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第01話 パラノーマル・フェノメナ(Paranomal Phenomena)

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第01話 パラノーマル・フェノメナ(Paranomal Phenomena)






―警視庁捜査四課第1系(通称:PP課)―

ここ数年、日本全国でその事例が数多く報告されている、「超常事件」と呼ばれた特異な難事件の数々。
それらに共通して言えるのは、全てが「常識では考えられない状態、状況で発見された事件」であるということ。
警視庁が新たに発足した捜査四課第1系(通称:PP課)は、そんな増え続ける怪事件の捜査を担当する、特異捜査の専門部署である。
PP課は捜査一課から引き抜かれた数人の捜査官たちで構成されている。

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「そっちへ行った!黒崎ッ!」

薄暗い路地裏で跳ねた野太い男の叫びが、無線越しに黒崎の耳へと突き刺さる。
足元のゴミを蹴散らしながら疾走する男と、それを追うスーツ姿の大男。
声を出したのは後者で、彼は刑事だ。

「ハァッ・・・ハァッ・・・!」

「待てッ!止まれ!」

彼の名は『青野 大輔(アオノ ダイスケ)』。警視庁捜査一課のベテラン刑事であり、黒崎のパートナーでもある青野は、
濃鼠色のスーツに生ゴミの臭いが染み付くのもお構いなしと言ったように、眼前の裂けたポリ袋を勢い良く蹴り上げた。
路地を抜けた男が大通りに躍り出て、逃げる背中を見据えた青野が一呼吸置いて再び走り出す。

(・・・キャッ!)

(! おい、気をつけろ!)

人ごみを掻き分け、いや、なぎ倒しながら大通りを駆けるその男――坂井 博次(ヒロツグ)は、我々が追っている傷害事件の容疑者である。
夏祭りの晩、安いリンゴ飴で七歳の女の子を物陰へと誘い出し、めちゃくちゃに強姦したあと首を絞めて殺害した、最低のクズ野郎だ。
しかもこの蛆虫を追っているのはそれだけが理由じゃない。
こいつは強姦殺人犯であると同時に、我々警視庁が探っている他の事件の、重要参考人という面も持ち合わせていた。
坂井はその事件への関与が疑われていて、どちらかと言えば強姦事件の犯人としてよりも、そっちの事件の参考人として追いかけているといった感じが強かった。
複数の事件を掛け持ちした、天性のトラブルメーカーといったところだろうか。

「ハァ・・・ハァ・・・!」

「・・・」

そんな一つの、大通りに舞う社会の塵を横目に、黒崎は道路脇に停めた覆面パトカーのペダルをゆっくりと踏み込んだ。
アリオン二百六十系と呼ばれる真っ黒な車体のそれは、赤色灯の露出がなければ見た目一般乗用車となんら変わりがない。
密かに距離を詰めるパトカーの存在に気付かず、切羽詰った容疑者は信号を無視して車道の横断を試みる。
車道を走る乗用車に急停止を強要しつつ、中央分離帯を抜けた坂井の右脚を、横から接近した覆面パトカーのバンパーが打ち抜いた。
姿勢を崩した坂井がボンネットに肩をつき、ブレーキを踏んだ車体がそれを前方へ突き放す。
体を支えるものは何もなく、軸足を挫かれた男はなす術なくコンクリートの地面に体を叩きつけれられた。

「あら、ごめんなさい 前方不注意ね」

「ぐあ・・・クソ!ぐぅううう・・・」

「じゃ、逮捕ってことで」

カチャリと小さな金属音が奏でられ、手首に手錠がかけられると、坂井の逃走生活はようやく終わりを迎えた。
車道を通り、息を切らしつつもこちらに駆けて来た青野が、両膝に手を付いて必死に声を絞り出す。

「はぁ・・・はぁ・・・やったな、黒崎・・・」

「さっさと連れて行きましょう」

パトカーに押し込まれた坂井の顔をギロリと睨み据え、
「こいつには喋ってもらうことが山ほどある」と、小さく呟いた黒崎の眼には、強い憤怒の念が滲んでいた。

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『黒崎 芽依子(クロサキ メイコ)』は警視庁捜査一課の女性捜査官である。
容姿端麗、頭脳明晰。まさに才女といった体の彼女だが、その美貌を活かさぬ刑事という仕事を選んだのには、ふたつの理由があった。
一つには、彼女が生まれながらにして持ち合わせた、強い正義感がそれである。
咎人を捕らえ、社会に秩序をもたらす。それが自分の仕事で、将来やるべきことであると、彼女は幼い頃から心にそう刻んでいた。
弱き立場の人々、罪のない彼らが、降り掛かる悪意の火の粉を振り払えずにその身を焼いてしまうとき、
許せないのは加害者ではなく、それを止められなかった自分だ。
言い訳はしたくない。「できない」ということがどれほど惨めで、残酷なことか知っている。だから芽依子は警察官になった。
守る力と、戦う力。
「機会はあったが、力がなかった」、なんて逃げ道を作らないようにするためにも、正しい力と知識を身に付ける必要があった。

実際、彼女のその強い正義感はしかるべき能力に変換され、世の犯罪行為に対して如何なく発揮されている。
一課では最も歳の若い芽依子だが、解決に導いた事件の数は課の先輩方のそれに引けを取らない。
心を燃やす青き情熱は動力源であり、彼女自身の成長を促す栄養剤でもあるのだ。

「黒崎、坂井の取調べやってくれ」

自身の机で書類と格闘する芽依子に、上司の青野からご褒美ともとれる命令が下された。
待ってました、といわんばかりに発せられた「わかりました!」という芽依子の透き通った声音が、職場の空気を振るわせる。
放課後、教室で帰り支度に勤しむ小学生よろしく、手に持った書類の束をせっせと整えて机の端に追いやると、
引き出しからまた別の書類を取り出して、黒崎は取調室へと直行した。

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取調室のドアを開けると、目の前に広がる景色は部屋の中央にポツンと佇む机と、それを挟む二つのパイプ椅子、
そして、落ち着かない様子で椅子のそばに立ち尽くす被疑者『坂井 博次』の姿だった。
部屋の隅の取調官に目配せを済ませ、芽依子は机の前のパイプ椅子に腰掛けた。

「お前!俺を車ではねた女刑事!訴えてやるからな!」

「座ってください」

開口一番、犯罪者の悪あがきを軽くいなして、繰り出した反撃のジャブは、男の口を素早く塞いだ。
立ったまま、とりあえず返しの悪態を探す坂井に

「座れ!」

と、鋭くとどめを突き刺して、芽依子は坂井を聴取の態勢に移行させた。
とりあえず椅子に腰掛けて、目を伏せる坂井に、女性捜査官は冷たい微笑を浮かべて語りかける。

「ここに来てからずっと、喋りっぱなしで大変だったろうけど、協力してもらいます。
 何度も同じことを繰り返し話すのはウンザリでしょう?気持ちはわかるわ。でも我慢してね」

「・・・」

「あなたがロリコンで、そのうえ人殺しという最低のツーペアを持ってることは知ってます。
 強姦殺人の話はあと。先にこっちから片付けましょう」

「・・・」

「九月六日のことです、その日お兄さんを殺した?」

その一言に、だんまりを決め込む目蓋がぴくりと反応を見せた。
まずはこうやって、相手の水溜りに石を投げ込む。そうして水面をざわざわと揺らめかし、自分のペースに持ち込んでいく。
これが取調べだという思いを確かにし、芽依子は静かに相手の出方を待った。

「・・・言ってるだろ、俺じゃない。俺は無関係だ」

「事件のあった日、アパートで、お兄さんの部屋から逃げるように飛び出したあなたの背中を、
 隣の部屋に住んでいた住人が目撃しているのよ」

「・・・」

「玄関から入って真っ直ぐ、廊下からリビングに続くドアノブに、あなたの指紋がベッタリと付着しているというのもある。
 あなたがあの日、あの場所に居たのは間違いないのよ」

「あの日、兄貴の家に行った!それは認める!でも俺は殺してないッ!」

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事件は九月六日の午後一時、世田谷のとあるアパートの一室で起きた。
自宅のリビングで心臓を抜き取られて死亡していたのは、地方公務員の『坂井 俊夫(トシオ)』。
第一発見者は隣の部屋に住む主婦。ちょうど買い物に出かけようとしたところ、隣の玄関から勢い良く飛び出した被害者の弟、
『坂井 博次』の後ろ姿を目撃。不審に思い隣室の中を覗いてみたところ、そこで被害者の遺体を見つけたという。

この事件が警察内部で「超常事件」だとか「抜き取り魔殺人」等と囁かれているのは、現場の異質さに原因がある。
まず、被害者の遺体。抜き取られた心臓を右手に掴んで事切れたその様は、それだけでも十分奇をてらうものであるが、
「体のどこにも外傷がない」という点にも注目せざるを得ない。

胸を切開した痕もなければ、縫い目もない。腕や腹に打撲痕や切り傷が見当たらないことから、被害者が抵抗した様子もない。
つまり犯人は被害者の体を切らずに、しかも抵抗を受ける前に、一瞬で内臓を取り出したことになる。
どうやって?そんなのわからない。まさに「超常現象」と呼ぶべき有様だったのだ。
被害者の握っていた心臓に、直径5cm大の「穴」が開いていたという事実が、少しはヒントになりそうなものだが、
そんな報告はますますゴールを見えにくくするだけだった。

そして『坂井 俊夫』は、「三人目」の被害者であるという点。
練馬区の専業主婦『水木 由利』は九月一日、六本木のホスト『間島 健太』は九月の四日に、坂井と同様の殺され方でその遺体を発見されていた。
年齢や生活環境はバラバラで、接点もなければ共通点もない、まったく繋がらない三つの点。
怨恨の線は薄いし、失くなった物がないから物盗りの犯行でもない。
奇妙を奇妙でコーティングしたような、心底おぞましいこの連続殺人に、警察はハッキリ言ってお手上げだった。

「・・・」

実際、『坂井 博次』が犯人だなんて誰も思っちゃいない。
弟は逃走生活に必要な資金を兄に借りに行っただけと言うがそれは筋が通った話だし、何より殺害の証拠がない。
というよりできるわけがない。こんな所業は、それこそ魔法使いや超能力者でもない限り実行不可能だ。
超能力者、という不穏な響きが胸をざわつかせ、芽依子はわき腹にキリリとした小さな痛みを覚えた。
こんな不気味なキーワードを思うと、「彼」の顔が頭に浮かぶ。

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数時間に及んだ取調べは、結局書類上の事件概要をなぞるだけに終始した。
何か進展があったかと言えば、現場で犯人と目を合わせたらしい坂井 博次の、「アイツの目はヤバかった」
という一言が新しくファイルに記載されたことぐらいだろうか。
少し前までの清々しい気分はすっかり色あせて、なんだかずっしりと重みを増した肩をほぐしつつ、紙コップのコーヒー片手に席へと戻る。

「はぁ・・・」

思わずついて出た嘆息は、この事件に自分の理解が及んでいないことの表れだった。
ここ最近、この国全体でいわゆる「超常事件」などと呼ばれる怪奇現象が、増加に増加を重ねているのだという。
そもそも「超常事件」なんて言葉が出てきたのも、ほんとについ最近のことだ。
理解不能な死体が、理解不能な場所に転がっている・・・聞き込みや科学捜査など全く意味を成さない、異界からやってきた悪魔たち。
マスコミは「不可解殺人!」や「宇宙人の犯行!?」などと陳腐な煽り文句を掲げてはいるが、正直笑い飛ばす気にもなれない。
いっそ宇宙人の仕業ならいいのに。そしたら諦めもつく。

そういえば警察も本気になって、「超常事件」専門の部署を最近作ったとかなんとか、聞いた覚えがある。
バカバカしいけど笑えない。
「超常現象」などという禍々しい言葉が引き金となって、芽依子の脳内に「彼」の顔が弾けた。
きっと「彼」は、目をサファイアみたいに輝かせて・・・

「黒崎 芽依子?」

頭の中を塗りつぶしていくオカルト色のペンキは、後ろから呼ばれた「?」付きの自分の名前に拭き取られた。
後ろを振り返ると、そこに見慣れない警察官の男が見えたので、意識せずとも芽依子の眉は自然と吊り上がってしまった。

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その男、『白石 力也』課長によると、捜査四課第1系は、もともと異質事件の捜査を担当していた
捜査一課特殊犯第4系を解体し、再構築して出来た新設部署であるらしい。
「科学者も裸足で逃げ出すようなワケのわからん事件が急に増えたので、予算を注ぎ込みダッシュで作った部署」とのこと。
そのためオフィスは特殊犯第4系時代の机、イスをそのまま流用。しかも予算を増やして規模拡大かと思いきや
人員は特殊犯第4系のときよりも減っているのだとか。なんだそりゃ、と軽く胸中に零しつつ、芽依子はとりあえず話を聞いた。

「この捜査四課第1系は、捜査一課からの引き抜きを行っている。ワケのわからん事件の対処を任せられそうな、
 有能な人材をな」

「はぁ・・・」

なんとなく、嫌な予感はしていた。
この課は「超常事件」捜査担当であり、そのために必要な人材を、庁舎内を走り回って探している。
これでも、自分が何者で、何ができて何ができないのか。ちゃんと心得ているつもりだった。
私にはわかる。
私がここで、捜査四課ですることはない。こんな新米の小娘に、オカルト捜査のオファーなんてありえない。

「君を四課に迎え入れよう、芽依子くん」

そこで、だろ?

「そこでだが・・・早速君に頼みたいことがある」

もうわかった。完璧に理解できた。
この人が一体、何を欲しがっているのか・・・

「君の資料を見させてもらった。『黒崎 悠斗(ユウト)』くん・・・
 君の弟、だよな?」

ほらきた。

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脳内を駆け回った嫌な予感は、予知となってこの瞬間を鮮明に描き出した。

「エディンバラ大学で超心理学を専攻しているんだったな、悠斗くんは。
 超心理・・・すなわちサイコキネシスやテレポーテーション、『超能力』の研究をしていると」

「ええ・・・」

「ここ最近の事件の不可解さは君も知ってのとおりだと思う。そこで我々は、専門家の意見を取り入れたいと思っている
 どうだい?ぜひ君の弟くんを――

「お断りします」

飛び出した拒絶は、もはや条件反射だった。
『悠斗』の名前だけで噴出しそうなそれを、抑えに抑え続けてきたがこれはもう無理だ。
もうどうにでもなれと、芽依子は一息にそれを吐き出した。

「何故弟なんです?超心理学の学者は国内にもいます。弟はイギリスにいて、しかも大学生です。今日も明日も講義がある。
 それに『坂井 俊夫』の事件が、サイコキネシスやテレポーテーションによって引き起こされたものだと、そう思うのですか?」

「警察関係者の身内となれば、協力を頼むのも比較的スムーズにいくからだ。赤の他人となると色々面倒だし、
 それに君の弟くんは特別だ。IQ177、超天才児と聞いている」

「・・・」

「犯人が超能力者かどうかなんて知らないがな、八方塞なのは事実だ。専門家を呼んで、『超能力』といわれれば、ああそうですかと
 視線が定まるし、『これは超能力じゃありません』と一刀両断してくれれば、みんなのやる気も戻ってくる。そう思わないか?」

「・・・」

「何故そんなに嫌がる?仲悪いのか?」

「違います、ただ・・・」

「?」

「もう何年も・・・話してないから・・・」

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よくよく考えてみると、国際通信を通して「彼」の声を聴くのは、初めての経験だった。
電話機の数字キーは、こんなに押しにくいシロモノだっただろうか?

コール音が鼓膜を震わし続ける間、芽依子はふと、自分が警察官という道を選ぶに至ったもう一つのワケを思い出した。
二つ目の理由。それは弟、『黒崎 悠斗』の存在だ。
嫌いなわけじゃない。むしろ好きな部類には入っていたと思う。
だけど物心付いたときから自分と弟は、「気まずさ」というガラス板で間を隔てられていた。
悠斗が天才だの、神童だの、周りからちやほやされていたのが気に入らなかったのかもしれない。
そこら辺は子供の考えることで、今となっては完全に失念していた。
でも「気まずさ」が嫌で家を飛び出して、警官という職に逃げ込んだことはハッキリと覚えている。
何が「気まずさ」を生み出したのかまでは覚えていないが。

やがて規則的な電子音が、受話器を持ち上げた生々しい音響に変わると、芽依子は今の今まで考えていた
雑念がじゅわ、と一瞬で蒸発する感覚を味わった。
受話器越しに、《もしもし》と聴き慣れたような、知らないような男の声が響き、
芽依子は思わず「あ、あの・・・」と他人行儀に振舞ってしまっていた。

《・・・?もしもし?》

「ゆ、悠斗・・・あの、私だけど・・・」

《・・・姉さん?》

「そう、姉さん」

《・・・》

「・・・」

なんで黙るのか、きっとお互い理解できていないだろう。
二人の間のガラス板は、見た目ではわからない、相当な厚みを持っていたようだ。
ぶち破れるものならぶち破りたい。とりあえず今は向こうに声を届けないと。
針の穴を通すような細い声は出すのやめて、芽依子は腹の底から搾り出した生声を、受話器に向かってぶちまけた。

「悠斗、日本に戻ってきて欲しい。あなたに頼みたいことがあるの」

《なに?》

「私たちに協力して欲しい。警察に。あなたの力が必要よ。
 一週間でいい、私に顔見せに帰ったと思って、お願い」

私に顔見せに。
何言ってんだ、と独りごちた芽依子は、首筋を嫌な汗が伝うのを感じ、耐え切れないとそのまま受話器を耳から離した。
《いいよ》とシンプルに、かつ力強く響いた声が直前で耳朶を打ち、ハッ、と我に返ったのもつかの間、
勢いに任せて通話を一方的に切り上げてしまったことを、芽依子は沈黙のあとじっくりじっくり後悔した。

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空港ターミナル、有料ラウンジにてふかふかのソファーに腰を沈ませ、チラチラと腕時計をチェックする姉の方。
シックな空間のラウンジに溶け込まない、ゆとりだとか落ち着きを欠いた彼女の姿は、
ここ数年間の相手を知らなくとも、弟からすればすぐにそれと見て取れた。

「姉さん」と投げかけられた声をなんとかキャッチし、しどろもどろ芽依子はなんとかそれを投げ返してみた。

「・・・久しぶり」

「うん、久しぶり」

「・・・」

ここで気の利いたこと一つ言えないとは、それで仲の良い姉弟の、久々の再会とは言えまい。
必死に何かないかと冴えた返しを探り出し、芽依子は悠斗の首筋まで伸びきった髪の毛に、焦点を定めた。

「アークティック・モンキーズのアレックス・ターナー・・・って感じかな?」

「え?」

やばい、と心臓が跳ね上がるのを知覚し、時を六秒ほど戻せる超能力を下さいと心の底からそう願った。
やがて弟の顔が少し柔らかに解きほぐれて、

「ああ、まあね。はは、姉さんってブリティッシュロック好きだったっけ?」

と、小さく微笑みを投げて寄越してきたときは、自分の心に巣食っていた何かが、
じんわりと溶け落ちていくような感覚が全身を巡った。

その瞬間は思っていたよりずっと何でもなく、ずっと気持ちのよいものだった。

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ヒースロー空港から飛行機で十二時間、長い空の旅を終え母国に降り立った黒崎 悠斗は、
久々の東京を楽しむ間もなく、その足でそのまま警視庁本庁舎へと直行した。

送迎用の警察車両、運転席に姉が、後部座席に弟が納まってからの数分間、
その間姉弟は言葉を交わすことをせず、お互いひたすらに窓の外へ視線を逃がし続けていた。
車内に停留するぎこちなさは、数年の空白が積み重なった結果で、ちょっとやそっとでは打ち崩せるものではない。
身に沁みた現実が全身に帯びた熱を冷まし、芽依子は話題探しを早々に諦めて定まらぬ視線を前方車両に据え直した。

こんな風に、気軽に話せなくなったのはいつ頃だったろう。いや、そもそも気軽に話せた時期などあっただろうか?
おぼつかない記憶を必死に揺さぶる芽依子の思考は、警察無線のスピーカーから割って入る女の声に霧散した。

《・・・黒崎さん?》

「ええ。あなたは?」

《PP課の『緑川 沙希(ミドリカワ サキ)』です。弟さんも一緒ですか?》

「PP課?」

《あ、ごめんなさい捜査四課のことです。『Paranormal Phenomena』の、PP》

Paranormal Phenomena。「超常現象」を意味するローマ字の並びに軽い悪寒を覚えつつ、
フロントガラスのルームミラーをちらと覗く。怪しげな響きの英単語に惹かれて身を乗り出す、弟の姿が目に痛かった。

「ああ、捜査四課・・・。弟も一緒です、事件ですか?」

《四人目の被害者が出ました、「抜き取り魔事件」です。
 場所は足立区加平3丁目、××ハイツの201号室。至急現場に向かって下さい。弟さんを連れて》

「抜き取り魔」ってだけで相当げんなりだが、最後の一言はそれ以上だった。
深いため息を吐き出して、後ろを振り返る。合わせた弟の両目が好奇と期待で染まっているのを確認し、
内心少々苛立ちつつも、「了解」と短く応えて通信を切った。
「やった、捜査だ。楽しみだね、姉さん」と心躍らせる弟の、今日一番の良い表情が、また一層姉をイラつかせた。

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足立区加平三丁目には、数多くの賃貸アパートが存在する。
その中の一つ、築二年の新顔・××ハイツ、二○一号室が、今回の事件現場である。
駅から近く、家賃も周りのアパートに比べ比較的安価な好物件だが、今回の事件は果たしてどのような影響を
このアパートに与えるだろうか。
「心臓を抜き取られた部屋」だなんて、自分なら絶対に住みたくない。
後部座席に座る彼のようなオカルト好きになら、IHコンロよりも嬉しい付加特典であるのだろうが。

数台のパトカーが停車するアパートの駐車場に車を止め、階段を上がり、
二○一の入口を塞ぐ警官に「一課・・・じゃない、四課の黒崎です」とバッジを突きつけると、
「PP課ですか、どうぞ」と笑みを浮かべた警官の顔が横に抜けた。

現場となった二○一号室へ進入し、辺りを見回してみる。
今回遺体が発見されたのは浴室で、浴槽の中で遺体は力なく首を倒し、真っ赤に染まった湯につかっていた。
「やりたくなーい」と駄々をこねたい衝動を抑え、スーツの袖を捲くった芽依子は、
一息に腕を赤い水溜りの中に突っ込むと、中に沈む被害者の左腕を掴み、引き上げた。
水面から顔を出した左手は、これまでの三件と同様、「穴」の開いた自分の心臓をしっかりと握り締めていて、
「抜き取り魔」の犯行であることはほぼ間違いなかった。

腕に付いた赤い水滴をタオルでふき取りつつ、「抜き取り魔か・・・」と小さく呟くと、
頭上からふいに「みたいだな」と納得したような男の声が降り注いだので、芽依子は思わず顔を頭上に振り向けた。

狭い浴室にもう一人、ポケットに両手を突っ込んで浴槽を見下ろす、初対面の刑事がそこにいた。

「ガイシャは『野島 信介』19歳、大学生だ。泊まりにきた恋人が遺体を発見した。
 1時間前のことだ」

「死亡推定時刻は?」

「4~5時間前と見てる。PP課の『赤城 稜(アカギ リョウ)』だ、よろしくな」

「黒崎 芽依子です。一昨日四課に異動になりました」

差し出された分厚い手の平を見、芽依子はまだ微かに湿る手の平を差し返した。
ゴツゴツした手の平の触感と、疲れを隠そうともしない、眠たげな瞳。薄汚れたこげ茶のコート。
ぱっと見三十代後半といったところの出で立ちだが、四方に跳ねた少年のような黒髪が、実際はもっと若いかもという気にさせた。

「バカらしいよな、PP課だとよ。『超常現象』とか真顔で言い出しちまってるからな、お偉いさん方」

「超能力を信じてない?」

「サンタと同じ。そういうこと言ってていいのは中一までだ。
 ところで、鑑識に混じってリビングをうろついてる一般人は、お前さんの弟くんか?」

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「ええ・・・捜査協力を依頼されていて・・・」

「聞いてるよ。早速呼んできてもらえるか?さっさと判定していただきたいものでね、専門家さんに」

何が嬉しくて実の弟にこんな、グロイ光景を見せ付けなきゃならないんだろう。
深呼吸して気持ちの整理を付けたい気分だったが、血生臭い浴室の空気を吸う気にはなれなかった。
真っ赤な浴槽を後にして、芽依子はリビングの片隅で漫画誌を読み漁る悠斗に声を掛けた。

「・・・何してんのよ」

「見てよこれ、『ピンクダークの少年』だって。まだ連載してたんだぁ
 イギリスじゃ『ジャンプ』なんて読めなかったから・・・絵柄変わったねえ」

「こっち来て、死体を見てもらうから」

「ん、了解」

数ヶ月分の『ジャンプ』が詰まった本棚にそれを戻し、弟は姉の後をついて歩いた。
忙しなく自分の作業に没頭する鑑識の捜査官らを横目に、悠斗の顔は「特別」な自分の立場を心底楽しんでいるように見える。
浴室のドアを開け、赤い溜め池に頭を沈める無残な被害者の姿を目撃しても、その表情が歪むことはなかった。

「これが被害者ですか?」

「その通り。PP課の赤城だ、よろしく黒崎 悠斗くん。いま水を抜く」

そう言うと赤城は、水のサンプルを取り終えた鑑識官に合図し、ゴムの水栓を引き抜かせた。
赤い水がじゅるじゅるとその水位を下げ、徐々に被害者の「不自然に綺麗」な裸体があらわとなっていく。
水が抜け切るのを待たずに、悠斗は身を乗り出して遺体の胸板を触りだした。
ぐっ、ぐっ、と力強く、手の平で遺体の左胸を押す悠斗の姿を見、赤城がその背中に問いを投げかける。

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「他の被害者の資料にはもう目を通してもらったと思うが・・・
 超能力かどうか、ってのはいつわかるんだい?」

「もうわかりました」

「「え?」」

ピシャリと言い放った青年に、気の抜けた声を被せた捜査官の二人。
濡れた右手を拭いつつ、悠斗は推論ではない理論的な結論、厳然たる事実を口にした。

「これは『超能力』です。超能力を使われた犯行と見て間違いないでしょう。
 犯人は『超能力者』ということになります」

「な・・・」

「説明して」

訝る二人の表情に苦笑して、悠斗は次のように切り出した。

「『トンネル効果』、って知ってる?」

「? 『トンネル』?」

「量子力学の世界では、人はコンクリートの壁を通り抜けることができるとされているんだ。
 壁を構成する原子と原子との細い隙間を、人体の原子がすり抜ける。原子の持つエネルギーが大きく変動した瞬間にね。
 確率だよ。これを『トンネル効果』と呼ぶんだ」

「その・・・なんだ、つまり原子エネルギー変動の瞬間を狙って、胸を貫いたとでもいうのか?
 『トンネル効果』で」

「いえ、例えば僕らが普通に道を歩いていて、突然地面に埋まってしまうようなことはないでしょう?
 これはあくまで確率なんです。可能性があるというだけの話」

「でもね、起こそうと思えば起こせないこともないんだ。科学の力で」

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「なんですって・・・?」

「簡単さ。放射線を胸に集中して浴びせ、原子を振動させてやればいい。
 砂利で作った山の上に、旗を一本挿し込んだ姿を想像してもらうとわかりやすいんだけど、
 砂利を揺らしたら旗は沈んでいくよね?」

「・・・!」

「まあでも、そんなのまず無理だね。できるならみんなやってるよ。
 専用の照射機が必要だし、『通路』を作ったらそれを維持させなきゃいけないわけだし・・・
 そもそも『通路』を作るのが無理だよ。原子エネルギーを細かく操作するなんて到底不可能に近い」

「・・・」

「解剖記録も見たけど、胸部組織に異常は見当たらなかった。放射能が使われた形跡はなし。
 というか使えるわけないよ。僕だったら、相手が照射機を持ち出して準備始めた瞬間に即逃げる。
 個人レベルで所持できるシロモノでもないしね。つまり――」

ゴクリ、と息を呑む気配が伝わった。
はじめは薄っぺらい笑みを浮かべていた赤城も、今は悠斗の話を真剣に聞き入っている。
導き出される結論の瞬間を、今か今かと待ち構えているような表情だった。

「消去法で可能性を消していくと、残るのは『超能力』だけになる。
 よってこれは、『超能力者』による犯行の可能性大ということです。終わり」

「・・・」

「・・・ぷっ」

あまりにも突飛な話の「オチ」に、たまらず吹き出した赤城の、乾燥した笑い声が浴室を響かせる。
その声で、機嫌を損ねたように下唇を曲げた弟を見て、芽依子は釣られて飛び出しそうな失笑を腹の底に押し込んだ。

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「いーひひっ、あーそうか・・・くくっ・・・超能力者ねえ・・・」

「な、何がおかしいんだよ!?」

「いや別に・・・おかしいのは自分さ。途中、マジになって聞き入っちゃってさ」

「な・・・」

「悠斗落ち着いて、赤城さんもやめてください」

明らかに憤る弟を手で制し、芽依子がちらと鋭い視線を赤城に寄越す。
「失敬」と端を吊らせた口を手で覆い隠し、赤城は手の平越しに乾いた声を絞り出した。

「仮に犯人が超能力者だとしてだ、なんでそんなスゲー能力持ったやつがチンタラ殺人なんて犯して回る?
 物質の透過能力・・・俺だったら銀行の金庫からありったけの金をスることに専念するがね」

「知りませんよそんなの!それを調べるのがあなたたちの仕事でしょ!?」

「ま、確かに・・・で、どうやって犯人を見つければいい?アインシュタイン先生。
 犯人が超能力者ってこと以外に、何か手がかりはあるのか?」

「ないですよ・・・そんなの」

「そうか、ならもういいぞ先生。あとは俺たちが調べる。
 ・・・弟を外に連れ出せ」

本人に聞こえる大きさで耳打ちし、鑑識官を連れて赤城は部屋の奥へと消える。
「だってさ、帰ろう」と投げかけた姉の声を、

「アイツ、すげームカつくよ・・・!」

と、ふるった声のバットが、それを場外へ打ち飛ばした。

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車内。ルームミラー越しに見える弟の顔は、昔見た幼き頃のそれだった。
眉をひそめ、指で下唇をつまんだり弾いたり。機嫌を損ねるといつもこうだ。
記憶の中の不定形が徐々に形づいていき、芽依子は場違いな感傷に浸った。
「・・・これからどこ行くのさ」と発せられた弟の声が耳朶を打ち、視線はそのままで答える。

「本庁舎よ、私の職場。挨拶にいくの」

「何するの?」

「他の事件のファイルも見てもらう。「超常事件」よ」

「嫌だよ。もう協力はしたくない」

ふいに、何かを擦る悲鳴にも似た音が車内に響き、悠斗は座席から突き飛ばされた。
タイヤがアスファルトを滑る音だ。急ブレーキをかけられたのだと理解する前に、浮かされた頭が前部座席に衝突する。
シートベルト着用の義務を怠っていたわが身を省みるより先に、「その顔やめて」と動いた姉の口元が目に飛び込んだ。

「え」

「その顔やめてよ、ムカつくから」

「な・・・なんだよそれ」

「なんのために日本に戻ったの?あれくらいなによ、あんなことでヘソ曲げて!
 何か言われるのはアンタだけじゃないんだからね!私の身にもなってよ!」

「呼んだのはそっちだろ、戻って来いって!」

「ええ言った。そしたらアンタは「はい、やります」って言った!
 なら最後までやりなさいよ、責任持って!」

ゴムボールみたい、と思った。一度放たれれば、弾むのをやめられない。
口に出せばどんな結果を招くか考える間もなく、姉弟は思い思いに自分達の言葉を跳ね返らせた。

「僕は頼まれたからきたんだ、教えてくれって言われたから!
 なのにいざ話せば、まるで変人を見るような目で見られてバカにされる!
 なんなんだよ!僕は見下されにきたんじゃない!」

「みんな簡単には受け入れられないの。わかるでしょう?
 正直言うけど、私もちょっと笑いそうになったわ。だってバカらしいじゃない」

「・・・なんで正直に言うんだよっ、言わなくていいだろそういうこと!」

「いいえ言うわ。身勝手に聞こえるだろうけどね、それでもあなたが必要なの。
 超能力がどうとか、頭ごなしに否定したいのよ。そんな恐ろしいもの、信じたくない」

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「僕が何言ったってムダってことじゃないか、全否定したいんだろ」

「そう、彼らは否定する相手が欲しいの。そしてそれがあなたの役割」

「冗談じゃない・・・グレイやUFOの対応は喜んでするが、クレーマーはお断りだ」

「でも真実が見えているのはあなただけ」

断ち切るように言い放ち、グッと詰まった弟の瞳が揺れる。
穏やかな声音を崩さず、芽依子は諭すように言葉を紡いだ。

「あなたは何故戻ってきたの?私の頼みだから?違うよ、あなたの好奇心がそうさせた。
 この事件の結末を知りたいんでしょ」

「それは・・・・・・」

「なら黙って集中しなさい。それが真実なら、周りの野次なんて気にする必要はない」

瞳孔を通し内面を見透かされた気がして、悠斗はすっと両の目を伏せた。
ぽっかりと開いた沈黙の間を埋めるように、小さく声を搾り出す。

「・・・真相を突き止めれば、あの捜査官の鼻を折ってやれるかな」

「完膚なきまでにね」

今度の「間」は、言い澱んだわけじゃない。
弟の微々たる変調が空気を伝って肌を撫で、感覚的に理解できる。
成長か、変化か、慣れか。少しずつ「姉」らしく、感度を増していくアンテナに内心ほのかな喜びを覚え、
沈黙をかき消すその声を待った。

「・・・やるよ、最後まで」

「それでいい。本庁舎の前に、他の被害者の現場を見ていこうかと思うけど、どうする?」

「行くよ。あの人たちより先に手がかりを見つける」

「じゃあ行こう。シートベルトしめてね」

そう促したところで、芽依子はいま自分と弟が普通に会話をしていた事実に驚いた。
言葉を投げ交わしたんだ。「気まずさ」というガラスの壁をすり抜けて。
トンネル効果だなと独りごちて、芽依子はゆっくりとアクセルペダルを踏みこんだ。

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二人目の被害者、『間島 健太』はそこそこ人気のあるホストだったらしい。
間島の元住処にして二件目の事件現場、六本木のとある高級マンションの一室に、姉弟はいた。
地上二十階、スイートルームと呼ぶに相応しい、3LDKの一人暮らしには広すぎる部屋。
西側に面したバルコニーから眼下を見下ろせば、建物の高さよりも家賃の高さにしゅんとなる。
一体いくら稼いだら、こんな良い部屋に住めるんだろう。
革張りの真っ白なコーナーソファーに腰掛けて、芽依子は詮無い思考を巡らせた。

一通りの捜査が済んで、人気の無くなったモデルルーム。
散々調べ尽くされたこの部屋にきて今更どうこうということは無いが、何もしないよりはマシだろう。
しんと静まり返った廊下をぺたぺたと歩き、芽依子はベッドルームのドアを開けた。
これまた何十万とするであろうキングサイズベッドの上で横になる悠斗が、ふいに「この上で死んだの?」と訊いたので、
芽依子は何の気なしにベッドに腰掛け、「どんな気分?」とその横顔に訊き返した。

「特に・・・なにも感じないな。天井高いね、ここん家」

「ここ、被害者の心臓が乗っかってたのよ」

と、ベッドシーツに広がったシミ、楕円状の赤茶色を示す姉の指先を一瞥し、
悠斗はまたぷいと上を眺めるのに戻った。

「良いベッドだ。病院のベッドで死ぬよりはマシかもな・・・」

「心臓取られちゃうけど?」

「きっと苦しまずに死ねた」

「そうね、でも・・・」と続けた姉の顔は見ず、悠斗はひたすらに高い天井を眺め続けた。
こののっぺりとした白い壁は、間島 健太の最期を見届けた―――。

「代わりに遺族が苦しむ」

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ブブブ・・・とポケットの中のケータイが振動し、芽依子はベッドから腰を離して電話に出た。
通話先の、少女のようなキャピキャピとした黄色い声は、ついさっき車の中で聴いたものと同じだ。
たしか・・・『緑川 なんちゃら』って名前だった気がする。

《もしもし?黒崎さん?緑川 沙希です》

ああ、沙希か。脳内アドレスに彼女の名前をきちんと登録しなおし、部屋の隅に移動する。
「どうも。何か?」と答えてみせたところで、《ねえ、私たちってさあ、歳近いじゃない?》と沙希が言った。

「えっ」

《黒崎さん緑川さん、って呼び合うの、なんか嫌な感じするのよねー。するでしょ?
 だからさ、下の名前で呼んで良い?『芽依子』って》

「はぁ・・・」

《『沙希』って呼んでいいからさぁ、どお?》

心底どうでもよかったが、この猫撫で声には敵わなかった。
「どお?」なんて言われたら、「いいよ」としか言えないじゃないか。
ずるいやり口だなー、と内心呟きつつも、「ええ、いいわ。・・・沙希ちゃん」とちょっぴり恥ずかしい響きと共に
了承の旨をケータイに吹き込んだ。

《きゃー!よろしくねメイコ~》

何をこんなに盛り上がってるんだこの娘は。まだお互い、きちんと顔も合わせたことないのに。
この甘酸っぱい一連のやりとりが急に恥ずかしくなり、聴かれていないかと芽依子はベッドの上の弟をちらと見た。
悠斗はさも興味ありませんと言ったふうに、だらんと姿勢を崩して「ジャンプ」を読みふけっている。
安心したような少し寂しいような微妙な感覚が胸を満たし、一瞬で落ち着いた芽依子の鼓動は、
その姿を見て何か閃いたように、間を置いて再び脈打った。

「ごめん沙希ちゃんちょっと待って。・・・・・・悠斗、悠斗!」

ケータイの通話口を片手で塞ぎ、弟の名前を呼ぶ。
ジャンプから両目をひょっこり覗かせ、「なに?」と悠斗が訊ねた。

「それどうしたの?」

「どれ?」

「ジャンプよ。まさか、野島 信介の家から持ち出したんじゃ・・・」

「違うよ、僕をどんなやつだと思ってんだ!この部屋のものだよ、ほら、そこの本棚!」

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顔をしかめた悠斗がベッド脇の本棚を指差し、芽依子の視線はそれにつられた。
本棚の傍に積まれた数冊の「ジャンプ」の姿を見た一瞬、芽依子の大脳を貫いたのは、稲妻のような鋭い一本の衝撃。
三人目の被害者『坂井 俊夫』、四人目の『野島 信介』。
彼らの家で、全く同じものを見た。

ふつふつと胸が昂っていくのを知覚し、「もしもし、沙希ちゃん!?」と
芽依子は通話口に呼びかけた。

《なに?》

「一人目の被害者、『水木 由利』の現場資料を開いてくれる?」

電話の向こうでキーボードを叩く小さな音が微かに聞こえる。
間を置き、《・・・はい、どうぞ。何が知りたいの?》と発した沙希の声。

「現場写真から、あの家に「ジャンプ」があったかどうか知りたいの」

《ジャンプ?漫画の?》

「そう。見てみて」

《ちょっと待ってね・・・》

再び会話が途絶え、しばしの沈黙が相手とこちらの通話回線を行き来する。
「なんかわかったの?」の訊く悠斗の声は無視し、芽依子は沙希が喋り出すのを待った。
やがてケータイのスピーカーから流れ出た、

《・・・あった。これだ、リビングルームの写真。本棚にちょっと写ってるわ。
 「サンデー」もあるけど》

と言う沙希の声が鼓膜を震わせると、「わかった、ありがとう!」と手短に感謝を述べ、電話を切った。
まだ全体像は見えない。でも確かにこの「線」は、バラバラな「点」と「点」とを繋いでいる――。

「それ押収。全部持ってくよ」と短く伝え、芽依子はすぐにまたどこかへ電話をかけ始めた。
「え?なんで?」と訊いた弟に、「手がかりだから」と答えた姉の顔は、何かを掴んだのであろう、いきいきとしたものだった。

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警視庁本庁舎・捜査四課オフィス、午後四時。
芽依子らによって運び込まれた「ジャンプ」が各自の机を埋めると、PP課は自分達がおすすめする
連載漫画作品、発表会の時間となった。
「私、この『ピンクダークの少年』がすごく好きなんですよ~」と最初に口を開いたのは沙希。
次に「えっ沙希さんもですか!僕もなんです、このスリルがたまらないですよね!」と、実姉には聞かせたことの無い
ハツラツとした声で悠斗が応じ、「わたしは『ハンター×ハンター×ハンター』だな。富樫仕事しろ」
と部下の仕事を纏め上げるポジションであるはずの白石課長がそれに混じって楽しそうに笑う。

「ちょっと!真面目にやってください!」と叫び出したい光景であったが、談笑を楽しむ弟の姿を見て、
声に出すのはなんだかちょっぴり気が引けた。
IQが高いだとか、イギリスの名門大学に通っているだとか、そうは言っても中身は普通の大学生だ。
心の中のもやもやが濃さを増していき、芽依子は思わず深い溜息を吐き出した。
「持ってきたぜ、お姉ちゃん」と突然肩を叩かれ、振り返る。ビニールで縛ったジャンプの束を片手に、
空いた片手で目頭を揉む長身の刑事、赤城 稜の姿があった。

「これ、野島 信介んとこと水木 由利んとこのね。これでなんかわかるのかい?」

「ありがとうございます。四人の被害者たちの唯一の共通点がこれなんです」

「『被害者はみなジャンプ読者だった』・・・か?」

「ええ」

ジャンプの束を机に置き、赤城がオフィスチェアの背もたれに両腕を乗せて跨った。
その両腕に顎を預け、背もたれをキシキシと軋ませながらキャスターをこちらに向かって滑らせる。
口元にはやっぱり薄っぺらい笑みが浮かんでいた。

「俺の情報が古くなきゃ、ジャンプってのは日本で一番売れてる漫画雑誌だったはずだ。
 四人全員が読者だったとして、単なる偶然にすぎないのでは?」

「今のところこれくらいしか手がかりがないから・・・調べてみないとなんとも」

「俺『マガジン』読者なんだけど、スタンガンとか持ち歩いた方がいいのかな?」

知るか。仕事しろ。ヘラヘラと笑う赤城に内心毒づいて、芽依子はデスク上のジャンプに向き直った。
単なる偶然とは思えない。絶対ここに、何らかの手がかりがあるはずだ。
確証はない。でも自分の「直感」が、そうだと告げている―――。

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机の向こうで弟を含めた三人が漫画談義に花を咲かせる中、一人黙々とチェックを続ける芽依子。
あやうく「ピンクダークの少年」にのめりこみそうになったその時、芽依子はあることに気が付いた。
今手に取っているのは大学生の野島 信介宅で押収した六月期のジャンプ。号数にして三十一号。
この号に付いているハズのアンケートハガキが、綺麗に切り取られていたのだ。

「なんか応募したみたいだな、あの大学生」と肩越しに覗き込む赤城が言い、
芽依子は「他の被害者も、同じ号を持ってますか?三十一号」と訊ねてみた。

「いや、ないな。三ヶ月も前の号なんて普通捨てちまうさ。
 一月前までの号はあるぜ。当選発表は何号だ?」

「えーと・・・三十六号です」

「八月の分だな、待ってろ」

ちょきん、と小気味良く、束ねるビニールのヒモをハサミでカットして、赤城は積み重なった数冊から、
該当の号を抜き出した。巻末の目次から数ページ巻き戻し、当選発表のページへ。
「三十一号プレゼント当選発表」と書かれたそこには、全国各地、ずらりと無数の名前が並んでいる。
人差し指を滑らせて、ひとりひとり名前を確認していくと、指先に「野島 信介」の四文字が見えたので、
芽依子は思わず「あった、野島 信介!」と声を大きくしてしまった。
しかもそれだけじゃない。『野島 信介』の隣には、『水木 由利』『坂井 俊夫』『間島 健太』
三人の名前も存在していた。

「やっぱり・・・共通点はこれだった!被害者全員の名前が書いてあります!」

「賞品は・・・『オリジナルクオカード』?なんだこりゃ」

赤城の意見に同意だった。四人が応募し、当選したのは『オリジナルクオカード』。
三十一号の写真を見てみると、どうやら連載作品のキャラクターイラストをあしらった特注品であるらしい。
共通項は見付かったが、それが意味するところは未だ見えてこなかった。

「当選人数は100名様、だってよ。そんなに価値あるもんか、これ?」

「犯罪者の考えることなんて・・・でも犯人の狙いがわかりました」

「解せねえな。こんなもんのために殺人を?当選者は全国にいるが、なぜ東京都の当選者だけを狙う?」

「近場から片付けているのかも。東京に住んでるから、東京の分が回収し終わったら隣県へ」

「なるほどな。で、どうするんだ?」

いつしか机の向こうの三人も談笑を止め、自分達の話を聞き入っていた。
「決まってます」と芽依子が言う。

「編集部へ。当選者のリストを持っているのは彼らです」

「よし、車を出す」

「東京の当選者は全部で『五人』。五人目の当選者は『佐藤 昌平(サトウ ショウヘイ)』・・・
 彼が犯人の、最後のターゲットです」

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「ジャンプ」の編集部は、千代田区一ツ橋の出版社本社ビル内に存在する。
受付にバッジを見せ、オフィスの所在を聞き出した芽依子と赤城は、その脚で編集部へと直行した。
編集オフィスの前、いざ入ろうと右足を踏み出した芽依子の側で、赤城が言う。

「ここに犯人がいると思うか?」

「さあ・・・でも関わってるのは確か」

「そうか。どうぞ、レディーファーストだ」

言われなくても。無言を返事にして、芽依子はオフィスに進入した。
それぞれの作業に没頭する数名の編集部員たちを横目に、部屋の奥、
編集長がふんぞり返るデスク目掛け、一直線にオフィスを突き進む。
やがてこちらと目が合った中年男性が異変を察知し、椅子から立ち上がろうと肘掛に手を置いたところで、
「大丈夫、座ってください」と近づいた芽依子がそれを制した。

「警察です。二、三質問をしにきました。編集部員は全員揃ってますか?」

「はい、いますが・・・」と警戒心で滲んだ声。

「そうですか。誌上のプレゼント当選企画についてですが、当選者の住所や電話番号、
 彼らの個人情報を知る機会のある人間は、この編集部で何人いますか?」

「・・・全員だ、アンケート集計のアルバイトも含めて・・・」

「では全員集めてください。その中の誰かが、ある殺人事件に関与している可能性があります」

言い切ると、編集長の細い目がぎょっと大きく見開かれた。
その眼光に気圧されてしまいそうになりながらも、冷静を保って芽依子は続ける。

「速やかにお願いします。それと、三十一号のプレゼント当選者のリストが見たいです。
 用意してもらえますか?」

「・・・わかった、少し待ってくれ」

そう言い、編集長はデスクを後にして、オフィス内の社員らに声をかけ始めた。
机から机へ。歩きながら一人ずつ呼びかけていく編集長の後姿を見、
「どうするんだ?まさか全員署まで引っ張っていく気か?」と赤城が問いを投げかける。

芽依子はポケットから携帯電話を取り出し、「十分で済みます」と笑って見せた。

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三人目の被害者『坂井 俊夫』の弟『坂井 博次』は、そのとき留置所の独房で用を足すところだった。
独房の片隅、仕切りで隔てられた小さな簡易トイレ。
家にはウォシュレットがあった。ここでは自由に水を流すことすらままならない。
冷たい便座に尻をつけ、がっくりと頭を落とすと、まるで発作のように、いつもの後悔が頭をよぎる。

何でこんなことしたんだろう。どこで道を誤ったのか。
夏祭りのあの晩、何もハナからそういう目的があって、声を掛けたわけじゃあない。
泣いていたから、迷子だと言ったから手を差し伸べた。笑顔にしてあげたくて、リンゴ飴も買ってやった。
なのに何故?何故あんなことになった?
あの子は母親を見つけた。何故あの瞬間、俺はあの子の手を離さなかった?
何故人目の届かない、暗がりにあの子を押し込んだ?
何故泣き叫ぶ彼女の首を絞めた。

幼少期の虐待が人格形成に影響した?満足な恋愛経験がないから子供に手を出した?
違う。勝手な憶測をさも事実のように、したり顔で、マスメディアに流すのはやめろ。

俺だってわからないんだ。自分がわからない。
お前らコメンテーターやら学者とやらに聞く。自分が何者か知っているのか?
自分の内に潜む「怪物」を、お前らキチンと把握しているのかよ。

「坂井 博次」

鉄格子の向こうから飛び込んだ、自分の名を呼ぶ女の声が、薄暗い独房内に木霊(こだま)する。
仕切りからほんの少し顔を覗かせて、坂井は「何か用か」とぶっきらぼうに返事した。

「協力して」

アウトラインはパツンとした、ブラウンのレイヤーボブカットがキュートな、彼女は警察官。
まだ顔立ちは幼く、高校生でも通る見た目の彼女、緑川 沙希捜査官はカバンから薄いノートPCを取り出すと、
有無を言わせぬ強い口調でそう言い放った。

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芽依子の愛用する、マゼンタピンクで染め上げられたスライド式のケータイ――ここでは詳細な機種の情報は省くが――は、
他機種らよりもカメラ機能に重きを置いた、いわゆる「デジカメケータイ」と呼ばれるシロモノだ。
彼女が今、その八百万画素越えの高精細カメラで編集部員らの顔を一枚ずつSDカードの中に収めているのは、
当然ながら思い出作りのためではない。
「なるほどね・・・」とその様子を離れた所で眺める赤城が呟き、編集者の一人が「あの人、何してるんですか?」とその横顔に訊く。

「アンタたちの顔を写メってウチの課のPCに送るんだよ」

「編集部に前科者はいないと思いますが」

「署には「いる」んだな」

「?」

じっと見据える視線を背に受けて、芽依子はまた一度、パシャリとシャッターを切った。
撮った画像を沙希のPCに宛てたEメールに添付して、送信。
一人が終わるとまた一人。丁寧にでも大雑把にでもなく、写真家は淡々と流れ作業をこなしてみせる。
しかしながら素直に写真を撮らせる道理は編集者たちには無く、非協力的な態度を取る人間も当然存在する。
「立ってください。顔をこちらに向けて」
と撮影を無視し、デスクで自分の仕事に従事する背中に芽依子が言うと、

「刑事さん。これは人格権の侵害ではないですか?不当な撮影だ」と、
いかにも神経質そうな編集者の男が、ナイロールフレーム眼鏡をきらと光らせて自信たっぷりにそう言い放った。

「確認が済んだら写真は破棄します。ご心配なく」

「そうは言ってもねぇ・・・。立たせたいならご自分でどうぞ。ほら、ここ」

ニヤニヤと口元を歪め、下腹部の、ジーンズのジッパーをざわざわとなぞる眼鏡の編集者。
釣られてくすくすと笑い出す周囲。芽依子は表情を崩すことなく、むしろ薄い微笑の膜を顔に張り直して、
「あなた、何ができますか?」と、その下品なしたり顔に言葉を突き刺した。

「? なんです?」

「せいぜい屁理屈をこねて私をイラつかせることくらい・・・でしょ?
 そのイスにしがみ付くのが仕事かしら?」

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「こういうとき」の自分の顔を知らない。でもきっと想像通りか、それ以上の顔をしてる。
見下しではない。それは深海を連想させる、「憐み」に沈んだ瞳―。

「教えてあげる。人に迷惑をかけるバカに手錠を掛けて、檻の中へ放り込むのが私の仕事よ。
 その結果そいつの人生が修復できないほどメチャクチャになったって、心は痛むけど「仕方ない」と割り切ってる」

「・・・」

「今までどれだけ他人の人生を壊してきたと?その人の大切な大切な一生も、私にはそれらの一つでしかない。
 例えそれでどんなに酷い自己嫌悪に陥ろうとも・・・地の果てまで追い詰めて、必ず破滅させてやるわ」

「・・・脅してるんですか?公権力が、一般市民を攻撃する?」

「いいえ?知らなかったみたいだから、私がどんな人間か教えてあげただけよ。
 わかったらさっさと立ちなさい・・・手間取らせないで」

「・・・わかりましたよ。逮捕だけは勘弁だ」

氷柱のように冷たく鋭いセリフが、男の虚栄心をずたずたに引き裂いた。
切れ目から溜息がぴゅうぴゅうと漏れ出して、眼鏡の編集者はようやく重い腰を持ち上げた。

ああ、ぞくぞくする。
「破滅させてやる」だなんて、そんなサディスティックな響き、どうして簡単に口から出たんだろう。
人知れず気持ち良くなっている自分に慄いて、携帯のキーに置いた指先が震えた。

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十数名の撮影を終えてから約十五分。
署のPCで集めた顔写真をスライドショーにし、「面通し」を終えた沙希から、電話が掛かってきた。
三人目の被害者『坂井 俊夫』の実弟『坂井 博次』は、兄が殺された現場で犯人の顔を目撃している。
彼にスライドショーを見せ、あの日見た顔の写真でストップをかけてもらう。
五人目の標的が定まっている中、一秒でも惜しい警視庁にとって、それが最もスマートでかつわかりやすい方法だった。
しかし、沙希からの電話の内容は、芽依子の期待していたものではなかった。
「・・・わかった。ありがとう」と低く呟いて、芽依子はマゼンタピンクの愛機をポケットへ仕舞った。

「なんだって?」

「・・・はぁ、この中に犯人はいませんでした」

「仕方ねーな。後は他のヤツらに任せて俺らは最後の・・・佐藤だっけ?んとこ行くか」

手首の腕時計を一瞥して、赤城が言う。
「そうですね。住所は貰いました、いきましょう」と返して、芽依子は編集部員らに向き直り、短く一礼する。
オフィスを後にしようと踵を返したところで、「あ、あの・・・!すみません」と縋り付くようなか細い青年の声が、
二人の背中をグイと引っ張った。

しどろもどろする青年――確か、アンケート集計のアルバイトだった――に、「なんですか?」と訊くと、
青年は目を伏せて、「ぼ、僕・・・売ったんです。住所を・・・」と震える声を搾り出した。

「なんですって?」

「当選者の住所・・・「リスト」を売りました・・・!僕が・・・!」

心臓をぎゅっと掴まれた気分になった。それはすぐには声にならず、芽依子は両目をしばたいて、
「誰に?」といたって冷静に訊く赤城の横顔を注視した。

「大柄で、髪が長くて、筋肉質な男でした。名前は知りません。20万で売ってくれと言われて・・・」

「個人情報漏洩なんてチャチなレベルじゃ済まねーぞ。わかってるな?」

「わ、わかってます・・・。で、でも、聞いて下さい。僕の家は、母子家庭で・・・」

「続きは署で聞くわ」

ほとんどすすり泣きともとれる喘ぎ声を断ち切って、芽依子は震える青年の肩に手を置いた。
その手の平を青年の背中に移動させ、同行を促す。
「刑事さん、僕・・・どうなりますか・・・?」と、向けられた青年の濡れた瞳をしっかりと見つめ返し、

「あとは祈るだけよ」

と、そう芽依子は強く、短く言い放った。

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午後七時を回ると、透き通るような夜の青が空を埋めた。
辺りはすっかり薄暗く、涼しげだ。芽依子と赤城の二人は、五人目の標的『佐藤 昌平』宅から
五十メートルほど離れたタバコ屋のそばに覆面パトカーを停め、その中で犯人の出現をじっと待っていた。
『佐藤 昌平』が住むのは都内のとある小さなアパートの二階。侵入するなら階段を上がって玄関からだ。
ハンドルに両腕を預け、間違え探しのように目の前の景色から小さな異変を探す芽依子に、
「さっきのアレ、なんだ?」と赤城が問いを投げかける。

「アレって?」

「編集部でだよ。脅してただろ。人生をメチャクチャにしてやるとかってさ。
 いつもああいうやり方なのか?」

「さっきはちょっとイライラしてて・・・いつもじゃない」

「ふーん」

「なによ、言いたいことがあるの?」

「いや無いね。気になっただけだ。・・・・・・つーかなんでタメ語?」

「! きた!」

車内の他愛ないやりとりは、興奮気味に発せられた芽依子の声で遮断された。
フロントガラスの向こう、五十メートル先。階段をカンカンと音を立てて上がる一つの怪しげな人影。
『佐藤 昌平』や近隣の住民には、しばらくの間自宅には戻らぬように通告してある。

「空気の読めない宗教勧誘か、狂気のクオカードコレクターか・・・」

アゴヒゲをさすりつつ、赤城が楽しそうに言う。
視線の先の人影は、廊下を渡り『佐藤 昌平』の部屋の前で立ち止まると、そこで「何か」をして、鍵の掛かったドアを開けた。
廊下の蛍光灯に照らされた太い体躯が陰になり、「何か」した男の手元を視認することはできなかった。

「部屋に入った、コレクターさん確定だ。手柄はくれてやるよ、行って来な」

「行ってくるわ。応援を呼んでおいて頂戴」

「りょーかい。・・・・・・え?なんでタメ語?」

ワイシャツの上に脱いでいたジャケットスーツを羽織りなおして、芽依子は運転席側のドアを開けた。
車外の空気は予想よりも少しばかり冷たかった。
冷えた外気が身に纏ったウールを通過して、人知れず粟立った自分の肌をなぞるようだった。

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音を立てぬよう階段を駆け上がり、懐のホルスターから「H&K USP」と呼ばれる、
黒く、シャープなフォルムのドイツ製自動拳銃を引き抜く。
身をかがめて廊下を渡り、鍵の開いた『佐藤 昌平』宅玄関前にまでたどり着くと、
そこからまた息を潜めて、キィィ・・・と開閉音を最小限に留めてドアを開けた。

築五十年は経ってるな、と思った。玄関を開けてすぐ左手側の、使い古されくすんだ色合いの流し台。
物でごった返した玄関兼台所は、薄暗さも相俟って、非常に歩きづらかった。
地面を覆い隠す大量の膨らんだビニールは、買い物袋なのかゴミ袋なのかわからない。
うっかり脚を触れてがさがさとビニールを騒がせないよう、慎重に足場を選んだ。

台所の奥に、ここと居間とを仕切るガラス戸があった。
男が通ったあとで、半開き。隙間から覗くと、戸の向こうは六畳の和室だった。
中央に背の低い机を一つ。四隅を陣取るのは右手前から時計回りに、ステンレス製のハンガーラック、
二十インチほどの液晶テレビ、タンスとそれを漁る不審者、漫画が詰まった本棚だ。
窓から差し込む月に光に照らされて、がさごそとタンスの中をまさぐる男の横顔が白く浮かび上がる。
ゴクリ、と芽依子はツバを飲み込んだ。こいつが、この男が。約二メートル先に立つ、この男が「抜き取り魔」だ。
指先まで熱の通った足裏で畳みをじり、と踏みしめて、芽依子は「クオカードなら無いわよ」とその大きい背中に言った。

「・・・」

後ろに束ねた長髪が揺れる。アメフト選手のように太く逞しい腕が動きを止め、無表情な顔面がこちらに振り向けられる。
芽依子は思わず息を呑んだ。特徴の無い顔だ。ほんと、どこにでもいそうで、いないような。
少し目を離せば、あっという間に記憶から消されてしまうような・・・そんな顔の男だった。
こんなやつが、心臓を?ふいに芽生えた疑問をすぐさま摘み取って、芽依子を銃を構えなおし、
「あんたが誰か知ってる・・・『抜き取り魔』め。両膝を付きなさい!」と叫んだ。

「警察の人?」
これまた特徴の無い声だった。低いとも高いともつかない、ごく普通の模範となるような声音。
言葉を交わし続けなければ、すぐにでも忘れてしまう。
「ええ、そうよ。あんたのコレクションは終わり」と言うと、男は頭をボリボリと掻いて、「まいったな」と情けない声を出した。

「やりたくないんだけどな」

「なに言ってるの?」

「「警官殺し」だよ 罪重いだろ?」

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ゾクゾクと悪寒が体中を駆け巡った。こいつは瞳の中に何か飼っているのか?
瞳の中の何かが、蛇のようにギョロリと動いた気がした。
そんな錯覚をさせるほど、現実感が無くて、怪しくて、おぞましい響きの言葉だった。
芽依子は「四人も殺しておいて・・・!よくもそんな・・・!」と声を荒立てたが、それは抵抗でしかなかった。
何か言わなければ、呑みこまれてしまう。そう焦らせるほどの迫力が、相手の台詞にはあった。

「刑事さん、これ見える?」と、男が何のアクセサリーも付いてない、丸裸の右腕を眼前に掲げる。

「えっ?」

「見えてないんだろ、刑事さん。俺の右腕に何があるか・・・
 俺はこれを『ブリューナク』と呼んでる。意味わかる?」

この噛みあわない感じは理解できる。同じ感覚をついさっき味わった。
そうだ、これは・・・

「アンタは俺を捕まえられないってことだよ」

アイツの、悠斗の話を聴いていたときと同じ―――。

その瞬間は知覚だった。
男が右腕を前方に、芽依子の方に向け突き出すと、芽依子は胸に奇妙な「違和」を覚えた。
何かおぞましいモノが、自分の知識や経験の全てを否定するような、そんなモノが胸を貫いた。
瞬間的に、そう感じた。
体の小さな小さな分子と分子の間を、「それ」はするするとすり抜けて、まるで生暖かい風が吹き抜けたように、
血も、肉も傷つけずに、何事も無かったように通過する。
ぬるい風が胸の空洞を吹きぬけたと感じた次の瞬間は、痛覚だった。
背中にバタバタとした、子供が駆け回るような衝撃が連続して発生し、芽依子は膝を折って床に両手を付いてしまった。

何が起きた?
細い両腕で今にも突っ伏しそうな体を支えながら、わき腹のほうに目をやってみる。
コートやら、スーツやらが芽依子の背中に降り注ぎ、それとステンレス製の長い棒切れが一体となって、
芽依子の体を押さえつけている。ハンガーラックだ。部屋の隅のコート掛けが、私の背中に倒れたんだ。
何故?何で今、私の背中に?

背中を覆う衣類をはらって、立ち上がりたかったし、立ち上がらなければならなかったが、膝が笑ってできなかった。
体を支えるのに精一杯といったふうの芽依子に男が近づいて、耳打ちする。

「今日は見逃してやる。忠告しておくぜ、俺を追うのはやめろ」

立たなきゃ、立たなきゃ。
立たないと、こいつは、こいつが・・・。

「殺すぞ」

絶望、という言葉が何故だが急に、頭の中に弾けた。
何故だか急に、泣き出しそうな気持ちになった。ギリ・・・と、芽依子は両手の爪を畳に食い込ませた。

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抜き取り魔の生ぬるい吐息が耳をくすぐる。
下唇をグッと噛みしめたら、柔い刺激が閉じかけの思考回路に電流を流した。
脳内に点在する絶望が、瞬きほどの一瞬で別の感情に押し流されていく。
怒り。怒りを電気に変えて、神経に乗せ体中に行き渡らせる。
畳を削る指先に熱が通り、それは手の平にじんじんと広がって、握り拳を作る気力になった。

爪先に力を入れて膝を浮かせると、そこからは一瞬だった。
親指で人差し指と中指の背を包み、それを立ち上がるのと同時に、男の下顎目掛けて振り上げる。

「ぐふ・・・っ!」

顎を打ち抜いた拳骨は、それをめしめしと軋ませた。顎肉が波打ち、男はたまらず唾の粒を宙に舞わせる。
大きく仰け反った男の隙をつき、芽依子は左脚を軸に体を旋回させ、回し込んだ右のふくらはぎで
男の顔面を強く打ち据えた。強烈な後ろ回し蹴りを受けた男がフラフラとよろめき、居間と台所を隔てる
ガラス戸にその体躯を突っ込ませた。薄いガラス板をばりばりとぶち砕いて、男は台所の床を埋め尽くす、
大量のポリ袋の山にその身を預けた。

「はぁっ・・・はぁっ、き、気持ち悪い・・・!」

呼吸を整えつつ、芽依子が言う。手を置いた胸がじんじんと熱い。
あの瞬間、確かに「何か」を通してしまった胸。不自然に脈打つ心臓。
キモチワルイ。そうとしか表現のしようがない。まるで原子と原子とが結合と乖離を繰り返しているかのよう。
そんな形の無い恐怖と奇妙が染み込んだ、風に吹かれる木々の、木の葉みたいにざわつき続ける身体。

「・・・うっ!」

思わず吐瀉物をばら撒いてしまいそうな口元を押さえながら、芽依子は壁にもたれて、ずるずると床に腰を落とした。
ポリ袋の山に埋まった屈強な体躯はぴくりとも動かない。完全にのびている。
這い上がる嘔吐感を必死に呑み込んで、芽依子は台所に突っ伏した犯人の男にゆっくりと近づいた。
懐から手錠を取り出して、それをかけようと男の右手首を持ち上げると、突如目を覚ました男が左手で芽依子の手首を掴んだ。
ぎりぎりと存分に握力を揮う男の左手が、芽依子の手首を圧迫して血液の流れを遮断する。
血色を失くしていく指先をバタつかせるも虚しく、あらぬ方向に捻じ曲げられた手首が悲鳴を上げ、
痛みに体が緩んだ一瞬に、男の太い右脚が芽依子の華奢な体躯を後方へ蹴り飛ばした。

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「うあっ」

ポリ袋のクッションの上に倒れて、呻く。
咄嗟に拳銃を構えなおそうとしたが、手に持った銃は男の右手になぎ払われた。

「ぐっ・・・!」

80kgはある筋肉の塊がどすんと腹にのしかかる。
マウントを取られた芽依子は、月明かりに照らされ薄く浮かび上がる男の顔を再度見た。
喜怒哀楽を取り払った、まるで見えない鉄仮面を着けているかのような無表情。
ちらとも動かさず、“イス”の瞳をただじっと見下ろす生気のない目。
死ぬ。心臓を抜き取られて、殺される。瞬間、芽依子はそう直感した。

ただ、なんでなのかは自分でも全くわからないのだが、自然と恐怖は感じなかった。
「死」が余りにも漠然としすぎていて、考えるのを放棄しただとか、そういうことじゃない。
ただそのときは、単純に「知りたい」と思った。
こいつはどうやって私の心臓を、私の胸を切り開かずに取り出すのか。そればかりが気になった。
答えをこの眼で確かめられるなら、別に死んでもいいとさえ思った。
そのとき芽依子の中に芽生えていた「未知」への感情は、恐怖よりも好奇だった。

さあ来い。ひとおもいにやれ。最期の最期、手品のタネを見破ってやるぞ。
腹を括り、余力を全身に張り巡らせて身構える。だが――

「・・・うん。なんか・・・すごいな。あんた・・・すごいよマジで」

「わかった、俺の負けだ」

男が発した思いがけない二言が、強張った芽依子の体をじんわりと解きほぐした。
すぐには何を言われたかわからず、「・・・なんだって?」と芽依子は少しばかり柔らかくなっている表情を見上げた。
男はふっ、と笑って芽依子の腹から尻を上げて拘束を解くと、床に両膝をついて両手を後頭部へ回した。
「かけてよ、手錠」と言って、男はまた笑った。

「・・・!」

気味が悪い。なんなんだこいつ。
いっそ殺してくれた方がまだよかった。掴むものも何もない、四方八方視界が閉ざされた霧の中に一人放り込まれた気がして、
芽依子は手錠を握り締める手の平に人知れず汗を滲ませた。

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手錠を掛けられた巨体は、拘束具を食い千切って飼い主を噛み殺し脱走を計る獰猛な獣――とは呼べず、
それはまあなんとも借りてきた猫のように大人しかった。
表にパトカーの姿はない。結局私一人であっさり解決してしまった。
タバコ屋の側の覆面パトカーを遠目に、芽依子は男の背中に手を置いてアパートの階段を降りさせた。
カンカンと味気ない音を立てつつ、

「刑事さんは、“この世で自分しか持ってないもの”・・・いくつ持ってますか?」と男が喋った。

「どういう意味?」

「そのまんまですよ。ジミー・ペイジのサイン入りレスポールだとか、先祖代々受け継がれた土地だとか。
 『心臓』もある意味じゃそうですよね。俺はこの前数えたら、19個持ってました」

「クオカードを100枚集めたら、それが20個目になると?」

「“俺しか持ってないもの”・・・ですよ。なんでもいいんです」

種明かしをされたのに、何一つすっきりしなかった。
そんなことで四人も?やっぱり、犯罪者の考えることなんて到底理解不能だ。
先ほどの、あの瞬間は「何もかもが知りたい」とそう感じていた。好奇が恐怖に勝っていた。
今は恐怖の方が何倍も強い。この男がどうやって心臓を抜き取ったか、本当に超能力者なのか?
聞きたくなかったし、知りたくなかった。
知ったところできっと、私には・・・

街灯のランプが歩ける程度に地面を照らす、真っ暗な夜道を50mほど歩き、二人は赤城の待つ車に近づいた。
側に寄って、窓ガラスをこんこん、と叩いてみたが反応が無い。辺りは暗く、ガラス越しに車内の様子を伺うことはできなかった。
こいつ、応援も呼ばずにサボってたな。「ちょっと、寝てるの?」とドアノブをガチャガチャと動かすが、
それでもリアクションは無かった。
「最低・・・とんだ給料泥棒ね!ちょっと待ってなさい」と言って抜き取り魔の男を一歩下がらせると、
芽依子は車体を蹴り飛ばそうと右脚を前にあげた。
すると男が突然、「ごめんな」と呟いた。

何のことか分からず、芽依子は浮かせた脚を地に下ろして、「なんのこと?」と思ったままに訊いた。
そこにあったのは、鉄仮面を脱いだ、人間らしい生の感情だった。
“哀しみ”を滲ませた男の目が伏せられ、男はしんみりと、「俺、死ななきゃいけないんだ」と言った。
芽依子が、「それは陪審員が決めることよ。極刑を望んでいるなら――」と言いかけたところで、
男は「違うんだ」とそれを遮った。

「そう“言われてるんだ”。ちゃんと死ぬんだぞ、って。証拠を残すなよ、って・・・」

「ちょ、ちょっと待って・・・何を言ってるの?誰にそんなこと・・・」

「もう行くよ。じゃあ、またいつか。刑事さん」

言い終えると、なにか奥歯を噛んだみたいに、男の口端が歪んだ。
考える間も与えず、男は芽依子の目の前で、口からブクブクと泡を吐き出してその場に倒れた。

「そ、そんな!ウソでしょ・・・そんなっ!」

男に駆け寄って、芽依子は男の頭を抱きかかえた。
おそらく青酸カリ。奥歯に仕込んでいた、いや、“仕込まれていた”劇薬を噛み砕いて、男は自殺を図ったのだ。
「くっ・・・うっ・・・」と声にならない弱々しい呻きをあげながら、ビクビク体を痙攣させ、両の瞳からちょっと前には覗かせていた
“生気”が失われていく様を女捜査官にまじまじと見せ付けて、男は芽依子の腕の中で息絶えた

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「く・・・くそっ!なんで・・・っ!」

混乱で纏まらない思考が、フィルターを通さずそのまま口から駄々漏れだった。
あまりにも突然すぎる事態に、ただあたふたすることしかできなかった。
するとふいに街灯の明かりが遮られ、陰った夜道が完全に闇に包まれた。
なにかと思い、頭上を仰ぎ見たその瞬間も、一瞬だった。

「・・・?!」

暗くて顔は見えなかったが、誰か、人が立っていた。
そいつの手元がバチバチと音を立てて青白い閃光を放ったも束の間、それが自分の首に押し当てられて、
芽依子の意識はそこで途絶えた。



頬が冷たい。あと、肌寒い。
そう感じて、芽依子は飛び起きた。脳みそのようなコンクリートの細かい溝に自分のヨダレであろう液体が溜まっていて、
それを見て自分はここでしばらく眠っていたのだと知った。

そうだ、確か・・・誰かに気絶させられた。あの光、スタンガンかなにか・・・
まだぴりぴりと痛む首元に手を当てて、芽依子はおぼつかない思考を揺さぶった。

「・・・!」

ここで自殺した連続殺人鬼、『抜き取り魔』の死体が無くなっている。
彼は即死だった。一人でにどこかへ消えるなどありえない。
腕時計を見ると、あの瞬間から一時間ほど経過していることが分かった。
芽依子は自分の真後ろで佇む覆面パトカーに蹴りを入れ、ご近所に迷惑な大声で「赤城さん!」と叫んだ。
だがやはり反応がない。
まさか、まさか・・・と逸る気持ちを抑えきれず、芽依子が窓ガラスを肘打ちで叩き割ろうとしたところで、
ウインドウが下ろされて、中の赤城が「うるさい、聞こえてるよ。ってか蹴るなよ」と気だるそうに言った。

「何があったの!?」

「わっかんねえ・・・スタンガンかな、気絶させられた。
 それより、抜き取り魔はどうなった?」

「それが・・・!」

「?」

芽依子はこの一時間の前に起きたことの全てを、洗いざらい赤城に吐き出した。
まだちょっと、いやかなり混乱していて、興奮もしてる。
うまく説明できた自信はないが、それでも分かることは全て伝えきったつもりだ。

何事も無かったかのようにしんと静まり返った夜道が恐ろしく、芽依子は逃げるように車に乗りこんだ。

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「死体を盗まれた・・・?」

「そうです。一瞬のできごとでした」

捜査四課オフィス。
課長・白石 力也は自分のデスクに芽依子と赤城の二人を呼び出し、事件のあらましを簡単に説明させていた。
淡々と事実を話す二人の前で、白石は鉛のように重い溜息を吐き出した。
容疑者が死んだ?死体を盗まれた?なんてことだ。失態と呼ぶ以外のなにものでもないではないか。
PP課が出来て最初の事件、その結末がいきなりこれだと?
良くて査問会、最悪異例のスピードで四課解体、全員地方へ左遷なんてことも十分に考えられる・・・。
右手で額を覆い、目を閉じて白石は再び深い溜息を吐き出した。

「俺たち、どうなるんすか」

「・・・まだわからん。私にもな」

訊きたいことはほかにもあったが、三人を包む重々しい沈黙が、口を開く気力を削いだ。
じっと立ち尽くす二人の顔を見上げて、白石は「あとは祈るだけだ」と短く言った。



「これ、日本で一番超能力に詳しい人の電話番号。
 昔一緒にイギリスでご飯食べたことがあって、きっと協力してくれると思う」

抜き取り魔の事件を終えてから、六日後。
空港の前で悠斗が芽依子に手渡した、小さなメモ。
走り書きの数字の羅列を覘いて、芽依子は「ありがとう。助かる」と感謝の意を述べた。
一週間の滞在を終え、ようやく第二の母国イギリスに帰省する弟。
この七日間、弟はPP課に様々な知恵を貸してくれた。解放感と安堵感と、若干の口惜しさが胸を埋め、芽依子はまたも言葉に詰まった。
そんな姉の姿を見て、悠斗は「一週間経ったのに、まだぎこちないね」と苦笑した。
苦笑を返す気になれず、逃げるように「じゃあ、もう行くから」と無骨な会話を足早に切り上げると、
悠斗は「うん。じゃあ、また」と小さく右手をかざし、空港の中へと消えていった。

やっぱりちょっと、解放感の方が強いかな。
表に停めた車のエンジンをかけ、次の事件のことに頭を切り替えて、芽依子は空港を後にした。

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空港のロビーでイスに腰掛け、搭乗便を待つ間、ずっと考えていたのは姉のこと。
この一週間ずっと彼女を側で見てきたが、時折見せた姉の息苦しそうな表情がどうしても頭から離れない。
多忙な仕事が彼女を蝕んでいるのかもしれないし、自分がここにいるのが原因なのかもしれない。
どっちもあり得る話だ。姉は自分が姉の仕事に関わるのを、本気で嫌がっていたようだった。

もしも自分の存在が姉の頭痛の種となってしまっているのなら、もう会わないほうがいいのかもしれない。
姉には姉の、自分には自分の人生がある。
関わらないことを良しとする、そういう姉弟の関係もあるはずだ。
折った膝に肘を乗せ、うなだれるように座って詮無い思考を廻らせる悠斗は、
「おてがらだったね」とふいに隣の席から掛けられた声に顔を上げた。

声を掛けてきたのは脚を組んで洋書の小説を読む、ほのかに赤みが掛かった短茶髪が目立つ、眼鏡の男。
彼が手に持つ小説は知ってる。ヘミングウェイの『武器よさらば』だ。
何のことかわからずに、「なんです?」と悠斗はその知的な風貌に訊き返した。
『武器よさらば』のページを一枚めくって、男は「抜き取り魔だよ」と言った。

「君の協力があって犯人を見つけたそうじゃないか、よくやったね」

実際はほとんど何もしていないが。「ああ、どうも・・・。警察の人ですか?」と悠斗が返すと、
男は「いや、違うよ」と小説から目を離さずに短く答えた。
?じゃあ何故そんなことを知ってるんだ?芽生えた小さな疑問に水を与えるよりも早く、
「黒崎 悠斗くん。実はお願いがある」と男が本を閉じて言った。

「さっきエディンバラに戻るために航空券を買ったろ?
 それをくしゃくしゃに丸めて、捨てて欲しいんだ」

何を言われたのかわからなかった。何で見ず知らずの、出会ったばかりの他人にそんなことを?
そもそもこいつは誰なんだ。そんなことを考え、口に出そうとすると、それを制するように、

「そしたら空港の外にタクシーを待たせてあるから、それに乗って警視庁に戻って欲しい」と男が言葉を続けた。

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「あんた誰です?何故そんなことを?」

「僕のことなんてどうだっていい。君がこの街に残ってくれれば」

切り捨てるように男が言って、悠斗は急に寒気を感じた。
警察じゃない、なのに自分のことを知っている。
ぞわぞわとした何かが背中に這い上がる感覚を知覚し、悠斗はその場を立ち去ろうと席を立った。
すると眼鏡の男がふいに、「黒崎 芽依子・・・」と馴染みのある名をぼそりと口にした。

「!?」

「お姉さんは好きか?」

ゾッとした。鳥肌が立ち、全身の体毛が逆立った。
この男のこの目・・・穏やかなのに、穏やかじゃない。“危険”を直感させる茶色の瞳。
柔和そうに見えて、腹の内には何を考えているか悟らせない、刺々しさを持った目元。
男は柔らかな笑みを浮かべて、

「彼女が何故・・・急に四課に異動になったと思う?実力じゃあないぞ。
 いいか?彼女はな、“人質”なんだ」

「お前の姉さんを鉄パイプでボコボコにして、一生介護生活の障害者にしてやってもいいんだぞ」

と、取り繕った表情とはあまりにかけ離れた低い声で、一息にそう吐き捨てた。

「!! 姉さんに手をだしたら・・・!」

「落ち着けよ、君がやるべきことをちゃんとこなしてさえくれれば、僕はそれでいいんだ」

「僕がやるべきこと・・・!?」

声を荒げた悠斗をなだめるように、男はにこりと笑って見せた。
“白”と“黒”が両立する、矛盾を押し隠した違和感のある笑顔を貼り直して、
男は
「お姉さんの仕事を手伝え。それだけだ」と言って、席を立った。

出口に向かい遠くなっていく男の背中を見据えて、悠斗は手に持った航空券をぎゅっと握り締めた。

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黒崎 芽依子の趣味は、意外だがお菓子作りだ。
彼女を知った人間なら誰だってみな口を揃えてそう言うし、本人もそう思ってる。
普段“何か”が生み出されるのを阻止する仕事をしているから、その反動なのかもしれない。
お菓子作りはパズルみたいなものだ。
食材というピースを集めて、レシピという完成図を見ながら、自分の技術と感性でそれを組み立てていく。
時間をかけて、自分の手でお菓子を“生み出した”瞬間の喜びは、きっと自分にしかわからない。
これは私にしかないものだな、と思った。

あのとき、『抜き取り魔』が私に訊いた。“自分しか持ってないものがいくつあるか”・・・と。
きっと指折りで事足りるほどしかないから、数える気にならない。
そんなものなくたって、人生は十分に謳歌できるハズなのに・・・。

焼けたチョコレートの甘ったるい匂いが部屋中を満たし、芽依子は食器の準備を始めた。
チョコレートケーキをくわえ込んだオーブンがちんと鳴るのと、玄関のチャイムが鳴るのとはほぼ同時だった。
オーブンから立ち昇るこんがりとした甘い匂いに後ろ髪を引かれつつ、やきもきしながら芽依子は玄関に向かい、ドアを開けた。

「やあ。えっと・・・空いてるベッドとか、ある?」

玄関外に立った弟が、ぎこちない笑みを投げて寄越した。




第01話 パラノーマル・フェノメナ(Paranomal Phenomena)
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