エプコット
名前:EPCOT
オープン:1982年10月1日
概要
ウォルト・ディズニーが生前計画していた実験的未来都市(Experimental Prototype Community of Tomorrow)のコンセプトをテーマパークに落とし込んだものであり、その頭文字を取ってEPCOTと呼ばれている。1982年から1994年までは「エプコット・センター」、1994年には「Epcot '94」、1995年には「EPCOT '95」と呼ばれており、その後は「エプコット」に改称している。
大きく分けて二つのエリアに分かれている。一つ目は未来やテクノロジーの進化に焦点を当てた「フューチャー・ワールド」で、さらにイーストとウエストに分かれている。もう一つは世界各国のパビリオンを有する「ワールド・ショーケース」だった。2020年にフューチャー・ワールドと入口のゲートウェイの区分けが一新され、ワールド・セレブレーション、ワールド・ディスカバリー、ワールド・ネイチャー、ワールド・ショーケースの4エリア体制となった。
歴史
ウォルトは
ディズニーランドをそのまま東海岸に作ることはしたくなかったことから、住むことのできるコミュニティを作ろうと考えた。ウォルトは計画が露呈しないようにダミー会社を用いながら
フロリダ州*の
オーランド*に土地を購入し27,800エーカーもの広大な土地を購入した。また、ディズニーは政府の介入を受けないように、土地の自治体管轄権を主張することも忘れなかった。
前述の通り、ウォルトはディズニーランドをもう一つ作ることには反対していたが、西海岸のディズニーランドが東海岸にもあれば確実のヒットするという周囲の声に譲歩し、ディズニーランドのスタイルを踏襲したパーク「
マジック・キングダム」を製作することにした。
1966年10月、ウォルトはフロリダ・プロジェクトがどのように進んでいくのかを簡潔に説明した30分の映像を制作し、
アメリカ合衆国*の各産業会社に協力を依頼する際の資料として利用しようとした。様々な業界の先進企業と手を組むことで、最先端の技術を集めたまちづくりを実現しようとしていた。ウォルトはテーマパークと同じように入口を一つにしたいと考えており、ディズニー・ワールド空港を出発点とし、そこからモノレールに乗ってエプコットへ向かうという導線を想定していた。
各施設はモノレールとピープルムーバーで繋がれており、自動車をほとんど使わずに移動することができるため、交通事故の減少を図ることができる。商業エリアは住宅街から離れており、中心地には30階建てのコスモポリタンホテル&コンベンションセンターが建てられ、屋上にはプール、テニスコート、バスケットコート、シャッフルボードなどのレクリエーション施設を立てようと計画していた。ホテルの周囲には各国の文化を反映したショップやレストランが建ち並び、万博のようなエリア(後の「
ワールド・ショーケース」)を実現しようと考えていた。
エプコットの街の中には、商業施設で働く人たちの住居も備えられており、推定2万人が住むことのできるキャパシティを想定していたとされている。ウォルトは「誰も土地を所有しない」という概念を持っており、住居についても柔軟に引っ越しやアップデートできるように、住民が借りて住んでいる状態にしようと考えていた。住宅地は緑豊かで清潔に整備されており、子供のための安全な遊び場も準備される計画だった。また、治安の維持のため、住民はエプコット内における雇用の保障がされていた。
ウォルトは肺がんで病床にいる間も、天井に地図を貼りワクワクしながら計画していたという。1966年12月15日、ウォルトはエプコットの完成を見ることなくこの世を去った。ウォルト亡き後、このエプコットの壮大な計画はトーンダウンした。ロイは理事会を説得しようとはしたが、リスクの大きさから街の建設は中止となり、マジック・キングダムの完成に注力することとなった。1971年10月、マジック・キングダムがオープンしたことで
ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートがオープンした。ロイは最後までこのリゾート名に「ウォルト」を付けることにこだわった。1971年12月21日、ロイはマジック・キングダムの完成を見届けるかのようにこの世を去った。
1970年代後半、
ウォルト・ディズニー・カンパニーのCEO
カード・ウォーカー*はエプコットのアイデアを再検討しようとしていた。取締役会はやはりリスクが大きいと判断したが、結果としてエプコット・センターというテーマパークに昇華させることとなった。エプコット・センターは都市ではなく万博のようなテーマパークとして作られたが、ウォルトのアイデアが一部反映されている
その他
テーマランド
1982年~2019年
最終更新:2024年09月09日 11:26