襲撃事件への警戒ということもあり、ここ最近ERDO研究部門の終業時間はかなり早い。一般
の研究員たちは残業はもっての外、定時より早く帰宅することになっている。別に日暮れ前だろう
と後だろうと奴らはお構いなしに襲ってくるんだろうからあまり意味もない気がするのだが、そこ
はまあ気分の問題なのだろう。
そんな中でも私は一応まがりなりにも一研究室のリーダーということもあり、部下たちが帰宅す
る中、一人寂しく一日の研究総括的な作業をしなきゃならないのだが。
「はあ。さっきから全然進んでないな。余計なことばっか考えちゃって」
パソコンのキーボードを打つ指は、かれこれ三十分は動いていない。研究資料に目を向けてこそ
いても、その内容はまるで頭にインプットされてこない。
それも仕方ないことだ。私の脳みそはもう、全く別の情報を処理することでいっぱいいっぱいに
なっているのだから。
「狙いは私、か」
昼間の招かざる来訪者の口から、はっきりとそれを聞かされた。はっきりと言われたのだが、別
段の驚きもなければ、恐怖心が増したなどということも特に感じない私がいる。それはつまるとこ
ろ、あの男の話の中に、そんなことよりもっと注目すべき点があったからだと思う。
「『ある人に指示された』。そう言ってたよな」
これがどうにも不可解だ。私は日々真面目に誠実に生きていると自信を持って言い切ることは土台
無理だが、かといって殺されなきゃならないほどの恨みを買うような覚えもない。だからこそ、考え
うる可能性というのは限りなく絞りこむことができる。襲撃事件の話を聞いた時に抱いた直感は、や
はりハズレではなかったのだ。
であれば。
「会いに行くか、『彼』に」
誇らしげに大根を掲げる小さな少年を思い浮かべる。彼との接触こそが、この事件のトリガー。
確信を持ってそう言おう。ならば、私が彼と再び接触するようなことがあれば、この事件の裏にい
る人物の姿も掴める。そんな気がする。
「ま、あんまりわかりたくもないけど。自分を殺そうと企む相手が誰なのかなんてことは」
知ってどうなるものでもない。狂暴な化け物たちの餌にされる危険が回避できるわけでもない。
それでも私は足掻く。ない力を振り絞って戦い、大地に這いつくばってもがく。そうして傷つき
血を流し、苦痛に身を歪めて息絶える。
やれる限りのことをやって死んだなら、きっと彼女も私が大好きだったあの笑顔で迎えてくれる。
そのために今できることは、何だってやってみる。
「ちょっと覚悟がいるな、彼に会うのは。いろいろと許可もらわないと。まーた減給かなこれは」
約束をしていた。果たすのは、きっとずっと先だと思っていたその約束。
「言っておかないと。もしかしたら」
自分の身の上を顧みる。そこから導き出されるのは、極めて明快な一つの帰結。
「彼に会える機会なんて、もうないのかもしれないからな」
少し暗くなりはじめた初夏の空。色づきを濃くし始めた上弦の月を眺めて、私はそう言い聞かせた。
今後の身の振り方を決めた後、研究総括作業をようやく終えた頃には、日はすでにとっぷり暮れ
ていた。ほとんどの職員が帰宅して静まり返っている研究所を出ると、これまた閑散とした人気の
ない通りが迎えてくれる。
昼間や休日はそれこそ煩わしいほどに人通りのあるそれなりに大きな通りなのだが、これもまた
一連の事件の影響なのだろう。確かにERDO内部の人間からすれば、これはERDO職員のみを
狙った事件なのだとわかるのだが、一般の市民から見ればただの無差別殺傷にしか見えないのだか
ら無理もない話かもしれない。
よくよく考えれば滑稽だな。ターゲットでもない人たちが警戒して身を潜める一方で、本当のター
ゲットである私が、ボディガードを頼むでもなくこうして暗い夜道をのうのうと歩いている。
ERDOには特務部門という物騒な組織がある。現在ここから研究部門へと、多数の人員が護衛
として派遣されているという話は一応聞いていた。
だが特務部門は常に人手不足だそうだ。すでに人員は枯渇しているらしい。まあもっとも私は護
衛を依頼するつもりもないのだが。
それにしても、通りは本当に閑散としている。とても静かな夜だ。時折通る車のエンジン音が、
走り去ってからも延々と耳に残る。
本当に静かだった。その静かさのおかげと言うべきなのだろうか。
残響し続けたエンジン音が去った後、どこかで小さな悲鳴が聞こえた気がした。
その悲鳴自体が小さく、距離はそんなに遠くないのか。それとも大きな悲鳴で、距離はここから
遥かに遠いのか。この静寂は、私にその判断を鈍らせるのに一役買っていた。
「考えすぎるのは、私の悪い癖……だったな」
とにかく、まずは走れ。私が今するべき判断はただそこだけだ。そう思うが早いか、私の足は
声がしたと思しき方向へと大きく踏み出していた。
幸いにも、という表現が適切かは分からないが、現場はすぐにわかった。
通りにかかる歩道橋のちょうど真ん中あたり。そこに小さな人影が見えた。そこから少し離れて、
おそらく四足動物、ただし不自然なほどに巨大な影。
状況は明らかだった。この後に起こるであろう出来事と、それが生む結果も。
そんなことにはさせてはいけない。させるものか。だから頼む。間に合ってくれ! 普段運動し
ていない私の脚よ、どうか今はもつれたりしないでくれ! この最後の階段を上りきるまで!
「おい! どうした!? 大丈夫か!?」
歩道橋を上りきると同時に、下から確認した小さな人影に声をかけてみる。見つけた地点からこ
こに来るまでそちらに意識を向けなかったこともあり、もしかしたらすでに事が済んでしまってい
たりしないかと危惧したのだが、
「お、おじちゃん! 助けておじちゃん!」
という、涙混じりの悲痛な声を聞いて、ほっと一息安堵した。いや、まったく安堵していい状況
ではないのだが。
よくよく見れば小さな人影は一人ではなかった。手提げかばんを盾のように構えている少年と、
その背中に隠れて泣きながら震えている少女。私の呼びかけに答えたのはきっとこの少女の方だ。
少年の横顔に涙などない。その視線は、犬と呼ぶにはあまりにも無理のある姿をした、三頭の怪
物に突き刺すように注がれていた。
不謹慎ながら、私はその光景を微笑ましいと思った。気丈で勇敢なその少年が絶対に負けること
がないという保証があるなら、私はこの場をただ黙って辞するだろう。
しかしながら、現実はそう都合よくいくものではない。私がこのまま何もしなければ、間違いな
く目の前の小さな命たちは、醜い化け物の糧として貪られることになるのだ。
だから私は、彼らにゆっくりと近づく。震える少女の肩に右手を、無謀な少年の頭に左手をそっ
と添える。
「坊主、よくこの子を守った。偉いな。これからもしっかり守ってやれよ」
少年にそう声をかけると、私の存在に今気付いたのだろう、しばらく目をぱちくりさせていた。
その後、元気に「うん!」と頷いた。
「だってさ。お嬢ちゃん、立派なナイトがいて頼もしいね」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を拭きながら、少女もまたこくんと頷く。
本当に微笑ましい。こんな時にも関わらず、心が和んだ。その癒しタイムを、気味の悪い唸り声
が破る。
化け物は待ってはくれないということだ。
「さあ君たち、早く逃げなさい。こんな出来損ないの犬、おじちゃんがぱっぱとやっつけておくから」
少年のくりくりとした瞳が、迷うようにしばらく私を見つめていた。だから私は、その眼差しに
最高の作り笑顔を返す。それを見て少年は、こっくんと大きく頷いてくれた。
お姫様の手を引いて、ナイトは階段を駆け下りていく。助けることができた。それだけでもう、私
は満足しかけていた。
だがまだ早い。首を巡らせ、三頭の怪物ケルベロスと対峙する。
「先手必勝だ」
化け物との対決に感傷や感慨など持ちようもない。いつ飛びかかってくるかわかったもんじゃない
のだ。さっさと始末をつけるに限る。
「ちゃんと漢字の部分も覚えたんだよ、遥ちゃん。偉いだろ?」
ケルベロスに向け、右手をかざす。この能力に無理矢理つけられたけったいな名前を詠唱する。
「心音玩弄【フェイタル・スクリーマー】、発動」
瞬間、視界はモノクロームに変換される。右手から伝わってくる命の拍動。こんな化け物でも、
やはり心臓というものはちゃんと残っているのだ。そしてそのせいで、こいつはこんな非力な中年
男でも始末できる程度の存在でしかない。
『BPM:1』。右手から伝わる鼓動に、そのように指示を出す。やや間をおいて、ケルベロスの
体がびくんびくんと不規則に揺れ始める。能力が確実に効いている証明だ。
だが私のこの能力にはある欠点がある。リバウンドが強烈なことが一つ。それともう一つ、相手を
即死に至らしめる効果がないことだ。
「遥ちゃん、実はネーミングの天才なのかもしれないな」
心音玩弄という漢字は勿論のこと、【フェイタル・スクリーマー】という英語部分。相手に『致命
の絶叫』を上げさせる猶予を与えるという点で、言いえて妙ではないか。
そしてその猶予とは――
「うわっ! くっそ、とっととくたばれこの化け物が!」
相手に反撃を許す猶予でもある。すでにかなりふらついているからくたばるのは時間の問題だが、
しかしだ。
「うぐっ……ぐっは」
まずい。もう来た。リバウンドが。
倒れるわけにはいかない。ケルベロスはまだ健在なのだ。私の首を食い破るくらいの余力は残って
いそうに見える。こんな化け物に殺されるのはごめんこうむりたい。なのだが。
「がはっ! ごふっ!」
無理だ。体が焼かれているようだ。あるいは大気が燃えているのかもしれない。
筋肉が痛い。関節が痛い。骨が痛い。神経が痛い。体中の細胞が痛い。
気付けば眼前に犬がいる。不思議なことに頭が三つある。新種だろうか。あまりかわいいとは言え
ないな。
背中と後頭部に衝撃を受けて、視界は黒くなった。その中に、ぼんやりと出来損ないの円みたいな
白いような黄色いような何かが浮かんでいる。
ああ、これは空か。私は倒れたらしい。どうして倒れたのだろう。
ああ、そうか。私は寝ようとしていたんだな。だから倒れたのだ。さて寝るために次にすることは
何だろう。
ああ、そうか。目をつむるのだ。よし、真っ暗だ。これで安心して寝られるな。
視覚も、聴覚も、嗅覚も味覚も消え失せた。遠ざかる意識の中で、私は頬にひんやりと冷たい感触
を確かに感じた。それが何なのか確かめられないまま、私は濁流に飲まれるように落ちていった。
つづく
登場キャラクター
最終更新:2010年10月03日 13:19