ERDOに暗雲が立ち込めているのかもしれない中で迎える、なんとなく晴れ晴れしない気がする週末。
もやもやとくすぶる漠とした恐怖心。「次は自分か」と恐れる反面、「まさか自分が」と楽観する気
持ちの間で生まれる葛藤。
きっとERDO職員たちはみんな同じ気持ちでいるだろう。そして大半の職員は前者の恐れが勝り、当分
の間は不要な外出を控えたりするのだと思う。
そんな中私はどうなのだと言えば。
「いらっしゃいませ~。何名様ですか~?」
「一人です」
「お煙草吸われますか~?」
「いえ、吸いません」
「かしこまりました~。ではこちらの席へどうぞ~」
休日の繁華街をのらりくらりと散歩していた。のらりくらり過ぎて時間も忘れていたら、腹の虫がぐ
うと鳴き出したので、少し遅めの昼飯を取ることにした。にこにこと笑顔がかわいらしいウェイトレス
さんが案内してくれた、見晴らしのいい窓際の席に腰掛ける。
「ご注文はお決まりでしょうか~」
「タラバ蟹の蟹クリームコロッケス……長っ。これ、これください」
息が詰まったので、メニューをちょいちょいと指さすことにした。肺活量が弱っているのだろうか。
「はい~。タラバ蟹の蟹クリームコロッケスパゲティ:かぼちゃのスープとシーザーサラダセットです
ね~。お飲み物は何になさいますか~?」
「ホット……いえ、アイスコーヒーで」
「アイスコーヒーですね~。かしこまりました~。それではお料理をお持ちするまで少々お待ちください」
「うん、ありがとう」
のんびりとした雰囲気が癒し系なウェイトレスさんが、ぺこりと一礼をくれて去っていく。彼女が持っ
てきてくれたお冷を飲みつつ、ふうと一息。
このレストランに来るのは初めてではない。少し前に一度、それはそれは扱いづらい少年少女とともに、
一度訪れたことがあったりする。
あの時は酷かった。昼飯だけで五千円がパタパタと飛んでいったのだ。減給続きの私としては死活問
題だ、冗談抜きで。
どうしてあえて、そんな冷や汗ものの経験をしたこのレストランに来たのだろうか。わざわざデパー
トに入り、すし詰めのエレベーターに乗ってまで。
私は自分の行動に自分で説明をつけられないことが多い。気がつけばこんなことをしていた、という
ことが度々ある。
矛盾の多い性格なのだと思う。私が今日まで生きているのはその性格のおかげでもあり、その性格の
せいでもある。
「お客様、お待たせいたしました~。タラバ蟹の蟹クリームコロッケスパゲティ:かぼちゃのスープと
シーザーサラダセットでございます~。それではごゆっくりどうぞ~」
「うん、ありがとう」
食欲をそそるにおいを引きつれて、タラバ蟹の蟹クリームコロッケスパゲティ:かぼちゃのスープと
シーザーサラダセット(言えた!)が運ばれてくる。ちなみに二千四百円。私の中では十分高価だが、
このレストランでは標準的な値段のようだ。
さて、本来ならここでこのレストランの回し者的宣伝効果も兼ねて、私がタラバ蟹の蟹クリームコロッ
ケスパゲティをいかにも美味そうに平らげる様子をレポートしていく流れなのだと思うのだが。
いかんせん私は食べ物の美味しさの表現についてボキャブラリーが貧困なのだ。正直なところ、美味
いものは「ちょ、これマジ美味い!」と叫ぶしか能がない。というかそれで十分じゃないだろうか。
ん? 何だって? そんなこと言わずに頑張ってみろ?
ドクトルJはやればできる子? え、えー
そうかな。うーむ……。よし! 神宮寺秀祐36歳、人生初のグルメリポートに挑戦だ!
ではまずタラバ蟹の蟹クリームコロッケからいただきます。えー、まずこのきつね色にこんがりと揚
げられたサックサクの衣。口に入れれば歯茎やら舌やらいろいろなところが容赦なく傷つけられそうに
思える先鋭なサックサクさ! 「気安く食べないで」とでも言いたげなこのツンツンっぷり!
ナイフで切ってみれば、中には崩れそうで崩れない絶妙なトロトロ感がたまらない蟹クリームが。
不用意に口に入れれば大火傷、前歯の裏がズルズルになるのは免れそうもない保温性! 「我慢っても
のを覚えなさい」とでも言いたげなこのアツアツっぷり!
こういう危険と紙一重な感じが人々を魅了してやまないこの蟹クリームコロッケ。それでは十分に冷
ましたところで、まずは一口…………む! これは……これは!
これはまさに味の……! 味のチェンジリン
蟹クリームコロッケスパゲティを美味しく頂いて、アイスコーヒーで食後の一服。やっぱり少し火傷
してしまった口の中に、よく冷えたコーヒーは適度に心地がいい。
窓の外に目をやる。そうして初めて気付いたが、この繁華街の街並みが一望できる、なかなかいい席
を貰えていたようだ。
月日が経つのは実に早い。そして人間という生き物は、私が考えていた以上に環境への適応力の高い
生き物なのだということを、改めて思い知らされる。
そしていかに――『忘れる』生き物なのかということも。
街を行き交う人々の群れをアイスコーヒー片手に眺めながら、考えるのはそんなこと。
生きるために、環境に適応することは必須だ。そしてまた、『忘れる』ことを忘れてしまっては、人
は心落ち着けて生きてはいけない。しかしそれは――
「……うん? 何だろうな、あれは」
視界の隅っこにチラついた奇妙な影が、私の思考を遮った。
向かいのビルの屋上、その縁。得体の知れない何かが、そこにいる。
コウモリ? かと思ったが、その意見はすぐに却下した。スケール感がおかしすぎるのだ。向かいの
ビルとの距離から考えて、それは小さく見ても人間とさほど変わらない大きさだと推測できる。日本本
土にそんなでかいコウモリがいるものだろうか。
いつからそうしていたのか、謎の物体はただ座禅でも組んでいるように、身じろぎひとつせずそこに
鎮座し続けている。
それが結局何なのか、どれだけ凝視してみても私にはわからなかった。ただ一つだけ確信を持って言
えることは。
あれは間違いなく、ロクな存在ではないということだけだ。
まだ半分ほど残っていたアイスコーヒーを一気に飲み干し、足早にレジへと向かう。店を出て何をす
るつもりかなんて考えてはいない。何ができるのかもわからない。
ただ、今の私はそうしなければならないのだと、そう思っただけだ。
「ありがとうございました~。またお待ちしております」
「ごちそう様」
最後までほんわかと笑顔のウェイトレスさんに見送られて、私はレストランを後にした。
つづく
登場キャラクター
最終更新:2010年06月23日 15:20