アレクサンドラ・シェルバネスク

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&strong(){ALEXANDRA ŞERBǍNESCU}
-所属
--オストマルク空軍第7戦闘航空群第57戦闘飛行隊
--カールスラント空軍第3戦闘航空団第1オストマルク独立飛行隊
-階級 中尉
-誕生日 5月17日
-使用機材
--[[メッサーシャルフ Bf109>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%88_Bf109]]
-その他
--開戦前からウィッチとして飛行しており、第7戦闘航空群第57戦闘飛行隊にて南方国境線の防衛任務に就いていた。
--オストマルク陥落の際に殿軍として民衆の撤退を助け、そのまま敵中に残されるが、壊滅を前にしてカールスラント空軍JG3に救出され、共にオラーシャ方面へ撤退。
---ウィッチが地上整備員を背中に乗せて強行突破するほど苛烈な撤退戦となった。
--その後もJG3所属のオストマルク人部隊として戦闘を続け、タイフーン作戦時には新設の第1オストマルク独立飛行隊に所属して戦った。
---地上ネウロイとの戦闘中に負傷、顔に傷を負っている。
--勇猛果敢な戦い振りを買われ、第503統合戦闘航空団が設立された際にスカウトされた。
-イメージモデル [[アレクサンドル・シェルバネスク>http://ro.wikipedia.org/wiki/Alexandru_%C8%98erb%C4%83nescu]] (1912-1944)
--所属 ルーマニア王国空軍
--愛称 「アレク(Alecu)」
--撃墜数 44
--その他
---[[スターリングラード>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E6%94%BB%E9%98%B2%E6%88%A6]]、[[東部戦線>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%A8%E6%88%A6%E7%B7%9A]]で活躍した、連合軍機に対する[[ARR>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%A2%E7%A9%BA%E8%BB%8D]]トップエース。撃墜数では1位だが、ARR方式の勝利数算定法に基づきルーマニアでは第2位のエースとされている。
---[[オルト州>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%83%88%E7%9C%8C]]コロネスティーヴライチに生まれ、1933年に[[シビウ>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%93%E3%82%A6]]の歩兵士官養成学校を卒業して少尉任官、[[ブラショフ>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%95]]の山岳兵部隊に入隊。
---1939年初頭に空中観測員学校に入校、同年に飛行資格を取得し、1940年に飛行学校入校。10月31日に戦闘操縦士資格を獲得、[[PZL P.11>http://ja.wikipedia.org/wiki/P.11_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)]]、[[IAR80>http://ja.wikipedia.org/wiki/IAR-80_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)]]、次いで[[Bf109E>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%88_Bf109#Bf_109E]]を操縦。
---1942年4月、中尉で第7戦闘航空群に転属し、第57戦闘飛行隊の一員としてスターリングラードで初出撃するが、間もなく飛行隊長が戦死したため、隊長代理を命ぜられた。
---同9月17日、スターリングラード北東でYak-1を撃墜、これを皮切りに戦功を重ねると、1943年3月6日に大尉に進級。その後、30名の選抜パイロットから成る[[ドイツ空軍第3戦闘航空団>http://en.wikipedia.org/wiki/Jagdgeschwader_3]]内の実験部隊「ドイツ=ルーマニア王国戦闘団」が編成されると、この合同部隊に配属されるARRの三つの飛行隊のひとつ、第57戦闘飛行隊の指揮官に任命された。
---1943年6月1日に同戦闘団が解散すると、シェルバネスクとその飛行隊は第1ルーマニア航空軍団に属し勝利を重ね、7月5日には[[航空有功騎士十字章>http://ro.wikipedia.org/wiki/Ordinul_Virtutea_Aeronautic%C4%83]]を授与された。
---その4日後、敵軍縦隊を機銃掃射中に地上放火で顔面を負傷。辛うじて基地に不時着したものの、傷が癒えたばかりの8月20日に再び負傷。顔面に傷跡を残す事となった。
---8月から9月にかけて大きくスコアを伸ばし、[[ミハイ勇敢公勲章>http://en.wikipedia.org/wiki/Order_of_Michael_the_Brave]]三級、[[一級鉄十字章>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E7%B4%9A%E9%89%84%E5%8D%81%E5%AD%97%E7%AB%A0]]を授与される。10月10日には敵味方の中間地点に不時着するも、第4山岳師団に救出された。
---ソ連との戦闘が激化すると[[カンタクジノ>http://en.wikipedia.org/wiki/Constantin_Cantacuzino_(aviator)]]のスコアを追い抜くが、[[アメリカ陸軍航空隊>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E9%99%B8%E8%BB%8D%E8%88%AA%E7%A9%BA%E9%9A%8A]]の参戦により、1944年8月18日に[[P-51>http://ja.wikipedia.org/wiki/P-51_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)]]に撃墜され戦死。機体の無線機が故障しており、高高度での奇襲時に僚機からの警告を聞くことが出来なかったためとされる。
---ARRパイロットでも受勲の前例のないミハイ勇敢公勲章二級の授章を推薦されたが、その死からわずか5日後にルーマニアが[[連合国>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E5%90%88%E5%9B%BD_(%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6)]]側に陣営を鞍替えした為、実現しなかった。
---[[枢軸国>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%A2%E8%BB%B8%E5%9B%BD]]への〝裏切り〟前に戦死した事により伝説となったパイロットで、共産主義体制崩壊後に威光を取り戻し、[[ブカレスト>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%88]]の大通りのひとつにその名を残している。
-出典 第五〇一統合戦闘航空団全記録弐 第三集

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