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ダンゲロスSS上海
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ダンゲロスSS上海

【観客不在のエンドロール/一人芝居】

最終更新:

dangerousss_shanghai

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<これまでのあらすじ>
 屋台街で華は、“今夜だけの红虎”ギャラハッドと協力して群集事故を止めた。
 騒ぎがおさまったあと、華は“ダイヤ”越しに満月を見上げていた。そこへ、万事屋・白髪黒羽が現れる。
「劉炎嵐って、知ってるか?」
 そう問われた華は、思わず「……炎嵐、くん?」と答えてしまう──




 ◇ ◇ ◇



「……炎嵐、くん?」

 言った瞬間、華ははっと息をのんだ。
 頬から血の気がすっと引いていく。

「へえ」

 女が短く息を漏らした。
 視線が、華のほうに向く。

「“炎嵐くん”、ね」

 軽い調子で言った。
 何かをはかるように、女は華をじっと見る。

「あ、いえ、その……」

 華は言いよどんだ。

 指先に力が入る。
 握った掌の中で、ガラス玉が転がる。

 咄嗟にあたりを見渡す。
 すぐそばの細い路地に、目が止まった。

 華は、女のほうへ一度だけ頭を下げる。
 それから、そちらへ背を向けて歩き出した。

「別にさ」

 背中に声が飛んできた。
 華の肩がびくりと揺れる。

「アンタを、とって食おうってつもりはないよ」

 華は振り返らなかった。
 足取りが、わずかに早くなる。

「十六年前――」

 華の足が止まった。
 視線だけ足もとに落とす。

「春節の夜に一緒に歩こうって約束をさ」

 視界の端が、ぼんやりとにじむ。
 華は唇をかんだ。

「今でも、酒の席でこぼす男がひとりいる。
 そのまま行方が分からなくなったガキの話をね」

 喉のあたりがきゅっと強張る。

 背後から、ゆっくりとした靴音が近づいてくる。

 華は胸元に手を置き、ぎゅっと力を込める。

「そいつから、アタシが頼まれてるのは一個だけだ」

 華は、しばらく顔を上げなかった。

「“あの夜に何があって、いまどこにいるのか”。それが分かればいい」

 華はゆっくりと振り向く。
 女は、もう手を伸ばせば届く距離に立っていた。

 内ポケットから抜いた名刺を、胸の高さでひらりと上げて見せる。
 白い地の中央に、《万事屋 白髪黒羽》の活字があった。

「もちろん、アンタが“知らぬ存ぜぬ”で通すってんなら、それでもいい」

 女は、片方の肩を軽く上げる。

「そのときは、アタシは“見失いました”って報告するだけさ。
 自分を振った女に振った理由を聞きたがるような野暮な男と、もう関わりたくねえってんなら、アタシがうまく言いくるめてやってもいい」

 華は、差し出された文字を見つめた。
 胸の中で、呼吸の回数を数えるみたいに、何度か小さく息をやり直す。

 ようやく指を伸ばし、名刺の端をつまんだ。

「……これ、預かってもいいですか」

「ああ、もちろん。
 何か困りごとがあれば、いつでも連絡してきな」

 女は、それ以上は何も言わない。

 華は名刺を胸ポケットに押し込んだ。

「失礼します」

 華は頭を下げ、踵を返した。

 数歩だけ歩いてから、立ち止まる。
 振り向くかどうか、迷うみたいに肩がわずかに動く。

「あの……」

 華は、横顔だけを女のほうへ向けた。

「一番大事なとこ、勘違いしてますよ」

 女が片眉を上げる。

「だって、あの夜待ちぼうけしてたのは、こっちだから」

 言ったあと、華は視線を路面に落とす。

「だから、もし“どっちが振られたか”って話なら……答えは、たぶん決まってます」

 最後の一語だけ、声がわずかに小さくなった。
 口元だけが、少しだけ笑いかけた形になる。

 華は通りのほうへ向き直る。

 暗がりに小さな背中が溶けていく。

 女は、その背中を眺めていた。

「《電梟》、聞こえるか」

 耳の奥で、微かなノイズが混じる。

《……マジで行かせちゃっていいんすかね》

 双葉の声が、少しだけ迷うみたいに震えた。

《今ならまだ、追いつける距離っすけど》

 女は、華が曲がっていった路地のほうを見た。
 提灯の切れ間に浮かぶ月が、さっきより高い位置にある。

「やめときな」

 短く息を吐いた。

「無理に口を割らせても仕方ねえだろ」

 欄干の向こう、川面に映った明かりが、風で揺れる。

「それに……どうやら見られてるみてえだからな」

《……っすね。こっちでも調べときますわ》

 少し間を置いてから、双葉が続けた。

「頼んだよ、《電梟》」

 女は、もう一度だけ人波のほうを見た。
 栗色の髪を探しかけて、やめる。

「炎嵐くん、ねえ」

 頭上には、提灯の隙間から白い月が覗いている。


終幕:【慈烏】


 黄浦江の水面が、窓の向こうでゆっくりと色を変えていた。
 日が傾きはじめ、川の光が薄くなるぶんだけ、庭の砂利が白く浮き上がって見える。

 梧桐の枝に、(からす)が一羽とまっていた。
 もう巣を作る時期ではないはずなのに、嘴の先に細い枝切れをくわえている。

 枝切れの先には、ごく小さな木の実がひとつついていた。
 (からす)は首をひねり、枝切れごと一度ついばむ。

 いらなくなった枝だけが、足もとへ落ちた。
 残った木の実が、嘴の先で小さく揺れる。

 (からす)は、それをいったん喉の奥へ送ってから、梧桐の幹の陰へ身を乗り出した。
 枝の影に、もう一羽、羽の先がところどころ抜けた大きな(からす)が、丸くうずくまっているのが見える。

 先にいた(からす)は、うずくまった(からす)の背のあたりへ嘴を寄せた。
 喉の奥から木の実を押し上げ、ひと粒だけ、口移しで渡す。

 窓際の椅子に腰掛けていた老人が、そこで小さく笑った。
 喉の奥で、短く息が弾く。

「……見たかね、華」

 呼びかけに、少女が上体をわずかに起こした。
 両手の甲を重ね、膝の上で指先をきちんと揃える。

「はい。木の実を、分けていました」

 華は、梧桐の枝のあたりを目で追いながら答えた。

「そう。中国ではね、ああいうのを“慈烏(じう)”と言うんだよ」

 老人は、肘掛けに手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
 歩幅は大きくない。足音より先に、衣擦れの音が一定の間隔で続く。

「親に口移しで餌をやる(とり)だ。親孝行の象徴だと、言い伝えられておる」

 窓枠のそばまで進み、梧桐の枝を見上げる。
 枝の上で、(からす)が丸く身をふくらませていた。

「……似ていると思わんかね」

 老人は、まだ枝から目を離さない。
 細めた目尻に、うっすらと笑い皺が寄る。

「遠くまで飛んでいって、集めたものを少しずつ持ち帰るところなど」

 言葉をそこで切るあいだに、窓ガラス越しの光がもう一段やわらいだ。
 黄浦江の水面が、さっきより深い色をまといはじめている。

「うちの慈烏(じう)も」

 華は、小さく息を吸った。
 視線を膝のあたりへ落とし、首をわずかに横へ振る。

「そんな、大げさなものじゃないです」

「大げさでなければ、親孝行ではないという決まりもないよ」

 老人――七鴉翁は、片方の肩を軽く上げてみせた。
 それから振り返り、細い指で手をひとつ打つ。

 奥から、使用人が一人、音を立てずに現れた。
 盆の上に、茶托と小さな茶壺、それから薄手の白磁の茶杯が載っている。

 低い卓の上に、茶托と茶壺、茶杯が順に置かれていく。
 淡い色の茶が、細い筋になって茶杯へ流れ込んだ。湯気は縁のあたりでほどけ、すぐに薄まる。

 翁は卓のそばの椅子へ腰を移し、華と向かい合う位置についた。
 両手を卓の端に寄せ、向かいの顔をうかがう。

 華も少し腰を引き寄せ、椅子ごと身体の向きを卓のほうへ向けた。

「よく戻ってきたね」

 翁の手が茶杯に伸びる。
 茶杯を片手で支え、もう片方の指先を縁に添えた。

「……ただいま戻りました」

 華は、ひと呼吸置いてから答えた。
 重ねた指先に、きゅっと力を込める。

「それで、ご両親は息災だったかね」

 翁が、茶杯を口元へ運びながら、視線だけ華へ送った。

「……はい。おかげさまで、施設の方たちも優しい人が多くて……」

 華は、卓の上の自分の茶杯に目を移した。
 片手を伸ばし、縁に指先をそっと寄せる。

「よく歩いて、よく食べて、よく眠ってるって」

「ふむ。それなら、結構なことだ」

 翁は一度目を閉じ、短く息をこぼした。
 それから茶杯を傾け、小さくひと口だけ喉に送る。

「娘のことは、覚えておったかね」

 茶杯を卓へ戻しながら、問いを足した。

 華は、湯面の色を見つめた。
 縁に触れた指先が、ぴくりと小さく震える。

「……調子のいい日は、って聞きました」

 そこまで言うと、華の唇がぴたりと閉じた。
 湯の中で回る茶葉を目で追う。

 翁は、それ以上問いを重ねなかった。
 自分の茶杯に目だけ落とし、もう一度、短く息を吐く。

「今回は、どこだったかな」

「西のほうが多かったです。ロンドンから入って……それから、もっと北へ」

 華は、記憶をたぐるように顔を上げた。
 天井のあたりを一度見てから、言葉をつなぐ。

「本当は、そのままシベリアを経由して、日本に立ち寄ってから戻る予定でした。
 でも、ロシアの手前で足止めになって、迂回することになって……」

 一息ついて、視線をまた茶へ落とす。
 茶の表面が、かすかに揺れた。

「いちど南へ回って、シリアからは陸路で戻りました」

「ふむ」

 翁は肘掛けに片肘を預け、もう片方の手で茶杯の高台を支え直した。

「ここ五十年ほど、お前に歩かせてきたのは、戦と災いの地ばかりだね」

 華は、縁から手を離した。
 膝の上で両手を揃え直す。

「“使い”からお前の近況を聞くたびに、つい余計な“土産”を言づけてしまう」

 翁は、卓上の茶杯をいちど見やり、独り言のように続けた。

「……あの街の“王冠”も、あの国の“涙”も」

 言い終えるころには、視線が華の足元へ落ちていた。
 そこには、使い込まれた厚手の布の鞄が置かれている。

 金具の欠けた懐中時計。ひびの入った陶片。錆びた鍵の束。
 どれも現地で翁の知り合いから「届けてくれ」と預かったもので、華には名前も値打ちも分からない。

 翁は、布地を視線で一度なぞり、それからまた顔を上げた。

「……楽な道ではなかったろう」

 華は、唇の内側を、いちど軽く噛んだ。
 茶杯の湯面に、自分の輪郭があいまいな形で揺れている。

「……その“使い”の人たちに」

 重ねた手に、少しだけ力がこもる。

「わたしのこと、監視させてますか」

 翁は、華の顔をまっすぐ見た。
 答えを口にする前に、茶杯を口元に寄せ、ひと口だけ含む。

「何か、気になることでもあったかね」

 茶を飲み下してから、穏やかな調子で問う。

 華は、まぶたをいちど閉じた。
 呼吸をひとつ整えてから、声を出す。

「屋台でも、道でも……。誰かに、ずっとカメラを向けられていたみたいで」

 言い終えたあと、喉の奥から細い息が漏れた。

「ふむ……。確かに私は、あちこちに目と耳を置いておるからね」

 翁は息を吐き、肩をひとつすくめる。

「だが、うちの若いのなら、あからさまな真似はせんだろう」

 華は、自分の指先を見た。
 重ねた手のあいだから、白くなった爪の先がいくつも並んでのぞいている。

「でも、ほかに……!」

 そこまで言って、華は言葉を飲み込んだ。

「もし、それが人の目には映らない“隣人”の仕業だとしたら――」

 翁は、視線を華から外し、窓の外へ顔を向けた。

「お前がいちばん早く気づくはずだよ」

 口元が、わずかに上がる。

「お前が触れたものには、決まって“無害な隣人”が()く」

 翁は、手元の茶杯へ視線を落とした。
 薄い湯が、縁の内側で小さく揺れている。

「張った網は元からお前のものだ。お前の見えるものと同じだよ」

 そこでいちど言葉を切り、視線をふたたび華へ戻した。

「私はお前の力を少し借りて……その“冥識”で、この魔都の隅々まで“彼ら”の声に耳を澄ませておるだけだ」

 華は、少し遅れて唇を開いた。
 顔を上げかけて、すぐにまた視線を落とす。

「わたしには……何も見えません(・・・・・・・)

 言葉の途中で、喉の奥がきゅっと縮んだ。
 指先の熱が、じわっと増すように感じる。

「ああ、その通りだ。お前は、何も見えていない(・・・・・・・・)
 目を背け、耳も塞ぎ、黒く塗り潰す――」

 口調とは裏腹に、目尻の皺にははっきりとした笑いが浮かんでいた。

「――お前は元々そういう子だったのだな」

 華は唇を閉じた。
 言葉を足す代わりに、膝の上で指を組み直す。

 翁は、茶杯をわずかに傾けた。
 底に残っていた茶が、喉の奥へするりと落ちていく。

「ところで」

 翁は、茶杯から手を離し、椅子の背に掛かったポシェットを、ちらりと一度だけ見やった。
 視線をすぐに戻し、先ほどまでの話題をそこで断ち切る。

「上海には、いつ戻った」

「……十日くらい前です」

 華は、少し考えるように間を置いて言った。

「そうか。ずいぶん前のようだが。また街の者と交わっておったのかね」

 翁の声には、責める色はなかった。

「……旅のあいだに使うお金は、自分でどうにかしたくて」

 華は、目を伏せて、スカートの布地の折り目を見た。
 指先でそれを軽くなぞる。

 翁は、華のほうへ視線を止めた。
 卓の上の茶の湯気が、ふっとほどけて消える。

「そうだ、あいつを覚えておるか?」

 翁は、思い出したように口の端を上げた。

「うちの若いのだよ。『また麺屋をやらされるのか』と、ぶつぶつ言いながら前掛けを用意しておったぞ」

 おかしさと苦笑いが半分ずつ混じったような表情だった。
 翁が息を吸い、続きを口にしようとしたとき――

「あの……」

 華がそこで声を出した。

 折り目から指を離す。
 膝の上で指を重ね直し、短く息を吐いた。

「ダイヤを、その……」

 喉の奥で声がかすかに震える。

「見つけて返せたらと思って……」

 顔を伏せたまま、翁の言葉を待つ。

「そうか」

 翁は短くうなずくだけだった。
 空になった茶杯の縁に、軽く指先を触れさせる。

 窓の外の川面が、ゆっくりと暗さを増していく。
 庭の砂利は、輪郭をぼやかされていった。

 遠くから、庭木の葉が時おりこすれる細い音が届く。

「上海はどうだった」

 華は、いちど目を閉じてから息を吸った。
 それから、言葉を選びながら口を開く。

「今年は、特に人が多かったです。
 どこも、人がたくさんで……頭の上で、紙吹雪が散っていました」

 ――清王朝のダイヤが盗まれたらしい。
 ――いや、地下で爆発したって聞いたぞ。
 ――魔幇の爺さんは、まだ諦めてないってさ。
 ――七鴉翁? あの人、いつまで生きるつもりなんだろうね。
 ――『五・三〇事件』の黒幕も、あの人だったらしい。
 ――あの英雄“張无忌(チャン・ウージー)”が死んだのも、そいつの企みだって話だ。
 ――王権証器(レガリア)を手中に戻せれば、誰が死んでも構わないのだろうさ。

 似たような話を、何度も耳にした。

 夜市の屋台で皿を下げているとき。
 深夜の麺屋で、カウンター越しに器を受け取るとき。
 火鍋屋のテーブルを拭き、椅子を元の位置へ戻すとき。

 少し前までは口にされなかった百年前の事件を、同じ調子で語る客が増えていた。
 口元に手を当て、小声でその噂を繰り返す姿が、どの店でもよく似ている。

「噂を聞きました」

 華は、手を伸ばし、茶杯の縁に人差し指をそっと添えた。

「どんな噂だい」

 ひと呼吸置いてから、翁は華の顔を見やった。

「……ダイヤの行先のこととか。
 魔幇(組織)の偉い人たちのこととか」

 華は、少し言いにくそうに続けた。
 添えた指先が、縁の上でごく小さく動く。

 翁は、目元のしわをわずかに深くした。
 笑っているのかどうか、読み取りにくい表情だった。

「噂は、いつの世も安くてね」

 翁は、空の茶杯に視線を落とした。

 次に続ける言葉を探すように、短く間を置く。

「火がつけば、誰でも少しずつ油を注ぎたがる」

 空の茶杯の縁を見ていた視線が、ゆっくりと華へ戻った。

「お前が、上海で聞いた噂の中に、王権証器(レガリア)の名も、混じっておったろう」

 華は、縁から指をそっと離した。
 膝の上で、ふたたび手を重ねる。

「……耳に入るくらいには」

 華は短くそう言って、そこで言葉を切る。

「そうだろうとも」

 翁は、ひとつうなずいた。

「石そのものは、ただの石だ。
 ばらばらにしてしまえば、なおさらね」

 窓の外で、梧桐の枝が、音も立てずにしなった。
 大きな(からす)が、一度だけ羽を打って庭の向こうへ渡っていく。

「人は、形を欲しがる。
 旗でも、冠でも、宝石でもいい。手に取れる形にしておかねば、安心できん」

 翁は、視線だけ窓の外へ滑らせる。

「それが王権証器(レガリア)だと、昔から言われてきた。
 だが――」

 翁の視線が、華の足元の布の鞄へ再び向いた。

「形だけが残って、人の手から離れすぎると、今度はそれが火種になる」

 華は、指をきゅっと揃えた。
 足元の鞄の持ち手が、足首のあたりでかすかに触れる。

「噂は、そこを好んでつつく」

 翁は、淡々と言った。

「誰それが石を狙っておる、誰それが石を宿しておる。
 そういう話のほうが、人は関心を寄せるからね」

 華は、茶杯から目を離さずに、まばたきを一度だけした。
 茶の表面に映る輪郭が、薄くにじんでから、また元の形に戻る。

「……本当のところは、どうなんでしょう」

 口からこぼれた声は、自分で思っていたよりも細かった。

「五・三〇のことも、張无忌のことも。
 上海の人は、いろんなふうに、話していて」

 翁は、そこで息を吐いた。
 笑いともため息ともつかない。

「百年も前のことであれば、なおさらだ」

 翁は両手を卓のほうへ寄せた。

「私が何も言わねば、好きなように語り継がれる。
 私が何かを言えば、それはそれでまた、別の噂になる」

 皺の深い手が、卓の天板に触れる。

「大事なのは、過去そのものより――」

 翁は、ごく短く間を置いた。

「人々が、何を信じたいと願っておるかだよ」

 華は、視線をようやく茶杯から上げた。
 正面を見たつもりなのに、翁の目より少し下で目が止まる。

「……はい」

 短くそう返す。

 翁は、ふたたび窓の外へ目をやった。
 梧桐の枝で、さっき餌を運んでいたほうの(からす)が、幹のほうへ身を寄せる。

 (からす)は、幹の割れ目に嘴を差し込み、一度つついた。
 もう一度、角度を変えてつつくと、小さな木の実をくわえ直して枝の上に戻る。

 足場を少し整えてから、嘴の先で殻を砕いた。
 白い中身をついばみ、喉の奥へと落とし込む。

「鳥はね、見つけた餌をすぐには食べずに、ああして樹の割れ目なんかにしまっておくことがあるそうだ」

 翁は、(からす)から目を離さずに言った。

 華は、自分の前の茶杯を見る。

 湯気はもう上がっていないのに、茶杯には、薄い色の湯が満ちている。
 縁のすぐ内側で、その色が室内の光をぼんやりと拾っていた。

 姿勢を直そうとして、かかとをわずかに引いた。
 椅子の背に掛かった小さなポシェットが、ほんの少し揺れる。下がった持ち手が、椅子の脚に軽く当たって止まる。
 中には、財布と手帳と、それから一昨日の夜に拾った小さなガラス玉が入っている。

 梧桐の枝で、烏が短く鳴いた。
 さっき殻を落としたあたりを一度のぞき込み、それから羽根をふくらませる。

 華は、卓の上の茶杯に映る自身の輪郭から目を離せなかった。
 胸で息を吸うたびに、茶がかすかに揺れる。映った顔の線が少し崩れては戻る。

 茶壺の中で小さく鳴っていた音が途切れ、部屋の中に、しんとした気配だけが残った。




 *




 静けさの中、茶の匂いが鼻の奥に張りついていた。

 昨夜、翁の屋敷で吸い込んだやつだ――と、遅れて思い当たる。

 少女はまぶたを持ち上げた。

 そこへ、薬品と洗剤が混ざった匂いが重なった。



 どっ
 どっ
 どっ



 心臓の跳ねる音で、少女は我に返った。

 息がうまく吸えない。
 肺の手前で空気が止まり、短い呼吸だけが途切れ途切れに続いた。

 目の前に、黒い幕が垂れ込めているみたいだった。
 明かりはついているはずなのに、部屋全体がぼんやり霞んで見えた。

 足もとを確かめるように、手探りで上体を起こす。

 指先の感覚がない。
 悪寒がじわじわと這い上がってくる。

 個室のドアを開けたところまでは覚えている。

 父の寝顔を確認して、それから――

 不意に喉の奥から、強い吐き気がせり上がる。
 空っぽの胃がぎゅっと縮み、何も出ないのに吐こうとした。
 こみ上げた息に、酸っぱいにおいが混じる。

 手の甲で前髪を押さえたところで、額も汗で濡れていると気づいた。
 指を滑らせると、前髪がぴたりと貼りつく。
 襟ぐりの布が、水に落としたみたいな重さで肌にまとわりついていた。

 心臓の音が、少しずつ落ち着いていく。

 視界が、少しずつ広がっていく。

 指先が、しびれるみたいに熱い。

 にじんだ視界の中で、リネンのシーツの皺が揺れて見えた。
 首筋を、汗がつうっと落ちていく。

 その皺を目で追っていくと、父がベッドで寝ていた。
 その首には、自分の指の跡がくっきり残っている。

 昼、父は同じベッドのうえで、少女の袖を掴んだ。

『薬は、もう、やめてくれ……』

 虚ろな目でそう言ったあと、父は目をぎょろぎょろと泳がせながら、

『薬……薬……』

 と、うわごとのように繰り返していた。

 部屋のあちこちに視線を移しながらも、少女の方には目もとめない。

 しばらくして看護師が駆けて来て、父の手を外す。
 父は、白衣の胸ぐらを掴んだまま、同じことを繰り返していた。

 少女は顔を上げて、ベッドの枕元を見た。

 さっきまで、少女の腕のなかで暴れていたのが嘘みたいに、穏やかな表情で目を閉じていた。

 肩で息をしながら、襟ぐりを引っ張る。
 汗が腰のあたりまで流れ落ちて、湿った感触をいやでも意識させた。

「……どなた?」

 もう一つのベッドから、布団の擦れる音がした。

 暗い部屋のなかで、かすれた声がした。

 少女は、肩をびくりと揺らした。
 父の顔から目を離し、そちらへ身を向ける。

 母の身体が、小さく動いた。
 細い腕が布団の上に出て、手探りで枕の端を探している。

「お母さん」

 少女は立ち上がり、ベッドのそばへ歩いた。

「起こしちゃったね」

 母がまぶたを擦る。

「……花だよ」

 少女は、喉の渇きをいちど飲みこむ。

 そして、もう一度、口を開く。

「お母さんの娘の、花」

 母の顔が、ほんの少しだけ近づいた。

「まあ」

 母の表情がほころぶ。

「どこのお嬢さんかしら」

 少女は唇を震わせる。
 何度か、口を開きかけて、そのまま口を閉じた。

「さっきね、ここで泣いてる子がいる夢を見たの」

 母の視線が、ベッドのわきの何もない空間をさまよう。

「ちっちゃい子。ひとりで、しくしくして」

 母の指先が、布団の上を撫でる。

「こわかったのかしらねえ」

 少女は、その手元を見つめた。

「ほらほら、いい子だから、泣かないの」

 母は、子守唄を歌うときと同じ調子で口ずさんだ。

慈母、手中線(ツーモウ、ショウジョンシェン)……」
〈やさしい母は手に糸を持ち……〉

 それは中国の古い詩の一節だった。

 母は、その一行をもう一度、もう一度と繰り返す。
 そのたびに続きの句を探すように唇が動くが、言葉にはならず、かすれた息だけが漏れる。

游子、身上衣(ヨウズー、シェンシャンイー)……でしょ」
〈旅に出る子の着物に縫いつける……でしょ〉

 少女は、母の声の調子に合わせて、その先の句を重ねるように口にした。

「夜に泣いてると、いつもそれを読んでくれたね」

「そうね……」

 母は目を細めて、小さく息をもらした。

「よく妹をこうしてあやしていたわ」

 少女は口を開きかけて、結局何も言わなかった。

 母の腕に視線を向ける。

 腕には点滴の管が伸びていて、ベッド柵を回ってぶら下がっている。
 それを追っていくと、痩せた首の細さが急に目についた。

「ねえ、お母さん」

 少女は声をかけた。

「さっきの子ね。たぶん、もう泣き止んでるよ」

「そうかしら」

 母は、布団を撫でた。

「よかった。……いい子ねえ」

 少女は、枕のすぐそばで膝をついた。
 背中のシャツが、汗で肌に吸いついている。

「お母さん」

 言ってから、間をおいた。

「おやすみなさい」

 父にしたように、少女は両手を伸ばす。

 腕の高さを、母の首元のあたりまで上げる。

 喉に指先を当てると、骨の出っ張りがかすかに触れた。
 指が小さく震えたが、いちど強く組み直し、それきり動かさなかった。

 息を一つ吸ってから、腕に力を込める。
 そのまま喉を強く掴んだ。

 乾いた皮膚が掌に張りつき、指の腹が喉へ食い込む。
 母の目が、ゆっくりと見開かれていく。

 片方の手が、少女の腕を掴もうとして伸びる。
 空を切りそうになりながら、やっと手首に触れた。

 掴む力は弱く、押し返すというより、撫でるような触れ方だった。
 細い力で、少女の腕をなぞり、もっと上のほうを探す。

 口もとが、さっきの詩の形をなぞる。
 途切れ途切れの声が、少女の指の下で割れて消えていく。

 少女は、頭の中で一つ、二つ、三つと数字を刻んだ。
 耳鳴りがして、視界の端がじわりと暗くなる。

 母の手が、少女の腕から、肩へ、首の横へ。

 老いて骨ばった指が、少女の頬にそっと触れる。

 少女は大きく息を吸った。
 肺が焼けるように熱くて、胸の内側がきしむ。

 少女は、腕に体重を乗せた。

 骨ばった指が一瞬跳ねるように震えたかと思うと、そのまま、指先からベッドの外へと滑り落ちていった。

 そして、少女も少しずつ力を抜いていく。

 支えを失った首が、枕のほうへゆっくり傾いた。
 半開きになった目は、天井の同じ一点のあたりを見ているようで、どこも見ていない。

 ベッド脇のスタンドに手を伸ばし、スイッチに触れる。
 灯りが落ちて、部屋の輪郭が薄くなる。カーテンの隙間から、淡い朝の光が差し込み、床の一角を薄く照らしていた。

 父のベッドのほうを振り返る。
 二つのベッドのあいだの小さな棚に、昼間開いていたアルバムが伏せてある。

 アルバムの角を、親指で一度だけなぞる。

「……長いこと、つき合わせちゃったね」

 アルバムから写真を一枚だけ抜き取る。

「天国に行けたら――」

 そう言いかけて口をつぐむ。

 四つ折りにして、写真をポケットにしまった。

 部屋を出て、来た道を戻る。
 階段を上がり、屋上の扉の前で足を止める。鍵は、昼間に来たとき壊しておいた。

 押し金具に手をかけて押し込むと、弱い音を立てて扉が開いた。
 隙間から、冷たい外気が流れ込んでくる。

 扉を押し広げる。
 外壁沿いに並んだ柵と、その向こうにヘリポートの白い印が見えた。

 少女は柵に足をかけ、身体を外側へ移す。
 手のひらでコンクリートの縁を掴む。指先にざらざらした感触が伝わる。

 風が、汗で冷えた背中に当たる。
 靴の底で外壁を強く蹴って、屋上から身を放った。

 その瞬間、朝の日ざしが頬をかすめる。
 光が近すぎて、目の奥がじんと熱くなる。

 下を見ると、運河に続く遊歩道のあたりだけが、まだ闇に沈んでいた。


 *


 目を開けると、電車の窓の向こうに白い水面が見えた。

 川をまたぐコンクリートの柱が、等間隔に流れていく。
 車体が継ぎ目を踏むたび、窓の外の景色がわずかに揺れた。

 少女は、額をガラス近くまで寄せた。
 窓にうっすらと自分の顔が映る。
 涙のあとが、目元から頬にかけて残っているのに気づき、慌てて指で拭う。

 まぶたの裏には、さっきまで見ていた夢の輪郭がまだ鮮明に残っている。

 上海に戻ってから、もう一人の自分を夢に見るようになった。
 今もまた、その夢を見ていた。

 その夢には必ず、「天狗」を名乗る女の人がいる。
 夢の中の少女を弟子と呼んで、あちこちへ連れまわす。

 気がつくと、山の上やビルの中に連れ込まれて、親子喧嘩や脱出ゲームに巻き込まれている。
 もう一人の自分は、よく分からないまま、その女の人に付き従う。
 その我が儘さや図々しさにウンザリしながらも、「師匠」と呼びかける彼女の声には、親しみの色があった。

 夢の上海には、第十六上海天空樹塔(スカイツリー)と呼ばれる鉄骨で組まれた大きな塔が建っていた。

 街で噂だけ聞いたことのある顔や、名前だけ知っていた人たちが、師匠の声に呼ばれて塔の下へ集まってくる。

 その中の一人が塔に触れた瞬間、塔が空に向かって細く延びた。
 先端は、虹色の膜の向こう側に浮かぶ黒い岩みたいな衛星に向いている。

 もう一人の自分は、小さな宝石を胸元で握りしめていた。
 十からゼロまでカウントが終わると、大きなワニの口に乗り込み、彼女は(そら)へと旅立つ。
 いつも、そこで目が覚める。

 (そら)に手が届く前に、いつも現実が先に手を伸ばす。

 夢から目覚めるたびに、胸がざわつく。
 起きた直後は細部まで覚えているのに、時間が経つほど輪郭がほどけていく。
 気づくといつも、なくしたものを探すみたいに、その夢の断片を思い出そうとしている。

 どういうわけか、あの夢が頭から離れない。

 窓の外の水面に、空の白さとビルの影が伸びたり切れたりしながら揺れる。
 雲が薄く広がっていて、太陽の位置だけがぼんやり分かった。

 少女は、ポケットの中の四つ折りの写真の感触を確かめた。
 紙の角が、指先に小さく当たる。

 車内アナウンスが、次の駅名を告げる。

 少女は、窓から目を離した。
 白い水面と、夢の中で見た空の高さだけが、頭の奥に残った。


 ◇ ◇ ◇


 黄浦江の灯りが、窓ガラス越しに床へ伸びていた。
 さっきまで客を迎えていた書斎には、茶葉の匂いが残っている。

 七鴉翁は机の前に立っていた。

「お茶を、下げてもよろしいですか」

 戸口のほうから、女の声がした。
 さきほどまで給仕に立っていた小間使いだ。おそるおそる顔をのぞかせている。

「おや」

 翁は横顔だけを向けた。

「冷めてしまったね。頼もうか」

 女はうなずき、盆を持って部屋に入ってくる。
 湯呑みに手を伸ばしかけて、ふとためらったように指を止めた。

「……昨日お会いした、華さまですが」

 声が小さくなる。

「ご両親が、その……明け方に……」

 翁は窓の外へ視線を流し、軽く息を吐いた。

「ああ」

 返事はあっさりしていた。

「知らせは、受け取っている。君が気に病むことではないよ」

 女が言葉を探しているあいだに、翁はゆっくり椅子へ歩いた。
 盆の横を通り過ぎるとき、茶の湯気が薄く揺れる。

「あの子には、世界中を回ってもらった」

 椅子の背に片手を置きながら、翁が言った。

「私の使いとして、ずいぶん遠くまでね。
 最初に会ったときと比べて、顔つきがだいぶ変わった」

 茶杯へと手を伸ばす。

「子の巣立ちにしては、ずいぶん急な変わりようだ」

 翁は、茶杯をあおごうとして、その手を止めた。

「……いや、とっくにあの子は自分の翼で空を飛んでいたのか」

 ガラス越しの川面をちらりと見やる。

「籠に閉じ込めていたつもりでいたのは、私だけだったのかもしれないな」

 口調は淡々としているのに、言い終えたとき、翁の肩がわずかに落ちた。

「そろそろ、手放す時が来たのかもしれないね」

 翁は茶杯をあおいだ。

 女は息を呑んだようだったが、何も言わない。
 翁の背中を見つめ、湯呑みを盆に戻す。

「ちょうどいい、昔話に付き合ってもらおうかね」

 翁は独り言のように続けた。

「――ちょうど五十年か。あの子が、私の前に連れてこられたのは」

 女が盆を抱え直す音が、扉のほうへ遠ざかる。
 取っ手がかすかに動き、書斎に再び、川の音が戻ってきた。



 *



 ――五十年前、上海。

 黄浦江の夜風には、昔ここをさかのぼった阿片船の名残がこびりついている。
 外国の旗が消えてから二十年、「禁絶黄賭毒」の標語だけが岸壁に塗り重ねられ、その陰では、内陸の山から下りてきた白粉(バイフェン)の袋が行き先を待っていた。
 ベトナムで続く戦争と、日本の好景気が、その値段を吊り上げている。

 倉庫の列のあいだを、老人が歩いていた。

 先に歩かせた手下たちが、通り道を空けている。
 鉄扉にもたれて煙草を吸っていた荷役が、合図ひとつで口をつぐみ、通路の外へと引いていった。
 耳にまとわりついていた声が消え、革靴がコンクリートを打つ音だけが、通路の奥まで響く。

 前を行く男のコートの裾が、小刻みに揺れている。
 男は振り返らずに言った。

七爺(チーイエ)――大阪行きの便が、やられました」

 老人は歩調を変えない。

 男は、言葉を選ぶように息をひとつ吐いた。

「香港の商社から、日本のフロント企業に流す手はずでした。書類の細工は悪くなかったんですが……」

 言いよどむ声だけが、倉庫の壁で鈍く返る。

「どこで切られた」

 老人が問う。

「向こうの港です。税関と警察が組んで、コンテナごと抜かれました」

「現地で横槍か。鼻の利くやつがいる」

 老人は短く息を吐いた。

「今ある窓口は、しばらく使えんぞ」

 倉庫の影を抜けたところで、老人は視線を上げた。
 港務会社の古い事務所棟が、クレーンの足もとの明かりを背中に負って立っている。
 外壁のコンクリートは黒ずみ、入口の上には、剥げかかった社名板と、木札の標語が並んでいた。

 老人は、その建物を一瞥する。

「こうなると、“羊”が要るな」

 ぼそりと言うと、コートの男が、その事務所棟に視線を向けた。

「既に、人の良さそうな日本人を押さえています」

 老人は男の横顔をちらと見る。

「名は」

佐上(さがみ)。夫婦で小口の貿易をやっていました」

「何を扱っていた」

「大して値の張らない雑貨です。中古の電気製品や部品を、日本とこっちで行き来させてました」

 男の口元に、かすかな苦笑いが浮かぶ。

「娘の将来を見越して、古くからの友人の誘いに乗って先物に手を出したそうです。大きく値崩れして派手に転んだ結果、向こうの金貸しを頼ったとのこと」

「金額は」

 老人は歩きながら問うた。

「銀行と商社からの借りをまとめて、日本円で五千万ほど」

 男は、手のひらを開いて見せる。

「それに加えて、その友人から象牙が近々規制される噂があると聞かされ、損失を埋めようと象牙の取引にまで手を出しています。香港回りの便に紛れ込ませようとして、途中で荷をすり替えられて物は行方不明。そこで完全に首が締まったそうです」

 老人は、事務所棟の入口に目をやった。
 鉄枠のガラス戸の向こうに、蛍光灯の白さが滲んでいる。

「どうやって上海まで渡った」

「性懲りもなく、その友人に泣きついたそうです。港の荷役の中に、うちと顔が利く男がいまして、そいつが上海行きの荷の中に一家を紛れ込ませました」

 男は肩をすくめた。

「しかし、その友人――象牙の件では、金貸しと組んで荷のすり替えに関与していたようで。
 おそらく勘づかれる前に、体よく追い出したかっただけでしょう」

「その友人がらみとなると……先物での失敗も何か裏がありそうだ」

 老人は川風の匂いを吸い込んだ。

「共同出資の名目で、その友人に資金を預けていたようです」

「まれにみる“お人よし”だな」

 老人は鼻で笑う。

「向こうの金貸しは、何と言った」

「『絞るだけ絞った。後はそっちで好きにしろ』と」

 老人は、川風の向きを測るように息を吸った。

「やり口の割に、腹の小さい連中だ」

 吐き捨てるように言ってから、男の横顔に目をやる。

「お前なら、どうする」

「利息と違約金を併せて、桁をいくつか増やします」

 男は声をひそめた。

「文面は、おれに任せてもらえれば」

「任せる」

 老人は歩を緩めない。

「その夫婦には、“捨て石”になってもらおう。日本の警察が喜んでかじりつくくらいに、太らせてやれ」

 男がうなずく。

「あちらの面子を立てるための“餌”ですね」

「そういうことだ」

 老人は短く答えた。

 事務所棟の鉄のドアが、手下に開けられる。
 中から、湯気とインスタント麺の匂いと、安い煙草の煙が流れ出た。


 *


 一階は、事務机と木製の椅子が並ぶ事務室だった。
 壁際の棚には分厚い綴じ込み書類やファイルが詰め込まれ、その手前に丸テーブルがひとつ置かれている。勤務明けの荷役たちが、そこで麻雀牌を指の腹で弾いていた。

 老人の顔を見ると、途端に会話を止めて口を閉ざす。
 牌を軽く伏せて立ち上がり、視線だけが少し下へ落ちる。煙草の火が灰皿に押しつけられた。

 さきほどの男が、奥の階段に足をかける。
 踏むたびに、古い釘と木が低くきしんだ。
 老人は手すりに触れず、一定の歩幅でその後を上がっていく。

 二階の廊下に窓はない。
 裸電球が一本ぶら下がり、汚れた壁と扉の列を黄ばんだ光でなぞっていた。

 明かりが漏れているのは、いちばん奥の応接室だけだった。

 男が扉の前で立ち止まる。

「中です」

 老人は軽く頷き、ノブを握った。
 冷えた鉄が掌に張りつく。押すと、蝶番が短く鳴った。

 部屋には三人いた。

 机の脇の椅子に、男がひとり。
 四十代半ばほどで、ワイシャツは襟が黄ばんでおり、袖口もほつれている。

 その隣に、女がひとり。肘のあたりの布が擦り切れかけていた。
 細い肩をすぼめ、胸元で握った指先から血の気が引いている。視線は定まらず、部屋のあちこちを忙しなくなぞっていた。

 そして、奥の肘掛け椅子に、少女がひとり腰をかけている。

 老人は一瞬だけ足を止めた。

 両親のいでたちに対して、少女のワンピースは、皺こそ寄っているが、布地の色はまだきれいに残っていた。裾のほころびが、丁寧に縫い直されている。

 歳は十代前半ほど。
 色素の薄い栗色の髪。輪郭も目鼻立ちも、店先に並ぶ西洋人形のように整いすぎていた。

 その顔から、感情の色は読み取れない。

 黒目がちのはずの眼差しは、部屋に入ってきた老人のほうへ、まっすぐ向いている。
 瞳の表面はよく磨かれた石のように光を弾くのに、その奥で何を考えているのか、見当がつかなかった。

 あまりにも精巧なその造形は、まるで生気を感じさせない。

 扉が閉まると、男と女の肩が同時に跳ねた。
 男が立ち上がろうとして、椅子の脚を鳴らす。

「あの、その……」

 声が裏返る。

「座ってなさい」

 老人が言うと、男の膝から力が抜けた。
 背もたれに押し戻されるように腰を落とす。

 男は両手を膝に置き直した。

「……佐上(さがみ)信太郎(しんたろう)と申します」

 女も一度だけ老人を見てから、急いで視線を落とした。

「妻の、頼子(よりこ)です」

 名乗った途端、頼子の手に力がこもる。
 爪が手の甲に押しつけられ、赤く筋があらわれた。

 老人は二人の顔を順に見た。
 目の下の影、頬のこけ具合。酸っぱい汗と、乾いた衣類の臭いが、部屋の空気にこびりついている。

 視線を少女へ移す。

「それは、娘か」

 老人が問うと、頼子の喉が引きつった。

「……はい」

 頼子はかろうじて声を出した。

「名は」

(はな)です」

 名を呼ばれても、少女は身動きひとつしない。
 睫毛が一定の間隔で上下するだけで、そこに意味を探そうとしても、指が空をつかむような感覚しか残らなかった。

 老人は、一度、夫婦へと視線を向けた後、少女へと視線を戻した。
 そして、少女の全身を眺める。

「……お前たちに、まるで似ていないな」

 ぽつりと言う。

 夫婦の肩が同時に強張った。

 背後から、コートの男が小さく口を寄せる。

「養子だそうです。数年前に上海で拾ったとか」

 老人は、ほう、とだけ返した。

「あ、あの……!」

 信太郎が、背筋を起こして声を張った。

「おれたちに何の用ですか」

 老人は花から目を離し、信太郎の顔を見た。

「話は聞いた」

 一拍置いてから、言葉を継ぐ。

「荷が、途中で消えたらしいな」

 信太郎の肩が小さく揺れた。

「……はい」

「象牙だとか」

 短い言葉に、信太郎の視線が机の上へ落ちる。
 口を開きかけて、唇を結び直した。

 頼子が唇を震わせる。

「うちは、元々は雑貨だけを……」

 老人は頼子をちらりと見やる。

「そうだな。大して金にならんものを買い付けて、こっちで捌いていた」

 淡々と告げてから、言葉を続けた。

「だが、商売が少し回るようになり、欲をかいた」

 信太郎の喉が、ひくりと動く。

「違います。欲をかいたつもりは……」

「先物に手を出し、負けた分を、さらに“取り返そう”と賭けた」

 老人は、信太郎の言い分を一蹴する。

「それは……」

 信太郎は机の下で拳を握った。

 頼子は小声で「違います」とつぶやき、首をかすかに振る。

 信太郎は悔しそうに眉を寄せた。

「今、友人が積み荷を探してくれています。それさえ見つかれば……!」

 掠れた声なのに、言葉の端にまだ力が残っていた。

「その友人とやらに頼って、一度でも状況が好転したことがあったか」

 信太郎の目が鋭く変わり、顔がかっと赤く染まる。
 老人を睨むその目に、疑いの色はない。

 その滑稽さに、老人は小さく鼻で笑った。

「一度坂を転がり落ちた石に、天はわざわざ手を伸ばさん」

 老人は淡々と続ける。

「お前たちは、自らの才覚を過信し、次こそは上手くやれると自惚れたのだ」

 頼子の喉が、ひゅっと鳴った。

 信太郎は、拳を持ち上げかけて、大きく息を吐いてうなだれる。

「債権は、向こうの金貸しがまとめたそうだな」

 老人は、机から手を離した。

「だが、その額は臓器を売ったところで返せるものではない」

 頼子が唇を噛む。
 信太郎は顔を上げられず、膝の上で指を握りしめた。

「それとも……」

 老人は独り言のように言った。

「娘に稼いでもらうか?」

 頼子の指がびくりと動く。
 信太郎が思わず顔を上げ、奥の肘掛け椅子へ視線を走らせた。

 老人も、そちらへちらと目をやる。
 ショーウィンドウから抜け出した人形のような横顔が、こちらを向いていた。

 少女の顔には、やはり感情の色が見えない。

「お金は必ず返します。いくらかかっても……だから、娘だけは」

 信太郎が、机越しに身を乗り出した。
 握った手の甲に、血管が浮き上がっている。

 老人は、口元でだけ笑った。

「返すつもりなら、どうして国を跨いで逃げた」

 信太郎の肩から力が抜ける。
 視線が花のほうへ上がりかけて、途中で机の影へ落ちた。

 頼子が机の端を掴み、声にならない息をひとつ噛みつぶす。

「娘に……」

 頼子がようやく声を出した。
 次の言葉が出てこず、指先だけが机の縁を強く掴み直す。

「いい暮らしをさせてやりたくて」

 言葉を選び直したような言い回しだった。
 机の板に、涙がぽたぽたと落ちて丸い染みを増やしていく。

「良い学校にも行かせたくて……でも、その前に、こんなことになって」

 頼子は咽ぶ。
 喉の奥が閉じたように、声が震えた。

 少女が、ほんのわずかに首を傾けた。
 老人の顔を見ながら、初めて表情を変える。

 口の端が、探るように少しだけ持ち上がった。
 笑おうとしているのか、自分でも試している最中なのか分からない、ぎこちない動きだった。

 信太郎が、かすれた声を搾り出す。

「巻き込みたくないんです。こういうことに」

 老人は表情を動かさない。

「泣き落としか」

 老人は、それだけを言った。

 肘掛け椅子の上の少女は、変わらない姿勢でこちらを見ていた。
 灯りの位置も影の付き方もさっきと同じなのに、目だけが、さっきよりも深く見える。

 泣き声も怒鳴り声も映さず、ただ老人の姿だけを映している目だった。

 やがて、老人は信太郎と頼子へ目を戻した。

「債権は、こちらで買い取ろう」

 信太郎が顔を上げる。瞳の中に、わずかな光が走った。

「向こうでお前たちを追っていた連中には、話をつけておいてやる」

 頼子の指先から力が抜けかける。

「じゃあ……」

 息を吸い込む音だけが漏れた。

「ただし、帳消しになるわけではない」

 老人は言葉を挟む。

「向こうは、違約金として“十億”を吹っかけてきた。当然ながら、お前たちを引き受けるならば、その額をこちらで立て替えねばならん」

 信太郎の喉が上下した。

「そんな額、払えるはずが……」

「“逃げた分”の罰だと思っておけ」

 老人は、冷えた声で言う。

「代わりに、お前たちの“名前と戸籍”を使わせてもらう」

 返事の余地を残さない言い方だった。

「そして、明日からお前たちには人をつける」

 頼子が顔を上げる。

「見張りですか」

「護衛だと言っておこう。まだ、向こうと話がまとまっていない」

 老人は部屋を見回した。

「家族揃って舟山諸島の“海月”になりたくないなら、こちらの言うとおりに動け」

 ひと呼吸置いて、老人は言葉を足した。

「それと、娘はこちらで預かる」

 空気が一度止まった。

 椅子が大きく軋む。
 信太郎が反射的に立ち上がり、机に手を叩きつけた。

「それだけは――」

 声が裏返る。

 頼子も椅子を引きずる音を立てて立ち上がり、肘掛け椅子の花へ向かおうとした。

「花は連れていかないでください、お願いします」

 扉のそばの男が、無言で一歩前に出る。
 その影が頼子の前に割り込んだ。

「どきなさい!」

 頼子が叫ぶ。腕を伸ばし、花を抱きかかえようとする。
 男はその手首をつかみ、そのまま捻った。

「っ――」

 頼子の膝が折れる。
 もう一人、廊下で待機していた手下が部屋に入ってきて、背中を押さえつけた。

「やめろ!」

 信太郎が机を回り込んでくる。
 老人のほうではなく、花の椅子に手を伸ばした。

 別の手が、その腕を横から払う。
 横殴りの拳がみぞおちに入った。

 信太郎の息が抜ける。
 折り畳まれるように床へ倒れたところを、すぐに肩と肘を踏みつけられた。

「離せ! 離せ!」

 床に押さえつけられた体勢で、信太郎が叫ぶ。
 頼子も床板に片頬を押しつけられ、なお顔だけを花のほうへ向けた。

「花! 花!」

 花は動かない。
 母のほうを見もしないで、ただ老人の顔だけを追っていた。

「花、逃げなさい!」

 頼子の叫びが掠れる。

 扉のそばの男が顎を振る。

「行くぞ」

 別の手下が花の肘を乱暴につかんで引っ張りあげた。

 花は、よろめきながら立ち上がる。

「やめろ、俺の娘に触るな!」

 信太郎が暴れようとする。
 肩に乗った膝が、容赦なく体重をかけた。骨が軋む音がした。

「お願いです、花は――」

 頼子の声が泣き声に変わる。
 床にこすれた頬が赤くなり、そこへ涙が落ちた。

「大人しくさせろ」

 老人が短く言う。

 花の肘をつかんでいた手下が、彼女を部屋の外へ押し出した。
 扉のすぐ内側で、父と母が床に押さえつけられた体勢のまま、喉を振り絞って花の名を呼んだ。

「花! 花! 花!」

 扉の向こうに消える瞬間、花は声の方を振り返る。

 指先が、わずかに持ち上がりかけて、その姿は階下に消えていく。
 短い一瞥だった。

 老人は、その様子を見届ける。
 そして踵を返し、自分も扉の外へ出た。

 廊下側から扉が閉じられる。
 厚い板の向こうで、まだ名前を呼ぶ声と、激しい靴音が混ざり合っていた。

 階段を降りきったところで、男が口を開く。

「夫婦のほうは、どうしますか。
 あの様子じゃ、少々手こずりそうですが」

 老人は足を止めない。

白粉(バイフェン)を使え」

 短く答える。

「そのうち、娘のことなど忘れて、薬ばかり気にかけるようになる」

 そう言い捨てた。

 男は、わずかに口角を引きつらせ、それから小さくうなずく。

「では、そのように」

 外に出ると、黄浦江の風が顔を撫でた。

「……娘のほうは、どうしますか」

 男が続ける。

「あの見た目なら、仕込めばいくらでも買い手がつきます」

 老人の脳裏に、あの精巧な瞳がよぎる。
 視線を下げて逡巡しかけるも、すぐに口を開く。

「好きに――」

 ――しろ。

 そう言いかけたところで、老人はふと足を止めた。
 背後から呼び止められた気がして、反射的に振り向く。

 そこには夜の闇とコンテナの影が広がるだけだった。

「この女は、誰だ……?」

 そこには誰の姿もない。だが、老人はそう口にした。
 隣の男もつられて同じ方向を見る。

「誰かいましたか?」

 男は遠くの暗がりに目を凝らす。

「……俺、確認してきましょうか」

 男は、数歩引き返しながら言う。

 老人は、男の顔とそのすぐ傍に広がる暗がりを順に見比べる。

 対岸のクレーンが黒い骨のように並び、川面の灯りを千切っていく。

 老人の額に汗がじんわり滲む。

「いや、いい」

 小さく首を振り、歩き出した。

「……お前には、あの娘はどう見えた」

 老人の言葉に、男が少し息を継ぐ。

「実は」

 男は、歩調を合わせながら続けた。

「上海に渡る少し前、“消えた”ことがあると」

「消えた」

「取り立て屋に連れ出されて、ひと月ほど行方不明に。両親の元に返された時には、既に心神喪失で――」

 男は、意味ありげにほくそ笑む。

「一糸まとわぬ姿だったとか」

「……お前は“それ”で、あの娘が“ああ”なったと」

「ええ。ただ、売り文句には丁度いいかと」

 老人は、鼻で笑った。

「売り方については、俺に――」

 男が言いかける。

「早まるな」

 老人は、男の言葉を遮った。
 男は、驚いて目を見開く。

「あれは、お前には手に余る」

「……では、どのように」

 男は目を細めて問う。

「あれは、“还魂(黄泉がえり)”だ」

 老人の表情がゆがんだ。

「あの娘は、私が預かろう」

 老人は、もう一度闇の中へと目を向け、また歩き出す。

 倉庫街の外で待たせてある車へ向かいながら、老人は背後からついてくる、もう一つの足音を数えていた。


 *


 車が倉庫街を離れると、川の匂いが少しずつ薄れた。
 高架をくぐり、街灯の間隔が広がる通りへ出る。

 四十分ほど走ると、黄浦江と街を斜めに見下ろす丘に着く。
 門柱のあいだから、黒い塀と庭木の影がのぞいていた。

 玄関前で車が止まる。
 老人は先にドアを開け、足を下ろした。

 靴底の下で、石畳が乾いた音を立てる。

「娘は」

 玄関の段差をまたぎながら、老人が問う。

「地下の牢へ」と、さきほどのコートの男が答えた。

「手は出してないな」

 振り返らず、靴を揃えながら重ねて問う。

「娘にはまだ」

 老人は相槌だけ打ち、外套を脱いだ。
 肩から滑らせた布を、伸びてきた手にそのまま預ける。

 侍従が無言で受け取り、廊下の奥へ消える。

 廊下の絨毯は足を取るほど柔らかく、倉庫街の事務所棟とはまるで違う足ざわりだった。
 足音はほとんど響かず、壁にかかった絵と古時計だけが目に入る。

 客間の一角を過ぎ、奥まった扉の前まで来る。
 扉の横には、女中がひとり立っていた。背筋を伸ばし、両手を重ねている。

「様子は」と老人。

 女中は、口を開く前に一度だけ喉を動かした。

「変わりありません。しかし……」

 視線が、足もとへ小さく落ちる。

「世話に入った者が、何人か頭痛や吐き気を訴えております。それと――」

 言葉を選ぶように、指先を握り直した。

「着替えさせたとき、尾と羽のようなものが……」

 女中はそこで口をつぐみ、息を飲み込んだ。

「……食事は」

 老人は女中と目を合わせず、扉の向こうを見据えている。

「口をつけておりません」

 女中の声が、少し先細る。

「分かった」

 それだけ言って、老人は扉を押した。

 中は階段だった。
 石の段が下へ伸び、壁ぎわに裸電球が等間隔に下がっている。

「私が戻るまで誰も入れるな」

 老人は男に視線だけ向け、そう告げる。

 男が短くうなずき、扉を支えた。

 老人は階段を降りた。
 足を下ろすたび、ひんやりした空気が膝のあたりまで上がってくる。

 いちばん奥の鉄格子の前で、老人は足を止めた。
 鍵束から一本抜き、迷いなく錠前に差し込む。

 鍵を回す音が響き、重い扉が横へ引かれる。

 牢の中には、ランプがひとつ吊られているだけだった。
 薄い灯が、湿った壁と床の継ぎ目をぼんやり照らす。

 少女は、壁際の寝台に腰をかけていた。
 薄い寝巻きに着替えさせられ、両手首には鎖がかかっている。鎖の先は、寝台の金具につながっていた。
 壁にも寄りかからず、手首から垂れた鎖が、膝のそばでかすかに揺れている。

 栗色の髪は肩のあたりできれいに揃い、根元から毛先までよく洗われたように光を返している。

 その整った佇まいは、牢に投げ込まれても変わらない。

 顔は、まっすぐ老人のほうを見ている。

 老人が一歩入ると、目の焦点がはっきりと合う。

 倉庫の応接室で見たときと同じ、その瞳はよく磨かれた石のようだった。

「寒くはないか」

 老人は、何気ない調子で言った。

 返事はない。
 少女は瞬きするものの、作り物のようにじっとしている。

 牢に足を踏み入れた途端、四方から視線を浴びているような落ち着かなさがあった。
 壁の石目や床の水たまりが、目の端でときどき人影のように見える。

 老人は、それらに一つずつ目を向けながら、寝台の近くまで歩いた。
 水たまりを避けるような足取りで、注意深く足を前に出す。

「日本で、一度消えたそうだな」

 立ち止まり、世間話の続きをするような声で言う。

 石の隙間にしみた水が、じわじわとにじんでいく。

「お前を連れ出した連中は、そのとき何をした」

 老人は足もとの床を見た。
 視線の先――少女の足元の寝台の下に目を凝らす。

 煤を丸めたような黒い塊が、床の隙間から押し上げられるようにふくらんでいく。

「私を殺せとでも、命じられたか」

 老人の声は少し低くなる。

 手のひらより少し小さい黒い塊が、いくつもいくつも湧いてくる。
 赤子の形になり損ねたあぶくが、立ち上がろうとしては崩れていく。
 いくつあるのか数え終える前に、次々と増えていく。

「見えるか」

 声の調子は崩さない。

「これが何か、お前は知っているか」

 少女は答えない。
 喉も唇も動かない。目だけが、鏡のように老人の姿を映している。

 ランプの灯りが、風もないのに揺れた。

「呪術師から似たものを見せられたことがあるが……」

 老人は少し黙り、それから続けた。

「お前は、“穴”にしては大きすぎるな」

 老人は寝台のそばまで近づき、少女の顎を指でつまんで持ち上げた。
 顔を近づけ、息がかかるほどの距離から、その瞳の奥を覗き込む。
 まぶたのきわやこめかみを、傷や継ぎ目を探すように目で追い、短く言う。

「上手く織り込まれている」

 髪を耳の後ろへ払って、肌の色や生え際にも目をやる。

「人形師の腕がいいのか、それとも細工をした者の方か――あるいは素体か」

 老人は少女のつま先から頭まで、値踏みするように目を動かした。

「海の向こうの連中の狙いくらい、ここまでくれば見える」

 少女の視線を受けたまま、口だけが動く。

「……だいたい、どんな手を使ったかもな」

 老人はゆっくり息を吸った。

「さて、どうしたものか」

 小さく息を吐く。

 足もとの塊が、ひとつ、老人の靴先に額を押しつけるように動いた。
 重さはないのに、胸の奥がきつく苦しくなる。

「あの夫婦を使うと決めた時点で、罠に嵌っていたというわけだ」

 そう言ってから、老人は少女に視線を戻した。

「殺したところで、中身が溢れるだけか。なら――」

 そこで一度、言葉を切る。

 老人は少女の顔を見た。

「手元に置いておくしかないな」

 結論だけを、短く告げる。
 手放すという選択肢は――。

 ――じわりと汗が額に滲む。

 老人は小さく笑った。

 既に毒は回っている。

 時間をかけて解呪していくほかない。呪いを少しずつ別の場所へ散らしながら。

「佐上花と言ったな」

 老人は、声を少し低くして尋ねた。

「向こうでは、冥府とのつながりを持ち、人を死に誘うものを“死神”と呼ぶそうだな」

 少女のまぶたが、ほんの少しだけ上下する。
 意味を取ったのか、音だけ聞き分けたのか分からない小さな動きだった。

 老人は息を吸う。

「お前は、災厄をばらまく死神だ」

 低くはっきりと言って、床の黒い塊へも聞かせる。

 足もとの塊は形を変えるが、消えはしない。
 潰れて広がり、また少し盛り上がる。

「日本での名は、もうお前には必要ない」

 老人は牢の中を見回した。

「今からお前は――華だ」

 少女――華の視線が、老人だけを映していた。
 その名を聞いても、目の奥に色は浮かばない。

 口の端が、探るようにわずかに動く。
 そこに感情があるのかどうかは、見ているほうにも分からない。

「聞いているか」

 老人が尋ねる。

 華は、わずかに首をかしげた。
 それが返事なのかどうか、自分でも決めていない角度だった。

 老人は踵を返し、牢の外へ出た。
 鉄の扉を押し戻す手つきに、力みはない。

 鉄格子が閉まる音が、地下の空気を短く震わせる。

 階段を上がるあいだも、華の顔が頭から離れなかった。
 整った形の顔と、何の感情も灯さない目。

 背中のあたりに、誰かがついてくるような重さが残る。
 あの黒い塊の数と、これから付き合う年月を思い浮かべながら、老人は息を吐いた。


 ◇ ◇ ◇


 改札を出ると、空気が変わった。

 花は道を逸れ、路地裏へと身を隠す。

 路地の先が白い。
 太陽が低い。建物の隙間から通りの光が一本の帯になって差し込み、表通りと路地裏に線を引いている。

 花は胸ポケットへ指を入れる。紙の端が指先に当たり、白い名刺が掌に収まる。

 黒い活字。短い番号。
 光の帯が名刺の端だけをなぞって、文字が浮いた。

 端末を出す。画面が点く。
 掌の内側が薄く白くなる。

 一桁ずつ番号を入れる。
 数字が増えるたび、指の動きが慎重になる。

 発信の記号の上に指先が来た。
 押し込む前に、指がいったん浮く。

 通りの雑踏が近い。笑い声、呼びかけ、車輪の音。
 その合間に、歩行者信号の電子音が三つ刻みで混じる。一定の速さで、誰の都合も待たない。

 花は名刺をもう一度だけ見た。
 活字を追うだけなのに、喉が乾く。息を入れ替える。

 端末へ目を戻す。
 今度は押す。

 呼び出しのトーンが返る。等間隔で、耳の奥に届く。
 一回。二回。三回。

 トーンが止まる。
 返事の前に、細い空白が落ちる。

 小さなクリックが入った。

 花の唇が形を作りかける。
 言葉の頭が出る前に、足が動く。

 光の帯へ半身を出した。
 影の縁が足首からほどけ、頬にあたたかさが触れかける。

 そこで、背中側の服がきゅっと引かれた。

 後ろから腕が回り込む。
 肘が肋に食い込み、息が詰まる。

 雑踏が、すぐ隣で続く。
 信号の電子音が規則正しく刻む。

 口元に布が押し当てられた。
 鼻の奥がつんとする。

 花は端末を持った手を上げようとして、指が空を掴む。
 端末が手から抜ける。石に当たって一度だけ鳴り、そのまま光の帯のほうへ転がった。

 落ちた端末が、境界の向こうで太陽を返す。
 花はそこへ手を伸ばす。

 指先が届く前に、路地の陰へ身体ごと引き込まれた。


 ◆


 新月の夜。

 黄浦江の上には月がない。
 低い雲がたまり、対岸の灯りだけが水面を細く擦っていた。

 古い桟橋の鉄骨が、黒い影の束になって立っている。
 フェンスの金網には、褪せた警告札と、祝典の紙吹雪がいくつも貼りついていた。

 パトカーの車内で、無線機のスイッチが入る。
 ざらついたノイズが一度だけ走った。

「指挥中心」

 警官無線がひびいた。

「こちら江岸巡逻27号车。状況報告」








エピローグ 夢の終わりはいつも


 ガタン、ゴトンと、車体が継ぎ目を踏む。
 等間隔の揺れに身を預けて、現実の花は夢を見ていた。

 宇宙は、嘘みたいに騒がしかった。
 爆発と衝撃が続いて、頭の中ががんがんする。

 黒い岩の塊みたいな衛星《星の岩屋》が、虫みたいな機械を地上へ降らせている。
 その手前で、師匠の都市捕獲衛星が巨大な人型ロボットに変形して、半透明の殻を広げて受け止めていた。

 虹色の膜が、しゃぼん玉のように上海を包む。
 街ごと、すこしだけ地球から持ち上げられている。

《首の皮一枚ってとこだね》

 師匠の声が、巨大ロボから聞こえる。

《弟――七鴉翁が上海を機械の星に変えようとしている。私はここで押さえるから、地上は――》

 虹色の殻のいちばん近く。

 第十六上海天空樹塔(スカイツリー)の先端に、栗色の髪の少女が立っていた。

《――きみに任せた》

 清王朝のダイヤを握りしめた、もう一人の「自分」が顔を上げる。

「はい、師匠……!」

 少女は足もとを確かめるように踏みしめた。塔の先端を抜ける風が、栗色の髪をうしろへ流していく。


 *


 第十六上海天空樹塔(スカイツリー)の根元に、人影があった。

 塔は六百三十五メートル。
 さっきまで「近日オープン」の横断幕をぶら下げていた最新式の電波塔だ。

 並ぶ顔ぶれを見ると、見た目も肩書きもばらばら。
 それでも、上海――いや地球の危機にそれぞれが利害を超えて集まってきていた。

《よし、人員配置確認。……うん、なかなかの顔ぶれだね》

 頭の奥で、師匠の声がした。
 宇宙からの、雑な業務連絡だ。

 空は、まるでオーロラに包まれたみたいに、虹色の膜で覆われていた。

 師匠曰く、宇宙から見ると、上海ごとお椀をかぶせたみたいな状態らしい。

《上海版アベンジャーズ最終決戦みたいだね》

 ひと呼吸置いて、師匠が続ける。

《ついでに報告。上海は現在、地球のちょっと外側に退避中。物干しざおに引っかかった洗濯物だと思ってくれたまえ》

 死神ちゃんこと――花は、膜の向こうにかすむ地球を見上げた。
 青い球が、遠い。

 これ、ひっくり返ってないか。

「……物干しざおっていうか、UFOキャッチャー――それも“ぬいぐるみ”の方ですよね」

 口に出してみると、すぐ返事が飛んでくる。

《そういうことー。大丈夫、世界はいつもどこか、だいたいおかしいから》

 師匠の声は、妙に楽しげだった。

《今さらちょっと、天地がひっくり返ったところで、そうそう終わらないよ》

「説明になってません」

 花がこぼすと、師匠があっさり話題を変えた。

《そんなことは些細な問題だよ。目下の優先事項は――》

 そこで、わざとらしく間が空く。

《――酸欠問題なの》

「……はい?」

 花が眉を寄せるより早く、追い打ちがくる。

《“環境制御モジュール(酸素供給システム)”……うっかり積み忘れちゃった(´>ω∂`)ゝ》

 花の足がふらつく。

 空気の薄さが、急に気になってくる。

「……つまり」

 花は、掌のダイヤを握りしめた。

 清王朝のダイヤ。ビー玉より少し大きい、透明な石。
 無数のひびが、塔の照明を拾って光る。

「酸素がなくなる前に、ぜんぶ終わらせないと」

 花は拳を握りしめた。

 瞼の裏には、さっき流し込まれた作戦パワポ(師匠製)の残像が、まだちらついている。

 それは、なんともバカげた(壮大な)計画だった。

 大雑把に言えば、第十六上海天空樹塔(スカイツリー)を延ばして宇宙まで届かせようというものだ。

 師匠は《まるで“ジャックと豆の木”みたい》と笑ってたけど、花の脳裏には“バベルの塔”の逸話がよぎった。

 てんでバラバラなみんなの力を合わせて、空のかなたにダイヤを打ち上げる。

 そして、全ての黒幕である七鴉翁が操る“星の岩屋”にダイヤをぶつけて撃ち落とす。

 本当にうまくいくのだろうか。

 しかも、肝心のダイヤは、死神こと――花の手に宿ってる。

「……もうちょっとどうにかならなかったんですか」

 心の中で突っ込むと、師匠の声がすぐ返ってきた。

《シンプルでいいだろう?》

 軽い調子は変わらない。

《飛んで、ぶつかる。それだけ》

「人選のことです」

 花が言うと、向こうでくすっと笑う気配がした。

《大事なのは、そこを任されてるってことさ》

 師匠は、さらっと言う。

《他の連中がどれだけ暴れても、いちばん前に出るのは弾頭だからね》

「……それ、玉砕覚悟ってやつですか」

 花は、掌の石を握り直した。
 ひびの入ったガラス玉が、骨のところに当たる。

「でも、やります」

 小さく言ってから、顔を上げる。
 塔の前に立つ面々を、順番に見回した。


 ◇


「おーし、聞いたか小妹妹。話はわかったな」

 張三が、肩をぐるぐる回した。
 白髪まじりの大男が、鉄骨の森を見上げて笑う。

「ええと……“だいたい”ですね」

 林希美が、メモ帳を見下ろす。

「第十六上海天空樹塔を、鉄の骨組みごと引き延ばして……」

 自分で読み上げながら、書いた内容の無茶さをもう一度かみしめる。

「天まで届く張りぼてにする、ってな」

 張三が、鉄棍を地面に突いた。
 カン、と澄んだ音が鳴る。

 塔の中心に掌を合わせ、張三は、鼻から長く息を吐いた。
 塔全体が、ぞわりと震える。

 塔が空に向かって、ぐにゃあ、と伸びていく。

「よく伸びる鉄だ。さすが、手間かけて建てただけはある」

 張三が、感心しているのかどうか分からない台詞を発する。

「褒めてるようで褒めてないです、それ」

 希美が、小声で返した。

 塔の外壁が、張三の力で薄い膜みたいに引き延ばされる。
 空へ、空へ、細い線になって延びていった。

「ほんとにここから向こうまで届くんですか」

 希美が、塔を見上げた。

「どれだけ薄く伸ばそうが、鉄は鉄さ」

 張三が、笑う。

「ちぎれたら、そのときはそのときだ、小妹妹」

 張三の言葉に、希美は首を振る。

「……でも、張哥なら本当にやってしまいそうな気がします」

 もう一度、塔の先を目で追う。
 その行き先には、黒い球体――“星の岩屋”が浮かんでいる。

「張三、お前がそれではどうするのだ」

 ふいに拳狐が、狐面の下から声をかける。
 長いコートの裾が、風をはらんだ。

 希美の視線の先に、拳狐と炎嵐が並んで立っていた。

 二人は発射台担当。
 塔改め――“軌道エレベータ(銀河鉄道)”となった第十六上海天空樹塔。

 その中を駆け上る予定の“巨大ワニ(スパイク)”に文字通り勢いをつける役割だ。

「ところで红虎。発射の瞬間、拳を合わせるのは己か、お前か」

「オイ、何言ってんだお前は」

「どちらの拳を基準とするか。“覇”あるほうに、もう一方が従う。
 ――そういう勝負をしてみぬか」

「うるせえ! 今それどころじゃねえだろうが!」

 炎嵐が、額に青筋を浮かべて、拳狐を指さした。

「いいか、師匠の合図と花のカウントに合わせんだよ! テメェのタイミングに合わせるんじゃねえ!」

「ふむ……火急なればこそ、流れに身を任すべきというわけか。面白い」

「うるせえキツネ野郎!」

 炎嵐の声が空高く轟いた。
 今日は、その拳が「列車(スパイク)」を空高く打ち上げる。


 ◇


「ドレスの仮縫い、完了っと」

 白髪黒羽が、塔の一階に開いたハッチをくぐった。

「“天まで届くウェディングドレス”ってイメージ。どうよ、我ながらロマンチックじゃん?」

 黒羽が、口の端を上げる。

 塔の一階部分は、張三の手で別物になっていた。
 吹き抜けだったロビーの柱をへし曲げて、太い肋骨みたいな補強が入っている。

 真ん中には、鉄筋と配線を組み合わせた操縦席。
 巨大ロボの胸部みたいなフレームの真ん中に、コクピットがはめ込まれている。

「うふふ。わたしが着るのよ。手を抜いたら許さないから」

 喬芽芽が、ハッチの縁を蹴ってコクピットに飛び込んだ。
 カルミアの手を引いて、二人並んで前方モニターの前に立つ。

 白と銀のレース模様が、細長く引き延ばされた塔全体を包み込む。
 塔を見上げるすべての者に、巨大なドレスのイメージが縫い込まれていく。

「これが、そうなのですね」

 カルミアが、モニター越しに塔を仰ぐ。
 目線は、その先――星の岩屋の方角へ向いている。

「芽芽。こんな作戦がうまくいくのでしょうか」

「あら、心配?」

 芽芽が、スカートの裾を軽く翻す仕草をしてみせる。

「あなたは私の隣っていう特等席で、誰よりも可愛い私を見ていて。私より可愛いが存在すると思う?」

 カルミアの口元がほころぶ。

「……ええ。頼りにしています」

 白髪黒羽が、コクピットの壁に手を触れた。
 喬芽芽の視界いっぱいに細い光の筋が、レースをかけるように広がっていく。

「ふふん。最高」

 ドレスは、芽芽の体に、驚くほどぴったりと馴染んだ。

「誰も(ドレス)を傷つけることなんて出来ない」

 芽芽は、胸の前で指をそろえる。

「だって、私、世界一かわいいんだから」

 《創造上の想像力》で込められた特大ドレスのイメージ。
 《可愛いから無敵》の能力。

 ふたつの魔人能力が重なる。

 コクピットからは、今にもちぎれそうな鉄の糸が天高く延びている。
 だが、少なくとも芽芽とカルミアの目には、それは、ゆらゆら揺れる白いドレスのレースにしか見えなかった。


 ◇


「花」

 亀岩が、花の前に立った。
 大きな手が、ぐいと差し出される。

「腕、貸せ」

 花は、少しだけ迷ってから袖をまくった。
 晒された肌に、亀岩の指先が触れる。

 光る紋が、甲羅のような形で浮かび上がる。
 玄武印が、皮膚の下へ沈んでいった。

「……向こうは、対艦レーザーか。ま、一発くらいは凌げるだろ」

 亀岩が、真顔で言う。

「……心強いような、そうでもないような」

 花が苦笑すると、亀岩も口元だけで笑った。

「まあ、絶対無敵の盾って訳にはいかねえが、無いよりはマシだろ!」

 そこへ、桃猫が身を寄せる。

「ダイジョーブアル、花」

 上目づかいで、にこっと笑う。

「グイェンの加護、ちょっとやそっとじゃ割れないネ」

 桃猫は不安そうに肩をすぼめる花の背中をパンと叩いた。

「大丈夫! グイェンを信じるアルよ」

 花は、玄武印が沈んだ腕を見下ろした。
 握った指先に力を込める。

「必ず帰ってきます」

「おう! 桃猫とここで待ってるからな」

 亀岩は大きく胸を張った。


 ◇


《そうそう。宇宙まで道が続けば、だいたい何とかなる》

 都市捕獲衛星のモニター越しに、下山師匠が鉄の糸を眺めていた。
 花の視界にも、映り込んでいる。

「道っていうか、ただばか長いチューブですよね」

《塔もエレベーターも配管も同じ。同じ“穴”。
 穴は、“通り道”であり、世界はだいたい道でできてる》

「発想がもう宇宙人なんですよ」

 花のぼやきが、何人かの頭で同時に再生された。

《よし、あれは配管。スパイク、どう?》

『通れる。長いからわくわくする』

 スパイクの体が、鉄の糸にすべり込んでいく。


 ◇


「じゃ、列車役はボクだね」

 スパイクが、大きな尾をぱたんと揺らした。
 ヨウスコウアリゲーター。体長五メートル。

「メーメー、聞こえる?」

 スパイクの声が、頭の中に響く。

「聞こえてます。視界も共有できています」

 恋辻メーメーは、耳元を軽く押さえた。
 髪を束ね直し、双喜と花のほうへ向き直る。

「スパイクは、塔の中を一番速く駆け抜けられます」

 落ち着いた声で言う。

「わたしが合図を出しますから、双喜さんは花さんを抱えて、スパイクの口の中に入ってください」

「宇宙行きワニ特急、人生プランになかったけど――レア体験は大歓迎!」

 双喜は楽しそうに跳ねている。

 花は、双喜を見つめる。
 何か口を開きかけて、口をつぐむ。

 黙ってうつむいていると、双喜の顔が近くにあった。

 花の顔をじっと覗き込んでいる。

「花ちゃんは、そう思わない?」

 双喜は、にこりと笑う。

「ワニ列車で宇宙まで。フィナーレを飾るにはちょうどいい花火だよ」

 花の手を握る。

「ほら見て、欲望の流れが渦を巻いてる」

 もう片方の手で、星の岩屋を指さす。

「大丈夫。星の岩屋も、七鴉翁の欲望も、この双喜が、ぜんぶまとめていただきまーすってね」

《そろそろ、みんなの準備が終わるようだよ》

 師匠の声。

《きみも――》

 不意に師匠の声に別の声が割り込む。

《私の欲望を喰らう、か。若いな》

 七鴉翁の声だ。
 芝居がかった、冷ややかな響き。

《欲望とは、かくも――》

 花は慌てて通信を切り替える。

「師匠、伝言です」

 花は、空を仰いだ。

「七老爺が、“若い”って。あと“欲望とは、かくも”と」

 師匠の声が、すぐ重なる。

《よし、そのへんで切っとけ》

 短く言い切ってから、ひと言おまけを乗せた。

《どうせ長くなるから》

「……了解です」

 花は、息を吐いた。



 ◇



 そして――

「カウントダウン用意」

 花は、自分の胸に手を置いた。

 空の向こう。虹色の膜のさらに先。
 黒い球体、星の岩屋が、じっとこちらを見下ろしている気がする。

 都市捕獲衛星(師匠操縦)のモニターに、赤い文字が走った。

《ERROR:環境制御モジュール未検出/推定安全時間:08分30秒》

 師匠の声が、全員の頭に響く。

《――じゃ、始めようか》

 どこか浮かれた調子は崩れない。

《空まで一本、きれいな道が引けたしね》
《作戦名、『グッバイ・シャンハイ』》

「縁起でもないこと、言わないでください」

 花が突っ込む。

 下山アンドロメダは、笑ってごまかした。

《細かいことはいいの!》

 すぐに、花へ向き直る気配がする。

《弟子、号令お願い》

 花は、空を見上げた。

 夜の帳が下りる。
 星が瞬く。

 これは夢かもしれない。
 でも、もう迷わない。

「……行きます」

 花は、声を張った。

「発射台、用意!」

 炎嵐と拳狐が、拳を構える。

 スパイクの尾が、地面を叩いた。
 振動が、その口の中にも伝わってくる。

「カウント、開始――」

 花は、息を吸い、数字を刻んでいった。

「10」

 スパイクの喉がぐるると鳴った。

「9」

 塔の先端が、星の岩屋の影と重なる。

「8」

 息を吸うたび、肺の奥がひきつる。
 指先の感覚が、すこし遠のいていく。

「7」

 視界の端が、じわっとにじんでいく。

「6」

 カルミアの指が震えていた。
 芽芽は、その手に指を絡ませると、ぐっと握りしめる。
 カルミアも、遅れてぎゅっと握り返した。

 夜空に白いドレスの裾がひらめく。

「5」

 亀岩は、拳を握りしめた。
 桃猫が、すぐ隣で小さく息を詰める。

「4」

 双喜が、空をあおぐ。

「……ん、来た来た」

 双喜が目を細める。

「何が?」

 花が問う。

「欲望の流れが、一本の道みたいに延びてきてる」

「3」

 拳狐が、足を踏み込んだ。
 腰を沈めて、拳に全身の重みを預ける。

 炎嵐が、同時に拳を握る。
 赤いシャツの下で、血が灼ける。

「2」

 コクピットの外から、白髪黒羽がひらひらと手を振った。

「1」

 虹色の膜が、弾けた。
 星の岩屋が、ぐっと近づく。

 モニターの赤い表示が、花の視界の端をかすめた。

《ERROR:環境制御モジュール未検出/推定安全時間:00分05秒》

 花は、胸の奥を確かめた。
 ひびの入ったガラス玉が、掌の中であたたかい。

「――ゼロ」

 次の瞬間。
 拳狐が一撃を放つ。
 炎嵐が、灼けた拳を叩きつける。

 その衝撃を、スパイクの尾がばねみたいに受け止めて、上向きの勢いに変える。

「いっけええええええ!!」

 双喜が叫んだ。

 スパイクを車体にした「列車」が、張三が延ばした道に沿って、
 星の岩屋へ――

 撃ち出された。

 重力の感覚が、遅れてついてくる。
 街の灯りが、きらめきながら遠ざかっていく。

 花は、目を閉じた。
 胸元でダイヤをぎゅっと握りしめる。

 じんわりと温かい。

 これは夢かもしれない。
 でも、確かにここにいる。

 このぬくもりだけは、本物だと思えた。




 fin.


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