急ぎ気味でレストランを出たものの、下りのエレベーターがなかなか来ない。さすがに多少イライラし
てきて、もうエスカレーターで降りようかと考え始めた時のことだった。
「神宮寺秀祐」
どこからか唐突に、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。声は続く。
「いや、今は
ドクトルJと呼ぶ方が通りがいいのか?」
どうにも不快なその声は、いかにも小馬鹿にするような調子でそうのたまった。あまりに突然すぎて混
乱したが、落ち着けばなんのことはない。声の発信源は私の真後ろに立っている男だった。
もう初夏だというのに真っ黒なロングコートを着、黒いサングラスをかけたその男。明らかに何かを錯
誤しているのだろう。こんな格好している人間は映画の中だけで十分だって話だ。だが、もっと目を背け
たい事実がある。それは――
「久しぶりだな、牧島。相変わらずおもしろい服装だ。暑くないのか?」
私とこの男とは古くからの知人だということだ。あくまで知人であり、友人ではないというところは強
調しておきたい。その証拠と言ってはなんだが、私はこの牧島(まきしま)という男のファーストネーム
を覚えていない。
「僕は寒がりでね。忘れたのか? 薄情な奴だ」
「正直興味もない。何の用か知らないが、大した用がないならあっちに行ってくれ」
「冷たいねえ。でも残念だったな、ちゃんと用事があるんだよ。神宮寺お前、窓の外のアレは見たんだろ?」
この男の声は生理的に好かない。爬虫類が人語を話せるのならこんな声だろうと思うような、湿り気
と粘り気に満ちている。だから受け答えをするのも億劫なのだが、この男は今、私が確かめようとして
いるものの核心をあっさり明かしてくれる気でいるようだ。それなら乗ってやるしかない。
「向かいのビルに座ってたコウモリみたいなやつのことを言ってるのなら、確かに見たが」
「ひひっ、コウモリとはね。もう少し物事を見定める目を養った方がいいな。まあいいさ。今日はアイ
ツの、ガーゴイルの実験を兼ねたお披露目パーティーをやろうと思ってたんだ。だがどうにも調整が不
完全だったみたいでな。キメラやケルベロスのようにうまく制御ができないときた。頭のいい神宮寺君
なら、これがどういうことかわかるよな?」
「ケルベロスか……。やはり以前のあの事件を仕掛けてきたのは君だったんだな牧島。ここのところ私
たちの組織職員が襲われているのも君の仕業か」
「フン。だったらどうする。お前に質問を許した覚えはないぞ。聞いてるのはこっちだ」
ふぅーっ、とわざとらしく大きい息をひとつついて、牧島は続けた。
「ガーゴイルはあれはあれでなかなかの良作でね。ちょっと自信もあった。だから考えた。神宮寺、お
前をガーゴイルの記念すべき最初の餌食にしてやろうと。だって神宮寺お前――死にたいんだろ?」
死にたいんだろ? どストレートでそう言われてしまうと、素直に首肯しづらい。そしてまたそれが
事実であっても、この男にそんなことを指摘される筋合いはない。
「悪いな。エレベーターが来たらしい。君に付き合うわけじゃないが、せっかくだから君の悪趣味な作
品ってやつを見物してくるよ」
牧島に背を向けて、エレベーターに乗り込む。都合ドア側に向き直った私に、彼は相変わらず品のな
い引きつり笑顔を向けてきた。ドアが閉まりきる間際、
「足掻いてくれよ、神宮寺」
彼の唇がそんな風に動いたように見えた。
嬉しくない再会となかなか来ないエレベーターというイベントを経てなんとかデパートの扉を開いた
時、すでに事は始まっていた。
平時そこにあるはずのないもの。どす黒い血溜まり。ぴくりとも動かず横たわる、すでにただの肉の
塊となっているかもしれない男性。視線を移せば、四肢の一部が欠損してしまった女性。
そんな凄惨な光景の前に錯乱し、他人を押しのけ踏み付け、我先にと逃げ惑う人々の群れ。すでに周
囲から人影は消え去っていた。
ついさっきまで彼らは――大地に倒れ伏した憐れな犠牲者も含めた彼らは、いつもと何も変わらない
平穏で楽しい週末を満喫していたのだろう。
「生きているものは、遅かれ早かれ必ず死ぬ。そうは言っても、やっぱり理不尽じゃないか? こんなのは」
誰にともなく無意味に呟いて、私は空を見上げる。日常を瞬く間に非日常へと変えてしまった元凶が、
そこにいた。
あの男が言っていた通り、それはコウモリなどという生易しい存在ではなかった。
第一印象、悪魔。さらによく見て、やはり悪魔。月並み過ぎると考え直して、やっぱり悪魔。
その前肢と口元を血で染めた悪魔が、コウモリに似た黒い翼をはばたかせ、悠然と滞空している。
そう言えばあの男は、この怪物を指して『ガーゴイル』と言っていた。ガーゴイルは確か――
「ってくそったれが! 来るなよ!」
悠然と滞空している、なんて解説してやったそばからこいつめ、猛然と突撃してくるとは! 空から
迫りくるそれを、間一髪横っ飛びで華麗にかわしてみたが、
「あー、痛つつつ」
日頃運動していないせいか、無様に転んで腰をしこたまアスファルトに打ち付けた。 痛い。しかし
もっと大きな問題があった。
「あーあ、こりゃダメだわ。ぜーんぜん見えない」
私の顔面から眼鏡が消えてなくなっていた。おそらく着地に失敗した時の衝撃でどこかへ吹っ飛んだ
のだ。デリケートな眼鏡だったし、確実にぶっ壊れてしまっただろうな。
こんな時にするべき話でないことは承知の上で、あえて言わせてもらいたい。私は眼鏡コレクターで
あり、多数の眼鏡を持っているのだが、今日かけていた眼鏡は一番のお気に入りだったのだ。それをこ
んなくだらないことで、一瞬で奪われてしまったのだ。
「予告もなく突撃してきて私のフェイバリット眼鏡を奪うとは。いい度胸してるなお前」
胸ポケットからスペアの眼鏡を取り出しつつ、また悠然とはばたいている悪魔に向かって精一杯の啖
呵を切る。かといって冷静になってみると今はまだ日暮れ前、戦えるわけでもない。とりあえず攻撃を
かわせる態勢だけはしっかり作っておくことにした。
そうして私の意識は、眼前上空にいる一匹の悪魔に完全集中していた。まさか背後から第三者に話し
掛けられるなどとは、露にも思わなかった。
「まったく真面目なんだかふざけてんだか。俺から言わせりゃ、あんたのほうがよっぽどいい度胸して
ると思うがな」
「……へっ? っておわ痛ってっ!」
ワンテンポ遅れて声に振り返ろうとしたが、遅すぎた。あっさりと背後を取られた私は為す術もなく
押し倒され、固いアスファルトに組み伏せられてしまった。力強い腕が、私の首に回されている。
ああ、くそ。終わりか。なんて馬鹿な終わり方だ。私は戦ったのか? 何かを成し遂げたのか?
いや、何を今更だ。私は確かに、死にたいのかもしれない。いや、そのはずなのだ。
それなのに期に及んで、やっぱり今は死にたくないと? こんな終わり方は納得できないと? 本当
に私という人間はどこ――
「おいあんた、大丈夫か? 怪我はないな?」
私を組み伏せた襲撃者が、なぜか気遣うように語りかける声で私は我に返った。てっきりすでにナイ
フが延髄あたりに突き立てられていたりするのではないかと思っていた私は、状況がさっぱり飲み込め
ないので、ただ正直に
「あばらが痛い。それと腰もだ」
と答えておいた。襲撃者はそれを聞いて、かすかに笑ったようだった。
「そいつは結構。痛みこそ生きてるって証だからな。俺が飛びつかなきゃあんたは今頃、あの気色悪い
怪物のおやつになってたところだ。ああ、一応言っとくが、腰が痛いのは俺のせいじゃないからな」
すでに落ち着きのある、だがまだ若さもわずかに残っている。そんな印象の声。ナイフを突き立てて
くる気配はまるでない。
「君は、私を助けてくれたのか」
襲撃者ではないのか。本気で痛むあばらを庇いつつ、少しずつ身を起こしながら聞いた。
「ん? はあ、どうだろうな。俺があのタイミングで話しかけなきゃ、あんたはあの怪物の攻撃を自分
で避けたかもしれないし。それなら俺が助けてやる必要もなかったわけで。あれ? なんかこれじゃあ
俺、エセヒーローみたいだな」
意外に理屈っぽい男のようだ。一呼吸置いて、彼は続けた。
「まあどうでもいいだろ。あんたに危害は加えない。変な怪物が暴れてるってんで来てみただけだ」
その時。私は初めてその男の顔をしっかりと視認した。
声の雰囲気からして私より多少年下だと思っていたのだが、それにしては明らかに不相応な、泰然と
した雰囲気をその身に纏っている。
口元こそ微かに微笑んでいるようだが、その実瞳は恐ろしく冷厳で、射抜くような威圧感を宿している。
彼が着ている、軍服をスタイリッシュにしたような服は、その印象をより強いものにするのに一役買っ
ていた。
私のそんな観察を意にも介さず、おもむろに腰から提げていた通信機らしきものを手に取る。
「
シルスクより各員。保険はかけたが、一応週末の繁華街だ。火器の使用は許可しない。犬っころも撒
かれてるかもしれんから、十分注意しろ。ターゲットを見つけたら殺さずにつれて来い。半殺しまでな
ら許す。以上だ」
通信を切断して、彼――確か『シルスク』と名乗った彼は、なぜか今の今までおとなしくしていたら
しいガーゴイルに向き直る。気のせいだろうか、さっきよりも滞空する高度が低い気がする。
「ま、そういうわけだ。あんた、これ以上余計な怪我を増やしたくなければさっさと避難しろよ」
そう言い残して彼は、中空の悪魔に向かってゆっくりと歩み始めた。
つづく
登場キャラクター
最終更新:2010年07月17日 17:02