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願いと報復のコズミック・ケイオス

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毎夜、沫坂 蓮介はテレビ消さずに眠る。つけっぱなしで朝を迎え、早朝のニュース番組の音で目を覚ます。
居間のソファーで寝るようになってから、もうどれくらい経つだろうか。沫坂は疲れの残る身体を起こし、顔を洗うより歯を磨くより先に、まずテレビの音量を上げる。
そしてアナウンサーが読み上げるニュースに耳を澄ます。番組が終わるまで、沫坂はテレビから目を離さない。

ニュースが終わると、彼はコーヒーを片手に新聞を読む。政治や経済、スポーツ記事は読まない。事件、事故の面だけを読む。
何かを探すかのように、じっくりと全ての事件に目を通す。そして読み終えると、どことなく物足りなさそうに新聞をたたむ。
それからようやくシャワーを浴び、朝食をとり、身支度をはじめる。これが彼の朝である。
“あの夜”からずっと、沫坂 蓮介の日々はこんな感じだ。

その日は日曜日、立会人にとっても休日である。毎週日曜、沫坂は行きつけの小さな喫茶店に向かう。
愛車のキーを手にとって、沫坂は玄関の扉を開けた。









願いと報復のコズミック・ケイオス







左ハンドルの愛車を走らせ店に向かうとき、沫坂はその前にある小さな家を訪ねることにしていた。
冬枯れの並木道を抜けると、寂しげな空模様の下、わびしい風景の中にぽつんと建つ一軒の家が見えた。
緑色で可愛らしい、木造の家だった。沫坂は家の近くに車を停め、玄関の前まで向かうと、呼び鈴を鳴らした。
自然に囲まれた家というのは、春先だと深緑の中に溶け込むようで快適なのだろう。しかし冬はただ寒々しいだけだと、沫坂はこの家を訪れる度に思う。
そうこうしていると扉が開き、若い女性が姿を見せた。アーモンド色の長い髪に、雪のような白い肌が映える。

「お待たせ。行きましょうか」

首元のマフラーに顔をうずめて、クリームヒルド・ブライトクロイツは言った。
沫坂が立ち寄ったのは、クリームヒルドの家だった。クリームヒルドを助手席に乗せて、沫坂はエンジンをかけた。
二人を乗せた車は並木道を抜けて、町の方へと走っていった。
 
 
 




第十回トーナメントはクリームヒルド・ブライトクロイツの優勝で幕を閉じ、彼女――クリームヒルドは願いを叶えた。
「トーナメント立会人になる」という願いだった。なぜそんなことを願うのか、立会人になることにどんな意味があるのか、それは本人以外に知るところはない。
過程や背景はどうあれ、今の彼女は立会人である。仕事は沫坂から教わっていることと、まだ初立会を経験していないこと、重要なのはそれらの事実だけである。

「ブレンドコーヒーのホットとチーズケーキ。君はアイスティーとシュトゥルーゲルか?」
「ええ」
「じゃあ、以上で」

喫茶店に入った二人は、窓際の席で机をはさみ向かい合っていた。沫坂は慣れた様子ですらすらと注文し、承った店員が奥へと下がっていく。
毎週日曜の喫茶店は、沫坂とクリームヒルド、二人の習慣だった。日曜の午後、二人はこの店のこの席で、お互いにゆったりとした時間を過ごす。
お菓子を食べて、少しだけ会話を交わしたあと、二人はそれぞれは持ち寄った本を開き活字の世界に没頭する。
クリームヒルドは、この習慣が好きだった。絶品のシュトゥルーゲルに舌鼓をうち、穏やかなジャズの音色を微かに感じながら、思う存分知識の泉に浸かれるのだ。
心地よい静寂に包まれて、二人はいつも窓の外が暗くなるまで、その席で時間を過ごした。

二人の習慣が生まれたのは、クリームヒルドが立会人になった日からひと月ほど経ってからだった。
最初はデートの誘いかとも思ったが、沫坂に下心がないことをクリームヒルドは徐々に知っていった。
喫茶店で過ごすこの時間はもともと、沫坂と今は亡き親友・甲斐谷とのものだったのだ。
甲斐谷との話は聞かされていたから、彼との時間を忘れられず、他の誰かで再現しようとする気持ちは理解していた。
最初は同情から始めた習慣だったが、今ではクリームヒルドにとっても欠かせないものになっていた。
会を重ねていくと、男と女の関係ではなく、先輩と後輩という単純なものでもない、奇妙な関係が出来上がっていた。

「――ふぅ、終わった……。うーん、眼が痛い」
「読み終わったか。もうこんな時間だ、そろそろ帰ろう」
「そうだね……。ごめん、待たせちゃって」
「気にするな、本の虫め。会計を済ませてくる。車のとこにいてくれ」

クリームヒルドが本を閉じると、先に読み終えていた沫坂が言った。
気が付くと、窓の外に見えるのはもうすっかり夜の闇である。店内の客も、自分たちを残すのみとなっていた。
クリームヒルドは、この終わり際が苦手だった。楽しい時間が名残惜しいのは当然だが、それ以上に辛いのが、席を立つ瞬間の沫坂を見ることだった。

「……」

ほんの一瞬だけ、寂しそうな眼をするのである。それは、自分と同様にこの場を名残惜しむものではなかった。
楽しんでいたのは自分だけなのかと、クリームヒルドに思わせる眼だった。
胸中をかりかりと引っ掻くような、そんな沫坂の顔を見てしまうから、クリームヒルドは終わりの瞬間が嫌いだった。







町を抜けて、沫坂はクリームヒルドの家に向かって車を走らせる。
陽が沈み夜になると、クリームヒルドの家の周囲は完全な宵闇に包まれる。街灯もなく、わずかな月明かりと暗順応で小さな家を探すのだ。
しばらく走っていると、沫坂はふいにカーラジオのボリュームを上げた。ここでもニュース番組が流れていて、機械的なアナウンサーの声が車内に反響する。
アナウンサーは、都内で起きた猟奇殺人のニュースを読み上げていた。真剣な表情で耳をそばたてる横顔が、クリームヒルドの視界の端にちらつく。
やがてその事件の犯人が逮捕されたと伝えられると、沫坂はすこしだけ残念そうな眼をして、ラジオのボリュームを下げた。
アナウンサーの声が遠くなり、クリームヒルドは外を眺めながら口を開く。

「……ねぇ、聞いてもいい?」
「ああ」
「あなたの車に乗ると、ラジオはいつもニュースよね。音楽をかけるでもなく、ラジオを切るでもなく、絶対にニュースを流してる。
ただ流してるだけじゃなくて、真剣に聴いてて……何かを待ってるように、私には見える。なぜいつも、ニュースを聴くの?」

クリームヒルドは、沫坂の方を見なかった。沫坂も、前照灯の先だけを見つめている。

「ニュースを見て、聴いて、新聞を読んで……それで、探してしまうんだ。ヤツの姿を」
「……朝比奈 薫?」
「ヤツの痕跡を探して……探している間は、落ち着く」

呟くような声で、沫坂は答えた。
沫坂の右目と、親友を失う原因を作った男――朝比奈 薫。男子高校生、第十回トーナメント参加者、シリアルキラーなど、複数の肩書きを持つ悪魔。
そして、クリームヒルドが下した相手でもある。
クリームヒルドは理解した。朝比奈 薫の存在が、沫坂 蓮介のたった一つの生きる目的になりつつあることを。

「一生、恨み続けて生きていくの?」
「……」

朝比奈 薫を殺す。報復を行う。いつか来るその瞬間を目指して、沫坂は毎日をどうにか生きている。
だから、ニュースの中に朝比奈 薫を期待する。彼が、憎むべき存在がまだ生きていることを確かめたいから。自分の生きる意味がまだ失われていないと安心したいから。
日曜の午後だってそうだ。あの時間には、沫坂の幸せはない。まずいコーヒーとクリームヒルドで、無味乾燥な日々を耐え凌いでいるだけにすぎないのだ。
そんな姿が垣間見えるから、胸が軋む。そして、本人がどんな目的であれ、クリームヒルドにとっては、日曜の午後は何よりもの楽しみである。
だから、より一層辛い。

「いつかは、自分を解放してあげなきゃ……」

沫坂は、何も答えなかった。







枯れ木の並木道を通り、沫坂の車はクリームヒルドの家の前に到着した。
沫坂がエンジンを止めると、冬の冷気が車内をじわじわと蝕んでいくがわかった。
ふぅ、と白い息をはいて、クリームヒルドはシートベルトを外した。

「送ってくれてありがとう」
「ああ」
「帰ったらなにをするの?」
「テレビをつけて、風呂入って、酒飲んで……で、寝るかな」
「……日曜の夜は、いつもそう?」
「いや……毎日こんな感じだな」

ハンドルにもたれ、ぶっきらぼうに言う沫坂。クリームヒルドは、そんな沫坂の横顔をまじまじと見つめ、言う。

「時々ね、こんな想像をするんだ。日曜の午後、私はいつものようにあなたの車を待ってる。服を着て、化粧をして、ここで読む本をカバンに入れて……。
……けど、いつまで経ってもあなたは来ない。自分の人生を見つけたあなたは、私の家には寄らずにそのままどこか遠くへ行ってしまうの。
――そんな日がいつか来ることを、願ってる」

それは本心からの『願い』だった。クリームヒルドの、沫坂に対するささやかな願望。
幼い少女が夢に描くようなハッピーエンドを、彼女は隣に座る男の人生に願っているのだ。彼女の『願い』は、彼女が吐き出す白い息と共に、宙に溶けていく。

「……なぜそんなことを? 俺といるのはつまらないか……?」
「ううん、あなたとお茶を飲むのは本当に楽しい。私にはそれくらいしかないもの。でもあなたには、もっと他に幸せがある」

伺うような沫坂の声に、クリームヒルドは柔らかな声色で言葉を返す。これも、紛れもない本心の表出だった。
まだ知り合って日は浅いが、沫坂 蓮介という男がどういう人間なのか、クリームヒルドは把握していたつもりだった。
一緒に過ごす時間が増えれば増えるほど、こんなところで立ち止まって欲しくない、そう心から強く思うようになった。

きっと彼の中で、複雑な感情たちが渦を巻いているのだろう。
その渦に飲み込まれて、もがくしかできない状況なのだ。
クリームヒルドはそんな風に彼の心情を想像していた。

「……じゃあね。おやすみなさい。また来週」
「……ああ、おやすみ」

車を降りると、外は一層寒かった。白い手を小さく振って、クリームヒルドは家の中へと姿を消した。
彼女が帰ったのを見届けて、沫坂は車のキーを再びひねる。エンジンが動き出して、アナウンサーの事務的な声が車内を満たす。
車は、宵闇に沈んだ車道を走り出した。ラジオから流れる無機質なニュースが沫坂の耳朶を打つが、それらは音の羅列にすぎなかった。

いつかは、自分を解放してあげなきゃ……

頭の中に木霊する、彼女の言葉。沫坂の脳内に、それ以外の音が入り込む余地はなかった。







トーナメントの長い歴史の中で、命を落とした者は決して少なくない。
大抵は参加者だし、運営側で亡くなった人間もいる。例えば、沫坂の親友の甲斐谷立会人もその一人である。
命を散らした彼らは、関東某所のとある霊園に納骨される。その所在を知るのは、トーナメント運営のなかでも限られた一部だ。

沫坂は、その限られた一部だった。第十回トーナメントで死亡した小早川 武人、そして甲斐谷がこの場所で葬られたことを知っていたし、ここを訪れることを許されてもいた。
沫坂はその日、初めて霊園に足を運び、甲斐谷の墓を参ることにした。
園内を少し歩いて、甲斐谷の墓を見つける。そこにはまだ真新しいが、しかしながら厳かな雰囲気を放つ墓石がどっしりと構えられていた。

「……よぉ、甲斐谷」

一言呟いて、沫坂は手桶の水を墓石に少しずつかけていく。

「嫁さんと同じところに入れなかったのは、残念だったな……。
……俺に文句言うなよ。むしろこっちが文句言いてえくれーだ、クソ野郎」

しゃべりながら、花瓶に水を注ぎ、茎を切った花を差し込む。

「……こないだ、後輩に説教されたよ。結構胸にキた……あの子は俺よりお前より、きっと良い立会人になるだろうな。そう思うよ」

花を添えて、沫坂は甲斐谷の墓を見つめた。自分が話しかけているのは、ただの無機質な石である。
返事など返ってこないし、そこに自分の探す答えなどないことはわかっていた。わかっていたが、自然と口が動いた。
こうするしかなかった。昔から、いつも悩みや愚痴は甲斐谷に向かって吐き出してきた。自分の中に燻る思考や言語を、ほかの何にぶつければいいのか、知らないのだ。
だから、死しても甲斐谷を頼るしかなかった。物言わぬ石に話すしかできなかった。

「立会人として、先輩として、ひとりの男として……かっこわりーとこ見せてらんねーよ。
わかってんだ。俺もお前も……決着、つけねーとな」

待ってみても、甲斐谷が助言をくれることはもうない。ここからは、一人で答えを出さなければならない。
冷たく佇む墓石を前に、沫坂は理解し、そして決意を固めた。

これを行えば、もうあとの人生には何も残されていないような気がして、怖かった。
だから、決断できなかった。けれど、それでは何も終わらないし、変わらない。
自分も、甲斐谷も、そして朝比奈 薫も。こんな惨めな因縁からは、みんな解放されるべきなのだ。

たとえハッピーエンドでなくてもいい。もうここで、この混沌を終わりにしたい。

彼はようやく決断した。立会人としての、そして沫坂 蓮介という一人の人間としての、最後の闘い――
――朝比奈 薫への『報復』を。
そうして、沫坂は甲斐谷の墓をあとにし、腹を決めた眼差しで、来た道を戻っていったのだった。







「クリームヒルド、君に立会をお願いしたい」

それから数日後、沫坂は人気のない廃デパートの屋上にクリームヒルドを呼び出し、彼女に向かってそう言った。
彼女は、すぐになんのことか察した。しかし、すぐには否定も肯定もしない。
遠くの景色に目をやると、ねずみ色の寒々しい空が町を覆っている。薄暗くて、息のつまりそうな印象の空模様は、まるで沫坂の結末を暗示しているかのようだ。
クリームヒルドはそんな風に感じてしまったが、決してそれを表に出さなかった。
朝比奈 薫の恐ろしさは十分承知しているし、沫坂はそれを自分以上に身にしみて理解していることもわかっていた。
不安を覚えないわけがない。だが、芽生えたものを表に出してはならない。
今はただ黙って受け止める――それ以外の態度は許されない。意見や反論は、そのあとである。

吹き込む冷たい風が、沫坂の吐く息を散り散りにした。
クリームヒルドの長い髪が風に揺れる。彼女は静かに、沫坂の言葉を待った。沫坂の瞳だけを見据えていた。
そして、沫坂が再び白い息を吐く。

「俺とヤツの結末を……見届けてくれないか」

クリームヒルドは、その『願い』に意見したりはしなかった。彼女はただ静かに頷いた。

「セッティングするわ」

それが、立会人・クリームヒルドの最初の立会いであり、沫坂のクリームヒルドに対する最初で最後の『願い』だった。







S県K市を騒がせていた不可解な連続殺人は、その年の冬に差し掛かると隣県にまで魔の手を伸ばし始めていた。
逮捕の危険を感じて場所を移した、ということではなかった。警察は相変わらず手がかりをつかめずにいたし、殺人鬼本人もそんな心配はしていなかった。
ただ単純に、殺人に貪欲になっただけである。その男は、週に必ず一人は殺さなければ満足できない身体になってしまっていた。
そして、そんな自分をもう抑えようともしていない――シリアルキラー、朝比奈 薫は。

I県南部、T市。その夜、学校から帰ってきた一人のある女子高生は、駅を降りてからずっと、だれかの不気味な視線を感じていた。
ねっとりと背中を這いずるような、形を持つ気配。振り返ってみても、宵闇が広がるだけで誰の姿もない。
女子高生は恐ろしくなり、多少遠回りにはなるが、なるべく人通りのあるルートを帰路に選んだ。
しかし、肌にまとわりつく得体のしれない恐怖――それは一向に消えない。それもそのはず、女子高生がすれ違う全ての人々が、中毒者のような虚ろな眼で浮かべているのだ。
誰ひとりとして、言葉を発さず、他者を見ようともせず、どこへ向かおうともしていない。ただ、ふらふらと歩いているだけなのである。

こんな光景を、彼氏のやるゲームの中に見たことがある。
なんだっけな、あれ。そうだ、バイオハザードだ、などと思いだして、それから女子高生は必死に、彼氏や家族、学校など楽しいことを頭に浮かべる。
頭の中を覆い尽くすように、楽しいことだけを考える。それでも、ほんの少しの恐怖でそれらはいともたやすく霧散する。
そのときだった。

「ねえ君、君だよ」

背中から、突然誰かに呼ばれて、女子高生の足は止まった。恐怖に凍りつき、動かなくなってしまった。
振り返ることはできない。怖くてできない。できないが、声の主が目の前に出てきてくれたので、その必要はなかった。

「こんばんは……。突然だけど、ケータイみせてもらえます?」

銀髪、勲章だらけの学ラン、左手に握るヨーヨー。女子高生を呼び止めたのは、朝比奈 薫だった。
薫はヨーヨーをしまい、代わりにカッターナイフを取り出した。カッターの刃をキリキリと伸ばして、女子高生の頬を撫でる。
女子高生は恐怖で顔を引きつらせ、叫ぶこともできない。町の人々は、そんな彼女に我関せずを決め込んで、みな通り過ぎていく。
言われるがまま、女子高生はスマホを薫に差し出した。

「ありがとう。君のお友達の連絡先が欲しいんです。すぐ済ませます」

言いながら、薫は女子高生のスマホの連絡先データを、赤外線で送信。自分のスマホで、それを受信する。
そして受信が終わると、女子高生のスマホをぽいと放り捨て、限界まで刃を伸ばしたカッターを、握り締めた。







「じゃあ悪いっすけど……見なかったことにしていただいて――」

薫が、カッターを女子高生の眼に向けて突き刺そうとした、その瞬間だった。
ぶすり、と凶器が肉を貫く音が響き、直後薫の右手に鋭い痛みが走った。
見ると、どこからか飛んできたクナイが、薫の右手に突き刺さっていた。
握っていられなくなって、薫は思わずカッターを落とした。クナイは、手の甲から刺さり反対側まで綺麗に貫通していた。

「……朝比奈 薫くん。お久しぶりね」

激痛に怯み、右手を抑えていると、別の女の声が薫の耳朶を打った。
薫が声の方を向くと、クリームヒルド・ブライトクロイツが、クナイをくるくると弄びながら、通りを歩いていた。

「……痛っ……てぇ……。……なんだっけ、あんた」
「君! ほら! はやく走って!」

もうひとりの別の声がすぐ近くから聞こえて、振り向く。パーカーにジャケットを羽織ったダボダボなスーツの男が、女子高生を逃がしていた。
名は上路 遊助。こんなナリでも一応はトーナメント立会人である。獲物を逃がされた怒りが、薫の中でふつふつと沸き上がる。

「なにしてんだ? お前……」
「うわぁーッ! ちょっ、ストップ! たんま!」

スタンドの右腕を発現させる薫と、ガチの焦りを見せる上路立会人。
クリームヒルドは、いともたやすく二人の間に割って入る。

「やめなさい。トーナメント運営の人間として、今日は君に良い話を持ってきたんだから」
「……はぁ?」

そう言うと、クリームヒルドは黒いコートの内側から、一通の赤封筒を取り出した。
薫の両目が大きく見開かれる。その封筒には見覚えがある。スタンド使いなら誰しもが夢に見る、魔法の世界へのチケット――
――トーナメントの招待状である。

「ある男と闘って、もし勝ったら……あなたをもう一度トーナメントに参加させましょう」

クリームヒルドは赤封筒をぴらぴらとなびかせ、不敵な笑みを浮かべて言った。







翌日。クリームヒルド、上路、そして薫の三人は、とある廃デパートの屋上にいた。沫坂がクリームヒルドに立会いを頼んだあの場所だった。
屋上には、錆び付いた遊具や色あせた看板がそのまま放置されていた。それらを目にするたび、時代に取り残され、忘れ去られてゆく哀愁が胸に迫った。
まだ昼下がりの午後だというのに、屋上では太陽の暖かみは一切感じなかった。太陽の存在を疑うくらいに冷たく、そして薄暗い。
空も、足元のコンクリートも、遠くに見える町並みも、灰色だ。乾ききった寒風がびゅーびゅーと吹き荒れては、三人の肌に突き刺さるようだった。
薫は色あせたベンチに座り、ヨーヨーで遊んでいる。そんな様子をぼんやり眺めながら、上路が口を開いた。

「……なー、クリームちゃん。レンちゃんのために、なんでここまでするんだい?」

その隣で、クリームヒルドも同じく薫を眺めている。

「先輩は? 遊助先輩だって、協力してくれてるでしょ? なんでですか?」
「なんでって……そりゃあ、レンちゃんが好きだから」
「私も同じですよ」

クリームヒルドは上路の顔をみて、微笑んだ。上路は、彼女の言葉に嬉しくなった。
自分と同じように、沫坂 蓮介という男の良さを理解し、愛してくれている人がいる。それが嬉しい。

「しかし、もし朝比奈のヤツが勝っちまったら、いよいよオイラたちも不正に手を染めるわけだ……。ヤバイよなぁ……。ズェッテー、粛清されるよなぁ……」
「私は、先輩の命だけで勘弁してもらえるよう、上に掛け合ってみるつもりですけど」
「ひどいだろ! クリームこの野郎!」

すると、キィィと軋むような音を立てて、階段室の扉が開いた。
中から、いつもの学ランを身にまとった、沫坂が姿を見せた。沫坂はウォークマンの再生を止め、両耳のイヤホンを外した。
ヨーヨーで遊ぶ薫の姿を確認し、眉を吊り上げる。

「揃ったね……じゃー始めちゃおっか」

クリームヒルドは屋上の中心に立ち、二人をそれぞれ呼び寄せる。彼女を挟み、沫坂と薫は向かい合う。
その様子を、離れたところから上路が見守っている。

「えーと……じゃあ基本事項から行きましょうか。時間は無制限、武器の使用は可、戦闘区域はこの屋上の範囲内のみ。
フィールドからの長時間の離脱は逃走とみなし敗北とするので、トイレはいまのうちに。
どちらかが死亡、もしくは私が戦闘続行不可と判断した場合、その場で決着とする。降参するときはお早めにお願いします。両者、問題はありませんか?」
「問題ない」
「同じく」

沫坂と薫、二人は互いの瞳から目を離さない。鋭い眼光で抉るように睨む沫坂と、冷ややかな余裕を浮かべる薫。
うむ、と小さく頷いて、クリームヒルドは説明を続ける。

「続いて、決着時の獲得物について。沫坂 蓮介が勝利の場合、獲得物はありません。
朝比奈 薫の勝利の場合、次回トーナメントの出場権が与えられます。両者、問題は?」
「あー、それなんスけど……それだけじゃ足りないッスね。もう一個、要求してもいいですか?」







「なんでしょう?」
「アンタの命だよ、クリームヒルドさん。俺が勝ったら、アンタを殺す。切って、刺して、刻んで、潰して、砕いて、溶かして、アンタの肉と骨と魂を灼いてやる。
成仏なんかさせないよ? たとえ死んでも何度でも殺してやる。それでいいんなら、受けてやりますよ。この勝負」

あまりに横暴な要求と、脅嚇を目的とした言葉の羅列。それには、まず沫坂と上路が反応を示した。が、薫はそれを確認しようともせず、ただクリームヒルドの表情だけを注視してい

る。愉しそうに。
薫は、クリームヒルドを思い出していた。前回トーナメントで自分を負かし、一縷の希望を断ち切った女。自分を闇に突き放した女であると。

「だって当然でしょ? 俺、この人に一回襲われてるし。トーナメント出場権はその分の慰謝料でしょ。
今日の分は別として、アンタをめちゃくちゃにしていい権利が欲しいんだよなぁ……。ちょうど昨日ひとり殺し損ねたとこだしねぇ……」

参加者だった女がなぜいま立会人をやっているのか、そんなことはどうだってよかった。あのときの恨みを晴らせればそれでよい、『報復』ができれば。
ただ、運営の人間をプライベートで殺すのはまずかった。そんなことをすれば、底の見えない謎の巨大組織を敵に回すことになりかねない。
欲しかったのは、保障された正当なる『報復』の権利だった。

「あっそう……。ま、そんなもんでいいなら全然構わないですよ、私は。では、確認も済んだところで――」
「クリーム!」

しかしクリームヒルドは、あっけらかんとして薫の要求を受け入れた。その態度は、薫の期待するものとは違っていた。
何事もなかったかのように話を続けようとするクリームヒルドを、沫坂が言い止める。

「……心配しなくていいんだよね? 私」

自分の瞳を覗きこむ相手に、クリームヒルドは一言だけそう言った。その相手――沫坂は、一瞬だけはっとしたような眼を見せた。
そしてそれをすぐにかき消して、力強い表情を浮かべる。再び、薫に向き直った。

「……朝比奈 薫。俺を覚えてるか」
「覚えてますよ。あんときの立会人さんだね? アンタもしつこいね」
「すまなかったな。だが、今日でそれも終わる」
「あぁ、たしかに」

皮膚ごと引き剥がすかの勢いで、氷のような風が二人の身体を打ち付ける。
しかし、二人の肌は寒さを感じていなかった。そんなものにいちいち反応する感覚は、残していない。
全ての感覚を一点に集中させ、備える。視覚も聴覚も、触覚も嗅覚すらも。全ては、この次の一瞬のために。

「お前を地獄の日々から解放してやる――死を以てな」

そして――――

「アンタの生首でフットサルしてやるよ」

風に乱れる長い髪を無視して、黒衣の立会人は――――

「クリームヒルド・ブライトクロイツ、立ち会わせていただきます」

ただ冷静に、それを切り落とした――――



「はじめッ!」



――――それぞれの『願い』を閉じ込めた、闘争の火蓋を。







それは、ほんの瞬く間だった。否、誰もがまばたきすらできない、本当に短い一瞬。刹那。
相対する沫坂、そしてそれを見届けるクリームヒルド、上路。三人は、火蓋が切り落とされたその瞬間に、朝比奈 薫の姿を見失った。
全ての光を受け付けない、完全なるどす黒い闇――薫のスタンドの“ガス”が、屋上全体に発生し、包み込んだのである。

(こいつ……いきなり!)

沫坂はバックステップで後方へ逃れ、手早く口元をハンカチで覆う。漆黒の中、他の者の姿は見えないが、おそらく立会人の二人も同じ行動を取っているはずである。
そう信じて、沫坂は薫の気配を拾おうと、視界を埋め尽くす“ガス”に集中する。
すると、“ガス”の中で反響するように、不気味に増幅された薫の声が、沫坂の耳を劈いた。

「……ガスの語源を知っているかい? フランドルでの“カオス”の発音が由来らしい。カオス――そう、“混沌”さ」

妖しく響く薫の声が、沫坂の全ての神経を逆撫でし、疲弊させる。

「――俺の“混沌(ガス)”と、アンタの“混沌(ケイオス)”……もうこの場所に、“秩序(ルール)”はない」

次の瞬間、沫坂のすぐ目の前に、薫のスタンドの手のひらが出現し、沫坂の顔を掴もうとひらいた。
沫坂は両の膝を深く落とし、上体を大きく反らしてそれを回避する。そして、それきりではなくカウンターを狙う。

「『コズミック・ケイオス』!」

叫びと共に、闇をかき消すかのように現れた、煌めく人型のスタンド――『コズミック・ケイオス』。
宝石のような装飾品を身にまとい、身体を描く螺旋模様が特徴的な、“渦”の騎士。
『コズミック・ケイオス』は、一瞬だけ現れた薫のスタンドの右腕にむかい、その拳を打ち放つ。
しかし、命中すんでのところで、薫のスタンドは再び“ガス”の中に姿を散らした。
空を切る拳。だが、沫坂の真の狙いはそこにあった。

「かくれんぼは終わりだ、朝比奈。薄っぺらいお前の“混沌”は、俺がもらってやる」

すると、『コズミック・ケイオス』の右腕を軸にして、気流が発生。フォークに巻かれるパスタのように、周囲の“ガス”がめきめきと右腕に巻き取られていく。
『コズミック・ケイオス』の“渦”を生み出す能力により――右腕を中心に発生した“渦”が、薫の“ガス”を引き寄せ、一点に集めたのである。
屋上を覆っていた闇は“渦”に飲み込まれ、元の景色が戻ってきた。クリームヒルド、上路、そして薫の姿を、沫坂は確認した。

「いくぜ!」

右腕にためた“ガス”を風に散らしつつ、沫坂は薫にむかって駆け出す。薫は、取り出したヨーヨーを沫坂に向かって繰り出した。
そのヨーヨーは、特注品だった。鋼鉄の軸を、カミソリの紐で回す凶器でシリアルキラー好みの凶器であった。

「喰らいなよ……!」
「遊んでんじゃねぇ!」

しかしスタンド使いに敵に対しては、その殺傷能力も有用性も、玩具の域を出ていなかった。
特注の殺人ヨーヨーは沫坂が空中に発生させた“渦”に飲み込まれ、あっさりと薫の手を離れた。
肉薄する沫坂の『コズミック・ケイオス』。薫もスタンドで応じようとするも、超至近距離までの接近を許してしまっている。ガードは間に合わない。
そしてみぞおちに突き刺さる、強烈な一撃。

「……ぐふッ!」

ストレートに入った拳に、思わず飛び出す、激痛の飛沫。そして沫坂の拳に残るは、勝利の感覚。
勝った。沫坂は確信した。
そしてそれは、立会人も同じだった。クリームヒルド、上路も、拳にぐっと力を込めて、弾き飛ぶ薫の姿を目に焼き付ける。
決着。わずか十秒ほどで、沫坂が殺人鬼を下した!







確信の理由は、『コズミック・ケイオス』の“渦”を作る能力である。確かに、スタンド自身の拳の威力も、生半可なものではない。
そのパンチを受け止めるのは、砲丸を受け止めるのと同じである。常人が耐えられるモノでは決してない。
しかし、『コズミック・ケイオス』の拳が危険な理由は、そこではなく“渦”なのだ。
“渦”は、空中だろうと肉体だろうと、なんにでも作り出すことができる。そして発生した“渦”は、沫坂本人がそうしない限り、決して消えることはないのだ。
肉体に産み落とされた“渦”は、筋肉や神経や血管を無慈悲に捻じ曲げ、肉体と骨を破壊し、肥大化し、そして最後は全身を飲み込んで強烈な圧力で押しつぶすだろう。
あとにのこるは、トマトソースと見紛う液状の肉である。“渦”はすべては飲み込み、すべてをさらっていく。生き残れる命は存在しない。
つまり『コズミック・ケイオス』に触れられた時点で、そいつはもうおしまいなのだ。たとえ何をしようとも、残り一分もない命なのである。
そのはずである。


……フフフ、フフフ……」

しかし、『コズミック・ケイオス』の拳を受け止めたはずの、薫の不気味な笑みが、その確信を揺らがせる。
さらに、不可解なことも起きていた。

(……なに? なぜ、“渦”が……発生しない?)

考えるより先に、身体が動き出す。沫坂は、『コズミック・ケイオス』の拳を薫に次々に叩き込んでいった。サンドバッグのように、殴り、殴り、殴る。
肉を、骨を、臓器を、魂を押しつぶすように、殴る!
だが、そもそも“それがおかしい”のである。もう触れたのだ、“渦”を作ればいい。それで終わる。わざわざ拳を叩き込む必要はない。
頭は冷静だった。すっきりと明瞭に思考ができているし、まとまっていた。だが、身体が言うことを聞いていない。暴走機関車のように、一直線に無意味な暴力に走っている。
そこで、ようやく沫坂は気がついた。自分の思考と行動が、かけ離れていることに。

(違う……発生しないんじゃない、俺自身が作ってないッ!)
「紹介して、やるよ……。これが、俺のスタンド――」

いつの間にか、見慣れぬ“白いガス”が、自分と敵を包んでいたことに。

「『ロード・トゥ・ディプレッション』……だッ!」

自分は最初から、殺人鬼の手の平の上で踊らされていただけだということに――――。







(『ロード・トゥ・ディプレッション』……? バカな、こんな能力は知らない! まさか、こいつ……こいつの、スタンドは……!)

殴り疲れて、ふっと全身の力が緩んだ。その瞬間を、薫のスタンド『ロード・トゥ・ディプレッション』は見逃さない。
拳を引いて、頑強な腕がめりめりとエネルギーを蓄え、放出の瞬間をいまかいまかと待ち構えている。銃口は、ぐったりと息を整える学ラン姿の無防備な男。

「あははははははははははははハハッハはははははは、お返しだよぉぉぉオォぉぉぉッッおおおおぉ」
(“進化”したというのか……!)

――――そして、引き金は引かれた。

「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ねェェェーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」

そのスタンドは、白と黒が混ざり合った奇妙な甲冑を身にまとっていた。沫坂も、クリームヒルドも、それは初めて見る姿だった。
更によく目を凝らすと、“黒いガス”と、“白いガス”の二種類が全身からにじみ出ているのがわかる。
以前の『ディプレッション&ラジィ』のときは、見受けられなかったものだった。
逃げることを考え、普通に生きることを望み、藁にもすがる気持ちで藁を掴んでいたあの頃――あの頃の自分を、薫は殺した。
そして、殺人鬼という性を受け入れた。魂に巣食う混沌を、己の心臓としたのである。
善と悪、白と黒、平穏と悪意。住み分けることに必死だった『ディプレッション&ラジィ』は死に、その先に生まれたのが、白も黒も併せ持つ二面性の怪物。混沌の使者――
――――『ロード・トゥ・ディプレッション』である。

本当の地獄とは、足を踏み入れていることにすら、気が付かせないものなのだ。







迫り来る『ロード・トゥ・ディプレッション』の拳。沫坂の身体は、勝手に目を閉じてしまう。あとは、全身を破壊されていくのを待つだけである。
――しかし、いつまで待っても拳が届かない。自然と、沫坂はまぶたを開いていた。

淡く、暖かな光が広がっていた。薫も、クリームヒルドも、誰の姿もない。寂れた遊具も冷たい風も、ねずみ色の空もない。
真っ白で、優しい場所だった。
そして、そこには彼がいた――――

「か、甲斐谷……?」
「よっ、沫坂」

――甲斐谷は、沫坂を見てにこりと笑い、そしてくるりと踵を返した。沫坂に背を向けて、甲斐谷は果てなき空間をどこかにむかい、歩き出す。
置いていかれる、と焦ったが、沫坂は甲斐谷を呼び止めることはしなかった。自分勝手な甲斐谷の姿が許せなかったからだった。

「ふっ、ざけんなよ……! 勝手に、どこ行くんだよ、お前……!」

沫坂は、これまで腹に溜めていた甲斐谷への不満を、堰を切ったように次々と吐き出していく。

「いつも、ひとりで……勝手に決めやがって……! あんときだって、朝比奈のヤロウをハメたときだって……なんでお前、ひとりで先走った!?
どうして俺に一言言わなかった!? なんで俺を頼らねーんだ!
後始末だけさせやがって……! ダチを手にかけるのがどんな気持ちかお前にわかるか? 俺の気持ちを考えたことがあんのか!」

声の震えをごまかすために、怒気を含ませていた。それが精一杯の抵抗だった。
それでも、込み上げた感情は塩水になって目元に吹き出した。零れないように堪えても、結局涙は頬を流れた。

「……ひでーよ。一人で勝手にいくな、そんなのずりーよ……」

ぼろぼろと溢れ出すそれを止めることはできない。涙でぐしゃぐしゃにして、しゃがれた声で沫坂は叫んだ。

「俺を置いて行くなよォッ!」

――甲斐谷は、ゆっくりと沫坂に振り返った。そして哀しげな瞳で、精一杯の笑顔を作ってみせた。
その瞬間、沫坂の鼻からでろりと赤黒いものが流れた。生暖かい鉄の味が口いっぱいに広がって、沫坂はそれが鼻血だと気がついた。
学ランがみるみる破けていき、顔や腕や足に、殴打の痕や生傷がじわじわと浮かび上がっていく。遅れて、鈍い痛みも全身を駆け巡った。
立っていられなくなって、膝から崩れ落ちる。沫坂は、必死に顔を上げて甲斐谷の背中を追った。
しかし、既に甲斐谷の姿はなかった。代わりに、錆色に変色したフェンスと、コンクリートの冷たい地面がそこにあった。

暖かな光が消えていく。ねずみ色の分厚い雲が浮かび上がり、吹き込む冷たい風が沫坂の傷にしみる。
光が完全に引くと、そこは寂れたデパートの屋上だった。

気が付くと、沫坂は身体中から血を流しながら、空中にいた。
『ロード・トゥ・ディプレッション』の激しい殴打の末、空中に打ち上げられたのだと、ようやく思い出した。







重力に引かれて、宙を舞うボロ雑巾のような沫坂の肉体は、コンクリートの地面に落下。
位置エネルギーによるボーナスダメージもいただいて、沫坂は全身に力を込めることができず、ぐったりと動かなくなった。
薫はかちゃかちゃとナイフを弄び、クリームヒルドは顔色一つ変えず、立会人という役回りに徹している。
沫坂は思った。この状態では、クリームヒルドは続行不可能と判断し、勝負を終わらせるかもしれない。薫から命を守るため、その判断を早める可能性も高い。
それは、朝比奈 薫の勝利を意味する。薫の勝利は、クリームヒルドの殺害につながるし、この悪魔を再び世に解き放つということでもある。
それだけは、絶対に阻止しなければならない。
なにより、負けたくなかった。ここでまたこいつに負けるくらいなら、死んだほうがマシだと沫坂は感じた。

『報復』する、絶対に。甲斐谷の無念も、惨めな自分の人生も、ここで全て晴らす。
これまでハッピーエンドを奪われてきた、すべての人間の痛み――それを、一つ残らず叩き込む。
それができなきゃ、人生に意味などない。

絶対に勝つ。

「はぁー……っ、はぁーっ……」

身体に刻まれたダメージは、もうとっくに限界量をオーバーしていた。それは、沫坂自身が一番よくわかっていた。
おそらく、あと一撃……否、触れられるだけでもアウトだろう。肉体は、想像よりもはるかにあっけなく壊れる。それほどにもろい。もう持たない。
それでも、沫坂は残りの命を必死に燃やして、膝を立てた。地面に突っ伏して死ぬことだけは御免だった。
死ぬときは、立ったまま死ぬ。そのときは、目の前のクソガキも道連れである。沫坂は、ふらふらの身体を起こし、立ち上がった。

「レンちゃん……」
「……」

上路は、今にも泣き出しそうな顔で沫坂を見つめている。クリームヒルドは静かに、ただじっと沫坂の姿を目に止めていた。
何も感じていないわけではない。これを見て、何も感じない者などいない。だが、それを決して顔に出さない。
与えられた職務を全うする、それ以外のことは考えない――それが立会人だ。この時点で、クリームヒルドはほぼ完璧に、立会人の職務をこなしてみせていた。

「無駄だ……立会人さん。もう立ち上がるな……」
「……うっ、……ふぅーっ、ふーッ……」
「おとなしく寝っ転がっててよ……。アンタの死体はなるべく綺麗な状態で、ね? 遊びたいからさぁ……」

薫は、ナイフの先で指をつついて遊んでいた。これだけの状態に仕立て上げたのだから、その余裕は当然といえば当然だった。
が、予想できていないこともあった。

(……)

沫坂は瀕死のダメージを負ったことにより、肉体の活動レベルが低下し、思考が行動に追いついたこと。
そして、先ほどの“白いガス”の副作用で、沫坂の研ぎ澄まされた思考は極めて高い水準でフル稼働しているという、二つの事柄である。







『ロード・トゥ・ディプレッション』が新たに獲得した能力は、憂鬱を引き起こす“黒いガス”とは別に、“白いガス”も扱えるようになるというものである。
“白いガス”は、吸い込んだ者の狂気を引き起こし、暴走させる性質を持っていた。吸引した者は徐々に全神経が研ぎ澄まされていくような感覚を覚えるだろう。
そして、理性と肉体の欲求が離れ始め、理性は肉体のコントロールを失う。アプリオリな感覚にのみ従って動くようになり、最終的には人間に必要最低限の動きしかとれなくなる。
それが、狂気を司る“白いガス”である。
“白いガス”を吸引したとき、量をきちんと調節して吸えば、肉体に通常以上のエネルギーをみなぎらせることもできるし、脳内をクリアにすることもできる。
これは、覚せい剤を使用した状態によく似ていた。

(……こいつは、自分の身体を“白いガス”でフルスロットルにしてた……。今の殴打で終わらせるつもりだったんだ)

この時間だけ、沫坂の思考は瀕死のそれとは思えないほど明瞭だった。これまで拾ってきた情報を元に、推測し、仮説を組み立てる。そして対応策を探す。

(この身体じゃ……次に近づかれれば終わりだ。カウンターは放てない……。自分から仕掛けるのも当然無理だ……。
“ヤツに触れず”、“待ち構えるようにして”、“一撃で仕留める技を決めなければならない”)

沫坂は、そのときあることを思い出した。“それ”は、以前一度組み立て、実現不可能として記憶の奥底に封印した、ある仮説だった。
埃かぶっていたその理論を、“白いガス”のエクストリームな覚醒作用のおかげで、思い出すことができた。
沫坂は思考する。もしこの状況をひっくり返すラストリゾートがあるとするなら――“それ”以外には考えられない。
だが、確実にできるかどうかが、わからない。その上、“それ”を行ったあと、どんな副作用が起こりうるのか到底見当もつかない。
スーパーコンピュータをもってしても、予想される被害をはじきだすのは不可能だ。

(確証はない、できない可能性の方が高い。だが……)

ふぅ、と息を吐き出して、余力を振り絞り、『コズミック・ケイオス』を発現させる。これが、自分が使える最後の力だと沫坂は感じた。
そして、沫坂は“それ”を選択する。

(……全てを終わらせるなら、これで決めたい)

死にかけの肉体に、わずかな希望が宿る。力を取り戻した瞳で、薫を睨み据えた。







薫、クリームヒルド、上路が異変に気づく。死にかけの男の最期の足掻き――にしては、妙なエネルギーに満ちていた。
そして、最も妙なのはそのポージングだった。沫坂と『コズミック・ケイオス』は、両腕を前に突き出し、手の平を大きく開いていた。
こないでくれ!、と嘆願しているようにも見えなくはないが、絶対にそうではない。三人は確信した。
この男、最後に何かするつもりだ、と。

「ありっ、たけの……力で……捻じ…曲げる……」

そのとき、絶え絶えの息で、沫坂は何かを呟いた。そして、沫坂の前方の空間に、巨大な“渦”が発生した。
その“渦”は、これまで沫坂が生み出してきた“渦”とは、異なるものだった。

「なんだ……?」
「う、うわッ……! なんだ、この音……!」

ゴゴゴゴ、と地鳴りのような音が響き渡り、同時に金切り音に似た音が、薫とクリームヒルドたちの耳を劈いた。
その音は、沫坂の“渦”に起因するものらしい。見ると、“渦”は単なる気流ではなかった。ぐにゃぐにゃと、周りの風景を大きく捻じ曲げていた。
光を捻じ曲げ、音を捻じ曲げ、『コズミック・ケイオス』を中心にして、全く新しい力場が形成されている。クリームヒルドには、そう見えた。
そして、建物が強く振動する。べきべきとコンクリートの地面には亀裂が生じ、立っていられなくなった上路は膝を付いた。
普通じゃない。なにか、とんでもないことが起ころうとしている。上路は額に脂汗を浮かべた。

「や、やばい……! 退避だ、クリームちゃん!」

クリームヒルドは立ったまま、沫坂と薫だけを視界に止め、それ以外には反応を見せなかった。

「建物が崩落するぞ! クリームちゃん、逃げなきゃ!」
「先輩は行ってください。私は残ります」
「何言ってんの! ここが崩れるって――」
「私はこの勝負の立会人です! 二人の決着を見届けるまで、私は一歩も動かない!」

上路は、それ以上何も言えなかった。
コンクリートは砕け、フェンスはひしゃげ、遊具は潰れていく。耳を劈く音は次第に大きくなり、ついには会話ができないレベルにまで到達した。
物体にかかる負荷も雪だるま式に増幅していく。崩落は時間の問題だった。
それでも、クリームヒルドは動かない。
直接与えられた、この使命を果たすまで。あの人の『願い』が叶うまで。

「なん、だ……、あれは……」

そのとき、薫はあるものを目撃した。沫坂が発生させている巨大“渦”の中心に、穴が空いていた。
沫坂の頭部とほぼ同程度の大きさの穴が、空中にぽっかり空いているのである。それは、初めてみる光景だった。
まだ小さな穴だが、“渦”にかかるエネルギーが肥大していくにつれ、穴の直径も比例して大きくなっていく。
穴の向こう側は、真っ暗だった。そのため、空中に黒い円が浮かんでいるように見えた。

「空間と……時間を……捻じ、曲げる……。もっと、もっと大きく……」
「なに、してる……! やめろ……!」







まさか、この“渦”は時空間を巻き込んでいるのか?
背筋に冷たいものが走り、ぷつぷつと肌が粟立つ。薫は即断した。遊んでいる余裕はない、すぐに殺さなければならない、と。
薫は、沫坂目掛けてナイフを投擲する。しかしナイフは“渦”に引っ張られ、莫大な圧力を受けてすぐに塵と化した。
『ロード・トゥ・ディプレッション』の放出する“ガス”も、“渦”がすべてを吸引してしまうため、沫坂には届かない。

「~~~~~ッ!!」

ならば、近づいて直接叩くしかない。幸い、“渦”に多少引き寄せられはするものの、移動に問題はなかった。
沫坂との距離は十メートルほど。“渦”を回避して、一気に近づいて首を刎ねるのは難しくない。
薫は覚悟を決め、『ロード・トゥ・ディプレッション』を傍らに、崩れゆく地面を蹴った。
標的へは、残り八メートル、七メートル。薫は、“渦”の力場へ到達する。そのときだった。

「待っ……てたよ……お前が……近づくのを……」
「な……」

薫は、沫坂が小さくそう呟くのを、轟音のなかに確かに聞いた。
次の瞬間、沫坂と『コズミック・ケイオス』は両腕を左右に開いた。すると、“渦”の中心に発生していた穴が、突然グンとその直径を大きくした。
その大きさは、薫をまるまる飲み込んでしまうほどだった。
薫は駆け込むかたちで、穴の向こうへ足を踏み入れてしまった。

「なんだってェェェェッェェーーーーーーーーーーーーー!!」

そして沫坂は、薫を穴の向こうへ残したまま、両腕を交差させるようにして穴を閉じた。

「……やった、ぞ……甲斐谷……」

そう呟き、沫坂は気を失ってその場に倒れた。コントロールを失って、空中に発生した“渦”は急速に収縮していく。
ズェッテー、ヤバイ。その様子を見て、上路は呟いた。そして、沫坂に向かって駆け出していた。ぐったりと横たわる沫坂を抱え上げ、クリームヒルドを目掛けて走る。

「『エロティカル・クリティカル』!」

クリームヒルドも、薫が姿を消し、沫坂の勝利が確定すると、早々に立会人の職務を放棄して離脱を図る。
けたたましい轟音のなか、誰に聴かせるわけでもなくスタンドの名を叫び、近くに見える廃ビルに向かい、クナイを投げた。
クナイには、ワイヤーが巻きつけられている。クナイはありえない軌道を描いて、ワイヤーを伸ばしながらビルの壁面にむかっていく。

「長さ足りろ、足りろぉ~。お願いよ、足りてぇ~」

――が、クリームヒルド達のいる建物とクナイが刺さったビルは、結構な距離があった。祈りも虚しく、ワイヤーの長さは僅かに足りなかった。
ぴんと張ったワイヤーに引っ張られ、クリームヒルドの身体は屋上から空中へ引きずられていく。
宙ぶらりんになりかけるクリームヒルドを、上路は全力疾走で追う。







「うおおおおおおおおおおおおおおおッ! がんばんべー!! オイラァァ!!」

上路は、走りながらに沫坂の身体をワイヤーで固定。フェンスを蹴って、クリームヒルド目掛けて跳んだ。
クリームヒルドが手を突き出して、上路はそれを必死の形相で掴もうともがく。そして、クリームヒルドは上路の手を掴んだ。
ワイヤーの巻き取りを開始し、三人の身体は建物と建物の間を舞う。さながら、それはサーカスの空中芸のようでもあった。
向かいの廃ビルが目前にせまり、クリームヒルドは適当な窓に狙いを定め、上路の手を離した。上路はエッ!?、とでも叫びたげな顔を見せたが、別に見捨てたわけではなかった。
若干アヤシイが、『エロティカル・クリティカル』は上路を“投げた”と判断してくれたらしい。上路と沫坂はスタンドパワーに引っ張られ、窓に命中。
薄いガラスを突き破って、内部へと転がり込んだ。

「はぁ、はぁ……もう、二度とごめんだ……」

ぐったりと横たわって、上路がはぁはぁと息を荒くしていた。
ワイヤーをつたって、クリームヒルドも遅れて到着。すると先刻までの屋上で、“渦”が行き場を失ったエネルギーを放出し、瞬間、廃デパートが粉々に吹き飛んだ。
壮絶な光景だった。クリームヒルドと上路は、ぽかんと口を開けて、時代に取り残された建物の結末を見届けた。

「あ、クリームちゃん。あれ、やんなよ」
「……え、やりたいですけど……。でもなぁ。本人聞いてないし」
「まぁいいじゃんよ。レンちゃん起きたらまたやってあげな」
「うぅむ……。じゃあ、まぁ……」

照れくさそうに頬をかいて、こほん、と小さく咳払い。
そして――


「――――勝者、沫坂 蓮介!」


クリームヒルド立会人は美しい声で、高らかに勝者の名を示した。







朝比奈 薫は、どこかの空間を漂っていた。漂っていたという表現を使うのは、その場所には重力も、足付ける地面も、見上げる天もなかったからである。
自分の意思でどこかに進んでいけるわけではなく、駆け込んだときのエネルギーを使ってふわふわ流れているだけにすぎなかった。
音もなく、光もない。色もないし形もなく、ただただ真っ暗なだけだった。上も下も右も左もない。時間がきちんと流れているのかどうかもわからない。
わかっているのは、沫坂が生み出した“渦”のせいで、こんなことになってしまったということだけだった。

『コズミック・ケイオス』は時空間を捻じ曲げ、空間に穴を開けた。おそらく、沫坂自身も、穴の向こう側がどうなっているのかは把握していなかったはずだ。
きっと賭けだったのだろう、と薫は考えた。
薫自身も、空間と空間の、空間と時間の、時間と時間の狭間というべき、この謎めいた隙間に閉じ込められることになろうとは、全く想像していなかった。
もうきっと帰れない。ずっとここで、何もできないまま一人ぼっち。死ぬまでなにもできない。死ぬことすらできないかもしれない。
考えると、身体が震え、涙が止まらなくなった。

なんでだ、なんでこんな目にあわなくちゃならない。

ちょっと人を殺しただけじゃないか。

戦闘機の方がもっと何十倍も殺してるじゃないか。

しょうがなかったじゃないか。

だから、ここから出してくれ。



「……ううーっ、やだよ……やだよぉぉ……怖い、怖いよ……。ママ……ママァ……」



なぜ?

なぜいまママを呼んだ?

俺が最初に殺した人間。

そうか。



おれはただ、おかあさんにたすけてもらいかっただけだったんだ







日曜日。昼前になってようやく目覚めたクリームヒルドは、ベッドから下りると、寝巻きのまま一階へ降りた。
オレンジジュースを一杯飲んで、トーストをかじりながら新聞を読んだ。
遅すぎる朝食を終えると、シャワーを浴びて、それが終わるとドライヤーで髪を乾かした。
今日着る服を吟味して、鏡の前で何度もファッションショーを開いた。
服を決めて着替えると、化粧を済ませた。素材がいいのでじっくりやる必要はなかったし、その経験もなかった。
ちゃっちゃと済ませて、本棚から今日読む本を選んだ。それをカバンに入れて、クリームヒルドは見るつもりのないテレビをつけた。

午後一時をすぎた。
呼び鈴は、まだ鳴らなかった。普段なら、もう車に乗っててもおかしい時間だ。

午後二時をまわった。
さすがにお腹がすいてきた。ボリュームたっぷりのシュトゥルーゲルを食べるので、日曜はトースト一枚で食事を済ませる。
いつもなら、この時間はホイップクリームをたっぷりつけたシュトゥルーゲルを楽しんでいる。

そして午後三時、クリームヒルドはテレビを消して、家を出た。

玄関を出ると、陽射しがとても心地よかった。
家の前に、彼の車はなかった。
寂しくおもいつつも、清々しい気持ちになって、クリームヒルドは歩き出した。

いつもの喫茶店は、徒歩だと少し遠かった。







願いと報復のコズミック・ケイオス   おわり



出演トーナメントキャラ


No.4783
【スタンド名】 コズミック・ケイオス
【本体】 沫坂 蓮介(マツザカ レンスケ)
【能力】 拳で触れた対象、または間接的に触れた対象に渦を発生させる

No.6552
【スタンド名】 エロティカル・クリティカル
【本体】 クリームヒルド・ブライトクロイツ
【能力】 自分が投擲した物を絶対に命中させる

No.6136
【スタンド名】 ディプレッション&ラジィ
【本体】 朝比奈 薫(アサヒナ カオル)
【能力】 怠惰・憂鬱状態にさせるガスを発生させる









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