臆病者は、静かに願う > 15


 【幕間―比留間慎也の嘆息】

「知らない」ということが、時としてそれだけでひとつの罪になることがあるのは紛れもない事実だ。
 かと思えば「知らない」ほうが幸せなこともある、というのもまた間違いなく事実だったりするのだから、人の世は
どうしてこう面倒に作られてしまったのかなとため息をひとつ吐くぐらいは許されていいと思う。

 過去との対面を終えて現在に帰還した神宮寺秀祐は、魂がいずこかへ飛び去ってしまったかのように、何の反応
も示さなかった。身がひからびるほどに涙の雨でも降らせるか、半狂乱になって子どものように暴れでもするかと構え
ていた僕としては、最も予期していないパターンだったと言える。彼を自宅へと送り届ける車中でも、彼はただの一言
だって発せず、焦点の合わないうつろな目をして後部座席で小さくなっていた。あまりにも静かすぎて、彼は息をするこ
とさえ忘れているんじゃないかと心配したぐらいだ。

 そんな風に生気を失った彼をどうにか家まで送り届け(なぜ彼の家を知ってるかって? それは秘密だ)、たった今
こうして研究所まで帰ってきたところだ。
 さっきの部屋まで戻ると、真白がまだぽつんと一人、この質素で味気ない部屋に溶け込むように座っていた。近づいて
その頬を確認する。さすがにもう泣いてはおらず、涙の跡も残ってはいなかった。

「今日は悪かったね、真白。また辛い思いをさせてしまったね。あ、謝るのが遅れたことも謝らないと」
 過去視による過去の当事者のはずながら一切の反応らしき反応を拒否した神宮寺さんと対照的に、本来的に当事者で
はないはずの真白は過敏な反応を見せた。普段一切の言葉を発しないこの子が声を上げて泣く姿は、さすがの僕でもちょっ
と見ていられない光景で、そういう時僕は過剰に罪悪感を募らせたりする。

 彼女が今日神宮寺さんとともに「視た」過去に対してここまで過敏な反応を示す理由は、僕には皆目わからない。僕に
は他人のプライバシーや過去を興味本位で覗き見るという素敵な趣味はないから、それがどんな過去なのかは知らない……
と一応断りを入れておくけど、真白がそうだと言っているわけではもちろんないよ。彼女はただ……ただ純粋に、利用
されているだけだからね、可哀想だけど。

 彼女がこの過去を視たのは、たぶん今日で2回目のはずだ。1回目は、ああ、あれがいつ頃のことだったのか、もう
はっきりとは覚えていないけれど。
「真白、疲れただろう? 今日はもう休んだ方がいいよ。あっと、それは返してね」

 いつまでも彼女をこの部屋に留めていてもしかたないから、就寝を促してみた。ゆっくりと立ち上がった真白の右手
に収まったままの物を、慌てて回収する。
 壊れて傷だらけになった、女性物の腕時計。文字盤は割れ、秒針はもげ、長針のひしゃげたこの腕時計があの日、もっ
と粉々に砕け散っていたなら。神宮寺秀祐と牧島勇希は、もう少しまともな形での再会が望めたかもしれない。
 あれがいつ頃だったかはやっぱりよく覚えていない。それはまあこの際どうでもいい。真白が1回目にこの腕時計から
過去視を実行した時、彼女とリンクして過去視を共有した人物。もはや言うまでもないと思うけど、それが牧島勇希だっ
た。もっと言えば、この腕時計は牧島さんがこの研究所に持ちこんだものだ。

 今改めて思えば、それこそが彼の本来の目的だったということだろう。僕の目でさえ、彼のうちに秘めた暗い感情は見抜
けなかった……おっと、意味がわからないかもしれないね。ちょっと飛躍していたかな。要するに、彼は「腕時計」と
いう過去視に必要となるアイテムは手に入れていた。しかし肝心の過去視能力者を探す手立てがなかった。そこで、能力
研究の世界的先駆者と言われている比留間慎也(僕)に目をつける。最先端の研究所ならあらゆる能力についての情報
が手に入りやすい。過去視のように有用な能力ならばなおさらだ。

 そして実際、彼がこの研究所に入った頃、すでに真白もいたのだった。でもことは彼の思うようには進まなかった。
当時比留間慎也(僕)は、彼に提示する情報に制限をかけていた。これは特に珍しいことじゃない。僕は僕自身が提供
する必要がないと判断した情報は、相手が求めても提示しないことにしていたからね。今は多少柔軟になったけども。

 結果として僕のそんなプチ秘密主義が、牧島さんとの間に不和を生じさせてしまった。ここから先語るのは少し僕自
身も辛いところがあるので勘弁させてもらえると助かる。ただ最終的な結果として、彼は真白に能力の使用を半ば強要し、
今日神宮寺さんが視たのと同じ過去を視るに至った。そして――彼はこの研究所から姿を消した。

 ああ、そういえば。真白が泣いていたことについては、あの時も今日も同じだったけど。リンクした人物の反応はま
るで違っていたな。牧島さんはあの時、ひからびそうなほどに泣き、子どものように暴れつくして、そして消えた。彼の
あの様を見ていたからこそ、僕は今日神宮寺さんもそんな反応をするんじゃないかと想像していたということだ。

 そんな違いがあったから、僕は余計に思うことがある。もし神宮寺さんが先にあの過去を視ていたら、彼の世界はど
うなっていたかと。そしてまた、そもそも彼は知るべきだったのかどうかと。
 知らなければ罪。なのに、知れば後悔。そんなどうしようもない矛盾を抱えた真実があるというのがこの世の現実
だったりするのなら、そんな真実を背負う者に一体なんと声をかければいいのだろうか。

 こんなこと、おせっかいにも彼にその真実を知らせた張本人たる僕に言えた義理じゃないことはわかってるつもりだ。
でもだからこそ、僕には顛末を見届ける義務がある。
 できれば、彼には生きていて欲しい。僕の直感は、彼が僕にとって意味ある存在だと告げている。願ってどうこうでき
るものではないけど、素直にそう思う。

 どうなるかは、神だけが知っている話。突如として隕石が降り注ぐように、世界は神の気まぐれなサイコロ遊びに翻弄
される。それでも僕は、神宮寺秀祐がそんな気ままな神にもてあそばれることなどない、強い人間だと思っている。

 それに白状すればそもそも僕は。比留間慎也はそんな傲慢で横暴な神の存在など、最初から信じてさえもいないのだから。

 ◆  ◆  ◆

 我に返った時には、私は柔らかく暖かい感触に体を委ねていた。ぼんやりと徐々に意識が覚醒してくると、どうやら
それは住み慣れた我が家のベッドの上らしいと分かった。不思議なものだ。つい直前まで、たしか比留間博士の研究
所内の殺風景な一室ですったもんだしていた。それが気付けばこんな風に、まるで何もかも嘘だったかのように、安穏
と身を休めている。

 だが。残念ながら、と言うべきか。記憶がすっぽりと抜け落ちているなどということはないのだ。だから、何もかも
嘘だった、という最高にして最も残念なオチも、やはり残念ながらあり得ない。私が比留間博士の研究所で体験してき
たことは疑いようのない現実だと、認めざるを得ないのだ。

 あんなものを見たにもかかわらず、自分でも信じられない程に落ち着いている私がいた。ああいうことが起きていたか
もなうんうん、などとのんきに想定していたからではもちろんない。あの過去視による出来事の信ぴょう性自体を疑って
いるわけでもない。それを疑うことは、真剣そのものの表情で私を導いた比留間博士と、私に過去を視せてくれたあの
色の希薄な少女に対する冒涜に他ならない。比留間博士の意図はどうあれ、私は彼に感謝こそすれ、疑いの念を抱く気
にはもうなれない。

 私はもう認めている。あの過去は間違いなく事実なのだと。知らなかった、いやきっと無意識のうちに遠ざけ知らない
ようにしていた現実を、まざまざと突きつけられた。
 それは辛い現実だった。心をおろし金でボロボロにすり潰されるように、惨く耐えがたい現実だった。

 そう、辛いのだ。辛く苦しい。そのはずなのに。
 なぜだろう。私の心の中にあるのは、「嬉しい」という感情らしかった。
 私はいよいよ本格的に頭でもおかしくなったのかと思った。愛した女性の死に際を見て嬉しく思うなど、およそ人間
性が欠落してしまったとしか思えない。

 私は大丈夫なのだろうか。少し気を落ち着けようと、胸のあたりに手をおく。規則的なリズムで心地よい音をたてる
私の心臓は間違いなく、今もしっかりと拍動している。本来なら、10年前のあの日に止まっていただろうそれ。愛した
女性の献身によって、こうして今も元気に動いているそれ。

 ああ、そうなのか。愛した女性が、自分を助けるために命を投げ出した。私はきっとそれを、嬉しいと感じているのだ。
それが嬉しくて、こうして泣いているのだ。それならばきっとそれは、おかしいことではないのだろう。
 卑怯で臆病な私が密かに抱き続けた願いは、これまでに幾度か叶いそうで結局叶わずにいた。今、私はようやく気付け
たのかもしれない。この願いを叶えるたったひとつの、極めて単純な方法に。

「終わりにするよ、美希。お前の弟、なんとかしてくる」

 ◆  ◆  ◆

 【幕間―牧島勇希の後悔】

 ケリをつけるつもりでいた。僕が創り育てたキメラの牙で爪で、あの男の心も体もプライドもズタズタに引き裂いて、
無残なただの肉塊へと貶める。その気でいた。
 邪魔が入るとは思わなかった。しかもよりによって比留間慎也。比留間、わざわざあいつに接触を持ったということは、
僕が視たあの過去の映像をあいつにも視せたのかもしれない。あの日姉さんの腕時計をあそこに忘れてきたことは、今考
えるとあり得ない失敗だった。

 あいつはあれを視て、どんな反応をしただろう。どんな思いを抱いただろう。無様に泣きわめいたんだろうか。申し
訳ないとでも思ったんだろうか。何だっていい。何をしようがどう思おうが、姉さんは帰ってこない。僕があいつを許す
こともない。

 十年前、瓦礫の下から発見されたという姉さんの死に姿を見た時、僕は小さな違和感を抱いた。ざっと見たところ、体
のどこにも大きな怪我を負っていなかったのだ。にもかかわらず姉さんは確かに死んでいた。異常事態の混乱の中で、そ
の死はうやむやのまま、姉さんは葬られた。

 僕は諦めることができなかった。早くに両親を亡くした僕たち姉弟にとって、互いは特別な存在だったから。だから見
る影もなく全壊した姉さんの家に何度も足を運んで、何か手掛かりはないかと一人探し続けた。そうしてようやく見つかっ
たのは、姉さんの腕時計だけだった。この腕時計が後々これほど役に立つなんて、その時は考えもしなかったけど。

 僕はあの男が、神宮寺秀祐が憎い。あいつを助ける、ただそれだけのために姉さんは命を落とした。守ってあげるべき
相手に守られて、あいつはのうのうと生き延びた。
 姉さんにそこまでさせるほど、姉さんから愛されていたあいつが憎くてしかたない。悔しいけど、あの過去の映像を
思いだす限り、姉さんは自ら進んであの能力を行使していた。自分の意思で、あいつのために命を差し出した。

 だというのに。あいつは姉さんの死にざまを知ろうとしなかった。保存されていた姉さんの死体を見た時も、なんの
疑問も抱くことなく。あいつはその死から目を背け、文字どおり闇に葬った。
 だから僕は、あいつが憎い! 八つ裂きにしてやりたいほどに憎い! あの時素直に死んでいればよかったんだ!
なんであんな男のために姉さんは死んだんだ! 姉さんは本当に、本当にバカだ!

 でも、それももう終わりだ。比留間があいつにあの過去を視せたなら、あいつは姉さんの死にざまを知ったということ
だ。ようやく。今更。遅すぎる! そうは思っても、知ったならばこの際どうでもよくなった。
 本来なら、あいつを痛めつけつつ僕の口から語ってやるつもりだったが、それももうどうでもいい。僕の語りによる
伝聞など、実際に自分の目で視る映像から受ける衝撃とは比べるまでもないんだから。あいつを痛めつけながら、じっくり
感想でも聞いてやることにしよう。

「姉さん。ずっと一人でしょ? 安心してよ。もうすぐあいつ、そっちに送り出してやるから」
 最後の準備をしよう。思案にかまけて寝ずに過ごしたこの夜も、いつの間にか明けている。日が昇るのも早くなったも
んだ。早速果物ナイフを取り出して、左手中指の先端をザクリと一刺し。尖った痛みの後、赤黒い色をした液体がどくど
くとあふれ出る。
 それはまだ、僕が間違いなく人間であるという証で。そう思うとなぜだろう、久しく流した記憶のない涙があふれてきた。

 理由のわからないその涙を振り切った後、静脈血があふれる自分の指を口に含む。自らの血を進んで食道へ、胃へと流
し込む。ためらうことなんてない。倫理観や道徳観念なんてものは、とうの昔にごみ箱に投げ捨ててきたんだから。


 つづく


登場キャラクター



タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2011年06月05日 19:23
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。