奴隷剣士の反乱(前編) ◆LKgHrWJock


F-5エリア、18時半――

ようやく緊張から解放されたとき、アルマは声を上げて笑っていた。
ヴォルマルフを相手に、ディエルゴを相手に、見事に交渉をやってのけた。
このゲームのルールを変更させただけでなく、優勝の際の約束まで取り付けた。
相手はいつでもこの首輪を爆破することが出来るというのに、
こちらを生かすも殺すも相手次第だというのに、それでも自分の要求を呑ませた。

この笑い声を、ヴォルマルフが聞いていることは知っている。
聞かれたって構わないと思った。むしろ、聞かせてやりたかった。
ヴォルマルフは怒っているだろう。屈辱に歯を食いしばっているかも知れない。
それでも彼には首輪の爆破ボタンは押せない、押せるわけがないとアルマは思う。
何故なら、それは、彼が自身の敗北を認めることを意味しているからだ。
自身を挑発した小娘の笑い声にすら耐えられないような卑小な存在であると、
認めることを意味しているからだ。

ヴォルマルフは、そのプライドの高さゆえに、首輪を爆破することが出来ない。
そして、そのプライドの高さゆえに、怒りと屈辱に耐えねばならない。
ヴォルマルフの顔を想像すると、おかしくて楽しくて仕方がない。
屈託のない笑い声が、まるで泉のようにとめどなく湧き出てくる、止まらない。

 ――今の私、すごく明るい顔してる!

そう自覚した途端、思わずステップを踏みたくなった。
これだけ明るく笑えれば、他の参加者を騙し通せるだろう。
これだけ希望に満ちた顔をしていれば、他の参加者にも信用されるだろう。
これだけヴォルマルフを蔑んでいれば、主催と敵対する立場だと偽っても
誰も怪しんだりしないだろう。この輝きは、演技ではない。
すべて、心の奥底から湧き上がる真実の姿なのだから。

胸が弾む。最高の気分だった。
薄闇に覆われた宵の森を、アルマは踊るようにひとり歩く。

 ――私、ラムザ兄さんの役に立てたの!
 これから、もっともっと役に立てるの!

女になんか生まれなければ良かった、と思っていた。
男に生まれていれば、修道院などに入れられることもなく、
ラムザ兄さんのそばで共に戦えたのに。
そんな思いが、いつも心に引っかかっていた。

けれども、今の自分は違う。そんなことを思い煩う必要はなくなった。
ここに来てからずっと、そしてこれからもずっと、自分はラムザの役に立っている。
自分の存在が、最愛の兄ラムザの帰還に繋がると心の底から信じていられる。
その揺るぎない確信が、アルマの心身を弾ませていた。

          □ ■ □

まるで昨日の出来事のように、鮮やかに脳裏に蘇る。
生涯の忠誠を捧げた少女、タリスの王女シーダと出会ったときのことが。

……オグマはその日、死ぬはずだった。
剣闘士奴隷だった彼は、反乱を企て、決起するも、
仲間の奴隷剣士たちを逃がすべく囮となり、囚われたのだった。

アカネイア聖王国のとある町の広場で、オグマは死ぬまで鞭打たれる。
皮膚が破れ、肉が裂け、骨が砕けても、彼の強靭な体力は尽きることはない。
意識を失いそうになるたびに、冷や水を浴びせかけられる。
その水は海水を含んでおり、燃え上がるような激痛を全身にもたらす。

「やめて!」

遠くで少女の声が聞こえた。初めて聞く声、幼い声だ。
鞭でも冷や水でもない何かが、自分の身体に覆い被さる。
次の瞬間、鞭が宙を裂く音がして、くぐもった悲鳴が間近で聞こえた。
それが幼い少女のものだと気付いたのは、刑吏の声が聞こえてから。

「なんだ、このガキは!?」

顔を上げることも出来ないオグマの耳に、幼くも毅然とした声が届く。

「私はシーダ……、タリスの王女よ!」

ああ、なんだ、そういうことか。オグマは薄く笑っていた。
恵まれた立場にいる者の、傲慢な人助けゴッコか。
笑顔で手を差し伸べながら、その実、相手を見下している。
“立派な自分”に酔うために、他人の傷を笑顔で探す。
まあ、仕方あるまい、とオグマは心の中で呟いた。
彼女は幼いのだから。奴隷の立場にいる者のことなど、知らないのだから。
この娘は、大人たちに諭されてじきに去っていくだろう。そして、俺は殺される。

……オグマが反乱を企てたのは、疑問を抱いたからだった。
金持ちの道楽のために弱者が殺し合わなければならない、という現実に対して。
オグマは奴隷として売られ、アカネイアの貴族に剣奴として買われた。
奴隷であるオグマが闘技場で戦い、勝てば所有者である貴族に大金が入る。
大陸最強の剣奴として知られたオグマには、人を惹きつける資質があったのか、
剣闘士奴隷たちから一目置かれていた。

しかし、今日言葉を交わした者と、明日は殺し合わねばならない。
自分に敬意を向けてくれた者を、いつかは殺さなければならない。
金持ちの享楽のために、贅沢のために、楽しみのために。
そんな現状に、オグマは耐えられなかった。

「なんだ、自分のことを王女だと思ってる頭のおかしなガキか……」
「ははっ、タリスなんて田舎の島国のことなんざ、知るかよ」

群集から野次が飛ぶ。遠巻きに見物しているだけだった分際で、
やめさせようとするわけでもなければ助けようとするわけでもなく、かといって、
他人の無残な死を望む自分の醜さを直視しているわけでもなく、
楽な方に流されることしか出来ない分際で、こんなときばかり威勢がいい。
ゲスが。オグマは内心で吐き捨てた。頭上で刑吏の声が飛ぶ。

「おい、ガキ。そこをどけ!」
「いや! どかない! この人にひどいことをしないで!」
「また痛い目に遭いたいのか、あぁ?」
「どうしてもやめないって言うなら、私を先に殺して!」

少女の小さな手が震えているのが分かる。
それでも少女の小さな身体は自分を抱きしめたまま、離れようとはしない。
震えてはいるが、頼りないその力は強くなる一方だった。
威勢の良かった刑吏の声に、戸惑いが現れ始める。

「おい……」
「出来ないんでしょ!」
「あのなぁ……、お嬢ちゃん。この男は奴隷で――」
「私に出来ないようなことなら、この人にもしないで!」

オグマは己を恥じた。幼い王女の誠意を疑ったことを悔いた。
すべてを諦めねばならない極限の状況だったとはいえ、彼女の誠意を疑うことは
自分に殺し合いを行なわせた傲慢な貴族連中の価値観に屈することだと知った。
彼らがそうだったからといって、彼女までそうだとは限らない。
現に、彼女は身を挺して自分を庇ってくれたではないか。

「シーダ様!」「シーダ王女!」

どこか遠くで声が上がり、二つの足音がこちらに走り寄ってくる。
群集の野次が力を失う。この少女が本物の王女だと気付き始めたのだろう。
「ニーナ様に比べればお召し物が……」「田舎貴族の令嬢よりもみすぼらしい」
などとぶつぶつ言っている者もいるが、所詮は責任転嫁と言い訳に過ぎず、
先ほどの覇気はもはやどこにも感じられない。

シーダの付き人の言い争う声が、オグマの意識に割り込んでくる。
ひとりは、宗主国アカネイアとの関係悪化を恐れ、黙ってこの場を去ることを主張。
ひとりは、わが国の王女シーダを鞭で打ち据えた罪は万死に値する、
なんとしてでも責任を取らせてやると激しく憤るばかり。
刑吏はといえば、すっかり弱腰になっており、まごまごと何事かを呟くのみ。
諍いを続ける大人たちを、幼い王女が一喝する。

「喧嘩なんかしないで! この人、怪我してるの! 見えないの!?
 私のことはどうだっていいから、この人を先に助けてあげて!」


……こうして、オグマの身柄はタリスの王女シーダに委ねられた。

宗主国との関係維持のため、ことを荒立たせるべきではないと考える者、
自国の尊厳と統治者の意向を何よりも尊重すべきと考える者、
自己の保身を優先したい者、この3人の利害が一致したためでもあった。

『この男の身柄ひとつで済むのなら、安いものだ』――
それが彼らの本音であろうことは、オグマには察しがついていた。
この男の身柄ひとつで、宗主国との関係が悪化せずに済むのなら。
この男の身柄ひとつで、自分の生命や生活が脅かされずに済むのなら。
自国の尊厳を重んじる男は、傷が癒えたら我が王に仕えよ、と居丈高に命じた。
奴隷の身分から解放されても自分はやはり奴隷なのだと、オグマは苦々しく思う。

そんなオグマの存在を、彼が一命を取り留めたことを、
彼を伴って帰国出来ることを、シーダはただ純粋に、そして心から喜んだ。
オグマが彼女に、父王に、タリスという国に、生涯にわたって仕えることを
自らの意思で選択するまで、さほど時間はかからなかった。

          □ ■ □

F-5エリア、上空、臨時放送直後――

釘を刺しておいたほうがいいだろう、とネサラは冷ややかに思った。
オグマという男は、この殺し合いにおいて、既に3人の仲間を失ったという。
しかも、どのような手を使ってでも死者復活のすべを手に入れる心づもりのようだ。
その彼が、先ほどの臨時放送を聞いて、一体何を思ったか。
キュラーと名乗る主催側の男は、死体の冒涜を教唆したも同然だった。
殺意が芽生えたのではないか。復讐心が芽生えたのではないか。
オグマは自身の目的のため、ふたりの仲間に隠れて自分と手を組むことを選んだ、
ならばその目的が変質すれば、約束を反故にしかねないだろう。

オグマは既に、イスラとアズリアを欺いた。
ならば自分を、このネサラを欺いたとしても、何ら不思議ではない。

再び接触する口実ならば、ある。
落ち合う時間を変更したい、とでも言えばいい。
現に、ニンゲンの足では、あの移動距離はいささか厳しいようにも思える。
オグマの前では羽を隠し、ニンゲンのような姿に身をやつしていたが、
やれやれ、どうやら頭の中までニンゲンになりきらねばならないらしい。
ネサラは皮肉げに口元を歪め、安いものだ、と内心で呟く。

ニンゲンの真似事をしたからといって、自分の何が損なわれるというのか。
彼の矜持は、その程度のことで傷つくような安っぽいものではなかった。
むしろ、それで生還出来るなら、妻子や民を守れるなら、安いものだと心から思う。

オグマはまだ、G-5エリアの住宅街にいるだろう。
あのような悪趣味な放送の直後だ、しばらくは姉弟の元には戻るまい。
独りで剣を振るっているオグマに再度接触すべく、南方に旋回しようとする。
そのとき、行く手に広がる森林地帯、その木々の合い間で何かが光った。

ネサラはそのまま進路を変えず、森林地帯に降下する。光の正体はすぐに分かった。
夕闇の中にあっても浮かび上がるように輝く金の髪、それは少女の頭だった。
少女はひとりで森林を南下していた。しかし、どうにも様子がおかしい。
彼女の足取りは、弾んでいた。この殺し合いの場で、仲間などいないにも拘らず。
悪趣味きわまる臨時放送の直後だというのに、一体何がそんなに楽しいのか。

 ――恐怖で気が触れたか、あるいは既に人を殺しているか。
 その両方ってのも有り得るだろうな。

少女に感付かれることのないよう、慎重に距離を図りながら、ネサラは彼女を観察する。

この少女は、“戦士”ではないだろう。
動きに切れがなく、身のこなしに隙がありすぎる。
踊るようなその足取りは、常軌を逸していると言わざるを得ないが、
どこか慎ましやかでもあり、育ちはそれなりに良いのだろうと思える。
年の頃は、ニンゲンならば十代半ばといったところか。
彼女は笑っていた。楽しそうに、嬉しそうに、胸を張って笑っていた。
その笑顔は、理不尽や不条理に屈した者の現実逃避には到底見えない。
恐怖で気が触れたというわけではなさそうだ。

 ――ま、それでも、狂っていることには違いないんだがね。
 殺し合いに乗らざるを得ない事情がある、ってことか。

生への執着のみで殺し合いに乗っているのならば、あのような顔では笑えない。
そして、その『事情』こそが、彼女の最大の弱点といえるだろう。
守るべき者たちのためには手段など選んではいられないネサラだからこそ、
正体不明のこの少女にも付け入る隙があるのだと分かる。

しかし、接触するのはまだだ。オグマに釘を刺すことが先決。
この少女ならば、しばらく放っておいても問題はないだろう。
彼女の周辺には、参加者はいない。南下しているとはいえ、その足取りは緩やかで、
木々とダンスを踊るように幹の周囲をくるくると回っては、明るい声で笑うばかり。
当分は、森から出てきそうにない。放置したところで、毒にも薬にもならないだろう。

ネサラは天高く舞い上がり、G-5エリアの住宅街を目指す。
しかし、彼が見たものは、北上を開始したオグマら3人の姿だった。

          □ ■ □

G-5エリア、住宅街はずれ、臨時放送直後――

怒りで臓腑が冷えていくのが分かる。
冷酷に冷徹に、脳が冴え渡っていくのが分かる。
もはや、悲しみは感じなかった。激情も衝動も、消え失せていた。
あるのはただ、純然たる殺意。無感情で狡猾な、復讐心。

『連中を完膚なきまでに叩き潰し、望むものを勝ち取れ』――ただそれだけ。

キュラーによる臨時放送はオグマを激怒させ、覚醒させた。
それは、自分自身すらも俯瞰させるほどの、冷徹な怒りだった。
自分自身すらも駒と見なし、徹底的に使い潰そうとする、冷酷な怒りだった。

 ――成る程な……、それが、貴様らのやり方か。
 この俺を、随分と見くびってくれたものだ。

オグマは迷いのない足取りでレヴィノス姉弟の待つ屋敷方面へと戻る。
心は既に決まっていた。だが、それをなすためには、
アイクの捜索は放棄せざるを得ない、ネサラとの約束は反故だ。
ただし、彼の存在をレヴィノス姉弟に伝えることもしない。
姉弟を欺き、ネサラを欺き、そして自分自身すらも欺く。
それが出来ないようでは、主催連中になど到底敵わないだろう。

街道の向こうから、見覚えのある人影がふたつ、こちらに近付いてくるのが見える。
オグマは軽く疑問を覚える。ふたりは屋敷で待っているものとばかり思っていた。
自分がいない間に、何かあったのだろうか。それともイスラが――

「オグマ殿!」

アズリアが声を上げ、こちらに駆け寄ってくる。
イスラも無言で姉に従う。こちらを避けているわけではないようだ。
それどころか、合流のあと最初に口を開いたのはイスラだった。

「オグマさん、さっきの人、随分と派手な鳥を連れていたね」

自分がイスラにカマをかけられていることは、すぐに分かった。
さっきの人、とはネサラのことだろうか。
イスラはネサラとの密会の事実を把握しているのだろうか。
しかし、鳥とはどういうことか。何故、そんな言葉が出てくるのか。

「いや、俺は誰にも会っていない。無論、鳥すら見かけなかった」
「おかしいな、こっちに行ったと思ったんだけど……」
「オグマ殿、すまない。実は……」

アズリアが、ふたりの間に割って入る。
穏やかな猜疑の目をオグマに向けるイスラの言葉を遮るように。
姉さんが言うのなら仕方ない、そう言いたげに軽く肩をすくめながら、
イスラはオグマに大振りの羽根を取り出して見せた。

どこまでも黒い羽根だった。その色は、ネサラの髪を思わせる。
しかも、この大きさ。人の背丈をしのぐような怪鳥から抜け落ちたのではないかと
思わずにはいられない。そしてまた、ネサラの姿を思い出す。人が鳥に? 馬鹿な。
そこまで考えたとき、不意に脳裏でチキが笑った。マムクート・プリンセス。
彼女は竜に変化した。ならば、無数に存在するという異世界の中には、
鳥に姿を変えることの出来る人間だって存在するのかも知れない。
オグマは自問する。この推測は、飛躍しすぎだろうか。そうかも知れぬ。
しかしあの男、ネサラは情報収集には絶対の自信があるように見受けられた。

『見返りは俺が収集した情報を定期的にあんたに知らせる』

複数のルートから情報を収集し、なおかつ待ち合わせ場所に移動出来る。
人の中に入り込むことと、身軽であること。人としての顔と、獣としての能力。
そのふたつを持ち合わせていなければ出来ないのではないかと、ふと思う。

「オグマ殿……?」

アズリアの声で、自分の表情が強張っていたことに気付く。
考え事に没頭しすぎたか。ネサラに関して言えば、今は確認のしようなどない。
逆に、自分の憶測が正しければ、落ち合うべきではない場所で
再会することもあるだろう。或いは、鳥に姿を変え、追跡してくるか。
なんにせよ、既に賽は投げられた。あとは、行動あるのみだ。

「この付近に何者かが潜伏しているということか。
 ……イスラ、俺からもひとつ、訊きたいことがある」
「なんだい、オグマさん」
「殺し合いに乗った者を見たと言っていたが、嘘ではないな?」
「ホントだよ。殺し合いに乗った女の子が同じ年頃の女の子を殺すところを見た」
「ならばイスラよ、俺をその娘の亡骸のもとへ案内しろ。
 貴様とて、それは望むところだろう」
「オグマ殿!?」

アズリアの悲痛な声に、イスラの笑い声が覆い被さる。

「あはは、なんだ、そういうことか。オグマさんって意外と話が分かるんだね。
 姉さんと一緒にいるから、もっと甘い人だと思っていたけど。
 いいよ、僕が案内する。無残に殺された女の子のところに、ね」
「イスラ! やめないか!」

アズリアがイスラを諌めようとする。しかしオグマはただ一言。

「……許せ、アズリア

          □ ■ □

森の出口付近に差し掛かったとき、遠くで人の話し声がした。
人がいる。でも、どこに? アルマは出口の向こうに視線を向ける。
木々とダンスを繰り返しているうちに、方向感覚を失っていた。
木立ちの向こうに広がる草原は、F-5エリアだろうか。それともF-6エリアだろうか。
平原を横切る一団が見える。アルマの心は踊った。また、ラムザ兄さんの役に立てる!

武器の補充はまだしていないけれど、別に構わない、だって私には首輪があるから。
キュラーっておじさんが言っていた。首輪を城に持っていけば、新しい装備が手に入る。
首輪はもう、持っている。アメルの首輪。あんなコの、泣くしか能のないようなコの
装備していたものなんてまったく期待できないけれど、でもいいの、
これからもっともっと首輪は増えるから。装備なんていくらでも補充出来るから。
だから、仲間のフリをして潜り込むの。大丈夫、この笑顔なら信用されるわ。

アルマは森の出口へと歩く。おぼろげだった一団の姿がはっきりと見える。
しかし、その姿を確認した瞬間、アルマの表情は凍りついた。

 ――あの顔! そんな、どうして……。

平原を横切る人影の正体は、3人の男女だった。
ひとりは金髪の男。年は三十台前後に見えるが、頬の傷のため、よく分からない。
ひとりは黒髪の女。二十歳前後だろうか。顔立ちは中性的で男のようにも見える。
問題は、最後のひとりだった。黒髪の女によく似た顔立ちの、髪の長い少年。
長い黒髪をひとつに束ねた、華奢な身体の中性的な少年。

アルマの知っている顔だった。アルマの凶行を目撃した人物だった。
あの女、忌々しい言葉を吐いて果てた異国の女戦士を射抜いた際に
居合わせていたうちの、ひとりだった。

 ――消さなきゃ。仲間のフリなんて出来ない。みんな消さなきゃ。

アルマはガストラフェテスに矢をセットし、忌まわしい目撃者に狙いを定める。
けれども撃てない。黒髪の少年には隙がない。まるで頭の横や後ろにも
目がついているかのようだ。或いは、心眼で警戒網を張り巡らせているかのよう。

それだけではない。少年を一撃で仕留めたとしても、
矢の残りは1本しかなく、殺すべき相手はあとふたり、残っている。
金髪の男と黒髪の女は、少年以上に身体能力が高いことは明白だった。
大型弓のほかには小型の斧を所持しているが、これは接近戦でしか使えない。
非戦闘員の少女や瀕死の怪我人ならともかく、筋骨逞しい大の男相手に、
職業軍人を思わせる隙のない女相手に、どうやって振り下ろせばいいのだろう。
もし、かわされたら。もし、凶器を持つ手を掴まれたら。もし、反撃されたら。

心臓が早鐘を打ち始める。圧倒的に、不利だった。
ガストラフェテスは大型で扱いが難しく、連射には不向きだった。
ひとり目を一撃で仕留めたとしても、狙撃場所を特定されれば終わりだ。
2本目の矢を放つ前に捕縛されかねない、殺されかねない。

 ――ラムザ兄さん……、私、どうすればいいの……?

いや、答えなど返ってこないことは分かっている。
すべて、自分自身で考えなければいけないのだということも。
アルマはガストラフェテスを、それを支える両腕を、そっと下ろした。
早鐘を打ち続ける心音が、やけに大きく感じられる。

この音、首輪を伝ってヴォルマルフにも聞こえているのだろうか。嫌だ。
あんなろくでもないおじさんに聞かれるなんて。怯えていることを知られるなんて。
そんなの嫌、絶対に嫌! アルマはきびすを返し、一目散に駆け出した。
じきに息が荒くなる。この息遣いも、足音も、すべてあの男に聞かれているのだろうか。
嫌だ。そう思うのに、足が止まらない。ひどい息遣いだ。確実に聞こえてしまう。
ヴォルマルフに気付かれたりしたら、笑われるに決まっているのに。

 ――ダメ、笑うなんて許さない。私は聖アジョラの生まれ変わりなのよ。
 おまえは黙って私に従っていればいいんだわ、ヴォルマルフ!

冷たい首輪がかすかに震えた。
自分の動きが、足取りが、首輪を振動させただけだろうか。
首輪の向こうで、ヴォルマルフが嘲笑しているような気がしてならない。
次の瞬間には、ヴォルマルフの嘲笑が聞こえてくるような気がしてならない。
ヴォルマルフの蔑むような視線が、自分に向いているような気がしてならない。

嫌! あんなおじさんなんかに、そんな目を向けられるなんて。
やめなきゃ。走るのを。気付かれたくない。そう思うのに、足を止められない。
魔法によって強化された身体が、遠くに行きたいというアルマの願いを
ただ機械的に叶えようとする。肉体は苦痛を訴えるが、運動をやめるには至らない。
息が上がる。筋肉が痛む。関節が今にも外れそうだ。それでも身体が勝手に動く。
走れるだけの体力を、魔法が補充し続ける。また、首輪が震えたのが分かった。

 ――嫌よ、こんなの。ラムザ兄さん、どこにいるの!?

涙が溢れそうになる。ラムザ兄さんに会いたい、と思った。
そうすれば、安心出来るのに。また、いくらでも頑張れるのに。
再び首輪が小さく震える。汗ばんだ素肌に感じるその振動が、
アルマにはヴォルマルフの嘲笑のように感じられてならなかった。

          □ ■ □


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084 奴隷剣士の報酬 オグマ 120 奴隷剣士の反乱(後編)
117 killing me softly with her love イスラ 120 奴隷剣士の反乱(後編)
117 killing me softly with her love アズリア 120 奴隷剣士の反乱(後編)
084 奴隷剣士の報酬 ネサラ 120 奴隷剣士の反乱(後編)
088 愛にすべてを アルマ 111 sister(前編)
最終更新:2011年01月28日 13:44