東映
(アメコミ用語)
概要
日本の映画会社。
本邦では、いわゆる「特撮」(特殊映像技術を多用した映画作品で、主にヒーロードラマをいう)や、関連会社の東映動画を通じたアニメーション作品が有名。
1970年代末から、マーベル社はコミックスの出版だけでなく、コミックスのキャラクターを用いた事業(映画、TVなど)への拡張を狙った。このため
スタン・リーがニューヨークを離れ映像事業の中心である西海岸に転居するなどを行った。
結果、1970年代末から1980年代初頭にかけて、マーベル社(当時は「マーベル・コミックス・グループ」で、協業した作品のコピーライトには"M.C.G."と記載された)と協業。一般に、「三年間お互いのキャラクターを自由に利用できる契約」とされているが、最終的に期間は四年半近くとなり、後半は日本でのショーの成功に重きが置かれた様子である。日本では特撮4本とアニメーションを2本を制作した。
当時のマーベル・オリエント(日本と韓国を管轄)のCEOであったジーン・ペルク(Gene Pelc)は、フットワークの軽い人物であり、石ノ森正太郎(当時、石森)との知遇を得て、東映にも顔を出していた。東映からも「うちは出版社じゃないからコミックスは出せないけど、なんかやろう」というような関係になっていた。
※ジーン・ペルクは、組織上ではCadence Industries(当時のマーベルコミックスの親会社)のライセンシング部門からの派遣である。
結果、ライブアクションのヒーローものとアニメーション作品を制作した。マーベルはライブアクションのヒーローもの第4作に当たる
太陽戦隊サンバルカンを最後に提携を打ち切り、契約に従って「契約中に制作された東映のキャラクターを自由に使える」という条件で引き揚げた。なお1980年代中ごろまで、マーベルスタジオ制作のアニメーションに、東映が協力するという関係は続いた(例えばトランスフォーマーなど)。
なお(東映とは関係ないが)、ジーン・ペルクは、初めて東京を訪れていたローマ法王ヨハネ・パウロ二世の一団と接触し、マーベル史上初の法王の伝記コミックを作っている。
協業作品
特撮
マーベルの看板キャラクター、
スパイダーマンを相当アレンジ。「ヒーローが巨大ロボに乗って最終決戦をする」というフォーマットを確立した。このため「マーベルが頭を抱えた」とか「二度と放送できない黒歴史番組」とか言われたが、一応別次元(Earth-51778)の
スパイダーマンとしては認知されており、
Spider-Verse展開ではついにコミックスに
レオパルドン共々登場、最終兵器の役割を果たした。
実はほぼ同時期、米国では
スパイダーマンの実写番組を放送しており、マーベル側も東映の作品を日本限定と考えていたらしい。また日本側は米国の実写
スパイダーマンを研究して、アクションはそれを越えるものをつくろうとした。
英語では、本作を日本語風に"Spaidaman"と書くことがある。
バトルフィーバーJでの反省にたち、日本で日本人が見る番組に、無理にマーベルのキャラクターを当てはめる必要はないと決め、マーベル色をなくした作品。
ただし、企画段階ではマーベルのキャラクターを使ったものが考えられていた。
マーベルの意匠は、ヘドリアン女王を北欧神で死の女神ヘラを基にデザイン(特に角)した。
「戦隊ヒーロー」+「ヒーローが巨大ロボに乗って最終決戦をする」というフォーマットを継続。統一されたヒーローのデザイン、等身大での必殺技、敵内部のドラマなど、実質的に現在の「スーパー戦隊」の基礎となるその他のフォーマットを確立した。
「スーパー戦隊」初の3人戦隊。
ヘドリアン女王を登場させ、
電子戦隊デンジマンとの継続性を残したが、演技の上での問題となったヘドリアン女王の角をなくしたため、マーベルの意匠がなくなってしまった。
それでも
スタン・リーはこの作品を気に入り、今までの作品と合わせて米国に持ち帰って、サンバルカン推しでTV局に売り込んだが、売り込みには失敗する。
アニメーション
2時間スペシャルアニメ。"Tomb of Dracula"が原作。
上記が好評だったため、フランケンシュタインを制作。原作がマーベル。
その後も東映アニメーションは、マーベル・スタジオが手がけたハズブロ映画三部作(G.I.ジョー:ムービー、トランスフォーマーズ:ムービー、マイ・リトル・ポニー:ムービー(1986年版))でアニメーション制作に関わるなど、関係を維持した。
この協業で"Shogun Warriors"を獲得したという話があるが、検証してみる。