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臆病者は、静かに願う > 17


『夜見坂の付属施設』という表現はやや曖昧な印象を受けるかもしれないが、ERDO研究部門の人間にとっては問題なく
通用する共通語だ。ERDOが影の運営母体となっている私立夜見坂高校、その傍らに併設されている付属中学校。
『夜見坂の付属施設』とERDO研究部門の人間が発言した場合、それはもっぱらこの付属中学のことを指しているのだ
と判断して間違いはない。

 ERDO研究部門が擁する最大の実験用箱庭とも言うべき場所だが、私はあまり積極的に関与はしていない。だから「夜見坂」
がどこにあり、どうすればたどり着けるのかといった基本的なことも恥ずかしながら失念していた。腹ごしらえを済ませた
後で資料を引っ張り出し、地図を確認し、どうにかこうにか所在地を確認することができた。

 そんな些細なつまづきも経つつ、私は今ようやくそこにたどり着いたのだった。すでに街は薄闇に沈み始めているような
時間になっていた。
 一見すれば一般の中学校とさして変わることのない、夜見坂高校付属中学の校門。その外側でただつっ立っている分には、
中に悪意ある襲撃者が侵入し、醜悪な改造生物が闊歩しているらしいという雰囲気は特段感じられない。その印象が正しい
にこしたことはないのだろうが、残念ながら今の私はそれを否定せざるを得ない。
 3時ごろに届いたメールの後、自宅からの移動中にさらなる連絡が届いていた。

『戦闘用改造生物の総数、正確には測れず。しかしかなりの数に上る模様。
また、現地に対能力犯罪専門組織の進入も確認。襲撃者同様、施設深部への侵入確認時は
より一層の秘密保持のため、施設を爆破する』

 とのことだった。さて、ここで言われる『対能力犯罪専門組織』とは、おそらく以前に遭遇した『バフ課』なる存在
のことだろう。つまり、あのワイヤーアクションヒーローがここに来ている可能性があるわけだ。あのガーゴイルを一
人で締めあげた彼のことだ。きっとキメラやケルベロスたちも華麗に葬り去っていることだろう。次代を担う少年少女が
学び育つ学び舎の壁やら廊下やら天井が血しぶきに染まる光景が思い浮かんで、軽くめまいがした。

 率直に言って、彼らを味方と考えるべきではない。牧島を追うという目的は一緒かもしれないが、その理由はどう考えて
も一緒なはずがないのだ。だから、利害が一致する保証もない。最悪の場合、見つけた時点で牧島を殺すことだってあり得
るだろう。私としてはそれは困る。
 彼を10年の間縛り続ける、私への復讐心という枷。そんな枷に繋がれたままで死なせることだけはしたくない。
そしてもちろん、その枷の鍵を開けられるのは私しかいないのだ。だから私は、あの常人離れした男が率いる手練れたち
より早く、彼を見つけなければならないのだ。

「運が悪ければ……私も敵とみなされるかもしれないけどな」
 それは大きな不安だった。下手を打てば私自身が中途半端なままで命を落とすという危険。だから思わず声になっていた。
だがそれはあくまでも、ただの独り言のはずだった。


「そうねぇ、バフ課は見境ないものねぇ。さ~てじゃあそんな怖がりなオジさまに素敵なボディガードはいかが?」
 中年男の独り言にまさかの返答がきた。背中越しに聞こえたその声には、確かな聞き覚えがある。いや、きっと忘れよ
うにも忘れることはできないだろうあの出会い。命の恩人であり、その直後に命を奪われそうになった女性。

「さぎり、アヤメ……?」
 この時の私を隠し撮りした写真がもしあったとしたら、私は多少法に外れる手段を用いてでもそれを地球上から抹消
しにかかるだろう。振り向いた私の顔を見た途端、腹を抱えて笑い転げた狭霧アヤメを見て心底そう思った。

「はあ、お腹苦しいわぁ。まったく神宮寺のオジさまったらいきなり顔芸するんだもの。そんな不意打ちはズルいわよ」
 腹筋をさすりつつ、いまだこみあげる笑いを噛み殺して言う彼女。なかなかに失礼な女性だ。そんな酷い顔してたのか?
とまあ今はそれはどうでもよくてだな。

「狭霧さん、どうして君がこんなところに」
「どうしてって、さっき言ったわよ? 怖がりな神宮寺オジさまの素敵なボディガードになりに来たの」
 そう言って、ブロンドのポニーテールをふわりと揺らして微笑む。相変わらず可憐な外見にそぐわない浮世離れした言
動。やはり彼女は根っからそういった得体の知れない部類の人間なのだろう。

「よく意味がわかりかねるが……君は私がここにいる理由を知ってるのか?」
「そんなの知るわけないわ。でもねぇ、ここの中学校でなにか変なことが起きているのは知ってるわ。バフ課が介入してるっ
ぽいこともねぇ。なんか久しぶりに楽しそうだと思って来てみたら……ねぇ」
 意味ありげにクスリと微笑んで一拍置き、彼女は続けた。

「あの時のオジさまがなんだか悲壮な空気漂わせて立ちすくんでるんだもの。これはもうますます楽しそうだと思ってねぇ」
 悲壮な空気、か。無理もないだろうが。味方のいない敵地に戦闘のプロでもない私が一人っきりで乗り込まなければな
らないのだ。悲壮感のひとつやふたつはタダでくれてやれるくらい発生するだろう。

 だがもし彼女がその言葉通りに協力してくれるならば、「一人っきりで」という一番の不安点が解消されることになろう。
また彼女は言動の端々に危険人物の香りがプンプン漂っているし、前回の出会いで本格的な軍用ナイフを惜しみなく披露
もされていた。頼りになる気はする。一点だけどうしても引っ掛かる点がある以外は。

「狭霧さん。君が助けてくれるのはありがたい。私自身、一人ではどうしたものかと思っていたところだからね。でも、
君は以前私を殺そうとした。そしてその時、こうなったはずだ。『次に私が死のうとしていると君が感じた時、君は私を殺す』
とね。あれはもちろん、今でも有効なんだろう?」
「それはもちろん」
 即答だった。だから私もすぐさま返す。


「ならどうして今殺さない? 悲壮感漂う私を見て、一思いに殺すことはできただろうに」
 今度はすぐには答えが返ってこなかった。むしろ彼女は意外そうに目を丸くして、数秒の間固まっていた。張り付いた
その表情を解いた彼女は、沈黙のまま中学校の門へと、私を追い越して歩んでいく。不意に立ち止まり、背中ごしに声。

「人間って時々、信じられないくらいにバカよねぇ。誰だってそう」
 ……なんだかよくわからないが、唐突に馬鹿にされているらしい。脈絡がなさすぎてむしろ腹も立たないが。そんなこと
を思ったところ、さらに声が飛んできた。
「ま、いいわ。要するに、別に殺す気になればいつだって殺せるのよってことよ。女性にこんなこと言わせないで恥ずかしい」
 何を恥じらっているのかさっぱりわからんが、つまり「今は殺す気がない」ということだろうか。なるほど、女性の心
は移ろいやすいものだしな……ということにしていいのだろうか。いやもうそういうことにしておこう。

「わかった。後ろから刺されないように気をつけるよ。狭霧さん、協力ありがとう」
「……ねぇ。その『狭霧さん』て呼び方やめましょうよ。ここから先私たちは相棒、バディなんだから。ねぇ?」
「バディて……あーでは、アヤメさん。よろしく頼む。ついでに『神宮寺のオジさま』もなんとかしてくれ」
「えー、何が気に入らないのかしら。ましゃーないか。じゃなんて呼び方をお望み?」

 ここで少し考える。『狭霧さん』をやめた手前、『神宮寺さん』はまず受け入れられない。かといって下の名前を用い
るのは、一回り若い女性に無理矢理名前で呼ばせて悦に入るヒヒオヤジっぽくてなんか嫌だ。そこまで考えて、私の中にひと
つの単語が浮かんだ。
 それを己の呼称として使われることに、私はずっと抵抗していた。だいぶ慣れてしまったとは言え、こっ恥ずかしさは
やはり完全には拭いきれないそれ。

 だが、どうか。今の私は、つい先日までの私とはどこか違っているのではなかろうか。いや、違っていなければならない。
変わらせるだけの出来事が、出会いが、この短期間の中にあったのだ。
 今の私は強くなければならないのだ。目の前の困難を覆す力を持った強い人間だということにしなければいけないのだ。
 程度や性質の差こそあれ、多くの人が罹患するあの病。例に漏れず私も、それを患ったことがあった。その時、私が創り
出した呼称。とある厨二少女にほじくり返されてしまった、その恥ずかしい記憶。弱い自分に力を与える、痛々しい真の名。

「『ドクトルJ』。ここから先、私のことはそう呼んでくれ」


 開きっぱなしの校門を踏み越え、いかにも私立な感じのするどこかお洒落っぽい校舎の入り口までたどり着いて、私は再
びめまいを感じた。校門前で自分が思い浮かべた凄惨な光景は、あながち行きすぎたものでもなかったらしい。

「バフ課ったらずいぶんと派手にやってるわねぇ。どう処理する気なのかしら」
 さして驚いたふうでもないのんきな口調で言いながら、狭霧、もといアヤメさんが地面にしゃがみこむ。その前には一体
の黒く巨大な犬、だった何か。そしてその周りに大きく広がる赤黒い血だまり。いくつも転がっている不気味な生物のまだ
新鮮な死体と、それらが未だ垂れ流し続ける生臭い血の匂い。こんなものが子ども達の学び舎の中にあってはならない。

「全部ナイフで一撃、か。どうりで何の音もしないわけよねぇ」
 そんな異常な光景の前で、アヤメさんはあくまでものんきだった。本来なら決して関わらない、関わるべきでない社会の
人間なのかもしれないが、彼女の平静さは今の私にはむしろありがたい。

「ま、わんちゃんの死体眺めてたってしょうがないわ。行きましょうドクトルJ」
 そう言い残して、大して警戒もなくスタスタと校舎内に消えていく。肝が据わっているのか、単に何も考えていないのか。
いや、きっと両方なのだろう。彼女の場合はそんな気がする。
 そして彼女が呼んだ通り、今の私はいつもの『神宮寺秀祐』ではない。『ドクトルJ』なるマッドサイエンティストっぽ
い男なのだ。『神宮寺秀祐』にとっての非現実は、『ドクトルJ』にとってはなんら驚くに値しない見慣れた現実でしかない。
それは結局弱さをくじくための詭弁妄想の類でしかないが、その妄想を補強してくれる存在がいれば、本当にそう思えてく
るから不思議なものだ。今の私にとって、狭霧アヤメがその役割を果たしていることはもはや言うまでも――

 ふと、視線を感じた。ここで『視線を感じる』ことのメカニズムについて小一時間ほど語りたいところだが、小一時間
ではすまなくなることが目に見えているのでやめにする。
 右、左、後ろと確認するが、誰もいない。だが確かに感じる。よほど強い視線なのだろう。もう一度、今度は左、右、後
ろと確認し、最後に上を見上げた。そこでようやく、一方通行だった視線は交差した。

「牧島……」
 四階建ての校舎の屋上に、その男は立っていた。遠いゆえあまり表情などは読み取れないが、いつものサングラスをして
いない。だからこそ、この強烈な眼光を発しているのだろうか。
 手招きするでもなく。何を言うわけでもなく。それでいて彼は、明らかに私を呼んでいる。すべてに決着をつけるために。

「待っててくれ。すぐに着くからな」
 あくまで独り言の声で呼びかけて、私はアヤメさんに続いて校舎に足を踏み入れた。


 遅れて入ってきた私にブーブー言っているアヤメさんを横目に見つつ、私は上を目指すためにまずは階段を探すことに
した。実は入ってすぐのところにエレベーターがあった(最近の中学校はほんとに贅沢だ)のだが、危険な香りしか感じない
ので利用は避けた。 

 校舎の中も酷い有様だった。廊下、壁はもちろんのこと、天井まで血が飛んでいる。そしてまた当然にその血の発生源
がごろごろ転がっている。もう少し残虐表現控えめにできないのだろうか。

「鋭利な刃物で首を一撃。彼らはプロなんだから、それが一番手っとり早いってわかってるのよ」
 心の声が普通に声になっていたらしく、アヤメさんが解説してくれる。

「しかし、結構な数がすでに退治されているようだ。バフ課っていうのは相当だな」
「うーん、そうでもないんじゃないかしら。あ、ほら」
 そう言って彼女は、廊下の一角を指さした。そこにはもはやすっかり見慣れた赤黒い液体の水たまり……の他、見慣れ
ていない、だがある意味では改造犬以上に見慣れたものが横たわっていた。

「バフ課の人間、か……?」
「たぶん、ていうか百パーそうねぇ。たぶん私たちが思っている以上にわんちゃんの数が多いのよ。一匹ずつなら難なく
相手できても、囲まれたら……ねぇ」
 言いながらもなぜか微笑むアヤメさん。さすがに私は笑えない。

 俊敏で強靭なあの改造犬をさらりと始末できるバフ課という集団も脅威だが、そのバフ課の人間の死体も転がっていると
いうこの状況。一歩一歩を慎重に進まなければ、命がいくつあっても足りないといったところだ……と言っているそばから
鋼の心臓を持つ女は相変わらず注意散漫な感じでのこのこ歩いて行く。泰然としすぎていて逆に不安だ。

「アヤメさん。ふと気になったんだが。武器は持たないのか」
「え? やだ持ってないわけないでしょ。ちゃんとここに、前にあなたの頸動脈を切断しようとしたナイフがあるわ。他
にもいろいろあるけど、全部は教えてあげない」
「あ、そう。ならいいんだが」
 なんでこれだけ死体が転がっている状況で手に持たないんだと聞きたかったのだが、もういい。とにかく階段を探そう。
階段を見つければあとは上まで一気に上ればいいだけだ。

「にしても広い学校ねぇ。移動教室とか大変そう」
「君の口から『移動教室』なんていかにも青春な言葉が飛び出ると、それはそれでまた怖いな」
「む。失礼しちゃうわねぇ。私だって……」

 そこまで言いかけて、彼女の顔色が変わった。いや、顔色というよりは、全身の雰囲気が変わったというべきかもしれない。
いつの間に抜いたのか、手にはしっかりとナイフが握られていた。

「戻りましょう」
 学校の廊下というのはひたすら細長く、遮蔽するものはあまりない。私はアヤメさんに指示されるまま少し来た道を戻り、
トイレに隠れることになった。言う必要はないと思うが、女子トイレである。


「アヤメさん、あの先何かあるのか」
「……教室の中に人がいたわ。たぶんわんちゃんも。音聞こえなかった?」
「いや、すまない。私にはさっぱりだ」
「まったくもう。あなたはサバンナに放り込まれたら一日ともたずに食べられちゃうタイプねぇ」
 大きなお世話と言いたいところだが、地味に悔しい。言い返せずにいると、再びアヤメさんが口を開く。

「でもこれ、使えるかも」
「は? 使える?」
「行くわよドクトルJ」
 と言うが早いか彼女は音もなく飛び出し、これまた音もなく全力で駆け抜けていく。すっかりおいてけぼりを食ってし
まった。とにかくここは彼女に従ってみよう。
 全力でドタドタと廊下を駆ける。すぐに息切れを感じる。年だ。やっとこさたどり着いた教室では、緊張しきった空気で
三者が対峙していた。

 一人はもちろん狭霧アヤメ。もう一人、というか一体はおかしな姿形の犬。頭が3つあるやつだ。そしてもう一人。
まだ青年といった顔立ちの男。しかしその服装は間違いなく以前私が出会ったあのヒーローと同じもの。バフ課の一人だ
と思われるその人物は、ナイフよりやや大きめの刃物(マチェットとかいうやつだ)を手に、アヤメさんとケルベロス、
そして新しくこの場に現れた私へと順番に視線を送っている。

「びっくりッスよ。狭霧アヤメに友達がいたなんて」
「あら、失礼ねぇ。友達じゃなくて相棒よラヴィくん」
「……俺、あんたに自己紹介した記憶はないッスが。気安く呼ばないでほしいッス」
「あらあらラヴィくんはツンキャラだったのねぇ。そんなツンキャラで現在ちょっとピンチのラヴィくんを、今ならこの
私が助けてあげてもよくってよ。条件付きで」

 これが彼女なりの考えなのだろうか。今のところ私にはよく読めないが、任せておくことにした。少し離れた位置で待
機を決め込む。

「ケッ、寝言は寝てから言うもんッスよ。敵の施しなんて受けねッス」
「ツンも時と場所をわきまえたほうがよくってよ。すでに結構傷だらけじゃないの。今私を味方にしておかないと、この
三つ首君の次は私に襲われちゃうかもしれないわよ? 勝てるの?」
「ケッ、そんときゃもう諦めて死ぬだけッス」

 少し投げやり気味に吐き捨てられたその言葉が、不思議と胸にひっかかった。
「若い奴が、そうそう簡単に死ぬなんて言うもんじゃないぞ」
 アヤメさんに任せたつもりが、口を挟んでしまった。アヤメさんに怒られそうな気もするが、こうなってしまった以上
とことん口を挟むしかない。どっちにしろ、今のままでは彼女の思惑通りにいっていないことは事実だろうしな。


「君の協力が必要なんだ。私はどうしても上に行きたい。だが階段が見つからないし、いつキメラに襲われるかわかった
もんじゃない。危険がいっぱいだ。その上君たちバフ課もいる。狭霧アヤメという人物と一緒にいる以上、見つかり次第
敵とみなされる恐れありだ。まわりが敵だらけという状況をなんとかしたい。だからはっきりしておきたい。私はバフ課
と敵対するためにここに来たわけではない。今に限っては彼女も同様だ。私はただ、牧島という男に用があるだけなんだ」

 最後にチラつかせた「牧島」という単語に、青年はしっかり反応してくれた。それは同時に、やはり彼らも牧島を標的
としてここにいることの証明だった。
「アイツの関係者ッスか? あー……うー、わかったッス。正直に言やあそりゃ俺だってまだ死にたかないッス」
「はい、決まりっと」

 そんな声が聞こえるや否や、同時に響いた銃声。1発目の後やや遅れて2発目が聞こえ、間もなく3発目が響く。我に
返って見回すと、青年とアヤメさん、そしてついでに私を威嚇していたケルベロスが、3つの頭から血を流してピクピク
していた。誰の仕業かなど言うのも馬鹿らしいが――

「ふう~。ハンドガン握るの久しぶりすぎて緊張しちゃったわ」
 などとまるで緊張してなさそうな顔と声で言っている危険人物だ。さっきまでナイフを握っていたはずの手には、黒光り
する拳銃がしっかりと握られていた。見事な速撃ちぶりに、青年も呆気に取られている様子だ。
 この青年や死亡したバフ課隊員の名誉のために言っておくが、本来拳銃を使ったからといって簡単に倒せる程度の代物で
はないのがこの改造生物たちだ。今は単にこのケルベロスが3人の人間に注意を向けていたために反応しきれなかっただけ
のことだろう。とは言っても、正確に3発の銃弾で3つの頭を撃ち抜いた彼女が凄腕なことも間違いはない。

「さてと。じゃあラヴィくん。約束は守ってもらうわよ?」
 私の思案など露も知らず、アヤメさんはしてやったりの顔で青年に語りかける。乱入した形になってしまったが、一応
彼女の思惑に沿った結果にはなったようだ。ラヴィ君と呼ばれている青年は少し苦い顔になりつつも、目下の脅威が去った
こともあってか、緊張は緩んでいる。

「約束なんてした覚えはないけど、まあしかたないッスね。んで、俺はどうすりゃいいんスか」
 彼に決定打を与えたのが私だったせいか、彼は私に向かって喋っていた。だが残念ながら私は狭霧アヤメの金魚のフン。
どうするつもりかは彼女の頭の中にしかないのだ。なのになぜか彼女はにこにこと私を眺めるばかりで何も言ってくれない。
しかたないので私はいかにもなんでも了解している雰囲気で彼女に発言を促すことにした。

「ふむ。それについてはアヤメさん。君の口から説明を」
「はいはい。ラヴィくん、隊長さんの居場所、教えてくれないかしら」


 半ば無理矢理に助けて協力させたラヴィ君の情報をもとに、アヤメさんとともに校内の探索に戻る。階段の場所も教え
てもらい、2階へ。ラヴィ君の部隊を率いる隊長はこの階にいるはずらしい。
 実はすでに深手を負っていたらしいラヴィ君はあの場に置いてきた。彼は隊長の居場所や校内の構造のほかにも、いく
つか情報をくれた。

 彼らの標的はやはり牧島勇希であること。改造生物の数は正確には把握できておらず、キリなく湧いてきているように
感じること。見たことがないタイプのものもいること。バフ課側の損害もすでに大きく、隊長から撤収命令が出ていること。

 幸い、この中学校が何か怪しい、というようなことまでは言っていなかった。施設を爆破などされたらたまったものでは
ない。それはさておき彼の情報からは、バフ課の人間とニアミスする危険はほぼないらしいという事実がわかった。

 そこでひとつ疑問なのだが。よし聞いてみよう。
「アヤメさん。どうしてわざわざ隊長に会いに行く必要が?」
 どのみち撤収するのなら、無視した方がいい気がするのだが。その問いに、アヤメさんは意外そうな顔をした。
「もちろん協力してもらうためよ。私ねぇ、わんちゃんの相手は対人戦ほど自信ないのよ。複数でいっぺんに来られたりし
たらテンパっちゃうわ。それにラヴィくん言ってたでしょ、新型っぽいのもいたって」
「いやでもね。君、明らかにバフ課と因縁がありそうなんだが。協力してもらえるのか?」
「そこはほら、さっきみたいにあなたが説き伏せればいいんじゃないかしら?」

 ……私任せか。これから会う男が、さっきの青年のように単純でまっすぐな性格ならいいのだが。
 その男の名前を、私は知っていた。バフ課が来ていると知った時から、一抹の予感はあった。世界というものは人が思っ
ている以上に狭く、予期できる程度の偶然に満ちているのだと実感する。

「ドクトルJ! こっち!」
 思案を打ち破る叫び。同時に体が左に引っ張られる感覚。少し遅れて、視界の右側に光が散った。アヤメさんに引っ張
られて倒れ込んだ先で首をめぐらせると、廊下の窓ガラスが割れ、そこから見るも奇妙な生物が侵入していた。

「ちょっと油断してたわねぇ。外からも来るなんて」
 言うなり彼女は左手に拳銃、右手にナイフの装備ですっくと立ち上がる。ためらいなく拳銃を1発2発と撃ちながら、
少しずつ接近していく。はたと立ち止まり、言った。
「うーん、ちょっと面倒かも。ドクトルJ、先に行ってくれる? この階をうろついてれば、たぶん会えると思うわ」

 軽く死亡フラグが立ってしまっている気もしたが、私がいてはより戦いにくいのかもしれない。人を守りながらの戦い
は難しいものなのだろう。今回のような奇襲がある以上私一人になるのはそれこそ死亡フラグだが、この際しかたない。
「わかった。後で必ずまた会おう」
 アヤメさんが小さく頷くのを見届けて、私は一人、2階の探索に戻った。


 アヤメさんにあの場を任せて2分ほど歩きまわってみたが、死体はごろごろしているものの、生きているキメラにはま
だ出会っていない。アヤメさんがさっさと始末したケルベロスをのぞけば、さっきの見たことのない姿形のものが初だ。
 とここで少しタイムだ。こういうことを考えると、大抵逆のことが起きるのだ。私の安堵を踏みにじるようにここぞと
ばかりにキメラが現れ――

「ああ、やっぱり。現れなくてもいいのに」
 とうとう出てしまった。形はオーソドックスなキメラだが、私一人には十分な脅威。血走った白目に丸見えの牙。だら
だら垂れ流すよだれ。元が犬とは思えないほど肥大した筋肉と、それによって巨大化した体。
 そんなものを前にしても、今の私は逃げるわけにはいかない。後ろにひくわけにはいかない。前進あるのみなのだ。
 それでいて、能力を使って倒すわけにもいかない。使えば私はあっという間に昏倒してしまう。

「うおっと」
 私の心中など察してくれないキメラは問答無用で飛びかかってくる。たびたびキメラと戯れる機会があった私は、その
行動パターンをある程度わかっていた。でなければ私のごときただの中年男に回避できるレベルの素早さではない。
 だが避けるので精いっぱいだ。一応右手にはさっきのラヴィ君から譲ってもらったマチェットを握りしめてはいるが、
こんなもので反撃できるだけの隙は見いだせない。

 だからとにかく避ける。アヤメさんもすぐに来てくれるかもしれない。それまで凌げばいいのだ。
 形ばかりだが、マチェットを牽制するように構える。それを見てか、キメラの姿勢は一層低くなった。さてキメラがこ
の構えになった時、次の攻撃は……

「脚狙いだ」
 キメラの飛びかかり、もとい突進に合わせて、私は思いきってそれを飛び越すように跳躍した。読みはぴったりだ。
 だが詰めは甘かった。キメラの方に振り返った瞬間には、それの醜悪な牙が迫っていた。まともな生物には為し得ない
反転をしたのだろう。無理だ。間に合わない。やられる。死ぬ。…………死ぬ?

「こんのクソが!」
 足掻け。最後まで諦めるな。喉元を食いちぎられるまで、いや食いちぎられてもだ。腕がもげてもだ。腹が破れてもだ。
まだ五体満足なこの状況で、何を諦めると言うんだ。

 私は足掻く。最後まで諦めない。固い廊下に組み伏せられて背中が痛かろうと、のしかかるキメラの刃物のような爪が
体に食い込もうと、鋭利な光を放つ牙に恐れを感じようと。もはや決まりきった勝負の結果に必死に抵抗するこの姿がどれ
だけ無様でも。がむしゃらに右手の得物を振り回す姿がどれほど滑稽でも。報われても、報われなくても。
 世界が神の振ったサイコロ遊びで決められると言うのなら、人は自分が納得できる目が出るまで神にサイコロを振らせ
続ければいいだけだ。

 そうして自分の限界をとうに超えた格闘の果てに、私は”生”の目を掴んだ。
「まったくよぉ。扱い方もわからんような武器なんて持ってる意味ねえだろうが」
 アヤメさんのものではない。男性の声がした。わずかだがはっきりと聞き覚えのある声。それはまさに二重の意味で、待
ち人来るの思いだった。

 などと考えている間に、のしかかっていたキメラの体重から解放される。その額からは、ナイフの柄らしきものが突如と
して生えていた。致命の一撃を受けたキメラはそれでもまだ踏ん張っていたが、グルルと呻いたかと思うと、間もなくがく
んと崩れた。


 よく似た体験を前にもしていたのだった。目の前で息絶えている敗者は異なれど、今私のほうへと悠然と歩んでくるのは、
やはりあの時と同じあの男。
「や、やあ。また会ったね、シルスクさん」
「ああ。それもどうにもおかしな状況でな。あの時なら巻き込まれたってだけで済む話だが、今回ばかりはそうもいかない」

 言葉より早く彼は動いていた。首元に冷気を感じる。前にアヤメさんと会った時にもなった状況の再現だった。
「あんたなんでこんなとこにいる? ここで何してる? まさか中学校の校舎を散歩してたなんて言うんじゃないだろ?」
 刺し貫くような眼光。答えによっては、彼は躊躇いなく右手を一閃するだろう。人を助けはするものの、殺すこともな
んとも思っていない。そんな本質が見えた気がした。

「フン、だんまりか? 答えられないようなことか? 竦んで声が出ないってわけでもないだろうが」
 いや、実際はかなり竦んでいる。彼のこの買いかぶりの理由はよくわからないが、声が出ないとはいかないまでも竦ん
でいる。迫力がありすぎる。それでも、今の雰囲気だとこのまま黙っているのもNGだ。なんとかしなければ。

「きょ、協力を――」
「その人、放してもらえる? シルスクさん」
 振り絞った言葉は言い切れず。私の前方、シルスクの後方から聞こえた声にかき消された。それは当然というか聞き慣れ
た声ではあったが、それがなぜ”シルスクの後方”から発せられたのか。彼の背後に人の気配などまったく感じなかったのに。

 不思議を抱えつつも、とりあえず形勢は逆転していた。相変わらず私の首にはダガーが押し当てられていたが、そのダガー
所持者の首元には、湧き出るように出現した狭霧アヤメのナイフがつきつけられている。それでも、彼は眉ひとつ動かさない。
「狭霧アヤメか。貴様までなんでこんなとこに」
「聞こえなかったかしら。彼を放して」

 数秒、二人はそのままにらみ合った。ややあって、首元の冷感が消える。どうやら解放されたらしい。まったく、アヤメ
様様だ。
「ありがとシルスクさん。さて、とー。ドクトルJ、後はあなたの仕事だから」
 シルスクがナイフを鞘に納めるのを見届けて、アヤメさんもつきつけていたナイフを引いた。そしてそのままどこかの教
室から持ってきたらしい生徒用の椅子に腰かけ、お休みの体勢になる。さっきの襲撃を彼女は一人で切り抜けてきたのだ。
疲れもあるのだろう。無事再会の喜びに浸れない状況なのが寂しいところだ。

「さてそれじゃあ改めて質問に答えてもらおうか」
 少しだけ眼光を緩めて再度の質問。私はさっき彼の部下のラヴィ君にしたものとほぼ同じ説明を彼にした。シルスクはし
ばらくどこか遠くを見つめて唸っていたが、
「牧島との関係は?」
 と、別の質問を投げてきた。答えにくいことではあったが、協力してほしい手前だ。嘘をつくことは好ましくないし、そ
もそも隠すべきことでもなかった。


「牧島は私の妻の弟だ。手っ取り早く言えば義弟だ」
 これにはさすがにシルスクも、そしてアヤメさんも驚いたようだ。揃って目を丸くしている。
 そうなのだ。私自身改めて思ったが、彼は私の義弟なんだな。ずっと嫌われている気がしていたから、そう思ったことも
なかったが。

「事情は……正直わからん。相当に込み入った事情がありそうだしな。それには興味もないし、立ち入る気もない」
 気だるげに髪をわしゃわしゃしながらそう言って、さらに続けた。
「牧島は屋上だったな。そこまでついて行ってやる。あんたの用事が済み次第、今度は俺の用事を済ませる。それでいいな
ら協力するさ」

 彼の言う「用事」。それは、最悪の場合牧島を殺すということもあり得るのだろうか。
「その用事とは、彼を殺害するということか?」
 包み隠さずはっきりと問う。少しだけ眉をひそめつつも、シルスクはすぐに答えをよこした。
「殺すことはしない。あいつは生け捕りにする。まあ正確に言えば、殺せないからそうするしかない、ってだけだが」

 奇妙なことを言っている。「殺せないから生け捕りにするしかない」らしい。どういうことだろうか? あいつは不死能
力でも持っていたか? しかしあいつの夜間能力はワームホール能力だし、昼間能力は知らないが今はもう日が暮れているし……
「ほら、条件は出したぞ。あとはあんた次第なんだからな。どうするんだ?」
 せっつかれた。せっかちな人だ。とりあえず彼の思惑はわかった。出自からして、狭霧アヤメより信頼できそうな気も
する(ごめんねアヤメさん)。

「わかった。それでいい。わがままに付き合わせてすまないな」
「フン。まあ気にするな。たまにはまともに人助けらしいこともやっときたいところだったんだ。まあ……」
 そこでいったん言葉を切って、私の後方に視線を送りながら続けた。そこにいるのが誰か……ま言うまでもないか。

「都合アイツとも協力することになるのは虫酸が走る思いだけどな」
「あらあら、シルスクさんてば失礼ねぇ。以前あれだけ熱く激しくやり合った仲じゃないの」
「熱く、激しく……やり合う……?」
「おいこらゲスい想像やめろ殺すぞ」

 さっきよりさらに怖い顔で怒られてしまった。失禁しそうだ。ゲスいも何も、私はアヤメさんの言葉を復唱しただけなの
だが。まあつまり、アヤメさんとバフ課は相当仲が良くないということでいいだろう。
「ま、まあシルスクさん。今は堪えてくれないか。二人とも私の協力者ということで」
「フン、わかっているさ。ガキじゃないんだ。ああそうだ。ところであんた、名前はなんて言うんだ?」

 そう言えば彼には名前を名乗る機会がなかったのだった。もちろん私には本当に名乗るべき誇るべき名前がある。それ
でもやはり今この時名乗るのは、それとは別の名前なのだ。「強い自分」という役割を演じるための、もうひとつの名前だ。
「『ドクトルJ』。私のことはそう呼んでくれればいい」 


 つづく



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最終更新:2011年08月20日 00:34
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