その男は、降りしきる雨に濡れることなく立っていた。誰にも気付かれることなく、誰の目にも留まることなく。男は、雨の中消えゆこうとする炎の前まで歩いていくと、
「『レジーナ・チェリ』、この炎を“時の流れの外の世界へ”……」
と、小さく呟く。
その背後に付き従う、胎児を強引に成長させたかのような不気味な人影は、微かに首を動かしたように動き、そして炎を手刀で切断する。
不思議な事に、切断する一瞬だけ男は雨に濡れ、一方相反して切断された炎の一部は火勢を留めたまま揺れ動くのを止めた。それ以外の炎は全て雨によって鎮火していったというのに、この炎だけは雨に当たる事無く消えなかった。
炎を手に捧げるスタンドを連れ、男はただその場にたたずんでいた。が、雨水を撥ね上げ走ってくる少女の、胸元に揺れる紅の宝石を見た時、彼の口元が微かに緩んだ。
男は、おもむろに懐から取り出した一本のナイフを投擲し、そしてゆっくりと歩みを進めた。
「『矢』を、取り戻すのに成功しました。後は、次の移動手段を見つけるだけですね……、う、ウオーヴォさん?!」
雨に濡れ、地面からの湧水で水浸しになった広場へと意気揚々と駆け戻ったジョルナータであったが、彼女は不意に狼狽した声を上げた。
ステッラの背に負われて待っていたウオーヴォの両足が途中から吹き飛んでいたのだ。
「ご苦労だったな、ジョルナータ。
――ああ、これは気にするな。敵を仕留める際に必要に迫られて自分で吹き飛ばしたまでだ。切断した足は回収してある、悪いが今すぐ植え付け直してくれるか?」
背負われていたウオーヴォであったが、彼はこの重傷にも眉一つ動かすことなく、袋に詰め込んだ両足をジョルナータへと振って見せる。この気丈さには流石のステッラも苦笑いした。
「ウオーヴォ、お前はやはり兄に似ているな。お前の兄は、たとえ体の半分を削ぎ落されようと任務を成し遂げようとする男だった。
そうだ、ジョルナータ。やはり宝石は俺が預かっておく。渡してくれ」
「当然だ、僕は兄の名を辱めないように行動しているにすぎない」
平静さを保った思い人の様子に、ジョルナータはホッと胸を撫で下ろし、右手で宝石を掴んで歩み寄ろうとし……、
「え?」
自身の右腕が切断され、そしてステッラの胸にナイフが突き立つのを目にした。彼女が見たものはそれだけではなく、
「がっ、あ……!」
ウオーヴォが胸を掻き毟って苦悶の声を上げるのと、自身の胸を貫いた手刀が、心臓を掴むのも同時に目にした事であった。
男の投擲したナイフは、ウオーヴォを背負ったステッラの胸元まで飛来するや、それまでの軌道が嘘のようにピタリと中空に停止した。ステッラがそれに気付く様子はない。
そのまま歩み寄った男のスタンドは、手に捧げた炎をウオーヴォの胸へと押し込んでいくが、何故か肉が焦げる事も、何かに妨げられることもない。
そして、炎を肺の中へと突っ込まれたウオーヴォでさえ、男の行為に気付く事無く手にした袋を少女へと示す。
これが、『時の流れの外の世界』であった。誰にも干渉されず、誰にも気付かれず、誰にも邪魔されない。無敵の空間を歩むドゥオーモは、気付かれないままジョルナータの背後へと歩み寄り、
「再び『時の流れの中』へ……!」
と叫ぶや、『レジーナ・チェリ』の手刀を振るった!
「『エイジャの赤石』は貴様たちの手に在るべき物ではない……。これは、私の物だ!」
突然背後に現れた男によって、力任せに心臓と宝石がもぎ取られる。ジョルナータは、声もなく倒れ伏した。心臓を引きちぎられたのだ、間違いなく死ぬ。
胸を掻き毟っているウオーヴォは、肺に直接火をつけられた。如何なる治療スタンドでも、体内の火事を鎮火しつつ傷を癒す事など出来はしない。彼もまた死は必至。
そして、『パッショーネ』幹部であったステッラは、為す術なく胸にナイフが突き刺さった。これもまた死ぬであろう。が、駄目押しにもう一本。
ドゥオーモは右手で再びナイフを取り出すと、ステッラめがけて再び投擲しようとする。が、その時くず折れたはずのステッラが、その姿勢のまま跳躍した。
「!?」
咄嗟に飛び退いたドゥオーモであったが、『SORROW』の手刀をかわしきる事は出来ずに、右腕を肩口から切断される。が、その瞬間にステッラの首筋から覗いた物に、彼は相手がこうも敏捷に反応出来た理由を知った。
「針金の鎖帷子か……!」
「そうだ。ベルベットが狙撃されて以来、俺は飛び道具を警戒していた。まさか、探知することさえ出来ない飛び道具が来る、とまでは思わなかったがな」
ナイフは、針金の網に妨げられて十分に突き刺さっていなかった。そして、時の流れの中にいる限り『SORROW』の方が『レジーナ・チェリ』よりも強い。おまけに片腕を切断されたのだから情勢は更に不利である。
しかし、この状況下で、ドゥオーモは嗤っていた。
「何がおかしい?」
「簡単な事だ、情勢をひっくり返すだけの手段がある。それだけの話だ……。私は人間を止める! 『レジーナ・チェリ』よ、時の流れの外から、保存していた光を齎せぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!」
彼の左手には、『赤石』を嵌めこまれた『石仮面』が握られている。ドゥオーモがそれをかぶった瞬間、ステッラの脳裏に一笑に付していたある情報がよみがえる。
「究極生物……! まさか、あのデータは本当だったのか?!」
その戸惑いが、彼の反応を一歩遅らせた。唯一歩の遅れが、この場合は十二分に致命的であったのだ。
『レジーナ・チェリ』の掌から光が満ち溢れ、仮面をかぶったドゥオーモを、そして周囲を明るく照らし出した。
そして、光の中から現れ出た時、ボスは、そのスタンドは姿を一変させていた。ステッラは後れを取った、この瞬間『ヴィルトゥ』のボスは人間を超越してしまったのであった。
(熱い……、これは、肺を焼かれているのか?!)
倒れ込んだウオーヴォは、胸部を内から焦がす苦痛で意識を満たされていた。だが、彼はとある物音で我を取り戻す。ジョルナータが倒れ込んだ際の水しぶきだ。
効き腕を切断され、更に心臓をえぐり取られた彼女は、弱弱しく喘いでいる。おそらく、数呼吸もしないうちに絶命するであろう。
それを、彼は救う術を持たない。仮に、救う術があったところで自分の命が持たないだろう。内側から肺に直接火をつけられているのだ、如何なる癒しのスタンドを以てしても助けようのない致命傷である。
絶望が、体内の炎にも負けぬ勢いで心を焦がす中、二つ目の音が彼を立ち返らせる。
それは、ボスの腕が切断されて地面に落ちた音であった。落下する右腕を見、そして自分の掌に目を向けた彼に、天啓が舞い降りた。
(……なんだ、何一つ問題はないじゃないか。このままでは僕は死ぬ、ジョルナータも死ぬ。治療する能力はジョルナータが持ち、彼女を操る能力は僕が持っている。そして、彼女に欠けている右腕は今落ちた。そして、心臓はここに在る。僕の身体の中に。
絶望する必要はない、希望はまだ残っている。
・・・・・
ただ、僕が死ねばそれでいい)
答えは、最初から存在していたのだ。ただ、自分が気付かなかっただけだ。気付いたからには、解法通りに行動すればいい。もとより、死ぬ覚悟は出来ていたのだから。
「『ダフト・パンク』……、ジョルナータを操り、僕の心臓をと……奴の腕を、彼女に、移植させろ……」
「!!!」
その言葉に、虚ろになっていたジョルナータの瞳がショックで大きく見開かれた。そんな事をしてまで生きたくはない!
視線で拒絶しようとするジョルナータ、だが体は動かず、易々とコードを受け入れてしまう。そして、『インハリット・S』の腕が発現した。
「やれ、『インハリット・S』!」
「やめてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
本体の叫びは、空しく雨に溶けた。発現したスタンドの腕は、正確すぎるほど正確にウオーヴォの胸板を切り裂いた。
雨粒に打たれ、取り出された心臓がトクン、と鳴った。血管を植え付ける作業は、抜き取ると同時にやっている。あとは、表面の肉を、血液をウオーヴォの肉体から補充するだけだ。
「いや、こんな事……私は……」
「君がやるんじゃない、僕がやらせた。それだけだ、罪に感じる事はない。そして、苦しむ事はない。僕は、君の中で生きるだけなのだから」
すすり泣くジョルナータの肉体を操りながら、ウオーヴォは優しく彼女を慰めた。そして、彼女の肉体は完全に修復された。もはや、心臓のない体で意識を保とうと心を張る必要なんてない。安堵したかのように一度目を瞑ったウオーヴォであったが、しばらくして薄く瞼を開き、
「……ああ、一つ言い忘れていたな。ジョルナータ、僕は――」
――君の事を好いていたのかもしれない。微笑みと共にそう言い残して、ウオーヴォの息は絶えた。
ウオーヴォ・クルード――死亡
ジョルナータ・ジョイエッロ――生存
「ウオーヴォ、さん……! あなたは、あなたは……!」
遅すぎた! 死と生の急激な転換と、思い人が自身の為に死んでいった事に、放心状態となったジョルナータの瞳から、一滴の涙が零れ落ち、『矢』へとふりかかった。それがきっかけだったのかもしれない。『矢』が、突如跳ね上がってジョルナータの身体へと動きだしたのは。
自身を貫こうと、自ら動きだした『矢』を、ジョルナータは――
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