大歓声のこだまするマウンドの中心には、エースの鷲尾がいる。
もう鷲尾は明らかにスタミナ切れだ。既に肩で息をしている。
その様子をモニターでチェックしながら、保谷は一球、カーブを投げる。
彼の誇れる武器は、このカーブ一本だけだ。真っ直ぐも速くなければ、コントロールも取り立てていいわけではない。
この磨き上げたカーブだけを武器に、モンキーズに入団し、今までのD野球人生を送ってきた。だが、それでも…。
モニターの中のマウンドに猿渡監督が歩み寄る。ブルペンコーチが電話の受話器を持ち上げる。
そしてブルペンに向かって声を掛ける。
「おい北見、出番だ。」
隣で肩を作っていた北見が小走りで通用口から出ていくのを、保谷はただただ横目で追うだけだった。
保谷はこのところ悩んでいた。
このD野球の世界では、選手たちの能力が予め明らかになってしまっている。「調子」のような要素もない。だからプレーヤーは、明らかに能力が低かったり、使いにくい能力をしている選手は使おうとしない。つまり、完全な実力主義なのだ。
この保谷が、まともに操れる球種は、カーブ一つのみである。球速は7と平凡なライン、コントロールも6で平均レベル。
保谷の出番といえば、荒れ球クローザーの町田が息切れした時に「しょうがなく」使われる場面くらいである。
望まれての起用ではない。これでいいのか。これで俺はやっていけるのか。保谷はそう悩んでいた。
エースの鷲尾には、真っ直ぐで押していけるだけの球威と、超一流のシュートがある。二番手の北見には、安定した能力と、ストレートとフォークのコンビネーションがある。三番手の湯川には、微妙なボールの出し入れができるコントロールがある。抑えの町田には、誰が見ても魅力的な速球と、一級品のフォークがある。どの投手にも個性があるのだ。この、保谷を除いて。
保谷には平凡な真っ直ぐと、及第点のコントロール、そしてなかなかのカーブがあるだけだ。カーブの変化量こそチーム随一ではあるが、だからと言って一球種では打者の狙い撃ちの餌食になるだけである。
実際、カーブにヤマを張った打者に打ちこまれ点を失う場面も少なくなかった。「しょうがなく」使われて、「思った通り」に打ち込まれてしまうのである。保谷は、いつしか野球が楽しくない、とまで思うようになっていた。
そんな保谷に転機が訪れたのは、クロウズの柳瀬がアンダースローに転向した、という情報を知った時である。
とはいえ、それを聞いたからと言って、最初から真面目にアンダースローに取り組もうとしたわけではない。
練習の間の空き時間に、投手陣の中で件の柳瀬が話題に上がった、という程度である。
アンダースローってどうやって体を使うんだろうなあ、というような雑談から、一人一人がブルペンのネットに向かって下から投げてみた。
鷲尾や北見、町田のような本格派投手は、口をそろえて「体重移動がうまくいかない」と言い、ホームベースまでボールが届かなかった。恐らく、骨盤の使い方が別物なのだろう。
湯川はここでも持ち前の制球力を発揮し、ストライクゾーンにボールを入れたものの、あまりにも山なりの投球で、速度も伸びも切れもあったものではなかった。
しかし、保谷だけは違った。体をすっと沈み込ませて、そのまま腕を柔らかく振ってみると、放たれたボールはホームベースの中心を通っていった。
俄かに室内練習場のブルペンが沸く。鷲尾が、もう一球投げてほしい、とせがむ。騒ぎを聞いた滝川が、打席に入ってバットを構えてみる。
そんな風に何球か投げ込むうちに、保谷はだんだんとコツをつかんでいく。
10球ほど投げて、その次の球は少し力を入れ、コースを狙って投げてみることにする。
ボールは内角高めを抉るように通過する。ストライクのコース。だが滝川はのけぞってボールを避けた。
下手投げ投手特有の、低い位置から浮き上がってくるような軌道だったからだ。
未知の球筋を打席で見た滝川は、思わず体をのけぞらせてしまったのである。
次、ラストにするわ、と保谷は打席の滝川に声をかけた。顔には不敵な笑みが浮かんでいた。
放たれた投球は、低い位置からまた浮き上がって、滝川の頭に向かっていくように見えた。
思わず滝川はしゃがみこみながら打席から飛び退く。
と、ボールはその位置から見えない糸に引っ張られるように曲がり落ち、明らかなストライクゾーンを通過していく。カーブである。
この一球が防球ネットに軽い音を立てて収まった瞬間、ブルペンは試合に勝ったかのような歓声に包まれた。
いつの間にかチーム内のほぼ全員がこの様子を見に来ていた。そこにいた皆が、保谷の投球に驚きを隠せないようだった。
急に始めた下手投げで、ただ構えているだけとはいえ、日本代表の中軸を打つ滝川を手玉に取ってしまったのである。
この場には偶然猿渡監督も居合わせていた。そして保谷は、その場で、「これから下手投げでの練習を行うように」という訓示を受けた。
そうして、保谷の努力の日々が始まったのだ。
この努力は、保谷のこれまでの野球人生で一番つらく、それでいて楽しい努力だった。
これさえあれば、歓声に包まれるマウンドに上がれるかもしれない。それも、今度は望まれての登板だ。
そう思えば、血豆がいくつ潰れようと、保谷は痛いとも思わなかった。
そしてついに、その日は来た。
下手投げに転向した保谷が、ついにマウンドに上がることになったのである。
二回の裏に代打を出された北見に代わって、三回の頭からの登板。
点差は一点。痺れる場面での、クローザーとしての起用である。
振りかぶって、体を沈み込ませていく。
数か月前まで上手投げの投手だったとは思えないほど滑らかなフォーム。保谷の天性の才能と、血のにじむような努力が共鳴した結果である。
真っ直ぐが高めいっぱいに決まる。相手の打者がそれを驚いたようにのけぞって見逃すと、保谷は不敵な笑みを浮かべる。
こんなに野球が楽しかったのは、一体いつ以来だっけな。
そう心の中で呟くと、保谷はまた、振りかぶって次の一球を投じる。
こうして保谷は、チームに欠かせない戦力として戻ってきた。
左投げのアンダースロー。これ以上ないほど球の出所の見にくいフォームである。
加えて、もともとなかなかのレベルにあったカーブが、この下手投げではこれ以上ないほど活きる。
下手投げ投手独特の浮き上がる球の軌道から、ふわりと落ちていくような保谷の大きなカーブは、打者からすればタイミングの取りづらさ、カーソルの合わせにくさ、どちらも屈指のレベルにあるのだ。
たぶん今日も、保谷は歓声の響くマウンドに上がっていくだろう。
そして打者を手玉に取りながら、どんどんと下手投げでボールを投じていくのだろう。
滝川をのけぞらせた時の、あの悪戯小僧のような不敵な笑みを浮かべながら。
そう、つまり、野球を心から楽しみながら。
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