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臆病者は、静かに願う > 5


「あー、いっつつつつ」
 深更、腰とあばらの痛みで……というわけでは別にないが、私は目が覚めた。のそのそと眼鏡を探
し当てて確認すれば、時計はちょうどLの字。普段眠りの深い私が、こんな時間に目を覚ます理由は
決まっている。

 夢を見ていた。久しぶりに見る夢だった。

 ――あなた、忘れ物ない? 
 お、おい、あなたはやめてくれってば。なんか背中がムズムズするよ。
 ――やーだ。結婚したら、旦那さんのことは「あなた」って呼ぶって決めてたんだから。大丈夫すぐ
慣れるって。てゆーか慣れて。
 ……はい、努力します。ってあれ、お弁当忘れてるみたいだ。ごめん、取ってきて。
 ――ちょ、ちょっと秀祐! 愛妻弁当忘れるなんてんもぉー! 自分で取ってきなさい!
 ははは、秀祐って呼んだー。ちなみに弁当はちゃんと持ってるよ。じゃ、行ってきまーす。

 私が自分の命を危機にさらした夜、必ずこの夢を見る。その関連性こそ明白だが、それが何を意味
するのかは未だにわからないままだ。

 ――おかえり、あなた。
 うん、ただい……やっぱりダメだってあなたは。うわ、じんましん出てきた。
 ――慣れなさい。慣れよ、慣れ。そんなことよりほら、ご飯できてるから食べよ? わたしもうお腹
ぺっこぺこだもん。
 あれ? 先に食べてなかったのか?
 ――だってー新婚早々晩ご飯も一緒に食べないなんて寂しいじゃない。秀祐はそう思わないの?
 まあ、確かにそうだけど……いや、そうだな。一緒に食べるほうが美味しいだろうな。

 ただの荒唐無稽な夢ではない。私の記憶だ。今よりずっと若い頃、今よりもっと幸せだった日々の。
 私が人生の中でただ一人愛した女性は、今はもうこの夢の中でしか出逢うことができない。

 十年。彼女とともに過ごしたよりも長いその月日は、残酷にも私から彼女の記憶を少しずつ奪って
いった。

 時間の流れを恨むことはできない。だから私は、己を憎むしかない。心から愛した人の肌、声、私
を見つめてくれる眼差し。それすらも気がつけば忘れようとしている薄情な己を恨むしかない。

 それでもこの夢を見るたび、私はそれらの全てに出逢うことができた。
 それはとても不思議な体験だ。私の記憶の中に、彼女の鮮明な画像は残っていないというのに。な
ぜかこの夢には在りし日のその人が、あの日のままの姿で現れる。

 そんな理屈だって、本当はどうでもいい。目が覚めて、虚しさと懐かしさで涙が流れようと、私に
笑顔を向けてくれる彼女に逢えるならそれでいい。

「なあ、こんな俺は女々しいと思うか? でも本心だからさ、許してくれよ」
 答えなんて返ってくるはずもない。問いかけが一人の中年のぼやきに変わったことを確認して、私
はまた目を閉じた。

 明けて月曜日。
 サザエさん症候群に駆られながらも身を奮い立たせて出勤すると、いつもはコーヒー片手に窓辺に
たたずんでいる助手くんが何やら色めき立っていた。

「もうっ! ドクトルJ遅いじゃないですか! いつものことだけど! 聞いてください! 大変なん
です……って、なんかドクトルJ薄荷臭い」
「階段踏み外して転げ落ちちゃってさ。腰とあばらを強打したもんだから、湿布貼ってるんだ」
「まったく何やってるんですか! そんなだから減給される一方なんですよ!」

 本当のことを言うのは躊躇われた。理由は二つ。彼に余計な心配をさせたくないこと。そして見て
わかるように彼は若いのに妙に説教臭い。今のこれなんてほとんど言いがかりだと思う。この状態で
本当のことを言ったりしたら、それこそ床に正座で説教かっ喰らうとか普通にありそうだ。面倒い。

「まあ確かにいろいろ転げ落ちてるけども。どうしたの朝からそんなに興奮して」
「そうでした! ドクトルJが臭い話なんてどうでもいいんです! また出たんです被害者が!」
「……なーんか誤解を招くよね今の言い方。あんまりよくないけどもういいや。八人目ってこと?」

 それって私のこと……でもあるのは事実だが、この状況に限っては違うと言えよう。しかし普段クー
ルぶっている助手くんのこの慌てよう。少し嫌な予感がする。

「もしかしてその被害者って……知り合いか?」
 そう聞くしかなかった。一番あってほしくない、それでいて一番可能性の高い問い。
 私の問いに、助手くんは下唇をぐっと噛みしめた。堪えているのだ。何を、とはあえて言わない。
彼のそんな表情を見るのも久しぶりだった。

「……第4研究チームの、尖崎主任です」

 尖崎鋭一郎、26歳。
 主として変身型の能力に対する医学的見地からの研究を行う者として、ERDO研究部門に果たしてき
た貢献は極めて大きい。
 浮世離れした奇人ではあったが、その明晰な頭脳はこれから先もERDOにとって必要不可欠なものだっ
た。

 私も彼を頼りにしていたし、期待していた。なぜか被研能力者にやたらと幼い女の子ばかりを希望し、
その度私が諫めてきたことなども、もはやいい思い出となってしまった。

 なぜ、彼が死ななければならなかったのだろうか。ある意味危険な人物だったかもしれないが、そ
の実彼はとても誠実で無害な男だった。

 世界はかくも理不尽だ。それは隕石が落ちようと落ちまいと、人が進化しようとしまいと関係がない。
案外世界というものは本当に、神が振ったサイコロ遊びで決められているのかもしれない。

「……尖崎君は、どんな風に死んだのかな」
「はい?」
「惨い殺され方をしたのかな、って」

 私も助手くんも仕事をする気が起きず、窓辺に置かれたテーブルで向かい合っている。部下の研究
員たちは各々動き回ってくれているが。

 助手くんもさすがに知らないのだろうか、問いへの返事はない。ちらと彼に視線を向けると、なん
か面白い顔で考え込んでいた。しばらくそうして、おもむろに口を開いた。

「ドクトルJ。あなたは一つ、大きな勘違いをしている」
「え? な、何その喋り方」
「僕は尖崎主任が死んだとは一言も言っていません」
「……へ?」
「死んでいません。重傷を負ったものの、命に別状はないそうです」

 ……何よそれ。助手くんついさっき泣きそうな顔してたじゃん。あんな深刻そうな顔見せといて「実
は死んでませんでしたー」って、なんのドッキリなの?

「いやーだって尖崎主任がいてくれないと、リアルで飛び回るシリルたんに会えないんですよ! 僕
にとっては号泣ものの大問題です」
 知らんよそんなの。だいたいなんだよシリルタンって。

「助手くんって結構薄情者だな。とりあえず詳しいことを教えてよ」
 薄情者じゃありませんよー、と反論してから、助手くんは説明を始めた。それによると。

 尖崎君は昨日、予約していたフィギュアを買った帰りに襲撃を受けたそうだ。注意喚起メールがあっ
たというのに彼もなかなか神経が太い。それほどフィギュアが大事だったのか。
 襲撃者の詳細は不明。私の場合とは違って市民を積極的に巻き込まず、ピンポイントで彼が狙われたらしい。

 よく死ななかったね。私が思わずそう言うと、助手くんはうんうん頷きながら人差し指をぴっと立て、
「尖崎主任の昼間能力はやっぱり凄まじいことが判明しました」
 と得意げに語った。

 尖崎君の昼間能力は、無生物に生命を与えるというもの。それだけでも十分恐ろしいが、それ以上
の何かがあったというのか。
 助手くんがさらに語ったところでは。

 襲撃を受けた尖崎君は、咄嗟に買ったばかりのフィギュアに能力を使用したそうだ。命の危険を感
じた人間が咄嗟に取る行動として、フィギュアに命を与えるっていうのはどうなんだと思ったのだが、
いざという時わけのわからない行動を取るのが人間という生き物でもある。あの尖崎君であれば余計
にそうかもしれない。

 さておき、この辺の話は聞き慣れない単語(おそらくフィギュアの名前なんだと思うが)が多くて
わかりにくかったのだが、要約すると命を与えられたこのフィギュアが襲撃者に応戦して退け、尖崎
君を守ってくれたということらしい。

「必殺光線まで放ったらしいですからね。単に命を与えるってだけではないみたいです」
 必殺光線まで放ったんですって。もう何がなんだか。

「結果として尖崎主任は、お腹の脂肪をごっそり抉られることにはなったみたいなんですけど、覚醒
シリルたんのおかげで生還できました、と」
 わー。めでたしめでたし。

 決してふざけているわけではない。生きているのなら、それ以上にめでたいことなどないのだから。

「あ、そうだ」
 パンと手を合わせながら、助手くんが明るい声で言う。
「昼休みにお見舞い行きましょうよ。尖崎主任の入院先、どうせすぐそこですよ」
 そう続けて、窓の外を指さす。

 その先にある建物。ERDO研究部門と同じ敷地内で、一般には一体の施設と認識されている場所。こ
の地域でも指折りの大病院の病棟が、どっしりと鎮座していた。


 つづく

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最終更新:2010年07月17日 17:37
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