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臆病者は、静かに願う > 8


 ――ねえ、名前どうしようか? あなたはもう考えてたりする?
 いや、気が早くないか? まだ男の子か女の子かもわかってないんだよ?
 ――甘い! 秀祐はほんとに甘いわ! 人間は親からつけられた名前を一生抱いて生きていくのよ?
親として変ちくりんな名前なんてつけられないでしょ?

 いやまあそれはまったくもって正しいんだけどさ。
 ――だったら考えようよ。とりあえずDQNネームっぽいのだけはやめようね。『騎士』って書いて
『ナイト』とか、そういう鳥肌系のやつ。
 そんなのつける気ないよ。そうだな、女の子だったら……
 ――女の子だったら私に似て欲しいなあ。美人に育つこと間違いないもんね?

 じゃあ男だったら当然俺に似ないとな。長身の凛々しい男に育つこと間違いないだろ?
 ――さあ、それはどうだか。大学生なのに三十代に見えるような老け顔男子になっちゃうかもしれない
わ。不憫ね。
 おい。
 ――えへへ。あーでもほんとにどんな子だろうね。早く会いたいな。ね? あなた――――

 人は何のために生きるのか。生きることの目的は何か。生きることの意味とは何か。そんな崇高にして
意味もない禅問答は、俺は考えたこともない。
 ただ、それでも言える。この日、この時。俺が生きることの意味が一つ増えたんだと。
 お腹に手を置きながら柔らかく微笑む美希(みき)に少し見とれて、この人も、そのお腹に宿った新し
い命も、俺が守らなきゃならないんだと。そう思った。


 混濁した状態の頭でも、夢を見ることはできるらしい。半死半生の私にとってその夢は優しくもあり、
併せて残酷なものに感じられた。

「あら、お目覚めかしら。気分はどう?」
 安らかでない眠りから覚めた私に、誰かが語りかける声が聞こえる。聴覚に異常は残っていないようだ。
 視界はぼやけている。しかしこれは視覚の異常ではない。おそらく単に眼鏡がないだけのことだ。

「うーん、まだ気分はよくないか。とりあえず水でも飲む? はいあーん」
 頭上から聞こえてくるのは、若い女性の声だ。恐ろしくぼやけていて断言できないのだが、私の鼻先五十
センチあたりの距離にあるのが、この女性の顔だろう。

 どういう体勢なんだろうか。判然としないが、妙に心地いい。そんなことを思っていると、半開きになっ
ていたらしい口に何やら異物が押し込まれた。
 何のことはない、ただのペットボトルの口だった。体勢のせいでむせ返りそうになるのを堪え、冷たい
ミネラルウォーターをこの女性にされるがままに嚥下する。

 生き返る。そして生きている。どういうわけか私は無事に生きている。むせ返りそうになる苦しみを感じ
ることで、私はそれを実感できた。
「何が……どうなってる」
 支離滅裂だ。だがまだ脳は熱を帯び、意識レベルも正常とは言えない。これぐらいは勘弁してもらいたい。

「三つ首君に殺される寸前で私が助けたの。まあぶっちゃけちゃうと、一部始終全部近くで眺めてたんだけ
どね」
「助けてくれた? あなたが?」
「ええそう。にしても驚きだわ。あの時のオヤジにまたこんな形で会うとは思わなかったし。面白い能力
も見られたしね」
 ……よくわからない。この女性は私に会ったことがあるのだろうか。今の私にはこの女性の顔も見えないし。

「すまないが……眼鏡をくれないか」
「え? ああそうね。ごめんなさい気が利かなくて」
 そう言って彼女は、私に眼鏡を渡して……はくれず、直接私の顔面に眼鏡を装着してくれた。なんか要介
護老人みたいで居心地はよくない。

「どうかしら? 私に見覚えある?」
 上品な微笑で彼女は言う。
 見たところ二十代前半。国籍不明なブロンドの長髪。この角度からだとわかりにくいが、後頭部の高い位
置で束ねているようだ。
 たれ目気味の大きく穏やかな瞳。よほど独特の美的感覚を持つ人間でもなければ、彼女を美人と評するこ
とに異論はないだろう。

 そして勿論、こんな美人は一度見れば忘れるはずはない。なので私はこう言う。
「……どこかでお会いしましたか」
 私のこの返答がよほどツボに入ったのか、彼女は「ブフッ!」と激しく噴き出した後、体感二十秒ほどの
間一人でケラケラと笑っていた。

 そこで私はようやく、自分がどういう体勢でいるのか理解できた。爆笑する彼女が体を揺らす度、私の頭
もグラグラ揺すられる。私の頭は恐れ多くも彼女の太ももに陣取っているようだ。早い話が膝枕だな。

 見知らぬ女性の膝枕。こっ恥ずかしいし他にも何かとまずいのだが、今の私には体を動かす余力がない。
おとなしく膝枕されておこう。

「はー笑った笑った。お腹痛い。まあ知らなくて当然よ。ちらっとすれ違っただけだもの」
「にしても、あなたは私を知ってるんだろう?」
「んーまあねぇ。それはほら、私趣味が人間観察ですから」

 ほらと言われても知らないのだが。

「まあ細かいことはいいじゃない別に」
 まあ確かにそうだ。私がこの女性に助けられたのは事実だろうし、そこに彼女が私を知っていたのかど
うかなんてことは特別意味を持ってこない。

「そうだな。余計な詮索をしてすまない。えーっと……」
「律義ねぇ。別に謝るようなことでもないのに。あ、私は狭霧アヤメっていうの。アヤメちゃんでいいわ」
「狭霧さん、助けてくれてありがとう」

 私の呼び方が気に入らなかったのか、狭霧さんは一瞬ブスッと唇を尖らせたが、すぐにまたもとの穏やか
な表情に戻る。

「ところでさ、少し気になるんだけど。聞いてもいいかしら? 神宮寺秀祐さん」
 明らかな違和感を覚えたが、今はつっこまないことにしよう。女性の頼みは優先すべきだ。
「何だろうか。あまり難しい質問は勘弁してほしいな。頭がフットーしてしまう」

「いえ、簡単なことよ。あなたにとってはきっと簡単なこと。あなたはどうして、そんなに死のうとして
いるのかしら?」
 ……これは簡単なことだろうか。いや、考えるまでもなく簡単なことだ。その理由は一つしかないのだ
から。

 だがしかし。たやすく認めていいのだろうか。それを認めることはつまり、私は自分の命を粗末に扱う
人間だと告白するのと同義だ。
 私にはどうしても断言することができない。そうしてしまいたい自分がいる。それを許さない自分がい
る。私は――

「そう……徹底して矛盾した人なわけね、あなたは」
 その声は答えに詰まる私を憐れんでいるのだろうか、蔑んでいるのだろうか。彼女の表情からも、その
真の意図をくみ取ることはできない。

「狭霧さん、君はとても聡い女性のようだ。君のような女性、私は苦手でね」
 妻を思い出すから、とは勿論口にはしない。そろそろ体も楽になってきて、私はのそのそと芋虫のよう
に身を起こした。どうやらここはどこぞの公園のベンチだったようだ。

「聡い女性は言うことが鋭いしきつい。今の君がした問いのようにね」
 見下ろされる目線から解放され、初めて同じ高さで目を合わせる。私の言葉に、彼女は「んー」と唸り
ながら何やら思案を始めた。

「死にたい。自殺は嫌だ。だから誰かに自分を殺してほしい。あなたはそう思っているんでしょ?」
 再度の問いかけ。返答に窮する問いかけ。私は今どんな顔をしているのだろう。

「これって私と似てる気がするのよね。だからちょっとだけ親近感。でも私とあなたでは決定的に違うところがあるの」
 沈黙は肯定と受け止められたようだ。この女性は基本ほっておいても勝手に喋ってくれるらしい。
 今の私にはそれもありがたいことだ。彼女の質問は即答できる類のものではないし、今のフットー直
前の脳みそでは適当な返答を思いつくだけの余裕も担保できない。

「私と違ってあなたの命は一度きり。死んだらそれで終わりでしょう? 私は他人と命のやり取りをして、
その命を奪う、時には奪われる。それ自体が心底楽しいの。命を奪われる瞬間、『ああ、私は死ぬんだ』って
思う瞬間に感じる絶望感。その絶望にたたき落とされるスリル、快感。それを感じるのが、私が死ぬ意味の
ひとつかな」

 ベンチから立ち上がった彼女の背中ごしに聞くその言葉は、今の私の脳みそでは噛み砕ききれなかった。
確実にわかったことを整理しよう。まず、彼女は死にたい願望の持ち主らしいこと。そしておそらく、今す
ぐに逃げた方がいいかもしれないくらいの危険人物らしいこと。

「でも、あなたが死ぬことに何か意味があって?」
 もうくどいようだが、彼女の質問には即答できない。彼女ももうそれはわかっていよう。そもそももし
かしたらこれは、問いかけでさえないのかもしれない。聡い彼女は、私の返答がわかっているのだ。

「さっきも言ったけど、普通人は死んだら終わりでしょ。だから普通、死ぬことに意味なんてないはずなの。
それに意味を見出せるとしたら、その人は究極の自己中さんだわ。そう、私みたいなね」

 振り向きながら言った彼女の表情は、相変わらず和やかだった。その表情と発言の不穏さがあまりにアン
バランスで、私は余計に戦慄する。
 そんな彼女の手元で、キラリと鋭く光が反射した。それがいわゆる軍用ナイフだと気付いたのは、彼女が
それを私の首元に押し当ててからだった。いわゆる遅すぎだ。

「しつこくてごめんなさい。でもあなたのような普通の人は、死んだらそれで終わりなのよ。それでもあ
なたが死を望むのなら――」
 首にかかっている鋭い圧力が増す。小さいが尖った痛みが走る。

「今ここで、私が殺してあげましょうか」
 かかる吐息がくすぐったく感じるほど私の耳に口を近づけて、囁く言葉は底抜けに物騒。
 普通刃物というのは押し当てるだけで切れるものではないが、相当に鋭い軍用ナイフなら話は別だ。この
ままだと本当に死ねる。
「さ、狭霧さん。今は……」

 圧力がふっと緩む。
「今じゃなくていい」
「あら、命乞いにしては偉そうなのね。ちょっと素敵。それで? 今じゃなければいつがいいのかしら?」

 この問いには、きちんと答えなければならないのだろう。命の恩人であり、同時に命を奪われそうになっ
た相手からの、きっと最後の質問だ。
「次に君が、私が死のうとしていると感じた時。そういう現場に遭遇した時。それでいい」

 彼女はまた「んー」と小さく唸って考え事を始める。何を考えているのだろうか。さっぱりわからない。
一区切りついたのだろう、物騒な得物をチラつかせながら、それには不釣り合いな笑顔で言う。

「そういうご希望なら、そうするわ。別に私だって、積極的にあなたを殺したいわけじゃないしね」
 ついぞ今殺されそうになったところなのだが。

「狭霧さん、君がどういう人間か、私は知らない。でも私は君に命を助けられた。それだけは決して忘れない」
 それは全て事実だ。彼女は私の命の恩人であり、そして――

「ええ。でも次に会うことがあればその時は、確実に殺してさしあげるわね」
 弾むようにそう言って、一際美しく微笑む。その言葉を最後に彼女は背を向け、静かな夜の闇へと消えていく。
 彼女の背中が完全に見えなくなって、私はようやく全身の筋肉を弛緩させることができた。リバウンドの残
滓も大分おさまってきている。

「狭霧アヤメ、か」
 今になって思い出した。この名前、昼間に聞いたばかりだったことを。バフ課という単語に気を取られて聞
き流していたが、あの男の口から確かに。それならばやはり彼女は。

「命の恩人にこんなことを言うのもなんだが。最近ロクでもない知り合いが増える一方だな」
 首元の鋭い痛みは続いている。明日助手くんに会ったらなんて言ってごまかそうか。そんなことを思いながら、
私はまだ重い体を引きずるように、家路につくことにした。


 つづく

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最終更新:2010年10月03日 13:29
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