【権社と実社】

権社(ごんしゃ)とは、人間や含生たちに慈悲を与えるために、仏*1が神のすがたをとった存在を祀ったもの。つまり、本地を持つ霊神で、権(ごん)は「仮り」という語義である。これに従う眷属などは、「護法」や「護法善神」などと称される。

実社(じつしゃ)とは、含生の霊や、鬼神・妖怪たちを祀ったものであり、そのうちの荒ぶる存在たちは祟りをもたら悪神・邪神であるとされる。また、実社の多くは「神」として存在してもいるが、それに伴って受けなければならない苦しみも、存在する限りは受け続けなければならない。これは実社に属するものであれば、どのようなに高貴な存在でもひとしく生じるのだ。

【妖怪と実社】

各地の土着の鬼神や精霊たち、または竜蛇や狐狸、天狗などは、実社にあたる。

【神と妖怪】

本居宣長は「神」について「尋常(よのつね)ならず、すぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこき)物」*2だと示している。妖怪の一部にも霊力や徳が高く、寺社に崇敬されている存在がいるが、本質的に両者の間に大きな隔絶はない。強大な勢(ちから)すぐれた徳(こと)を持った存在が「神」として祀られる。

また「神」を装った「妖怪」が人間をだまして自信を祀らせる行動をとることも、昔話をはじめ各地に見られることである。逆に、何も能力を持たないはずだった存在(生ある物と生なき物、いずれでも)が人間によって篤く信奉された結果、強大な勢(ちから)すぐれた徳(こと)を持つようになることもある。

はじめから「神」として生じたものたちは「神」として存在しつづけなければならない。そこから逸脱することは出来ず、世の中の含生(生物)たちが起こす悪事も「神」として受けなければならない。それは人間の体内に無数の含生がおり、それらの活動によって清朗にもなり痛楚をうけることにもなる関係性とひとしい。

恒苦

この神の身として受け続けねばならない苦しみは、本地仏や菩薩号を獲得することで脱することが出来ると考えられていた。


最終更新:2025年07月24日 22:29

*1 『愚迷発心集』には神には権社・実社、仏に始覚・本覚の違いがあると示されている

*2 本居宣長『古事記伝』