「──バルデス! バルデス!」
事務処理を終えたバルデスが、冷めきったコーヒーを手に基地の廊下を歩いていると、その背中を基地の様相にはおよそ不似合いな快活な声が殴打し、彼は啜っていたコーヒーをのどに詰まらせた。
「ぶふぉっ」
「あっ、すまない。ちょっと聞きたいことがあるんだが、いいか?」
「い、イレヴン……どうしたのです。急に後ろから声をかけるなと前にも言ったでしょう。あ、ああ……書類が──」
こぼれたコーヒーで赤茶けた書類に切なげな視線を送ったのち、彼が背後を振り向くと、そこには齢にして十代も前半と言うところの、白髪を結った中性的な美貌と褐色の肌を持つ少年がいた。
これまたその容姿に似つかわしくない軍人めいた口調で、イレヴンと呼ばれた少年は特に悪びれもせず首を傾げてみせる。
これまたその容姿に似つかわしくない軍人めいた口調で、イレヴンと呼ばれた少年は特に悪びれもせず首を傾げてみせる。
「それで、ジュスマイヤーがどこにいるか知らないか? 今朝からずっと探しているんだが」
「……彼女なら、先ほどリラクゼーションルームにいるのを見ましたよ。しかし、いったい何の用です? 特に次の作戦で協同するという話は出ていなかったはずで──」
「ありがとう! リラクゼーション……ルームだな! たしか基地の角っこのところだ。行ってみる!」
「あの、イレヴン、話は最後まで聞きなさいと何度言えば──ああ……」
聞き分けのない仔馬の尾のように、白髪を揺らしながら去っていくイレヴンを見送りながら、バルデスは嘆息を漏らした。今一度、コーヒーに汚された書類を一瞥すると、彼はひとまず、手元のコーヒーを一口すすることにした。
イレヴンが足取り軽やかにリラクゼーションルームに駆け込むと、彼が探し求めたジュスマイヤーの背姿は、部屋の隅に位置する座席にあった。
イレヴンはぱあっと目を輝かせ、うんうんと何事か納得したようにうなずくと、彼女に背後から歩み寄り──
イレヴンはぱあっと目を輝かせ、うんうんと何事か納得したようにうなずくと、彼女に背後から歩み寄り──
「まだ生きてたか、ジュスマイヤー! 実は聞きたいことがあるんだが!」
「っ!? ちょっと! アンタねぇ、今ネイル塗ってるとこなんだから、急に話しかけんじゃないわよ! だいたい、生きてたかってなんなわけ。アタシがいつ死ぬような真似に遭ったっていう──」
びくりと肩を震わせ、恨みがましい眼差しでまくしたてるジュスマイヤーをしり目に、イレヴンは卓上に広げられた化粧道具に目をやった。
「ネイル? それはなんだ?」
「話は最後まで聞きなさいよ、このクソガキ! はぁ……ネイルってのは、ほら、見りゃわかるでしょ。おしゃれよ、おしゃれ」
「……? 爪を表面処理しているのか? それにはどんな効果があるんだ?」
「おしゃれだっつってんでしょうが。まあ、そうね、自分磨き……あー、メンテナンスの一環みたいなものよ。男のアンタと違って、アタシみたいな女にはそういう手入れが必要なの」
聞いて、イレヴンはさも真剣な面持ちで細い顎に手を遣った。彼の目からはどうやら、ジュスマイヤーのしている身だしなみの一環が、なにか重要な作戦準備のたぐいと映ったようだった。
「ううん、お前が言うからには、それはとても重要そうだな。私はしたことがないんだが、もしよければ私の爪もメンテナンスしてくれないか?」
「ほんっとアンタって厚かましいわね……まあいいわ。ほら、そこ座りなさいよ。やってあげるから」
「やった! 恩に着るぞ、ジュスマイヤー!」
ジュスマイヤーが応じると、イレヴンは彼女の対面の座席に飛び乗るように腰を下ろし、目を輝かせる。そんな彼を冷ややかな眼差しで一瞥した後、ジュスマイヤーは彼の指先に目を向ける。
「で、どうしたいわけ。見たとこそこまで荒れてるわけでもないし……ちっ、手入れしてないのにずいぶんきれいね。いちいち腹の立つガキだわ」
「……そうなのか? じゃあ、手入れ以外になにかできることはないのか?」
「まあ、色塗ったりとか、アンタの言う表面加工で艶を出したりとかよ。アンタのアイスブレーカだって、レーザ拡散コーディングで気休め程度に頑丈にしてあるでしょ」
「じゃあそれで頼む」
「はいはい。じっとしてなさいよね。爪以外に付くといろいろめんどうなんだから」
ジュスマイヤーがネイルのはけを取り出すと、イレヴンはきれいな面立ちをわずかに歪めた。彼の鋭敏な嗅覚は、周囲に漂い始めた化学合成された色香に拒否反応を示したらしい。
「……うっ、なんだか嫌なにおいがするな、その液体。それがコーティング剤か?」
「ええ、ほら。お好きな色を選ぶといいわ。ていうか今、嫌なにおいって言った? アタシの香水に合わせたフレーバーなんだけど」
「ああ、とてもくさい。鼻が曲がりそうだ」
「ブッ殺すわよこのクソガキ。いいから早いとこ色を選びなさいよ。手間をかけさせないで」
イレヴンは逡巡するが、しかしなにも思いつかなかった。彼にとって色彩とは、スペクトル波長のグラデーションに過ぎないからだ。そうして彼はしばし黙考した後、
「うーん、好きな色か……私には特にスペクトルの波長に対して好き好みはないのだが──」
どこか照れくさそうな顔をして、頬を搔きながらこう答えた。
「リヒターなら、どの色が好きだと思う?」
その言葉を聞いて、今度はジュスマイヤーが露骨に顔をしかめた。
彼女が感じた不快感は、イレヴンに対してのものではない。こんな年端もいかない見た目の子供をたらしこんでいる、この場にいない上官に対してだ。
彼女が感じた不快感は、イレヴンに対してのものではない。こんな年端もいかない見た目の子供をたらしこんでいる、この場にいない上官に対してだ。
「……はぁ。キッショいわね。アンタ、どんだけあの皮肉屋のことが好きなのよ」
「仕方ないだろう。私には特にスペクトル波長に対しての感慨がないんだ」
「わかったわかった。まあ、あいつならそうね、無難にナチュラルピンクとかじゃないの。いやもうそれでいいわ。さっさと手を出しなさい。しばらく動かさないで」
「うん? この波長だと元の皮膚の色とあまり変わらなくないか?」
「男ってのは案外そういう、手垢のついてなくてほどほどに見栄えのするものが好きなのよ」
「そういうものなのか。よくわからないが、お前に任せておけば大丈夫だな!」
ぶっきらぼうな口調と裏腹に、ジュスマイヤーは丁寧な手つきで、イレヴンの爪にやすり掛けをし、手元に集めた薬液を手際よく爪の上にしたためていく。その最中、ジュスマイヤーはイレヴンが、なにかを自分に聞きたいがためにこの場にやってきたことを思いだした。
「……それで? 聞きたいことって何? このネイルを塗り終わるまでなら聞いてあげるわよ」
「ああ、それなんだが──」
ぼんやりとした眼差しでネイルにカラーを載せるジュスマイヤーの耳を、
「この間の戦闘のとき、どうして私のことをずっと見ていたんだ?」
その言葉が不意打ちのように貫いた。
瞬間、冷え切ったナイフを突きつけられたかのように、ジュスマイヤーの背筋をぞっと悪寒が撫でつける。そんなはずはない。捕捉できる距離ではなかったはずだ。そんなことはあり得るはずがない。
肌が泡立ち、わずかに震える肩を抑え込みながら、彼女はさも気がない風を装って聞き返した。
瞬間、冷え切ったナイフを突きつけられたかのように、ジュスマイヤーの背筋をぞっと悪寒が撫でつける。そんなはずはない。捕捉できる距離ではなかったはずだ。そんなことはあり得るはずがない。
肌が泡立ち、わずかに震える肩を抑え込みながら、彼女はさも気がない風を装って聞き返した。
「何の話?」
「戦闘記録を見たんだ。そうしたら、お前は陽動部隊を殲滅した後、その場で動かなくなっていただろう? てっきり撃墜でもされてしまったのかと心配していたんだ」
返答を聞いて、ジュスマイヤーはしばしの安堵を得た。得意の軽薄な笑みを唇に浮かべ、彼女はすらすらと──心にもない嘘を息をするように言葉にした。
「……ああ、そういうこと。別にどうもしないわ。高みの見物としゃれこんでただけよ。アンタのお楽しみを邪魔したくなくてね」
「ふふ、そうか。おかげで思う存分戦えたぞ! 実に有意義な時間だった!」
「あっそ。ほら、できたわよ。しばらく触らないで乾かしなさい。……リヒターに見せに行くんでしょ。さっさと消えて」
ひととき嫌な感覚に苛まれたものの、どうやら杞憂だったらしい。
ジュスマイヤーは賑やかな邪魔者をひらひらと手で追い払い、自身のネイルが乾き切るのを待とうとした。
ジュスマイヤーは賑やかな邪魔者をひらひらと手で追い払い、自身のネイルが乾き切るのを待とうとした。
「ああ、ありがとう。でも、その前に……」
「まだ何かあるわけ。アタシはアンタほど暇じゃないんだけど──」
席を立ち、今まさにこの場をあとにしようとするイレヴンは、ジュスマイヤーと真っすぐに青色の眼差しを重ね、そして優しげな笑みすら浮かべながらこう言った。
「ふふっ。もし寒いなら私の上着をお前にやろう。支給された服だが、私には大きすぎたみたいだ。今から持ってくるから、ここで待っていてくれ。絶対だぞ!」
……いったい、いつ自分が肌寒いなどと口にしたというのだろうか。
ジュスマイヤーは、去り行く得意げな背中に、もはや返す言葉さえ持ち合わせず、代わりに彼女の喉からは、乾ききった笑いがこぼれ出た。
ジュスマイヤーは、去り行く得意げな背中に、もはや返す言葉さえ持ち合わせず、代わりに彼女の喉からは、乾ききった笑いがこぼれ出た。
「は、ははは……」
全身をとめどない悪寒が支配している。愛らしい彼の言動に、今やジュスマイヤーの本能は全身全霊で警告を発していた。あれに近づくな。あれに関わるな。あれの美しさ愛らしさは、あれが幼獣であるがゆえのまやかしに過ぎないと。
「ひどい冗談ね。あのときアタシの肩が震えたのも見抜いたってわけ? 不気味すぎでしょ」
額に手を当て、自分以外には無人になったリラクゼーションルームで、ジュスマイヤーは机に突っ伏した。
「──凍原のウェンディゴ。まったくもって度し難い怪物ね」
そうして視線を落とした彼女の指先は、その動揺を写し取ったように、歪な色合いになってしまっていた。