共立公暦965年、クランナム・ステルの塔に冷たい風が吹き抜ける夜。
メレザ・レクネールは、
文明共立機構の最高議長としての重責を一時脇に置き、魔導科学士としての顔で、塔の最上階に佇んでいた。彼女の手には、古びた水晶の杖が握られ、その表面には微かな光が揺らめいている。杖の柄には、長い年月を経て刻まれた細かな傷が、彼女の人生の重さを物語っていた。窓の外では、星々が静かに瞬き、遠くセトルラーム共立連邦の灯りが霞んで見えた。その光景は、彼女がかつて逃避行を続けた果てに見つけた安寧の土地を思い出させる。
この夜、メレザは自らの研鑽のために塔に籠もっていた。彼女が管理するB.N.S.バブルレーンを通じて、日々流れてくる膨大な情報を処理する傍ら、新たな術式の実験に没頭していた。今夜の目的は、秋スクリプトを応用した防御術の強化だった。彼女は静かに呟く。「平和を守るには、力の均衡も必要ですからね。武力に頼らずとも、守れる術を完成させたい」。その言葉には、戦争の惨禍を経験した彼女の強い意志が込められていた。
メレザは杖を掲げ、秋スクリプトの
令咏術を発動する。部屋の空気が一瞬にして湿気を帯び、彼女の周囲に水の粒子が渦を巻き始めた。低い詠唱が響き、彼女の声はまるで古代の詩のように流れる。「水よ、集い、形を成し、守りなさい」。水流は柔らかくも堅固な障壁を形成し、塔全体を包み込むように広がった。水は床の術式へと流れ込み、青白い光が奔る。空間が微かに振動し、透明な水の膜が塔の周囲に張り巡らされる。彼女はその光景をじっと見つめ、杖を手に持ったまま効果を確認した。「これなら、多少の攻撃も防げるでしょう。けれど、もっと洗練させなければ」
術式が安定すると、彼女は杖を下ろし、窓辺に近づいた。冷たいガラスに手を触れ、星空を見上げる。彼女の視線は、かつての戦友たちが暮らしたセトルラームの方向へ向けられる。3500年以上の時を経ても、彼らの笑顔や声は彼女の心に残っている。だが、その記憶は召喚能力の代償として少しずつ薄れつつあった。彼女は自嘲気味に微笑む。「大令術士と呼ばれても、過去を繋ぎ止めるのは難しいものです。私の力では、時間すら操れない」
机の上に置かれた古びた航海日誌に目を落とす。それは、大戦中の逃避行で記したものだ。ページには、荒れ狂う宇宙船の操縦席で仲間と交わした言葉や、見知らぬ星系での孤独な夜が綴られている。彼女はペンを手に取り、新たな一行を加えた。「今日も、守るために術を試した。かつての約束を果たすために」。その約束とは、戦友たちと交わした「二度と戦争を繰り返さない」という誓いだった。彼女は目を閉じ、彼らの顔を思い浮かべようとするが、輪郭がぼやけるばかりだ。「忘れたくないのに」と呟き、唇を噛む。
その時、塔の警備AIが低い通知音を鳴らした。メレザが振り返ると、転移術式のゲートが自然に起動し、微かな光が広がる。だが、そこから現れる者は誰もいない。彼女は眉を寄せ、杖を手に持つ。「何かの誤作動ですか? それとも…」。一瞬の緊張が走る。彼女は杖を軽く振って術式を点検し、水の粒子で空間を走査する。だが異常は見つからない。彼女は小さく笑い、「疲れているのかもしれませんね」と呟いた。長い年月を生きる彼女にとって、こうした小さな出来事すらも、日常の一部に過ぎなかった。
再び窓辺に戻り、メレザは星空を見やる。彼女の心には、かつての戦友たちとの思い出が断片的に浮かんでいた。ある者は笑いながらボードゲームで彼女をからかい、ある者は戦場で盾となって散った。彼女は静かに言う。「皆がいたから、私はここまで来られた。なのに、貴方たちの名前すら、いつか忘れてしまうかもしれない」。その声には、深い哀しみと決意が混じる。
彼女は杖を手に、再び術式の改良に取り掛かる。水の障壁をさらに強固に、そして柔軟に。試行錯誤を繰り返し、夜が深まる頃、ようやく満足のいく形が完成した。「これなら、誰かを守れるかもしれない」。彼女は微笑み、航海日誌にその成果を書き加える。そして、窓の外に広がる星々に向かって小さく祈った。「願わくば、私が守りたいもの全てに、安息と平和が訪れますように」
星々の下で、メレザの静かな戦いは続く。平和を願い、過去を忘れぬために。そして、いつか再び訪れるかもしれない危機に備えるために。彼女の長い旅は、まだ終わりを迎えない。
最終更新:2025年03月25日 00:07