ヴェルキンとアレシアのスケッチ その4

 オスミナ事変に向けて話をまきまくる。というより、オスミナ事変の先の大北方戦争に向けて、話を急いでいるわけであるが。やはり国家間の戦争こそ帝國SSの華であるわけで。


 ぱぱぱん、という銃声が響き、うっすらとま白い硝煙が周囲を覆ったところで、蛮声を上げた男達が建物の中に突入してゆく。屋根裏の窓から抜け出し、屋根づたいに逃げようとした無頼漢が、再度の鉄砲の一斉射撃を喰らって身体をくるくると回しながら地面へと落下し叩きつけられた。日はすでに中天から少し落ちたあたりで、街のあちこちから煙が立ち、男達の蛮声が聞こえてくる。
 ヴェルキンは、無頼漢達のたまり場の一つの攻略を直接指揮しつつ、あちこちから走ってくる伝令に新しい指示を書いたメモを渡して、この町全体で決起した男達の指揮を取り続けていた。

「先生! 南の門の無頼どもが、城壁の中に立てこもっていて、手が出せないそうでさ!」
「ここを攻略したら、僕が直接指揮を取りに向かいます。無頼達が街に散らばったりしないよう、しっかり包囲して見張るように伝えて下さい」
「へいっ!」

 鉛玉とレンガが飛び交う中、物陰に隠れながら走ってきた伝令にそう指示を与えると、ヴェルキンは手早く帳面に今しがた下した指示を書つけ、頁を切り取って伝令に渡した。興奮で頭に血が上っている素人に言伝したとしても、きちんと指示事項が伝わる可能性は低い。彼は長い戦場経験からそれを身に染みて理解していて、だからこそ重要な指示事項は必ず文章で伝えるようにしていた。時間と名前を記してからメモを渡し、元の部署へと帰らせると、この無頼のたてこもっている酒場を攻めている隊の隊長がヴェルキンの元にやってくる。

「先生、奴ら階段の踊り場にバリケードを築いていて、手が出せません。どうします?」

 元は皇帝軍の戦列槍兵の従士だったという鋳掛屋の親父が、血のにじんだ布を額に巻きつけた格好でヴェルキンに指示を求めた。

「両隣の建物には無頼は立てこもっていないですね?」
「はい。そっちはこちらが押さえました。それぞれ十人づつ回せます」
「鉄砲隊を建物の中に入れて、牽制射撃をさせます。その隙に屋根裏から中に突入させましょう。突入隊を編成して下さい」
「了解しました」

 男は身体が覚えているのか、右腕を地面と垂直に上げて左胸を拳で叩くと、すぐに仲間の下へと走っていった。続いて、東の門を解放した隊の隊長をやっている金物屋の親父が、ヴェルキンの元へとやってくる。

「先生、東、西、北の門とその周辺は確保しやした。大通りもこっちが押さえていやす。ここを攻略したら、どうします?」
「敵が逃げ出したら、南の門へと向かう者はそのまま行かせて下さい。他のところへ向かう者は、南の門へと向かうよう誘導して下さい。こちらはまだ百六〇人は戦えますが、無頼はもう五〇も残っていないでしょう。できれば生かしたままつかまえたい」
「なんで皆殺しにしちゃいけねえんです?」
「奴らを裏で操っていた連中の名前を吐かせませんと。多分そいつらはもう逃げ出してしまった後かもしれませんが、後で治安警察か憲兵隊に告発するための証人に使えます」

 無頼達のたてこもっている酒場の両隣の建物の屋根から、次々と手に得物を持った男達が飛び移り、窓から中に鉄砲を射かけてから突入してゆく。それを見上げながらヴェルキンは、ひっきりなしにやってくる伝令に指示を下しメモを渡してゆく。そんな彼を見ながら、金物屋の親父は心の底から感心した様子で溜息をついた。

「わかりやした。あの外道な商人どもを告発するためなら、無頼どもを生かして捕まえやしょう。本当に先生が俺達の味方でいてくださって助かりやした」
「僕は、ただ小学校の教師として、大過なくやってゆきたいだけなんですけれどね」
「それを言ったら、今回の決起に参加した奴で、人様に顔向けできない真似をしたい奴なんざいやしませんぜ。俺だって職人としてまっとうに仕事をしてゆければそれで満足なんでさ」
「確かに」

 ヴェルキンと金物屋の親父は同時に声を上げて笑うと、すぐに真面目な顔に戻った。

「それぞれの門の警備に二〇人、通りの巡回に一〇人づつ回して、残りは全員南の門に集めて下さい。そこで決着をつけます。あと、とにかく火事を起こさないように気をつけさせて下さい。追い詰められた無頼が、火をつけて回るかもしれません。そいつらは容赦なく始末してしまって下さい」
「了解しやした」

 酒場の入り口から、歓声を上げつつ傷だらけになった男達が、ぼろぼろの血塗れになった無頼どもを引きずって外へと出てきたのを確認して、ヴェルキンは次の指示を下すべく彼らに近づいていった。


 ヴェルキン達が南の門に立てこもった無頼達を掃討し終えたのは、もう陽が暮れる直前であった。
 南の門の鐘楼などに立てこもった無頼達を、ヴェルキンは、燻製用の松の木の枝などを集めさせて松明を作らせ、鉄砲の援護射撃の元で壁の内側や鐘楼の入り口付近に火をつけて放り込ませ中を燻しあげた。さらに、酒瓶に灯用の油を入れ、よく油をひたしたボロ布を注ぎ口に詰めたものに火をつけて窓から放り込ませた。煙と炎にまかれた無頼達が、逃げ場を失い次々と火達磨になって鐘楼から落ちてくるたびに、男達は歓声を上げた。

「やった! やった! 町を取り返したぞ!!」
「万歳! ヴェルキン先生万歳!!」

 南の門を奪い返したところで、歓声を上げて駆け寄ってくる男達にもみくちゃにされ、さらには彼らの肩に担ぎ上げられたヴェルキンは、それでもなお冷静さを失わず大声をあげた。

「皆さん! 最後の仕上げです! 全ての門を閉ざし、見張りを置いて篝火を焚いて下さい! 怪我をした人は公会堂にお医者さんがいますから必ず見てもらうように。明日は残った無頼を狩り出します。門の警備と、通りの巡回は、交代で行って、休める時に少しでも休んで食事もとって下さい!!」
「「「おうっ!!」」」

 ヴェルキンの指示を受けて、男達は一斉に得物を突き上げ、そしてそれぞれの隊長の元に集まり、指示を受けて散ってゆく。
 地面に下ろされたヴェルキンは、二度三度頭をかくと手元の隊の男達を集めた。

「今晩は、僕は町を見て回ります。隊を三つに分けて、交代で見回りについてきてください」
「先生は休まれちゃいかがです? 明日も先生には指揮をとってもらわにゃならんですし」
「夜は長いです。それぞれの部署の皆さんが気を抜いているところを残った無頼達に襲われたら、ひとたまりもありません。僕が見て回ることで皆の緊張を維持させられますし、安心もさせられます。町の無頼を一掃するまでは、僕は休むわけにはゆきませんから」

 周囲の男達は納得したような顔になると、急いで組を作り始めた。


 町の城壁の外の北側に置かれている無縁墓地に無頼の死体が積み上げられてゆき、深く掘った穴の底へと投げ込まれてゆく。死体の数は軽く七〇を超えていた。

「大いなる全能の主よ、この者達は信仰から外れ悪に染まりその報いを受けました。願わくば彼らに主の許しが賜れますように。彼らの魂が贖罪を経て主の御許に達せられますように。かくあれかし」

 町の教会の司祭が簡単ながらも葬儀を執り行なう場に、ヴェルキンは、町の組合の代表らと一緒に参列していた。
 暴動が起こってからすでに三日が過ぎ、捕まえられて牢に放り込まれている無頼の数は三〇を超えていた。立ち上がった町の男達のけが人の数も五〇を超え、死んだ者も一〇名近くいる。死んだ男達の葬儀もつつがなくとりおこなわれ、最後に無頼達の葬儀が行われて全てが終わりになる予定であった。
 町の治安は、すでにそれぞれの組合から男達が交代で参加している自警団によって維持されている。暴動が起きた後に町から逃げ出そうとした商人の数は少なくなかったが、彼らの大半は町で禁足をくらっていた。
 司祭の祈りの言葉が終わり香油を死体にかけ終わると、ヴェルキン達はそれぞれ手にしたスコップで穴に土を放り込み死体を埋め始めた。死体を埋め終わったところで再度司祭の祈りが捧げられ、皆で聖印を切って葬儀は終わった。

「先生、これからどうしやす?」

 葬儀が終わったところで、暴動の一番最初にヴェルキンにつめよった農機具職人の親方が話しかけてきた。

「町の参事会と話し合いをもって、それから領主様のお許しを求めにゆきます」
「今更ですかい?」
「今だからです。暴動を起こしたのは事実ですし、そのためにたくさんの人が死にましたし、建物も壊れました。誰かが責任を負わねばなりませんが、それは指揮官である僕が負うべきでしょうから」
「待って下せえ! 先生を担ぎ出したのは俺達だ。先生が責めを負われる必要はねえ」
「いいえ。今回の暴動を指揮したのは僕です。町の皆にも、僕に何があっても軽挙妄動しないよう、よく言い聞かせておいて下さい」

 あっけらかんとした表情でそう口にしたヴェルキンに、男達はずいぶんとばつの悪そうな表情になった。


 町の参事会で事の次第を報告し、それから領主の元に出頭したヴェルキンは、そのまま牢屋に入れられてしまった。有無を言わさず彼を牢屋にぶち込んだ代官の苦虫を噛み潰したような表情が、今回の町の騒動に対しての領主側の立場を表しているようで、ヴェルキンは内心で同情をすら覚えてしまった。
 牢屋はじめじめしていて薄汚く、寝台にはしらみが湧いていたが、三度三度の食事は出されたし、拷問にかけられることもなかった。ここら辺に領主としてヴェルキンをどう扱ったものか迷いが見えるようで、彼は相変わらずのほほんとした日々を過ごすことにした。少なくとも、今日明日に処刑されるわけではないのならば、あれこれ思い煩うだけ無駄である。なまじ戦場で明日をも知れぬ日々を過ごしてきただけに、彼はそうした割り切りが非常に早かった。
 無精髭も伸び、服の縫い目にたかるしらみを潰すのが日課となっていたヴェルキンが牢から出されたのは、牢屋に入れられてから二週間ほども経ってからであった。警吏に両手に鎖をはめられ、連れて行かれた先の部屋にいたのは、帝國軍の憲兵将校であった。

「ヴェルキン・トルステンヌス・ゲルトリクスだな」
「今はただのヴェルキンですが」

 額の秀でた細面の憲兵将校は、青色の瞳を冷たく光らせてヴェルキンの目を真っ直ぐに見つめている。
 その視線を同じ様に見つめ返したヴェルキンは、落ち着いた声で受け答えをした。

「貴様が今回の暴動事件の首謀者として、告発されている。容疑を認めるか?」
「はい」
「……普通は、容疑を否認するものだぞ? 暴動を扇動したと認めれば、まず縛り首だ」
「まあ、実際に暴動を指揮したのは事実ですから」

 あっさりと容疑を認めたヴェルキンに、憲兵将校は呆れ顔になってそう言葉を続けた。
 そんな相手に向かって、ヴェルキンは普段どおりの態度で答えた。

「一つ質問をよろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「治安警察ではなく憲兵隊が来たということは、暴動はこの町だけではなく、北方全土で発生しているということでしょうか?」
「……貴様の経歴は調べた。確かに噂通りの利け者だな」

 ヴェルキンの問いに直接答えようとはせず、憲兵将校は書類挟みを開いて何枚か書類をめくった。

「暴動を指揮した理由は?」
「暴徒と無頼の戦闘が無秩序に広がり、最終的に町を崩壊させかねませんでした。僕が指揮をとれば、最低限の被害と死傷者で、暴動を収束させられる自信がありました」
「……確かに、他の町や村での暴動と違って、女子供老人にほとんど被害は出ておらず、火災も発生していない。だが、ならばなぜ領主に助力を求めなかった? もしくは、無頼漢討伐の指示を受けようとしなかった?」
「これは推測ですが、町の領主は多数の商人から借金をしており、彼らが穀物価格を操作するのを見逃させられていたと考えたからです。今年の冬小麦も春小麦も収穫は決して悪くはありませんでした。しかし、穀物価格は高止まりしたままで、明らかに人為的に品不足とされていました。しかも、町の羅卒は無頼が徒党を組んで町を我が物顔でいるのを阻止しようとはしていませんでした。これは領主の黙認がなければやれない事ですから」

 しごく冷静に淡々と状況を説明するヴェルキンに、憲兵将校は、さらに難しい表情になった。

「では、暴動の後、参事会に対して状況を説明し、領主の元に出頭したのは?」
「町の施政権は参事会が有している以上、指揮を取った者として報告義務があると考えたからです。そして、暴動の責任者として、領主権を犯した以上、領主裁判にかけられる義務があるでしょうから」
「……つまり、貴様は、今回の暴動の責任を全て自分で背負って処刑されるつもりなのだな?」
「……まあ、そうとも言えるかもしれません」

 あっさりと憲兵将校の言葉を認めたヴェルキンに、彼は、ほとほと呆れた表情になって書類挟みを閉じた。

「貴様はこの町で生まれたわけでもあるまい。そんな義理もないのに何故そこまでする?」
「他にできる事がないからです」
「つまり?」
「僕の経歴を調べられたそうですが、ならば僕が領地も財産も地位も全て売り払ってしまった事はご存知でいらっしゃいますね? 僕は、本で読んだ知識と戦争のやり方しか知らない人間です。幸いにしてこの町で教職につく事ができましたが、今のままですとそれもあと何年も続けられはしなかったでしょう。実際、僕が指揮を取らなかったならば、多数の死傷者が出た上に火災で町は焼け、学校どころではなくなったでしょうし。まあ、そういうことです」

 ある種の諦観をにじませた笑顔でそう答えたヴェルキンに、憲兵将校はしばらく黙って彼を見つめていた。

「我々がこの町に派遣されたのは、今回の暴動も理由ではあるが、貧民街に赤痢が発生したという報告を受けたからだ」
「!? それで、感染は?」

 さすがに驚愕の表情浮かべ、厳しい視線となったヴェルキンに、憲兵将校は淡々と説明を続けた。

「幸い、早い段階で罹患者の隔離が行われたため、被害は貧民街だけで収まっている。さすがに今回の暴動で参事会も懲りたようだな。貴様がいない状態で、再度組合の暴走が起きれば、今度こそ町は壊滅しかねんと判断したようだ」
「そうですか。皆無事でしたか。よかった」
「よくはない。今回の我々の派遣は、領主からの要請によるものではない。北方辺境候から戒厳令発令予備段階の準備命令が出たためだ」
「……北方全土が騒擾状況におちいっているのですか?」
「飢えた人間がどうなるか、知らぬ貴様でもあるまい。つまり、そういう事だ」

 憲兵将校の冷たい視線をあびつつ、ヴェルキンは右手をあごに当てて考えこみ始めた。
 「内戦」が終わってすでに二年が経っている。その間北方辺境は、領主と教会の権威と権力が失われ無秩序が支配してきたといってもよい。その為に北方は、土地や生活必需品が辺境外の連中から投機対象とされ、経済的に立ちゆかなくなるまで打ちのめされた。その結果として、この町のみならず、各地で暴動や疫病が発生しているのだという。すでに領主は統治者としての能力を失っており、かといって「帝國」中央が統治を肩代わりできているわけでもなく、その隙間を埋めるために北方辺境候が軍政を敷くことになった。

「それでも戒厳令を布告しないのは、穀物市場の統制に自信がないからですね。下手に統制すれば、闇市場に穀物が流れて食料価格が暴騰する。そうなったら北方全土で飢えた民衆が一斉に暴動を起こしかねない。それを鎮圧するためには、帝國軍に全面動員をかけなくちゃならなくなる。さすにがに今そんな真似をやったら、中央政府への信頼が全て吹っ飛ぶ」
「……頭が良すぎるのも考えものだな。よくまあ今までの話からそこまで読んだものだ」
「……………」

 厳しい表情で見つめてくるヴェルキンを見つめ返し、憲兵将校は話を締めくくった。

「今までの話は全て貴様の胸にしまっておけ。貴様は起訴猶予処分とし、この町から出てゆく事は禁止する。一日一回は本官の元に出頭すること。次に騒動が起きれば貴様は軍事法廷に立たされることになる。こちらからは以上だ。家に帰ってよし」


 釈放されたヴェルキンは、一度下宿に戻って着替えを受け取ると、風呂屋に行って身づくろいをした。蒸し風呂で汗を流し、よく髪を洗い、無精髭を落とす。しらみの湧いた衣服を洗濯用の蒸し器の熱気で蒸してから石鹸で丁寧に洗い、よくしぼる。下着からなにから清潔なものに着替え、さっぱりしてから下宿に戻った。
 下宿の前では、街の皆が待ちかまえていて、ヴェルキンの釈放を心から祝ってくれた。ミハウ親方はまだ寝台から立ち上がる事はできないでいたが、意識ははっきりしていて、ヴェルキンが一連の騒動で果たした役割も知っていて、繰り返し礼を述べた。おかみさんも、アレシアも、ヴェルキンの無事を心から祝ってくれて、そして無茶をしたことで何度も文句を言われる羽目になった。
 そんなこんなでさすがに日も暮れて皆が家路についてから、自室の寝台で横になっていたヴェルキンの元にアレシアがやってきた。

「寝てた?」
「いや、ぼうっとしていた」

 ここしばらくの騒動で見も心も休まることが無かったのであろう。アレシアは随分と憔悴した様子で、そして今にも倒れそうな雰囲気があった。ヴェルキンは、身体を起こして寝台に腰掛けると、彼女に椅子を勧めた。

「とりあえず皆は無事だったし、町の秩序も回復しそうでよかったよ」
「うん、そうだね」
「親方の具合は?」
「そろそろ骨も繋がるから、起き上がれるようになったら、筋を付け直すように身体を動かすんだって」
「じゃあ、経過は順調だね。よかった」

 ヴェルキンが微笑んでうなずいたのを見て、アレシアはちょっと不満そうな表情になって、彼のことをにらみつけた。

「それで、ヴェルキンはどうだったの? 裁判とか大丈夫なの?」
「僕の身柄は憲兵隊に移されて、起訴猶予だそうだよ。次に何か仕出かさない限りは、普通に暮らせるらしい。まあ、要監視対象だそうだから、町の外へは出られないけれど」
「それって、本当に大丈夫なの? 急に連れていかれたりとかしない? わたし嫌よ、あなたが急にいなくなっちゃうなんて」
「多分大丈夫だよ」
「本当に?」
「本当だって」

 むうっとした表情になって見つめ返してくるアレシアに、ヴェルキンは穏やかに笑い返した。

「もう、本当に心配したんだから。判ってる?」
「うん、判るよ」

 なんというか、のれんに腕押しの様子なヴェルキンに、アレシアはほほをふくらませて彼をにらみつけた。

「親方は大怪我するし、ヴェルキンはいなくなっちゃうし、本当に不安だったんだから」
「すまない」
「わたし、嫌よ、ヴェルキンと離れ離れになるの」

 アレシアは、不機嫌そうな表情のまま、目を潤ませてヴェルキンの事をにらみつけている。二度三度と彼女がまばたきをすると、一滴涙がほほをつたってこぼれた。

「本当にごめん」
「じゃあ、約束して。二度とわたしを置いてゆかないって」
「……判った。約束する」
「約束したからね? いい、絶対よ?」
「ああ」

 女の子の涙にはかなわないな、などと思いつつ、ヴェルキンは大きくうなずいた。
 彼の答えに満足したのか、ようやく機嫌を直したアレシアは、ゆっくりと立ち上がってから彼のほほに唇をつけると、真っ赤になってそのまま部屋を飛び出していった。
 何が起きたのか、一瞬判断がつかなかったヴェルキンは、アレシアが部屋を出て行ってからようやく彼女が何を言いたかったのかを理解した。

「……なんで、よりによって、こんな僕なんだ。もっといい男は他にいくらでもいるだろ?」

 呆然とした表情で開けっ放しの扉を見つめつつ、そうヴェルキンは呟いた。


 ヴェルキンが小学校で教鞭をとるかたわら、領主の館に陣取った帝國軍の憲兵隊長のところに顔を出して話をしてゆく日々を送っていたある日、彼の下宿に来客があった。
 その客は、1個小隊の猟騎兵を護衛に引きつれ、四頭立ての馬車に乗って町にやってきた。その馬車には青灰色地に臙脂色の横線が入ったトルステンヌス一門の色台に八葉の薄桃色の蓮の花の意匠の紋章が描かれていた。
 馬車がミハウ親方の店の前で停まると、猟騎兵は周囲の警戒にあたり、後続の馬車から執事らが降りて紋章の描かれた馬車の扉の前に絨毯を敷き、足台を置く。そして両開きをの扉を開いた。
 馬車の中から降りてきたのは、黒色のスーツを着ていて精霊銀の象嵌のほどこされた杖をついた壮年の男であった。彼の黒い髪はきれいに後ろになでつけられ、口髭は綺麗に整えられ、そしてその右目は黒の眼帯で覆われていた。
 執事があけた扉から店の中に入った男は、直立不動の姿勢で待っていたヴェルキンが頭を下げるのに鷹揚にうなずいて挨拶を返すと、あらためて名乗りをあげた。

「帝國侯爵ヘルムート・ユルゲン・トルステンヌス・メルツァ。トルステンヌス・イェムンヌス公名代として推参した。久しいな、ゲルトリクス伯」
「お久しぶりです、ヘルムート卿。お元気そうでなによりです。本日はいかなる御用でこちらの町へ?」
「この場で立ち話で済ませる話ではない。余の宿へと同行するがよい」

 帝國侯爵という文字通り雲の上の人間の突然の来訪に、びっくりして何がなんだか判らないまま固まっていたアレシアは、思わずヴェルキンに声をかけようとした。それを視線だけでおしとどめたヴェルキンは、ヘルムート卿とともに店を出て行った。

「なんで、何が起きるの?」

 呆然としたアレシアの泣きそうな声に、答えてくれるものは誰もいなかった。

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最終更新:2012年08月26日 15:09