ダンゲロスSS上海
【観客不在のエンドロール/一人芝居】
最終更新:
dangerousss_shanghai
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<これまでのあらすじ>
屋台街で華は、“今夜だけの红虎”ギャラハッドと協力して群集事故を止めた。
騒ぎがおさまったあと、華は“ダイヤ”越しに満月を見上げていた。そこへ、万事屋・白髪黒羽が現れる。
「劉炎嵐って、知ってるか?」
そう問われた華は、思わず「……炎嵐、くん?」と答えてしまう──
◇ ◇ ◇
「……炎嵐、くん?」
言った瞬間、華ははっと息をのんだ。
頬から血の気がすっと引いていく。
頬から血の気がすっと引いていく。
「へえ」
女が短く息を漏らした。
視線が、華のほうに向く。
視線が、華のほうに向く。
「“炎嵐くん”、ね」
軽い調子で言った。
何かをはかるように、女は華をじっと見る。
何かをはかるように、女は華をじっと見る。
「あ、いえ、その……」
華は言いよどんだ。
指先に力が入る。
握った掌の中で、ガラス玉が転がる。
握った掌の中で、ガラス玉が転がる。
咄嗟にあたりを見渡す。
すぐそばの細い路地に、目が止まった。
すぐそばの細い路地に、目が止まった。
華は、女のほうへ一度だけ頭を下げる。
それから、そちらへ背を向けて歩き出した。
それから、そちらへ背を向けて歩き出した。
「別にさ」
背中に声が飛んできた。
華の肩がびくりと揺れる。
華の肩がびくりと揺れる。
「アンタを、とって食おうってつもりはないよ」
華は振り返らなかった。
足取りが、わずかに早くなる。
足取りが、わずかに早くなる。
「十六年前――」
華の足が止まった。
視線だけ足もとに落とす。
視線だけ足もとに落とす。
「春節の夜に一緒に歩こうって約束をさ」
視界の端が、ぼんやりとにじむ。
華は唇をかんだ。
華は唇をかんだ。
「今でも、酒の席でこぼす男がひとりいる。
そのまま行方が分からなくなったガキの話をね」
そのまま行方が分からなくなったガキの話をね」
喉のあたりがきゅっと強張る。
背後から、ゆっくりとした靴音が近づいてくる。
華は胸元に手を置き、ぎゅっと力を込める。
「そいつから、アタシが頼まれてるのは一個だけだ」
華は、しばらく顔を上げなかった。
「“あの夜に何があって、いまどこにいるのか”。それが分かればいい」
華はゆっくりと振り向く。
女は、もう手を伸ばせば届く距離に立っていた。
女は、もう手を伸ばせば届く距離に立っていた。
内ポケットから抜いた名刺を、胸の高さでひらりと上げて見せる。
白い地の中央に、《万事屋 白髪黒羽》の活字があった。
白い地の中央に、《万事屋 白髪黒羽》の活字があった。
「もちろん、アンタが“知らぬ存ぜぬ”で通すってんなら、それでもいい」
女は、片方の肩を軽く上げる。
「そのときは、アタシは“見失いました”って報告するだけさ。
自分を振った女に振った理由を聞きたがるような野暮な男と、もう関わりたくねえってんなら、アタシがうまく言いくるめてやってもいい」
自分を振った女に振った理由を聞きたがるような野暮な男と、もう関わりたくねえってんなら、アタシがうまく言いくるめてやってもいい」
華は、差し出された文字を見つめた。
胸の中で、呼吸の回数を数えるみたいに、何度か小さく息をやり直す。
胸の中で、呼吸の回数を数えるみたいに、何度か小さく息をやり直す。
ようやく指を伸ばし、名刺の端をつまんだ。
「……これ、預かってもいいですか」
「ああ、もちろん。
何か困りごとがあれば、いつでも連絡してきな」
何か困りごとがあれば、いつでも連絡してきな」
女は、それ以上は何も言わない。
華は名刺を胸ポケットに押し込んだ。
「失礼します」
華は頭を下げ、踵を返した。
数歩だけ歩いてから、立ち止まる。
振り向くかどうか、迷うみたいに肩がわずかに動く。
振り向くかどうか、迷うみたいに肩がわずかに動く。
「あの……」
華は、横顔だけを女のほうへ向けた。
「一番大事なとこ、勘違いしてますよ」
女が片眉を上げる。
「だって、あの夜待ちぼうけしてたのは、こっちだから」
言ったあと、華は視線を路面に落とす。
「だから、もし“どっちが振られたか”って話なら……答えは、たぶん決まってます」
最後の一語だけ、声がわずかに小さくなった。
口元だけが、少しだけ笑いかけた形になる。
口元だけが、少しだけ笑いかけた形になる。
華は通りのほうへ向き直る。
暗がりに小さな背中が溶けていく。
女は、その背中を眺めていた。
「《電梟》、聞こえるか」
耳の奥で、微かなノイズが混じる。
《……マジで行かせちゃっていいんすかね》
双葉の声が、少しだけ迷うみたいに震えた。
《今ならまだ、追いつける距離っすけど》
女は、華が曲がっていった路地のほうを見た。
提灯の切れ間に浮かぶ月が、さっきより高い位置にある。
提灯の切れ間に浮かぶ月が、さっきより高い位置にある。
「やめときな」
短く息を吐いた。
「無理に口を割らせても仕方ねえだろ」
欄干の向こう、川面に映った明かりが、風で揺れる。
「それに……どうやら見られてるみてえだからな」
《……っすね。こっちでも調べときますわ》
少し間を置いてから、双葉が続けた。
「頼んだよ、《電梟》」
女は、もう一度だけ人波のほうを見た。
栗色の髪を探しかけて、やめる。
栗色の髪を探しかけて、やめる。
「炎嵐くん、ねえ」
頭上には、提灯の隙間から白い月が覗いている。
終幕:【慈烏】
黄浦江の水面が、窓の向こうでゆっくりと色を変えていた。
日が傾きはじめ、川の光が薄くなるぶんだけ、庭の砂利が白く浮き上がって見える。
日が傾きはじめ、川の光が薄くなるぶんだけ、庭の砂利が白く浮き上がって見える。
梧桐の枝に、烏 が一羽とまっていた。
もう巣を作る時期ではないはずなのに、嘴の先に細い枝切れをくわえている。
もう巣を作る時期ではないはずなのに、嘴の先に細い枝切れをくわえている。
枝切れの先には、ごく小さな木の実がひとつついていた。
烏 は首をひねり、枝切れごと一度ついばむ。
いらなくなった枝だけが、足もとへ落ちた。
残った木の実が、嘴の先で小さく揺れる。
残った木の実が、嘴の先で小さく揺れる。
枝の影に、もう一羽、羽の先がところどころ抜けた大きな
先にいた烏 は、うずくまった烏 の背のあたりへ嘴を寄せた。
喉の奥から木の実を押し上げ、ひと粒だけ、口移しで渡す。
喉の奥から木の実を押し上げ、ひと粒だけ、口移しで渡す。
窓際の椅子に腰掛けていた老人が、そこで小さく笑った。
喉の奥で、短く息が弾く。
喉の奥で、短く息が弾く。
「……見たかね、華」
呼びかけに、少女が上体をわずかに起こした。
両手の甲を重ね、膝の上で指先をきちんと揃える。
両手の甲を重ね、膝の上で指先をきちんと揃える。
「はい。木の実を、分けていました」
華は、梧桐の枝のあたりを目で追いながら答えた。
「そう。中国ではね、ああいうのを“慈烏 ”と言うんだよ」
老人は、肘掛けに手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
歩幅は大きくない。足音より先に、衣擦れの音が一定の間隔で続く。
歩幅は大きくない。足音より先に、衣擦れの音が一定の間隔で続く。
「親に口移しで餌をやる鳥 だ。親孝行の象徴だと、言い伝えられておる」
窓枠のそばまで進み、梧桐の枝を見上げる。
枝の上で、烏 が丸く身をふくらませていた。
枝の上で、
「……似ていると思わんかね」
老人は、まだ枝から目を離さない。
細めた目尻に、うっすらと笑い皺が寄る。
細めた目尻に、うっすらと笑い皺が寄る。
「遠くまで飛んでいって、集めたものを少しずつ持ち帰るところなど」
言葉をそこで切るあいだに、窓ガラス越しの光がもう一段やわらいだ。
黄浦江の水面が、さっきより深い色をまといはじめている。
黄浦江の水面が、さっきより深い色をまといはじめている。
「うちの慈烏 も」
華は、小さく息を吸った。
視線を膝のあたりへ落とし、首をわずかに横へ振る。
視線を膝のあたりへ落とし、首をわずかに横へ振る。
「そんな、大げさなものじゃないです」
「大げさでなければ、親孝行ではないという決まりもないよ」
老人――七鴉翁は、片方の肩を軽く上げてみせた。
それから振り返り、細い指で手をひとつ打つ。
それから振り返り、細い指で手をひとつ打つ。
奥から、使用人が一人、音を立てずに現れた。
盆の上に、茶托と小さな茶壺、それから薄手の白磁の茶杯が載っている。
盆の上に、茶托と小さな茶壺、それから薄手の白磁の茶杯が載っている。
低い卓の上に、茶托と茶壺、茶杯が順に置かれていく。
淡い色の茶が、細い筋になって茶杯へ流れ込んだ。湯気は縁のあたりでほどけ、すぐに薄まる。
淡い色の茶が、細い筋になって茶杯へ流れ込んだ。湯気は縁のあたりでほどけ、すぐに薄まる。
翁は卓のそばの椅子へ腰を移し、華と向かい合う位置についた。
両手を卓の端に寄せ、向かいの顔をうかがう。
両手を卓の端に寄せ、向かいの顔をうかがう。
華も少し腰を引き寄せ、椅子ごと身体の向きを卓のほうへ向けた。
「よく戻ってきたね」
翁の手が茶杯に伸びる。
茶杯を片手で支え、もう片方の指先を縁に添えた。
茶杯を片手で支え、もう片方の指先を縁に添えた。
「……ただいま戻りました」
華は、ひと呼吸置いてから答えた。
重ねた指先に、きゅっと力を込める。
重ねた指先に、きゅっと力を込める。
「それで、ご両親は息災だったかね」
翁が、茶杯を口元へ運びながら、視線だけ華へ送った。
「……はい。おかげさまで、施設の方たちも優しい人が多くて……」
華は、卓の上の自分の茶杯に目を移した。
片手を伸ばし、縁に指先をそっと寄せる。
片手を伸ばし、縁に指先をそっと寄せる。
「よく歩いて、よく食べて、よく眠ってるって」
「ふむ。それなら、結構なことだ」
翁は一度目を閉じ、短く息をこぼした。
それから茶杯を傾け、小さくひと口だけ喉に送る。
それから茶杯を傾け、小さくひと口だけ喉に送る。
「娘のことは、覚えておったかね」
茶杯を卓へ戻しながら、問いを足した。
華は、湯面の色を見つめた。
縁に触れた指先が、ぴくりと小さく震える。
縁に触れた指先が、ぴくりと小さく震える。
「……調子のいい日は、って聞きました」
そこまで言うと、華の唇がぴたりと閉じた。
湯の中で回る茶葉を目で追う。
湯の中で回る茶葉を目で追う。
翁は、それ以上問いを重ねなかった。
自分の茶杯に目だけ落とし、もう一度、短く息を吐く。
自分の茶杯に目だけ落とし、もう一度、短く息を吐く。
「今回は、どこだったかな」
「西のほうが多かったです。ロンドンから入って……それから、もっと北へ」
華は、記憶をたぐるように顔を上げた。
天井のあたりを一度見てから、言葉をつなぐ。
天井のあたりを一度見てから、言葉をつなぐ。
「本当は、そのままシベリアを経由して、日本に立ち寄ってから戻る予定でした。
でも、ロシアの手前で足止めになって、迂回することになって……」
でも、ロシアの手前で足止めになって、迂回することになって……」
一息ついて、視線をまた茶へ落とす。
茶の表面が、かすかに揺れた。
茶の表面が、かすかに揺れた。
「いちど南へ回って、シリアからは陸路で戻りました」
「ふむ」
翁は肘掛けに片肘を預け、もう片方の手で茶杯の高台を支え直した。
「ここ五十年ほど、お前に歩かせてきたのは、戦と災いの地ばかりだね」
華は、縁から手を離した。
膝の上で両手を揃え直す。
膝の上で両手を揃え直す。
「“使い”からお前の近況を聞くたびに、つい余計な“土産”を言づけてしまう」
翁は、卓上の茶杯をいちど見やり、独り言のように続けた。
「……あの街の“王冠”も、あの国の“涙”も」
言い終えるころには、視線が華の足元へ落ちていた。
そこには、使い込まれた厚手の布の鞄が置かれている。
そこには、使い込まれた厚手の布の鞄が置かれている。
金具の欠けた懐中時計。ひびの入った陶片。錆びた鍵の束。
どれも現地で翁の知り合いから「届けてくれ」と預かったもので、華には名前も値打ちも分からない。
どれも現地で翁の知り合いから「届けてくれ」と預かったもので、華には名前も値打ちも分からない。
翁は、布地を視線で一度なぞり、それからまた顔を上げた。
「……楽な道ではなかったろう」
華は、唇の内側を、いちど軽く噛んだ。
茶杯の湯面に、自分の輪郭があいまいな形で揺れている。
茶杯の湯面に、自分の輪郭があいまいな形で揺れている。
「……その“使い”の人たちに」
重ねた手に、少しだけ力がこもる。
「わたしのこと、監視させてますか」
翁は、華の顔をまっすぐ見た。
答えを口にする前に、茶杯を口元に寄せ、ひと口だけ含む。
答えを口にする前に、茶杯を口元に寄せ、ひと口だけ含む。
「何か、気になることでもあったかね」
茶を飲み下してから、穏やかな調子で問う。
華は、まぶたをいちど閉じた。
呼吸をひとつ整えてから、声を出す。
呼吸をひとつ整えてから、声を出す。
「屋台でも、道でも……。誰かに、ずっとカメラを向けられていたみたいで」
言い終えたあと、喉の奥から細い息が漏れた。
「ふむ……。確かに私は、あちこちに目と耳を置いておるからね」
翁は息を吐き、肩をひとつすくめる。
「だが、うちの若いのなら、あからさまな真似はせんだろう」
華は、自分の指先を見た。
重ねた手のあいだから、白くなった爪の先がいくつも並んでのぞいている。
重ねた手のあいだから、白くなった爪の先がいくつも並んでのぞいている。
「でも、ほかに……!」
そこまで言って、華は言葉を飲み込んだ。
「もし、それが人の目には映らない“隣人”の仕業だとしたら――」
翁は、視線を華から外し、窓の外へ顔を向けた。
「お前がいちばん早く気づくはずだよ」
口元が、わずかに上がる。
「お前が触れたものには、決まって“無害な隣人”が憑 く」
翁は、手元の茶杯へ視線を落とした。
薄い湯が、縁の内側で小さく揺れている。
薄い湯が、縁の内側で小さく揺れている。
「張った網は元からお前のものだ。お前の見えるものと同じだよ」
そこでいちど言葉を切り、視線をふたたび華へ戻した。
「私はお前の力を少し借りて……その“冥識”で、この魔都の隅々まで“彼ら”の声に耳を澄ませておるだけだ」
華は、少し遅れて唇を開いた。
顔を上げかけて、すぐにまた視線を落とす。
顔を上げかけて、すぐにまた視線を落とす。
「わたしには……何も見えません 」
言葉の途中で、喉の奥がきゅっと縮んだ。
指先の熱が、じわっと増すように感じる。
指先の熱が、じわっと増すように感じる。
「ああ、その通りだ。お前は、何も見えていない 。
目を背け、耳も塞ぎ、黒く塗り潰す――」
目を背け、耳も塞ぎ、黒く塗り潰す――」
口調とは裏腹に、目尻の皺にははっきりとした笑いが浮かんでいた。
「――お前は元々そういう子だったのだな」
華は唇を閉じた。
言葉を足す代わりに、膝の上で指を組み直す。
言葉を足す代わりに、膝の上で指を組み直す。
翁は、茶杯をわずかに傾けた。
底に残っていた茶が、喉の奥へするりと落ちていく。
底に残っていた茶が、喉の奥へするりと落ちていく。
「ところで」
翁は、茶杯から手を離し、椅子の背に掛かったポシェットを、ちらりと一度だけ見やった。
視線をすぐに戻し、先ほどまでの話題をそこで断ち切る。
視線をすぐに戻し、先ほどまでの話題をそこで断ち切る。
「上海には、いつ戻った」
「……十日くらい前です」
華は、少し考えるように間を置いて言った。
「そうか。ずいぶん前のようだが。また街の者と交わっておったのかね」
翁の声には、責める色はなかった。
「……旅のあいだに使うお金は、自分でどうにかしたくて」
華は、目を伏せて、スカートの布地の折り目を見た。
指先でそれを軽くなぞる。
指先でそれを軽くなぞる。
翁は、華のほうへ視線を止めた。
卓の上の茶の湯気が、ふっとほどけて消える。
卓の上の茶の湯気が、ふっとほどけて消える。
「そうだ、あいつを覚えておるか?」
翁は、思い出したように口の端を上げた。
「うちの若いのだよ。『また麺屋をやらされるのか』と、ぶつぶつ言いながら前掛けを用意しておったぞ」
おかしさと苦笑いが半分ずつ混じったような表情だった。
翁が息を吸い、続きを口にしようとしたとき――
翁が息を吸い、続きを口にしようとしたとき――
「あの……」
華がそこで声を出した。
折り目から指を離す。
膝の上で指を重ね直し、短く息を吐いた。
膝の上で指を重ね直し、短く息を吐いた。
「ダイヤを、その……」
喉の奥で声がかすかに震える。
「見つけて返せたらと思って……」
顔を伏せたまま、翁の言葉を待つ。
「そうか」
翁は短くうなずくだけだった。
空になった茶杯の縁に、軽く指先を触れさせる。
空になった茶杯の縁に、軽く指先を触れさせる。
窓の外の川面が、ゆっくりと暗さを増していく。
庭の砂利は、輪郭をぼやかされていった。
庭の砂利は、輪郭をぼやかされていった。
遠くから、庭木の葉が時おりこすれる細い音が届く。
「上海はどうだった」
華は、いちど目を閉じてから息を吸った。
それから、言葉を選びながら口を開く。
それから、言葉を選びながら口を開く。
「今年は、特に人が多かったです。
どこも、人がたくさんで……頭の上で、紙吹雪が散っていました」
どこも、人がたくさんで……頭の上で、紙吹雪が散っていました」
――清王朝のダイヤが盗まれたらしい。
――いや、地下で爆発したって聞いたぞ。
――魔幇の爺さんは、まだ諦めてないってさ。
――七鴉翁? あの人、いつまで生きるつもりなんだろうね。
――『五・三〇事件』の黒幕も、あの人だったらしい。
――あの英雄“張无忌 ”が死んだのも、そいつの企みだって話だ。
――王権証器 を手中に戻せれば、誰が死んでも構わないのだろうさ。
――いや、地下で爆発したって聞いたぞ。
――魔幇の爺さんは、まだ諦めてないってさ。
――七鴉翁? あの人、いつまで生きるつもりなんだろうね。
――『五・三〇事件』の黒幕も、あの人だったらしい。
――あの英雄“
――
似たような話を、何度も耳にした。
夜市の屋台で皿を下げているとき。
深夜の麺屋で、カウンター越しに器を受け取るとき。
火鍋屋のテーブルを拭き、椅子を元の位置へ戻すとき。
深夜の麺屋で、カウンター越しに器を受け取るとき。
火鍋屋のテーブルを拭き、椅子を元の位置へ戻すとき。
少し前までは口にされなかった百年前の事件を、同じ調子で語る客が増えていた。
口元に手を当て、小声でその噂を繰り返す姿が、どの店でもよく似ている。
口元に手を当て、小声でその噂を繰り返す姿が、どの店でもよく似ている。
「噂を聞きました」
華は、手を伸ばし、茶杯の縁に人差し指をそっと添えた。
「どんな噂だい」
ひと呼吸置いてから、翁は華の顔を見やった。
「……ダイヤの行先のこととか。
魔幇 の偉い人たちのこととか」
華は、少し言いにくそうに続けた。
添えた指先が、縁の上でごく小さく動く。
添えた指先が、縁の上でごく小さく動く。
翁は、目元のしわをわずかに深くした。
笑っているのかどうか、読み取りにくい表情だった。
笑っているのかどうか、読み取りにくい表情だった。
「噂は、いつの世も安くてね」
翁は、空の茶杯に視線を落とした。
次に続ける言葉を探すように、短く間を置く。
「火がつけば、誰でも少しずつ油を注ぎたがる」
空の茶杯の縁を見ていた視線が、ゆっくりと華へ戻った。
「お前が、上海で聞いた噂の中に、王権証器 の名も、混じっておったろう」
華は、縁から指をそっと離した。
膝の上で、ふたたび手を重ねる。
膝の上で、ふたたび手を重ねる。
「……耳に入るくらいには」
華は短くそう言って、そこで言葉を切る。
「そうだろうとも」
翁は、ひとつうなずいた。
「石そのものは、ただの石だ。
ばらばらにしてしまえば、なおさらね」
ばらばらにしてしまえば、なおさらね」
窓の外で、梧桐の枝が、音も立てずにしなった。
大きな烏 が、一度だけ羽を打って庭の向こうへ渡っていく。
大きな
「人は、形を欲しがる。
旗でも、冠でも、宝石でもいい。手に取れる形にしておかねば、安心できん」
旗でも、冠でも、宝石でもいい。手に取れる形にしておかねば、安心できん」
翁は、視線だけ窓の外へ滑らせる。
「それが王権証器 だと、昔から言われてきた。
だが――」
だが――」
翁の視線が、華の足元の布の鞄へ再び向いた。
「形だけが残って、人の手から離れすぎると、今度はそれが火種になる」
華は、指をきゅっと揃えた。
足元の鞄の持ち手が、足首のあたりでかすかに触れる。
足元の鞄の持ち手が、足首のあたりでかすかに触れる。
「噂は、そこを好んでつつく」
翁は、淡々と言った。
「誰それが石を狙っておる、誰それが石を宿しておる。
そういう話のほうが、人は関心を寄せるからね」
そういう話のほうが、人は関心を寄せるからね」
華は、茶杯から目を離さずに、まばたきを一度だけした。
茶の表面に映る輪郭が、薄くにじんでから、また元の形に戻る。
茶の表面に映る輪郭が、薄くにじんでから、また元の形に戻る。
「……本当のところは、どうなんでしょう」
口からこぼれた声は、自分で思っていたよりも細かった。
「五・三〇のことも、張无忌のことも。
上海の人は、いろんなふうに、話していて」
上海の人は、いろんなふうに、話していて」
翁は、そこで息を吐いた。
笑いともため息ともつかない。
笑いともため息ともつかない。
「百年も前のことであれば、なおさらだ」
翁は両手を卓のほうへ寄せた。
「私が何も言わねば、好きなように語り継がれる。
私が何かを言えば、それはそれでまた、別の噂になる」
私が何かを言えば、それはそれでまた、別の噂になる」
皺の深い手が、卓の天板に触れる。
「大事なのは、過去そのものより――」
翁は、ごく短く間を置いた。
「人々が、何を信じたいと願っておるかだよ」
華は、視線をようやく茶杯から上げた。
正面を見たつもりなのに、翁の目より少し下で目が止まる。
正面を見たつもりなのに、翁の目より少し下で目が止まる。
「……はい」
短くそう返す。
翁は、ふたたび窓の外へ目をやった。
梧桐の枝で、さっき餌を運んでいたほうの烏 が、幹のほうへ身を寄せる。
梧桐の枝で、さっき餌を運んでいたほうの
もう一度、角度を変えてつつくと、小さな木の実をくわえ直して枝の上に戻る。
足場を少し整えてから、嘴の先で殻を砕いた。
白い中身をついばみ、喉の奥へと落とし込む。
白い中身をついばみ、喉の奥へと落とし込む。
「鳥はね、見つけた餌をすぐには食べずに、ああして樹の割れ目なんかにしまっておくことがあるそうだ」
翁は、烏 から目を離さずに言った。
華は、自分の前の茶杯を見る。
湯気はもう上がっていないのに、茶杯には、薄い色の湯が満ちている。
縁のすぐ内側で、その色が室内の光をぼんやりと拾っていた。
縁のすぐ内側で、その色が室内の光をぼんやりと拾っていた。
姿勢を直そうとして、かかとをわずかに引いた。
椅子の背に掛かった小さなポシェットが、ほんの少し揺れる。下がった持ち手が、椅子の脚に軽く当たって止まる。
中には、財布と手帳と、それから一昨日の夜に拾った小さなガラス玉が入っている。
椅子の背に掛かった小さなポシェットが、ほんの少し揺れる。下がった持ち手が、椅子の脚に軽く当たって止まる。
中には、財布と手帳と、それから一昨日の夜に拾った小さなガラス玉が入っている。
梧桐の枝で、烏が短く鳴いた。
さっき殻を落としたあたりを一度のぞき込み、それから羽根をふくらませる。
さっき殻を落としたあたりを一度のぞき込み、それから羽根をふくらませる。
華は、卓の上の茶杯に映る自身の輪郭から目を離せなかった。
胸で息を吸うたびに、茶がかすかに揺れる。映った顔の線が少し崩れては戻る。
胸で息を吸うたびに、茶がかすかに揺れる。映った顔の線が少し崩れては戻る。
茶壺の中で小さく鳴っていた音が途切れ、部屋の中に、しんとした気配だけが残った。
*
静けさの中、茶の匂いが鼻の奥に張りついていた。
昨夜、翁の屋敷で吸い込んだやつだ――と、遅れて思い当たる。
少女はまぶたを持ち上げた。
そこへ、薬品と洗剤が混ざった匂いが重なった。
どっ
どっ
どっ
どっ
どっ
心臓の跳ねる音で、少女は我に返った。
息がうまく吸えない。
肺の手前で空気が止まり、短い呼吸だけが途切れ途切れに続いた。
肺の手前で空気が止まり、短い呼吸だけが途切れ途切れに続いた。
目の前に、黒い幕が垂れ込めているみたいだった。
明かりはついているはずなのに、部屋全体がぼんやり霞んで見えた。
明かりはついているはずなのに、部屋全体がぼんやり霞んで見えた。
足もとを確かめるように、手探りで上体を起こす。
指先の感覚がない。
悪寒がじわじわと這い上がってくる。
悪寒がじわじわと這い上がってくる。
個室のドアを開けたところまでは覚えている。
父の寝顔を確認して、それから――
不意に喉の奥から、強い吐き気がせり上がる。
空っぽの胃がぎゅっと縮み、何も出ないのに吐こうとした。
こみ上げた息に、酸っぱいにおいが混じる。
空っぽの胃がぎゅっと縮み、何も出ないのに吐こうとした。
こみ上げた息に、酸っぱいにおいが混じる。
手の甲で前髪を押さえたところで、額も汗で濡れていると気づいた。
指を滑らせると、前髪がぴたりと貼りつく。
襟ぐりの布が、水に落としたみたいな重さで肌にまとわりついていた。
指を滑らせると、前髪がぴたりと貼りつく。
襟ぐりの布が、水に落としたみたいな重さで肌にまとわりついていた。
心臓の音が、少しずつ落ち着いていく。
視界が、少しずつ広がっていく。
指先が、しびれるみたいに熱い。
にじんだ視界の中で、リネンのシーツの皺が揺れて見えた。
首筋を、汗がつうっと落ちていく。
首筋を、汗がつうっと落ちていく。
その皺を目で追っていくと、父がベッドで寝ていた。
その首には、自分の指の跡がくっきり残っている。
その首には、自分の指の跡がくっきり残っている。
昼、父は同じベッドのうえで、少女の袖を掴んだ。
『薬は、もう、やめてくれ……』
虚ろな目でそう言ったあと、父は目をぎょろぎょろと泳がせながら、
『薬……薬……』
と、うわごとのように繰り返していた。
部屋のあちこちに視線を移しながらも、少女の方には目もとめない。
しばらくして看護師が駆けて来て、父の手を外す。
父は、白衣の胸ぐらを掴んだまま、同じことを繰り返していた。
父は、白衣の胸ぐらを掴んだまま、同じことを繰り返していた。
少女は顔を上げて、ベッドの枕元を見た。
さっきまで、少女の腕のなかで暴れていたのが嘘みたいに、穏やかな表情で目を閉じていた。
肩で息をしながら、襟ぐりを引っ張る。
汗が腰のあたりまで流れ落ちて、湿った感触をいやでも意識させた。
汗が腰のあたりまで流れ落ちて、湿った感触をいやでも意識させた。
「……どなた?」
もう一つのベッドから、布団の擦れる音がした。
暗い部屋のなかで、かすれた声がした。
少女は、肩をびくりと揺らした。
父の顔から目を離し、そちらへ身を向ける。
父の顔から目を離し、そちらへ身を向ける。
母の身体が、小さく動いた。
細い腕が布団の上に出て、手探りで枕の端を探している。
細い腕が布団の上に出て、手探りで枕の端を探している。
「お母さん」
少女は立ち上がり、ベッドのそばへ歩いた。
「起こしちゃったね」
母がまぶたを擦る。
「……花だよ」
少女は、喉の渇きをいちど飲みこむ。
そして、もう一度、口を開く。
「お母さんの娘の、花」
母の顔が、ほんの少しだけ近づいた。
「まあ」
母の表情がほころぶ。
「どこのお嬢さんかしら」
少女は唇を震わせる。
何度か、口を開きかけて、そのまま口を閉じた。
何度か、口を開きかけて、そのまま口を閉じた。
「さっきね、ここで泣いてる子がいる夢を見たの」
母の視線が、ベッドのわきの何もない空間をさまよう。
「ちっちゃい子。ひとりで、しくしくして」
母の指先が、布団の上を撫でる。
「こわかったのかしらねえ」
少女は、その手元を見つめた。
「ほらほら、いい子だから、泣かないの」
母は、子守唄を歌うときと同じ調子で口ずさんだ。
「慈母、手中線 ……」
〈やさしい母は手に糸を持ち……〉
〈やさしい母は手に糸を持ち……〉
それは中国の古い詩の一節だった。
母は、その一行をもう一度、もう一度と繰り返す。
そのたびに続きの句を探すように唇が動くが、言葉にはならず、かすれた息だけが漏れる。
そのたびに続きの句を探すように唇が動くが、言葉にはならず、かすれた息だけが漏れる。
「游子、身上衣 ……でしょ」
〈旅に出る子の着物に縫いつける……でしょ〉
〈旅に出る子の着物に縫いつける……でしょ〉
少女は、母の声の調子に合わせて、その先の句を重ねるように口にした。
「夜に泣いてると、いつもそれを読んでくれたね」
「そうね……」
母は目を細めて、小さく息をもらした。
「よく妹をこうしてあやしていたわ」
少女は口を開きかけて、結局何も言わなかった。
母の腕に視線を向ける。
腕には点滴の管が伸びていて、ベッド柵を回ってぶら下がっている。
それを追っていくと、痩せた首の細さが急に目についた。
それを追っていくと、痩せた首の細さが急に目についた。
「ねえ、お母さん」
少女は声をかけた。
「さっきの子ね。たぶん、もう泣き止んでるよ」
「そうかしら」
母は、布団を撫でた。
「よかった。……いい子ねえ」
少女は、枕のすぐそばで膝をついた。
背中のシャツが、汗で肌に吸いついている。
背中のシャツが、汗で肌に吸いついている。
「お母さん」
言ってから、間をおいた。
「おやすみなさい」
父にしたように、少女は両手を伸ばす。
腕の高さを、母の首元のあたりまで上げる。
喉に指先を当てると、骨の出っ張りがかすかに触れた。
指が小さく震えたが、いちど強く組み直し、それきり動かさなかった。
指が小さく震えたが、いちど強く組み直し、それきり動かさなかった。
息を一つ吸ってから、腕に力を込める。
そのまま喉を強く掴んだ。
そのまま喉を強く掴んだ。
乾いた皮膚が掌に張りつき、指の腹が喉へ食い込む。
母の目が、ゆっくりと見開かれていく。
母の目が、ゆっくりと見開かれていく。
片方の手が、少女の腕を掴もうとして伸びる。
空を切りそうになりながら、やっと手首に触れた。
空を切りそうになりながら、やっと手首に触れた。
掴む力は弱く、押し返すというより、撫でるような触れ方だった。
細い力で、少女の腕をなぞり、もっと上のほうを探す。
細い力で、少女の腕をなぞり、もっと上のほうを探す。
口もとが、さっきの詩の形をなぞる。
途切れ途切れの声が、少女の指の下で割れて消えていく。
途切れ途切れの声が、少女の指の下で割れて消えていく。
少女は、頭の中で一つ、二つ、三つと数字を刻んだ。
耳鳴りがして、視界の端がじわりと暗くなる。
耳鳴りがして、視界の端がじわりと暗くなる。
母の手が、少女の腕から、肩へ、首の横へ。
老いて骨ばった指が、少女の頬にそっと触れる。
少女は大きく息を吸った。
肺が焼けるように熱くて、胸の内側がきしむ。
肺が焼けるように熱くて、胸の内側がきしむ。
少女は、腕に体重を乗せた。
骨ばった指が一瞬跳ねるように震えたかと思うと、そのまま、指先からベッドの外へと滑り落ちていった。
そして、少女も少しずつ力を抜いていく。
支えを失った首が、枕のほうへゆっくり傾いた。
半開きになった目は、天井の同じ一点のあたりを見ているようで、どこも見ていない。
半開きになった目は、天井の同じ一点のあたりを見ているようで、どこも見ていない。
ベッド脇のスタンドに手を伸ばし、スイッチに触れる。
灯りが落ちて、部屋の輪郭が薄くなる。カーテンの隙間から、淡い朝の光が差し込み、床の一角を薄く照らしていた。
灯りが落ちて、部屋の輪郭が薄くなる。カーテンの隙間から、淡い朝の光が差し込み、床の一角を薄く照らしていた。
父のベッドのほうを振り返る。
二つのベッドのあいだの小さな棚に、昼間開いていたアルバムが伏せてある。
二つのベッドのあいだの小さな棚に、昼間開いていたアルバムが伏せてある。
アルバムの角を、親指で一度だけなぞる。
「……長いこと、つき合わせちゃったね」
アルバムから写真を一枚だけ抜き取る。
「天国に行けたら――」
そう言いかけて口をつぐむ。
四つ折りにして、写真をポケットにしまった。
部屋を出て、来た道を戻る。
階段を上がり、屋上の扉の前で足を止める。鍵は、昼間に来たとき壊しておいた。
階段を上がり、屋上の扉の前で足を止める。鍵は、昼間に来たとき壊しておいた。
押し金具に手をかけて押し込むと、弱い音を立てて扉が開いた。
隙間から、冷たい外気が流れ込んでくる。
隙間から、冷たい外気が流れ込んでくる。
扉を押し広げる。
外壁沿いに並んだ柵と、その向こうにヘリポートの白い印が見えた。
外壁沿いに並んだ柵と、その向こうにヘリポートの白い印が見えた。
少女は柵に足をかけ、身体を外側へ移す。
手のひらでコンクリートの縁を掴む。指先にざらざらした感触が伝わる。
手のひらでコンクリートの縁を掴む。指先にざらざらした感触が伝わる。
風が、汗で冷えた背中に当たる。
靴の底で外壁を強く蹴って、屋上から身を放った。
靴の底で外壁を強く蹴って、屋上から身を放った。
その瞬間、朝の日ざしが頬をかすめる。
光が近すぎて、目の奥がじんと熱くなる。
光が近すぎて、目の奥がじんと熱くなる。
下を見ると、運河に続く遊歩道のあたりだけが、まだ闇に沈んでいた。
*
目を開けると、電車の窓の向こうに白い水面が見えた。
川をまたぐコンクリートの柱が、等間隔に流れていく。
車体が継ぎ目を踏むたび、窓の外の景色がわずかに揺れた。
車体が継ぎ目を踏むたび、窓の外の景色がわずかに揺れた。
少女は、額をガラス近くまで寄せた。
窓にうっすらと自分の顔が映る。
涙のあとが、目元から頬にかけて残っているのに気づき、慌てて指で拭う。
窓にうっすらと自分の顔が映る。
涙のあとが、目元から頬にかけて残っているのに気づき、慌てて指で拭う。
まぶたの裏には、さっきまで見ていた夢の輪郭がまだ鮮明に残っている。
上海に戻ってから、もう一人の自分を夢に見るようになった。
今もまた、その夢を見ていた。
今もまた、その夢を見ていた。
その夢には必ず、「天狗」を名乗る女の人がいる。
夢の中の少女を弟子と呼んで、あちこちへ連れまわす。
夢の中の少女を弟子と呼んで、あちこちへ連れまわす。
気がつくと、山の上やビルの中に連れ込まれて、親子喧嘩や脱出ゲームに巻き込まれている。
もう一人の自分は、よく分からないまま、その女の人に付き従う。
その我が儘さや図々しさにウンザリしながらも、「師匠」と呼びかける彼女の声には、親しみの色があった。
もう一人の自分は、よく分からないまま、その女の人に付き従う。
その我が儘さや図々しさにウンザリしながらも、「師匠」と呼びかける彼女の声には、親しみの色があった。
夢の上海には、第十六上海天空樹塔 と呼ばれる鉄骨で組まれた大きな塔が建っていた。
街で噂だけ聞いたことのある顔や、名前だけ知っていた人たちが、師匠の声に呼ばれて塔の下へ集まってくる。
その中の一人が塔に触れた瞬間、塔が空に向かって細く延びた。
先端は、虹色の膜の向こう側に浮かぶ黒い岩みたいな衛星に向いている。
先端は、虹色の膜の向こう側に浮かぶ黒い岩みたいな衛星に向いている。
もう一人の自分は、小さな宝石を胸元で握りしめていた。
十からゼロまでカウントが終わると、大きなワニの口に乗り込み、彼女は宙 へと旅立つ。
いつも、そこで目が覚める。
十からゼロまでカウントが終わると、大きなワニの口に乗り込み、彼女は
いつも、そこで目が覚める。
夢から目覚めるたびに、胸がざわつく。
起きた直後は細部まで覚えているのに、時間が経つほど輪郭がほどけていく。
気づくといつも、なくしたものを探すみたいに、その夢の断片を思い出そうとしている。
起きた直後は細部まで覚えているのに、時間が経つほど輪郭がほどけていく。
気づくといつも、なくしたものを探すみたいに、その夢の断片を思い出そうとしている。
どういうわけか、あの夢が頭から離れない。
窓の外の水面に、空の白さとビルの影が伸びたり切れたりしながら揺れる。
雲が薄く広がっていて、太陽の位置だけがぼんやり分かった。
雲が薄く広がっていて、太陽の位置だけがぼんやり分かった。
少女は、ポケットの中の四つ折りの写真の感触を確かめた。
紙の角が、指先に小さく当たる。
紙の角が、指先に小さく当たる。
車内アナウンスが、次の駅名を告げる。
少女は、窓から目を離した。
白い水面と、夢の中で見た空の高さだけが、頭の奥に残った。
白い水面と、夢の中で見た空の高さだけが、頭の奥に残った。
◇ ◇ ◇
黄浦江の灯りが、窓ガラス越しに床へ伸びていた。
さっきまで客を迎えていた書斎には、茶葉の匂いが残っている。
さっきまで客を迎えていた書斎には、茶葉の匂いが残っている。
七鴉翁は机の前に立っていた。
「お茶を、下げてもよろしいですか」
戸口のほうから、女の声がした。
さきほどまで給仕に立っていた小間使いだ。おそるおそる顔をのぞかせている。
さきほどまで給仕に立っていた小間使いだ。おそるおそる顔をのぞかせている。
「おや」
翁は横顔だけを向けた。
「冷めてしまったね。頼もうか」
女はうなずき、盆を持って部屋に入ってくる。
湯呑みに手を伸ばしかけて、ふとためらったように指を止めた。
湯呑みに手を伸ばしかけて、ふとためらったように指を止めた。
「……昨日お会いした、華さまですが」
声が小さくなる。
「ご両親が、その……明け方に……」
翁は窓の外へ視線を流し、軽く息を吐いた。
「ああ」
返事はあっさりしていた。
「知らせは、受け取っている。君が気に病むことではないよ」
女が言葉を探しているあいだに、翁はゆっくり椅子へ歩いた。
盆の横を通り過ぎるとき、茶の湯気が薄く揺れる。
盆の横を通り過ぎるとき、茶の湯気が薄く揺れる。
「あの子には、世界中を回ってもらった」
椅子の背に片手を置きながら、翁が言った。
「私の使いとして、ずいぶん遠くまでね。
最初に会ったときと比べて、顔つきがだいぶ変わった」
最初に会ったときと比べて、顔つきがだいぶ変わった」
茶杯へと手を伸ばす。
「子の巣立ちにしては、ずいぶん急な変わりようだ」
翁は、茶杯をあおごうとして、その手を止めた。
「……いや、とっくにあの子は自分の翼で空を飛んでいたのか」
ガラス越しの川面をちらりと見やる。
「籠に閉じ込めていたつもりでいたのは、私だけだったのかもしれないな」
口調は淡々としているのに、言い終えたとき、翁の肩がわずかに落ちた。
「そろそろ、手放す時が来たのかもしれないね」
翁は茶杯をあおいだ。
女は息を呑んだようだったが、何も言わない。
翁の背中を見つめ、湯呑みを盆に戻す。
翁の背中を見つめ、湯呑みを盆に戻す。
「ちょうどいい、昔話に付き合ってもらおうかね」
翁は独り言のように続けた。
「――ちょうど五十年か。あの子が、私の前に連れてこられたのは」
女が盆を抱え直す音が、扉のほうへ遠ざかる。
取っ手がかすかに動き、書斎に再び、川の音が戻ってきた。
取っ手がかすかに動き、書斎に再び、川の音が戻ってきた。
*
――五十年前、上海。
黄浦江の夜風には、昔ここをさかのぼった阿片船の名残がこびりついている。
外国の旗が消えてから二十年、「禁絶黄賭毒」の標語だけが岸壁に塗り重ねられ、その陰では、内陸の山から下りてきた白粉 の袋が行き先を待っていた。
ベトナムで続く戦争と、日本の好景気が、その値段を吊り上げている。
外国の旗が消えてから二十年、「禁絶黄賭毒」の標語だけが岸壁に塗り重ねられ、その陰では、内陸の山から下りてきた
ベトナムで続く戦争と、日本の好景気が、その値段を吊り上げている。
倉庫の列のあいだを、老人が歩いていた。
先に歩かせた手下たちが、通り道を空けている。
鉄扉にもたれて煙草を吸っていた荷役が、合図ひとつで口をつぐみ、通路の外へと引いていった。
耳にまとわりついていた声が消え、革靴がコンクリートを打つ音だけが、通路の奥まで響く。
鉄扉にもたれて煙草を吸っていた荷役が、合図ひとつで口をつぐみ、通路の外へと引いていった。
耳にまとわりついていた声が消え、革靴がコンクリートを打つ音だけが、通路の奥まで響く。
前を行く男のコートの裾が、小刻みに揺れている。
男は振り返らずに言った。
男は振り返らずに言った。
「七爺 ――大阪行きの便が、やられました」
老人は歩調を変えない。
男は、言葉を選ぶように息をひとつ吐いた。
「香港の商社から、日本のフロント企業に流す手はずでした。書類の細工は悪くなかったんですが……」
言いよどむ声だけが、倉庫の壁で鈍く返る。
「どこで切られた」
老人が問う。
「向こうの港です。税関と警察が組んで、コンテナごと抜かれました」
「現地で横槍か。鼻の利くやつがいる」
老人は短く息を吐いた。
「今ある窓口は、しばらく使えんぞ」
倉庫の影を抜けたところで、老人は視線を上げた。
港務会社の古い事務所棟が、クレーンの足もとの明かりを背中に負って立っている。
外壁のコンクリートは黒ずみ、入口の上には、剥げかかった社名板と、木札の標語が並んでいた。
港務会社の古い事務所棟が、クレーンの足もとの明かりを背中に負って立っている。
外壁のコンクリートは黒ずみ、入口の上には、剥げかかった社名板と、木札の標語が並んでいた。
老人は、その建物を一瞥する。
「こうなると、“羊”が要るな」
ぼそりと言うと、コートの男が、その事務所棟に視線を向けた。
「既に、人の良さそうな日本人を押さえています」
老人は男の横顔をちらと見る。
「名は」
「佐上 。夫婦で小口の貿易をやっていました」
「何を扱っていた」
「大して値の張らない雑貨です。中古の電気製品や部品を、日本とこっちで行き来させてました」
男の口元に、かすかな苦笑いが浮かぶ。
「娘の将来を見越して、古くからの友人の誘いに乗って先物に手を出したそうです。大きく値崩れして派手に転んだ結果、向こうの金貸しを頼ったとのこと」
「金額は」
老人は歩きながら問うた。
「銀行と商社からの借りをまとめて、日本円で五千万ほど」
男は、手のひらを開いて見せる。
「それに加えて、その友人から象牙が近々規制される噂があると聞かされ、損失を埋めようと象牙の取引にまで手を出しています。香港回りの便に紛れ込ませようとして、途中で荷をすり替えられて物は行方不明。そこで完全に首が締まったそうです」
老人は、事務所棟の入口に目をやった。
鉄枠のガラス戸の向こうに、蛍光灯の白さが滲んでいる。
鉄枠のガラス戸の向こうに、蛍光灯の白さが滲んでいる。
「どうやって上海まで渡った」
「性懲りもなく、その友人に泣きついたそうです。港の荷役の中に、うちと顔が利く男がいまして、そいつが上海行きの荷の中に一家を紛れ込ませました」
男は肩をすくめた。
「しかし、その友人――象牙の件では、金貸しと組んで荷のすり替えに関与していたようで。
おそらく勘づかれる前に、体よく追い出したかっただけでしょう」
おそらく勘づかれる前に、体よく追い出したかっただけでしょう」
「その友人がらみとなると……先物での失敗も何か裏がありそうだ」
老人は川風の匂いを吸い込んだ。
「共同出資の名目で、その友人に資金を預けていたようです」
「まれにみる“お人よし”だな」
老人は鼻で笑う。
「向こうの金貸しは、何と言った」
「『絞るだけ絞った。後はそっちで好きにしろ』と」
老人は、川風の向きを測るように息を吸った。
「やり口の割に、腹の小さい連中だ」
吐き捨てるように言ってから、男の横顔に目をやる。
「お前なら、どうする」
「利息と違約金を併せて、桁をいくつか増やします」
男は声をひそめた。
「文面は、おれに任せてもらえれば」
「任せる」
老人は歩を緩めない。
「その夫婦には、“捨て石”になってもらおう。日本の警察が喜んでかじりつくくらいに、太らせてやれ」
男がうなずく。
「あちらの面子を立てるための“餌”ですね」
「そういうことだ」
老人は短く答えた。
事務所棟の鉄のドアが、手下に開けられる。
中から、湯気とインスタント麺の匂いと、安い煙草の煙が流れ出た。
中から、湯気とインスタント麺の匂いと、安い煙草の煙が流れ出た。
*
一階は、事務机と木製の椅子が並ぶ事務室だった。
壁際の棚には分厚い綴じ込み書類やファイルが詰め込まれ、その手前に丸テーブルがひとつ置かれている。勤務明けの荷役たちが、そこで麻雀牌を指の腹で弾いていた。
壁際の棚には分厚い綴じ込み書類やファイルが詰め込まれ、その手前に丸テーブルがひとつ置かれている。勤務明けの荷役たちが、そこで麻雀牌を指の腹で弾いていた。
老人の顔を見ると、途端に会話を止めて口を閉ざす。
牌を軽く伏せて立ち上がり、視線だけが少し下へ落ちる。煙草の火が灰皿に押しつけられた。
牌を軽く伏せて立ち上がり、視線だけが少し下へ落ちる。煙草の火が灰皿に押しつけられた。
さきほどの男が、奥の階段に足をかける。
踏むたびに、古い釘と木が低くきしんだ。
老人は手すりに触れず、一定の歩幅でその後を上がっていく。
踏むたびに、古い釘と木が低くきしんだ。
老人は手すりに触れず、一定の歩幅でその後を上がっていく。
二階の廊下に窓はない。
裸電球が一本ぶら下がり、汚れた壁と扉の列を黄ばんだ光でなぞっていた。
裸電球が一本ぶら下がり、汚れた壁と扉の列を黄ばんだ光でなぞっていた。
明かりが漏れているのは、いちばん奥の応接室だけだった。
男が扉の前で立ち止まる。
「中です」
老人は軽く頷き、ノブを握った。
冷えた鉄が掌に張りつく。押すと、蝶番が短く鳴った。
冷えた鉄が掌に張りつく。押すと、蝶番が短く鳴った。
部屋には三人いた。
机の脇の椅子に、男がひとり。
四十代半ばほどで、ワイシャツは襟が黄ばんでおり、袖口もほつれている。
四十代半ばほどで、ワイシャツは襟が黄ばんでおり、袖口もほつれている。
その隣に、女がひとり。肘のあたりの布が擦り切れかけていた。
細い肩をすぼめ、胸元で握った指先から血の気が引いている。視線は定まらず、部屋のあちこちを忙しなくなぞっていた。
細い肩をすぼめ、胸元で握った指先から血の気が引いている。視線は定まらず、部屋のあちこちを忙しなくなぞっていた。
そして、奥の肘掛け椅子に、少女がひとり腰をかけている。
老人は一瞬だけ足を止めた。
両親のいでたちに対して、少女のワンピースは、皺こそ寄っているが、布地の色はまだきれいに残っていた。裾のほころびが、丁寧に縫い直されている。
歳は十代前半ほど。
色素の薄い栗色の髪。輪郭も目鼻立ちも、店先に並ぶ西洋人形のように整いすぎていた。
色素の薄い栗色の髪。輪郭も目鼻立ちも、店先に並ぶ西洋人形のように整いすぎていた。
その顔から、感情の色は読み取れない。
黒目がちのはずの眼差しは、部屋に入ってきた老人のほうへ、まっすぐ向いている。
瞳の表面はよく磨かれた石のように光を弾くのに、その奥で何を考えているのか、見当がつかなかった。
瞳の表面はよく磨かれた石のように光を弾くのに、その奥で何を考えているのか、見当がつかなかった。
あまりにも精巧なその造形は、まるで生気を感じさせない。
扉が閉まると、男と女の肩が同時に跳ねた。
男が立ち上がろうとして、椅子の脚を鳴らす。
男が立ち上がろうとして、椅子の脚を鳴らす。
「あの、その……」
声が裏返る。
「座ってなさい」
老人が言うと、男の膝から力が抜けた。
背もたれに押し戻されるように腰を落とす。
背もたれに押し戻されるように腰を落とす。
男は両手を膝に置き直した。
「……佐上 信太郎 と申します」
女も一度だけ老人を見てから、急いで視線を落とした。
「妻の、頼子 です」
名乗った途端、頼子の手に力がこもる。
爪が手の甲に押しつけられ、赤く筋があらわれた。
爪が手の甲に押しつけられ、赤く筋があらわれた。
老人は二人の顔を順に見た。
目の下の影、頬のこけ具合。酸っぱい汗と、乾いた衣類の臭いが、部屋の空気にこびりついている。
目の下の影、頬のこけ具合。酸っぱい汗と、乾いた衣類の臭いが、部屋の空気にこびりついている。
視線を少女へ移す。
「それは、娘か」
老人が問うと、頼子の喉が引きつった。
「……はい」
頼子はかろうじて声を出した。
「名は」
「花 です」
名を呼ばれても、少女は身動きひとつしない。
睫毛が一定の間隔で上下するだけで、そこに意味を探そうとしても、指が空をつかむような感覚しか残らなかった。
睫毛が一定の間隔で上下するだけで、そこに意味を探そうとしても、指が空をつかむような感覚しか残らなかった。
老人は、一度、夫婦へと視線を向けた後、少女へと視線を戻した。
そして、少女の全身を眺める。
そして、少女の全身を眺める。
「……お前たちに、まるで似ていないな」
ぽつりと言う。
夫婦の肩が同時に強張った。
背後から、コートの男が小さく口を寄せる。
「養子だそうです。数年前に上海で拾ったとか」
老人は、ほう、とだけ返した。
「あ、あの……!」
信太郎が、背筋を起こして声を張った。
「おれたちに何の用ですか」
老人は花から目を離し、信太郎の顔を見た。
「話は聞いた」
一拍置いてから、言葉を継ぐ。
「荷が、途中で消えたらしいな」
信太郎の肩が小さく揺れた。
「……はい」
「象牙だとか」
短い言葉に、信太郎の視線が机の上へ落ちる。
口を開きかけて、唇を結び直した。
口を開きかけて、唇を結び直した。
頼子が唇を震わせる。
「うちは、元々は雑貨だけを……」
老人は頼子をちらりと見やる。
「そうだな。大して金にならんものを買い付けて、こっちで捌いていた」
淡々と告げてから、言葉を続けた。
「だが、商売が少し回るようになり、欲をかいた」
信太郎の喉が、ひくりと動く。
「違います。欲をかいたつもりは……」
「先物に手を出し、負けた分を、さらに“取り返そう”と賭けた」
老人は、信太郎の言い分を一蹴する。
「それは……」
信太郎は机の下で拳を握った。
頼子は小声で「違います」とつぶやき、首をかすかに振る。
信太郎は悔しそうに眉を寄せた。
「今、友人が積み荷を探してくれています。それさえ見つかれば……!」
掠れた声なのに、言葉の端にまだ力が残っていた。
「その友人とやらに頼って、一度でも状況が好転したことがあったか」
信太郎の目が鋭く変わり、顔がかっと赤く染まる。
老人を睨むその目に、疑いの色はない。
老人を睨むその目に、疑いの色はない。
その滑稽さに、老人は小さく鼻で笑った。
「一度坂を転がり落ちた石に、天はわざわざ手を伸ばさん」
老人は淡々と続ける。
「お前たちは、自らの才覚を過信し、次こそは上手くやれると自惚れたのだ」
頼子の喉が、ひゅっと鳴った。
信太郎は、拳を持ち上げかけて、大きく息を吐いてうなだれる。
「債権は、向こうの金貸しがまとめたそうだな」
老人は、机から手を離した。
「だが、その額は臓器を売ったところで返せるものではない」
頼子が唇を噛む。
信太郎は顔を上げられず、膝の上で指を握りしめた。
信太郎は顔を上げられず、膝の上で指を握りしめた。
「それとも……」
老人は独り言のように言った。
「娘に稼いでもらうか?」
頼子の指がびくりと動く。
信太郎が思わず顔を上げ、奥の肘掛け椅子へ視線を走らせた。
信太郎が思わず顔を上げ、奥の肘掛け椅子へ視線を走らせた。
老人も、そちらへちらと目をやる。
ショーウィンドウから抜け出した人形のような横顔が、こちらを向いていた。
ショーウィンドウから抜け出した人形のような横顔が、こちらを向いていた。
少女の顔には、やはり感情の色が見えない。
「お金は必ず返します。いくらかかっても……だから、娘だけは」
信太郎が、机越しに身を乗り出した。
握った手の甲に、血管が浮き上がっている。
握った手の甲に、血管が浮き上がっている。
老人は、口元でだけ笑った。
「返すつもりなら、どうして国を跨いで逃げた」
信太郎の肩から力が抜ける。
視線が花のほうへ上がりかけて、途中で机の影へ落ちた。
視線が花のほうへ上がりかけて、途中で机の影へ落ちた。
頼子が机の端を掴み、声にならない息をひとつ噛みつぶす。
「娘に……」
頼子がようやく声を出した。
次の言葉が出てこず、指先だけが机の縁を強く掴み直す。
次の言葉が出てこず、指先だけが机の縁を強く掴み直す。
「いい暮らしをさせてやりたくて」
言葉を選び直したような言い回しだった。
机の板に、涙がぽたぽたと落ちて丸い染みを増やしていく。
机の板に、涙がぽたぽたと落ちて丸い染みを増やしていく。
「良い学校にも行かせたくて……でも、その前に、こんなことになって」
頼子は咽ぶ。
喉の奥が閉じたように、声が震えた。
喉の奥が閉じたように、声が震えた。
少女が、ほんのわずかに首を傾けた。
老人の顔を見ながら、初めて表情を変える。
老人の顔を見ながら、初めて表情を変える。
口の端が、探るように少しだけ持ち上がった。
笑おうとしているのか、自分でも試している最中なのか分からない、ぎこちない動きだった。
笑おうとしているのか、自分でも試している最中なのか分からない、ぎこちない動きだった。
信太郎が、かすれた声を搾り出す。
「巻き込みたくないんです。こういうことに」
老人は表情を動かさない。
「泣き落としか」
老人は、それだけを言った。
肘掛け椅子の上の少女は、変わらない姿勢でこちらを見ていた。
灯りの位置も影の付き方もさっきと同じなのに、目だけが、さっきよりも深く見える。
灯りの位置も影の付き方もさっきと同じなのに、目だけが、さっきよりも深く見える。
泣き声も怒鳴り声も映さず、ただ老人の姿だけを映している目だった。
やがて、老人は信太郎と頼子へ目を戻した。
「債権は、こちらで買い取ろう」
信太郎が顔を上げる。瞳の中に、わずかな光が走った。
「向こうでお前たちを追っていた連中には、話をつけておいてやる」
頼子の指先から力が抜けかける。
「じゃあ……」
息を吸い込む音だけが漏れた。
「ただし、帳消しになるわけではない」
老人は言葉を挟む。
「向こうは、違約金として“十億”を吹っかけてきた。当然ながら、お前たちを引き受けるならば、その額をこちらで立て替えねばならん」
信太郎の喉が上下した。
「そんな額、払えるはずが……」
「“逃げた分”の罰だと思っておけ」
老人は、冷えた声で言う。
「代わりに、お前たちの“名前と戸籍”を使わせてもらう」
返事の余地を残さない言い方だった。
「そして、明日からお前たちには人をつける」
頼子が顔を上げる。
「見張りですか」
「護衛だと言っておこう。まだ、向こうと話がまとまっていない」
老人は部屋を見回した。
「家族揃って舟山諸島の“海月”になりたくないなら、こちらの言うとおりに動け」
ひと呼吸置いて、老人は言葉を足した。
「それと、娘はこちらで預かる」
空気が一度止まった。
椅子が大きく軋む。
信太郎が反射的に立ち上がり、机に手を叩きつけた。
信太郎が反射的に立ち上がり、机に手を叩きつけた。
「それだけは――」
声が裏返る。
頼子も椅子を引きずる音を立てて立ち上がり、肘掛け椅子の花へ向かおうとした。
「花は連れていかないでください、お願いします」
扉のそばの男が、無言で一歩前に出る。
その影が頼子の前に割り込んだ。
その影が頼子の前に割り込んだ。
「どきなさい!」
頼子が叫ぶ。腕を伸ばし、花を抱きかかえようとする。
男はその手首をつかみ、そのまま捻った。
男はその手首をつかみ、そのまま捻った。
「っ――」
頼子の膝が折れる。
もう一人、廊下で待機していた手下が部屋に入ってきて、背中を押さえつけた。
もう一人、廊下で待機していた手下が部屋に入ってきて、背中を押さえつけた。
「やめろ!」
信太郎が机を回り込んでくる。
老人のほうではなく、花の椅子に手を伸ばした。
老人のほうではなく、花の椅子に手を伸ばした。
別の手が、その腕を横から払う。
横殴りの拳がみぞおちに入った。
横殴りの拳がみぞおちに入った。
信太郎の息が抜ける。
折り畳まれるように床へ倒れたところを、すぐに肩と肘を踏みつけられた。
折り畳まれるように床へ倒れたところを、すぐに肩と肘を踏みつけられた。
「離せ! 離せ!」
床に押さえつけられた体勢で、信太郎が叫ぶ。
頼子も床板に片頬を押しつけられ、なお顔だけを花のほうへ向けた。
頼子も床板に片頬を押しつけられ、なお顔だけを花のほうへ向けた。
「花! 花!」
花は動かない。
母のほうを見もしないで、ただ老人の顔だけを追っていた。
母のほうを見もしないで、ただ老人の顔だけを追っていた。
「花、逃げなさい!」
頼子の叫びが掠れる。
扉のそばの男が顎を振る。
「行くぞ」
別の手下が花の肘を乱暴につかんで引っ張りあげた。
花は、よろめきながら立ち上がる。
「やめろ、俺の娘に触るな!」
信太郎が暴れようとする。
肩に乗った膝が、容赦なく体重をかけた。骨が軋む音がした。
肩に乗った膝が、容赦なく体重をかけた。骨が軋む音がした。
「お願いです、花は――」
頼子の声が泣き声に変わる。
床にこすれた頬が赤くなり、そこへ涙が落ちた。
床にこすれた頬が赤くなり、そこへ涙が落ちた。
「大人しくさせろ」
老人が短く言う。
花の肘をつかんでいた手下が、彼女を部屋の外へ押し出した。
扉のすぐ内側で、父と母が床に押さえつけられた体勢のまま、喉を振り絞って花の名を呼んだ。
扉のすぐ内側で、父と母が床に押さえつけられた体勢のまま、喉を振り絞って花の名を呼んだ。
「花! 花! 花!」
扉の向こうに消える瞬間、花は声の方を振り返る。
指先が、わずかに持ち上がりかけて、その姿は階下に消えていく。
短い一瞥だった。
短い一瞥だった。
老人は、その様子を見届ける。
そして踵を返し、自分も扉の外へ出た。
そして踵を返し、自分も扉の外へ出た。
廊下側から扉が閉じられる。
厚い板の向こうで、まだ名前を呼ぶ声と、激しい靴音が混ざり合っていた。
厚い板の向こうで、まだ名前を呼ぶ声と、激しい靴音が混ざり合っていた。
階段を降りきったところで、男が口を開く。
「夫婦のほうは、どうしますか。
あの様子じゃ、少々手こずりそうですが」
あの様子じゃ、少々手こずりそうですが」
老人は足を止めない。
「白粉 を使え」
短く答える。
「そのうち、娘のことなど忘れて、薬ばかり気にかけるようになる」
そう言い捨てた。
男は、わずかに口角を引きつらせ、それから小さくうなずく。
「では、そのように」
外に出ると、黄浦江の風が顔を撫でた。
「……娘のほうは、どうしますか」
男が続ける。
「あの見た目なら、仕込めばいくらでも買い手がつきます」
老人の脳裏に、あの精巧な瞳がよぎる。
視線を下げて逡巡しかけるも、すぐに口を開く。
視線を下げて逡巡しかけるも、すぐに口を開く。
「好きに――」
――しろ。
そう言いかけたところで、老人はふと足を止めた。
背後から呼び止められた気がして、反射的に振り向く。
背後から呼び止められた気がして、反射的に振り向く。
そこには夜の闇とコンテナの影が広がるだけだった。
「この女は、誰だ……?」
そこには誰の姿もない。だが、老人はそう口にした。
隣の男もつられて同じ方向を見る。
隣の男もつられて同じ方向を見る。
「誰かいましたか?」
男は遠くの暗がりに目を凝らす。
「……俺、確認してきましょうか」
男は、数歩引き返しながら言う。
老人は、男の顔とそのすぐ傍に広がる暗がりを順に見比べる。
対岸のクレーンが黒い骨のように並び、川面の灯りを千切っていく。
老人の額に汗がじんわり滲む。
「いや、いい」
小さく首を振り、歩き出した。
「……お前には、あの娘はどう見えた」
老人の言葉に、男が少し息を継ぐ。
「実は」
男は、歩調を合わせながら続けた。
「上海に渡る少し前、“消えた”ことがあると」
「消えた」
「取り立て屋に連れ出されて、ひと月ほど行方不明に。両親の元に返された時には、既に心神喪失で――」
男は、意味ありげにほくそ笑む。
「一糸まとわぬ姿だったとか」
「……お前は“それ”で、あの娘が“ああ”なったと」
「ええ。ただ、売り文句には丁度いいかと」
老人は、鼻で笑った。
「売り方については、俺に――」
男が言いかける。
「早まるな」
老人は、男の言葉を遮った。
男は、驚いて目を見開く。
男は、驚いて目を見開く。
「あれは、お前には手に余る」
「……では、どのように」
男は目を細めて問う。
「あれは、“还魂 ”だ」
老人の表情がゆがんだ。
「あの娘は、私が預かろう」
老人は、もう一度闇の中へと目を向け、また歩き出す。
倉庫街の外で待たせてある車へ向かいながら、老人は背後からついてくる、もう一つの足音を数えていた。
*
車が倉庫街を離れると、川の匂いが少しずつ薄れた。
高架をくぐり、街灯の間隔が広がる通りへ出る。
高架をくぐり、街灯の間隔が広がる通りへ出る。
四十分ほど走ると、黄浦江と街を斜めに見下ろす丘に着く。
門柱のあいだから、黒い塀と庭木の影がのぞいていた。
門柱のあいだから、黒い塀と庭木の影がのぞいていた。
玄関前で車が止まる。
老人は先にドアを開け、足を下ろした。
老人は先にドアを開け、足を下ろした。
靴底の下で、石畳が乾いた音を立てる。
「娘は」
玄関の段差をまたぎながら、老人が問う。
「地下の牢へ」と、さきほどのコートの男が答えた。
「手は出してないな」
振り返らず、靴を揃えながら重ねて問う。
「娘にはまだ」
老人は相槌だけ打ち、外套を脱いだ。
肩から滑らせた布を、伸びてきた手にそのまま預ける。
肩から滑らせた布を、伸びてきた手にそのまま預ける。
侍従が無言で受け取り、廊下の奥へ消える。
廊下の絨毯は足を取るほど柔らかく、倉庫街の事務所棟とはまるで違う足ざわりだった。
足音はほとんど響かず、壁にかかった絵と古時計だけが目に入る。
足音はほとんど響かず、壁にかかった絵と古時計だけが目に入る。
客間の一角を過ぎ、奥まった扉の前まで来る。
扉の横には、女中がひとり立っていた。背筋を伸ばし、両手を重ねている。
扉の横には、女中がひとり立っていた。背筋を伸ばし、両手を重ねている。
「様子は」と老人。
女中は、口を開く前に一度だけ喉を動かした。
「変わりありません。しかし……」
視線が、足もとへ小さく落ちる。
「世話に入った者が、何人か頭痛や吐き気を訴えております。それと――」
言葉を選ぶように、指先を握り直した。
「着替えさせたとき、尾と羽のようなものが……」
女中はそこで口をつぐみ、息を飲み込んだ。
「……食事は」
老人は女中と目を合わせず、扉の向こうを見据えている。
「口をつけておりません」
女中の声が、少し先細る。
「分かった」
それだけ言って、老人は扉を押した。
中は階段だった。
石の段が下へ伸び、壁ぎわに裸電球が等間隔に下がっている。
石の段が下へ伸び、壁ぎわに裸電球が等間隔に下がっている。
「私が戻るまで誰も入れるな」
老人は男に視線だけ向け、そう告げる。
男が短くうなずき、扉を支えた。
老人は階段を降りた。
足を下ろすたび、ひんやりした空気が膝のあたりまで上がってくる。
足を下ろすたび、ひんやりした空気が膝のあたりまで上がってくる。
いちばん奥の鉄格子の前で、老人は足を止めた。
鍵束から一本抜き、迷いなく錠前に差し込む。
鍵束から一本抜き、迷いなく錠前に差し込む。
鍵を回す音が響き、重い扉が横へ引かれる。
牢の中には、ランプがひとつ吊られているだけだった。
薄い灯が、湿った壁と床の継ぎ目をぼんやり照らす。
薄い灯が、湿った壁と床の継ぎ目をぼんやり照らす。
少女は、壁際の寝台に腰をかけていた。
薄い寝巻きに着替えさせられ、両手首には鎖がかかっている。鎖の先は、寝台の金具につながっていた。
壁にも寄りかからず、手首から垂れた鎖が、膝のそばでかすかに揺れている。
薄い寝巻きに着替えさせられ、両手首には鎖がかかっている。鎖の先は、寝台の金具につながっていた。
壁にも寄りかからず、手首から垂れた鎖が、膝のそばでかすかに揺れている。
栗色の髪は肩のあたりできれいに揃い、根元から毛先までよく洗われたように光を返している。
その整った佇まいは、牢に投げ込まれても変わらない。
顔は、まっすぐ老人のほうを見ている。
老人が一歩入ると、目の焦点がはっきりと合う。
倉庫の応接室で見たときと同じ、その瞳はよく磨かれた石のようだった。
「寒くはないか」
老人は、何気ない調子で言った。
返事はない。
少女は瞬きするものの、作り物のようにじっとしている。
少女は瞬きするものの、作り物のようにじっとしている。
牢に足を踏み入れた途端、四方から視線を浴びているような落ち着かなさがあった。
壁の石目や床の水たまりが、目の端でときどき人影のように見える。
壁の石目や床の水たまりが、目の端でときどき人影のように見える。
老人は、それらに一つずつ目を向けながら、寝台の近くまで歩いた。
水たまりを避けるような足取りで、注意深く足を前に出す。
水たまりを避けるような足取りで、注意深く足を前に出す。
「日本で、一度消えたそうだな」
立ち止まり、世間話の続きをするような声で言う。
石の隙間にしみた水が、じわじわとにじんでいく。
「お前を連れ出した連中は、そのとき何をした」
老人は足もとの床を見た。
視線の先――少女の足元の寝台の下に目を凝らす。
視線の先――少女の足元の寝台の下に目を凝らす。
煤を丸めたような黒い塊が、床の隙間から押し上げられるようにふくらんでいく。
「私を殺せとでも、命じられたか」
老人の声は少し低くなる。
手のひらより少し小さい黒い塊が、いくつもいくつも湧いてくる。
赤子の形になり損ねたあぶくが、立ち上がろうとしては崩れていく。
いくつあるのか数え終える前に、次々と増えていく。
赤子の形になり損ねたあぶくが、立ち上がろうとしては崩れていく。
いくつあるのか数え終える前に、次々と増えていく。
「見えるか」
声の調子は崩さない。
「これが何か、お前は知っているか」
少女は答えない。
喉も唇も動かない。目だけが、鏡のように老人の姿を映している。
喉も唇も動かない。目だけが、鏡のように老人の姿を映している。
ランプの灯りが、風もないのに揺れた。
「呪術師から似たものを見せられたことがあるが……」
老人は少し黙り、それから続けた。
「お前は、“穴”にしては大きすぎるな」
老人は寝台のそばまで近づき、少女の顎を指でつまんで持ち上げた。
顔を近づけ、息がかかるほどの距離から、その瞳の奥を覗き込む。
まぶたのきわやこめかみを、傷や継ぎ目を探すように目で追い、短く言う。
顔を近づけ、息がかかるほどの距離から、その瞳の奥を覗き込む。
まぶたのきわやこめかみを、傷や継ぎ目を探すように目で追い、短く言う。
「上手く織り込まれている」
髪を耳の後ろへ払って、肌の色や生え際にも目をやる。
「人形師の腕がいいのか、それとも細工をした者の方か――あるいは素体か」
老人は少女のつま先から頭まで、値踏みするように目を動かした。
「海の向こうの連中の狙いくらい、ここまでくれば見える」
少女の視線を受けたまま、口だけが動く。
「……だいたい、どんな手を使ったかもな」
老人はゆっくり息を吸った。
「さて、どうしたものか」
小さく息を吐く。
足もとの塊が、ひとつ、老人の靴先に額を押しつけるように動いた。
重さはないのに、胸の奥がきつく苦しくなる。
重さはないのに、胸の奥がきつく苦しくなる。
「あの夫婦を使うと決めた時点で、罠に嵌っていたというわけだ」
そう言ってから、老人は少女に視線を戻した。
「殺したところで、中身が溢れるだけか。なら――」
そこで一度、言葉を切る。
老人は少女の顔を見た。
「手元に置いておくしかないな」
結論だけを、短く告げる。
手放すという選択肢は――。
手放すという選択肢は――。
――じわりと汗が額に滲む。
老人は小さく笑った。
既に毒は回っている。
時間をかけて解呪していくほかない。呪いを少しずつ別の場所へ散らしながら。
「佐上花と言ったな」
老人は、声を少し低くして尋ねた。
「向こうでは、冥府とのつながりを持ち、人を死に誘うものを“死神”と呼ぶそうだな」
少女のまぶたが、ほんの少しだけ上下する。
意味を取ったのか、音だけ聞き分けたのか分からない小さな動きだった。
意味を取ったのか、音だけ聞き分けたのか分からない小さな動きだった。
老人は息を吸う。
「お前は、災厄をばらまく死神だ」
低くはっきりと言って、床の黒い塊へも聞かせる。
足もとの塊は形を変えるが、消えはしない。
潰れて広がり、また少し盛り上がる。
潰れて広がり、また少し盛り上がる。
「日本での名は、もうお前には必要ない」
老人は牢の中を見回した。
「今からお前は――華だ」
少女――華の視線が、老人だけを映していた。
その名を聞いても、目の奥に色は浮かばない。
その名を聞いても、目の奥に色は浮かばない。
口の端が、探るようにわずかに動く。
そこに感情があるのかどうかは、見ているほうにも分からない。
そこに感情があるのかどうかは、見ているほうにも分からない。
「聞いているか」
老人が尋ねる。
華は、わずかに首をかしげた。
それが返事なのかどうか、自分でも決めていない角度だった。
それが返事なのかどうか、自分でも決めていない角度だった。
老人は踵を返し、牢の外へ出た。
鉄の扉を押し戻す手つきに、力みはない。
鉄の扉を押し戻す手つきに、力みはない。
鉄格子が閉まる音が、地下の空気を短く震わせる。
階段を上がるあいだも、華の顔が頭から離れなかった。
整った形の顔と、何の感情も灯さない目。
整った形の顔と、何の感情も灯さない目。
背中のあたりに、誰かがついてくるような重さが残る。
あの黒い塊の数と、これから付き合う年月を思い浮かべながら、老人は息を吐いた。
あの黒い塊の数と、これから付き合う年月を思い浮かべながら、老人は息を吐いた。
◇ ◇ ◇
改札を出ると、空気が変わった。
花は道を逸れ、路地裏へと身を隠す。
路地の先が白い。
太陽が低い。建物の隙間から通りの光が一本の帯になって差し込み、表通りと路地裏に線を引いている。
太陽が低い。建物の隙間から通りの光が一本の帯になって差し込み、表通りと路地裏に線を引いている。
花は胸ポケットへ指を入れる。紙の端が指先に当たり、白い名刺が掌に収まる。
黒い活字。短い番号。
光の帯が名刺の端だけをなぞって、文字が浮いた。
光の帯が名刺の端だけをなぞって、文字が浮いた。
端末を出す。画面が点く。
掌の内側が薄く白くなる。
掌の内側が薄く白くなる。
一桁ずつ番号を入れる。
数字が増えるたび、指の動きが慎重になる。
数字が増えるたび、指の動きが慎重になる。
発信の記号の上に指先が来た。
押し込む前に、指がいったん浮く。
押し込む前に、指がいったん浮く。
通りの雑踏が近い。笑い声、呼びかけ、車輪の音。
その合間に、歩行者信号の電子音が三つ刻みで混じる。一定の速さで、誰の都合も待たない。
その合間に、歩行者信号の電子音が三つ刻みで混じる。一定の速さで、誰の都合も待たない。
花は名刺をもう一度だけ見た。
活字を追うだけなのに、喉が乾く。息を入れ替える。
活字を追うだけなのに、喉が乾く。息を入れ替える。
端末へ目を戻す。
今度は押す。
今度は押す。
呼び出しのトーンが返る。等間隔で、耳の奥に届く。
一回。二回。三回。
一回。二回。三回。
トーンが止まる。
返事の前に、細い空白が落ちる。
返事の前に、細い空白が落ちる。
小さなクリックが入った。
花の唇が形を作りかける。
言葉の頭が出る前に、足が動く。
言葉の頭が出る前に、足が動く。
光の帯へ半身を出した。
影の縁が足首からほどけ、頬にあたたかさが触れかける。
影の縁が足首からほどけ、頬にあたたかさが触れかける。
そこで、背中側の服がきゅっと引かれた。
後ろから腕が回り込む。
肘が肋に食い込み、息が詰まる。
肘が肋に食い込み、息が詰まる。
雑踏が、すぐ隣で続く。
信号の電子音が規則正しく刻む。
信号の電子音が規則正しく刻む。
口元に布が押し当てられた。
鼻の奥がつんとする。
鼻の奥がつんとする。
花は端末を持った手を上げようとして、指が空を掴む。
端末が手から抜ける。石に当たって一度だけ鳴り、そのまま光の帯のほうへ転がった。
端末が手から抜ける。石に当たって一度だけ鳴り、そのまま光の帯のほうへ転がった。
落ちた端末が、境界の向こうで太陽を返す。
花はそこへ手を伸ばす。
花はそこへ手を伸ばす。
指先が届く前に、路地の陰へ身体ごと引き込まれた。
◆
新月の夜。
黄浦江の上には月がない。
低い雲がたまり、対岸の灯りだけが水面を細く擦っていた。
低い雲がたまり、対岸の灯りだけが水面を細く擦っていた。
古い桟橋の鉄骨が、黒い影の束になって立っている。
フェンスの金網には、褪せた警告札と、祝典の紙吹雪がいくつも貼りついていた。
フェンスの金網には、褪せた警告札と、祝典の紙吹雪がいくつも貼りついていた。
パトカーの車内で、無線機のスイッチが入る。
ざらついたノイズが一度だけ走った。
ざらついたノイズが一度だけ走った。
「指挥中心」
警官無線がひびいた。
「こちら江岸巡逻27号车。状況報告」
エピローグ 夢の終わりはいつも
ガタン、ゴトンと、車体が継ぎ目を踏む。
等間隔の揺れに身を預けて、現実の花は夢を見ていた。
等間隔の揺れに身を預けて、現実の花は夢を見ていた。
宇宙は、嘘みたいに騒がしかった。
爆発と衝撃が続いて、頭の中ががんがんする。
爆発と衝撃が続いて、頭の中ががんがんする。
黒い岩の塊みたいな衛星《星の岩屋》が、虫みたいな機械を地上へ降らせている。
その手前で、師匠の都市捕獲衛星が巨大な人型ロボットに変形して、半透明の殻を広げて受け止めていた。
その手前で、師匠の都市捕獲衛星が巨大な人型ロボットに変形して、半透明の殻を広げて受け止めていた。
虹色の膜が、しゃぼん玉のように上海を包む。
街ごと、すこしだけ地球から持ち上げられている。
街ごと、すこしだけ地球から持ち上げられている。
《首の皮一枚ってとこだね》
師匠の声が、巨大ロボから聞こえる。
《弟――七鴉翁が上海を機械の星に変えようとしている。私はここで押さえるから、地上は――》
虹色の殻のいちばん近く。
第十六上海天空樹塔 の先端に、栗色の髪の少女が立っていた。
《――きみに任せた》
清王朝のダイヤを握りしめた、もう一人の「自分」が顔を上げる。
「はい、師匠……!」
少女は足もとを確かめるように踏みしめた。塔の先端を抜ける風が、栗色の髪をうしろへ流していく。
*
第十六上海天空樹塔 の根元に、人影があった。
塔は六百三十五メートル。
さっきまで「近日オープン」の横断幕をぶら下げていた最新式の電波塔だ。
さっきまで「近日オープン」の横断幕をぶら下げていた最新式の電波塔だ。
並ぶ顔ぶれを見ると、見た目も肩書きもばらばら。
それでも、上海――いや地球の危機にそれぞれが利害を超えて集まってきていた。
それでも、上海――いや地球の危機にそれぞれが利害を超えて集まってきていた。
《よし、人員配置確認。……うん、なかなかの顔ぶれだね》
頭の奥で、師匠の声がした。
宇宙からの、雑な業務連絡だ。
宇宙からの、雑な業務連絡だ。
空は、まるでオーロラに包まれたみたいに、虹色の膜で覆われていた。
師匠曰く、宇宙から見ると、上海ごとお椀をかぶせたみたいな状態らしい。
《上海版アベンジャーズ最終決戦みたいだね》
ひと呼吸置いて、師匠が続ける。
《ついでに報告。上海は現在、地球のちょっと外側に退避中。物干しざおに引っかかった洗濯物だと思ってくれたまえ》
死神ちゃんこと――花は、膜の向こうにかすむ地球を見上げた。
青い球が、遠い。
青い球が、遠い。
これ、ひっくり返ってないか。
「……物干しざおっていうか、UFOキャッチャー――それも“ぬいぐるみ”の方ですよね」
口に出してみると、すぐ返事が飛んでくる。
《そういうことー。大丈夫、世界はいつもどこか、だいたいおかしいから》
師匠の声は、妙に楽しげだった。
《今さらちょっと、天地がひっくり返ったところで、そうそう終わらないよ》
「説明になってません」
花がこぼすと、師匠があっさり話題を変えた。
《そんなことは些細な問題だよ。目下の優先事項は――》
そこで、わざとらしく間が空く。
《――酸欠問題なの》
「……はい?」
花が眉を寄せるより早く、追い打ちがくる。
《“環境制御モジュール ”……うっかり積み忘れちゃった(´>ω∂`)ゝ》
花の足がふらつく。
空気の薄さが、急に気になってくる。
「……つまり」
花は、掌のダイヤを握りしめた。
清王朝のダイヤ。ビー玉より少し大きい、透明な石。
無数のひびが、塔の照明を拾って光る。
無数のひびが、塔の照明を拾って光る。
「酸素がなくなる前に、ぜんぶ終わらせないと」
花は拳を握りしめた。
瞼の裏には、さっき流し込まれた作戦パワポ(師匠製)の残像が、まだちらついている。
それは、なんともバカげた 計画だった。
大雑把に言えば、第十六上海天空樹塔 を延ばして宇宙まで届かせようというものだ。
師匠は《まるで“ジャックと豆の木”みたい》と笑ってたけど、花の脳裏には“バベルの塔”の逸話がよぎった。
てんでバラバラなみんなの力を合わせて、空のかなたにダイヤを打ち上げる。
そして、全ての黒幕である七鴉翁が操る“星の岩屋”にダイヤをぶつけて撃ち落とす。
本当にうまくいくのだろうか。
しかも、肝心のダイヤは、死神こと――花の手に宿ってる。
「……もうちょっとどうにかならなかったんですか」
心の中で突っ込むと、師匠の声がすぐ返ってきた。
《シンプルでいいだろう?》
軽い調子は変わらない。
《飛んで、ぶつかる。それだけ》
「人選のことです」
花が言うと、向こうでくすっと笑う気配がした。
《大事なのは、そこを任されてるってことさ》
師匠は、さらっと言う。
《他の連中がどれだけ暴れても、いちばん前に出るのは弾頭だからね》
「……それ、玉砕覚悟ってやつですか」
花は、掌の石を握り直した。
ひびの入ったガラス玉が、骨のところに当たる。
ひびの入ったガラス玉が、骨のところに当たる。
「でも、やります」
小さく言ってから、顔を上げる。
塔の前に立つ面々を、順番に見回した。
塔の前に立つ面々を、順番に見回した。
◇
「おーし、聞いたか小妹妹。話はわかったな」
張三が、肩をぐるぐる回した。
白髪まじりの大男が、鉄骨の森を見上げて笑う。
白髪まじりの大男が、鉄骨の森を見上げて笑う。
「ええと……“だいたい”ですね」
林希美が、メモ帳を見下ろす。
「第十六上海天空樹塔を、鉄の骨組みごと引き延ばして……」
自分で読み上げながら、書いた内容の無茶さをもう一度かみしめる。
「天まで届く張りぼてにする、ってな」
張三が、鉄棍を地面に突いた。
カン、と澄んだ音が鳴る。
カン、と澄んだ音が鳴る。
塔の中心に掌を合わせ、張三は、鼻から長く息を吐いた。
塔全体が、ぞわりと震える。
塔全体が、ぞわりと震える。
塔が空に向かって、ぐにゃあ、と伸びていく。
「よく伸びる鉄だ。さすが、手間かけて建てただけはある」
張三が、感心しているのかどうか分からない台詞を発する。
「褒めてるようで褒めてないです、それ」
希美が、小声で返した。
塔の外壁が、張三の力で薄い膜みたいに引き延ばされる。
空へ、空へ、細い線になって延びていった。
空へ、空へ、細い線になって延びていった。
「ほんとにここから向こうまで届くんですか」
希美が、塔を見上げた。
「どれだけ薄く伸ばそうが、鉄は鉄さ」
張三が、笑う。
「ちぎれたら、そのときはそのときだ、小妹妹」
張三の言葉に、希美は首を振る。
「……でも、張哥なら本当にやってしまいそうな気がします」
もう一度、塔の先を目で追う。
その行き先には、黒い球体――“星の岩屋”が浮かんでいる。
その行き先には、黒い球体――“星の岩屋”が浮かんでいる。
「張三、お前がそれではどうするのだ」
ふいに拳狐が、狐面の下から声をかける。
長いコートの裾が、風をはらんだ。
長いコートの裾が、風をはらんだ。
希美の視線の先に、拳狐と炎嵐が並んで立っていた。
二人は発射台担当。
塔改め――“軌道エレベータ ”となった第十六上海天空樹塔。
塔改め――“
その中を駆け上る予定の“巨大ワニ ”に文字通り勢いをつける役割だ。
「ところで红虎。発射の瞬間、拳を合わせるのは己か、お前か」
「オイ、何言ってんだお前は」
「どちらの拳を基準とするか。“覇”あるほうに、もう一方が従う。
――そういう勝負をしてみぬか」
――そういう勝負をしてみぬか」
「うるせえ! 今それどころじゃねえだろうが!」
炎嵐が、額に青筋を浮かべて、拳狐を指さした。
「いいか、師匠の合図と花のカウントに合わせんだよ! テメェのタイミングに合わせるんじゃねえ!」
「ふむ……火急なればこそ、流れに身を任すべきというわけか。面白い」
「うるせえキツネ野郎!」
炎嵐の声が空高く轟いた。
今日は、その拳が「列車 」を空高く打ち上げる。
今日は、その拳が「
◇
「ドレスの仮縫い、完了っと」
白髪黒羽が、塔の一階に開いたハッチをくぐった。
「“天まで届くウェディングドレス”ってイメージ。どうよ、我ながらロマンチックじゃん?」
黒羽が、口の端を上げる。
塔の一階部分は、張三の手で別物になっていた。
吹き抜けだったロビーの柱をへし曲げて、太い肋骨みたいな補強が入っている。
吹き抜けだったロビーの柱をへし曲げて、太い肋骨みたいな補強が入っている。
真ん中には、鉄筋と配線を組み合わせた操縦席。
巨大ロボの胸部みたいなフレームの真ん中に、コクピットがはめ込まれている。
巨大ロボの胸部みたいなフレームの真ん中に、コクピットがはめ込まれている。
「うふふ。わたしが着るのよ。手を抜いたら許さないから」
喬芽芽が、ハッチの縁を蹴ってコクピットに飛び込んだ。
カルミアの手を引いて、二人並んで前方モニターの前に立つ。
カルミアの手を引いて、二人並んで前方モニターの前に立つ。
白と銀のレース模様が、細長く引き延ばされた塔全体を包み込む。
塔を見上げるすべての者に、巨大なドレスのイメージが縫い込まれていく。
塔を見上げるすべての者に、巨大なドレスのイメージが縫い込まれていく。
「これが、そうなのですね」
カルミアが、モニター越しに塔を仰ぐ。
目線は、その先――星の岩屋の方角へ向いている。
目線は、その先――星の岩屋の方角へ向いている。
「芽芽。こんな作戦がうまくいくのでしょうか」
「あら、心配?」
芽芽が、スカートの裾を軽く翻す仕草をしてみせる。
「あなたは私の隣っていう特等席で、誰よりも可愛い私を見ていて。私より可愛いが存在すると思う?」
カルミアの口元がほころぶ。
「……ええ。頼りにしています」
白髪黒羽が、コクピットの壁に手を触れた。
喬芽芽の視界いっぱいに細い光の筋が、レースをかけるように広がっていく。
喬芽芽の視界いっぱいに細い光の筋が、レースをかけるように広がっていく。
「ふふん。最高」
ドレスは、芽芽の体に、驚くほどぴったりと馴染んだ。
「誰も私 を傷つけることなんて出来ない」
芽芽は、胸の前で指をそろえる。
「だって、私、世界一かわいいんだから」
《創造上の想像力》で込められた特大ドレスのイメージ。
《可愛いから無敵》の能力。
《可愛いから無敵》の能力。
ふたつの魔人能力が重なる。
コクピットからは、今にもちぎれそうな鉄の糸が天高く延びている。
だが、少なくとも芽芽とカルミアの目には、それは、ゆらゆら揺れる白いドレスのレースにしか見えなかった。
だが、少なくとも芽芽とカルミアの目には、それは、ゆらゆら揺れる白いドレスのレースにしか見えなかった。
◇
「花」
亀岩が、花の前に立った。
大きな手が、ぐいと差し出される。
大きな手が、ぐいと差し出される。
「腕、貸せ」
花は、少しだけ迷ってから袖をまくった。
晒された肌に、亀岩の指先が触れる。
晒された肌に、亀岩の指先が触れる。
光る紋が、甲羅のような形で浮かび上がる。
玄武印が、皮膚の下へ沈んでいった。
玄武印が、皮膚の下へ沈んでいった。
「……向こうは、対艦レーザーか。ま、一発くらいは凌げるだろ」
亀岩が、真顔で言う。
「……心強いような、そうでもないような」
花が苦笑すると、亀岩も口元だけで笑った。
「まあ、絶対無敵の盾って訳にはいかねえが、無いよりはマシだろ!」
そこへ、桃猫が身を寄せる。
「ダイジョーブアル、花」
上目づかいで、にこっと笑う。
「グイェンの加護、ちょっとやそっとじゃ割れないネ」
桃猫は不安そうに肩をすぼめる花の背中をパンと叩いた。
「大丈夫! グイェンを信じるアルよ」
花は、玄武印が沈んだ腕を見下ろした。
握った指先に力を込める。
握った指先に力を込める。
「必ず帰ってきます」
「おう! 桃猫とここで待ってるからな」
亀岩は大きく胸を張った。
◇
《そうそう。宇宙まで道が続けば、だいたい何とかなる》
都市捕獲衛星のモニター越しに、下山師匠が鉄の糸を眺めていた。
花の視界にも、映り込んでいる。
花の視界にも、映り込んでいる。
「道っていうか、ただばか長いチューブですよね」
《塔もエレベーターも配管も同じ。同じ“穴”。
穴は、“通り道”であり、世界はだいたい道でできてる》
穴は、“通り道”であり、世界はだいたい道でできてる》
「発想がもう宇宙人なんですよ」
花のぼやきが、何人かの頭で同時に再生された。
《よし、あれは配管。スパイク、どう?》
『通れる。長いからわくわくする』
スパイクの体が、鉄の糸にすべり込んでいく。
◇
「じゃ、列車役はボクだね」
スパイクが、大きな尾をぱたんと揺らした。
ヨウスコウアリゲーター。体長五メートル。
ヨウスコウアリゲーター。体長五メートル。
「メーメー、聞こえる?」
スパイクの声が、頭の中に響く。
「聞こえてます。視界も共有できています」
恋辻メーメーは、耳元を軽く押さえた。
髪を束ね直し、双喜と花のほうへ向き直る。
髪を束ね直し、双喜と花のほうへ向き直る。
「スパイクは、塔の中を一番速く駆け抜けられます」
落ち着いた声で言う。
「わたしが合図を出しますから、双喜さんは花さんを抱えて、スパイクの口の中に入ってください」
「宇宙行きワニ特急、人生プランになかったけど――レア体験は大歓迎!」
双喜は楽しそうに跳ねている。
花は、双喜を見つめる。
何か口を開きかけて、口をつぐむ。
何か口を開きかけて、口をつぐむ。
黙ってうつむいていると、双喜の顔が近くにあった。
花の顔をじっと覗き込んでいる。
「花ちゃんは、そう思わない?」
双喜は、にこりと笑う。
「ワニ列車で宇宙まで。フィナーレを飾るにはちょうどいい花火だよ」
花の手を握る。
「ほら見て、欲望の流れが渦を巻いてる」
もう片方の手で、星の岩屋を指さす。
「大丈夫。星の岩屋も、七鴉翁の欲望も、この双喜が、ぜんぶまとめていただきまーすってね」
《そろそろ、みんなの準備が終わるようだよ》
師匠の声。
《きみも――》
不意に師匠の声に別の声が割り込む。
《私の欲望を喰らう、か。若いな》
七鴉翁の声だ。
芝居がかった、冷ややかな響き。
芝居がかった、冷ややかな響き。
《欲望とは、かくも――》
花は慌てて通信を切り替える。
「師匠、伝言です」
花は、空を仰いだ。
「七老爺が、“若い”って。あと“欲望とは、かくも”と」
師匠の声が、すぐ重なる。
《よし、そのへんで切っとけ》
短く言い切ってから、ひと言おまけを乗せた。
《どうせ長くなるから》
「……了解です」
花は、息を吐いた。
◇
そして――
「カウントダウン用意」
花は、自分の胸に手を置いた。
空の向こう。虹色の膜のさらに先。
黒い球体、星の岩屋が、じっとこちらを見下ろしている気がする。
黒い球体、星の岩屋が、じっとこちらを見下ろしている気がする。
都市捕獲衛星(師匠操縦)のモニターに、赤い文字が走った。
《ERROR:環境制御モジュール未検出/推定安全時間:08分30秒》
師匠の声が、全員の頭に響く。
《――じゃ、始めようか》
どこか浮かれた調子は崩れない。
《空まで一本、きれいな道が引けたしね》
《作戦名、『グッバイ・シャンハイ』》
《作戦名、『グッバイ・シャンハイ』》
「縁起でもないこと、言わないでください」
花が突っ込む。
下山アンドロメダは、笑ってごまかした。
《細かいことはいいの!》
すぐに、花へ向き直る気配がする。
《弟子、号令お願い》
花は、空を見上げた。
夜の帳が下りる。
星が瞬く。
星が瞬く。
これは夢かもしれない。
でも、もう迷わない。
でも、もう迷わない。
「……行きます」
花は、声を張った。
「発射台、用意!」
炎嵐と拳狐が、拳を構える。
スパイクの尾が、地面を叩いた。
振動が、その口の中にも伝わってくる。
振動が、その口の中にも伝わってくる。
「カウント、開始――」
花は、息を吸い、数字を刻んでいった。
「10」
スパイクの喉がぐるると鳴った。
「9」
塔の先端が、星の岩屋の影と重なる。
「8」
息を吸うたび、肺の奥がひきつる。
指先の感覚が、すこし遠のいていく。
指先の感覚が、すこし遠のいていく。
「7」
視界の端が、じわっとにじんでいく。
「6」
カルミアの指が震えていた。
芽芽は、その手に指を絡ませると、ぐっと握りしめる。
カルミアも、遅れてぎゅっと握り返した。
芽芽は、その手に指を絡ませると、ぐっと握りしめる。
カルミアも、遅れてぎゅっと握り返した。
夜空に白いドレスの裾がひらめく。
「5」
亀岩は、拳を握りしめた。
桃猫が、すぐ隣で小さく息を詰める。
桃猫が、すぐ隣で小さく息を詰める。
「4」
双喜が、空をあおぐ。
「……ん、来た来た」
双喜が目を細める。
「何が?」
花が問う。
「欲望の流れが、一本の道みたいに延びてきてる」
「3」
拳狐が、足を踏み込んだ。
腰を沈めて、拳に全身の重みを預ける。
腰を沈めて、拳に全身の重みを預ける。
炎嵐が、同時に拳を握る。
赤いシャツの下で、血が灼ける。
赤いシャツの下で、血が灼ける。
「2」
コクピットの外から、白髪黒羽がひらひらと手を振った。
「1」
虹色の膜が、弾けた。
星の岩屋が、ぐっと近づく。
星の岩屋が、ぐっと近づく。
モニターの赤い表示が、花の視界の端をかすめた。
《ERROR:環境制御モジュール未検出/推定安全時間:00分05秒》
花は、胸の奥を確かめた。
ひびの入ったガラス玉が、掌の中であたたかい。
ひびの入ったガラス玉が、掌の中であたたかい。
「――ゼロ」
次の瞬間。
拳狐が一撃を放つ。
炎嵐が、灼けた拳を叩きつける。
拳狐が一撃を放つ。
炎嵐が、灼けた拳を叩きつける。
その衝撃を、スパイクの尾がばねみたいに受け止めて、上向きの勢いに変える。
「いっけええええええ!!」
双喜が叫んだ。
スパイクを車体にした「列車」が、張三が延ばした道に沿って、
星の岩屋へ――
星の岩屋へ――
撃ち出された。
重力の感覚が、遅れてついてくる。
街の灯りが、きらめきながら遠ざかっていく。
街の灯りが、きらめきながら遠ざかっていく。
花は、目を閉じた。
胸元でダイヤをぎゅっと握りしめる。
胸元でダイヤをぎゅっと握りしめる。
じんわりと温かい。
これは夢かもしれない。
でも、確かにここにいる。
でも、確かにここにいる。
このぬくもりだけは、本物だと思えた。
fin.