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深紅の協奏曲 -嘘と真の三重奏 3―

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匿名ユーザー

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「お騒がせしました」
「まったくだよ」

 守矢神社本殿の前で、早苗は深々と頭を下げて謝罪する。
 その姿を見せられては、さすがにドッピオも何も言えない。

「あんたは普段からまじめ口調のいい子ちゃんみたいなのにすぐ暴走するんだから」
「返す言葉もありません……」
「……はは、は」

 気落ちした早苗に対して気の利いた言葉も出てこない。
 もし自身が普段と変わらない状況であるなら慰めの言葉も浮かんだのであろうが。

「……して、今日はどういったご用件で? あ、アリスさんは今朝帰られましたよ」
「いや、アリスに用はないけど」
「ん、何であの人形遣いが出るの?」
「昨日は霊夢さんの所にアリスさんを訪ねてきましたので。神社あるところにアリスさんがいる、と言うわけではないことを」
「アリスには用はないって言ってるだろ」
「あ、はい」

 それに早苗は特に気づかない。気づく素振りもないその姿をみると、今の自分の気持ちを共有させようとする心が引ける。

「私がこいつをここに連れてきたのは、早苗の話を聞かせてやりたいからだよ」

 その空気を切ったのははたてだった。
 けしてからかう空気はなく、実直に彼の為に動いていた。

「私の話……ですか? えぇ、良いですけど、何を聞きたいんです? 神奈子様の伝説?」
「早苗がここに来た時の話と、それからどれくらい経っているか。その前後を、ドッピオに聞かせてほしい」

 はたてが強く、はっきりとした口調で言い切る。
 その言葉を聞くと、早苗は明らかに体を強張らせ、目を丸くしてこちらを見やる。

「……どういう、ことです?」
「僕の一番新しい記憶では、僕が現実に……外の世界に居た頃は2001年だったはずだ。それは絶対に間違いない」

 はたてに続き、ドッピオを同じく語気を強めて話す。その言葉には、現実を強く認識し乗り越えようとする意志がある。

「早苗、君は元は外の世界の人間なんだろう? 誰かから、それこそはたてからしっかり聞いたわけじゃあないが、流れからそれは推測できる。
 ならば知っているんだろう。『今』が何年なのか。どれほどの時間が経っているのか、その答えを!」

 だんだんと語調が強くなる。息を吐ききってもまだ出るかのような感覚。
 言い切ったころには浅く、肩で息をしているその状態。
 事実を認めるのは辛くとも、それは確かにしなくてはならないという気持ちが、彼の心拍数を速めている。

「……そんなこと、あるわけないじゃないですか」

 早苗は、そんな彼に目を細め異物を見る様な視線を向ける。
 小さく漏れ出たその返答は、明らかに彼を異常と思った答えだった。

「……何だって?」
「来たのはつい最近って言っていたのに、そんな前の事……時間が歪みでもしない限り、そんなことはあり得ません」

 そこまで言うと早苗は踵を返し、本殿の中へ向かう。

「ちょっと待て、どこに行くんだ!? どういう意味だ、今のは!!」

 何も言わずに去ろうとする早苗に喰ってかかる。
 返答次第では手が出てしまう、それほどの勢いで。

「……? ありましたよね、分からないはずがない。ここだけでなく、外でも同じことがあったはずです。それで忘れているだけじゃないです?
 ……そういっても納得しないでしょう、ドッピオさん。だから、証しを見せてあげます。……しばしお待ちを。本当に心当たりがないならはたてさんにでも聞いてください」

 そんな彼を少し振り返り、目線だけやると奥へと向かっていく。
 残された二人は、向けるべき対象がいなくなってしまったことで、矛先を変えるだけ。

「どういうことだ……何が何やらわからない。何があったか、だと? それはいちばん僕が聞きたいっていうのに……!」
「……やっぱり、怒るよなぁ。けれど、説明だけなら誰でもできるが……」
「はたて、お前もだぞ! 何かあるっていうならそれをまず言うべきじゃあなかったのか!?」
「いや、それはそれでしょ! というか、まさかそれを知らないと思ってなかったし……! 第127季、今年の二月程度前の話だ、あんた本当に知らないの!?」

 本殿の前で置いて行かれた二人は、大きな声で互いに責めあう。
 ドッピオは知らないことの増加とそれを知らされていたなかったことに対する怒り、はたては知っていて当然の話を知らないことによる驚き。
 その二つの感情が、発せられる声量が二人を熱する。

「知らないね、何があったかわかりゃあしないッ! 僕が目覚めたその時から、それほど経っているだなんて思ってもいなかった! 想像もしなかった!!」
「まさかその間中ずっと眠っていたんじゃないの!? あんだけ大規模な事件、知らないはずがない! 結果的には大したことなかったけれども、どう考えたってそれはこの中だけの話!
 隔絶されているとはいえ時の流れまでは変わってはいない! 外の技術が時空間まで揺るがすような空想を実現させているとは到底思えない! だったら知ってるはずでしょ!?」
「だから、それが何かって聞いているんだッ!!」
「おーいー、あなた達何話してるの、人の寝床の前で」

 熱くなった二人の前に、大きくあくびをしながら小さな少女が現れる。
 ふわわ、と間延びした声を上げながら、けだるげな眼で二人を見据える。

「……あ」
「客人がうるさいと思ったら、早苗は早苗でどんより自室に戻ってるし……その理由はお前たちの痴話ゲンカかい? いけないなぁ、いけないなぁ」
「……何だ、ガキが仲裁に入ることは何もねえぞ」
「子供じゃないって、この方は洩矢諏訪子。ここの主神の片割れだよ」
「うす」

 その紹介を受けた少女―洩矢諏訪子―は左手を軽く挙げ、頭を同時に小さく下げる。

「神奈子は大天狗と昼間から酒盛りしてるし、早苗は人形遣いと遊んでるしで暇々だったから寝てたらさー、あんたらがちゃがちゃこんなところで……クツワムシか」
「こんなのが、神?」
「幻想郷じゃあ大体こんなものだよ、そこは突っ込まないであげて。洩矢様は」
「いいよ別に、立てなくても。……ところで、何話していたんだい? 二度聞きになりそうだけど、私が納得できない話だったなら静かにさせてもらうよ」

 口調は柔らかいし、本当にそれをやるかどうかといえば、やれないだろう。見た目や発せられる声色は完全に幼女レベルのそれである。
 だがその自信に満ちた堂々とした物言いは確かにただの子供のそれではない……が、にわかにはやはり信じられない。
 そんな空気を感じ取ったのか、あわてて取り繕うようにはたては弁舌をふるう。

「いやいや、大したことじゃないんですよ、本当に。私たちが熱くなりすぎただけで。
 こいつ、ドッピオって言うんですけどね。外来人だけどよくわからないところがあって。それで早苗に聞いてみればわかるかなーって。
 ほら、私ら幻想郷出身の者は外の世界の年号とかあまりに興味湧かないんでほとんど知らない、けれど彼がそれと今を照らし合わせたくって。だからー、早苗さんをねー」
「……あぁ、なるほど。それで。……ふーん」

 はたての口が動くたび、諏訪子の表情が曇り、目の色が暗くなる。それは明らかに不快の印。
 その顔がふ、とドッピオの方に向けられ、すぐさまはたての方に変わる。
 ひゅ、と息を飲む声が確かにドッピオの耳に聞こえた。

「……怒られて、マス?」
「怒って、ます。以前言ったよね、早苗そのこと思い出すの辛いから触れないで欲しいって。神奈子はともかく、早苗にそんな思いをさせる奴を不快に思うって。
 わざわざ思い出したくない物を掘り出そうとする、気の触れた盗掘師の様な事、してほしくないって。言ったよね、天狗」
「えぇ、えぇ。言われましたとも。でもですね……」
「まだその口を回すのかい? 不敬とまで取ってあげようかね。それとも鼻から下を取ってあげようか」

 冷めた目で見つめられているのははたてだが、それでもその刺すような空気に巻かれるのがドッピオにも感じる。
 確かに小さな成りをしていても、なるほど神と言われれば納得できるような場数を踏んでいるだろう。
 だからといって自分の前に転がる真実を見逃すわけにいくだろうか。
 そう抗議しようと一歩を踏み出そうとするドッピオの前を、はたての手が遮る。

「不敬と取られても結構です。早苗の過去を尋ねるのも、それを嫌う者がいることも承知の上。承知の上で外来人であり出自に悩む彼を連れてきたのはこの姫海棠はたて。
 もちろん他の方法もあるでしょうが、一番彼の望む答えを待つ道はこの道のみ。早苗はまだこのことを理解せずとも道を指そうとしてくれています。それを邪魔するのであれば洩矢神であろうと」

 そこから先は言わない。まだそこまでならポーズで済むから。
 そして、そのポーズは一代の賭けとも思うほどに。
 思わずドッピオははたての表情を見やる。とても、こんなことをする者ではないはずだと思っていたから。
 諏訪子を見据えるはたての顔は、どこまでも真剣で、どこまでも強情で、そして、ドッピオにだけは優しさを感じる顔だった。

「…………」
「…………」

 数秒のにらみ合い。
 二人ともその点では固かった。
 共に譲る気の無い一点。

「諏訪子様、起きられていたのですか」

 その合間に割り入る早苗。胸に、少し擦り切れ、色褪せた本を抱いていた。

「早苗。今聞いたが、いいのかい? 私はいつだって反対だ。自分で辛いと思うのならやめればいい。前へ進むことではなく、後ろに振り返ることならば。
 もし嫌ならば、私が早苗の代わりに断ろう。早苗は嫌だと言えないタイプだ、同情とかそういう気持ちであるのなら――」
「大丈夫です」

 早苗は無表情に答える。その姿は強がり、にしか見えない。

「早苗……!」
「待たせてしまってすいません。……お話ししましょうか。さっきの事はもう聞きました?」
「あー、いや、まだだ。……それに少し時間をもらっていいかい」
「わかりました」

 二人の間に飛んでいた火花は早苗が入ったことで鎮まる。
 はたては改めてドッピオに振り向き、自分より頭一つ下にある彼の顔に高さを合わせた。

「というわけで、まずは話しておこう。既に起きた事実、幻想郷だけでなく、この宇宙を巻き込んだという事変を。
 真相は一部の大妖しかわかっていない。私もなぜ起きたか、その結果幻想郷の外はどうなっているか。それを全てはわかっていない。だから、事実だけを話そう」






 第127季、3月21日。
 時間は、始まりはいつかはわからない。大体、昼過ぎだったはずだ。
 それが始まるまでは別段何もない時間だった。普通に雲は流れて、花も蝶も風に揺られて。何も変わらない平凡な一日になるはずだった。
 だけど、「何か」をきっかけに狂い始めた。……ん、ああ。「何か」はわからない。もちろん私は後にこの「何か」について調べまわったよ。だけど、何も掴めなかった。文とか、他の天狗もね。
 私の気づきは、少し風が強くなったかな、と感じたときだった。自室で次の花果子念報の記事を執筆しているとき、窓を叩く風の音が強くなったかな? そう感じたんだよ。
 でも、最初は何も思わなかったけど、だんだん違和感を感じてきた。1分と経たず、その音がおかしいことに気付いたの。
 風が強くなり、窓を叩いて音を出すならその音と振動はだんだんと大きく強くなっていくはず。けれど、音と振動は強くならず、叩く間隔だけが早くなっていった。
 それはおかしいと思って、急いで外に出ようとしたさ。その時にあまりに急いで、書きかけの記事にインクをぶちまけてしまった。
 しまった、と思う前に起きた事実にぞっとしたよ。そのこぼしたインクは「既に乾いていた」。
 ……何を言っているのかわからないでしょう? 私もその時は何が起きたかわからなかった。久しぶりに、何百年振りに理解が追いつかない瞬間を目にしたよ。
 とにかく家から出て、山の全体を確認しようとした。そのために飛行しようと思ったんだけど、全く飛ぶことができなかった。
 恐ろしく風が強いのさ。
 他の人たちはどう飛んでるかは知らないけどさ、私たち天狗は元は鳥類。風を利用した飛行を主としてる。
 だから強風の時はだいぶ飛びづらい。……さっきも外の風が強かったから当然だろう、と思うでしょ?
 でも周りの木はそよ風に揺れる程度。全然、風の強さを受けていない。ただ、ゆらゆらと揺れているだけ。
 それでも、その揺れはすんごい小刻み。まるで高熱でぶるぶる震える子どもみたいに、ゆらゆらじゃないね、ぶるぶると、ぐらぐらと。
 頭が痛くなりそうになりながらも、大急ぎで空を飛んださ。ごうごうと吹き付ける風を何とか御しながら。
 途中で文とも出会った。状態は全く同じで、大天狗様たち……ああ、上司ね。も同じ様子みたいで。
 すわどうしたもんか、考えようとした矢先にまたおかしな事実に気付く。
 さっき昼過ぎだった、て言ったでしょ? で、この頭がどうにかなりそうな出来事、どれくらいかかってると思う?
 体感で言いたいけれど、それは私の体感だから言わないでおく。お天道様がどこにいるかで事実を伝えよう。
 さっきまで頭の上にあった太陽はすでに山の中に入ろうとしてた。私たちが見た時には半分くらいしか見えていなかった。
 そしてその太陽は、私たちの目の前でするすると沈んでいき、辺りはあっという間に暗くなった。
 もう夜になったのさ。数分と経たずにね。
 ……少し話は変わるが、以前にも夜を止めて月を隠すという異変があった。……ん、違うな。月を隠されたから夜を止めて~、だったかな?
 まあそれはいいや。夜を止めて、っていうのが重要。時間を停滞させることはできないことはない。その異変の最後は停滞された夜が解放されて、圧縮された時が一気に進み、朝になった。
 パンパンに空気を詰めた袋の口を押えて、力いっぱい押してから口を放した時のように、一気に時間が過ぎていった。それがその異変の最後。
 だから、今回もそれをやった吸血鬼の仕業かな、と思ったんだよ。
 そう思ったその時には、反対側からまたお天道様が昇ってきた。
 わかる? その時の背筋の凍るような思いが。私は直感的に思ったよ。『これは幻想郷の中だけじゃない』って。
 だって、いたずらに時間を進めてどうしたい? それも、皆が困るようにするなんて。
 確かに似たような異変はもう一つ、春を集めたが故にいつまでも冬だった、なんて異変もあった。
 その時も、先の永夜異変、あ、さっきの異変ね。冬が~、っていうのは春雪異変。とかは、どこか当然とも思えて。『幻想郷だから』というおちゃらけた様な感覚。
 だけど、この時はそうは思わなかった。幻想郷も含めたこの世界全てがこの事変に巻き込まれていると。
 なんでかわからないけどとにかくそう思ったし、隣にいた文も顔を青ざめながらそう思ったみたい。
 この時、すでに太陽は視認できるほどの速さで動いていた。間もなく正午になるような高さになった時、突然、全てが暗闇一色に染まった。
 また何か、と困惑したよ。時間がどんどん早くなっていく次は、光でも失われるのかと。
 世界が突然終わったのかと。
 全然追いつかない頭の中で、そうぽんやり思った時、暗闇が晴れたと思ったら、いつもの昼間に戻っていた。
 風が無く、嘘みたいに普通に飛べる。木々のざわめきが普通に聞こえる。パッと見、揺れを感じないほど小さく小さくゆっくり揺れている。
 しばらく私は眼をぱちぱちさせてたよ。いつの間にかくっついてる文を引っぺがそうともせず。
 それでも、何も起きない、何も変わらない。さっきまでの出来事が嘘みたいのように。
 夢じゃないか、と思って文の顔をひっぱたいてみたけど、乾いた音と共に手のひらに残る痛みは、何か起きたけど、元通りになりましたよーって言ってる。
 事変自体は、本当にその一瞬だけで終わってしまったんだ。



「……もちろん幻想郷の中にはそれくらいができる芸当の奴が何人かいる。でもそれらは一様に知らないわからないの一点。
 全てを知ってそうな八雲紫もこの件に関しては本気で口を開けようとしない。……もともと奴はそういうの喋らないし、のらりくらりとかわすけど。
 嘘の付けない半獣の賢者は、『八雲もこの件は調査中、だそうだ』と。……幻想郷の異変じゃない、外の世界の異変なの。ここは、ただ巻き込まれただけ」

 そこまで話すと、ふう、とはたては一息つく。
 すでにそれを体験した二人はともかく、とてもではないが話に追いつくことができていないドッピオ。
 ぽかんと口を半開きにして、ただそれを聞くだけだった。

「……」
「嘘だろ、と言いたげな顔だけど。それは全てが事実。この幻想郷の外で『何か』が世界、宇宙全ての時間を加速させた。
 それがどうして終わったかはわからないけど……起こす奴がいれば止めることができてもおかしくない奴が何人かいる。そいつらが何とかしてくれたのかもしれない。
 該当者に話を聞きに行っても、みんな知らない、だったけどね。明らかに箝口令にしか見えなかったけど」

 自分の耳をかりかりと掻き、最後にそれを伝える。
 それを聞き終ると、次は早苗が前に出て、ドッピオに見えるように本を見せた。
 その本には『日記 ~2005年から2008年~』と書かれていた。

「今の話は今年の3月、今は5月なので少し前の話。私たち守矢がこの地に渡ったのは第122季。2007年の話です。……あなたの言う2001年は、6年前に過ぎています。現在からは、11年」
「…………!!」

 まるで、直接剣で身体を貫かれたような衝撃が走る。
 10年以上前、現在は10年の月日が流れている。先の絶望的な事変はその間。
 一瞬で頭に世界の全てを叩き込まれたような感覚が眩暈となって襲いかかる。

「……嘘だ」
「嘘ではありません。もしこれらが嘘だったら私たちは何も知らぬ人を精神的に追い詰めるとんだ悪人ですし、あなたが嘘と決めつけるのならそれは少なくとも私たちを否定することになります。……嘘では、ありません」

 感情を押し殺した、低く震えた声で早苗は話す。
 中ほどより後ろに定めて開き、一枚一枚探すようにページをめくる。
 あった、と小声でつぶやいたそのページの日付は2007年の9月を指している。

「ここからです。この幻想郷に移る過程を一番詳しく書き込んでいた時が。……同時に、今のあなたに関係はないでしょうが、その時の苦悩を」

 彼女の言葉通り、丸みを帯びたかわいらしい字体には似つかわしくない、八坂神奈子の提案と自分の今との執着と悩みが混同して書き込まれていた。
 信仰が薄れ消えゆく神の唯一の救いの手段。幼い早苗のあまりに厳しすぎる二者択一。
 今までの生活を取れば人間として早苗は生きていくだろう。信仰の対象を失って。心の拠り所が自分の所から立ち去って。
 今までの生活を捨てれば神として早苗は神奈子と共にあるだろう。生みの親を失って。今までの思い出の全ての形に触れることを全て捨てて。
 その悩みを書き連ねた文章は1日1日経つごとに、ある日は短く叩きつけるように。ある日は全てを吐き出したような長い言葉で。
 ……そこにあるのは嘘ではなく、確かな現実のものとして。

「あなたに同情してもらいたくて見せているわけではない、ということは理解していますよね。……これ、は」

 その日記を持つ手が震え、書かれている文字が水滴で軽くにじむ。
 ページにはいくつも似たようなにじみがあった。

「ここに書かれていることは、確かな記憶。たし、ぐず、確かな記録です。……遡ります、その前」

 涙が出そうなのをこらえて、それでも漏れ出す。
 声が今は大きく上げていたい、その感情を押し殺して早苗はドッピオに説明の言葉を続ける。

「2006年、サッカーのワールドカップがイタリアで開催されました。クラスのみんなで、それを、話していました。
 2005年、はやぶさという宇宙探査機が惑星イトカワに着陸して、そこの探索を行いました。それが戻ってくることが楽しみでした。……それらがどうなったかを知ることは、もう、できません」
「……」
「どちらも、大きく取り上げられた話題です。……知らない、のですね」

 涙にぬれながらも、ドッピオが本当にそれらを知らないという事実を憐れむような目を向ける。
 目を鼻を赤らめながらも、確かに彼を見据えた。

「まだ、話しますか? まだ必要、ですか? いいですよ、何度も、っ、……」
「……早苗、もういいだろう。お前も、知らないことを知りえた、もういいだろう!!」

 自棄になって投げやりに話す早苗を、諏訪子がかばう様に止める。
 これ以上彼女が自らの傷を広げることに耐えられなくなったのだろう。理解を求めるその視線。
 そんな諏訪子に、早苗の膝は崩れ、そのまま諏訪子の背中に顔をうずめる。

「うぅぅ、っ、うえぇ……すわこ、さまぁ……寂しいよぉ……みんなに、みんなぁ……」

 押さえていた涙が堰を切ったようにあふれ、消え入りそうな声と共に流れ出る。
 それに諏訪子は振り返り、改めて早苗の頭を胸に、優しく抱き留める。

「直接的な、お前が2001年にいた住人だという証明にはなっていないが、お前の知らぬ過程を経て、今に至る。それを知らないお前は、何の因果かここまで『飛んだ』んだ。それが事実!
 分かったなら、もう早苗を苦しめる様な事は聞かないでくれ!」

 その諏訪子の声には怒りと悲しみが混じっていた。
 ドッピオにはそれがなぜかわからない。が、それは神奈子と共に彼女を巻き込んだ原因の一つだから。

「……なんだよ、それ。なんなんだよ……」

 全てを知りえず、絶望的な事実のみを与えられたドッピオは、どうすることも、できなかった。

「そんなこと、勝手なことを、言いやがって、言うだけ言って泣いて終わりかよ! そんなに勝手に、お前らはッ! 僕は、僕は、どうすれば……ッ!!」
「ドッピオ」

 やり場のない感情が怒りとなって溢れ出る。その溢れた感情の表現も、あまりの大きさに制御できず、声を詰まらせて震えるのみ。
 そんな彼を、はたては優しく抱きしめる。

「出会って間もないし、あんたは私の事を嫌っているだろう。……でも、もし今の気持ちを落ち着けたいなら、胸を貸してあげる。今だけでも。落ち着いてから何だって聞いてあげるから」

 抱きしめた彼の頭を優しく撫でる。イタズラや打算などのどうでもいい感情はない、その行為は母性の表れともいえるそれだった。

「う、う……」
「誰にだって泣きたいときはある。あんたのそれは今さ。別に恥ずかしいことでもない。私で良ければ、ぶつけてよ」
「……う、あぁ……うああああああああああぁぁ!!!!」

 大きな声を上げ、あらんかぎりの力で。
 早苗の泣き声を上から塗りつぶすかのように。
 守矢神社に、二つの泣き声が混ざって鳴り響いた。



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