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 ――――神寂祓葉は、"彼"にとって姪にあたる。


 弟夫婦が長い不妊治療の果てに授かった子。
 神寂の家は美男美女の家系だったので、彼女もまた例に漏れず天性の美貌を持って生まれてきた。
 色の抜けた白髪。発育のいい身体。ひとたび微笑めばそのかんばせは満開の向日葵のよう。
 たとえそのケがない人間でも思わず虜になるような絶世を彼女は持ち合わせていたが、一方で"彼"はこれをそれほど評価していなかった。

 "彼"は筋金入りの小児・少女性愛者だ。
 が、見てくれだけで獲物を選ぶのかと言えばそうでもない。

 "彼"には"彼"の評価基準があった。
 魂の味わいは時に美醜を超える。
 無論見目が麗しいに越したことはないのだが、如何に眉目秀麗でも内面次第で食指が動かないことも往々にしてある。
 神寂祓葉もまた、そのひとりだった。

 無邪気。快活。可憐にして純真。
 だが、彼女の振る舞いはどこか虚ろだった。
 もっと言葉を選ばず言うなら、チープな演技のように見えたのだ。


『祓葉ちゃん――君は今、楽しんでるかい?』


 いつの会話だったか、正確には覚えていない。
 重要度が低い故、正しく記憶しておく意味がないから。
 それでも、惜しいと思う気持ちはあったのだろう。
 だから問いかけた。実家の裏庭で、ひとり花冠を作る白い少女に。
 善良な叔父の仮面を被ったまま、その虚ろの向こうへと石を投げかけたことがあった。

 問われた少女は、きょとんとした顔で"彼"を見上げる。
 それが数多の可能性を喰らい蓄え、世を裏から掌握する〈支配の蛇〉とは知らぬまま。
 優しく裕福な叔父のことを、在りし日の祓葉は見つめていた。

『君はなんだかいつもつまらなそうだ。
 野山を駆け回っていても、テレビを見ていても、美味しいご飯を食べていても。
 その硝子玉のような瞳の向こうから、どこか冷めた眼差しで世界を見ている。違うかな』
『え、と……?』
『ははは、叔父さんの考えすぎだったらいいんだ。僕はどうもそういうことを気にしてしまうタイプでね。
 ほら、子どもは元気が一番って言うだろう? もし何か心から笑えない理由があるのなら、僕に聞かせてほしいと思ったのさ』

 蛇は狡猾だ。一挙手一投足、言動のひとつにさえ気を配る。
 そんな男がこうまで露骨に踏み込むなどそうそうあることではなかった。
 まして相手は身内である。低い確率とはいえ、藪中に潜む蛇の得体に繋がる足跡になる可能性だってゼロじゃない。
 なのに此処までしたのはきっと、それだけ惜しいと思っていたから。
 なんとか純真を覆う諦観のヴェールを剥がし、中身の味を検めたいと願っていたからに他ならない。

 だが蛇の期待とは裏腹に、少女は一拍の間を置いて、いつも通りの微笑みで言った。

『楽しいよ。お母さんは優しいし、お父さんは楽しい人だし。
 友達もいっぱいいるし、叔父さんだってこうして私にかまってくれるし』
『本当に?』
『うん、本当。だから私のことなんか心配しないで、叔父さんもこっち来て一緒に遊ぼうよ!』

 向けられた笑顔に、こちらも常のままの笑顔で応えながら。
 一方で蛇は、心に湧いた欲望の熱を急激に冷ましていった。

 ――駄目だな。これじゃあまるで食いでがない。

 捕食者にとって最も無益な獲物は、喰ったところで腹の膨れない手合いである。
 身内の子を殺すというリスクと天秤にかけてまで喰いたいと思わせる魅力が祓葉にはなかった。
 なまじ見た目が最上に近いからこそ、その空虚な有り様は痩せこけた大魚を思わせた。
 ちょうど当時、並行して取り掛かっている"上物"がいくつかあったのも手伝って――蛇・神寂縁は此処できっぱり幼い姪から手を引いた。
 興味がない相手にはとことん関心を抱かないのがこの欲深な生命体だ。
 その後も顔を合わせる機会は何度かあったが、これ以降蛇が祓葉を捕食対象として見たことは一度もない。

 およそすべてに恵まれて生まれてきた彼女をそうさせる要因は、まあ多少気にならないでもなかったが。
 それでも執着するほどではない。単に可愛いだけの、身入りの弱い娘。
 神寂縁にとって神寂祓葉という少女は、所詮その程度の存在だった。……この世界に訪れ、舞台の筋書きを知るまでは。

 あの殻に籠もりきった娘に何があった?
 何が、白い徒花を都市の造物主に変えた?
 疑問は尽きない。誰より人間の輝きを理解する捕食者をして溢れる疑問符が止められない。
 人は変わるものだ。出会い、悟り、成功と挫折。あらゆる転機でその正體は劇的に変わる。
 だが限度というものがある。少なくとも神寂縁は、これほどの躍動を果たした人類種を他に知らなかった。

 仮想都市の造物主。あまねく運命を支配し、踊らせるもの。
 その在り方は端的に言って度し難い。愚かだとさえ思う。
 何故なら支配者とは天地にひとり、この己以外には存在しないのだから。
 しかしそれはそれとして――いつか透かされた分、興味が鎌首を擡げているのは否定できない。

 ぜひ検めてみたいものだ。
 あの日できなかった分まで、今度こそ。
 神となった姪の尊厳を、舐(ねぶ)ってみたい。

 天の太陽が熱を帯びて脈打つように。
 藪の蛇神は欲を抱いて胎動する。
 収まることを知らない熱情という点で、同じ血の流れる彼らは共通していた。
 そしてだからこそ。悪戯な運命は当然のように、因果の糸を撚り合わせる。
 港区を揺らし六本木を消し飛ばした赤き戦禍の余波も消えやらぬ東京で、邂逅の瞬間は訪れた。



◇◇



「ごめんなさい~……! お待たせしましたっ」

 ぱたぱたと忙しない足取りで戻ってきた"彼女"に、レミュリンは「大丈夫ですよ」と会釈した。
 女の名前は蛇杖堂絵里。先刻、蝗害の魔女との激戦を終えたレミュリンの前に現れたマスターである。
 レミュリンは絵里と連れ添って、赤坂亜切へ迫るべく彼女の祖父――狂人・蛇杖堂寂句の許を目指していた。
 その道中で絵里が用を足すために数分ばかし離脱し、戻ってきたのがちょうど現在だ。
 どんな状況だろうと生理現象は構わずやってくる。それを咎めるほど、レミュリンは狭量ではなかった。

「あの、絵里さん」
「あ――もしかしてレミュリンちゃんも、見ました? ニュース……」
「……うん。ついさっき見て、びっくりしちゃって」

 それに。
 もはや、そんなことに思考を割いている場合ではないというのもある。
 その理由はつい先ほど、速報で東京中を駆け巡った惨禍の報せ。
 港区・六本木が原因不明の爆発事故により、ほぼ壊滅状態に陥ったというニュースに起因していた。

 爆発事故という見出しではあるが、これに騙されるほど馬鹿ではない。
 ひとつの地区を消し飛ばすほどの被害を出せる存在達を、既に彼女は知っている。
 間違いなくこれは聖杯戦争絡みの事件だ。どこかの誰かが、ちょうどこれから向かおうとしている港区で"やらかした"。
 だからこそ、このニュースは単なる悲惨さ以上の意味合いを持って彼女の心を揺らした。
 蛇杖堂寂句が院長を務める記念病院は港区にある。つまりこれからレミュリン達は、爆心地に自ら近付いていかなければならないのだ。
 ただでさえ一か八か、命の危険を多分に伴う旅路だったにも関わらずである。これを悪い報せと言わずして何と言おうか。

 ましてやついさっき、今自分達がいる渋谷区の某所でも、大規模な〈蝗害〉が吹き荒れたという報せを受けたばかり。
 なまじ一度会敵した、顔を知った相手が惨劇を生み出し続けている事実。
 そのショックも手伝って、レミュリンの心には重いものがのしかかっていた。

「ならよかった……いや、ぜんぜん良くないんですけど。
 凄い音と震動だったから何かあったのかなって話してましたが、まさかこんなことになってるなんて思いませんでしたね……」
「……、……」
「――レミュリンちゃん。どうします?」

 問いかけの意味は理解できる。
 どうするか。このまま進むか、それとも一度立ち止まるか。
 絵里はそう訊いているのだ。彼女に問われるまでもなく、レミュリンも同じ問題に直面していた。

「確かに、わたしもお爺さまに会いたい気持ちはありますし。
 レミュリンちゃんはわたしなんかの比じゃなく、寂句先生の知見を求めていることはわかってます。
 だけど、此処まで来るとやっぱり……リスクも無視できないですよ。バカと煙は何とやらじゃないですけど、騒ぎを聞きつけた暴れたい人たちがどんちゃんやってても不思議じゃありません」

 町がひとつ消えた。
 既に聖杯戦争は一ヶ月以上に渡って続いているが、これほどの被害が刻まれたのは間違いなく初めてだ。
 これを好機として出撃し、同じ考えで寄ってきた敵手と揉めたがる輩は確実に存在する筈。
 すなわち、今の港区は近付くだけでリスクのある危険地帯へと変貌してしまった。
 仮令それが杞憂だったとしても――六本木を死渦巻く荒野に変えた元凶がのうのう闊歩している可能性も残っている。
 そして現在、蛇杖堂寂句へ接触を図る上での目的地は彼が院長を務める『記念病院』。その所在地も、港区である。

 選択肢はふたつだ。
 このまま渦中の街に飛び込んで、蛇の巣穴を目指すか。
 それとも一度足を止め、方針を練り直すか。
 絵里は具体的に提示することはしなかったが、オブラートで包まれた二択がレミュリンへ届いたことは、彼女の返す沈黙が物語っていた。

「わたしはサーヴァントともうまくいってないし、正直言ってレミュリンちゃんほど切実な"やりたいこと"もないですしね。
 だからわたしに配慮するみたいなことはしないで、レミュリンちゃんがどうしたいかを言ってくれて大丈夫ですよ」

 絵里は子どもをあやすようにひらひらと両手を振って、努めて軽薄にそう言った。
 自分が突き付けた問いかけがレミュリンに対してどんな意味を持つかを分かっているからこその、少しでもメンタルに負担を掛けまいとする配慮。
 レミュリンがそこまで理解できてしまう"優しい子"だったからこそ。罪悪感の暈が、ようやく炎を灯した稚い心の上を覆う。

(ランサー……)
(こればかりは、俺が口出しすべきことじゃない)

 とっさに自分の英霊へ助け舟を求めてしまうのは、未成熟の証。
 レミュリン・ウェルブレイシス・スタールは未だ蛹、あるいはそれ以前の幼年期の中にいる。
 いわば大いなる流れに揺られて、自動的に運命の俎上へ載せられてしまった子ども。
 その精神性は、他人を貧乏籤に付き合わせながら利己的に進むことを良しとできるほど発達してはいない。

(……なんて心を鬼にして突き放そうと思ったんだが、やっぱりどうも性に合わねえな。
 かと言っておんぶに抱っこで君の炎を弱めちまうのも本懐じゃあねえと来た。
 だからひとつ、ヒントくらいで許してくれるか?)
(うん。……ランサーがわたしのことを考えて言ってくれてることは、よく分かってるつもりだから)
(そっか。伝わってたんなら嬉しいぜ、レミュリン)

 それでも、もう守られるだけの自分でいたくないという想いは人一倍にあった。
 身を灼かれる痛みと、希望の方へ往きたいと願う気持ちが少女に殻を脱ぎ捨てさせた。
 その成長を知っているからこそ神代の槍兵は敢えて心を鬼にし、彼の親心を少女は理解する。

(正確に言うなら、そいつはもう"俺が言うまでもない"ことだ)
(……、……)
(レミュリン。君は俺が思ってるより遥かに強く、大きくなった。
 あの恐るべき魔女に手前の価値を認めさせ、戦利品までもぎ取ってみせたんだ。
 誰にも文句は言わせねえよ――それほどまでに君は見違えた。ならその君に、俺みたいな野蛮人でも導ける答えが解らん道理はない。
 違うか?)

 ……そう、"やりたいこと"は解っている。
 世界の誰よりも、レミュリン自身が識っている。
 なのにその答えを、守ってくれる他者に求めてしまう弱さ。
 醜さにも似た幼気に嫌気すら覚えるが、それさえ打ち消すように眩い言葉が心の耳朶を打つ。

(ごめんね。でも、ありがとう)
(いいってことよ。少しは背中を押してやれたかい?)
(うん。ランサーらしいなって思った)
(そいつは良かった。まあ、なんだ。時にはワガママになるってのもいいもんだぜ。ガキの頃はなんでも色々やってみるもんだ)

 少しだけ笑みを浮かべて、すぐに消して。
 レミュリンは、絵里に向き直る。
 伝えるべき、示すべき答えは決まっていた。

「わたしは、行きます」

 ――『退くも進むも、あんた達の勝手。その代わり、相応の覚悟はすることね』

 魔女は、炎の遺児へそう言った。
 未だに、彼女が自分へ向けた情の意味は介し切れない。
 単なる合理か、それとも彼女にしか分からない何かがあったのか。
 それでも、魔女の口から授けられた言葉は強くレミュリンの中に残った。

 燻る過去に背を向けて逃げ出そうとも。
 地獄と知ってそこへ踏み出そうとも。
 この狂った都市に、その行動を咎める法規はない。
 少女の躍動を縛るものはなく、故にすべてが自己責任。
 すべてが許される。父母と姉のように、燃え滓になる覚悟があるのなら。

 覚悟はあるのかと、心に染み付いた白黒が問う。
 答えは決まっていた。もしかするとそれは、ただの過信かもしれないけれど。
 ――覚悟はある。あるに決まっている。
 胸の中に未だ灯り続ける祝祭の火を仰ぎ、夢見るようにそう信じる。信じられたなら、もうその心に震えはなかった。

「わたしは、アギリ・アカサカに会いたい。そのために、ジャクク・ジャジョードーと話したい」
「……うん。そうですよね、やっぱり」
「でも、エリさんにまでそれを強要はしません。
 危ないのは確かだし、何かあったらわたしじゃ責任取れないし……。
 エリさんが付き合いきれないって思っても、仕方のないことだと思うから」

 たとえひとりでも、独りじゃない。
 今日まではどこか抱ききれなかったその実感が、今のレミュリンにはある。
 依存ではなく信頼。庇護ではなく共存。踏み出した一歩はあまりに大きく、だからこそ彼女は一本芯の通った覚悟を持てていた。

 自分は今も、"熱の日々"の中にいる。
 背を向けるチャンスは何度もあった。
 過去は過去、過ぎたこと。そう諦めるのを望まなかったのは自分自身だ。
 真実を知りたい。そこに辿り着いた自分が、その時何を願うのだとしても。
 この胸の奥で燃える熱源を抱いて戦うのだと決めた。だからもう、足は止めない。

「わかりました。じゃあ、わたしもやりたいようにしますね」
「……はい。あの、短い間でしたけどお世話に」
「やっぱりわたしも行きます。港区」
「へ」

 きょと、とした顔で目を見開くレミュリンに。
 絵里はちょっと照れくさそうに笑って、ぽりぽりと頭を掻いた。

「いやあ、わたしもこんなんでも一応医者の卵ですから。
 年下の女の子をひとりで危ないとこに行かせるとか、ちょっと無いなーって」
「で、でも……危ないですよ、エリさんの方こそ。
 わたしのせいで危険なことに巻き込まれちゃったりしたら――」
「それに、一応わたしにも行く理由はあるんです。
 レミュリンちゃんほど切実な訳じゃないですけど、お爺ちゃんに会ってみたいって気持ちはちゃんと本当。
 そう考えてみると……えへへ。レミュリンちゃんを手助けしつつ、そこのランサーさんに守ってもらうって、結構合理的かなって思うんですけど」

 ずるい話ですけど、と言ってばつが悪そうに目を逸らす絵里。
 その仕草に毒気を抜かれて、気付けばレミュリンはぷっと吹き出していた。

「あっ、ちょっと! 笑わないでくださいよぉ……!」
「ごめんなさい、でも……なんか、ちょっと安心しちゃって」
「もうっ。わたしも一応真剣に考えて話してるんですからね……!?」

 思えば久しく、肩肘張らない会話というものをしていなかった気がする。
 年上のお姉さんで、物腰柔らかで、だけど少し俗っぽくて頼りない。
 そんな絵里の存在は、大いなる目的に向けて歩き出したレミュリンにとって思いの外大きかった。
 どんなに大層な覚悟のもと腹を括っていても、ずっと渋面で休みなく戦い続けるのは難しい。
 それがレミュリンのような、これまで争いと無縁の生涯を送ってきた少女であればなおさらだ。

 他者との気兼ねない関わりは給水所のようなもの。
 休みなく走り続けるよりは、適度に心を潤しながら歩いていった方がいいに決まっている。
 年の離れた姉妹のようにも見えるふたりは、笑みを交わし合ってどちらともなく頷いた。

「……じゃあ、行きましょっか」
「はい。行きましょう、エリさん」

 されど――少女は知らぬ。
 己が心を濡らし潤してくれた癒しの水が、得体の知れない化物の涎であることを。

 〈支配の蛇〉はそこにいる。
 それは、現代にてこの世総ての悪を体現せんとするもの。
 悲願を追うスタール家に葬送の嚇炎を招き寄せた元凶。
 赤坂亜切とも異なる、もうひとりの仇は友達のような顔をして笑っている。

「あ、そうだ」
「? どうかした……?」

 思い付いたようにぽんと手を叩いて、指を立てる。
 不思議そうに見つめるレミュリンに、蛇女は言った。

「さっきふと思い付いたんですけど……レミーちゃんって呼んでもいいですか?
 ほら、わたし日本人なので。レミュリン、ってちょっと長くて言いにくくて」
「……あはは、いいですよ。好きに呼んでください。
 ちょうど同じニックネームで呼んでくれる人がいるので、慣れてるし」
「やった。じゃあ改めてよろしくお願いしますね、レミーちゃん」

 本当に、かわいい。
 そう思う。
 前々から獲物として上々の値打ちを有していたが、少し見ない間にずいぶんと立派になった。

 人は変わるものだ。
 出会い、悟り、成功と挫折。あらゆる転機でその正體は劇的に変わる。
 たとえ切欠が悲劇だろうとも、加えられた刺激は蛇の獲物を甘美の果肉で肥え太らせてくれる。
 今のレミュリンを咀嚼すればきっと、さぞや極上の味を堪能することができるだろう。
 開花した魔術の才能も興味深い。単なる娯楽の領域に留まらず、己の魔道を支える新たな顔になってくれること請け合いである。

 幸いにしてレミュリンは純粋で善良な子だ。
 捕食する側に言わせれば、こういう"いい子"が一番苦労しない。
 信用を擦り込んで、親愛を与えて、縋り付くことに何の躊躇いも覚えない隣人になって。
 あとは頃合ひとつでパクリと丸呑み。今まで、何百回とやってきたお決まりのパターンだ。

 が、やはり面倒なのは彼女を守護する"英雄"の存在。
 クランの猟犬の父であり、邪視の怪物と医術の神を祖父に持つ英雄。
 神としての側面を捨て、零落とわずかな反則技で少女のもとに顕れた偉丈夫。

(やれやれ、思ったより隙がないな)

 すなわち、ルー・マク・エスリン
 切り落とし削られて尚、此度の聖杯戦争の最上位格に肉薄するハイエンド。
 この男の存在だけは、神寂縁という魔人を以ってしても厄介と呼ぶ他なかった。

(というかよくもこんな難物を引っ張り出せたものだ。
 ガイアの飼い犬というわけではないようだが、だとすればルール違反スレスレだろう。
 騙すだけなら造作はないけれど、追い落とすとなると僕でも至難だなぁ)

 真名の特定にまでは至れていないが、それでも人智を超える大蛇である。
 ひと目見ればその完成度の高さは理解できた。
 共に行動して、城塞のように揺るぎない存在感を実感した。
 故に認める。間違いなくこの男は、一筋縄ではいかない障害だと。

 この手の大英雄は、時に理屈ではない勘の良さを持っている。
 様々な神話や叙事詩を見ても、天啓めいた直感で逆境を打破した英雄の逸話は枚挙に暇がない。
 これは陰謀と卑劣な人心掌握で獲物を刈り取る蛇にとっては、きわめて面倒な性質だった。
 綿密に計算して組み上げた犯罪計画を直感で台無しにされては敵わない。
 恐るべしは長腕のルー。蛇の悪意には気付けずとも、ただそこにいるだけでレミュリンを危険から遠ざけている。
 迂闊に踏み込めば痛い目を見るとその完成された強さで以って喧伝し、〈支配の蛇〉を牽制していた。

(ま、いいさ。僕としても、レミーが何処に行き着くのかは多少興味がある。
 本気で喰いにかかるのは仕上がりを見てからでも遅くはない。このデカブツの対処もそれまでにのんびり考えておくとしよう)

 蛇は、待つことができる。
 腹鳴を押し殺しながら虎視眈々と獲物を狙い続けることができる。
 そうすることで確実に価値が搾り出せる手合いに対しては特に。

 レミュリンは見違えるほどに成長したが、彼女の真価はむしろこの先だ。
 〈葬儀屋〉、赤坂亜切。彼と対峙することで少女はいかなる答えを出すのか。
 復讐。赦し。あるいはそのどちらでもない彼女だけのユニークな回答。
 己が運命の始原たる悲劇に答えを示した瞬間にこそ、彼女という幼羊は最上の肉を蓄えるのだ。

 それまでは演じよう、善き隣人を。
 少し抜けていて頼りなくて、でも親身になって支えてくれる優しいヒトを。
 蜷局の中に絡め取るように依存させ、自分という存在が隣にいることを当たり前にしてやろう。
 悪巧みの種と期待は尽きない。ついては蛇杖堂寂句、あの暴君に対してどう挑むのかも実に楽しみになってきた。
 儘ならぬこともあるがそれ以上に胸の高鳴る、狩りの時間が流れている。
 法悦の念を絵里の仮面の下に隠しながら、神寂縁は前方を見て――――


「…………、…………ほう」


 ――――そこに立っていた見覚えのある白い生物を前に、擬態を忘れて感嘆の息を漏らしていた。



◇◇



 レミュリン・ウェルブレイシス・スタールは、それを"妖精のようだ"と思った。
 幼い頃に寝物語で聞いた、もしくは学校の図書館で読んだ美しい絵本の住人。
 清く儚く、それでいて天真爛漫。絶世の美を宿した幻想の生き物。
 生まれてこの方、美に圧倒されるというのは初めての経験だった。
 真に美しいものを見ると人は身動きはおろか、呼吸さえ忘れてしまうのだと初めて知った。

 蛇杖堂絵里を名乗る蟒蛇は、それを"エデンの林檎だ"と思った。
 楽園の蛇が原初の人間を誑かし、破滅へ追いやったその道具。
 見ているだけで涎が溢れ、ひとたび齧り付いたらどれほど甘美だろうかと想像が止まらない欲望の象徴。
 あらゆる魂を噛み分けた悪食家の彼にとって、この時抱いた感情はいつかの衝動にも等しい大きさを秘めていた。
 喰いたい。今すぐ、すべての計画を反故にしてでもあの首筋を食い千切ってみたいとそう考えた。

「――動くなよ、レミュリン。絵里」

 自失と衝動。対極に等しい反応を示すふたりをよそに。
 前に踏み出したのは英雄、ルー・マク・エスリンであった。
 既にその右腕には槍が、『第一の槍』が握られている。
 それは彼が眼前の、妖精の如き少女を、果たし合うべき"敵"と認識していることを示していた。

「は、っ…………ラ、ランサー……? なにを――」
「悪い、今は黙って俺の言うことを聞いてくれ。
 情けない話だけどな、何かあった時に庇ってやれる自信がねえんだ。
 だからせめて俺の後ろにいるんだ。そこだけは、死守してみせるからよ」

 ――長腕のルーは、それを"世界を呑み込む星だ"と思った。
 どこに逃げ隠れようが関係なく、天地のすべてを呑み込んで灼き尽くす光の極星。
 太陽とは眩いもの。故に少女は美しく、美しいが故に万物万象の大敵であると物語っている。
 神を知り、恐るべきものを知り、英雄譚を響かせた光の英雄が魂まで激震する感覚に打ちのめされた。
 これは善でも悪でもない。そんな価値観では推し測ることのできない、もっと大いなる存在であると瞬時に理解した。

 だから彼は、こうして武器を握り立ったのだ。
 『常勝の四秘宝・槍(ランス・フォー・ルー)』。勝利を誓い、手繰り寄せる英雄の槍。
 英雄と呼ばれ、そう在らんとする者にとって武器を握ることの意味は重い。
 立つからには勝たねばならぬ。吠えたからには守らねばならぬ。それが戦争の宿業。呪いにも似た輝く泥濘。

「よう、嬢ちゃん」

 初めて、邪視のバロールに射竦められた時を思い出した。
 全身を這い回る死、それより恐ろしい結末の気配。
 生物として格の違う存在と対峙した時特有の"これ"を、人理の影となって尚覚えることになろうとは。

「――名を、聞かせてくれるかい」

 道の先にきらびやかに咲き誇ったネオンライトが逆光となって少女を照らしている。
 まるで逢魔が時、夕日を背に佇む正体不明の誰か。
 暴いてみるまで真の怪奇か、それとも滑稽な枯尾花かは分からない。
 白い影として佇む娘が、確実にその口元を歪めた。
 邪念など微塵も混じり込む隙間のない、恐ろしいほどうつくしい微笑みだった。

「神寂祓葉」
「いい名前だ。嬢ちゃんによく似合ってる」

 だからルーも同じ顔をする。
 敵が誰であれ何であろうと、笑顔には笑顔で応えるものと決めている。
 雄々しく破顔しながら、静かに槍を構えた。
 そのアクションに、今度は少女――祓葉の方が、応えるように武器を握る。

 右の手のひらに出現するは、夜闇を照らす〈光の剣〉。
 影が晴れ、少女の得体を白光のもとに曝け出させる。
 エデンの林檎たる妖星が、真に三人の前へと姿を晒した。
 女神を知る英雄をして、気を抜けば見惚れ、抱いてはならない情動を覚えそうになる蠱惑の神秘。
 蛇のように手足へ絡む欲望を、彼は英雄であるが故に、消えやがれと勇気ひとつで消し飛ばす。

「――――一合、付き合ってくれよ」

 そう言って槍を構え、臨戦態勢を取る。
 言葉はなかった。その代わりに光剣が、斜に構えられる。
 それが開戦の合図。
 一秒弱の静寂を空けて、正々堂々、何ひとつの謀もなく。


 夜の都心、その真ん中で――――神と英雄が激突する。



◇◇



 踏み込みの速さは、言わずもがなルーに軍配が上がる。
 守るものを背中に置きつつ、あらゆる不測に備えつつ。
 それでも光の英雄は無敵にして盤石である。
 一足で距離を消し飛ばし、続く二足で大地を揺らす。

 侮るなかれ、長腕のルーを。
 侮るなかれ、クー・フーリンの父親を。
 邪視のバロールを穿ち殺した英雄譚を見縊るなかれ。

 レミュリンが眼を瞠り。
 絵里が口元に手を当て、蛇の眼で冷徹にそれを視ていた。
 両者の想定、認識を遥かに超える初速。
 仮に祓葉が何か奸計を弄していたとしてもこれなら関係ない。
 圧倒的な速度と馬力で突き破り、引きちぎる。
 前進の究極とも呼ぶべき彼の進軍を罠ごときで阻める筈がなかった。

 祓葉もそれに驚きつつ、しかしすぐに歓迎の笑みを貼り直す。
 この時点で可怪しい。蛇はともかく、レミュリンには今のルーは一条の閃光にしか見えていなかった。
 なのに彼女はただの人間の身でルー・マク・エスリンの本気を見切っている。
 常軌を逸した動体視力。故に初見殺しは期待できない。刹那遅れて、白い彼女も地を蹴った。

 六本木を焦土に変えた爆弾が、もう一度投下されたのかと見紛う衝撃。
 路面に巨大なクレーターを生み出しながら現人神、悠然と迎え撃つ。
 紛れもなく後手に甘んじているのに、微塵も弱さを感じさせない。
 英雄譚がねじ曲がる。世界を喰らう星を討つ物語が、少女が過去の残照を超える物語にすり替わっている。
 ルーに守られている彼女達でさえ、気を抜けばどちらが主役か分からなくなってしまいそうだった。
 生物が持つ華というのは、こうも理屈なく認知を超えてくるのか。

 ――斯くして両者、開戦から一秒を要さず肉薄する。

 挑むは光の英雄、ルー・マク・エスリン。
 受けて立つのは白き神、神寂祓葉。
 常勝の槍と必勝の剣、奇しくも両者は"勝利"に愛された者同士であった。

 剛槍が切り込む。光剣は、その神速に合わせた。
 結果として生じる、激突。衝撃波がふたりを中心に、同心円状に広がって凶悪な風圧を生む。
 此処で初めて、ルーの顔から笑みが消えた。眉間に寄った皺が想定外の事象に遭遇したことを示す。

 重すぎる。硬すぎる。決して侮っていたわけではないが、祓葉の膂力はあまりに彼の想像を超えていた。
 ルーの筋力ステータスはA+。額面の数値がすべてではないものの、これは驚異的なランクだ。ほぼ、最上位と言っていい領域である。
 ではその彼が破れないと判断する目の前の少女の怪力は、一体どんな次元に達しているというのか。
 そう、破れない。この壁は越えられない。長腕のルーが、そう悟った。力で押し勝つという未来を捨て去らざるを得なくなったのだ。
 そんな苦境を察してか、祓葉の口角が更に上がる。此処ぞとばかりに強まる出力に、常勝を謳うルーの槍が悲鳴のような軋みをあげた。

 ――神寂祓葉という超越生命体が持つ特性の最たる部分。
 それは、相手の力量に応じて強くなるというものである。
 言うなれば後出しジャンケン。彼女だけは、相手の手を見てからそれに勝てる力を引き出せるのだ。
 神のジャンケンに"あいこ"は存在しない。グーとグーがぶつかったとしても、祓葉だけは後出しを適用できる。
 相手の拳を粉砕する力を引っ張り出して勝利する。そんな子どもの妄想みたいなことを、大真面目に実現させられる。

 理不尽。無茶苦茶にして滅茶苦茶。これぞ横紙破りの極み。
 これを指して知識ある者は、天地神明の冒涜者と呼ぶ。
 ひとえに彼女はそういうモノだ。彼女の存在を前に、世界の理屈は等しく狂う。

 ルーは祓葉を知らない。
 だが彼は今、身を以てその恐ろしさを体感していた。
 時間にしてみれば開戦から未だ数秒足らず、それでも分かる。
 これは"勝者"だ。存在そのものが、勝利という概念を体現している。
 対処法など、そもそも戦わないという以外にまるで思い浮かばない。

 戦いとは無法のようで、この世の何よりもルールに保護された営みである。
 その最たるものが勝敗。生死であれ尊厳であれ、戦いが起こった以上そこには必ず勝者と敗者が生まれる。
 弱者の匹夫が武勇溢れる英雄を討ち倒すこともあろう。
 逆にごくごく順当に、強い者が弱い者を蹂躙して勝つことも、当然あろう。
 確率の大小はあれど、勝利と敗北、ふたつの未来は平等に開かれている。
 それこそが戦いのルール。誰もが勝ち得負け得るからこそ互いに全力を尽くす。そうする価値がある。

 ――そのルールを無視して、戦いが始まった時点から"勝利"の未来の中にいるような存在が居たとしたら、その時点で闘争は成り立たない。

 神寂祓葉とはそういう生き物だ。
 ひとえに、競い合うこと自体に意味がない。甲斐もない。
 ルーはそう理解した。同時に、自分が何故ただの少女にああも戦慄したのかも解した。

 存在意義の否定だ。
 これは、あらゆる英雄を否定する。
 逸話、武勇、技術に信念。何もかもが関係ない。
 どうせ負けるのなら、高らかに謳ったすべても道化の戯言に堕ちる。
 神の要素を削がれて尚、英雄の頂に存在するルーだからこそ、認識した瞬間にその致命を悟れた。

 一合だけの殺し合い。
 それですら"勝てない"と悟るにはあまりに十分。
 むしろ定めた形式が彼女に味方しているのが分かる。
 世界が歪み、道理が狂う。勝つべき者を勝たせるために収斂している。
 故に特異点たらぬルー・マク・エスリンは勝てない。
 これまで彼女の前に立ったその全員と同じく、敗者となって敗れ去る。

 哀れ、光は蹂躙される。
 彼女の方が眩しいから。
 熱の日々は冒涜される。
 彼女の方が熱いから。
 そこに理屈は必要ない。
 ただ"そういうものだから"、結末は平等に訪れる。


「もーらいっ」


 祓葉が言葉を紡いだ。
 瞬間、均衡は崩れ始める。
 光の剣が、槍を押し返す。
 拮抗は長く、崩壊は一瞬。
 ルーの肉体を両断する光剣は、悪夢となって彼の英雄譚を否定する。

 ――成る程。
 ――成る程なあ。
 ――やはり"これ"か、この都市の根源は。

 走馬灯のように引き伸ばされる思考の中で、ルーが覚えたのは納得だった。
 幼気、純粋。それでいて悪魔より悪く、聖女より善く、神より眩しい。
 まさしくこれは"混沌"だ。誰にも制御不能の光で、手の付けようなどとうにない。
 あるいはこうなる前に誰かが道を示してやれたなら違ったのかもしれないが、今となっては無意味な空想だ。
 神寂祓葉は、成ってしまった。白き神は誕生してしまった。その時点で、あらゆる運命が敗北している。

 この都市は失敗の帰結だ。
 誰もが、神寂祓葉に対して失敗してきた。
 賢者も、愚者も、当事者も、部外者も、それ以外も。

 それは向き合い方であり、戦い方であり、見方であり、関わり方であり。
 比喩でなく数百数千の失敗の積み重ねの果てにこの第二次聖杯戦争が広がっている。
 言うなれば世界一絶望的な敗戦処理。希望はおろか妥協案の未来もありはしない。
 矛を交えたからこそ分かること、伝わらぬことがある。そしてルーはそれを解せる英傑であった。

 ならばこそ、この敗北に対して抱く感情は『納得』。
 最初から勝ち目の存在しない勝負であったのだから、嘆きも悲憤もない。
 あるのはむしろ、少女の姿をした神、神のカタチをした少女への憐憫だった。

 なあおまえ、なんでそうまでなっちまったんだ。
 なんで、こうなるまで誰にも見つけて貰えなかったんだ。
 あとひとつ、ほんのひとつでも何かが違えば。
 おまえはきっと、人並みの幸福ってやつを噛み締められただろうにと。

 そう感じ入りながら敗残の淵より転落する。
 運命だ。さだめだ。覆し得る余地はない。
 光の英雄、ルー・マク・エスリンは敗北し消滅する。
 世界が認め、少女が望んだ終着点へ真っ逆さま。
 頭から墜落しながら、光剣の裁定を待ちながら――彼は、しかし。


「ふざけんじゃねえ――見縊るなよ、小娘ッ!!」


 吠えた。歯を剥き出して、獅子のように哭いた。
 敗北を前に停滞しゆく運命が、これを皮切りに再起動する。
 驚いたのは祓葉。笑うのは、ルー。一秒前までの構図が忽ち反転し。
 彼の『第一の槍』は光剣の側面を滑り、必滅だった一振りを超えて閃いた。

「独りなら負けてもやれる。だが今の俺には、導きたい後進がいる」

 これもまた道理の否定、ひとつの奇跡。
 ルー・マク・エスリンの『第一の槍』――『常勝の四秘宝・槍(ランス・フォー・ルー)』は勝利を手繰る得物だ。
 敵手の防御と地の利を無効化し、あらゆる戦況を己の側へと傾ける。
 が、言ってしまえばそれだけ。祓葉の性質を否定して捻じ曲げる、そんな魔法めいた効き目は持たない。
 だからこそ奇跡なのだ。この局面でそれを引き起こせるからこそ、ルーは英雄なのだ。


「悪いが此処は格好付けさせて貰うぜ。英雄の年季を、舐めんじゃねえぞぉ――――ッ!!!」


 閃いた槍は、光剣の太刀筋を軽やかに抜けて。
 呆けた面を晒した〈この世界の神〉の胸元へと吸い込まれた。
 わずかの後に、水風船を叩きつけたみたいな生々しい音が響く。
 飛び散る鮮血、弾け飛ぶ心臓。命の終わりそのものの手応えと、光景。
 白き神の崩れ落ちる光景を以って、神と英雄の対決は驚くほど静かに幕を下ろした。



◇◇



 現人神の身体が、べちゃりと落ちる。
 その胸に空いたのは、ひとつの風穴。
 英雄の槍は過たず、生命の急所を貫いた。
 あれほどの激戦であったにも関わらず、狙いには一分の狂いもない。
 華々しい英雄性と、いかなる時でも過つことのない究極まで研ぎ澄まされた戦士性。
 この両方がルー・マク・エスリンを英雄の中の英雄、武勇溢れる神性たらしめる支柱。

 結末は定まり、物語は終わり、運命は調伏された。
 誰もがそう信じる、信じる他ない光景。
 されどその結果までもが、この都市では狂い果てる。

 ゆらり。

 崩れ、命を失った筈の少女が。
 いたた、と間の抜けた台詞を漏らしながら立ち上がる。
 空いていた風穴が瞬く間に塞がって、生命を喪失させる全要素が遺失していく。
 数秒とせぬ内に、死にゆく神はすべてが元通り。
 一合きりの殺し合いの終着は、されど神殺しに至らず。
 神寂祓葉は当然のように――エンドロールをねじ伏せ、復活した。



◇◇



「駄目だ。やらん。断固として断る」
「ねーえーえーえーえーえー!!! もっかいやーろーうーよ~~~~~~!!!!!
 な~~~んでそんないけずなこと言うの~~~~!!!! もっかい! もーっーかーい~~~~~!!!!!」
「お前なぁ! あんな無茶苦茶やっといてよくそんなぴーぴー駄々捏ねれるもんだな!? 恥も外聞もねえのかてめえには!!」

 レミュリンは、この上なく微妙な顔で目の前の光景を見つめていた。
 腕組みをして、頑固親父のようにぶんぶんと首を横に振るルー。
 そしてその前で、文字通り駄々をこねる子どものようにぴーぴー言いながら再戦を申し入れる少女……祓葉。
 ついさっきまでの息も詰まるような攻防が嘘みたいな、どこにでもある休日の家庭めいた絵が間近で展開されている。
 これで微妙な顔をするなというほうが無理な話だった。少なくともレミュリンには不可能であった。

(さっきのは、なんだったの……?)

 少なくともこうしている分には、自分と同い年くらいの女の子にしか見えない。
 ていうかなんなら背丈はレミュリンのほうが頭ひとつぶん無いくらいは高い。
 妖精みたいな可憐さは健在でも、纏う気配や美しさの意味合いがまるで違った。
 それに――

「あの、エリさん。さっきの、見ました……?」
「……、……」
「エリさん?」
「――あ。ご、ごめんなさい。ちょっと呆然としちゃってて。
 うん、わたしも見ました。あんまり言いたくないですけど……死んでましたよね、彼女」
「……だよね。わたしもそう思った」

 先ほど、確かにレミュリンは見たのだ。
 見逃す筈がない。ルーの槍が、少女の胸を貫いたあの瞬間を。
 自分のサーヴァントが人を殺した、命を奪った衝撃は大きかった。
 けれどそれに打ちのめされる間もなく、奇跡は起きた。

 貫かれた傷を、まるでなかったことのように再生させながら。
 神寂祓葉は、レミュリンの目の前で蘇ってみせた。
 死者の蘇生。魔術と関わらず育ってきたレミュリンにも、それがこんな簡単に行われていい芸当でないことは分かる。
 ああ、やっぱり特別なんだ――そう思った。
 彼女の死には衝撃を受けたのに、黄泉還りはするりと呑み込めた。呑み込めてしまった。

 とはいえ、絵里はそうでもないらしい。
 今話しかけては悪いと思い、レミュリンは念話のチャンネルを開く。
 駄々をこね続ける祓葉を横目に、ルーへ語り掛けた。

(ランサー……いい?)
(ああ。まずは勝手な真似をしたことを詫びさせてくれ。
 結果的に思ったよりだいぶ……その、アレな奴だったから良かったが、あっちから仕掛けてくる可能性を考えるとどうしてもな。ああするしかなかったんだ)
(うん、びっくりしたけどそれは大丈夫。それよりも――話してもいい、かな。その子と)

 祓葉を通してヒトが感じ取るものは十人十色。
 自我の吹き飛ぶような恐怖を抱く者もいれば、恋にも似た傾倒を示し出す者もいる。
 が、幸いレミュリンはそのどちらでもなかった。
 ルーが勝ってくれたのが良かったのだろう。そうでなければ彼女も只では済まなかったかもしれない。

 レミュリンは、彼女と話したいと感じていた。
 確信めいたものがあったのだ。理屈ではなく、言うなれば啓示にも似た直感が。

(分かった。いつ何が起きても対処できるように構えておくから、好きに喋るといい。ただ)
(ありがとう。……ただ?)
(何があっても呑まれるな。俺が守ってやれるのは現実的な暴力からだけだ)

 ルーらしくない言葉に、自ずと気が引き締まる。
 そうだ。あのごく短い、されどすべての常識が吹き飛ぶような戦いを見たなら誰でも分かる。
 神寂祓葉は、極めて異常な存在であると。
 それを肝に銘じた上でレミュリンは、喚くのに飽きて拗ねたように唇を尖らせている白い少女に一歩近付いた。
 近くで見ると思ったよりもあどけなく見えた。
 少女の幼さと大人の綺麗さに、神秘のしずくを一匙垂らして作ったみたいだと思った。

「――――あの」

 意を決して話しかける。
 祓葉が顔を上げ、目が合った。
 どくんとそれだけで跳ねる心臓。
 落ち着け、呑まれるな、とルーの言葉を反芻して。

 レミュリン・ウェルブレイシス・スタールはまた一歩、世界の秘密へ踏み出していく。


「フツハさんは、イリスさんのお友達ですか」
「イリスを知ってるの?」


 知っている。
 骨の髄まで恐怖を叩き込まれた。
 でも、蝗害の魔女・楪依里朱はずっと何かに怒っていた。
 レミュリンであってレミュリンでない、その向こうの誰かに激怒していた。

『ハナから"真実"なんか求めなければ――自由のままでいられたのに』
『あんたが出会った"脱出王"に、あんたが追ってる"赤坂亜切"。
 あいつらに連なる奴らは、他にも存在する』

 リフレインする、魔女の言葉。
 彼女や赤坂亜切に連なる存在が、イリスを含めて六人存在することを聞いた。
 魔女からもたらされたのではない、あくまで考察の域にある情報だが、この聖杯戦争が"二度目"である可能性も耳にした。

 横の繋がりは分かった。では、縦の繋がりは?

 六人の魔術師を蘇らせた者は誰なのか。
 前回の聖杯戦争を制し、戴冠を遂げた者。
 それについてイリスは、一切を語らなかった。
 高乃河二から共有された情報の中でも、そこだけが不自然なほどぽっかりと抜け落ちていた。

 蝗害の魔女は、いったい何を知ったのだろう。
 あの人は、いったい"誰"に怒っていたのだろう。
 その答えが今、目の前に在る。
 魔女や〈脱出王〉にあった特有の匂いがしないことも逆に、レミュリンの推測に信憑性を与えている。

「そうだよ。イリスは私の大事な、大好きな友達なんだ。まあこれ言うとあの子、怒るんだけどね」

 "熱の日々"は、続いていく。
 炎の街を歩む少女は、空の太陽を識る。



◇◇



「へえ、イリスと戦ったんだ。
 レミュリンはすごいねぇ。今のイリス相手に食い下がれるんだったら、それってだいぶ強いと思うよ」
「ううん、わたしは見逃してもらっただけだから……」
「そんなこと言っちゃって~。こんな強いサーヴァント連れてるんだもん、イリスもきっと内心結構びっくりしてたって絶対。
 あのね、此処だけの話。あの子態度こそあんなんだけど、実はすっごい真面目ちゃんなんだよ。
 悪ぶって擦れた態度取ってるだけ。そう分かって付き合うとかわいいんだから。
 そうそう、イリスとの思い出話と言えばね。これは私が売り言葉に買い言葉であの子のことを妖怪オセロウィッチって呼んじゃった時の話なんだけど……」
「あっ、えっと、その話は今度会った時のお楽しみに取っておこうかな……!」

 和気あいあい。
 一言で言うと、そんなムードだった。
 エフェクトを付けるならシロツメクサの咲き誇る草原が似合うだろうか。

 実際――祓葉とレミュリンのやり取りに剣呑なものはまったく見て取れない。
 当のレミュリンも気を抜けば毒気を抜かれそうになるほどだ。
 ルーに事前に言い含められていなければ、まんまと彼女へ好意を抱かされていただろう。

(かわいい人だなあ……)

 神寂祓葉は万華鏡。
 見る者によってその輝きは模様を変える。
 レミュリンには、彼女は可憐の極みとして映った。
 純朴で純真、無垢と言ってもいい混じり気のなさ。
 これに敵意を抱く人間なんて、この世の果てまで探してもいないのではないかとそんなことまで考えてしまう。
 だからこそ、彼女が〈はじまりの六人〉と縦の縁を持つ、かつての戴冠者であるかもしれない可能性が殊更異様に思えて仕方ない。

 警戒できないというのはいちばん怖いのだと、初めて知った。
 蝗害の魔女のように敵意を剥き出しにしてくれていた方がまだずっと安心できる。
 妖精の顔をした地獄。今感じているものが熱かどうかすら判然としないまま、すべてを灼き滅ぼす光の恒星。
 ぐっと拳を作り、少しだぼついた服の裾を握りしめた。

「……あのね。フツハさんにもうひとつ聞きたいことがあって」
「ん? いいよ、なにー?」
「"アギリ・アカサカ"のこと、知ってるよね」
「アギリ? えっ、なになに。レミュリンはアギリにも会ったの?」
「いや……まだ会えてはない、んだけど。ちょっと訳あって、探してるの」

 意を決して投げかけた問い。
 わずかの葛藤と逡巡。
 今更だけれど、口にしたら引き返せなくなるような気がした。
 けれどそんなレミュリンの心など知らず、祓葉は事もなく事実上の肯定を返してくる。
 パズルのピースがカチリと嵌まる音を聞いた。やはり、〈はじまりの聖杯戦争〉を制したものは――。

「知ってるよ。ていうか友達。前は一緒に戦ったんだ。
 私と、イリスと、そしてアギリ。なかなかいいチームだったと思うんだよねえ」

 "前"。
 その言葉が、訊く前からレミュリンの疑問にまた解を与える。
 息が詰まった。喉がひりついていた。まるで、火事の只中で大きく吸い込んだみたいに。

「……そっか。じゃあ、さ」

 祓葉がアギリの居場所を知っていれば、事態は一足飛びに進んだだろう。
 しかしそう何もかも上手くは運ばない。
 どうやら彼女はアギリとは会えていないようで、その点では現状を前進させる要因にはなりそうもなかった。
 が、それでも聞けること、聞きたいことはある。
 彼女が赤坂亜切の"友達"だというのなら。肩を並べて共に戦った仲であるというのなら。

 一歩、迫れる。
 謎に包まれた煤だらけの暗殺者。
 ――死を超えて蘇った、家族の仇の実像に。

「アギリ・アカサカは……どんな人だった?」
「かわいい人だよ」
「……、かわ、いい?」

 予想だにしない答えに身体が固まる。
 額に滲んだ脂汗は、真冬の水滴みたいに冷たかった。

「あの人もイリスと同じで、ほんとは真面目なんだろうね。最初はなんも面白くないみたいな顔しててさ、態度もぶっきらぼうで。
 でも会うたびに笑ってくれるようになって、心の奥を見せてくれるようになって――」

 黒い影のように想像していた灰かぶりの男。
 その輪郭に、"人間"の血肉が肉付けされていく。
 枯尾花も同然の名前に付け足される得体は思っていたのとは違っていて。
 最後の対面もできなかった家族の在りし日の笑顔が、それと入れ代わり立ち代わりに脳裏に浮かんでは消える。
 テレビ番組をザッピングするように流れる人、人、人、人。

「アギリはかわいいねって言ったら、ちょっとだけぽかんとしてさ。
 それから、『そっか』って嬉しそうに笑ってくれて。
 イリスは横で呆れてて、ヨハンもおんなじで……うふふ。あの時はすっごく楽しかったなぁ――」

 知りたくなかった、そう思わなかったと言えば嘘になる。
 同時に、自分が心のどこかで赤坂亜切という仇に期待していたことに気付く。
 こうあってほしい、こうであればいい、そんな希望があった事実に愕然とした。

 アギリ・アカサカとは血の通わぬ殺人鬼であり。
 殺した命の数も覚えていない、恐ろしい存在で。
 人並みの幸せになど興味はなく、心からの笑顔なぞ浮かべない闇の肖像であると。
 彼を知りたいと望みながら、一方でそう願っていたことを祓葉の微笑みが突き刺すように指摘したのだ。
 そこには嘘がない。神寂祓葉は、嘘を吐いて人を騙せるような人間ではない。
 その彼女が語る葬儀屋との思い出は、下手な悪意よりよほど鋭い棘となってレミュリンのあどけない心を刺した。

「でも気を付けてね。アギリは強いよ。すっごく強いし、私やイリスよりずっとしつこくてねちっこい。
 簡単には逃げられないし、逃げられたとしてもずっと追っかけてくる。
 ランサーのおじさんがいれば多少は大丈夫だと思うけど、でも……本気のアギリは手強いよ」

 そう語り、忠告してくれる顔までどこか楽しそうで。
 少なくとも神寂祓葉という人間にとって、赤坂亜切は本当に"よき友人"であったのだと理解する。
 肝要である筈の強さの情報さえ、気を抜けば耳をすり抜けていきそうだった。
 忘我にも似た思考の空白。それでも――「わ」と声をあげられたのは、きっとレミュリンが大きくなった故のこと。

 退いてはいけない。止まってはいけない。歩き続けないと、熱に巻かれる。
 炎の世界は、今もすぐそこにある。隣であり、後ろであり、あるいは心臓のなかに。
 祝祭の灯火を破滅の篝火に変えるかどうかは自分自身。
 ならばと、レミュリンは力を入れ直した。この世界の神たる白色に、言葉をぶつける。

「わたしは――アギリ・アカサカに、家族を殺された」

 それはもはや、問いでさえなかった。
 言うなれば、忘れ得ぬ原点(オリジン)を言語化して投げつけているだけ。
 不格好、稚拙。ともすれば首を傾げられても不思議ではないディスコミュニケーション。
 もしくは。止まりそうな身体にエンジンをかけ直す、ある種の儀礼。

 真実を想うのなら、背を向けるべきではないと恩人が言った。
 過去に呪われたままでは、人間は決して前には進めないと。
 わたしは、この"熱の日々"を終わらせたい。だから答えが必要なのだとレミュリンは静かに、彼女なりの形で吠える。

「知りたいの。あの日、わたしの家族に何があったのか。
 なんで殺されたのか。なんで、殺されなくちゃならなかったのか。
 殺してどう思ったのか。死んだ皆を思い出したことはあるのか。
 聞きたいことが無数にあるんだ。だからわたしは、アギリ・アカサカを探してる」

 そして改めて、未熟な自分を奮い立たせるのだ。
 灰の殺人鬼は自分が望んだような人間ではないかもしれない。
 逆に、もっと酷い醜穢を湛えた怪物かもしれない。

 でも――進んだ先に何が待っていたとしても。
 その時、考えることを諦めたくはないと。
 熱を制するために熱を抱く。スタールは火を愛し、火に真の理を求めた家系。
 奇しくもレミュリン・ウェルブレイシス・スタールは、形は違えどそのアプローチをなぞっていた。

「負けたくない」
「そう」
「絶対に――わたしは、灰になんかなりたくないんだ」

 響いた宣誓。
 それは、宣戦。
 聞き届けて、神は笑う。
 にこやかに、そしてたおやかに。

「うん、うん。レミュリンならきっとできるよ」

 祝福であり、呪いでもある言葉を吐いて。
 彼女は手を伸ばして、自分より背の高いレミュリンの頭を撫でた。
 ぽんぽん、というその優しい手触りに心が揺れる。
 ――魔女が何故怒っていたのか、すこし分かった気がした。



◇◇



 蛇杖堂絵里。
 神寂縁。
 そう名乗り、そう呼ばれる蛇(モノ)。
 彼は彼女の顔で感心していた。
 心から感嘆し、そして溢れ出さんばかりの衝動に震えていた。

 これまでに、数多の少女を見てきた。
 幼くは一桁前半。最高では十八歳。
 見初め、貪り、喰らい、腹に収めた。
 その結実が今の彼だ。支配の起源と、社会の網目を掻い潜る天賦の才能。
 それを併せ持って生まれた鬼子は今や人間の範疇にさえない。
 都市と国を統べる大食らいのフィクサー。数十年の暗躍と千を超える暴食。このいずれもに誓って、神寂縁は断言する。

 神寂祓葉は異常だ。
 これほど完成された少女は見たことがない。
 やや物足りない幼ささえ、この出来栄えの前ではまるで問題にならなかった。
 こうなる前の彼女を知っているからこそ、数倍では利かない欲望が濁流(よだれ)の如くに溢れて止まらない。

 無垢にして破滅的。
 純粋善であるがこその純粋悪。
 網膜を灼く白色と、失明で体現する黒色。
 これぞまさしく〈太陽〉だ。支配したいと思う。組み伏せて、貪って、すべてを思うままにしたいと願いがやまない。

 ――欲しい。

 これはまさしく、僕に相応しい器であり珠玉の餌だ。

 ――欲しい。

 素晴らしい。
 出来損ないの弟は素晴らしいものを産んだものだ、褒めて遣わそう。
 ああ今すぐにでも欲しい。

 ――欲しい。

 その喉笛を柔肉をすべての甘露を、口を付けて啜りたい。
 嗚呼これならばいっそあの時、手足を千切って土蔵にでも繋ぎこの手で育てていればよかったか。
 いやしかしそれではこの輝きは得られなかったのだろうか?
 おお何と儘ならぬものだろうこの常世は。この僕でさえ手に入らないものがあろうとは罪深く度し難い。

 ――欲しい。

 寄越せ。
 すべて欲しいと〈支配の蛇〉は仰せだぞ、であれば疾く跪いて贄を捧げろよ貴様ら。

 ――欲しい。

 ああ、喰らっても喰らっても満たされぬ。
 すべてすべてすべてすべてをエデンの林檎のそのすべてを。
 神々の叡智さえすべて寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ。
 天地総ての美あらゆる可能性は僕に愛でられてこそ真の価値を発揮するのだから直ちに今すぐさあ一切合切そのすべて


(黙りなさい)


 荒れ狂う感情を一言で黙らせる。
 〈支配の蛇〉はとうにヒトではなく、その精神構造は異形に至っている。
 であればこのように、自分自身さえ彼にとってはたやすく"支配"できる被造物でしかない。

 しかし、こうも欲望が噴き出したのは久方ぶりだ。
 最後に此処まで焦がれたのはいつのことだったろう。
 まだこの身にも"はじまり"のあの日のような青さが残っていたという事実は妙に感慨深かった。
 内界に支配を布き終えて、改めて視線の先で微笑む姪っ子を見つめ直し。
 彼女がレミュリン・ウェルブレイシス・スタールと語らう様を見届ける。
 どうせ、此処で自分が口出しをして良いことはひとつもない。であれば沈黙は金なりだ。
 祓葉の美と、かわいいレミーの青。ふたつ並べて鑑賞できるだけでも恐ろしく眼福である。ワインが欲しいなあと思った。
 そう思っている間に話は終わり、祓葉はルーとの再戦に名残惜しさを示しながらも、手を振って去っていった。

 ふうと一息つく。
 初めてオーロラを見た日のような感動と感慨があった。
 後にも先にも、あれほど完成された少女を見ることはないのではないかと思う。
 見つけた以上はいずれ必ず腹に収めたいものだが、欲を抜きにして言うなら、最上級の面倒事が出来たなという感想だった。

「……なんか、嵐みたいな子でしたね」

 絵里の口でそう漏らす。
 レミュリンが、肺の空気を全部吐き出すような深いため息をついていた。

「あ、っ……ていうかレミーちゃん、大丈夫ですか……!?
 あの子に頭触られてましたけど! 頭蓋骨とか脳挫傷とか、えぇっとえぇっと……!」
「え、エリさん……! 大丈夫、大丈夫だから……!
 むしろエリさんの力の方で頭がみしみし言ってる感じだから、ちょっと落ち着いて……!」

 アレは凄まじい。
 というか、凄まじすぎる。
 黒幕であることは早い内から知っていたが、それにしてもだ。
 予想を超えている。あそこまで、手の付けようのない存在に成っているとは完全に予想外であった。

「む、むぅ……。大丈夫ならいいんですけど。あ、何かあったらすぐ言ってくださいね……?」
「はぁ、はぁ……。き、気持ちだけ受け取っておくね。
 ていうか――それより、ランサー……!」

 レミュリンがぱたぱたとランサーのもとへと駆け寄っていく。
 目立った手傷はないが、それでもやはり主として心配だったのだろう。
 無理もない。自分が彼女の立場でも、負傷はないかの確認を急いだ筈だ。
 時間こそ数秒。されどあの数秒には、凄まじい次元の密度が伴っていた。
 それこそ――神話を目の当たりにした気分だ。この都市が地獄であることを理解する上で、あれはきっと最良の教材になるに違いない。

「心配要らねえ。まだちょっとばかし腕が痺れてるが、三十分もすれば治るだろうよ」

 蛇はレミュリンのランサー……ルー・マク・エスリンの真名を知らない。
 だが彼が最上級の格を持つ英雄、英傑であることは容易に想像がついていた。
 そのルーが、一度鍔迫り合っただけで腕が痺れたと言う相手。
 一体あの時、神寂祓葉はどれほどの膂力で武器を振るっていたのか。驚嘆を通り越して呆れそうだった。

「それよりレミュリン。ちゃんと話は出来たかい? ……なんて言いつつ、絵里と一緒に一部始終聞いてたんだが」
「……うん。正直もう少し心の整理をする時間がほしいけど、聞きたいことは聞けたし、言いたいことも言えたよ。
 でもあの子のことはコージさん達に連絡しておかないといけないよね。なんかすごいこと、たくさん言ってたし」
「あー、そうだな。ったく、俺も正直泡食ったぜ。バロールのクソジジイ以来だよ、あそこまで肝が冷えたのは」

 蛇は万能である。ゆくゆくは全能にも舌を届かせるだろう。
 その彼は祓葉の美に感嘆しながらも、彼女の得体のすべてを見ていた。

「ランサー。ランサーには、あの子がどう見えてたの?」
「星だ。地球を呑み込み、神も人も一切合切喰らい尽くす、そういうモノだ。
 故に焦った。勝手もした。まさかあそこまでアーパーの馬鹿だとは思わなかったが……いや、だからこそあそこまで至れてるんだろうな」

 元より知っていたことであるが、対峙してみて確信した。
 この世界を生きて出るためには、あの少女との対決は避けられない。
 あれを乗り越えて踏み越えること、それが明日を迎える絶対条件。
 故にこそ、蛇はあの美の極星を指して"面倒事"と称したのだ。

「……正直、君にこれ以上重荷を背負わせるのは本懐じゃないんだが。
 しかしこうなった以上は言わねばならん。レミュリン、君が己の宿命を乗り越えたその先の話を」

 蛇は強い。怪物と言っていい。たとえ藪を暴かれたとして、それでも誰にも負けないだけの強さがそこにはある。
 従僕として従えている星の悪神でさえ、真っ向から討とうと思えば身を粉にするような難題となるだろう。
 その彼が〈この世界の神〉を直に観察して至った結論。
 それは、レミュリンの従える光の英雄とまったく同じものであった。


「はっきり言うぞ。今の俺たちじゃ、アレはどうにもならん」


 ――うん、現状ではどうしようもないね。お手上げだ。


 ただ強いだけならどうにでもなる。
 だが、アレはそれだけじゃない。
 それよりも厄介な要素が存在している。

 例えばだが、どれほど強くても心臓を貫かれると死ぬなら脅威ではない。
 ルーにとっては。そして蛇にとってもそう。
 生きているなら神であろうが魔であろうが、殺すことはそう難しくない。
 されど何をどうしても死なないと言われたら、それはもう強い弱いの次元ではない。よって、話にならないのだ。

 不死。更にルーとの一合で垣間見えたその先の不条理。
 定められた概念を切り裂き。横たわる事象を破却する。
 "無敵"だ。誰にもあの娘は倒せないし、超えられない。
 そもそも超えるという概念を適用できない。
 そういうシステムのもとに守られた絶対者である。
 故にルーと蛇の結論は同じだった。神寂祓葉は倒せない。少なくとも今の時点では、そう結論づけるより他にない。

「どうにもならない、って……」
「言葉のままの意味だな。勝てん。ありゃ誰でも無理だ。"そもそも倒せるようになってない"んだから、倒せるわけがないんだよ」
「で……でも、さっきランサーはあの子に勝ったでしょ。あんな感じでどうにか――」
「正直、一目見た瞬間から嫌な予感がしててな。
 だから無理やり一合だけってルールを作って型に嵌めて、勝ったって体を作って切り抜けた。
 神話なんかでよく聞くだろ? 手の付けようがない怪物や神を鎮めるためにトンチを効かせて落着させる、アレだ」

 ルー・マク・エスリンは本当に優秀な男だ。
 祓葉に先手を取り、封じ、調伏してその災厄を遠ざけた。
 無法に無法で相対した結果が六本木の消滅である。
 蛇もその手腕は素直に評価する。見事だ。まさに彼こそ英雄の中の英雄、智暴併せ持つ益荒男であると断ずる。

「だが打つ手がないってわけでもない。俺やあのイナゴを見りゃ分かる通り、この聖杯戦争はいつにもまして蠱毒の壺だ。
 座からまろび出てきたロクでなし共、あるいは奴に引き寄せられた可能性の卵の中に、もしかするとアレを引き摺り下ろせる奴がいるかもしれない。星を落とす方法に頭を悩ますのは、どうもそれからになりそうだな」

 ――うむ、素晴らしい。百点満点の解答だ、僕もそう思うよ英雄君。

 蛇の意見もやはり同じだ。
 今の祓葉は倒せない。考えるだけ無駄で、天災にでも遭ったと思って諦めるが吉である。
 しかし未来なら分からない。誰かが、何かが、神を零落させる可能性がある。
 太陽が地上に落ち、手の届く存在となったところでようやくスタートライン。
 恐らく、あの蛇杖堂寂句も同じ結論に至っているのではないか。
 いや、ともすればあの男ならば既に……〈神殺し〉の手立てへ辿り着いていても不思議ではないが。

「……つまり、今はあれこれ考えず、目の前の問題だけ見ておこうって話ですよね?」
「そういうことだな。要約助かるぜ、絵里」
「いえいえ。……よし、じゃあレミーちゃん、気を取り直して頑張りましょ!」

 にぱっ、と少女に微笑みかける、かつて少女だった魂の成れ果て。

「わたしもちゃんと最後まで付き合いますから。ね?」
「っ、はい。えと、ありがとう――エリさん。こんな頼りないわたしだけど、こちらこそ……今後もよろしくお願いします」

 口にした言葉に嘘はない。
 最後まで付き合うとも、それが一番具合がいいから。
 たとえ、その炎が葬儀屋に届かずとも。
 真実に辿り着くことなく絶望の中に途絶えようとも。
 いいやあるいは少女の躍進が、地底に広がる蛇の楽園へ至ることがあったとしても。

 蛇は獲物を逃さない。
 レミュリンも、祓葉も、彼は等しく狙っている。

 そして。
 誰もその蠢く音を聞き取れない。今は――まだ。
 その証拠に。



『――――初めまして、ノクト・サムスタンプ。悪名高き〈夜の虎〉よ』



 彼はこの時既に、何食わぬ顔の下で、次の状況を開始していた。



◇◇



 神寂縁は、千を超える幼子の魂をその身に取り込んでいる。
 特殊な起源を有し、それを覚醒させた超越者。
 彼の体内構造はもはや、比喩でなくひとつの異界と化していた。

 現実的な面積を無視して広がる異形蛇の胃袋。
 触れれば狂死する毒素を充満させ、人体とは乖離した数多の特殊器官を独自に生成・運用している。
 そんな彼の体内に一切の常識は通用しない。
 その証拠に、此処でひとつ、〈支配の蛇〉の謎を明かすとしよう。

 蛇は数多の顔を持つ。
 数多の顔で、あらゆる場所に偏在している。
 彼は天性の犯罪者だ。怪しまれず、気取られない立ち回りというものは最高レベルで心得ている。
 されど不可解。如何に彼が怪物であろうと、その肉体はひとつだけだ。
 にも関わらず何故、蛇は誰にも気取られることなくすべての顔で社会生活を送れているのか。
 最高位の犯罪者と言えども、数十年に渡り一切の陥穽なく『存在しない人間』を演じ続けられるものなのか?

 現代の機械文明は目まぐるしい発展を見せて久しい。
 特に通信技術は、もはや百年前の人類では考えられない領域に達している。
 例えば、スマートフォン。手のひらに収まるサイズで地球の裏とも通話ができる、現代人の必需品の代表格。

 蛇はそれを予め無数に、通常の人体であれば確実に内臓が破裂するほどの数呑み込んでいる。
 お手洗いに行くと装ってノクトからの連絡を確認。
 腹中の異界に取り込んだ携帯電話の一台を体内で操作し、折り返しを掛けたのが今だ。
 声帯などその気になればいつでも量産できる。そして異界の中で発せられた音は遮断され、外には漏れ出さない。
 蛇の頭脳にかかれば――"蛇杖堂絵里"を装いつつ、別な顔で智謀飛び交う交渉に顔を出すなど児戯に等しい。

 蛇杖堂絵里。善良で可愛げに溢れた医師の卵。暴君を祖父に持つ、レミュリンの善き理解者。
 そして"綿貫齋木"。数多のテレビスターを排出した大手芸能事務所の社長。夜の虎と対峙する蛇の化身。

 ふたつの顔で、ふたつの運命を歩む。
 いいや――千の顔で、千の運命を歩む。
 日は沈み夜は訪れ、都市が更なる闇へと沈む中。
 最大の闇たる男は少しずつ、しかし確かに、いつか来る収穫の時へ備えていた。



◇◇



【渋谷区・路上/一日目・夜間】

【レミュリン・ウェルブレイシス・スタール】
[状態]:疲労(小)、全身にダメージ(小)、決意
[令呪]:残り三画
[装備]:
[道具]:
[所持金]:6万円程度(5月分の生活費)
[思考・状況]
基本方針:――進む。わたしの知りたい、答えのもとへ。
0:フツハさんのことは不安。……でも今は、やるべきことを。
1:胸を張ってランサーの隣に立てる、魔術師になりたい。
2:ジャクク・ジャジョードーの情報を手に入れ、アギリ・アカサカと接触する。
3:神父さまの言葉に従おう。
4:フツハさんのことを、暇を見てコージさん達へ伝えたい。
[備考]
※自分の両親と姉の仇が赤坂亜切であること、彼がマスターとして聖杯戦争に参加していることを知りました。
※ルーン魔術の加護により物理・魔術攻撃への耐久力が上がっています。
またルーンを介することで指先から魔力を弾丸として放てますが、威力はそれほど高くないです。
※炎を操る術『赤紫燈(インボルク)』を体得しました。規模や応用の詳細、またどの程度制御できるのかは後のリレーにお任せします。
※アギリ以外の〈はじまりの六人〉に関する情報をイリスから与えられました。
※〈はじまりの聖杯戦争〉についての考察を高乃河二から聞きました。
※アギリがサーヴァントとして神霊スカディを従えているという情報を得ました。
※高乃河二、琴峯ナシロの連絡先を得ました。

※右腕にスタール家の魔術刻印のごく一部が継承されています(火傷痕のような文様)。
※刻印を通して姉の記憶の一部を観ています。

【ランサー(ルー・マク・エスリン)】
[状態]:疲労(小)、魔力消費(小)、右腕に痺れ
[装備]:常勝の四秘宝・槍、ゲイ・アッサル、アラドヴァル
[道具]:緑のマント、ヒーロー風スーツ
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:英雄として、彼女の傍に立つ。
1:レミュリンをヒーローとして支える。共に戦う道を進む。
2:神寂祓葉についてはいずれだな。今は考えても仕方ねえ。
3:今更だが、馬鹿じゃねえのか今回の聖杯戦争?
[備考]
予選期間の一ヵ月の間に、3組の主従と交戦し、いずれも傷ひとつ負わずに圧勝し撃退しています。
レミュリンは交戦があった事実そのものを知らず、気づいていません。
ライダー(ハリー・フーディーニ)から、その3組がいずれも脱落したことを知らされました。
→上記の情報はレミュリンに共有されました。


【神寂縁】
[状態]:健康、ややテンション高め、『蛇杖堂絵里』へ変化、『綿貫齋木』の声帯及びスマートフォンでノクト・サムスタンプと通話開始
[令呪]:残り3画
[装備]:様々(偽る身分による)
[道具]:様々(偽る身分による)
[所持金]:潤沢
[思考・状況]
基本方針:この聖杯戦争を堪能する。
1:蛇杖堂絵里としてレミュリンと共に蛇杖堂寂句に会いに行く。
2:蛇杖堂寂句とは当面はゆるい協力体制をとりつつ、いつか必ず始末する。
3:蝗害を追う集団のことは、一旦アーチャーに任せる。
4:楪依里朱に対する興味を失いつつある。しかし捕食のチャンスは伺っている。
5:祓葉は素晴らしい。いずれ必ず腹に収める。彼女には、その価値がある。
[備考]
※奪った身分を演じる際、無意識のうちに、認識阻害の魔術に近い能力を行使していることが確認されました。
 とはいえ本来であれは察知も対策も困難です。

※神寂縁の化けの皮として、個人輸入代行業者、サーペントトレード有限会社社長・水池魅鳥(みずち・みどり)が追加されました。
 裏社会ではカネ次第で銃器や麻薬、魔術関連の品々などなんでも用意する調達屋として知られています。

※楪依里朱について基本的な情報(名前、顔写真、高校名、住所等)を入手しました。
 蛇杖堂寂句との間には、蛇杖堂一族に属する静寂暁美として、緊急連絡が可能なホットラインが結ばれています。

※赤坂亜切の存在を知ったため、広域指定暴力団烈帛會理事長『山本帝一』の顔を予選段階で捨てています。
 山本帝一は赤坂亜切に依頼を行ったことがあるようです。
  →赤坂亜切に『スタール一家』の殺害を依頼したようです。

※神寂縁の化けの皮として、マスター・蛇杖堂絵里(じゃじょうどう・えり)が追加されました。
 雪村鉄志の娘・絵里の魂を用いており、外見は雪村絵里が成人した頃の姿かたちです。
 設定:偶然〈古びた懐中時計〉を手にし、この都市に迷い込んだ非業の人。二十歳。
    幸は薄く、しかし人並みの善性を忘れない。特定の願いよりも自分と、できるだけ多くの命の生存を選ぶ。
    懐中時計により開花した魔術は……身体強化。四肢を柔軟に撓らせ、それそのものを武器として戦う。
    蛇杖堂家の子であるが、その宿命を嫌った両親により市井に逃され、そのまま育った。ぜんぶ嘘ですけど。

→蛇杖堂絵里としての立ち回り方針は以下の通り。
 ・蝗害を追う集団に潜入し楪依里朱に行き着くならそれの捕食。
  →これについては一旦アーチャーに任せる方針のようですが、詳細な指示は後続の書き手にお任せします。
 ・救済機構に行き着くならそれの破壊。
 ・更に隙があれば集団内の捕食対象(現在はレミュリン・ウェルブレイシス・スタールと琴峯ナシロ)を飲み込む。

※蛇の体内は異界化しています。彼はそこに数多の通信端末を呑み込み、体内で操作しつつ都度生成した疑似声帯を用いて通話することで『どこにでもいる』状態を成立させているようです。
 この方法で発した声、および体内の音声は外に漏れません。

【神寂祓葉】
[状態]:健康、わくわく、ちょっとご不満
[令呪]:残り三画(永久機関の効果により、使っても令呪が消費されない)
[装備]:『時計じかけの方舟機構(パーペチュアルモーションマシン)』
[道具]:
[所持金]:一般的な女子高生の手持ち程度
[思考・状況]
基本方針:みんなで楽しく聖杯戦争!
0:さあ、次はどこに行こう?
1:結局希彦さんのことどうしよう……わー!
2:もう少し夜になるまでは休憩。お話タイムに当てたい(祓葉はバカなので、夜の基準は彼女以外の誰にもわかりません。)
3:悠灯はどうするんだろ。できれば力になってあげたいけど。
4:風夏の舞台は楽しみだけど、私なんかにそんな縛られなくてもいいのにね。
5:もうひとりのハリー(ライダー)かわいかったな……ヨハンと並べて抱き枕にしたいな……うへへ……
6:アンジェ先輩! また会おうね~!!
7:レミュリンはいい子だったしまた遊びたい。けど……あのランサー! 勝ち逃げはずるいんじゃないかなあ!?
[備考]
二日目の朝、香篤井希彦と再び会う約束をしました。



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最終更新:2025年04月09日 00:42