凸育成はかなりの無駄遣いに終わったのですが、しょーがないなあ次は頑張りなさいよ的に二世代連続で凹凸を引きます。だめな奴ほど神に愛されるみたいな話は実際世界中にありますよね。ちなみに僕はゲン担ぎとして四強引いたら賽銭(ショップの100円寄付)を投げることにしています。いうて晩成とかそこまで好きじゃないですけど一応四強という括りになっているのと、18歳の時点では当たりと見分けつかないですからね。

 そんな訳で神に与えられた凹凸なのでこの子はかなり慎重にコイン投入もいつもより前倒しで育てました。が、終わってみると最終的なサマリは散々な育成だった大介さんとそんな変わりません。ステータス見ると余程まじめに育てられている感はあるのですが、ジェームス君は同世代の同リーグに強打者が多かったんですよね。そのうえ守備に30割いていたにも関わらずチーム編成の都合でDHに甘んじた期間があり、こうなるとやはり打撃に全注した選手と戦うのは苦しいですね。キャリアハイの年がノンタイトルで終わったのは彼の人生を象徴している感あります。それでもなんとか1度は本塁打王と打点王獲得してくれた孝行者です。0と1はね大変な違いですけどそれ以上はね。大差ないです。

 いっぽう守備にリソース割いていたことによって得たものもあります。上手くはなかったですが若い頃はセカンドに就いたり計4ポジションでベストナイン、わりと上手いファーストとしてゴールデングラブ、特に35歳で外野コンバート後もベストナイン獲得できたことは嬉しいですね。珍しいかどうかはともかくパワー型のわりには意外と器用人です。
 当時のスカイオーシャンズは内野手がやや過剰で、成長期を迎えた第一世代の選手が二軍に甘んじる状態になっていましたので衰え前に少し守備力積んで35としあらかじめコンバートに備えました。これで一発目大きな衰え引いたらごめんなさいなので黙ってやりましたが無事若干で30切らずに済み、胸を撫で下ろしました。コンバートに限らず守備力は少しあると潰しが効きますね。偉そうにチーム編成的な話をしているけども結局先述の通り僕が一番得しているしね。

 三度目の衰えを迎えスカイオーシャンズでできることはもうないと感じ移籍前提にFA宣言したところ、チーターズから驚くほどの高額オファーがあり移籍。集団水死があった直後で外野は荒野になっていました。ここで2年プレーしたのち、大橋家ではたぶん唯一のシーズン前半での引退宣言。この結果通算本塁打399本となりました。
 引退の年もなかなか厳しい戦いだったのですが、この翌年チーターズは太陽系の彼方へ消えるボイジャーの如く順位争いから遠ざかり、歴史的勝率を叩き出して最下位に。衰えきったジェームスくん一人残っていたところで足しになったとも思いませんが少し早まったかなとは思いました。

:通算成績|2170試合 2408安打 399本 1281打点 22盗塁 29FP 打率 .286 出塁率 .330

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*七男 KAN(173~191) #35 ~神宮にいそうな打撃型先発~
:主なポジション|中継ぎ、先発
:出身地|千葉県
:球歴|針嶺高‐千葉スカイオーシャンズ(173-174)‐東京スカイクロウズ(175-191)
:全盛期能力|球速D145 球質D51 変化B83 制球C60 スタミナC60 精神F24 怪我D45 奪三振 気迫〇
:変化球|スライダー21 スプリット36 サークルチェンジ26
:成長型・AP|持続普通、変化

 久々の投手育成は変化APをやってみようと決めていました。この頃はまだ変化球は実用的には不遇の時代でしたが、それでも変化には狂信的なファンがたくさんいるので多分楽しいんだろうと思ったからです。
 で、実際楽しかったんですよね。成績が出るとかとは別に変化球が育ってくのが楽しいみたいのを感じました。首尾よく変化小AP貰えてなかったら別の感想になった可能性はありますが、結構育っても必要経験点50とかじゃないですか。まーねそのぶん最初からコストは高いんだけども新球取って育ててもそこまで苦行ではなかったです。過去の二人変化2球種で今回も2球種だったのでまたかよと思って1球種取って、これが良かったのかどうかはわからないけど新球も楽しかったんですよね。以前ツーシーム取った時はこいつぁ中々の苦行だなと思ったものですけども、BBL慣れしたということなんですかね。

 さてドラフト入団先はちょっと前まで兄ジェームスの所属したスカイオーシャンズだったんですが、先発不足のためまあまあな学徒動員で一軍先発枠へ押し出されます。スタミナ30上回っちゃうと今先発するくらいなら二軍に留まりたいというのができないんですよね。中継ぎ無双自体はゲームシステム上の欠陥なので善し悪し言うつもりはないんですけど、スタAPでもないのに生贄になる先発は得るものがガチでひとつもないからたまりません。別に通算成績に拘りは全然ないけども単純にBBL開く気なくなるんですよね。これ何年も続いたらやってられんなという訳でトレード志願2年目で運よく脱出成功。飛んだ先は東京スカイクロウズでした。

 ここで初めてジャイロくんの親である薄太郎さんと同僚になります。選手の年齢も近くて全盛期をタイプの違うダブルエース(勝ててるとは言ってない)的に過ごせたことは楽しかったですね。タカ派し光成とKANなので僕は勝手にKKコンビと呼んでいました。
 また少し上の年代にみすたーさんの田中屋あかね選手がいて変化型のお手本というか目標というか育成中の心の支えにさせてもらいました。在籍中総じて強くはなかったけれど程よく活気のある居心地のいいチームでしたね。ただBBLS3連勝からの4タテ敗退による心の傷は未だに癒えてません。

 中1定着も早くリリーフでは成績出てたので先発転向させなければ一度くらいはタイトル取れたかもしれませんが持続系初めてだったので匙加減がわからず、持続普通って四強の次くらいでしょいけるんちゃうん的にキャリア後半で先発転向しました。結局ノンタイトルに終わりますが別に家系初でもないのです。大橋家には普通に練習消化してさえいれば追い越せる背が当初からあります。安定的に試合に出ているということの素晴らしさよ。

 彼は生まれつきミート15パワー21と打撃能力が高く、投手方面の二刀流だったと思われます。現役中に気づいていれば少し伸ばしたかもしれませんが引退後指摘を受けて初めて気づく体たらく。まあねただでも中途半端な育成だから気づかなくて幸いだったんじゃないかなって。

:通算成績|503登板 投球回1636回2/3 先発193 完投2 完封1 67勝 95敗 66H 16S 1673奪三振 防御率2.72 打率.111 打点9 盗塁3