茶飲み話、というにはかなり殺伐とした話を帝國宰相オロフス・アドルファス・グスタファス公と交わした後、カメリアは彼の執務室を辞去して、次の面会相手の元へと馬車を走らせていた。
「奥様、昼食は先方でとられるのですか?」
「はい。御家族と御一緒したい、との御誘いを頂きましたから」
「ユリウス・マクシムス公のお屋敷は、初めてですよね? ふーん、どうしてこれまでお招きされなかったのかしら?」
馬車の向かいに座っている侍女が、おとがいに指先を当てて考え込んでいる。
確かに彼女の言う通り、カメリアはこれまで一度としてフェルヌス・ユリウス・マクシムス辺境公の屋敷に招かれた事は無かった。会うとすれば、元老院院内総務の執務室か、皇宮内総参謀長執務室か、どちらかであった。
「私が公をお招きできる屋敷を拝領していませんから。それに晩餐会で何度もお会いできるでしょう?」
「そういえば、そうですね。でも、奥様も辺境公も、魔族領戦役以来の戦友でいらっしゃるのに」
正確には、当時
東方辺境候嫡男でしかなかったレイヒルフトが、家督を継承するために親族を皆殺しにした紛争以来の仲、という事になる。
あの当時カメリアの弟は、ごく少数の一門衆と、かき集めた傭兵だけで、辺境候軍の主力をなす一族の男達を相手に戦い、そして勝利したのであった。もっとも、当時魔導師としてようやく独り立ちしたばかりのカメリアと、故郷が海賊に襲われ、喰うに困って流れてきた漁師あがりの一兵卒であったフェルヌスとが、何か交流があったという事もなかったわけであるが。
カメリアとフェルヌスの間に交流が生まれたのは、東方辺境と国境を接する六人しかいない魔族の大領主、エドキナ大公との戦争の過程であった。当時カメリアは魔導騎士として戦場を駆け回り、フェルヌスは戦列歩兵連隊の士官として走り回っていた。そして諸兵科を連合させて戦闘群を編成する、というレイヒルフトの運用方針の結果、カメリアの搭乗する「黒の龍神」がフェルヌスの連隊に配属される事がままあった、というだけの事である。だが、強力な魔道機を保有し魔法攻撃をもっぱらとする魔族と戦う上で、カメリアの駆る機神が攻防ともにフェルヌスの連隊を護ったのも確かであった。
そしてその後の「内戦」勃発時、フェルヌスは総参謀長としてレイヒルフトを補佐する立場におり、カメリアは第V軍団の軍団長として南方戦役に参加したのであった。その後、
北方辺境候であったヤン・アドルファス・グスタファスの突然の介入に対応するため帝國軍は大幅に序列を変更し、フェルヌスは南部軍司令官兼任で新設された第XI軍団長として南方に残り、カメリアはその後任の総参謀長に抜擢されたのである。
「戦友と呼べるほど御一緒したのは魔族領戦役の時くらいですよ。それから後は、ほとんど別の戦場でしたから」
「ふーん」
「ごきげんよう、カメリアさま」
家令に案内されてユリウス・マクシムス南方辺境公公邸のホールに通されたカメリアは、自分に向かって近づいてくる足音にその場に立ち止まった。ととと、と、駆け寄ってくる柔らかくウェーブを描いた赤毛の少女が、彼女の前に立つと、ぴょこんとスカートの裾をつまんで腰を下げる淑女の礼をとる。
「ようこそいらっしゃいました。両親がおまちしております」
「ごきげんよう、コルネリア様。わざわざのお出迎え、ありがとうございます」
同じ様に淑女の礼をもって返したカメリアが、見た目まだ十をいくらか超えたくらいの歳の少女に向かって微笑んだ。
「わざわざ拙宅にお越しいただき、申し訳ない。家内や子供らが、是非に貴姉お会いしたいと言ってきかなくてね」
「秋以来になりますか。お元気そうでなによりです、シルディール子爵夫人」
ホールから上のフロアへと昇る階段を、白い裾長のスーツ姿のフェルヌスと、その左腕と腕を組んでいる青いドレス姿のメルツェデシアが降りてくる。その後ろにコルネリアよりも歳下の子供らが続いている。娘二人は柔らかくウェーブを描いた赤毛であるが、息子は母親譲りの艶やかな黒髪であった。初めて会うカメリアに好奇心一杯の表情をしている年長の少女と、緊張した表情の少年の後ろに隠れるようにおそるおそるのぞいている少女と。
カメリアは、そういえばフェルヌスは最初会った時にはウェーブを描いた赤毛をしていたな、と、そんな事を思い出していた。今では、まだまだ豊かな頭髪も短く刈り込んである口髭や顎鬚も、すっかりロマンスグレーになってしまっているが。だが、あの頃の鍛え抜かれた筋肉ではちきれんばかりの身体と浅黒い肌に変わりはない。自分や弟のレイヒルフトとそう歳も変わらないであろうに、まだまだこの男も随分と若く見えた。
「この度は、急な申し出にもかかわらず昼餐にお誘いいただき、心より御礼申し上げる次第でございます。ユリウス・マクシムス辺境公閣下。御家族皆様方、御壮健そうでなによりでございます」
「御身もお元気そうで安心いたしました、カメリア様。たいしたおもてなしもできませんでしょうが、ひと時なりとも憩われられませ」
ホールまで降りてきたメルツェデシアに一礼したカメリアに、辺境公夫人も礼をもって返す。
「貴姉にはまだ紹介していなかったな。長男のルルーシュ。二女のユーフェミア、そして三女のナナリアだ」
「お初にお目にかかります、シルディール子爵夫人。ユリウス・マクシムス公フェルナンの息子、ルルーシュと申します。以後お見知りおきを」
まだ十歳くらいだろう。だが、その紫色の瞳には歳に似合わぬ知性のきらめきと深みが垣間見えた。コルネリアと並んでマクシムス公夫妻の自慢の子供だそうだが、実際に話すのを聞いてみると納得がいく。父親と同じコーディネイトの白いスーツ姿で、「帝國」貴顕に相応しい優雅な礼をしてみせる姿は、まさしく俊英と呼ぶに相応しい。
続いてユーフェミアもナナリアも、歳相応に幼いながらもしっかりとした挨拶をしてくる。
子供らの物腰や表情を見れば、どれほどこの家族の仲が良く、そして両親の教育がしっかりしているかよく判る。その事を、二人の子供を持つ身の母親でもあるカメリアは、心からの喜びと安堵とを覚えた。
「それでは食堂へとご案内しよう。ルルーシュ」
「はい、父上。奥様、よろしければお手を」
差し出された少年の左手に右手を重ね、カメリアは、マクシムス一家とともに食堂へと向かった。
昼餐は、わざわざ新鮮な魚を使ったもので、嫌味にならない程度に胡椒やその他の香辛料を幾種類も使った、大層美味なものであった。カメリアは、朝使いを出してから昼間での時間にこれだけの料理を用意させたのは、フェルヌスか、メルツェデシアか、どちらなのであろうかとふと考えて笑みがこぼれた。
元老院の席上、フェルナンが敵対派閥の議員から「「帝國」を支配する元老院の第一人者は、妻という支配者をいただいているのであります!」と攻撃された時に、本人は会心の笑みを浮かべて「何しろ本議員の妻の尻はとても柔らかく温かいのであります、とても降ろす気にはなれないのであります」と返し、議場を爆笑の渦に巻き込んだ男である。現在のユリウス一門を実際に支配しているのが、前マクシムス公の長女であったメルツェデシアであるのは、帝國の政界においては有名な事実であった。
「ペネロポセス海風の田舎料理ではありましたが、お口に合いましたでしょうか?」
「はい。大層美味で、そして久しぶりに心が温かくなるような心持ちでございました」
食後の茶を喫する段になって、メルツェデシアの問いにカメリアは微笑みとともにそう答えた。
貴賎を問わず暖かな家族の団欒は、カメリアの心の迷いを無くさせる。これこそが、己の職責の結果もたらされたものであると。
「メルツェデシア。私は奥方に食後の一献を差し上げようかと思うのだが、子供らを連れていってはくれないか」
「おとうさま、お話のおじゃまはしませんから、わたくしもカメリア様とごいっしょさせていただけないでしょうか?」
メルツェデシアの隣に座っているコルネリアが、上座の父親に向かって不満そうな表情で身を乗り出す。それをフェルナンは、穏やかに、しかしきっぱりと却下した。
「お父様は、これからシルディール夫人と大人の話があるのだよ、コルネリア」
「……はい、お父様」
食事中も、色々とカメリアに話しかけてきたコルネリアであった。まだまだ色々と話足りないのであろう。だが、フェルナンの言葉にそれ以上わがままを言う事はなかった。
「コルネリア様、御父上とのお話の後で、またお茶をいたしましょう。それでよろしいでしょうか?」
「はい! カメリア様。ぜひお待ちしております!」
「娘がわがままを言って申し訳なかった。シルディール元帥」
「いえ、あんなにも好いて頂けて、心から嬉しく思っております。マクシムス元帥」
「辺境候故の役務だよ、俺の元帥号は。しかも侯ではなく公だ。陛下の嫌味もここに極まれり、だ」
カメリアを喫煙室に案内したフェルヌスは、西方の超大国「王冠盟邦」より輸入したブランデーを二つのクリスタルグラスに注いだ。
「「帝國」の繁栄に」
「「帝國」の繁栄に」
互いにグラスを掲げ、香りを楽しんでから一口口に含む。濃厚で深い味わいと、酒精の強さに身体が芯から温まってくる。
「しかし、貴姉がこうしてうちを訪ねてこられるとはな。返礼に招く邸宅が無いからと、これまでこの手の訪問はしてこなかったものを。新たに別荘でも買う気にでもなったのか?」
相変わらずの減らず口に、カメリアは自然と微笑みがこぼれる。この男は、昔からどんな絶望的な戦況でも、こうした減らず口を叩いてはその場に笑いをもたらさずにはいられない男であった。
「ご存知の通り、最近色々とありまして。心に滋養をと思いました」
「それは光栄だな。まるでうちの家族の事を褒められているようでこそばゆい」
あっはっは、と、豪快に笑ったフェルヌスは、その一瞬後、表情だけは笑ったまま眼だけ厳しくしてカメリアを見つめた。
「で、ガイユス親子か? シュネルマヌス一門か? カストレウス一門か?」
「あと、クロウディエス一門と、フラウィウス一門と、セプティミヌス一門と、コンスタンティヌス一門と、アルビウス一門も加えて下さい」
「つまり、「帝國」の東方と中央の有力家門のほとんどか。随分と敵が増えたな」
「まあ、これ以上の戦争はやりたくはない、という彼らのその気持ちは理解できます」
相変わらず、穏やかな微笑みを浮かべたまま、さらりと自分が孤立無援に近い事を言ってのけたカメリアに、フェルヌスは呆れたような表情でグラスに口をつけた。
「まあ、愚痴になって済まないんだが、エイカクの「親父」が引退したのは痛かった。職人組合の支持はなんとか取り付けたが、あの家から金を借りていた連中のかなりの数が、他の有力家門に乗り換えて借金の借り換えを行っている。しかも、マルサス家に随分と不利な条件を押し付けて、だ。後を継いだ息子は、また髪の生え際が後退していたよ」
微妙な表情をしたフェルヌスが、グラスの中のブランデーをぐるぐると廻す。これまで元老院でフェルヌスが院内総務として辣腕を振るってこれた背景には、南部辺境で挙げた戦功とその結果としての南方辺境公位、副帝レイヒルフトの絶対的信任、そしてエイカク・コケイウス・マルサス伯爵という平民の土建屋から戦乱を契機に伯爵にまでのし上がった男との同盟があっての事であった。何しろ後ろ暗い政治工作のほとんどを、エイカク「親父」がその土建用機卒のごときパワーで押し進めてくれたからこそ、フェルヌスは綺麗な手で元老院を動かす事ができたのであるから。
「シリヤスクス一門は、私では動かせません。何しろ一門衆も譜代衆も、揃って私を憎んでいますから」
「理解している。というより、ガイユス親子が貴姉を嫌っているからな。で、グスタファス宰相はなんと?」
今度はフェルヌスが、さらりとカメリアの事を監視している事をにおわせるような事を言う。
「今の時点での私の死は「帝國」にとって重大な損失である、だそうです」
「相変わらず言葉をかざらない男だな、あいつは。まあ、そこが陛下に気に入られているんだろうが。そうすると、北方貴族の中立は買えそうだな。あとは西方か。そっちはどうだ?」
「カシウス卿は抜け目無い男です。弟が無事な間は、最悪でも中立は期待できるでしょう。そのために候の娘を押さえましたから」
軽く眉を跳ね上げて、それは判っている、という表情をしたフェルヌスにうながされる様に、カメリアは言葉を続けた。
「現時点で弟は、元老院で通った法を、あえて西方では適用されないのを見て見ぬふりをして、カシウス卿の手綱に任せる事で協力関係を維持しています。西部辺境は比較的「内戦」による被害が少なかっただけに、無理に改革を押し付けようとするならば、必ず騒擾が発生するでしょう。とりあえず西方諸侯の体力を削っていって、叛乱を起こせなくなったら、娘に代替わりさせて一気に改革を推し進めるという方針で、弟とカシウス卿の間で密約ができています」
「なるほどな。秋祭りで娘が陛下のクリエンティスになったのに西方諸侯が大人しかったのは、それが理由か」
グラスを空にしたフェルヌスは、カメリアと自分のグラスにさらにブランデーを注ぎ足した。
「で、貴姉の妹御はどうするんだ? 嫁入りまで押さえておけるのか? あの箱入り娘を馬過度もに担がれると揉めるぞ」
「そこはまあ、手は打っておきました。軍と宮宰は味方ですので」
軽く一礼して満たされたグラスを真紅の唇につけ、琥珀色の酒精を口中で堪能しつつ、カメリアはあっさりとそう答えた。
「オキクィルムはどうなっている? あいつは妹を可愛がっていて、しかもその妹と小ガイユスは仲睦まじい上、大ガイユスも嫁を随分と可愛がっている。近衛軍団が中立というのは辛いぞ。動かさないのか?」
「今、彼を近衛軍団長から外しますと、東方貴族が暴発します。連隊長級を押さえましたから、彼も露骨な敵対姿勢はとれないでしょう」
「こういう時に、貴姉が今上帝や皇太子と仲睦まじいのが活きるな。やつらの近衛意識が味方になる、か」
まあ、それくらいはやってもらわないとな、という表情をしてフェルヌスは、わずかに腰をずらしてさらにリラックスした姿勢になった。
「まったく、俺と貴姉が同盟を組んでいる、なんぞ、誰が言い出した事やら。気が合うのは認めるが、政治家としては正直、貴姉にはさっさと退役して欲しいくらいなんだが」
「正直申しますと、私も退役して学究生活に入りたいところなのですが」
二人は同時に吹き出すと、しばらく笑いあった。
「まあ、陛下が貴姉を退役させるはずが無いからな。俺を元老院から外さんように。正直、できる事なら今すぐ南方か姫君のところに送って欲しいくらいなんだが」
「そこまで大公領は揉めていますか?」
「オークの犯罪組織が酷い。密入国と奴隷労働の手引きで阿漕な真似をしているようだ。正直、クラウディウス・カトー老は財務畑の御方だし、大ガイユスは軍隊同士の戦争はともかく、この手の治安戦は苦手だからな。「帝國」として正式に介入できるなら、なんとかできないでもないが、大公領の自治権は陛下が安堵したものだ。正直手が出せない。とすると、それをこなせるのは、俺か、貴姉か、陛下しかいないんだが」
二十五年前、レイヒルフトが魔族領戦争に勝利した結果「帝國」東方辺境と国境を接している魔族領はエドキナ大公の統治する版図は、まるまる「帝國」の支配下に入ったのである。
元々東方辺境は、三百年近く前までは「森の国々」と呼ばれていた独立した小国群があった土地であった。そして、かつての覇気を失った魔族達と交易を通じてそれなりに仲良くつきあっていたのであった。
だがそれも、「帝國」の当時の皇帝トライアヌス帝によって「森の国々」が占領され、「帝國」に東方辺境として組み入れられるまでは、であった。それから二百年以上にも渡って「帝國」とエドキナ大公領の間には紛争が絶えず、「森の国々」と大公領は戦乱によって傷つき疲弊していったのである。何しろ、両者ともに攻め込まれるよりは攻め込む事を選択し、互いの版図へと戦場を移そうと争ったのだ。
この関係は、当時の東方辺境候の嫡子として生まれ、継承権を持つ親族を皆殺しにして二十歳前にして東方辺境候位を掴み、その軍事的才能をもって大公領の魔族軍を相手に勝利を積み重ねていったレイヒルフトが登場するまで続くことになる。
結果として時のエドキナ大公は、繰り返される敗戦に配下の魔族らの叛乱を招いて暗殺され、その混乱に乗じてレイヒルフト率いる東方辺境候軍が大公の遺児を担いで叛乱軍を殲滅し大公領を完全占領する、という結果に終わったのであった。
「ですから今、弟がエデのところに居るのです。弟は「帝國」にとって緊喫の課題のある場所に、常にその身をおきますから」
「そういえばそうだったな。陛下は、常にその時点で最も緊要な課題に取り組んでおられた。それは昔から変わらなかった」
この戦功があって、レイヒルフトは当時の皇帝ユスティアヌスの双性者の子供リランディアを娶り、次に帝位についたユスティアヌス帝の弟コンスタンス大公の下で帝國宰相として「帝國」の改革に辣腕を振るったのである。そして、レイヒルフトを登用した事に不満を抱いた反改革派の貴族によってコンスタンス帝が暗殺されるに至って次の皇帝の座を巡ってユリウス一門とシリヤスクス一門の間で抗争が勃発し、最終的に内乱へとつながったのであった。
この内乱の間エドキナ大公領は、レイヒルフト軍の後方生産拠点として無尽蔵と言ってよいほどの武器弾薬被服その他を生産し、供給し、レヒルフトの勝利に最大の貢献を果たしたのであった。以来エドキナ大公領は、半独立国として自治権を獲得し、復興期の「帝國」という一大市場を得て空前の繁栄を謳歌しているのである。
その結果として、他の魔族領から奴隷種族であるオークやコボルドが大挙して脱走し、エドキナ大公領を目指す事となった。なにしろ奴隷制度廃止と国民国家創生を理想として掲げたレイヒルフトの改革を、一番最初に受けたのが大公領である。奴隷種族として、戦争や夫役やその他の過酷な労働に駆り出され、使い棄てられていたのが、自由人として自ら望む職について働く事ができるようになったのである。
元々が矮躯で臆病で、兵士や重労働に不適であったオークやコボルト達は、今ではそれぞれ種族として得意とする職人業や鉱山業に自由に勤しめるのだ。現在では大公領は新教徒国家となり、魔族は魔導を用いた研究や開発に、人族は農耕や商業に、オークは工場で職工に、コボルドは鉱山採掘に、と、種族ごとに職能の住み分けすら進んですらいた。
「正直、姫君の件に関しては元老院は一切触れられない。当然、俺も公的には何も知り得ない立場にいる」
「エデは、新技術の開発で新規に産業を起こし、増える人口を吸収しようとしています。ですが、それが上手くいくには十年単位での努力が必要でしょう。今すぐに効果を発揮するわけではありません」
「そりゃそうだ。そんなに簡単に上手くいくなら、俺もエイカク親父も、ここまで苦労する羽目にはならなかった」
内戦中、文字通り全土が焦土と化した「帝國」を、元老院院内総務としてレイヒルフトの政治上の代弁者として数々の法案を通し、当時の宰相の執政を助け、制度上の改革を推し進めてきたフェルナンは、さらにソファに深く沈んだ。
「どうだ? 貴姉が退役して、院内総務になるというのは? で、俺が、姫君のところか、南方辺境に入る」
「後継の総参謀長は誰を?」
「小ガイユスにやらせろ。査閲総監として「帝國」軍の現状把握と、改善点の洗い出しをやっているんだ。「帝國」の現状を思い知れば、少しは態度も変わるだろう」
片眉をはね上げて、フェルヌスはカメリアに冗談めかしつつ、とんでもない提案を口にした。だがカメリアは、にこやかに、しかし断固とした口調で答えた。
「私が退役する時は、学究生活に入る時です。そうなったら、クラウディウス・ネロ閣下の如く、出家して二度と公的地位には戻りませんから」
「それは困る。せめて執政官として外務関係をなんとかしてからにしてくれ。コンスタンティウス・ニカイウス候は無能じゃないが、外務担当執政官としては役者が足りん。南方諸国問題は、大公領問題とは別の意味で緊喫の問題になりつつある」
よっこらせ、と、身体を起こし、ソファに座り直したフェルヌスは、真面目な表情でそう述べた。
「候も、今はアリア殿下のアル・カディアへの輿入れのための交渉で精一杯なのです。そこは判ってあげて頂きたいのですが。なにしろ、南北から挟撃される事になるハ・サール側に気がつかれれば、必ず潰される話です。あくまで水面下で内密に進めないと」
「判っている。で、その次は貴姉の妹御のアル・レクサへの輿入れだろう? そして、ハ・サールとその衛星国を軍事占領する」
「南方辺境公として、面白くない話であるのは理解しています」
「帝國」南方の国家群の中で、ハ・サール王国は他国と違ってその広大な国土が平原地帯である事もあって、牧畜と狩猟とで生活する民族の国家である。実態としては諸部族の連合体であり、それだけに法治主義に基づく政治体制を確立している「帝國」とは根本的に相性が悪かった。レイヒルフトは、交渉の余地のある他の南方諸国とは婚姻政策で中立を獲得し、孤立した遊牧民達を軍事的に制圧し、「帝國」の秩序に組み入れる事を企図していたのである。
そのために、ハ・サール王国の北部国境に接しているアル・カルナイ王国と、南部国境に接しているアル・カディア王国を主要工作対象として外交工作を進めていた。
その結果として、ペネロポセス海を挟んで「帝國」の対岸にあるアル・レクサ王国とエル・コルキス王国とは、可能な限り敵対関係にならない事が外交上の課題となっていたのである。だが両国とも、話が通じるとはいっても、それはあくまで比較論としてであって、「帝國」南部辺境に対して内戦中から軍事的干渉を繰り返してきたのもまた事実であった。現に今も、国籍不明の海賊が「帝國」沿岸を荒らしている。
「今、沿岸を荒らしている海賊の後ろにエル・コルキスの、あの半森族(ハーフエルフ)のメディア女王がいるのは確証を掴んではいるんだ。だが、陛下から手出しを厳禁されていて、何もできん。せめてあの雌狐だけでもなんとかできれば、随分と楽になるんだが」
いっそ暗殺したいくらいだ。そう憎々しげに言い捨てたフェルヌスに向かって、カメリアは穏やかに微笑んで言い添えた。
「そういえば、西岸のヒルドブルグ王国とアウスブルグ王国の私略船が、その矛先をエル・コルキス沿岸に変えたそうですね。随分と大きな金の流れが両国に向けてあったらしいですが」
「その金の流れがトイトブルグが源流だという事は?」
「公的には軍の記録には、ヒルドブルグとアウスブルグの方針変更は、南部軍の船団護衛方式採用と両国沿岸根拠地への揚陸侵攻の結果、という事で結論が出されています」
互いに笑ってグラスを掲げると、カメリアとフェルヌスは一気に中身をあおり、新たにブランデーをグラスに注ぎ足した。
「正直なところを言うならば、南部軍だけでも、どちらか一国だけなら叩ける自信はある。アル・レクサとの国境の先にあるコリントス地峡の三重防壁も、抜ける目処は立っている。艦隊も二個混成旅団を対岸に無事揚陸させ、兵站線を維持できる目処が立っている。ついでに言うならば、書類上は予備役の連隊も、解散させず現役部隊と同様の訓練を受けさせ、任務に当たらせている」
「そうしますと、実質三個軍団六個混成旅団を機動運用可能という事ですか。コリントス防壁を抜いて、エル・イサの街を占領し、地峡入り口を塞いでいる二個混成旅団と合流して補充再編を行えば、六万程度の軍をアル・レクサ国内で動かせますね」
「ああ。アル・レクサの近衛軍と北部諸侯とで、十万程度が動員の限界というのがうちの目算だ。運動戦に持ち込んで、コリントス地峡入り口まで引っ張れれば、実質同数の軍との会戦に持ち込める」
この十年以上をアル・レクサ軍との戦いに費やしてきたフェルヌスは、自信を持ってそう言い切った。カメリアは、ざっと頭の中で地図を広げ、幾通りか状況の推移を考察し、そして結論を出した。
「軍司令官が誰にかによりますね。
ディエゴ元帥なら、勝てるでしょう」
「だが、これ以上あいつに戦功を挙げさせると、立場が難しくなる。ただでさえ平民のままで元帥をやっているんだ。貴族連中が一斉に暴発しかねん」
親友の名前を出されて、フェルヌスは残念そうに頭を左右に振った。ディエゴ元帥は、既にアル・レクサ王国とハ・サール王国の二国を同時に迎撃する、という任務において抜群の戦功を挙げており、これ以上の戦功は政治的に問題化しかねない恐れがあったのだ。軍内部にも政治というものがあるという事である。
「ですが、貴方は動けないのでしょう?」
「だから、貴姉に院内総務になって欲しいんだが。貴姉は、なにしろ今上帝と皇太子の絶対的な信頼を受けているからな。皇太子が教皇を兼任しているのが難点だが。まあ「教会」を政治に介入させるわけにはいかんが、そこは貴姉と皇太子なら、上手く手綱をとれるだろう。漁師上がりの俺がやるよりも、元老院の魑魅魍魎どもへの押さえとしては相応しい」
「そして貴方がエル・コルキスを叩き、「帝國」の衛星国として緩衝国化する」
「そうだ。あとは妹御の輿入れだな。ここまで話が進めば、ペネロポセス海は「帝國」と南方の交易の一大経路として、東方辺境に頼りきりの現在の「帝國」経済を支える事ができるようになる。あとは北方問題だが、少なくとも十年は復興を早められるだけの金を投下できる。それも、グスタファス公に気に入られている貴姉なら、上手くさばけるはずだ」
両手を顔の前で組んだフェルヌスの真剣な視線に、カメリアはそれでも穏やかに微笑んで頭を左右に振った。
「ですから、私に政治家は無理です。それに、私は今上陛下御夫妻の共通の愛人なのですよ? まさしく閥族政治の最たるものとなります。そういう先例は残したくは無いのです」
「そうか、そういえば確かにそうだったな」
両手をほどくと、フェルヌスは残念そうな表情で溜息をつくと、一気にグラスの中身を煽った。
「グスタファス公は、政治家としては最高に有能だが、元老院の院内総務としては叛乱軍の首魁の一人であったという過去が足を引っ張る。各一門に人手はいても人材はまだまだ育ってはいない上、戦前世代最後の現役政治家であるカシウス候は隠居する気満々だ」
視線を落としたフェルヌスが、ぎちり、と、歯を鳴らした。
「くそっ、エイカク親父が無事ならば! その上、シルヴィア卿まで一緒に隠居だと? 夜間渡河と橋頭堡確保に架橋作業までこなせる、錬度特類の帝國軍唯一の機甲化工兵部隊だぞ? あのガキどもは、自分達がやらかした事を判っているのか?」
「ですから、アドニス殿下が子供らを徹底的に締め上げました。保護者や学院の教員その他の関係者とも、じっくりと「話し合い」をしたそうですよ」
「愚痴だよ。それは俺も判っている。だがなあ、何故オフィーリアは貴姉のところに相談にいかなかった? そうすれば、俺が動いてメインベルを止められたんだ。アドニスはまだ若くてコネが無い。彼に頼ったって仕方が無いというのが判らなかったのか」
カメリアとしては、なんとも答えようが無かった。自分と弟と妹の間にある愛憎ゆえの確執は、あくまで三人と娘のシルフィスと息子のカイルの五人だけの秘密なのだから。皆は、オフィーリアとシルフィスがレヒルフトの愛情を巡って争っている、としか見ていない。だが本質的には、弟の意思に皆が踊らされているに過ぎないのだ。
「オフィーリアが、目先の事しか見ない者達に利用されない事は私が約束します。あと、エル・コルキスの問題も、手を打ちます」
「南部軍司令官に代行を出してくれ。今は第XI軍団長が兼任で代行をこなしているが、艦隊司令長官と同格で、統合運用に難が出ている。陸海統合運用が絶対に必要だ」
「ポンペイウス・マグヌス将軍は、政治的に許容できますか?」
「あいつを帝都から離すのか。難しいが、元老院は俺が抑える。軍はどうだ? あいつは南部貴族だ。しかもディエゴの派閥と目されている」
「後任の第I軍団長を東部軍から出させます。これで中央貴族と東方貴族の間に楔が打ち込めます」
「げに恐ろしきは席争いだな。判った、予算の方は西部軍関係で計上して通す。他には?」
こういうやりとりがするっとできてしまうから、自分とフェルヌスが同盟関係にあると他人に誤解されるのだな、と、カメリアは思った。
「メインベルを一高に編入させたいのですが」
突如出てきた名前に、フェルヌスは、今までの切れ者らしい表情が、一瞬で呆けた代物に変わる。が、それも一瞬だけの事で、すぐに元の老練な軍人貴族の顔に戻った。
「あの馬鹿娘をクリエンティスにするのか?」
「いえ、今の取り巻き連中から離します。あと、例の騒動に関わった子供らは、卒業後強制的に軍に「志願」させ、北方にでも飛ばします。メルクナー伯だけは、帝都に残しますが」
「一高でも例の調子で振舞われては困るぞ? マルサス家の皆がハリストス運河に浮かびかねん。そうなったら、エイカク親父に顔向けができない」
そう、フェルヌスと自分は同盟関係にあるのではないのだ。魔族領戦争の昔から一緒に仕事をしてきた仲間なのだ。だから、こうして個人的な感情の吐露もできる。
「クラウディウス・ネロ閣下に話を通しておきます。驚かれると思いますよ? 別人のように変わったのを見て」
「まさか。あの後妻の悪いところだけかき集めたような馬鹿女だぞ? メインベルは」
「エウセピア姫の変わり様はご覧になられましたか?」
そう、自分が闇に突き落とそうとして、そして仲間を得て天高く魂を羽ばたかせているあの少女。俗人を軽蔑する事を学ばせ、魔導師としての道を歩ませようとした少女。まさか彼女が、ああも高貴な魂を得るとは。
エウセピアとメインベルが出会った時、二人はどう変わるだろうか? そして、二人を、アリア皇女とクラウディア姫はどう変えるだろうか?
カメリアは、穏やかに微笑みつつ、しかし内心では期待に心を震わせていた。
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最終更新:2009年05月10日 03:13