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ウォルト・ディズニー

名前:Walter Elias "Walt" Disney
出生:1901年12月5日 - 1966年12月15日
職業:起業家・アニメーター・声優・プロデューサー・監督・作家
出身:アメリカ

概要

ウォルト・ディズニーはアメリカ合衆国*の起業家であり、経営者、アニメーター、プロデューサー、ディレクター、作家、声優としても活躍した人物で、ウォルト・ディズニー・カンパニーの設立者でもある。常にアニメーションに革新を与えながらも、実写映画やアメリカのディズニーランドウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートをはじめとしたテーマパークの製作などにも幅広く取り組んでいた。

また、アブ・アイワークスと共にミッキーマウスの生みの親としても知られており、ミッキーはウォルトの分身と呼ばれるほど彼の影響が大きく反映されている。また、1928年から1947年までウォルトはミッキーの声優も務めた。

1925年には従業員の一人、リリアン・バウンズ*と結婚する。1933年には長女ダイアンを授かり、1936年には養女シャロンを迎える。

子供時代(1901年~1919年)

ウォルトは1901年12月5日、イリノイ州シカゴでイライアス・ディズニー*フローラ・コール*の間に生まれた。名前はイライアスの友人である牧師ウォルター・パー*に因んで名付けられた。1906年、一家はミズーリ州マーセリンの農場に引っ越して三年間を過ごす。その後、農場を売って1910年にカンザスシティへと引っ越す。

1911年から1917年までベントン小学校に通っていたウォルトはその後、シカゴ美術学校に通う。第一次世界大戦が始まると、赤十字軍のドライバーに応募し、フランス*で17歳の一年間を過ごす。

短編アニメーションの開拓(1920年~1934年)

アメリカに戻ったウォルトはアーティストになる夢のため、父のゼリー工場の職を断り、広告の仕事を始める。そこでアブ・アイワークスと知り合い、二人は共同でIwerks-Disney Commercial Artistsを設立するが、二人ともカンザスシティ・フィルム・アド・コーポレーション*に雇われる形で自然消滅する。二人はこの会社で広告用の動画を撮影する。

1922年、ウォルトは童話をモチーフにした短編アニメを作るラフォグラム社をスタートさせる。作品はカンザスシティの劇場で公開され、好評を博すが製作費は回収できなかった。ウォルトは一か八かでアニメと実写の女の子を合成した意欲作『アリスの不思議の国』(1923年)を発表するが、アリスは救世主とならずラフォグラム社は7月に倒産。兄のロイ・O・ディズニーにハリウッドへ来るように薦められたウォルトは片道切符とアリスだけを手にハリウッドへ向かう。

1923年、ウォルトとロイは叔父ロバートの納屋でディズニー・ブラザーズ・スタジオ(現ウォルト・ディズニー・カンパニー)を起業する。しばらくすると、『アリス』がユニバーサルのマーガレット・ウィンクラー*の目に留まり、続編を製作する契約を結ぶ。ウォルトはカンザスからアリス役のヴァージニア・デイヴィス*の一家とアブを呼び寄せる。スタジオは1926年にウォルト・ディズニー・スタジオ、1928年にウォルト・ディズニー・プロダクションに改称する。

1927年、ウィンクラーの仕事仲間チャールズ・ミンツ*が彼女と結婚したことで実権を握るようになり、新たなアニメシリーズを要求する。ウォルトは『オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット*』シリーズを納品し、シリーズは人気を博す。これに味を占めたミンツはウォルトの従業員を引き抜き、シリーズ続行を宣言する。契約上、最後の三作を“裏切り者”たちと作ることになったウォルトとアブは、オズワルドと同時進行でミッキーマウスのアニメーションを作り始める。

ミッキーの第一作『プレーン・クレイジー』はまずまずの成功を収める。サイレントアニメに音楽をつけることを思いついたウォルトは音響設備の業者パット・パワーズ*と契約。世界初のトーキーアニメーションとして公開された第3作『蒸気船ウィリー』は大ヒットを記録する。

ウォルトはミッキーとは別にアニメーションの手法や音楽との融合を研究する『シリー・シンフォニー』という新シリーズを開始する。次々とヒット作を生み出すも、パワーズの要求金額では利益が出ないため、1930年からパワーズとは縁を切ってコロンビア・ピクチャーズ*と契約する。この時、製作方針でウォルトと摩擦が生じていたアブはパワーズに引き抜かれてしまう。ちなみに、天才アニメーターと呼ばれたアブは後にディズニーに復帰し、映像技術開発の分野で頭角を現していくこととなる。

1932年にミッキーが最も人気のアニメキャラクターに成長すると、ウォルトはより良い条件のためにユナイテッド・アーティスツ*と契約を結ぶ。同年、『花と木』で世界初のカラーアニメーションを実現させ、アカデミー短編アニメ賞*を受賞(ミッキーを生み出した功労賞も同時受賞)。

長編アニメーションの開拓(1934年~1949年)

1934年になると、ウォルトは世界初の長編カラーアニメーションとして『白雪姫』の製作を開始。無謀とも言えるこのプロジェクトはウォルトの完璧主義によってコストがかさみ、マスコミから「ディズニーの道楽」ともてはやされることに。ウォルトはシュイナード美術学校*から講師を招き、スタジオが苦手としていた写実的な人間のキャラクターを描く技術を向上させた。兄ロイは弟の無謀な挑戦に反対しながらも、何とか銀行の融資を確保して資金面でサポートした。

映画は1937年12月21日にカーセイ・サークル・シアター*でプレミア上映され、これまでの前評判を大きく覆した。翌年、RKO*の配給で公開し、800万ドル(現在の価値で約1億ドル)の大ヒットを記録する。ウォルトはスタジオをハイペリオンからバーバンクの広大な敷地に移し、短編アニメと長編アニメの二大体制が敷かれることとなる。

戦争が始まるとヨーロッパの市場が閉ざされ、高コストで芸術性を追求した『ピノキオ』(1940年)、『ファンタジア』(1940年)が軒並み大赤字をマーク。ディズニーは低予算で『ダンボ』(1941年)を投入し、結果としてダンボがスタジオを救うことに。

アメリカが本格的に参戦すると、国からの依頼を受けて『総統の顔』や『空軍力の勝利*』といったプロパガンダ*を制作。やがて長編アニメの製作が難しくなると、南米の視察旅行をしながら、短編アニメをまとめて一つの長編映画として公開するオムニバスを発表していく。この体制は1950年に『シンデレラ』が公開されるまで続く。

テレビからテーマパークへ(1950年~1961年)

1949年、ロサンゼルスに引っ越したウォルトは庭の敷地に大好きな鉄道模型のレールを敷き、キャロルウッド・パシフィック鉄道*と名付ける。ウォルトはハリウッドに一般客向けの見世物がないことに目を付けており、スタジオにも見学客のために鉄道を敷いていた。ウォルトのアイディアはそこから遊園地を作ることへと発展し、そのためにWEDエンタープライズ*という新しい企業を立ち上げ、ディズニーの従業員をイマジニア*として投入していった。

十分な建設費が賄えない問題に直面したウォルトは、資金調達のために映画業界を潰すと言われていたテレビに敢えて進出する。ウォルトは自らホスト役となり、スタジオや建設中のパーク、過去のアニメーションを放送するテレビ番組をスタート。ディズニーランドは5年の歳月をかけて、1955年7月17日にアナハイムにオープンする。

他にも『宝島』などの実写映画、『砂漠は生きている』などの自然ドキュメンタリーなど幅広い部門が同時進行した。ウォルトがテーマパークやテレビに夢中になっている間、長編アニメ部門は9人の伝説的アニメーター、ナイン・オールド・メン*を中心に『わんわん物語』(1955年)、『眠れる森の美女』(1959年)、『101匹わんちゃん』(1961年)を生み出す。一方、短編映画の製作は1950年代後半から数を減らしていく。

1955年からはブエナ・ビスタ(現ウォルト・ディズニー・スタジオ・モーション・ピクチャーズ*)という新たな会社を設立し、ディズニーの映画をすべて自ら配給することとなった。

1950年代半ばには、NASA*の工学者ヴェルナー・フォン・ブラウン*と共同で宇宙に関する教育映画を制作し、国民の宇宙への関心を駆り立てた。

晩年(1961年~1966年)

1960年代に入ると、ウォルトは家族向けのエンターテイメントとして実写とアニメを融合したミュージカル『メリー・ポピンズ』(1964年)を完成させる。また、ユニセフの依頼に応え、ニューヨークの万国博覧会に「イッツ・ア・スモールワールド」というアトラクションをオープンする。

1964年、ディズニー社は約27,000エーカーの土地を購入してフロリダ・プロジェクトを発足させる。ウォルトとロイはディズニー・ワールドと名付け、第二のパークであるマジック・キングダムやゴルフコース、ホテルリゾートを建設した。ディズニー・ワールドの目玉はエプコットという実験都市であり、ウォルトの構想は遊園地ではなく、最先端の技術を集めた街へと拡大していた。しかし、1966年に肺ガンが悪化して入院を余儀なくされる。晩年も意識ははっきりとしており、12月15日の午前9時35分、その生涯を終えた。

ロイは弟の意志を継ぎ、フロリダのプロジェクトを完成を見届けるように1971年に息を引き取った。完成した暁には当初予定していたディズニー・ワールドではなく、ウォルト・ディズニー・ワールドという名前が付けられていた。

彼の死後もディズニーの作品は世界中で愛され、様々な業種のクリエイターに影響を与え続けている。

その他

グーフィー・ムービー ホリデーは最高!!』では、グーフィーマックスが質問をして人名を当てるゲームの中でウォルトが題材に取り上げられている。


出演作品

1920年代


1924年
Alice's Fishy Story*(運転手)



1930年代


1931年
ミッキーのバースデー・パーティーミッキーマウス
タクシードライバーミッキーマウス、警官、ドクター・ペップ)?
ミッキーの無人島漂流ミッキーマウス
童話行進曲リトル・ジャック・ホーナー*
ミッキーの大鹿狩りミッキーマウス
ミッキーの楽器配達ミッキーマウス
ミッキーの恋人訪問ミッキーマウス
ミッキーとミニーの音楽隊ミッキーマウス
ミッキーの釣り名人ミッキーマウス
ミッキーのアナウンサーミッキーマウス
ミッキーの浜辺騒動ミッキーマウス
ミッキーの植木屋ミッキーマウス
ミッキーの子沢山ミッキーマウス

1932年
ミッキーの鴨猟ミッキーマウス
ミッキーの御用聞きミッキーマウス
ミッキーのシャボン玉騒動ミッキーマウス
ミッキーのオリンピックミッキーマウス
ミッキー一座ミッキーマウス
ミッキーの陽気な農夫ミッキーマウス
ミッキーのアラビア探検ミッキーマウス
ミッキーの子煩悩ミッキーマウス
ミッキーのトレーダーホーンミッキーマウス
ミッキーのフーピー・パーティーミッキーマウス
ミッキーのタッチダウンミッキーマウス
ミッキーのカナリア騒動ミッキーマウス
ミッキーの黄金の街は大騒ぎミッキーマウス
サンタのオモチャ工房(エルフ)
ミッキーの街の哀話ミッキーマウス








1940年代







1950年代

最終更新:2022年07月02日 01:34