国別キャラ - オストマルク

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-&bold(){注意:各ウィッチの英字表記・誕生日はイメージモデル等から推測したものも含まれます。}
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#region(close,オストマルク)
#contents
#endregion


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&aname(ostmark)
*オストマルク
イメージモデル [[オーストリア=ハンガリー帝国>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%EF%BC%9D%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%BC%E5%B8%9D%E5%9B%BD]]

-オストマルク陥落後、カールスラント、ブリタニアなどの空軍に編入されて、あるいは各国空軍でオストマルク人部隊を編成して活動しているウィッチも多いため、分類は不明瞭である。

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&aname(ostmark_air)
**オストマルク空軍

***&aname(グレーテ・M・ゴロプ,option=nolink){}[[グレーテ・M・ゴロプ]]
#include_cache(グレーテ・M・ゴロプ)

***エウゲーニャ・ホルバチェフスキ
&strong(){EUGENIA HORBACZEWSKI}
-所属
--義勇オストマルク空軍 オストマルク飛行隊
---「オストマルク飛行隊」はブリタニアに避難したオストマルクおよび周辺諸国のウィッチを集めた部隊の通称。
--第43戦闘機中隊
-階級 大尉
-身長 159cm
-年齢 17歳(1944年)
-誕生日 9月28日
-使い魔 [[狼>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%82%AB%E3%83%9F]]
-固有魔法 不明
-使用機材
--[[ウルトラマリン スピットファイアMk.IX>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%B3_%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%A2]]
---ブリタニア軍のMk.Vにマーリン60を搭載したもの。
--ノースリベリオン P-51B
---ブリタニア向けモデル「マスタングIII」
-使用武器 [[M1928A1短機関銃>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%97%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%96%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%B3]]ほか
--ドラムマガジン付きのものを二挺持ちしている。
--遠距離戦に不向きな短機関銃であることを指摘されたが、超至近距離に接近すればよいと取り合わなかった。
-愛称 「ホービー」
-その他
--オラーシャ帝国キエフの生まれで、実家の商売の都合でオストマルクのレンベルクに移住。
---実態はエウゲーニャの魔法力発現によりウィッチ幼年訓練学校に入学させるためだったとされる。
--初等訓練で航空ウィッチの適性が判明し、グラーツの上級学校に進学。
--1939年に少尉任官を予定していたが、ネウロイの侵攻により初陣前にガリア、ブリタニアへと避難した。
--ブリタニアで再編されたオストマルク軍で再訓練を受け、少尉任官してブリタニア防空に従事、初戦果を挙げ中尉に昇進。
---北アフリカ戦線・チュニジアに派遣されて戦いを続け、第43戦闘機中隊の隊長となる。
--1944年秋のガリア解放後、ブリタニア空軍の要望でオストマルク飛行隊を北アフリカに残すこととなり、そのための新設部隊の戦闘指揮官に任じられている。
---あわせて使用機材もP-51Bに更新。
--童顔で人懐っこい人柄ながら、生粋のファイターパイロット。
-イメージモデル [[エウゲニウシュ・ホルバチェフスキ>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%A6%E3%82%B2%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD]](1917-1944)
--撃墜数 17.5
--愛称 「ホービー」
--その他
---ポーランド人エース・パイロット。ドイツのポーランド侵攻後イギリスに亡命し、イギリス空軍のポーランド人部隊で活動。
---スタニスワフ・スカルスキの率いるポーランド人戦闘機隊の一員として北アフリカ戦線に参加した。
---1944年、戦死。
-出典 WORLD WITCHES

***&aname(アレクサンドラ・シェルバネスク,option=nolink){}[[アレクサンドラ・シェルバネスク]]
#include_cache(アレクサンドラ・シェルバネスク)

***&aname(ラウラ・トート,option=nolink){}[[ラウラ・トート]]
#include_cache(ラウラ・トート)

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**カールスラント空軍

***&aname(ヴェスナ・ミコヴィッチ,option=nolink){}[[ヴェスナ・ミコヴィッチ]]
#include_cache(ヴェスナ・ミコヴィッチ)

***&aname(ヴァルトラウト・ノヴォトニー,option=nolink){}[[ヴァルトラウト・ノヴォトニー]]
#include_cache(ヴァルトラウト・ノヴォトニー)

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**ブリタニア空軍

***スターシャ・スカルスキ
&strong(){STASJA SKALSKI}
-所属 ブリタニア空軍第601飛行隊
-階級 少佐
-誕生日 11月27日
-愛称 「スカル」
-使用機材
--[[ウルトラマリン スピットファイアMkVIII>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%B3_%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%A2]](JF447)
-その他
--オストマルク陥落後はガリアやブリタニアに撤退し、同朋と共にオストマルク義勇軍として戦い続けた。
-イメージモデル [[スタニスワフ・スカルスキ>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%AD]] (1915-2004)
--撃墜数 22
--その他
---第二次世界大戦におけるポーランド人トップエース。
---任官後[[ポーランド侵攻>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E4%BE%B5%E6%94%BB]]で初戦果を挙げ、ルーマニア・地中海ルートでフランスに脱出、志願して英本土へ渡り[[バトル・オブ・ブリテン>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%86%E3%83%B3]]に参加。
---1943年10月、3名のエース(スカルスキ、[[ヴァツワフ・クルール>http://pl.wikipedia.org/wiki/Wac%C5%82aw_Kr%C3%B3l]]、[[カロル・プニャック>http://www.samoloty.pl/index.php/ludzie-lotnictwa-hobby-1807/podniebne-asy-hobby-1808/polskie-hobby-2189/pniak-karol-hobby-2360]])を含む15名で構成される[[ポーランド戦闘機小隊(PFT)>http://pl.wikipedia.org/wiki/Polski_Zesp%C3%B3%C5%82_My%C5%9Bliwski]]のリーダーを務め、北アフリカ戦線に派遣され戦果を挙げる。この小隊は『スカルスキのサーカス』とも呼ばれた。
---PFT解散後は第601飛行隊「カウンティ・オブ・ロンドン」中隊長を経て、第133航空団司令としてノルマンディー上陸作戦を迎える。
---1944年9月に実戦勤務を終え、アメリカの指揮幕僚学校に配属。
---対独戦終了後は英空軍から高い地位を提示されたが、ソ連支配下の祖国に帰還。共産党員が支配するポーランド空軍に勤務。
---冷戦が高まると西側から帰国した他のパイロット同様「スパイ」として告発され、非人道的な「査問」を受けた上に死刑宣告。のち終身刑に変更され、スターリン死後の1956年、8年の獄中生活を経て釈放された。
---釈放後はポーランド空軍に復帰。後年は併せてポーランド飛行クラブの会長を務め、ワルシャワで死去。退役後に准将を授与されている。
-出典 第五〇一統合戦闘航空団全記録弐 第二集

***ヴィクトリア・ウルバノウィッチュ
&strong(){VICTORIA URBANOWICZ}
-所属
--オストマルク空軍
--ブリタニア空軍
---第145戦闘機中隊
---第303戦闘機中隊
----第303戦闘機中隊はブリタニア空軍内の亡命オストマルク人部隊。
----義勇オストマルク人部隊のみならずブリタニア空軍全体でももっとも戦果の多い最優秀部隊として知られた。
---第1オストマルク航空団(第131航空団)
--ペルシア派遣リベリオン義勇ウィッチ部隊
-階級 少佐
-身長 168cm
-年齢 21歳(1944年)
-誕生日 3月30日
-使い魔 [[ドラケナー>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%B1%E3%83%8A%E3%83%BC]]
-固有魔法 弾道操作
-使用機材 [[ウルトラマリン スピットファイアMk.V>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%B3_%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%A2]]
-使用武器 [[ボーイズMk.I対装甲ライフル>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%A4%E3%82%BA%E5%AF%BE%E6%88%A6%E8%BB%8A%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95%E3%83%AB]]
-その他
--オラーシャ国境地帯のアウグストゥフの出身。
--ウィッチとして士官学校を卒業後、飛行教官となり、ネウロイの侵攻にあたってはウレズで編成された飛行教官部隊で戦闘参加。
---速度の遅い旧式ユニットだったため大きな戦果はなかった。
--生徒を引率しガリアへと避難。教官たちと新たな部隊の編成を試みるが、ガリア空軍の勧めでブリタニア空軍への編入を選んだ。
--ブリタニア空軍では第145戦闘機中隊を経でガリア防衛に活躍したのち、第303戦闘機中隊に配属。
---第303戦闘機中隊では中隊長が負傷したため代わって中隊長となり、さらに戦果を伸ばす。
--ダイナモ作戦で亡命オストマルク政府の無定見を正面から批判して指揮官を解任された。
---その後はリベリオンへと派遣されて欧州情勢を伝え、臨場感のある語りでリベリオン市民を魅了しウィッチへの憧れを盛り上げた。
--しかしウィッチとしてのキャリアが終わりに近づく中、ウィッチの立つべき前線から離れ続けることに耐えきれず、秘密裏にペルシア派遣リベリオン義勇ウィッチ部隊に参加する。
---現地では黒江綾香大尉麾下の扶桑陸軍飛行64戦隊と共闘した。
---専用ユニットを持たなかったため扶桑軍から借りた二式戦闘脚「鍾馗」で出撃して戦果を挙げたが、全損させている。
----空冷ユニットになれなかった可能性が指摘されている。
--ペルシアからブリタニアへ帰還したのち、改めて大使館付き武官としてリベリオンに派遣。
---リベリオンが気に入ったらしく、退役後はリベリオンに居住して航空会社・製造メーカーに勤務している。
--厳しい教育を受けた厳しい教官で、人当たりは柔らかいが曲がったことを嫌う、腹芸が苦手な性格。
---ダイナモ作戦後の解任も、この性格が災いして上層部からもともと受けが悪かったことが影響している。
--ウィッチとしては敢闘精神豊富で部下を見捨てず、上官としては非常に慕われた。
---後世、もし最前線で飛び続けていたらどれほど戦果を伸ばしたか、とよく言われている。
-イメージモデル [[ヴィトルト・ウルバノウィッチュ>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%8E%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81]](1908-1996)
--撃墜数 18
---開戦前の1936年8月に撃墜したソ連偵察機1機を含む。
--その他
---二次大戦開戦前からポーランドで戦闘機パイロットとして活動。
---ドイツのポーランド侵攻後、ルーマニア、フランスを経てイギリスに亡命。
----イギリス空軍第145戦闘飛行隊に配属され、バトル・オブ・ブリテンで撃墜戦果を挙げた。
----しかし亡命ポーランド空軍の上層部から嫌われていたため1941年に前線から外され、ポーランド系アメリカ人の支援を得るためにアメリカ合衆国に派遣される。1942年には在アメリカ合衆国ポーランド大使館付の空軍武官となる。
---1943年の一時期には自らアメリカ軍に望んで日中戦争に参戦し、義勇アメリカ人部隊フライング・タイガースの一員として日本軍機と交戦した(ポーランド人パイロットでは唯一の事例)。
----非公認戦果ではあるが。本人は二式複座戦闘機「鍾馗」の撃墜を報告している。
---戦後、共産化したポーランドに帰国したがスパイ容疑で誤認逮捕されて嫌気が差し、アメリカに居住する。
----ポーランド民主化後に幾度か帰国し、准将(Generał brygady)の階級を贈られた。
-出典 『エーリカ・ハルトマン1941』/WORLD WITCHES 2018

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