妹紅たち3人は、レッドキャニオンを抜け、モニュメントバレーまであと25キロの地点まで走ってきていた。
否、3人ではなかった。
妹紅たちを後を付けている馬がいる。
整髪料でガチガチに固めた金髪、とんでもなく度のきつい片眼鏡、そして白いファーが肩に乗っかった軍服。
ジョニィやジャイロよりも大柄で筋肉の付いた男であった。
その男が今、3人を追いかけて抜き去って行こうとしている。
「なあ、ドーピングじゃねぇか? 後ろの野郎」
後ろから追いかけてくる男をちら見して、ジャイロが忌まわしげにつぶやく。
「ゴールまであと25キロ! こんな所で仕掛けるなんてよほどのテクニシャンかドーピング疑惑だぜ……いやそうに決まってる! そうと決めつけてやるッ!」
スピードを出してあの男を引き離したい思いを必死にこらえてジャイロは走り続けている。
「で、なんだっけ? 後ろの野郎の名前」
「『F・V・シュトロハイム』だね。ファーストステージ7位の強豪だ……先に行かせよう」
ジャイロの質問に答えたのは、ジョニィだった。
ジョニィの答えに、「何で?」と言う表情をぶつけるジャイロと妹紅の二人。
「何でって言いたそうな顔してるから答えるけど、馬の脈搏が分速220まで上がってきているんだ。こんな所で馬のトップスピードを維持し続けたらゴールまで持たないッ!」
ジョニィの説明に妹紅はうなづき、スピードを落として男の後ろに回るが、ジャイロは逆にスピードを上げた。
またかよ……心の中で毒づきながらジョニィもスピードを少し落とす。
「止めろジョニィ! 近寄らせるな……知らない奴には近寄らない方が良い……妹紅も奴から離れるんだ!」
そうジャイロが叫ぶので、ジョニィは再び馬のスピードを上げてジャイロに近づき、妹紅はシュトロハイムと同じラインを保ったまま離れていく。
「この左回りのコースは我が愛馬ヴァルキリーの地形だッ! ここで奴を潰すッ!」
ジャイロはスピードを維持したまま、シュトロハイムとの決着をつけようとする。
そうして左カーブへさしかかった時、シュトロハイムの目が光った。
シャキィン、という機械的な音を耳にしたジョニィが振りいた。
ジョニィの心臓が跳ね上がった。
なぜならシュトロハイムの右手から銃身が生えていたからだ。
「ジャイロアイツ銃を出してるぞオォーッ! テロリストだぁぁーッ!」
ジョニィが叫ぶとともにジャイロは鉄球を取り出して投げようとする。
妹紅は炎でシュトロハイムを焼こうとする。
監視の目はない。テロリストならここで殺してしまうのが吉だ。
炎がシュトロハイムの体を焼くが、シュトロハイムは涼しい顔を浮かべて左手に銃を握り、3人を撃つ。
結果、ジャイロと妹紅は被弾。ジョニィも体勢を崩して落馬してしまった。
更に駄目押しと言わんばかりにシュトロハイムはジャイロへと銃弾を浴びせる。
銃弾は全て顔面に命中。間違いなく即死の位置である。
「痛でェ! 痛でエェェーッ!」
しかしジャイロは元気な叫びをあげて痛がる。
不審に思ったシュトロハイムがジャイロの顔を見つめると、ジャイロの顔がわずかに歪んでいることがわかった。
ジャイロはすぐに立ち上がり、顔面にめり込む銃弾を取り、鉄球を両手に握りしめる。
「『鉄球の回転』……その回転で物質を削り取ったり人体の筋肉を支配したりする……自分の皮膚を硬くして弾丸を弾くこともできるのか……」
ギロリとシュトロハイムは眼を見開きジャイロをにらんだ。
「てめぇ……」
銃弾をしこたま浴びせられたジャイロは怒り心頭に来て、鉄球の回転速度を上げる。
それ見たシュトロハイムは冷徹に弾丸をジャイロに浴びせる。
「うぐああぁッ! クソォ! テメェ!」
皮膚が硬化しているので大事には至らなかったものの、鉄球を投げつけるチャンスを逃してしまった。
「捨てろジャイロ・ツェペリ! すぐに『それ』を手から捨てるんだ! そこの女もそうだ……炎なんぞ身体の9割を機械化した私には通用しない」
シュトロハイムは右手の銃をジャイロに向けつつ、左手の銃をジョニィに向ける。
「さもなくばお前の友人とお前の馬を撃つ。何なら俺の方に投げ飛ばしてもいいぜ……俺の銃の方が速いと証明できるのだからな」
シュトロハイムの冷たい声に、妹紅もジョニィも動けないでいた。
ジャイロも、両手を上げたまま動くことができないでいる。
「捨てろだと? この鉄球を本当に捨てちゃってもいいのか?」
どこからどう見ても絶体絶命なこの状況で、ジャイロはシュトロハイムを挑発する。
予想外の行動をとったジャイロに思わず固まるシュトロハイム。
「捨てろってそんなに言うならよ、本当に捨てちゃうぜえぇぇ~」
岩に背を預けて両手を上げるジャイロ。
彼の両手の裏には、無数の石の球が回転していた。
ハッ! となってシュトロハイムは銃を構えるが、もう遅い。
「放した」
ジャイロが鉄球を捨てるとともに、石の散弾がシュトロハイムの顔にめり込んだ。
いかに体の9割を機械化していたとしても、脳まで機械化することはできない。
放たれた石の散弾は確実にシュトロハイムの脳を揺らして彼を昏倒させた。
地面に落ちた鉄球は跳ね上がり、ジャイロの手に収まる。
鉄球をホルスターに戻したジャイロは颯爽と馬に飛び乗った。
不死鳥は失敗を恐れない 22話『腕』
「テロリスト……アンタの祖国って一体……」
一連の出来事を見ていたジョニィは、這いずりながら馬上のジャイロを見つめる。
「なんなんだ!? いくらこのレースの勝利が『国際的な国の勝利の象徴』とはいっても激しすぎる! テロリストのアンタに対する攻撃が……」
ジョニィはものすごい形相でジャイロにくってかかる。
「テロリストが何でアンタをこんなに続けざまに襲ってくるんだ? しかもあんただけを追ってきている! たかがレースじゃないか! この間の『オエコモバ』といい、さっきの『シュトロハイム』といい……テロリストとアンタの国の関係って、何かもっと深い……『因縁のようなもの』を感じる!」
拳を握りしめて迫るジョニィを、ジャイロは冷ややかな目で見つめた。
「俺は『国王のしもべ』。俺がスティール・ボール・ランで勝利すれば国王からの恩赦が出る! ただそれだけだ……俺は1位のまま大陸を横断する! 何かヤバイとおたくらが思うなら俺と別行動するといいぜ」
それだけを言い残してジャイロは馬の進路をゴールへと向ける。
「…………」
ジャイロのいう通り、彼と一緒にいるのは危険かもしれない。だが、彼の『回転の秘密』を知るために自分はレースに参加したのだ。
今さらジャイロと別行動なんてできる訳がない。
ジョニィは落ちた水筒を拾った。握りしめた拳から血が流れ出た。
見てみると、親指の先から手首の所までざっくりと割れていて痛々しく見える。
「怪我したか……馬から落ちた時に……でも痛くはない……」
ボタボタと血を流す自分の手を不思議そうに見つめるジョニィ。
次の瞬間。手から大量の血が流れ出て、手の中から『手』がずるりと抜け出してきた。
「な!」
ブジュブジュと大量の血を出しながら自分の手の中から、もう一つの『手』が抜け出してくる。
ミイラのような質感をした『手』に、穴が開いた。
自分の手に何が起きているのを呆然と見つめていたジョニィは、やっと事の重大さが理解できた。
「な、なんだあああ!」
血の流れる手を抱えて絶叫するジョニィ。
「どうした! ジョニィ!」
ジョニィの異変を察した妹紅はジョニィに駆け寄った。
「僕の左手が! 何なんだこれはッ!」
左手を掴み、必死に形相で左手を見つめるジョニィ。
だが、左手には何の異変も無かった。
切り傷は最初からなかったかのような肌。
さっきまでの流血なんてなかったと言わんばかりのきれいな服。
「何だよ。なにも無いじゃないか」
普通の左手を抱えるジョニィを一瞥すると、妹紅は馬に乗る。
しかし当のジョニィの左腕には再び変化があらわれた。
グニグニと手の中を固い物が蠢いている。
「うわああああっ! こ、これは……」
蠢き続ける左手を見て叫ぶジョニィ。
「おいおい、地面とお話ししてねーでさっさと馬に乗ったらどうだ?」
慌てのたうつジョニィを馬上からジャイロは見下ろす。
「待ってくれよ! 何かがいるんだッ! 今、ぼ……僕の手の中に何かが入っていったッ! 一回左手から出てきて、そしてまた入っていった!」
そう叫んでジョニィは蠢かなくなった自分の左手をグイと押してみる。
「どこか怪我したのか?」
ジョニィの様子を不審に思ったジャイロは、ジョニィをまじまじと見つめる。
「いや、私が見たときは目立つ怪我はなかった」
妹紅は冷静な表情で焦燥するジョニィを見る。
ジョニィは滝のような汗を流し、自分の左手を見つめる。
シュルシュルと静かな風切り音を立てて回転するジョニィの爪。
それを見てジョニィはこの回転する爪が自分の『スタンド能力』だということを再確認した。
自分の意志で、自分の爪を回転させることは自分自身の能力だということを。
だが、さっき出てきた『もう一つの左手』はそういうものではなく、ジョニィに異質な感覚を伝えてきた。
何かがいる。
ジョニィの『左手』の中に、彼のものではない『左手』が、ずっと中にいる。
「い、一体いつから……」
ジョニィは自分の左手から目を離すことができなかった。
がたがた、と一定のリズムで揺れる列車の中で、スティール氏は一枚の写真を見つめていた。
暗闇の中に、流砂の谷と細長い岩が立っている写真。
悪魔の手のひらの写真だった。
「その写真は気球第3号から撮影された写真です。参加選手たちはセカンドステージで主に2つのルートに分かれて走行しています。選手約800名が砂漠越えルートを選択しましたが、その写真の場所で523名がリタイアしました。主な原因は土地の流砂による落馬転倒と見られ、死者数も66名の大惨事です」
スティール氏に写真を渡した、秘書と思しき男がセカンドステージの状況を淡々と告げる。
「66名……」
窓の外の、流れる風景の眺めながらスティール氏はぽつりとつぶやいた。
「その場所は『悪魔の手のひら』と地元のアパッチ族は呼んでいます。場所と言っても地面が流砂のように動いていますので彼らにも『悪魔の手のひら』がどこに現れるのか予測できないとのことです。今回のこの地形も6、7時間余りで消えてしまいました。
淡々と、無表情のまま告げる秘書。
「地質学者達は古代の隕石落下に関係ある土地だと推測していますが、どんな広さで、どういう地質学的理由で土地が動くのか? 誰も説明できていません。アパッチ属は土地に近づく者は不幸になると信じ、こういっています」
『悪魔の手のひらが人間を選ぶ』。その言葉を耳に入れながら、スティール氏は列車の外で並走する選手たちを眺める。
白い煙を吐き、ガシュガシュと車輪を回転させ、列車は次の場所へと突き進んでゆく。
部屋の中、ワインを冷やす氷が溶けて、カランと音を立てる。
「この『土地』を一位で通過したのはジャイロ・ツェペリか?」
まるで何かを警戒するかの如く外の景色を見ながら、秘書に土地の通過者について聞く。
「はい。1位はジャイロ・ツェペリ。同行者はジョニィ・ジョースターとモコウ・フジワラノです。ゴールのモニュメント・バレーまであと20キロの地点付近だと思われます」
秘書の答えに、スティール氏は顔を険しくする。
「ジャイロ・ツェペリが1位で『悪魔の手のひら』を通過した後、彼が『何か』を見つけた様子は確認できなかったか?」
続けてスティール氏が質問すると、しばらくの間秘書は黙り込んだ。
列車が線路の上を通る、規則的な音が部屋の中をこだまする。
「『何か』と言いますと……?」
秘書が質問を質問で返すと、彼は列車の反対側に移り、反対側の景色に浮かんでいる気球を見る。
そして手で口元を覆い隠し、
「例えば『死体』とかだ……ジャイロ・ツェペリはこの『土地』で人間の『死体』を見つけている可能性がある」
死体。その言葉に秘書は耳を疑った。
「す、すみません……今の事をもう一度おっしゃっていただけますか?」
戸惑ってもう一度スティール氏に確認を取ろうとする秘書。
「気球をヤツに追いつかせて確認するのだ。だが『死体』を見つけたといっても、全身ではなく『手』や『脚』と言った一部だけかもしれない」
スティール氏の言葉の意味が解らず、呆然とする秘書。
彼を置いてけぼりにしてスティール氏は続けて口を開く。
「予想では『死体』は『ミイラ化』している。ジャイロ・ツェペリがそれを持ってレースをしているかどうかを上空から調べるのだ……鞄の中とか馬のどこかに隠しているのかもしれない……」
死体やミイラと言った単語に、秘書の頭はついていけなくなってきた。
「と、突然におっしゃられることに驚きました。『死体』とは……スティール様、貴方はこの大陸横断レースを成功させることの他に、何かこのレースに別の目的を持っているのですか? それに『死体』とは……誰の『死体』ですか?」
汗を流してスティール氏に問い詰める秘書。
スティール氏は振り向いて秘書をにらみつけた。
「はっきりと宣言する! 我々は『スティール・ボール・ラン』レースを何としても成功させる! それだけが目的だ! だが今は調査をすればいいんだ……ただジャイロの調査をな」
その言葉を聞いた秘書は一礼をして、部屋から出てゆく。
バタン、とドアが閉まる音がして、スティール氏はため息をついてうつむいた。
彼の後ろにある、カーテンで仕切られた空間。
カーテンのわずかな隙間に、マッチの火が灯された。
マッチの火がコーンパイプを持った人影を映し出す。
「今の会話、ひとつ訂正しておこう。スティール君」
人影は低い声をだし、煙を吐く。
カーテンが開き、3人の男が姿を現す。
部屋の一番奥、髭をたくわえた男は外を見て警戒し、
一番手前の男がカーテンの陰から辺りを見渡して警戒する。
そして中央のでっぷりと太った男が、煙を吐いた。
「かもしれないのではなく、ジャイロ・ツェペリは見つけたのだよ『悪魔の手のひら』をな……」
男はコーンパイプを咥え、深く煙を吸い込む。
「間違いなく100%! ジャイロ・ツェペリは『死体』を見つけている!」
絶対の自信を持って断言する男。
「我々が送り込んだオエコモバから、そう連絡が中継地点に残されていた。オエコモバはそれを突き止めていたのだ。そしてジャイロから『死体』を奪おうと追跡したが失敗し倒されてしまった」
男の言葉にスティール氏はしばし考えてから、口を開く。
「ジャイロ・ツェペリがこのレースに差㏍なした目的は、我々と同じようにその死体を見つけるためだと?」
「それは今のところ分からない。レース中彼は偶然『死体』を見つけたのかもしれないし、あるいは『死体』を見つけたこと自体気付いていないのかもしれない」
男はコーンパイプを手元で揺らした。
「それがあの『死体』の性質だし『悪魔の手のひら』の性質だ。『死体の方が人を選ぶ』」
パイプから立ち上る煙。
男はその煙をため息で拡散させた。
「問題はジャイロを始末した後、『死体』がどこかへ埋もれたり行方知らずになってしまわないことだ。そのためには『死体』が現在どのように隠され、どうやって運ばれているのか調べなくてはならない!」
始末。
その言葉にスティール氏の肌はあわ立った。
「ちょっと待ってくれ……ジャイロ・ツェペリが何者かしらんが……そして私はこのレースであなたがたに全面的に協力すると約束はしたが……」
汗を滝のように流し、しどろもどろになるスティール氏。
「始末だと?私のレース上で『殺人』が行われるなんて聞いていないぞッ! ジャイロ・ツェペリを始末するといったのか! 『死体』を探すだけじゃあないというのかッ!話が違ってきているッ!」
怒りをあらわにしてスティール氏は反論するが、男は涼しい顔を浮かべてコーンパイプを机の上に置く。
「いいかねスティール君! あの『死体』を手に入れることが『正義』だ!そのためにはどんな手段でもとる!」
剣呑な空気が辺りを漂い、男が険しい表情を浮かべる。
「歴史上いかなる権力よりもどんな財宝よりも人類が待ち望んでいた『死体』だッ! 何物にも優先するッ! それは最終的に我々が必ず手に入れるッ!」
大きな声を上げて『死体』の重要性を説く男。
彼が右手を上げると、側近の一人がトランクを取り出し、それを開く。
トランクの中身はアメリカ全土の地図。
地図には9つのしるしがつけてある。
それを見て、スティール氏は絶句した。
しるしの場所が、『スティール・ボール・ラン』レースのコースの上にあるのだから。
「『スティール・ボール・ラン』レースを成功させたまえ……スティール君!この『地図』の、このルートを通過する『レース』を! 人間が大勢集まり! この『ルート』を通過すれば! その中の『能力のある誰か』がこの大地に散らばる『死体』を見つけ出し、集め出してくれるッ! それだけははっきりしている!」
男の言葉は命令だった。
言葉の持つ重圧が、スティール氏の両肩に重くのしかかる。
男はコーンパイプを咥えて、煙を吐き出した。
「そして『殺人』だと!? 言葉に気を付けろ! スティーブン・スティール! この『レース』はこの私がいなければ開催すらできなかったものだからな」
男の醸し出す並々ならぬ威圧感。
それを前にしてスティール氏は汗を流し、歯を軋ませる。
表情が徐々に神妙な顔つきに変化していく。
「わかりました……我が合衆国……大統領……」
絞り出すように了解の言葉を吐き出して、スティール氏は一礼した。
重い沈黙が部屋を支配した。
まるで時が止まったかのようにも感じるが、一定間隔で訪れる列車の揺れが時が止まっていないことを知らせる。
沈黙を破ったのは二つのノックだった。
「失礼します皆様。コーヒーが入りました」
コーヒーが入ったポットと人数分のティーカップが乗ったトレイを持って、スティール夫人が部屋に入ってくる。
と、側近の一人が素早く動いてスティール夫人に迫った。
「入るなッ! まだ入室許可は出ていないッ!」
男が急に迫ってきたもので、スティール夫人はトレイを手から放してしまう。
そして、熱いコーヒーが入ったポットが大統領の元へと飛ぶ。
ポットは机に落ちて、彼の手元にコーヒーを浴びせた。
「大統領! 申し訳ございません! これは私の妻です……何も知らないものでまことに申し訳ござ……」
急いで謝罪しようとするスティール氏。
しかしその途中で信じられない物を見る。
無いのだ。机の上にぶちまけられたコーヒーが無い。
大統領の服も汚れてはいない。
ポットも無い。
「……気をつけたまえ。いや、私の事ではなく君の若く美しい奥方の事だよ」
悪戯が成功した子どもの表情を浮かべ、大統領はスティール夫人の頭上を指差す。
「頭の上だよ」
大統領に指摘されて、スティール夫妻が上を見上げると、ぽろっとコーヒーのポットが落ちてきて、スティール夫人の手に吸い込まれた。
ポットの中にはなにも無い。
まじまじと手に持つポットを見つめるスティール夫人。
しばらくすると、ごとごとと上から何かの音が聞こえてきた。
「私の『部下』が行うことは……スティール君。『作戦』というのだよ。『殺人』ではない……私が下す『命令』のことはな。
そういって大統領は外の景色を眺めはじめた。
スティール夫人は天井からした音の原因を探して、辺りをきょろきょろと見回す。
そして彼女は見つけた。
窓から見える列車の影。
列車の影に映る、『列車の上に乗っている誰か』の影を。
←To be continued...
否、3人ではなかった。
妹紅たちを後を付けている馬がいる。
整髪料でガチガチに固めた金髪、とんでもなく度のきつい片眼鏡、そして白いファーが肩に乗っかった軍服。
ジョニィやジャイロよりも大柄で筋肉の付いた男であった。
その男が今、3人を追いかけて抜き去って行こうとしている。
「なあ、ドーピングじゃねぇか? 後ろの野郎」
後ろから追いかけてくる男をちら見して、ジャイロが忌まわしげにつぶやく。
「ゴールまであと25キロ! こんな所で仕掛けるなんてよほどのテクニシャンかドーピング疑惑だぜ……いやそうに決まってる! そうと決めつけてやるッ!」
スピードを出してあの男を引き離したい思いを必死にこらえてジャイロは走り続けている。
「で、なんだっけ? 後ろの野郎の名前」
「『F・V・シュトロハイム』だね。ファーストステージ7位の強豪だ……先に行かせよう」
ジャイロの質問に答えたのは、ジョニィだった。
ジョニィの答えに、「何で?」と言う表情をぶつけるジャイロと妹紅の二人。
「何でって言いたそうな顔してるから答えるけど、馬の脈搏が分速220まで上がってきているんだ。こんな所で馬のトップスピードを維持し続けたらゴールまで持たないッ!」
ジョニィの説明に妹紅はうなづき、スピードを落として男の後ろに回るが、ジャイロは逆にスピードを上げた。
またかよ……心の中で毒づきながらジョニィもスピードを少し落とす。
「止めろジョニィ! 近寄らせるな……知らない奴には近寄らない方が良い……妹紅も奴から離れるんだ!」
そうジャイロが叫ぶので、ジョニィは再び馬のスピードを上げてジャイロに近づき、妹紅はシュトロハイムと同じラインを保ったまま離れていく。
「この左回りのコースは我が愛馬ヴァルキリーの地形だッ! ここで奴を潰すッ!」
ジャイロはスピードを維持したまま、シュトロハイムとの決着をつけようとする。
そうして左カーブへさしかかった時、シュトロハイムの目が光った。
シャキィン、という機械的な音を耳にしたジョニィが振りいた。
ジョニィの心臓が跳ね上がった。
なぜならシュトロハイムの右手から銃身が生えていたからだ。
「ジャイロアイツ銃を出してるぞオォーッ! テロリストだぁぁーッ!」
ジョニィが叫ぶとともにジャイロは鉄球を取り出して投げようとする。
妹紅は炎でシュトロハイムを焼こうとする。
監視の目はない。テロリストならここで殺してしまうのが吉だ。
炎がシュトロハイムの体を焼くが、シュトロハイムは涼しい顔を浮かべて左手に銃を握り、3人を撃つ。
結果、ジャイロと妹紅は被弾。ジョニィも体勢を崩して落馬してしまった。
更に駄目押しと言わんばかりにシュトロハイムはジャイロへと銃弾を浴びせる。
銃弾は全て顔面に命中。間違いなく即死の位置である。
「痛でェ! 痛でエェェーッ!」
しかしジャイロは元気な叫びをあげて痛がる。
不審に思ったシュトロハイムがジャイロの顔を見つめると、ジャイロの顔がわずかに歪んでいることがわかった。
ジャイロはすぐに立ち上がり、顔面にめり込む銃弾を取り、鉄球を両手に握りしめる。
「『鉄球の回転』……その回転で物質を削り取ったり人体の筋肉を支配したりする……自分の皮膚を硬くして弾丸を弾くこともできるのか……」
ギロリとシュトロハイムは眼を見開きジャイロをにらんだ。
「てめぇ……」
銃弾をしこたま浴びせられたジャイロは怒り心頭に来て、鉄球の回転速度を上げる。
それ見たシュトロハイムは冷徹に弾丸をジャイロに浴びせる。
「うぐああぁッ! クソォ! テメェ!」
皮膚が硬化しているので大事には至らなかったものの、鉄球を投げつけるチャンスを逃してしまった。
「捨てろジャイロ・ツェペリ! すぐに『それ』を手から捨てるんだ! そこの女もそうだ……炎なんぞ身体の9割を機械化した私には通用しない」
シュトロハイムは右手の銃をジャイロに向けつつ、左手の銃をジョニィに向ける。
「さもなくばお前の友人とお前の馬を撃つ。何なら俺の方に投げ飛ばしてもいいぜ……俺の銃の方が速いと証明できるのだからな」
シュトロハイムの冷たい声に、妹紅もジョニィも動けないでいた。
ジャイロも、両手を上げたまま動くことができないでいる。
「捨てろだと? この鉄球を本当に捨てちゃってもいいのか?」
どこからどう見ても絶体絶命なこの状況で、ジャイロはシュトロハイムを挑発する。
予想外の行動をとったジャイロに思わず固まるシュトロハイム。
「捨てろってそんなに言うならよ、本当に捨てちゃうぜえぇぇ~」
岩に背を預けて両手を上げるジャイロ。
彼の両手の裏には、無数の石の球が回転していた。
ハッ! となってシュトロハイムは銃を構えるが、もう遅い。
「放した」
ジャイロが鉄球を捨てるとともに、石の散弾がシュトロハイムの顔にめり込んだ。
いかに体の9割を機械化していたとしても、脳まで機械化することはできない。
放たれた石の散弾は確実にシュトロハイムの脳を揺らして彼を昏倒させた。
地面に落ちた鉄球は跳ね上がり、ジャイロの手に収まる。
鉄球をホルスターに戻したジャイロは颯爽と馬に飛び乗った。
不死鳥は失敗を恐れない 22話『腕』
「テロリスト……アンタの祖国って一体……」
一連の出来事を見ていたジョニィは、這いずりながら馬上のジャイロを見つめる。
「なんなんだ!? いくらこのレースの勝利が『国際的な国の勝利の象徴』とはいっても激しすぎる! テロリストのアンタに対する攻撃が……」
ジョニィはものすごい形相でジャイロにくってかかる。
「テロリストが何でアンタをこんなに続けざまに襲ってくるんだ? しかもあんただけを追ってきている! たかがレースじゃないか! この間の『オエコモバ』といい、さっきの『シュトロハイム』といい……テロリストとアンタの国の関係って、何かもっと深い……『因縁のようなもの』を感じる!」
拳を握りしめて迫るジョニィを、ジャイロは冷ややかな目で見つめた。
「俺は『国王のしもべ』。俺がスティール・ボール・ランで勝利すれば国王からの恩赦が出る! ただそれだけだ……俺は1位のまま大陸を横断する! 何かヤバイとおたくらが思うなら俺と別行動するといいぜ」
それだけを言い残してジャイロは馬の進路をゴールへと向ける。
「…………」
ジャイロのいう通り、彼と一緒にいるのは危険かもしれない。だが、彼の『回転の秘密』を知るために自分はレースに参加したのだ。
今さらジャイロと別行動なんてできる訳がない。
ジョニィは落ちた水筒を拾った。握りしめた拳から血が流れ出た。
見てみると、親指の先から手首の所までざっくりと割れていて痛々しく見える。
「怪我したか……馬から落ちた時に……でも痛くはない……」
ボタボタと血を流す自分の手を不思議そうに見つめるジョニィ。
次の瞬間。手から大量の血が流れ出て、手の中から『手』がずるりと抜け出してきた。
「な!」
ブジュブジュと大量の血を出しながら自分の手の中から、もう一つの『手』が抜け出してくる。
ミイラのような質感をした『手』に、穴が開いた。
自分の手に何が起きているのを呆然と見つめていたジョニィは、やっと事の重大さが理解できた。
「な、なんだあああ!」
血の流れる手を抱えて絶叫するジョニィ。
「どうした! ジョニィ!」
ジョニィの異変を察した妹紅はジョニィに駆け寄った。
「僕の左手が! 何なんだこれはッ!」
左手を掴み、必死に形相で左手を見つめるジョニィ。
だが、左手には何の異変も無かった。
切り傷は最初からなかったかのような肌。
さっきまでの流血なんてなかったと言わんばかりのきれいな服。
「何だよ。なにも無いじゃないか」
普通の左手を抱えるジョニィを一瞥すると、妹紅は馬に乗る。
しかし当のジョニィの左腕には再び変化があらわれた。
グニグニと手の中を固い物が蠢いている。
「うわああああっ! こ、これは……」
蠢き続ける左手を見て叫ぶジョニィ。
「おいおい、地面とお話ししてねーでさっさと馬に乗ったらどうだ?」
慌てのたうつジョニィを馬上からジャイロは見下ろす。
「待ってくれよ! 何かがいるんだッ! 今、ぼ……僕の手の中に何かが入っていったッ! 一回左手から出てきて、そしてまた入っていった!」
そう叫んでジョニィは蠢かなくなった自分の左手をグイと押してみる。
「どこか怪我したのか?」
ジョニィの様子を不審に思ったジャイロは、ジョニィをまじまじと見つめる。
「いや、私が見たときは目立つ怪我はなかった」
妹紅は冷静な表情で焦燥するジョニィを見る。
ジョニィは滝のような汗を流し、自分の左手を見つめる。
シュルシュルと静かな風切り音を立てて回転するジョニィの爪。
それを見てジョニィはこの回転する爪が自分の『スタンド能力』だということを再確認した。
自分の意志で、自分の爪を回転させることは自分自身の能力だということを。
だが、さっき出てきた『もう一つの左手』はそういうものではなく、ジョニィに異質な感覚を伝えてきた。
何かがいる。
ジョニィの『左手』の中に、彼のものではない『左手』が、ずっと中にいる。
「い、一体いつから……」
ジョニィは自分の左手から目を離すことができなかった。
がたがた、と一定のリズムで揺れる列車の中で、スティール氏は一枚の写真を見つめていた。
暗闇の中に、流砂の谷と細長い岩が立っている写真。
悪魔の手のひらの写真だった。
「その写真は気球第3号から撮影された写真です。参加選手たちはセカンドステージで主に2つのルートに分かれて走行しています。選手約800名が砂漠越えルートを選択しましたが、その写真の場所で523名がリタイアしました。主な原因は土地の流砂による落馬転倒と見られ、死者数も66名の大惨事です」
スティール氏に写真を渡した、秘書と思しき男がセカンドステージの状況を淡々と告げる。
「66名……」
窓の外の、流れる風景の眺めながらスティール氏はぽつりとつぶやいた。
「その場所は『悪魔の手のひら』と地元のアパッチ族は呼んでいます。場所と言っても地面が流砂のように動いていますので彼らにも『悪魔の手のひら』がどこに現れるのか予測できないとのことです。今回のこの地形も6、7時間余りで消えてしまいました。
淡々と、無表情のまま告げる秘書。
「地質学者達は古代の隕石落下に関係ある土地だと推測していますが、どんな広さで、どういう地質学的理由で土地が動くのか? 誰も説明できていません。アパッチ属は土地に近づく者は不幸になると信じ、こういっています」
『悪魔の手のひらが人間を選ぶ』。その言葉を耳に入れながら、スティール氏は列車の外で並走する選手たちを眺める。
白い煙を吐き、ガシュガシュと車輪を回転させ、列車は次の場所へと突き進んでゆく。
部屋の中、ワインを冷やす氷が溶けて、カランと音を立てる。
「この『土地』を一位で通過したのはジャイロ・ツェペリか?」
まるで何かを警戒するかの如く外の景色を見ながら、秘書に土地の通過者について聞く。
「はい。1位はジャイロ・ツェペリ。同行者はジョニィ・ジョースターとモコウ・フジワラノです。ゴールのモニュメント・バレーまであと20キロの地点付近だと思われます」
秘書の答えに、スティール氏は顔を険しくする。
「ジャイロ・ツェペリが1位で『悪魔の手のひら』を通過した後、彼が『何か』を見つけた様子は確認できなかったか?」
続けてスティール氏が質問すると、しばらくの間秘書は黙り込んだ。
列車が線路の上を通る、規則的な音が部屋の中をこだまする。
「『何か』と言いますと……?」
秘書が質問を質問で返すと、彼は列車の反対側に移り、反対側の景色に浮かんでいる気球を見る。
そして手で口元を覆い隠し、
「例えば『死体』とかだ……ジャイロ・ツェペリはこの『土地』で人間の『死体』を見つけている可能性がある」
死体。その言葉に秘書は耳を疑った。
「す、すみません……今の事をもう一度おっしゃっていただけますか?」
戸惑ってもう一度スティール氏に確認を取ろうとする秘書。
「気球をヤツに追いつかせて確認するのだ。だが『死体』を見つけたといっても、全身ではなく『手』や『脚』と言った一部だけかもしれない」
スティール氏の言葉の意味が解らず、呆然とする秘書。
彼を置いてけぼりにしてスティール氏は続けて口を開く。
「予想では『死体』は『ミイラ化』している。ジャイロ・ツェペリがそれを持ってレースをしているかどうかを上空から調べるのだ……鞄の中とか馬のどこかに隠しているのかもしれない……」
死体やミイラと言った単語に、秘書の頭はついていけなくなってきた。
「と、突然におっしゃられることに驚きました。『死体』とは……スティール様、貴方はこの大陸横断レースを成功させることの他に、何かこのレースに別の目的を持っているのですか? それに『死体』とは……誰の『死体』ですか?」
汗を流してスティール氏に問い詰める秘書。
スティール氏は振り向いて秘書をにらみつけた。
「はっきりと宣言する! 我々は『スティール・ボール・ラン』レースを何としても成功させる! それだけが目的だ! だが今は調査をすればいいんだ……ただジャイロの調査をな」
その言葉を聞いた秘書は一礼をして、部屋から出てゆく。
バタン、とドアが閉まる音がして、スティール氏はため息をついてうつむいた。
彼の後ろにある、カーテンで仕切られた空間。
カーテンのわずかな隙間に、マッチの火が灯された。
マッチの火がコーンパイプを持った人影を映し出す。
「今の会話、ひとつ訂正しておこう。スティール君」
人影は低い声をだし、煙を吐く。
カーテンが開き、3人の男が姿を現す。
部屋の一番奥、髭をたくわえた男は外を見て警戒し、
一番手前の男がカーテンの陰から辺りを見渡して警戒する。
そして中央のでっぷりと太った男が、煙を吐いた。
「かもしれないのではなく、ジャイロ・ツェペリは見つけたのだよ『悪魔の手のひら』をな……」
男はコーンパイプを咥え、深く煙を吸い込む。
「間違いなく100%! ジャイロ・ツェペリは『死体』を見つけている!」
絶対の自信を持って断言する男。
「我々が送り込んだオエコモバから、そう連絡が中継地点に残されていた。オエコモバはそれを突き止めていたのだ。そしてジャイロから『死体』を奪おうと追跡したが失敗し倒されてしまった」
男の言葉にスティール氏はしばし考えてから、口を開く。
「ジャイロ・ツェペリがこのレースに差㏍なした目的は、我々と同じようにその死体を見つけるためだと?」
「それは今のところ分からない。レース中彼は偶然『死体』を見つけたのかもしれないし、あるいは『死体』を見つけたこと自体気付いていないのかもしれない」
男はコーンパイプを手元で揺らした。
「それがあの『死体』の性質だし『悪魔の手のひら』の性質だ。『死体の方が人を選ぶ』」
パイプから立ち上る煙。
男はその煙をため息で拡散させた。
「問題はジャイロを始末した後、『死体』がどこかへ埋もれたり行方知らずになってしまわないことだ。そのためには『死体』が現在どのように隠され、どうやって運ばれているのか調べなくてはならない!」
始末。
その言葉にスティール氏の肌はあわ立った。
「ちょっと待ってくれ……ジャイロ・ツェペリが何者かしらんが……そして私はこのレースであなたがたに全面的に協力すると約束はしたが……」
汗を滝のように流し、しどろもどろになるスティール氏。
「始末だと?私のレース上で『殺人』が行われるなんて聞いていないぞッ! ジャイロ・ツェペリを始末するといったのか! 『死体』を探すだけじゃあないというのかッ!話が違ってきているッ!」
怒りをあらわにしてスティール氏は反論するが、男は涼しい顔を浮かべてコーンパイプを机の上に置く。
「いいかねスティール君! あの『死体』を手に入れることが『正義』だ!そのためにはどんな手段でもとる!」
剣呑な空気が辺りを漂い、男が険しい表情を浮かべる。
「歴史上いかなる権力よりもどんな財宝よりも人類が待ち望んでいた『死体』だッ! 何物にも優先するッ! それは最終的に我々が必ず手に入れるッ!」
大きな声を上げて『死体』の重要性を説く男。
彼が右手を上げると、側近の一人がトランクを取り出し、それを開く。
トランクの中身はアメリカ全土の地図。
地図には9つのしるしがつけてある。
それを見て、スティール氏は絶句した。
しるしの場所が、『スティール・ボール・ラン』レースのコースの上にあるのだから。
「『スティール・ボール・ラン』レースを成功させたまえ……スティール君!この『地図』の、このルートを通過する『レース』を! 人間が大勢集まり! この『ルート』を通過すれば! その中の『能力のある誰か』がこの大地に散らばる『死体』を見つけ出し、集め出してくれるッ! それだけははっきりしている!」
男の言葉は命令だった。
言葉の持つ重圧が、スティール氏の両肩に重くのしかかる。
男はコーンパイプを咥えて、煙を吐き出した。
「そして『殺人』だと!? 言葉に気を付けろ! スティーブン・スティール! この『レース』はこの私がいなければ開催すらできなかったものだからな」
男の醸し出す並々ならぬ威圧感。
それを前にしてスティール氏は汗を流し、歯を軋ませる。
表情が徐々に神妙な顔つきに変化していく。
「わかりました……我が合衆国……大統領……」
絞り出すように了解の言葉を吐き出して、スティール氏は一礼した。
重い沈黙が部屋を支配した。
まるで時が止まったかのようにも感じるが、一定間隔で訪れる列車の揺れが時が止まっていないことを知らせる。
沈黙を破ったのは二つのノックだった。
「失礼します皆様。コーヒーが入りました」
コーヒーが入ったポットと人数分のティーカップが乗ったトレイを持って、スティール夫人が部屋に入ってくる。
と、側近の一人が素早く動いてスティール夫人に迫った。
「入るなッ! まだ入室許可は出ていないッ!」
男が急に迫ってきたもので、スティール夫人はトレイを手から放してしまう。
そして、熱いコーヒーが入ったポットが大統領の元へと飛ぶ。
ポットは机に落ちて、彼の手元にコーヒーを浴びせた。
「大統領! 申し訳ございません! これは私の妻です……何も知らないものでまことに申し訳ござ……」
急いで謝罪しようとするスティール氏。
しかしその途中で信じられない物を見る。
無いのだ。机の上にぶちまけられたコーヒーが無い。
大統領の服も汚れてはいない。
ポットも無い。
「……気をつけたまえ。いや、私の事ではなく君の若く美しい奥方の事だよ」
悪戯が成功した子どもの表情を浮かべ、大統領はスティール夫人の頭上を指差す。
「頭の上だよ」
大統領に指摘されて、スティール夫妻が上を見上げると、ぽろっとコーヒーのポットが落ちてきて、スティール夫人の手に吸い込まれた。
ポットの中にはなにも無い。
まじまじと手に持つポットを見つめるスティール夫人。
しばらくすると、ごとごとと上から何かの音が聞こえてきた。
「私の『部下』が行うことは……スティール君。『作戦』というのだよ。『殺人』ではない……私が下す『命令』のことはな。
そういって大統領は外の景色を眺めはじめた。
スティール夫人は天井からした音の原因を探して、辺りをきょろきょろと見回す。
そして彼女は見つけた。
窓から見える列車の影。
列車の影に映る、『列車の上に乗っている誰か』の影を。
←To be continued...