それからの道のりは、いたく平坦ですこぶる順調だった。正確には階段を上がっているわけで平坦ではないのだが、
それは言葉のアヤというもので、ツッコまずにスルーするのが大人の対応というものだろう。
2階から3階へ上がったところで複数のキメラの待ち伏せを受けたが、私の心強いバディ達(少し気に入ってしまった)
が早業で葬ってしまい、そのまま4階へ。
そして現在は、屋上へ続く階段を探して4階をさ迷っているところである。そう、学校の屋上というのは概してレアな
場所なのだ。建物に階段はいくつもあるというのに、屋上へ繋がる階段は1、2か所しかないなんてのはよくある話だ。
私の通った中学高校も例に漏れずそんな構造になっていた。
とまあこんなどうでもいいことをつらつらと解説しつつ歩けるほど、二人の仲間が脇を固めてくれている安心感は
大きいわけである。こんなことを言っている間にも、窓を割って侵入してきたキメラ(猿のような姿だが)が3匹、あっと
言う間に血祭りに上がっていた。
「ねぇ
シルスクさん? 私こんな姿のキメラって初めて見たんだけど」
「あ? ああ、このゴリ猿な。こいつらはキメラとは別物だ。造られ方からして違うはずだ」
「あらそうなの? どう違うのかしら」
「フン、知ってどうする。説明するのもめんどくさい。適当に想像するなりしてろ」
「ドクトルJ~、シルスクさんが冷たーい」
と乙女の声で言いながらアヤメさんがトタトタと駆けよってくる。もとのキャラがキャラなので逆に恐怖だ。いい感じに
あしらっておこう。
「ああ、ほら。シルスクさんはツンデレなんだよきっと」
「ということは、そのうちデレるのかしら?」
「たぶん、ね」
少し先を歩いているシルスクの背中が微妙に殺気立った気もするが、気付かないふりでいるのがお互いの幸せのためか
もしれない。と思ったのだが。
「おい、ドクトルJ」
怖い顔で振り向かれてしまった。殴られるのだろうか。グーで殴られるのだろうか。いやしかしツンデレと言われたくら
いでそこまでカチンとく――
「階段だ。屋上に出られるぞ」
シルスクの指さした先には、確かに階段があった。その階段の突きあたりには、少し重そうな金属製のドア。間違いなく
屋上へ続く扉だろう。
この扉の向こうに、彼はいる。私を待っている。10年間の苦しみに終わりをもたらすそのために。
私もまた、そのために今日ここまでやって来た。辛い道のり……というほど辛い道のりではなかったが、それは隣の二人
の力があったからこそ。私一人では、命をいくつ失ってもここにはたどり着けなかったことだろう。
ここにたどり着いて、今更思う。私はどんな決着を思い描いて、ここにいるのだろうか。私の望む理想の終わり方とは
どんな形なのだろうか。なんたる無思慮と罵られるかもしれないが、そんなものには考えも至らなかった。ただ彼をどうに
かしなければ。私への復讐心のみで生きているようなあの男をなんとかしてやらなければ。その思いだけでここに来たのだ。
わからない。どんな終わりが理想なのか。求められる決着の着け方とは。わからない。
それでも今、確実にひとつだけ言えることがある。今の私は、どうしようもなく死ぬのが怖い。死にたくない。惜しげも
なく危険な能力を濫用していた頃の自分が、遠い過去のことのように。
どうしてこんな気持ちになるのか、それもよくわからない。ただ本当に、私は死ぬわけにはいかないのだと、それだけが
はっきりこの心にうぐえへっ!?
「ボケッとしてんなドクトルJ! とんでもないのが来やがった!」
背中、そして直後に体前面まんべんなく鈍い痛みが走り、同時に怒声が聞こえた。どうやらシルスクが私の背中を思いっ
きり蹴飛ばしたようだ。倒れ込んだまま振り返って確認すると、それは危機回避のやむを得ない手段であり、シルスクなり
の優しさだったことを悟った。
それは一見して黒豹のようだった。だがご多分に漏れず体中の筋肉は異常に発達。バイソンのような体格になっているが、
それでいてしなやかさも失われていない。並のキメラやケルベロスですら赤ん坊に見えるレベルの危険さを全身から発散
させる異形の怪物がそこにいた。
「ドクトルJ! こいつはさすがにめんどそうだ! 俺とこの殺人鬼でどうにかする! あんたはさっさと上がれ!」
「あらららシルスクさんと私死亡フラグ全開。巻き込まないでもらえます?」
「黙れ殺人鬼俺だってほんとならこっちから願い下げだ! だがこいつは一人じゃ無理だ! 元が黒豹だぞってよっと!」
まるで協力関係を築けていない中、黒豹の俊敏な飛びかかりをこれまた俊敏な身のこなしで回避するシルスク。黒豹の
飛びかかりを回避できる人間が知り合いにいることに驚きを隠せないよ私は。
「驚きの表情を隠せない人がギャラリーにいるのはテンション上がるけど……ドクトルJ、ここは素直に上がった方がよくっ
てよ」
「ほら、殺人鬼もこう言ってる! さっさと行け! どうせ俺の用事はあんたの後なんだ! 一緒に行ったって暇するんだよ!」
黒豹を射殺す眼光で見据えたまま、シルスクは促してくる。目で会話はできなかった。
アヤメさんを見ると。こちらを見返して、軽くウィンクをよこしてくれた。それが余裕を演出し、私を安心して先に向かわ
せるためのポーズとしての行為だとすれば。
まるで母親か姉のようで、なんとも素敵な女性じゃないか。
黒豹の黒豹らしからぬ野太い咆哮を背中に聞きながら、最後の階段を駆け昇る。重たそうな金属製の扉に手をかける。
まさか鍵がかかっているとかいうオチはないかと内心ヒヤヒヤしていたがそんなこともなく、また見た目ほどの重量感も
なく、意外にあっさりとその扉は開いた。
実際には大した時間でもなかったはずだが、随分久しぶりに外に出られたような感覚だった。
濃紫の夜空が広がっていた。少なめの明かりのおかげで、星も綺麗に輝いていた。
少し暑くなりはじめた季節とは言え、この時間になれば涼しさも戻る。風もそよそよと吹いて、心地よい空気。
そんな穏やかな大気の中に、男の背中があった。
1歩、2歩、3歩と。少しずつ彼の元へと向かう。相変わらず何かを錯誤したような黒ずくめのその背中は、残念ながら
私へと何一つ語りかけてはこなかった。だから私から、その背中へと声をかける。
「約束通り来たぞ。牧島」
「ああ。思ったよりは早かったな」
「仲間がいたからな。でもここにたどり着いて思ったよ」
彼は振り返らない。背を向けたまま、だがしっかりと会話にはなっている。だから私はそのままで続けることにした。
「君はもともと私がちゃんとここにたどり着けるようにするつもりだったんだろう? 途中でわけのわからん死に方は
しないように。私の死にざまを見届ける、あるいはその手で私に止めを刺す。それが君の望む終わりの形だろうからね」
そうなのだ。冷静に考えればそのはずなのだ。私への復讐心で動いている彼が、その復讐を最初から最後まで使いっ走り
のキメラたちにやらせるはずはないだろう。私の負傷具合には幅があったかもしれないが、少なくとも彼は私の命が欲しい
わけで、死体が欲しいわけではないのだ。
それが的を射ているのかどうかは定かではない。彼の背中からはなんの言葉も返ってこなかった。代わりに別の問いが
飛んできた。
「比留間の研究所で、あれを視たんだろ?」
核心だ。だがそうだ。今日この日のことなんてどうだっていい。彼の思惑いかんにかかわらず、私はこうしてここまで
来られたのだ。重要なのは今日なんていう一日のことではない。その一日を幾度も繰り返した、10年という長い歳月が
育んだ束縛と復讐心の清算こそが目的なのだ。今日という一日は、その10年の中の単なる一日に過ぎない。
ここからの問答は、その清算の仕方を決定づける極めて重要なやり取りになるのだろう。どんな終わりを望み、理想と
するか。それすらもあやふやなままで、私は待ったも失敗も許されない背水に立つのだ。
今もまだわからない。どんな結末が。どうして私は死を恐れ出したのか。きっと喉元まで出かかっている答えは、どうし
ても喉元から先へと出てこようとはしない。
だから今の私にできることをするだけだ。神宮寺秀祐という人間として、誰にも恥じることのない姿を見せてやるだけだ。
「ああ、視たよ」
「何か感じたことはあるか?」
あの時私が感じたこと。いくつもある。
「たくさんあるとも」
そう。いくつもあるんだ。たくさんあるんだよ。
「言ってみろ」
「ひとつめ。美希はとても賢いのに、肝心なところでおバカだ」
なまじ飲み込みがよくて頭の回転も速いばかりに、自分の身に起きた能力という異変をあっさり受け入れて。あろうこと
か私のためにそれを使ったりなんて。そんなことしなければ、今も生きていただろうに。
「……そうだな。姉さんはバカだよ。……まだあるんだろ?」
「ふたつめ。美希はほんとにわがままだ。まあ知ってはいたが」
私を助ける代わりに私の前からいなくなるなんて。それでいてご丁寧に3つも願い事をして私を縛りつけようなんて。
ずるい。本当にずるい。
「……次で最後にしよう」
「わかった。その代わり長くなるぞ」
「好きにしろ。お前の最期の言葉として聞き届けてやるさ」
あくまで背中を向けたまま。それでも牧島は、私のこのもはや誰に話すこともできない亡き妻への思いを、感情を揺る
がせることもなく静かに聞いていた。いや、聞いてくれていた。
「みっつめ。美希はバカだし、わがままだ。そうは思っても、愛した女が命を落としてまで自分を助けてくれた。そのこと
が嬉しいのも確かだ。あの日消えかけた私の命は、美希の命とひとつになることで蘇った。だからね」
息が詰まった。呼吸することも忘れていた。喉元につっかえていた答えが、見えたような気がした。
「だから私の命の価値は、あの過去を視た時から私の中で大きく変化したんだよ。私は今、死ぬのが恐ろしく怖いんだ。
生物は本能的に死を恐れるというそれ以上に死が怖い。死にたくない。いや、死んではいけないとさえ思う」
牧島の背中が少しだけ、揺らいだように見えた。
「10年前のあの日以来、私は自分の生に価値が見出せなかった。大切なものは全て失ってしまった。正直さっさと死んで
しまいたかった。早く妻と娘のところに行きたいとそう思っていた。でもそんな願いは間違っていた」
ああ、そうだ。これが答え。こんなにも簡単で、明確な唯一の答えだ。
「矛盾した願いだった。行けるはずもない。行ったって会えるわけがない。10年前のあの日から、美希の命はずっと
私とともにあるのだから。命に形があるのならば、私の命の半分以上は美希の分で構成されているに違いないさ。非科学だ
オカルトだ電波だと笑いたければ笑ってくれて構わない。でも愛する妻が命を以って繋いでくれたこの命だ。無下に捨てる
ような真似はもうしない。長くなったが要約すると」
要約するとなんだろうか。私は結局――
「美希がいない。それだけで私の10年間は本当にからっぽだった。でも真実を知った今は……少しだけ幸せだ。生きていて
よかった」
本当に。生きていてよかった。生きている限り、これからもずっとそう思える。生きている限り、美希と一緒なんだと。
「死ぬ間際になって、『生きていてよかった』か。うらやましいことだな」
感傷には浸れない。今度は彼のターンなのだろう。満を持してと言うべきタイミングで、黒い背中が翻った。
「死ぬのが怖くなったか。それはちょうどいい。さぞかし死に物狂いで抵抗してくれるんだろうな」
校舎の下から見上げた時と同様、やはり今日はサングラスをしていない。目元が露わになっていた。暗く沈みこんだような
その瞳からは、もう光を感じられなかった。
「お前の言うとおりだ。姉さんは本当にバカだよ。お前なんかを助けて自分はコロリと逝っちまって。そんなバカでもな、
僕にとっては大切な大切なたったひとりの家族だったんだよ! 大好きな大好きな姉さんだったんだよ!」
感情が迸る。姉への想いと私への復讐心と憎悪で煮えたぎる血走った瞳を私に向けて。
彼はこの10年間、こんな目をして過ごしてきたのだろうか。あの黒いサングラスの下に、こんな負の感情で溢れかえる
目をひた隠して生きてきたのだろうか。ここで私への復讐を果たさなければ、彼の10年間は無意味なものになってしまう
のだろうか。
「お前のせいで姉さんは死んだよ! お前のせいで! だから僕はお前が憎くて仕方ないんだよ」
言いながら胸元から取り出したのは。まずい。拳銃だ。距離10メートルほど。素人なら外す距離か……?
「さあ神宮寺。死ぬのが怖いんだろ? だったら命乞いでもしてみせろ」
命乞い、か。そうだな。たとえ彼の10年間が意味のないものになったとしても。彼の復讐心を打ち砕いてやる。復讐を
果たさせないまま、その復讐心を叩き潰す。
「牧島。君の復讐は絶対に遂げられない。遂げられるわけがない」
「なんだと」
「さっきも言ったが。美希は命を以って私の命を助けてくれた。今の私の命は美希の命でもある」
「ハッハッ! 非科学だオカルトだ電波だ! 本気で言ってるのか神宮寺」
割と本気だが、ばっさり言われるとそうでしかないのが辛いところだ。だが怯んでもいられない。
「結構本気だけどな。まあいい。あの日美希は私を助けてくれること、自分の命を捨ててでも私の命を繋ぐことを自分で
選んだ。あの日の美希の選択、想い。その結果として今ここにいる私の命を、君は簡単に奪えるのか?」
牧島は無言。たたみかける。
「美希の選択と想いを無下にできるのか? そんな権利が君にあるのか? 君からすれば私はクズなのかもしれないが、美希
にとっては大切な存在だったのかもしれない。そうであれば嬉しいね。あの日の美希の死を、銃弾一発で無駄死ににする気か?」
答えはない。でもその表情にはかすかな揺らぎが見えた。
「もう一度、何度でも言う。君の復讐は絶対に叶わない。君に私は殺せない。君の復讐心が美希への想いに起因するもの
である限り、君は絶対に、私を殺せない。ああ、そうだよ。私がずっと矛盾した願いを抱き続けていたように」
君の私に対する復讐心は、その心に芽生えた瞬間から矛盾を孕んでいたんだよ。最後にそう告げた時、銃声が一発響いた。
それは私にかすることもなく、背後の虚空へと吸い込まれていったようだった。
「神宮寺、秀祐……お前は本当に嫌な、憎い男だ。ずるい奴だ」
「ああ、知ってるよ。すまないな。でもそんな男でも、美希は愛してくれたらしい」
きっかり4秒の間の後、牧島は拳銃を静かに、ためらいながらも降ろした。
「僕は、自分が間違っていたとは思わない。姉さんはお前に殺されたも同然だ。だけど……だけどお前の言うこともわか
らなくない。オカルト的とは言え、今のお前の命は姉さんが繋いだものだってのは100%疑いようもない」
復讐を遂げさせることなく、復讐心を消す。それで彼の10年間が無意味なものになるかどうかは後ほど考えるとして、
ひとまず無事に終えられた。そう思った。
「僕はこの10年間、いろいろなものを犠牲にした。人間として持っているべきものの多くを捨てた。道徳観念、倫理観
なんてのはもう真っ先にだ。ガーゴイルってのは、その賜物のひとつだよ」
彼の色と光を失った瞳は相変わらずのままだった。それはブラックホールのように、どこまでも落ち沈む黒い穴のようだった。
「それでも結局、このザマだ。感情に訴えかけられてほだされ、理性で制御されちまう。それでもお前が憎いという気持
ちが消えるわけじゃない。殺してやりたいという衝動がおさまるわけじゃない」
言いながら牧島は拳銃を持った右手を――彼のこめかみに押し当てた。途端、心臓の鼓動がバクンと跳ねあがる。
想像しなかったわけじゃない。それでも、こんな光景は見たくなかった。
「やめろ」
それしか言えない。何も浮かばない。語彙のなさが情けない。もっと気の利いたことを言えれば。
「
牧島勇希! 銃を降ろせ! 降ろさないと殺すぞ!」
そう、こんな風に……え?
「修羅場を抜けたらまた修羅場っと。お待たせドクトルJ。なんか大変そうねぇ」
「アヤメさん? シルスクさん?」
このタイミングで。グッドなんだかバッドなんだかわからないが。あの黒豹をくぐり抜けてきたのだ。無事再会の喜び
に浸りたいが。
「牧島勇希! さっさと銃を捨てろ!」
シルスクが全開すぎて声もかけられない。牧島は牧島で、来訪者には目もくれずずっと私を見つめている。それはそうだ
ろう。彼は私の言葉を待っているのだろう。
「牧島。君が死んでどうなる。何か意味があるか?」
ニヤリと。あのいつもの陰湿な笑みを浮かべた。
「いろいろなものを捨ててきたよ。でも結局、このどうしようもなく邪魔な理性を捨てなきゃ、僕の望みは叶わない」
彼の意図が読めない。拳銃で頭を撃ち抜けば死ぬだけだ。理性ではなく物理的に脳みそが吹き飛ぶだけだと――
甲高く耳をつんざく火薬の音。夜の闇の中に明るく散る火花。噴き出る真っ赤な液体。がくんと膝から崩れ落ちる、その体。
あっさりと。あまりにあっさりと。なんのためらいもなく引き金を引いてしまった。
あまりにあっけなく、彼は死んでしまった。まるで、最初からこうするつもりだったかのように。その覚悟をしてい
たかのように。
「チッ、くっそ……やっちまった……まずいなこいつは」
隣で誰かがそんな悪態を吐いていた。ああ、本当に。やってしまったよ。彼が死ぬことを考えなかったわけではなかった。
それでもこうして目の前で死なれてしまっては。だが待て。死んだと決まってはいない。いやほぼ即死だろうが、まだ息が
あるかもしれない。そう思って牧島に近づこうした。
「近づくな! というよりさっさとここから離れろ!」
シルスクがそう叫んで静止してきた。それこそまた鬼の形相だ。しかし、一体どういうことだろうか。と、同じ疑問を
持った女性がいたらしい。
「どういうことかしら? シルスクさん」
「説明しなきゃダメなのか!? とにかく早く……ってヤバい!」
鬼の形相から、阿修羅のような形相になるシルスク。その視線の先にあるのは牧島の死体……のはずだったが。
それは動いていた。というよりは蠢いていた、という表現が最適な、気味の悪いぜん動運動を繰り返していた。頭、胴体、
腕、脚。それぞれが別の芋虫のように激しくうねり、原型をとどめないほど変形、肥大が始まっていた。
「なんなんだ、これ……」
「牧島勇希の昼間能力だ。ガーゴイル、強化型キメラ、ケルベロス、さっきのゴリ猿はやつのこの能力で造られたもんだ」
「昼間能力? 今は夜よねぇ」
「うちでつけた能力名は『血中ウィルス』っつってな。血の中に特殊なウィルスを作ってんだ。ウィルスだからしばらく
は潜伏期間みたいな感じで残る。だから夜でも有効なんじゃないかというのがうちの専門家の見解だが、よくはわからん」
シルスク、解説ありがとう。わかったようでわからないことも多いが、とりあえず牧島の昼間能力は相当にエグいもの
のようだ。そしてそうこうしてる間にも牧島の死体の変異はますます進行、むしろ峠を越えたような雰囲気だった。
「あーあ。もう完成しちまったって感じだな」
シルスクも同じ印象を持ったらしい。全体のグロテスクな蠢動は終わっていた。全身は赤黒く巨大になり、背中にはコウ
モリを3倍ぐらい立派で凶悪にしたような翼。それは以前に見たあれよりも数倍は凶悪な、正真正銘の悪魔だった。前回のが
デーモンなら、これはアークデーモンとでもいったところか。
強靭に膨れ上がった四肢がのそりと動く。牧島勇希という死者の体を借りて顕現した悪魔が、ゆらりとその脚を大地に
つける。つり上がった目。鋭くとがった鼻。大きく裂けた口と、鋭い牙。面影など感じようもなかった。
「どーすんのこれ」
「逃げるが勝ちと行きたいがな。ほっといてもロクなことにならんだろ」
そう言ってシルスクはダガーを両手に構える。アヤメさんも左手に拳銃、右手にナイフの構え。倒すつもりなのだ、あれを。
ただの人間が敵うとは到底思えないあれを。もはや見る影もないが、もとは牧島だったあれを。
『グギャアアァァァアァァァアアァァアアアァァァ!』
と、周囲の音が一切聞こえなくなるほどの悪魔の咆哮。それを合図に、二つの影が動く。悪魔の左右から。腕ではなく
剣へと変型した両腕を、二人ともするりするりと危なげなくかわしながら。かたや銃弾を何発も撃ちこみ、かたやどこから
取り出すのかナイフを目にもとまらぬ早業で次々と投げ込む。
それが以前と同様の出来の悪魔だったならば、あっという間に勝負がついていたのかもしれない。だが今回のが以前より
明らかに手強いだろうことは、見た目の凶悪さの桁違いぶりからもはっきりしていた。こうして手強くなることがわかって
いたから、シルスクも牧島が死ぬことを避けようとしていたのだろう。
「表皮が硬すぎる! ナイフが刺さりもしない。俺が武器の手入れ怠ってるみたいじゃねえか」
「銃弾もまるで通らないわねぇ。ロケットランチャーで吹き飛ばすくらいしかなさそうよ」
「んなもん今あるか!」
「じゃお手上げねぇ」
いったん退いた二人のそんなやり取りが聞こえてくる。やはり厳しいようだ。確かに銃弾もナイフも悪魔の足元に転がっ
ている。全部弾かれたのだろう。
さまざまなフィクションで、装甲が硬くて容易にダメージが与えられない敵というのは往々にして現れる。そういう敵
が出現した時、取られる対処はどういうものがあるか。
アヤメさんが言ったように、圧倒的な破壊力で装甲もろとも吹き飛ばすのも手段のひとつだ。あるいは何らかの方法で装甲
を弱体化させるのも考えられる。また、さらに別の手としては……
「中から攻めよう」
二人が私に振り向く気配。意味を測りかねているのだろう。
「私の能力を使って倒す。だがあまりに動かれると使えない。さっきみたいに一定位置から動かないようにさせてくれないか」
シルスクは相変わらずピンと来てなさそうな顔をする中、アヤメさんは理解してくれた。
「あ、そっかぁ。確かにあなたの能力なら外皮の硬さなんて関係ないわねぇ」
「……確実に仕留められるんだろうな?」
「確実とは言いたくないね。8割がた、と思ってほしい」
「……フン。ま、賭けとしちゃ十分だな。とりあえずあいつをあまり動き回らないようにすりゃいいんだなっておいおいおい!」
焦ったような声と同時に、シルスクは駆けだしていた。見れば、悪魔がはばたき、今にも飛び立とうとしている。羽根が
あるんだからそりゃ飛ぶのだろうが、動き回らせるなという条件を考えれば最悪の状態だ。
少し遅れて追うアヤメさんが、途中で何かを拾っていた。シルスクが落としたもののようだが、それが何かまでは判別
できない。
十分に揚力を溜めた悪魔が、大地を蹴る。その体が夜空に舞いあがる。まったく同時に、一直線に駆ける弾丸もまた、それ
目がけて大きく跳躍する。どんな攻撃も通さない硬質の皮膚に、臆することなく飛び付き絡みつく。悪魔の上昇は止まらず。
それでも彼は決して離れない。鋭い剣となった両腕の攻撃が届かない安地に潜り込み、悪魔とともに空に昇る。
だかそこからどうするつもりか。もしかして考えなしか。それならそれでまたむしろ男前だが。そう思った矢先。
「そいつを撃ってこい!
狭霧アヤメ!」
指示が飛んだ。見れば、アヤメさんは悪魔に向かって銃らしきものを構えている。さっき拾っていたあれだ。改めて見れば、
それには見覚えがあった。
パシュンと空気漏れのような軽い発砲音。飛びだすのは弾丸ではなく、一本のワイヤー。それは過たず夜空の悪魔へと
伸びていく。そのワイヤーの先端が悪魔の表皮に刺さ……らない。どういう作戦かわからないが、失敗したのか。そう思った。
「よし! もう一度トリガーを引け! さっさと!」
弾かれたワイヤーを、悪魔と空中戦を演じる男がしっかりと掴んでいた。左脚で悪魔の首、右脚で右脇の下をしっかりと
ロックし、上半身はフリーという曲芸みたいな格好で。まったく、どういう目と筋力と反射神経をもってすればあんな芸当が
できるのかまるでわからない。人体の神秘があそこに極まっている気がする。
そしてさらに状況は動く。シルスクの指示通りに引き金を引いたのだろうアヤメさんもまた、オートで巻き取られるワイヤー
に引っ張られる格好で上空に昇る。2人の人並み外れた人間と、1体の元人間だった異形が、星明かりが散らばる夜空で
交差していた。
しかしだ。あそこからどうするつもりか。悪魔は2人を振り落とそうと体を揺らす。あれでは私の能力は使えない。だが
あれを地上にひきずり下ろすのはあの2人がかりでも無理だろう。やはり考えなしか。
いや、信じよう。なにせ彼らは2人とも、私の命を助けてくれた恩人なのだ。今日もまた、彼らのおかげで私は無傷でこ
こまで来られたのだ。必ず何かやってくれる。
だから私も、遠くで眺めてなんていられない。彼らは余裕そうに見えて、命を落とすかどうかギリギリの死闘を繰り広げ
ているのだ。言いだしっぺの私が、止めを刺すはずの私が、安全地帯でボーッとしているのは道理が通らない。
1歩踏み出す。同時に、上空から屋上の床へとワイヤーが伸びてきた。約10秒の間があって2本目が、さらに約10秒
間隔でさらに2本、合計4本のワイヤーが、上空から床へと伸びた。そして声が響いた。
「注文通り、固定してやったからな! あとはあんた次第だ! できるだけ早くケリをつけてくれよ!」
その言葉に上空を見上げれば。4本のワイヤーでがんじがらめになった悪魔は、確かに固定されていた。おそらく2人を
振り落とそうと身を回転させたせいで、むしろ自分でワイヤーを巻き付けた格好になったのだろう。
しかしまさか、空中で固定してしまうとは。シルスクもアヤメさんも、上空にいる間にこの方法を思いついたのだろうか。
上空で悪魔とともにワイヤーに絡め取られて苦しそうな彼らだが、その姿のなんとかっこいいことか。ヒーローとはああいう
存在のことを言うのだと思う。
さあ、後は私の仕事だ。感慨にふける時間はない。これから殺す相手が元は愛した女性の弟だったことなんて、今考える
ことではない。そもそも、もうそんな姿は見る影もないのだし。
満天の星空を背景に磔になった哀れな悪魔へと、この右手をかざす。無言で行こうかと思ったが、やっぱりやめよう。締ま
らない。
「心音玩弄【フェイタル・スクリーマー】、発動」
詠唱。同時に、視界はモノクロに反転する。その中に、強靭な悪魔の胸元の、規則的に拍動する心臓だけが赤々と輝いていた。
それがある限り、どれだけ強靭な体を持とうと。どれだけ硬い骨格を持とうと。この能力には抗えない。
BPM:1。そう設定して、集中を解く。即死には至らない。だが長くももたない。
抵抗がゆるんだことを感じたのだろう。シルスクとアヤメさんは固定していたワイヤーを解放し、脱力した悪魔とともに
落っこちてきた。
「ふひゅー。ほんとにやってくれたな」
「空の上超怖いわぁ」
疲れも感じさせず、2人とも生き生きしている。つくづく凄くて怖い人たち。
悪魔はまだ動いていた。もはや満足に立つこともできないのだろうが、死に切ってもいない。
さすがにここまで姿が変貌してしまっては、罪悪感は湧かなかった。これはすでに牧島勇希ではない。牧島勇希だった何
かだ。
だが。彼は理性という制御を外すため、この姿になることを選んだのだ。こうなることがわかっていたのだ。こんな姿に
なってまで、私への復讐を成し遂げようとしたのだ。10年間蓄積してきた憎悪と怒りを、こんな形で昇華させたのだ。
凄まじい、凄まじい執念だ。
目の前で、悪魔は最後の力で立ち上がる。それが動物的本能か、それとももっと別の何かか、知る由もない。ゆらりと、
また倒れそうな足取りで、私に近づいてくる。断末魔の「致命の絶叫」がこだまする。直後。腹部から背中へと、感じたこと
のない鋭い痛み。目の前には、再び倒れ込みもう動かない悪魔。その右腕が。私の腹に。深々と。突き刺さって。
◆ ◆ ◆
「……尖崎くん。君まだ入院してたんだね。しかも相部屋とか」
「いやいやいやいやお恥ずかしい限りですようふふう。ドクトルJ主任も随分派手にお怪我されたようじゃありませんかあ」
「うん、まあね。あれ、尖崎くんだいぶ痩せたね」
「いやいやいやいやお恥ずかしい限りですようふふう。入院ついでに痩せなさいなんて言われてロクなもん食べてないもんで
すからああはあは。大きなのっぽのお世話ってもんですう」
随分肉分が落ちて普通体型になりつつある尖崎くん(誰かわからない? まあそれならそれでいいや)のかなり解読不能
な台詞を左耳で聞きつつ、病室の白い天井を見上げた。まあ寝ているのだから見上げるまでもなく自然とそこに目が行く。
なぜ当然のように生き延びているばかりか、のっけからくだらない無駄話なんかして登場しているのか、という声が聞こえ
てきそうだが、それは的外れだと言わせてもらいたい。なぜなら私にも今のところさっぱりわからないからだ。目を覚まし
た時には、この病院のこの病室のこのベッドの上だった。
あの日から5日が経っているらしい。全て終わった、のだろう。終わりの記憶が曖昧すぎて、その実感さえあやふやだ。
「痛つ!」
それでも、腹部に残るこの痛みこそが、何よりの証拠なのだ。私は確かにあの場にいて。牧島という男は死んで。私たち
の因縁は、そこで断ち切られた。この痛みは、あの男が最後まで持ち続けた執念。その恨みのこもった一撃だった。傷が治っ
てもこの痛みは生涯忘れることはないだろう。
本当は彼には言わなければいけないことがあった。彼が執拗に私を追わなければ、私は10年前の真実をきっと永遠に
知ることはなかっただろう。逃げ続け、避け続けていたのだから。
妻の死の真相を知り、今自分の命を大事に思うこんな気持ちになれたのは、彼のおかげと言ってもいいのかもしれない。
私の願いが実はとうの昔から叶っていたことに気付けたのもそうだ。
だから、ありがとう。そう言いたい。身勝手なのはわかっている。それでも言わせてもらう。
そしてもう一人。全て終わった今だからこそ、言わなければならない人がいる。
ずっと勘違いをしていた。遠くに行ってしまったと思っていた。いつも誰よりもそばにいたのにな。知らなくてごめんな。
「美希、ありがとう。俺は今、少しだけ幸せだ」
おわり
登場キャラクター
最終更新:2011年08月20日 00:37