ジュスマイヤーが解放戦線からアーキバスに寝返ったことで得られたものは、そう多くない。
兵舎の一角にある彼女の私室を見渡しても、衣服以外に私物と思しきものはほとんどなかった。どれほど高価な手土産があったとして、所詮は裏切り者の身の上だ。施される待遇などたかが知れている。衣服を始めとした生活必需品以外に、彼女が支給を希望することのできた品は、たった一品だけだった。
囚人のごとき冷遇を、しかしジュスマイヤーは歯牙にもかけなかった。支給品の目録を一瞥すると、さして迷うでも躊躇うでもなくこう言い放った。
──経口避妊薬、またはゴム。できればその両方。
支給品の管理窓口の男は目を丸くし、呆れ果てた様子で希望通り両方を支給した。聞けば誰もが下卑た笑みとともに彼女を憐れみ、蔑むだろう。しかしそれこそ、ジュスマイヤーがこの組織で身を立てる上で、唯一必要としたものだった。
最初の獲物を罠にかけ、私室に連れ込むことは実に簡単だった。部屋に仕掛けられた盗聴器に官能的な嬌声を聞かせ、その翌日には管制室で鼻の下を伸ばしていたオペレーターを盗聴器片手に篭絡せしめた。続けざま、支給品の管理責任者が物品を横領している証拠を押さえると、高価な化粧品を口止め料に引き出した。
そうしてジュスマイヤーは、あたかも正規の手順を踏んでその場にやってきた新人のような顔でリヒターの私室に忍び込み、自身を売り込んでヴェスパーの番号付きという地位を獲得したのだ。並外れた勘と嗅覚を兼ね備えた狼のように、その手際は無駄なく鮮やかだった。
そして今ほど、彼女の嗅覚は手にした端末の中から、きな臭いにおいを感じ取っているようだった。
ディスプレイに表示されている青ざめた機体、アイスブレーカ。
またの名を凍原のウェンディゴ──先進的な正式名称と裏腹のオカルトめいたあだ名を与えられたそのACは、同じヴェスパーに属するイレヴンの愛機だ。
ジュスマイヤーは目を細め、眉をひそめる。油断ならない天敵を見るかのように、冷ややかで緊張した面持ちは、彼女が狙撃をするときのそれによく似ている。それはすなわち、背後から獲物を狙う獣の眼差しだ。
兵舎の一角にある彼女の私室を見渡しても、衣服以外に私物と思しきものはほとんどなかった。どれほど高価な手土産があったとして、所詮は裏切り者の身の上だ。施される待遇などたかが知れている。衣服を始めとした生活必需品以外に、彼女が支給を希望することのできた品は、たった一品だけだった。
囚人のごとき冷遇を、しかしジュスマイヤーは歯牙にもかけなかった。支給品の目録を一瞥すると、さして迷うでも躊躇うでもなくこう言い放った。
──経口避妊薬、またはゴム。できればその両方。
支給品の管理窓口の男は目を丸くし、呆れ果てた様子で希望通り両方を支給した。聞けば誰もが下卑た笑みとともに彼女を憐れみ、蔑むだろう。しかしそれこそ、ジュスマイヤーがこの組織で身を立てる上で、唯一必要としたものだった。
最初の獲物を罠にかけ、私室に連れ込むことは実に簡単だった。部屋に仕掛けられた盗聴器に官能的な嬌声を聞かせ、その翌日には管制室で鼻の下を伸ばしていたオペレーターを盗聴器片手に篭絡せしめた。続けざま、支給品の管理責任者が物品を横領している証拠を押さえると、高価な化粧品を口止め料に引き出した。
そうしてジュスマイヤーは、あたかも正規の手順を踏んでその場にやってきた新人のような顔でリヒターの私室に忍び込み、自身を売り込んでヴェスパーの番号付きという地位を獲得したのだ。並外れた勘と嗅覚を兼ね備えた狼のように、その手際は無駄なく鮮やかだった。
そして今ほど、彼女の嗅覚は手にした端末の中から、きな臭いにおいを感じ取っているようだった。
ディスプレイに表示されている青ざめた機体、アイスブレーカ。
またの名を凍原のウェンディゴ──先進的な正式名称と裏腹のオカルトめいたあだ名を与えられたそのACは、同じヴェスパーに属するイレヴンの愛機だ。
ジュスマイヤーは目を細め、眉をひそめる。油断ならない天敵を見るかのように、冷ややかで緊張した面持ちは、彼女が狙撃をするときのそれによく似ている。それはすなわち、背後から獲物を狙う獣の眼差しだ。
「……ずいぶんと熱心だな、ジュスマイヤー。そんなにあれのことが気になるか?」
突然に背後から声をかけられ、ジュスマイヤーは嘆息した。恨みがましい目つきを瞼の裏側に閉じ込め、静かにラップトップを畳むと、彼女は薄ら笑いを浮かべながら振り向いた。
「あら、隊長。ひとの端末を覗き見なんて、そちらこそ仕事熱心でいらっしゃるのね。そんなにアタシは信用ならないのかしら?」
戸口に立つ痩せぎすの長身を、ジュスマイヤーは何度疎ましんだか知れない。重油のように黒々としたその男の眼が、チェス盤を前に思案するがごとき冷厳な面持ちが、彼女は嫌いだった。
「興味本位で聞いたまでだ。他意はない。それとも、お前にはなにか含むところがあるのか」
表情一つ変えず、瞬きさえせずにリヒターはジュスマイヤーの傍らに立った。彼女が手にしていた、おそらくは機密のたぐいが表示されていたであろうラップトップには目もくれない。なにを見ていたかなど、おおよそ察しがつくとでも言いたげな態度だった。
「まさか。こちとら得体の知れない怪物と同じ檻に入れられて仕事してるのよ。それがどんな怪物なのかぐらい知っておくのは当然でしょ」
ジュスマイヤーは肩をすくめ、あっさりと機密に目を通していたことを認めてみせた。
反省も、動揺の色すら見せない振る舞いに、しかしリヒターはやはり動じなかった。この女の手管をもってすれば、情報セキュリティの浅瀬に浮かんだ機密など裸も同然だと知悉していたから。そしてその程度の深みにある機密など、彼の澱み切った眼が見てきたものと比べしまえば、わざわざ咎め立てするほどの価値もない。
反省も、動揺の色すら見せない振る舞いに、しかしリヒターはやはり動じなかった。この女の手管をもってすれば、情報セキュリティの浅瀬に浮かんだ機密など裸も同然だと知悉していたから。そしてその程度の深みにある機密など、彼の澱み切った眼が見てきたものと比べしまえば、わざわざ咎め立てするほどの価値もない。
「正体がなんであれ、その怪物は行儀よく檻の中に収まっている。その事実以上に詮索すべきことが?」
「それで飼い慣らせてるつもり? あのキルスコアを見てまだそんな悠長なことが言えるなんて驚きだわ」
「私やお前が膳立てをしての数字だろう。ぶら下げられた餌しか知らない獣が、狩りに長けていると思うのか?」
「物は言いようね。その獣が頂点捕食者だとしても、同じことが言える?」
せせら笑うように問いかけるジュスマイヤーを、リヒターは首を振って宥めすかした。
「当の獣には自分が頂点捕食者だという自覚などないだろう。真の頂にいるのはなにが頂点かを決めている人間だ。あれはただ目につくものを襲って、自分が食物連鎖のどの位にいるかを探っているに過ぎない」
どれほど憂慮に値するであろう事実をまくしたてても、リヒターは飄然としている。ジュスマイヤーが、怪物と、最大限の比喩表現を口にしても、彼はそれが拾ってきた野犬かなにかだと考えているようだった。
──そう、野犬だ。人ではない。ジュスマイヤーはその態度がますます気に障った。これももう何度目になるか、彼女は眼前の長身を挑発的な眼差しでねめつける。
──そう、野犬だ。人ではない。ジュスマイヤーはその態度がますます気に障った。これももう何度目になるか、彼女は眼前の長身を挑発的な眼差しでねめつける。
「へえ。つまりはあれが人がましく……アンタみたく狡賢く振舞い始めてからが、怪物の本領だと言いたいわけ?」
「今はまだその段階にはないと思うが」
「ふぅん……だとしたら、すでに見落としがあるんじゃないの、隊長。それとも気づかないふりしてる?」
ほんの少し悪意を向けてやろう。と、魔が差したジュスマイヤーは訳知り顔で、リヒターの胸板をついと撫でる。
「もったいぶらず聞かせてくれ」
柱のように微動だにしない男の胸を、ジュスマイヤーは指でトントンと叩きながらこう言った。
「あれはアンタが想定している以上に目も鼻も利くし、頭も回る。そのうえ恐ろしいほどの速度で成長してる。アタシたちとは物の見方が違うだけで、とっくに人並み以上の知能があって、もちろん本能も……その証拠に、もう色事を覚え始めてるみたいじゃない?」
「……色事だと?」
細い指が刻むリズムここに来てようやく、リヒターは表情を変えた。そこにわずかな動揺を見て取ったジュスマイヤーは、まるで女心の機微を語るようにして、得意満面に話を続ける。
「わからない? あれ、アンタに惚れてるわよ。そのくせ自分が雄か雌かもよくわかっていないあたり、訓練より性教育を優先すべきだったわね」
「なにを馬鹿げたことを。まだほんの子供……いや、あれは生後1年しか経っていないんだぞ」
「所詮見てくれだけの話でしょ。アタシに爪の手入れをさせたあれが、真っ先に見せたがったのはアンタなのよ。いっそのこと性教育も兼ねて、あの無駄に丸々と育ったケツを耕してあげたらどう?」
「冗談はよせ。俺にだって最低限の分別くらいある」
下劣な皮肉を聞かされて、さしものリヒターも被りを振る。しかしその、自分を真人間であると自称するような態度を見て、ジュスマイヤーは真顔で言い放った。
「試験管と拡張現実で子育てする連中に与しておいて分別ですって? ファクトリーのろくでなしどもにも聞かせてやるといいわ」
リヒターの喉がぐっと鳴った。倒錯的な色事さえ児戯に思えるような、度し難い禁忌の領域に、お前はすでに踏み込んでいるのだという痛烈な指摘だった。彼は平手打ちを食らったように頬を撫でながら、じつと真顔で自身を見やってくるジュスマイヤーに、しかし少しばかりの応報をすることにした。
「……今日はずいぶん機嫌が悪いようだが。あれの世話にかまけて、もしや嫉妬させたか?」
長考するように口元に手を当て、思案顔を作りながら言うと、ジュスマイヤーは表情をあからさまに不機嫌にした。
「は? ふざけなさいよ。たかが一度や二度寝たぐらいで、よくもまあそんな思い上がりが──」
「だろうな。だとしたらお前が苛立っている理由は、純粋な義憤だということか」
「……義憤ですって?」
今度はジュスマイヤーが虚を突かれる番だった。
続けざま、リヒターは神妙な面持ちになり、じつと彼女と視線を重ねる。
続けざま、リヒターは神妙な面持ちになり、じつと彼女と視線を重ねる。
「少なくとも俺がここへ来てから、あれの置かれた境遇に対して感情をあらわにする者は初めて見た」
「…………」
「悪辣な言動の割に、お前の精神はつくづく高潔で情け深いな。そこが気に入っている」
笑みを浮かべることもなく、リヒターは真顔でそう告げた。それが心からの言葉であると装うやり方だと知って、機械的に実行したような態だったが、しかしジュスマイヤーは返す言葉を持たず、忌々しげに視線を床に転がす。
「……ちっ、きっしょいわね。そうやって舌先で人を丸め込んでチェスの駒みたいに操った気でいるところ、ほんと癪に障るわ」
皮肉っぽい笑みの内側でぎりっと奥歯を噛みしめながら。それが彼女の精一杯の抵抗だった。そしてここに来てようやく、リヒターはセメントで固めたような口元を緩め、気休め程度に親しみのある笑みとともに、ジュスマイヤーに身を寄せる。
「すまない、怒らせる気はなかった。誉め言葉のつもりだったんだが──」
「お生憎さま。いまさらどう機嫌を取ったところで、今日はそういう気分じゃないの。アタシのケツが恋しくて来たならよそを当たって」
腰回りに伸びた手を袖にして、ジュスマイヤーは身を翻しそっぽを向く。リヒターは嘆息を一つ、降参だと言うように両手を上げて戸口に後じさり、
「ほかにアテがあるわけではないが……わかった。俺の舌先が恋しくなったら、いつでも呼んでくれ」
その色めいた皮肉を聞いて、ジュスマイヤーは即座にそばにあった枕を引っ掴み、リヒターに向かって投げつける。
「──しつっこいわね! さっさと消えろ、このチンカス野郎!」
息を荒らげながら振り返るが、飛んで行った柔らかな暴力は閉まったばかりの自動ドアに阻まれ、ぽふんと音を立てて床に横たわった。ジュスマイヤーは舌打ちのあと、赤らんだ顔で渾身の怒鳴り声を吐き捨てた。
「ああもうっ……くたばれ、*ルビコンスラング*!!」