サンテネリ王国(Royaume de Centénairie (*1))は、中央大陸西部に位置した王国である(*2)。その正式名称は「正教の守護者たる地上唯一の王国」と称された。長きにわたりルロワ家が統治したが、18期に大改革(レフォルマシオン・グロー)を経て共和制へと移行した。
サンテネリ本土はレムル半島に位置し、東を除いて海に面しており、西の海峡を挟んでアングランと、東では帝国と国境を接している。中央部には中央山塊という山岳地帯から流れ出るロワ河が東西に流れ、この河のほとりに西から東へガイユール公領ロワイヨブル、デルロワズ首府ルエン、バロワ首府ヴァノー、そして首都シュトロワなど主要な都市が栄えている。ガイユール公領ロワイヨブルを起点にして北に向かってグイヨン川が分流しており、その麓にガイユール首府リーユが存在する(地図)。
人口はグロワス13世治世下で約3000万人。(*3)
歴史
建国と統一戦争
サンテネリ地方は、約1500年前の「諸民族のうねり」と呼ばれる中央大陸全土の混乱が収束した直後から、ルロワ家の王権を中心に一つの政治的・文化的まとまりを形成し始めた。当初は諸公国の連合体であったが、ルロワ家が頭角を現し、他の諸侯を傘下に収める形で統一戦争を進め、サンテネリ王国が建国された。
この統一戦争の過程で、ルロワ家を支える主要な貴族家が台頭した。
- フロイスブル家: 約900年前の統一戦争初期に功績を挙げ、封建された。初代当主は女性のブラウネであったと伝わる。
- バロワ家: 同じく約900年前に軍伯として封じられ、代々ルロワ家の近衛部隊を指揮する役割を担った。
- ガイユール家: 元々は独立した大勢力であったガイユール公領を治めていたが、約800年前にルロワ朝との争いに敗れ、婚姻政策を通じて王国の一部となった。
ルロワ朝初期には、サンテネリ統一の礎を築いたとされるマルグリテ女王のような名君も現れた。
中興の祖グロワス7世
約500年前に在位したグロワス7世は、サンテネリ王国中興の祖と称される名君である。彼は長年の敵であった東の帝国を打ち倒し、国内の諸公国を屈服させてサンテネリ統一戦争を終結に導いた。敬虔な正教徒であり、自身を「正教の守護者」と任じていた。
外征の時代(グロワス11世・12世)
グロワス11世と、その跡を継いだグロワス12世の治世は、積極的な対外進出と領土拡張によって特徴づけられる。この二代にわたる外征はサンテネリの国威を大いに高め、11世は「大王」とまで呼ばれた。
しかし、特にグロワス12世が晩年に行った度重なる新大陸への軍事介入は失敗に終わり、国庫は破綻寸前となった。周囲を敵国に囲まれ、国内財政は危機的状況にあった。1712年1月18日、グロワス12世は崩御した。
グロワス13世の治世と改革(1712年 - 1735年)
即位と"回心"
1712年、父の死に伴い、20歳でグロワス13世(1692年 - 1735年)が即位した。当初、彼は祖先グロワス7世に憧れ、正教の復古や海外領土の拡張といった非現実的な政策を掲げていた。しかし即位後1月半で病に倒れ、回復した王は人格が変わったかのように現実的な政策へと転換した。この出来事は後に「回心」と呼ばれる。
改革
「回心」後のグロワス13世は、サンテネリの将来を見据えた大規模な改革に着手した。
- 枢密院の創設: 王家の私的な諮問機関であった国王顧問会(コンシー・エン・ルロワ)に代わり、国家の公式な最高意思決定機関として枢密院(コンシー・エン・サンテネリ)を創設した。これにより、これまで国政の中枢から距離を置いていたアキアヌ大公やガイユール大公といった大諸侯、さらには富裕な平民にも国政参加の道を開いた。
- 軍制改革: 財政再建のため、王家直属の「近衛軍」を段階的に国軍へ統合・解体し、海軍も縮小するなど、大規模な軍縮を断行した。これは王が自らの最後の武力装置を手放す命がけの決断であった。
- 外交方針の転換: 長年の敵国であった帝国との和約と同盟を締結し、正妃として皇女アナリース(後のアナリゼ妃)を迎えることを決定した。
主な出来事
- 雪の王(1716年): 枢密院発足直後、サンテネリ北部を未曾有の大寒波「雪の王(ロー・ナーグ)」が襲った。この災害対策として枢密院が発令した国内関税の一時凍結は、結果として中小諸侯の没落を招き、サンテネリの中央集権化を加速させる一因となった。
- 二重戦争(1728年 - 1733年): この戦争はサンテネリの敗北に終わったが、市民が初めて「自分たちの敗北」として意識したことで、「サンテネリ国民」という意識が芽生えるきっかけとなった。
またこの戦争の講和会議により、新大陸の植民都市群をグローヴィル(現在の連邦共和国都市グローベル)まで含めて放棄することを余儀なくされた。
1735年、グロワス13世は崩御した。
大改革と第一共和制(1735年 - 1752年)
1735年、父の死を受けてグロワス14世が17歳で即位した。父の開明的な思想を受け継いだ彼は、1740年に平民も参加する「国民会議」を設立した。しかし1742年、食糧危機への対応に失敗した政府への不満が爆発し、シュトロワで大規模な暴動が発生した。この混乱の中、思想家ジュール・レスパンらが暴動を組織化し、「大改革(レフォルマシオン・グロー)」と呼ばれる革命が勃発した。
革命によりグロワス14世は帝国へ亡命し、1742年7月20日、レスパンを指導者とするサンテネリ第一共和制が樹立された。これに対し、周辺諸国は王の復位を口実に軍事介入を開始し、「祖国戦争」(1743年 - 1748年)が勃発した。この戦争は、外敵の存在が共和国内の団結を促すという皮肉な結果を生み、共和制側の勝利に終わった。
復古王政から第二共和制へ(1752年 - 1770年)
祖国戦争後、国内では革命を主導した改革派と、グロワス13世の次男ロベル(ジェント大公)を中心とする王党派の対立が激化した。指導者レスパンが暗殺されると、政局を主導したロベルは1752年にロベル3世として即位し、王政が復活した(復古王政)。ただし、この王政下で王は象徴的な存在に留まり、実権は枢密院が握り続けた。
ロベル3世の治世は20年続いたが、1770年3月1日、彼は自らの意思で王権を国民会に委譲することを提案。「サンテネリ共和国令」が可決され、建国から1000年以上に渡ってサンテネリを支配したルロワ王家の治世は終わり、サンテネリは再び共和制へと移行した。これが現在のサンテネリ第二共和制の始まりである。
第二共和国成立から数十年後には首都大改造が行われ、ロワ河が浄化された。(*4)
評価の変化(20期末 - 21期)
グロワス13世は、生前および死後長らく「白痴の王」「暗君」として不当に低い評価を受けていた。王党史観からは王権を臣下に奪われた無能者と見なされ、大改革後の国民史観からは旧体制の象徴として批判された。
しかし、20期末から21期にかけて再評価の動きが活発化した。きっかけは、大改革の指導者ジュール・レスパンの遺稿の発見と、王室御用達であった時計メーカー「ブラーグ社」の広報キャンペーンであった。
レスパンの遺稿からは、彼がグロワス13世の思想や演説に深く影響を受け、王を「模範」の一人として捉えていたことが明らかになった。また、ブラーグ社の支援による研究では、近衛軍の再編や枢密院の創設といった、後のサンテネリの礎となる数々の改革を王自身が主導していた可能性が示された。
これらの研究成果により、グロワス13世は、王権を自ら制限し、身分によらず国民が国政に参加する道を開くことで、サンテネリが近代的な「国民国家」へと転換するための礎を築いた開明的な君主として再評価されている。
国民的宗教
建国以来、正教が主流な宗教であった(共和制移行後は不明だが、「魔力」を前提にする教義なので教徒人口は減っていると考えられる)。
正教の特徴
- 人は魔力の多寡により地上にその位置を定められる
- 男女の仲は一対一の神聖なものとされる(一夫一婦制)
- 人の世を「神が描いた物語」であると定義する
- 王が王たるは獣欲を抑える魔力を持つからとされている
- 神は「足」で表される。その足を覆い隠す長衣の裾の側で裾布に包まれて憩いのときを過ごすのが人の幸福とされる。