アットウィキロゴ

パナマ危機

本ページはパソコンでの閲覧、もしくはスマホブラウザにおけるパソコン版表示での閲覧が推奨されています。

パナマ危機(パナマきき、 Panamanian Missile Crisis)は、瑞州合衆国連邦ラティアンス・レフタニア技巧連合との間に締結された「羅瑞門戸開放協定」に危機感を覚えた大中華が、パナマ国に中距離弾道ミサイル基地を設置したことで始まった一連の軍事危機。

目次
1.背景
2.事態悪化
3.海上封鎖
4.合意締結
5.その後

パナマ危機
Panamanian Missile Crisis

洋上の中華軍機を追跡する瑞州軍機。
場所  パナマ地域
日付  統一暦206年4月1日~14日
関係国 
大中華
瑞州合衆国連邦
パナマ国
損害  なし なし
原因  瑞州合衆国連邦とラティアンス・レフタニア技巧連合の接近
背景
統一暦206年から遡って数年ほど、大中華は緩やかな不景気に襲われており、上層部は外需の拡大によってその状況を打破しようと考えていた。そのもくろみはアジア圏国家との同盟や枢軸への加盟などによる対外貿易の拡大によりある程度成功していたものの、上層部は不景気の解決にはあと一手足りないと判断し、新大陸市場への貿易拡大を203年度あたりから計画し始めた。特にパナマ国は豊富な資源の割に経済状況が芳しくなく、いわゆる「債務の罠」に陥れることで実質的に植民地とし得ること、またここ数年で関係の悪化していた瑞州への前線基地としての利用価値の高さ等を考慮し、計画の第一の標的に選ばれた。
中華の計画を察知した瑞州は、裏庭とも言える中米地域でそれが行われることに激怒した。しかし中華の計画は、表向きは貧困国支援として行われている事業であり、それを止めることは瑞州のイデオロギー上難しく、最初の1年ほどは目立った外交的リアクションを見せなかった。一方で204年末には、中華や、伸長を続ける帝国主義勢力の拡大に危機感を覚え、東南アジアへのプレゼンス能力を持続あるいは強化するため、瑞州はラティアンスとの関係強化を模索し始めていた。
この動きに対して、今度は中華が激怒した。瑞州の目論見以上に、自身の地域覇権を脅かすような殺意を感じ取った中華は、報復の形でパナマの傀儡化を推し進め、206年にはパナマ政府に強い影響力を行使できるようになっていた。4月1日、中華総統府は「瑞州による中華人民への直接的悪意への回答」という談話を発表した。これ自体は非難声明でしかなかったが、ほぼ同時に中華の中距離弾道弾がパナマに駐留しだしていることが瑞州の偵察衛星によって確認され、ここにパナマ危機の火蓋が切って落とされた。

事態悪化
中華の中距離弾道弾基地が確認されたことで瑞州の態度はより硬化することになり、5日午前、同国は即座にパナマ国と中華へ弾道弾の撤去を求めた。6日正午の返答では、中華政府はその存在を否認していたが、7日夕刻には「ごく少数の弾道ミサイルは確かに存在するが、それは反動国家瑞州に対するパナマ人民の戦略抑止による自衛のためのものであり、瑞州による民主主義という自己満足による国家主権すらも無視した介入に対抗するためのものである」と返答を変更し、瑞州への対決姿勢を明確にした。同時に瑞州によるパナマ侵略の危険が高まっているとして、数個旅団規模の陸上部隊を駐留させることを一方的に通告した。
瑞州国内世論は二分に大きく分かれた。右派勢力はパナマへの武力介入を求め、左派勢力は外交ルートでの解決を模索せよと喧伝した。特に前年の、ヴィラン・キンシャサに対する容赦なき憤怒作戦の顛末は双方に強い支持を与えていた。右派はヴィランの沈静化に成功し、国際社会と連帯、あるいは貢献したことをパナマでも再現せよと躍起になり、一方左派は瑞州特別司法裁判所でも問題になったように、安易な軍事力の行使はむしろ国際社会の支持を失いかねないと懸念していた [*1] 。桐野内閣は逡巡の末、当面の直接の軍事力行使は避けつつも、中華の暴挙は全てのオプションを念頭に食い止めるという方針に至り、10日、すぐさま2個空母打撃群によるパナマの海上封鎖という形で実行された。

海上封鎖

海上封鎖に臨んだ第5空母打撃群の空母「きぶこう(CVN-23)」。

瑞州の海上封鎖に対して、中華は主力艦隊によって船団を護衛し強行突破させることによって対応し、11日には船団が出発していた。しかしこの方法は一歩間違えれば全面戦争を誘発しかねない危険な方法であり、拡大したとはいえ未だ不安の残る中華の海軍力では、瑞州相手に太平洋を横断しての全面戦争は避けたい選択肢であった。瑞州側も世論が分かれ、パナマ侵攻という選択肢を即座に選ばなかったように、中華との全面戦争は避けたがっており、ホットラインを開通させ交渉が行われた。しかしその間も海上ではにらみ合いが続いていた。

合意締結
このまま開戦しても勝てるかきわめて怪しいと踏んだ中華上層部は、瑞羅の蜜月にあたって本能的に恐怖していた「ラティアンスに瑞州の中距離弾道ミサイルが配備され本土を射程に収める」という事態を回避できればいいと考え、またパナマはそのための生贄にするのもやむなしとの判断を下した。当初の目的であったパナマの事実上の植民地化が同国経済のあまりの貧弱さによってマイナス収支になっていたことも影響したと推測されている。
中華のその後の動きは早く、封鎖開始の3日後である14日には瑞州と中華の間で合意が締結された。海上封鎖は解除され、中華船団は引き返していった。

その後
中華が引き上げていったパナマでは数年をかけて経済崩壊と政変が起こり、ほとんど内戦状態となった。このうち最有力となったのは、新大陸にいたヴィラン教徒たちが団結して形成された「ヴィラン・パナマ」であった。

最終更新:2026年03月04日 21:31

*1 ただし同裁判所で瑞州を糾弾し、その後も瑞州との対立を選んだのは帝国主義陣営の諸国であり、右派勢力からの「左派は国際社会を狭く見積もりすぎている」という非難を生んだ。