無機質に白くぼんやりと光る冷たい廊下。どれほど長いんだというほどに続くそれを延々と、比留間博士の背中を
道しるべに歩き続ける。
建物に入ってからというもの、会話はほぼない。入り口あたりで「まずは怪我の処置をしましょう」と言って
連れられた部屋で二言三言口を利いたくらいだ。ちなみにその処置のおかげで左腕の痛みはだいぶマシになったが、
包帯をぐるぐると巻かれたために見た目の痛々しさはむしろ増した。
後ろを振り返ることもなく、比留間博士はただその背中だけで私を導き続ける。「男は背中で語れ」と私の父親
も熱く語っていた気がするが、今の比留間博士の背中からはただの一言も語られる言葉はない。
彼が今何を考え、何を思って私を自らの研究所に招き入れたのか。その真意、目的。そして根本的に、
比留間慎也
という人物自身。その背中は自らで語るどころか、私の抱く当然の疑問も拒絶しているように思えた。
「さてと、着きました」
唐突に道案内は終わり、私の思案の時も中断。振り向いた比留間博士の顔にはさっきまでのように微笑が浮かんで
いたが、心なしか緊張しているようにも見えた。
彼の前には一枚のドア。認証用のセキュリティカードと思しきものをカードリーダと思しきものにかざし、
ロック
を解除して、そのままドアノブに手をかける。
案内されるがままにここまで来た私だったが、今更ながらに緊張してきた。私の推測が正しかったならば、ここが
私の人生最後の場所となるかもしれないのだ。一体何があるのか。どんな部屋なのか。唾液が過剰に分泌され、心臓
は早鐘を打ち始める。そして意を決して一歩踏み入れたその部屋は……
「……普通だ」
本当に普通だった。おそらく学校の教室一部屋分ほどの大きさだと思われる、飾りっけのない質素な、悪く言えば
殺風景な普通の部屋だ。ただ、そんな見るべきところもない部屋の中で、ただ一点だけ目を引く存在もあった。部屋
のドアを丁寧に閉めている比留間博士と目で会話して、私は部屋の中央、その唯一の目を引く存在に近づいていく。
少女が座っていた。中学生くらい、だろうか。銀髪、白人のように透明感のある肌、そして白いワンピース。一見
して儚い雰囲気を纏ったその少女は、その徹底して希薄な印象がもたらす異質の存在感を漂わせてもいた。近づく私
に目をやることもなく、眠たげな瞳でどこか虚空を見つめている。
「彼女は僕の、そしてあなたの協力者となる存在です。ですがその前に、この部屋について説明をしておきましょうか」
とここで比留間博士。協力者というのが気になるが、大人しく話を聞くことにしよう。
「この部屋について? 何か特殊な部屋なのですか?」
「ああ、いえ。部屋自体が何か特別というわけではありません。この部屋を以前使っていた人物についてです」
「以前使っていた? ああなるほど、この部屋が随分がらんとしているのは空き部屋だからですか」
その通り、と人差し指を立てて言いながら、比留間博士は部屋の隅のほうに置かれた物入れらしき棚に向かう。
引きだしをがさがさとまさぐりながら、比留間博士は言葉を継いだ。
「この部屋は以前は研究室として使われていました。管理責任者の名前は『
牧島勇希(まきしまゆうき)』、と
言います」
役所の窓口でめんどくさそうに手続きを処理する公務員のように事務的なその言葉を、私は飲み込み切れなかった。
だから私は、もはやただのオウムになった。
「牧島、ゆうき……?」
「ええ。牧島勇希。先ほどあなたたちを襲撃した彼です。今は違いますが、彼は一時期この部屋に、つまりは僕の
研究所にいたんですよ」
「あの男……牧島が? ここに? あなたの研究所に?」
「神宮寺さん、混乱していますね。それだけあなたと彼は、互いに因縁深い相手なのでしょうか」
目当ての物は見つかったのか、比留間博士は棚漁りをやめてこちらに歩んでくる。
「あなたたちの因縁を、僕は知りません。しかしそれは別に構わない。なぜなら僕は基本的に部外者ですから。ですが、
肝心なこと、理由も原因も知らないまま一方的に命を狙われる人間を放っておくのも忍びない。僕の手の中にある要素
がそれを回避する手助けになるのならなおのことです」
比留間博士の口上に、一言はおろか一文字も言葉が出ない。さぞかし間抜けな顔を晒していることだろう。
「『知らない』ということは、時としてそれだけでひとつの罪になる。牧島さんがそう考えているのかはわかりません
が、少なくとも僕はこう思う。牧島さんが知っていることをあなたも知るべきだと」
「牧島が、知っていること……」
ようやく声帯が機能した。聞こえていないのかあえてスルーしたのか、比留間博士は少し話題を変えた。
「さて、そこで彼女の出番です」
言いながら比留間博士は、当の『彼女』のもとへ歩んでいく。呼ばれたことに気付いたのか、眠たげな瞳はそのまま
に、視線を比留間博士に合わせる彼女。
「時間がもったいないので、手短に説明します。彼女は名前を真白(ましろ)と言います。その夜間能力は『過去視』。
物質が持つ記憶を探り出し、鮮明に視ることができる能力です」
「過去視……」
「そう。でもそれだけではありません。それだけでは、我々は彼女が視たものを間接的に伝聞するのが限界だ。ですが、
能力発動中の彼女に触れることで、触れている人物もまた彼女が視ている『過去』を体験できる。これは非常に優れた
能力です」
少しだけ興奮気味に、比留間博士はまくしたてるように言った。まあ確かに物質の記憶が視える、いわゆるサイコメトリー
だけであれば、嘘かまことかチェンジリング・デイ以前から存在している。それが嘘かまことかわからないのは、まさ
しくその能力の恩恵に直接預かるのが自称サイコメトラー本人のみに限られているという点に起因するわけだ。
しかし、この真白という少女は違う。彼女とリンクすることで、リンクした人物もまた過去視の当事者になれるという
のなら、その情報の正確性、信頼性も保証されざるを得ないということになる。その物質自体が嘘つきでもない限り。
そういう意味で、彼はこの能力が優れていると言っているのだと推測できる。
いや待て、物質? 当然だが、過去を読み取るための物質が何かしら必要なはずだ。比留間博士はまさか、そんな
ものまで手のうちに収めているのだろうか。
「では早速始めましょう。真白、準備はできているかな」
私の疑問を知ってか知らずか、彼は淡々と事を進めていた。真白という少女は問いかけに小さくこくんと頷き、少し間
があってからゆっくりと私に視線を向けてきた。
悲しさ、寂しさ。そういった負の感情を含みながらも、見ていると不思議と落ち着くような、懐かしいような。きれい
な目だ。しばらくぼけっと見つめていると、彼女はそっと手を差し伸べてきた。握れ、ということなのだろう。
少し躊躇してできた間に、比留間博士が反応する。
「神宮寺さん。あなたが疑問を抱いていることはわかります。ですが、今は彼女に従ってください。あなたの疑問には
後で必ずお答えしますから」
自分への疑念から私がためらっていると感じたのだろう。気遣いとも取れる言葉をくれた。
これ自体が罠じゃない保証などどこにもない。握った瞬間私は死ぬのかもしれない。それぐらい、相変わらず比留間
博士の真意は解せない。しかし、彼の言う通りでもある。知らないということが、なんの免罪符にもならないことだって
あるのだ。
私の中でずっとあやふやにしてきた、あの日の現実。きっと今ここで、それが暴かれる。なぜ今まで避けてきたの
だろうか。知ろうと思えば知ることができたかもしれないそれを。いや、そんな自問すらももはや無意味だ。
「じゃあ、よろしくお願いするよ。真白さん」
覚悟は決まった。思いだしたくない過去に、そしてあの男に向き合うため。
意を決し、手を伸ばす。か細くひんやりとした手を握った瞬間。背中に氷を入れられたような猛烈な寒気を感じた刹那。
私の意識は、10年前のあの日へと羽ばたいた。
◆ ◆ ◆
それは白昼に見る悪夢か。それとも何者かが見せる著しく性質の悪い幻だろうか。
久しく大きな戦争もなく、均衡が保たれていた平和な世界の風景はこの日、泥沼の大戦争終戦後の如く、見渡す限り
の瓦礫と土煙が充満する終末絵図へと様相を変えていた。紛れもない現実として。
降り注ぐ大小さまざまな無数の隕石。揺らぎ抉れる大地。その質量に抵抗などできず、崩れつぶされる人々の生活の
結晶。地位と名誉を手にした者も、現実に打ちのめされうらぶれた者も、その宇宙からの贈り物を前にして等しく無力だった。
その絶望と混乱のさなか。例外なく崩れ果てた、もとは住宅だった瓦礫の下に、一人の女がいた。
女は細かい擦り傷こそあれ、奇跡的にほぼ無傷だった。
座り込んだ姿勢のまま、女はしばらくの間動かずにいた。おそらく同じ時、世界中の生存者たちが同じような状態
にあったのかもしれない。それは今自分が置かれている状況に、整理をつけるための間だったのだろう。
ようやく、女は茫然の状態から帰ってくる。首をめぐらせた女は、自分の心安らぐ家に突如現れた得体の知れない物体、
つまりは飛来した隕石を見つけた。赤く発光するそれに手を触れるが、すぐに引っ込める。発熱していたようだ。
女の手のひらはやけどのように熱く、赤くなった。浅はかさを苦く思いながら、手に息を吹きかける。
と、ここではたと気付いた。もう一人、この瓦礫となった家の屋根の下にいたはずの人物。愛する夫のことを。
女はまた苦く思った。自分のことに精いっぱいで、夫のことを失念していた自分に。
思い出すと、急に心細くなった。出せる限りの大声で夫の名前を呼んだ。瓦礫の山の下で、その声は届いているのか
どうかもわからない。何度呼んでも返事もなく。保ってはいるが、いつ崩れるともわからない瓦礫の下。最悪の連想
が脳裏をよぎり、女の目には涙があふれた。
呼びかけをやめて、瓦礫の空間に静寂が戻った時。かすかに物音がした。耳を澄ませば、もう一度聞こえる。音の
出所を探ると、崩れた瓦礫の間に女性一人が通るのがやっとほどの隙間を見つけることができた。少し苦労しつつも、
なんとかその隙間をくぐる。女は自分の貧乳ぶりに感謝した。
この時、女は少し安堵していた。嬉しくさえあった。いなくなったと諦めかけた夫が、そこにいると思ったからだ。
その安堵はあえなく打ち崩された。夫は確かにそこにいた。頭部と腹部から多量の血をあふれさせる、見るからに
痛々しい瀕死の姿で。
女は再び叫んだ。秀祐、死なないで。ただその2つの言葉だけを繰り返した。その叫びにも、瀕死の夫はほぼ反応
しない。かすかに不規則に上下している胸板が、虫の息とは言え彼が死んではいないことを証明するだけだ。
どれほどの間そうしていたのか、女は泣き疲れ、瀕死の夫の隣に静かにより添う。瓦礫の隙間からわずかに射して
いた光は消え、外はすでに日没だった。
何気なく女は、横たわる夫の手を握った。すると、奇妙な現象が起きた。触れた女の右手のひらが赤く光を放ったのだ。
驚いて、手のひらをまじまじと見る。隕石に触れてやけどになった部分が、赤く光っているようだった。
そしてさらに奇妙なことに、夫の右前腕あたりにあった無数の切り傷が消えてなくなっていた。そしてそれに気付
いた時、女の右前腕に鋭い痛みが走った。見るが、別段外傷はない。だが明らかに痛む。
女はとても聡明で賢い女性だった。同時に思い込みが激しく、想像力に富んだ女性でもあった。どれだけ信じられ
ないことが起ころうとも、それは実際目の前で起こっている。まして自分が当事者なのだから、それを信じないのは
理屈に合わない。そう考えた。
女はほんの少しだけ逡巡した。この赤い右手を使えば、目の前で今にも消えそうな夫の命を助けることができるかも
しれない。ただおそらく、自分の命を引き替えに。
その過剰な献身が結局はただの自己満足でしかないことは、女にはわかっていた。自分より一日でも長生きしてほし
いというのは、残される悲しみを自分に味わわせないでという意味でもある。
それでも、たとえ自己満の自己犠牲だと誰が言おうと、女の心は決まっていた。降って湧いた奇妙な右手の力で、
今死にかけている愛する夫の命を繋げる。この力はきっと、この時のために授けられた力。今使わなければ生涯後悔
することになる。そしてまた、自分と夫の立場が逆だったならば、夫もまた同じように考え、同じ行動を取るだろう。
それだけは単なる思い込みではなく、女の確信だった。
夫の頬をそっと一撫でした後、再び手を握る。今度はしっかりと、神前に祈りを捧げるような姿勢で。
赤い光が二人の全身を包む。経過とともに、女の額には脂汗。無数の傷の痛みを吸収し、それに耐えながら、献身
を続ける。
腹部の風穴と、頭部の挫傷。致命傷となっているその傷の痛みもほぼ吸収し終わった時には、女は朦朧としていた。
だんだんと眠くなる。目覚めは決して来ないだろうその眠りに落ちる前に、女は3つの願い事をつぶやいた。
美月ちゃんをお願い。一応、わたしのことも忘れないで。それと、幸せになって。
振り絞るように言った直後、女は夫の体に折り重なるようにくずおれた。能力による耐えがたい苦痛など感じていな
いかのように、満ち足りた表情だった。
◆ ◆ ◆
つづく
登場キャラクター
最終更新:2011年05月05日 01:45