巡洋艦火蜥蜴(4)
またの表題を脳内麦人祭り
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きらめくモリア湖を見下ろして、鑓の機神は舞い降りてゆく。
朝には霧が名物であるそう、モリア湖と霧の中に浮かぶ船の灯明は絵にもされていると聞いていたが、眺めぬままでいる。
今、見おろす夕日に照らされるモリア湖も悪くはないと、マルクスは思っていた。
橙色に染まる湖面で、波が白くきらきらと光を弾く。舳先と櫂とが起こす波が広がってゆく。モリア湖と、ノヴァ・モリアの川港街は、あの謎めいたヴァレリウス一門の領地でもある。それらを見おろす丘と屋敷は、やはり一門のものだろう。鑓の機神は遥かに高く飛び抜ける。降りるのは、モリア湖からもノヴァ・モリアからも離れた近衛騎士団の営地となる。人目を避けることに留意して作りながら、運河から道を作り、傾斜は切り、窪地は盛って、石畳を敷いてある。新機神の実物を作り、それを実際に動かす時というのは、計画自体を隠しても意味がないころあいだった。帝國が魔道アカデミアの中枢とともに、何かを行っていることは、それら普請のはるか以前から公然の秘密に過ぎなかった。また、帝國が何をしているのか、探り出そうとすることが、どういうことなのか、魔道アカデミアの者らは誰もがよく知っている。魔道アカデミアは単なる学究講ではない。
鑓の鬼神は、石畳を飛び越え、格納庫を飛び越え、塀で仕切られた隣の敷地へと舞い降りる。鑓の機神のための着陸床に、その足先が触れぬあたりまで。浮いたそのまま、格納庫の中に滑り込み、くるりと巡って、ティウの姿をちょいと避けて、仮設座に着くことまでは、芸当にすぎない。
砂塵の中で、ティウは不機嫌を隠さず腕組みのまま振り返る。
「この人員配置では、すぐにでも鑓の機神を飛ばせなくなるぞ」
機を降りたマルクスは歩きながら、三日のうちに北方から公爵家の機神組が移動を始めると応じる。ティウは、なんだといいかげんにしろと、また怒りの声を上げ、工部らになだめられる。何を言おうがティウがああであるのはわかっていた。
遅くとも六、七日後には機神組が到着し始める、ということは、こちらの組も、いそいで備えをしなければならない。とは言え、これまで何も備えをしていないわけではなかった。この営地の公爵家の縄張りについても、いつでも移動を受け入れるよう、敷地も建屋も作らせてある。
営地の移動はこれで終わりではない。次にはモリアよりさらに南、南方辺境のどこかに仮設座を作らねばならない。鑓の機神の仮設座だけを作っても意味がない。クルル・カリルの南方展開はまだ計画としては作られていない。営地候補について調査も行われていないし、どのような運用をするかについても研究は進んでいない。
正直、ティウ一人のことなどどうでもいい。ナディアさえ関わっていなければ。
「何が足りない」
「早い知らせだ」
言い捨ててティウは踵を返すが、奴は奴で、放り出すつもりまでは無いらしい。魔族と人族の機神工部やら見習いやらが、怒鳴り散らされるのは確かだが。工部の者らは工部のものらで、疲労の極にあるだろう。急にごく一部だけ北方からの移動を命じられるもの守山仮設で鬼神の手入れを行っていた。しかもモリアの目と鼻の先にいながら、そこにある魔道アカデミアの共有情報資産に触れることもできずにいる。魔族領からやってきた工部らは帝國中央での勉学を求めているにもかかわらず。
「・・・・・・」
苛立ちも疲労感も消えはしない。風呂も焚けと命じれば、工部達が焚く。ティウが怒鳴り散らす中に、そんなことを命じるほどマルクスは悪人のつもりはなかった。
「あの、マルクス様・・・・・・」
「!」
跳ね起きたとき驚いて跳ねたのは、知らせに来た側だった。いつの間にか長椅子でぶったおれていたらしい。
「・・・・・・ヴァーシャか。何だ」
「あの、使者の方が下に来られてます」
魔族の若者は言う。もしゃもしゃのくせっ毛の下に、眼鏡をかけている。魔族の虹彩が目立たぬようにと、すこし色のついた硝子をつかっている。魔族領から連れてきた工部の一人だ。マルクスは眉をひそめる。
「使者って、どこの」
「ロムルス家の方とおっしゃってます」
「どこのロムルス家」
「ヴァレリウス一門の」
「・・・・・・用は何だと言ってる」
応じたものの、よくわからない。ふと気づいた。ヴァレリウス一門のロムルス家といえば、アウルス卿の家、宗家そのものじゃないか。
「すぐにゆく」
そんなことを思い出すのに、うだうだと何拍もかかっている。身を起こし、顔を両手でこすってから立ち上がる。屋敷の上を飛ぶななんて苦情かもしれないな、と思いながら。
「お疲れのところに申し訳ございません」
待合には二人の姿があった。立ち上がったのは初老と言っていい年頃の男だった。髪も年なりに薄くなっていて、秀でた額とやや尖った頭がよく目立つ。その瞳は穏やかな光を浮かべている。もうひとりの姿・・・・・・
「ケイロニウス・レオニダス近衛騎士卿マルクス殿、我が主、ヴァレリウス・ロムルス公爵アウルスより遣わされて参りましたヨハネス・ヴァレリウス・ピカルデスと申します……」
同じく立ち上がったもうひとりに思いを巡らせる前に、はじめの男は言う。マルクスは応じる。
「アウルス卿には親しくしていただいている。用向きはいかなることでしょうか、ヴァレリウス・ピカルデス殿」
「はい。我が主アウルスは、先だってマルクス殿に申し上げたとおり、当家屋敷へ招待したいと申しております」
「・・・・・・」
まあそんな話も無いではなかったが、正直なところ、今にか、と思わなくはない。帝國の用向き、すなわち皇帝陛下の用向きを故に断っても非礼にはあたらない。昨今の風潮なら。しかし、それをマルクスが口にする前に、ピカルデスは言葉を続ける。
「失礼ながら、見たところこちらには、近衛騎士卿のお世話をする女手が足りぬご様子。アウルスは不在ながら、いつでも御随意に当家屋敷を使っていただきたい、またこの者については、おつかいいただきたいと申しております」
使いの者のもうひとり、女官姿の者はその言葉とともにマルクスへ頭を垂れてみせる。
「・・・・・・」
世間なら、美しい女、と言っただろう。赤毛に近い明るい茶の髪は豊かで、後ろで編んでいる。しかしその瞳は、ただの女官というには鋭くマルクスを見ていた。それに、女ではない。もちろん男でもない。わざわざ双生者をマルクスの世話に送ってくるとは、どういうつもりだろうか。時折、アウルスの行いが度をすぎた悪戯に思える時がある。それに、三日ほどは鑓の機神の身動きがとれない。船を使えば、帝都なりには行けるが、戻りを考えればそんな無駄をするまでもない。
「こちらは……」
「わかった。ご厚意をありがたく受けよう。訪問の件、今からでも構わぬか、ピカルデス殿」
「もちろんです。マルクス様」
「ヴァーシャ、済まないが仮設座から荷物を取ってきてくれ。杖も忘れず」
「はい!」
彼は駆け出してゆく。ばたん、と扉が閉じられる。仕方ない。彼は機神の工部たる若者なのだから。
ちょっとした鞄と書類嚢、それに杖を携えて、ヴァーシャは駆け戻ってくる。杖と書類嚢はマルクスが直に受け取り、革の鞄は、女官姿のものが受け取った。進み出て、私がお預かりいたします、と言って。
「ティウには、三日ほど不在と言っておいてくれ。機神はおそらく動かさない」
「はいっ!」
ヴァーシャは勢いよく応じる。続いてピカルデスがいざなう。
「馬車はこちらに待たせております」
隣地の101大隊区画は、警備区画で機密区画であるが、鑓の機神が置かれている仮設座は、そうではない。機神と乗り手の守りについては公爵家が行うことになっているが、この運用では対応しきれない。ただアインツブルグ伯の部隊の警備には入っている。馬車を敷地の外で止めさせたのもアインツブルグ部隊であるし、身分の改めと、通行を許したのも同じくだ。
馬車は当世風の軽い車輪台の上に発条で車籠が支えられているものだ。わざわざ供奉が二人、後ろに乗っていた。御者を含めて武具を持つものはいない。犬もいない。ヴァレリウスの知行は安泰というわけだ、とマルクスは思う。そうでなければ、クルル・カリルの施設はどんな支障があっても、皇帝領に作られただろう、とも。
荷物室にマルクスの鞄を納め、踏み台が置かれ、車籠の扉が開かれる。女官姿とピカルデスも乗り込み、扉を閉じたところで、マルクスは言った。
「アウルス卿は冗談の好きな方だと思っていたけれど、御家中でもそうなのかな」
「我々にもよく目配りいただいております」
この男もかなり食えない。
軽やかに馬車は走り始める。この石畳の道で運ばれるのは、こんな軽い馬車どころではない。クルル・カリルの骨材から運ばれる。そもそもこの道に普通に乗り込んでくるのは、かなりの度胸に思われる。
「運河に船を待たせてあります」
ピカルデスは言う。
「マルクス様はそちらに乗り換えていただきます。我らもお供いたします」
「馬車は」
戯れに聞いたが、すぐの答えがある。
「はしけをよこして、行きと同じように載せます。お待ちいただかず、そのまま先にゆきます」
さすがの手際というわけだ。
その船は、運河の石畳桟橋に横付けされていた。屋根のある貴人向けのものだった。舳先側と艫側とにお仕着せを身につけた、一人ずつの船方がいる。マルクスたちがのりこめば、すぐに船は漕ぎ出してゆく。
すべるようにして運河を漕ぎ進む。櫂の水面差す音だけが響く。夕暮れはもう近い。やがて目前がさざめきながら大きく広がる。船はモリア湖へ漕ぎ進んでゆく。橙色の空の色を写す湖面は、夕日にきらきらと光さざめいて、尽きることなど知らぬげにどこまでも広がって見える。その所々に影として、また夕日に照らされて船の姿がある。なるほど、たしかに美しい。
「あれなるは、征途三世です」
ふいにピカルデスの声がした。示す先には、くろぐろとひときわ大きな船が浮いていた。高い二本帆柱で帆桁は降ろされてある。遠目に見ても大きな船だ。先の金牛号よりも更に大きく、船べりも高い。
「ご家中のものか」
いかにも、とピカルデスは応じる。その声にはたしかな誇りがある。
「先代の征途二世は、内戦と海賊のおかげで外海知らずで終わりましたが、あれはアル・カディアまで二度往復しました。幸せなやつです」
船格としては、機装甲が乗るほどの大きさだ。上甲板には砲窓が穿たれているらしい。片舷に三、四門となると両舷最大八門はあるだろう。ピカルデスは続ける。
「船大工にも船方にも、経験が要ります。途切れさせずに済んでほっとしておりますよ。なにしろあれほどの格の船はそうそう作りはしませんのでな。諸外国の船舶技術の進歩はなかなかのものですが、帝國でも我ら一門が……失礼」
軽くむせたような吐息は、おそらく脇腹を突かれたからだ。やがてさざなみの先に低く横たわる丘の影が見えてくる。灯明もまた見えた。先に見た丘にあった屋敷だろう。それは、どこかの王族の離宮にも思えるような屋敷だった。近くの川より流れを取ったらしい流れが、屋敷の前に流れてくる。船はそこへと進んでゆく。張り出しの下に、そのまま入れるのだ。そこが屋敷の湖からの入り口だった。同時に、マルクスにはわかった。そこは屋敷の門に過ぎない。守りのためにある。だが武器を備え付ける必要が無いだけなのだ。張り出しの下には灯明が焚かれ、二人の女官姿が待ち受けている。
こちらの船の舳先と艫の船方は、巧みに櫂を練るようにして石畳に横付けする。身軽に飛び移った船方は、手早くもやいをとり、もう一人の船方は渡し板を置く。まずはピカルデスが慣れた足取りで渡り、つづいてマルクスが促される。杖を小脇に踏み台を行き、荷物は古人が持った。
「ようこそいらっしゃいました。マルクス様」
「お招きに感謝する」
「では、こちらへ。此方らは、ああ、最初にご紹介差し上げるべきでしたな」
言ってピカルデスは示す。
「こちらは、マリエス・イル・ヴァレリウス。こなたはウィンディス・イル・レオネスと、リリアメス・イル・テメリオス。他にもうひとりがお世話いたします」
「そうか。よろしくたのむ」
宗家の古人、というわけか、とマルクスは冷ややかに思った。こちらへ、といざなうピカルデスに従って建屋を歩く。
すぐに流水の棟を出て、中庭へと至る。丘の傾きをうまく使った、美しい屋敷だった。大判の硝子を入れた窓は、モリア湖へ向けられ、いつの季節も、さぞ美しかろうと思えた。中庭の飾り彫刻は、一代や二代で集めたものではないだろう。眺めながらめぐり、正面の広間へと至る。ここへは丘をめぐる道で馬車でも至ることができるようだった。訪れた客は、中庭の向こうに見える流水の棟と、モリア湖に目を見張るだろう。それらに背を向けて、正面広間はただ通り抜けた。一つ一つに目を向けていたら夜が明けるに違いない。マルクスは明るい廊下を通り、さらに奥へいざなわれる。絨毯敷の階段をめぐり上り、開かれた扉の先には、夕日に美しく輝くモリア湖が見えた。
張り出しへ向けて作られた開口は、大判の硝子窓となっている。
人が通り抜けられるほどのその開口は硝子を開け放たれている。マルクスはゆっくりと部屋を通り抜け、開口を抜けて、張り出しへといたる。横薙ぎの夕日は、ゆっくり落ちてゆこうとしていた。モリア湖のさざなみはきらめき、船は帆柱の影を長く長く引いている。その向こうのノヴァ・モリアでは点々と明かりが灯りつつある。東の空は藍色の夜の色合いを帯びて、そらを覆い始めている。
「アウルスは、ぜひこの光景をお見せするように、と申しておりました。我が主の愛するところの一つでもあります」
ピカルデスは静かに言った。
「わたしも、この光景を愛しております。安寧の上に、全てがある。船も、暮らしも、民も」
ピカルデスの自慢の征途号の姿も見えた。ひときわ大きいが、しかしモリア湖では小さい。
日はゆっくりと沈んでゆく。
「・・・・・・マルクス様、そろそろ冷えてまいります」
「そうだな」
ゆっくりと部屋へ戻ると、世話役の古人たちが硝子戸を閉じてゆく。また暖炉と、灯明へ火を灯す。彼女らが魔道の珠へ手をかざすと、柔らかく魔道光が広がる。それらを背に、ピカルデスは問うた。
「夕餉はいかがされましょうか」
「済まないが、ごく軽く済ませたい。野掛け程度で構わない」
「ご案じなさいませぬよう」
ピカルデスは低く手を振り薙ぐ。世話役とされた古人の一人が頭を垂れ、退く。それからピカルデスはもうひとりを示した。
「先にお伝えしたお世話をいたしますものの一人、エメリス・イル・パッライナにございます」
「よろしくたのむ。だが、下がっていてくれて構わない。あなたもです、ピカルデス殿」
「はい、マルクス様。お食事はいかがしましょうか」
「持ってきてくれれば構わない」
「承知いたしました」
皆が退くのを待って、マルクスは文机に向かった。その灯りの魔道光もすでに世話役が灯していた。
マルクスは書類嚢を開く。それはそれ、これはこれ、なのだ。時を待ってもいた。だから、覚書を繰り、済んでいないものについては、覚書を作り直す。宛先を書き、日付を入れ、重ねてゆけば切りもない。すなわちそれだけ滞っている、ということでもある。ひとしきり終えて、一つ思い出し、帳面を取り出す。
ノイナへ向けて、手紙を書くなど、久しいことだった。そういうことを嫌っているわけではない。ノイナからはさほど日を置かずに手紙は届いてもいた。返信はいつも覚書くらいにしかならなかった。それでも次の手紙には、無事であることを喜ぶ言葉が記されていた。しかし、今は何を書けば良いだろう。いつも帰れず済まない、のあとに続く言葉はなかなか見いだせずにいた。諦めて、紙を折り、投げ出す。丸めて捨てる気にはなれなかった。
代わりに、文机の上の呼び鈴を鳴らした。
「お呼びでしょうか」
用人部屋の扉が叩かれ、開かれる。明るい茶の髪は、たしかマリエスとか言ったはずだ。マルクスは椅子を巡らせ応じる。
「済まないが、軍用郵便の集配を呼んでほしい。この机にある一山を、全て持って行かせてくれ」
それから言った。
「君たちは、俺に何の世話をしろと言われてるんだい」
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脳内麦人声まつり。
屋敷の流水の棟は、もちろん落水荘。落水ではなくモリア湖から船が直につけられる。その他の目的については、マルクスの見たとおり。
最終更新:2021年03月11日 20:43