ギャルゲ・ロワイアル2nd@ ウィキ

羊の方舟

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羊の方舟 ◆wYjszMXgAo


◇ ◇ ◇



こうして七日の後、洪水が地に起った。
それはノアの六百歳の二月十七日であって、その日に大いなる淵の源は、ことごとく破れ、天の窓が開けて、
雨は四十日四十夜、地に降り注いだ。



                      創世記第七章 10 11 12節





◇ ◇ ◇



――――クリス。そちらは今も、雨が降っていますか?


彼女の手紙はいつもそんな書き出しで始まる。
内容は実にありきたりで、だからこそ彼女を近くに感じることが出来た。
今、僕達の見ている方向は違っているかもしれない。
……だけど。
それでも同じ道を歩いていくことはできる。
姿は見えなくてもずっと一緒にいてくれているような、そんな気さえ起きていた。

歌は下手で、だけども料理や洗濯、掃除の得意な穏やかな女の子。
いつも僕達の後ろを歩いていて……、それが放っておけなくていつも僕は彼女に駆け寄ってしまう。

……それが、僕の大切な彼女。
アリエッタだ。

今はそんな彼女も自分のやりたいことを見つけて頑張っている。
僕達の地元でも評判のパン屋さんで一生懸命技術を吸収していて、今はもう殆どの工程を自分一人でできるようになったらしい。
新人さんの教育も忙しいそうで、すごく立派になったのだろう。
多分、それでも歌は相変わらず下手なんだろうけど。


一週間に一度交わす手紙が一杯になった時に、また、彼女とずっといられるいう約束の下。
僕は3年間の間ずっと、彼女を想い続けていた。



彼女には何もなくて……、だからこそ、僕が側にいてあげなくちゃいけないと思った。
ずっと一緒にいた双子のうち、僕が彼女を選んだのはそれだけの理由だった。

……大好きだった。
いや、今も好きであり続けている。

けれど彼女は、穏やかな表情を変えずに今も――――、



『生き続けて』いる。



◇ ◇ ◇



主はノアに言われた、「あなたと家族とはみな箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代の人々の中で、わたしの前に正しい人であるとわたしは認めたからである。
あなたはすべての清い獣の中から雄と雌とを七つずつ取り、清くない獣の中から雄と雌とを二つずつ取り、
また空の鳥の中から雄と雌とを七つずつ取って、その種類が全地のおもてに生き残るようにしなさい。
七日の後、わたしは四十日四十夜、地に雨を降らせて、わたしの造ったすべての生き物を、地のおもてからぬぐい去ります」。
ノアはすべて主が命じられたようにした。



                      創世記第七章 1 2 3 4 5節




◇ ◇ ◇



それに……。
どっかの誰かさんがほんっとうにあぶれた時に、一人くらい候補がいた方がいいでしょ?


思った通りの言葉が耳に届く。
あまりにも近すぎる距離。
だからこそ、離れなければいけないと思った。

……勿論、嫌いだからじゃない。
本当に大切で、だからこそ自分にとっての一番を間違えてしまうことが怖かった。
彼女は、強い。
だから……弱いアルの側に僕はいなくてはならない。
誰か一人しか側にいることを許されないなら、それが当然だ、なんてその時の僕は考えたからだ。
彼女の想いに気づいていない訳じゃない。
それでも強い彼女ならきっと分かってくれる、そう信じていたからこそ僕は彼女を選ばなかった。

そして。
紆余曲折を経て、彼女は今も僕の隣を歩いていた。
距離を離すというそれだけのために、僕はまたも彼女を選ぶことをやめた。
一緒に天井を見上げた――――トルティニタを。

……僕は、トルタが大好きだった。

でも、強いなんて思い込みだけで僕は彼女を選ばなかった。
……彼女はそれでも僕を色々助けてくれている。
天秤が傾くのに充分すぎる距離は心地良くて、苦しい。


きっと、誰もが彼女と僕が組むのは当然だと考えているのだろう。
そうなれればどれだけ良かったろうか。

結局、僕がパートナーに選ぼうとしたのは――――、


◇ ◇ ◇



人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、
神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。
そこで主は言われた、「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう」。
そのころ、またその後にも、地にネピリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった。
主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。
主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、
わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。



                      創世記第六章 1 2 3 4 5 6 7節




◇ ◇ ◇



私……、歌っても、良いんですか?


ほんの数日前の事だった。
……ようやく彼女はアンサンブルに頷いてくれた。
壁越しでない、互いの呼吸を図った上での楽器と声の融合。
楽しかった。
彼女も本当に楽しそうに歌っていた。

……後々トルタと出会ってすぐ逃げ出してしまったくらいだし、人付き合いは苦手なのかもしれない。
それでも、リセの歌声は本当に素晴らしかった。
だから彼女の歌声を皆にもっと知ってもらいたいと思う。
そうすればきっと、彼女も自信を持てるだろうから。
……やりたい事を見つけたアルのように。

だから、不意に思いついたのは彼女を卒業演奏のパートナーに誘うという選択肢。
勿論すぐにじゃない、段階というものがあるのはさすがの僕でも分かっている。
……いずれにせよ、僕らしくない行動力だとも自覚していた。

なのにそう思えたのは、きっと彼女がアルに似ていたからだろう。
放っておけなかった。
小動物みたいに弱々しくて、だけど確かに歌という望みを抱えた彼女の事を。


彼女が何を抱えているか、僕は知らない。
今度開講する特別講義に何か思うところがあるみたいだけど、それすら僕には分からない。

……だけど、彼女と関わっていこうと決めた。
卒業演奏云々は抜きでも、それが正しいことだと思ったから。



◇ ◇ ◇



その同じ日に、ノアと、ノアの子セム、ハム、ヤペテと、ノアの妻と、その子らの三人の妻とは共に箱舟にはいった。
またすべての種類の獣も、すべての種類の家畜も、地のすべての種類の這うものも、すべての種類の鳥も、すべての翼あるものも、皆はいった。
すなわち命の息のあるすべての肉なるものが、二つずつノアのもとにきて、箱舟にはいった。
そのはいったものは、すべて肉なるものの雄と雌とであって、神が彼に命じられたようにはいった。そこで主は彼のうしろの戸を閉ざされた。



                      創世記第七章 13 14 15 16節




◇ ◇ ◇



……クリス少年、君の雨はいつ止むのかな?


繰り返される1フレーズ。
惹かれるままに足を踏み入れた先には、まるで型破りで――――、それでも確かにお姫様と呼ぶべき人との出会いがあった。

アルとも、トルタとも、リセとも違う。
彼女、……ユイコは本当に今まで会った事のないタイプの人だ。
何事をも積極的に楽しもうとしていて、何が起ころうと飄々と受け流す頼もしさもある。

大聖堂ではオルガンを。
彼女の故郷の服を着せられたり、戦いの最中に僕を守って怪我をさせてしまったり。

キョウ達とはアンサンブルを。
誰かに送るレクイエム。
それに彼女が歌を乗せてくれて、キョウもそれに続いてくれて。
死を悼むと共に、希望を胸に抱いて眠りにつくことが出来た。
……起きた時に彼女の膝を借りていたのは恥ずかしかったけど。

無理矢理温泉に入れられて。
……色々からかわれた気もするけど、彼女はすごく暖かかった。
いや、あの感触がどうとかそういう話ではないのだけど。
そのはず……、そのはずだ。うん。


彼女は何事にも自分の楽しみを見出そうとする。
……要するに。
――――僕を引っ張っていく人は初めてだったのだ。

後ろから僕についてくるアルやリセとは違う。
共に歩くトルタとも違う。

……そんな彼女と一緒にいるだけで、僕の中の何かが変わっていった気さえした。

これまで僕は、何かを見失っていた。
大切な何かが唐突に消えうせてしまったかのように。
見据える先が不透明どころか、どちらに進めばいいのかさえ分からなかった。
卒業演奏を控えてもそれは変わらなくて、いずれ来たる卒業の後にプロを目指すかどうかさえ判然としない毎日。

……音を、楽しむ。
結局の所僕がフォルテールを弾くのはそれに尽きた。

だけどそれだけではプロをやっていくのは難しいことを知らされて、僕は足を止め続けていた。
雨の中、ただ僕はその冷たさに身を任せていた。

……その手を取ってくれたのがユイコだったのかもしれない。

だから――――、僕は彼女の諦めが許せなかった。

自分が人形だなどと、感情を持っていないだなどと。
そんな事は、ない。そのはずだ。
何かを楽しめるその想いが嘘であるはずがない。
ほんの時折見せるその照れも、確かに彼女は生きてそこにいることを告げている。
いずれ死ぬはずの人間という彼女の言質とは関係なしに、一人の『人間』としてユイコは確かに在るのだ。

……だから、そんな強くて脆い彼女に僕は教えてあげたい。
手を引いてくれた彼女に対して、僕のできる事はそれくらいだ。
ユイコも心を持っているんだと、大切なものを見つけられるかもしれないと。
そう、強く強く思う。


――――せめて、彼女が『最期』にそれを掴めた事を僕は祈る。
それが僕なりの贖罪なのだから。



え。

最、期?



悲 鳴 が 、 僕 の 破 れ た は ず の 鼓 膜 に リ フ レ イ ン し 続 け て い た




◇ ◇ ◇



洪水は四十日のあいだ地上にあった。水が増して箱舟を浮べたので、箱舟は地から高く上がった。
また水がみなぎり、地に増したので、箱舟は水のおもてに漂った。
水はまた、ますます地にみなぎり、天の下の高い山々は皆おおわれた。
水はその上、さらに十五キュビトみなぎって、山々は全くおおわれた。
地の上に動くすべて肉なるものは、鳥も家畜も獣も、地に群がるすべての這うものも、すべての人もみな滅びた。
すなわち鼻に命の息のあるすべてのもの、陸にいたすべてのものは死んだ。
地のおもてにいたすべての生き物は、人も家畜も、這うものも、空の鳥もみな地からぬぐい去られて、ただノアと、彼と共に箱舟にいたものだけが残った。
水は百五十日のあいだ地上にみなぎった。



                      創世記第七章 17 18 19 20 21 22 23 24節




◇ ◇ ◇



絶え間なく続くどしゃ降りの雨の中、僕はひとり歩き続けている。

後についてくる人も、共に歩く人も、僕の手を引く人もいない。
雨霧に霞んで数歩先も見えない道を、かろうじて水の流れと分かる方に沿って歩いている。

彼女がいるべき川の上流を目指しているつもりだった。
だけど、バケツをひっくり返したような豪雨のせいなのか、正しい方向に進んでいる自信がない。
すぐ近場にある流水が海なのか川なのかも判然としない。

そうしてあてどもなく彷徨う僕の体力は確実に失われていっている。
打ちつける雨が痛い。
水を吸った服が重い。
顔に当たる大気が生温い。

体は休憩を求めているはずだ。
なのに何故歩いているのだろう。
……あるいは、何故休みたくないのだろう。


決まっている。
立ち止まってしまったら、また歩き出す自信がないからだ。




◇ ◇ ◇



夢を見た。
大切な人たちの夢を。

懐かしくて、愛おしくて、どうしようもなく心が張り裂けそうになった。

……どうして、このタイミングで思い出してしまったんだろう。
ユイコと一緒にいたなら、そんな事を想い返す暇もなかったろうに。
彼女の引く手に合わせてついていくだけで僕は精一杯なんだから。

その彼女も今はもういない。

ああ、だからこそなんだろうか。
……僕が彼女達に向き合う必要があるのは。

それがユイコを護れなかった、僕の罪深さの象徴だから。


今まで僕は、一体何をしようとしていたんだろうか。



◇ ◇ ◇


ぬちゃりと踏み込んだ先の泥が靴にこびりつき、気持ち悪い感触が足の裏から伝わってくる。
目には飛び跳ねた雫が絶え間なく降りかかり、何をしてもしなくても僕の視界を閉ざす。
纏わりつく熱気と湿気はいまだかつて感じたことがないくらいだ。
なのに、体は妙に冷え込んできている。
気温そのものはピオーヴァの夏よりも熱いくらいなのに吐く息は白い。
服の吸い込める水の量はとうに限界を超えていて、僕の後ろには裾から滴り落ちた水が一筋の糸となって延々と続いている。

ここは何処なのだろうか。

僕は何処に行こうとしているのだろうか。

答えはあるはずもなく、荒れる水面の波の音の側を、いつまでも僕はひとりで歩き続けている。

……誰かと話したかった。
ずっと側にいた音の妖精もここにはいない。
ただ、僕だけがいる世界。



……それにしても、信じられない蒸し暑さだと思う。
僕の故郷の北部でも、ピオーヴァのある南部でも、僕が育ったあの国では考えられない。
まるで話に聞く南の島国のようだ。


そこに僕は違和感を覚える。
確か島の西側はピオーヴァにそっくりで、季候もほとんど同じだった。
なのに、多分島の東側であろうここでは、ピオーヴァでは有り得ない暑さが自己主張をしている。
こんなおかしな季候条件の島なんて、現実に存在するんだろうか?

……尤も、一年中雨の降り続けるピオーヴァだって異常なことには変わりない。
あの町は確か、火山活動の影響で雨の街と呼ばれるようになったはずだ。
この島の気候のおかしさにも何か原因となっているものがあるかもしれない。


……そんなどうでもいい事を考えて、苦笑する。
気を紛らわそうとしただけで、結局目の前の事に僕は向き合おうとしていない。


――――ああ、そうだ。
僕は……、向き合わなくてはいけなかったんだ。
少なくとも、取り返しがつかなくなる前に。


ユイコと楽しく笑いあえていた、あの時に。



◇ ◇ ◇



ノアは子らと、妻と、子らの妻たちと共に洪水を避けて箱舟にはいった。
また清い獣と、清くない獣と、鳥と、地に這うすべてのものとの、
雄と雌とが、二つずつノアのもとにきて、神がノアに命じられたように箱舟にはいった。



                      創世記第七章 6 7 8 9節



◇ ◇ ◇


選ぶ。
何て嫌な言葉だろうか。
つまりは、それは選ばれなかった人たちを切り捨てるということなのだから。

傍らにいることを許されるのはただ一人。
僕はそんなどうしようもない事実に対して目を背けていた。

僕にはアリエッタがいるのに、確かにユイコに惹かれていたのだから。

そのことに対して言い訳をするつもりはない。
彼女のペースに流されたのは事実だけど、実際僕はそれを楽しんでいた。
ただ、僕が誰に対しても不誠実だと、最低の人間だという自覚を持たざるを得ないだけだ。


どうしても放っておけなくて、その結果がこの通り。
僕は彼女を守ることが出来ず、……きっと、死なせてしまった。

リセの事を思い出す。
……あの雨の町でずっと彼女に関わっていこうとした結果を突きつけられたような気もした。

……そう、僕にとっての一番はアリエッタ。そのはずだ。
だからこそ――――、自分は人形だといった時のユイコの表情に向き合う覚悟が足りなかったのかもしれない。

その選択をしてしまったら、大切な誰かを傷つけてしまうことが分かっていたから。

……もしもあの時、彼女との関係が違ったものならば。
彼女の結末があんな形にはならなかったのかもしれない。

それがより親密なものであるか、全くの無関係であるかは別としても。



そう、こんな風に。
――――僕は、僕自身のどうしようもなさの原因を、覚悟なんて目に見えないものに転嫁しようとしている。


僕は嫌でしょうがない。
……ユイコと一緒にいたかったという想いを、彼女と関わってきたその事実を誤魔化そうとする自分自身が、本当に。


覚悟があれば、ユイコともっと一緒にいても良かったのか?
結局の所、覚悟なんて言葉一つで僕はアリエッタの事を裏切ろうとしている。

ああ、本当にどうしようもない。
僕は無力で、彼女の命も心も救うことが出来なかった。
純然たる事実がそこにあるだけで、出来ることなど何一つない。


■■■■■の時と同じで、理不尽な出来事に僕はただ流され続けるだけだ。



◇ ◇ ◇


無数の雨の音は、一つの重合した音となって止むことはない。
顔にべとりと張り付く髪の毛を払うこともせずに歩き続ければ、いつしか僕は見知らぬ景色の前へと辿り着いていた。

太陽の元では白く見えるだろう砂浜は灰色に染まっていて、青いはずの海はより黒みがかった灰色に。
荒れきったその場所は、高い波が打ち付けている。
……砂浜が吸い込むのか、水溜りは一つとして見えないのが印象的だった。

……海水浴用の、ビーチなんだろうか。

辺りを見回してみれば幾つかの店が見えている。
……雨の冷たさに震える体に何かいいものはないか、なんて思って、そのうちの一つへ向かう。

目の端に移った奇妙な建物を僅かに意識に置いて、僕の歩みは止まらなかった。

雨は冷たいのに空気は蒸し暑いなんて、奇妙なこともあったものだと思いながら。
思おうとし続けながら。



◇ ◇ ◇


僕は、無力だ。

……ほんの少しの行き違いから、キョウを助けられなかった。
ただ見ていることしか出来ないというのは、……手を下したのも同じことだ。

シズルを引き戻すことも出来なかった。
きっと誰もが哀しむと分かっているのに、説得は届かなかった。

……リセの死に目にも会えなかった。
彼女に報いるために、僕には何が出来るだろう。

リセのためと言いながら、僕はアンサンブルをした。
……そういう『誰かの為』、――――リセの為という言い訳で、僕は大切な人を裏切る口実を作っているんじゃないのか。
そんな、自己欺瞞に満ち満ちた人間を彼女が頼ろうとしてくれた事は、ナゴミを通じて聞いた。

……僕に、彼女を悼む資格はあるんだろうか。

……確かに僕は、リセの事が気になっていた。
だけど、それはアルへの自分の感情を否定するものではないはずだ。
結局の所――――、僕は、遠いところにいるアルを傷つけることを恐れて、無力さを理由に何にも向かい合おうとしていない情けない人間なんだろう。

どうしようもない。
本当に本当に、救いようがない。

誰かを傷つけない為に自分を誤魔化して――――、
結局、誰一人救えないならそこに残るのは傷ついた人たちだけだ。



――――だから君は無力じゃない。私にここまで有意義な時間を作ってくれたのだから。


……ねえ、ユイコ。
そんな事を言ってくれた君は、もういない。
僕の手の届かない所に逝ってしまったけど。

……それでもこんな僕に、またその言葉をかけることができるかな。

僕は君を死なせてしまった。
最後の瞬間、きっと哀しませてしまった。
……君一人なら、生き延びられたのかもしれないのに。
君は、君を死なせた僕でさえも無力でないと言ってくれるんだろうか。
それでも楽しめたからいいではないかと笑って。



そうして、僕は無力という言葉を逃げ道にし続ける。


……気付いている。
君に惹かれていたという事実を、アルへの裏切りを。
無力という言葉でユイコを助けられなかったと誤魔化す欺瞞に自己嫌悪が止まらない。


……結局誰かを傷つけることしかできない僕。


無力で欺瞞に満ちたクリス=ヴェルティンに生きる価値はあるのだろうか。




◇ ◇ ◇



しかし、ノアは主の前に恵みを得た。
ノアの系図は次のとおりである。ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。
ノアはセム、ハム、ヤペテの三人の子を生んだ。



                      創世記第六章 8 9 10節




◇ ◇ ◇


海沿いの道路に面したバールが、そこにあった。

からんというベルの音を聞きながら、後ろ手に扉を閉める。
――――途端に雨の音は小さくなった。

静寂の中、僕が店の奥に進むたびに全身から水が滴って軌跡を作る。
勿論気にする人は誰もいない。
出迎える相手もいなければ話す相手もいない。

……何か、暖かいものを。
カプチーノを作るくらいなら僕でも出来るので、それを作ろうと狭い厨房に立つ。

……材料棚と思しき所を見て、目に付いたのは一つの小瓶だった。

インスタントのチョコラータ・カルダの粉末。

……チョコレートを溶かしただけの代物だ。
飲むというより食べるといった方が正しいくらいの濃さの代物で、胸焼けしてもおかしくない。
牛乳で割って、上に浮かべた生クリームを溶かしながら口にする。
チョコレートならパンに塗って食べたりするけど、普段ならカップ一杯はさすがに飲む気が起きないはずだった。


だけど――――、気付けば僕はいつの間にか、それを手にバールの一席に座っていた。




◇ ◇ ◇


……トルタ。
トルティニタ・フィーネ

彼女の好きな飲み物を手にしたことで、僕はトルタの事を否応なく思い出す。

ここに来る直前の僕が一番親しい人間は誰か、と聞かれたら、多分僕は彼女の名前を挙げたことだろう。
……それこそ、アルよりも近かったから。

掌に乗るような小さな同居人も親しいといえば親しかったけど、普通の人には見えない彼女はまた別だ。

……だから、僕はいくら無力でも、死ぬ訳にはいかない。
そうなった時、きっと彼女は哀しむだろう。
リセもユイコもいなくなってしまったけど。
……アルとトルタは、まだ生きている。
彼女達を悲しませたくはない、絶対に。

……たとえ、僕自身が生きている間に無力さに苛まれようと。


――――そして。
彼女は今、何をしているのだろうか。
放送で呼ばれなかったことだし、生きている可能性は高いんだろう。
それはとても喜ばしいことではある。
……だけど、無事である保証はない。
生きているだけで、瀕死の怪我を負ったかもしれないのだから。



……トルタは強い。
僕は少なくともそう信じている。
だけど、それは精神だけの話だ。
どう足掻いてもトルタは歌が上手いだけの女の子以上の何者でもない。
リセのように殺されてしまっても、……おかしくはないのだ。
むしろ、その可能性のほうが……ずっと高い。

……また、トルタと会えるのだろうか。
彼女は今、一人なんだろうか。
……彼女を守ってくれる誰かと一緒にいるのだろうか。


……その可能性に思い当たって、僕の心に言いようのないざわめきが立つ。

トルタが僕以外の誰かの隣にいることを。
誰かがトルタの隣にいることを。

……僕は、許容できるのか?

ずっと一緒だった彼女が、見知らぬ誰かの隣で笑っている光景。
今まで思い浮かべたこともないそれは確かに今、僕の脳裏に描かれつつある。


……愕然とする。
おかしくはない。むしろ、その方が自然ではあるはずなのに。
僕がトルタを選ばなかった以上、彼女もまた僕ではない誰かの側にいるのが当たり前ではあるはずなのに、だ。


……どれだけ。
僕はどれだけ、みっともないんだろう。


……その光景が妄想でありますように、という囁きが、脳の中で響き続けている。
僕の彼女はアリエッタである以上、トルタが僕とは別の所で幸せを掴んだのなら祝福すべきだというのにだ。


◇ ◇ ◇


――――走る。

作ったばかりのチョコラータに一度も口を付けず、再度僕は雨の中に踊る。
バールの入り口に足を取られて転びかけるも、そんな事など気にせずに。

訳の分からない衝動に突き動かされて、とにかく何かをしたかった。
この感情を何かの形で僕の中から追い出したかった。

だから僕はさっき見かけた建造物へと向かう。
……実に都合のいい事に、その為に作られたかのような物だったから。

……嗚呼、僕は本当に最低だ。

アルを裏切り、トルタを傷つけ、リセに付け込み、ユイコに甘える。
無力なまま生きている限り誰かを傷つけて、死ねば死んだで関わった人たち全員に悲しみをもたらす。




……こんな人間は、最初からいなかった方がいいのかもしれない。


雨は激しさを増してなお止む気配はない。
それでいい。
少なくとも、僕は雨に打たれるべき人間だから。


霞に煙る砂浜を駆ける。

ぐにゃりとした足元の柔らかさが気持ち悪い。
所々に落ちている貝殻の割れる感触が鬱陶しい。
生臭い潮風が煩わしい。

……どれだけ、そんな場所を進んだろうか。


『それ』は、そこにあった。


水を吸って重い服と、安定しない足場の為か息が上がる。
……黒い大理石のような柱に手をついて、しばらく息を整える。
雨は足下しか当たらない。


……柱の上には、屋根がついているからだ。
壁があるべきところは吹き抜けになっていて、反対側が見える。

……見渡してみれば、その建物の床は円形になっていた。
僕の知識で言うならば、おそらく……屋外ステージというのが一番近いのだろう。
ビーチで行なわれるような何かのイベントに使うのだろうか。
丁度、中心で催し物をやるには適切な大きさと形だと思う。


……息が落ち着いてきたことを確認して、柱に刻まれた文字を読んでみればこうあった。


『方舟』、と。


何故、この黒い大理石のステージにそんな名前がついているかは分からない。
……ただ、僕はここを使わせてもらおうと思う。
フォルテールを奏でるために。



◇ ◇ ◇



時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。
神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。
そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。
あなたは、いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中にへやを設け、アスファルトでそのうちそとを塗りなさい。
その造り方は次のとおりである。すなわち箱舟の長さは三百キュビト、幅は五十キュビト、高さは三十キュビトとし、
箱舟に屋根を造り、上へ一キュビトにそれを仕上げ、また箱舟の戸口をその横に設けて、一階と二階と三階のある箱舟を造りなさい。



                      創世記第六章 11 12 13 14 15 16節





◇ ◇ ◇


方舟という奇妙な舞台の上。
僕は、一人でフォルテールの準備をしている。
誰に聞かせるわけでもない。

フォーニの為でもない。
アルの為でもない。
トルタの為でもない。
……リセの為でもない。

……ユイコの為、なんだろうか。

彼女との永遠の別れに捧げる為の、たった一人の演奏会。
……もう、彼女とアンサンブルをする事は出来ない。
その喪失感が悲しみを麻痺させているからこそ、今はただ演奏をしようとするのかもしれない。

……準備はすぐに終わる。
自前のでなくリセのフォルテールとはいえ、これでも僕はフォルテール科の学生だ。
前置きにさほど時間は必要ない。

設置したフォルテールで何を奏でようか。
……一瞬、それを考える。

一番最初に奏でようとしたのは、出会った時の曲、L'uccello blu――――蒼い鳥。
……だけど、暗譜が出来るほどに練習した訳ではなかった為、無理だろう。
あの楽譜は今も壊れた聖堂の中にあるままなのだろうか。


次に浮かんだのは――――、アンサンブルの時の曲、リセエンヌ。
……あの曲はリセの為の曲で、だからこそユイコに捧げるべき曲ではない。

トルタの卒業発表曲や、フォーニといつも練習していたアルの曲も同じ理由で弾くつもりはなかった。


だったら、何がいいだろう。

そこに至って僕は、彼女の為だけの曲を弾きたい。
……そう、思った。
例え即興であっても、彼女から受け取った全てを詰め込んだ曲。
それを、今この場で形にして紡ぎだす。

――――心色綺想曲。

そんなタイトルが浮かんでくる。

曲のイメージを、彼女から得る。
その為に彼女の記憶を思い出していく。
追悼には相応しくないかもしれないけど、……それでも彼女に哀しい曲は似合わないとそう信じて、頭の中に全体の流れを構築する。

あらゆる物を楽しもうとするユイコは未知の塊で、僕は流されるままに彼女に乗せられ続けていた。
……楽しいと、そう思った。

感情のない人形だと僕に告げたユイコ。
……そんな事は絶対にない。
だから、僕は彼女に感情があることを知ってもらいたかった。

――――私はね、既に死んでいる人間なのだよ。
そう告げられた時の衝撃も今は受け入れられている。
……彼女が長くない命だなんて、それは悲しすぎるから。
だからこそ、ユイコが自分の命の存在を肯定してくれて嬉しかった。

……その彼女も、今はもういない。
喪失感ばかりが大きくて、僕は未だに涙を流すことができていない。
……哀しいはずなのに、どうしてだろう。

まるで僕は――――泣く事を忘れてしまったかのようだ。

それとも僕は単に、まともではないのだろうか。
……彼女が逝ってしまったのは、僕が足手纏いになったからかもしれないのに。
結局僕は、無力でしか――――、



――――私が心配しているのはだね、クリス君……君が内罰的になって、その道を誤ってしまうことだよ――――


いつかのユイコの台詞が、僕の塗り固められた思考の奥のエゴを打ち砕いた。

……そう、全ては欺瞞だ。
僕は、ユイコの死を口実にまたも事実から目を背けようとしていた。

……トルタの事を思い浮かべた時の、その動揺。
それを覆い隠す為にユイコを引き合いに出して、無力だという言い訳で僕はまたも逃避しようとしている。

……厳しいなあ、ユイコ。
僕は自分がどうしようもなさ過ぎて、……もう、何を見据えればいいのかも分からないよ。


ただ……、これだけは本当なんだ。
僕は君を大切に感じていて、確かに惹かれていた。
……君の為の曲を作りたい。その構想も出来ている。

……だけど、その資格は僕にないかもしれない。
僕には一番に考えるべき人がいて、彼女を傷つけたくないあまりに不誠実なままで君と向かい合おうとしていた。
君に手を届かせることができなくなった今、それは単に君を侮辱することにもなりかねないのに。


だから。
……だから僕には、君の為に作ろうとした曲を奏でる事はできない。
君の事を想って、祈ることすら叶わない。
本当に本当に、ユイコに曲を贈りたいのに。


……トルタやリセ、アルの曲を君に贈るわけにはいかない。
故郷の町で覚えた曲も、アルとトルタの記憶が染み込み過ぎて奏でられない。
ピオーヴァで習った曲は義務感で身につけたものが多くて――――、葬送曲には相応しくない。

だとしたら、君には何を捧げればいい?
僕は何を奏でればいい?

分からない。
……分からない。

手元にあるフォルテールが、弾きだせない。


……いつしか僕は、フォルテールの鍵盤に触れることすら出来なくなっていた。


音を楽しむ。
……それだけの為にこの楽器に親しんできて、やらされるのでもない限りどんな時でもそれは変わらないと思っていたのに。


フォルテールが、弾けなかった。
どう奏でていたのかすら、思い出せなかった。


……僕は、とうとうフォルテールさえ失ってしまった。

もう、すべき事もしたい事も全ては雨霧の向こう側だ。
……君が生きていたなら、僕を何処へ導いてくれたんだろう。

少なくとも――――、僕一人ではもう、ここから立ち上がる事はできそうになかった。

手を引いてくれるのでもいい。背中を押してくれるのでもいい。
方向だけでも誰かに示してほしかった。
……だけど、手を引いてくれるユイコはもういない。


――――半ば裏切りのような事をしておいて、僕に許されることではないと分かっている。
……だけど、それでも。


今、僕は――――、
アルにとても会いたかった。

直接会わなくてもいい、手紙の文面で構わない。
……彼女の言葉で、踏み出すべき場所を伝えて欲しかった。
それがどれだけ残酷な甘えなのか、分かっている上でなお。


雨は降る。
振り続ける。

全てを埋め尽くすように、僕の動く場所を奪うように。


方舟の外側は、もう出歩こうにも出歩けないくらいに雨で白く染まっていた。



◇ ◇ ◇



わたしは地の上に洪水を送って、命の息のある肉なるものを、みな天の下から滅ぼし去る。地にあるものは、みな死に絶えるであろう。
ただし、わたしはあなたと契約を結ぼう。あなたは子らと、妻と、子らの妻たちと共に箱舟にはいりなさい。
またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二つずつを箱舟に入れて、あなたと共にその命を保たせなさい。それらは雄と雌とでなければならない。
すなわち、鳥はその種類にしたがい獣はその種類にしたがい、また地のすべての這うものも、その種類にしたがって、それぞれ二つずつ、あなたのところに入れて、命を保たせなさい。
また、すべての食物となるものをとって、あなたのところにたくわえ、あなたとこれらのものとの食物としなさい」。
ノアはすべて神の命じられたようにした。



                      創世記第六章 17 18 19 20 21 22節





◇ ◇ ◇


方舟とは決して救済のための道具ではない。
あくまでもその場をしのぎ、生き延びる為のものだ。

……はたして、未だ雨は降ってすらいない。
クリス=ヴェルティンの見る雨は、方舟には何ら影響を及ぼしてはいない。
ギルガメシュ叙事詩にも謳われる大洪水の発端は、いつ何時来たるのだろうか。
それ以前に、そんなものが来るのか、どうか。
その時が訪れるのならば――――、方舟の名を関した舞台は如何なる装置で以って劇を演出するのか。

それを知ることなど叶わず、迷い羊は鳴き続ける。


――――Chris.


神の子、主の御名よりたったの一文字だけが足りないカレは、何をこれから為していくのだろう。
その名前は決して誰かに救いを与えられなどはしない、欠落した存在であることの証左か。
はたまた、"t"に能う何かを得ることで救い主となり得る彼の器を示すのか。


霞の先、雲の果てを見通す事は今は出来ず、ただただそこから雫が注がれるのみ。


雨が降る。

いつまでもどこまでも、降り続けている。




【H-8/リゾートビーチ・屋外ステージ? “方舟”上/一日目/午後】

クリス・ヴェルティン@シンフォニック=レイン】
【装備】:和服、防弾チョッキ、アルのページ断片(ニトクリスの鏡)@機神咆哮デモンベイン
【所持品】:支給品一式、ピオーヴァ音楽学院の制服(ワイシャツ以外)@シンフォニック=レイン、 フォルテール(リセ)
      ロイガー&ツァール@機神咆哮デモンベイン 刀子の巫女服@あやかしびと -幻妖異聞録-
【状態】:Piovaゲージ:100%
【思考・行動】
 基本:無気力。能動的に行動しない。後ろ向き思考絶賛悪循環中。
 0:無力な僕が生きている意味はあるんだろうか。
 1:僕が死んだら哀しむ人がいるかもしれないから、死ぬわけにもいかない。
 2:生きていても死んでいても迷惑をかける僕は、存在しない方が良かったのかもしれない。
 3:ふらふらとたくさんの女の人に好意を抱いたりして、僕は不誠実で最低な人間だ。
 4:フォルテールも弾けなくなってしまって、こんな僕に目をかけてくれたコーデル先生に申し訳が立たない。
 5:……アルやトルタに会いたいけど、申し訳なくて顔を合わせられない。
 6:あの部屋に帰れるのだろうか。
 7:トルタ、ファルさんは無事なんだろうか。
 8:ユイコの曲を書きたいけど、僕にそんな資格はないのかもしれない。
 9:もうここから動きたくない。
 10:もう、誰とも会うべきではない……?
 11:手紙でもいいので、アルの言葉が聞きたい。

【備考】
 ※雨など降っていません
 ※Piovaゲージ=鬱ゲージと読み替えてください
 ※増えるとクリスの体感する雨がひどくなります
 ※西洋風の街をピオーヴァに酷似していると思ってます
 ※巫女服が女性用の服だと気付いていません
 ※巫女服の腹部分に穴が開いています
 ※千羽烏月、岡崎朋也、椰子なごみの外見的特長のみを認識しています
 ※リセの死を乗り越えました。
 ※記憶半覚醒。
 ※静留と情報交換済み。
 ※唯湖が死んだと思ってます。
 ※島の気候の異常に関して、何らかの原因があると考えました。
 ※リセルート、12/12後からの参戦です。

※H-8のリゾートビーチには、屋外ステージの様な建造物“方舟”が設置されています。詳細は不明です。


150:絶望と救い、そして憎悪 (後編) 投下順 152:生成り姫
166:小さな疑問がよぎる時 時系列順 152:生成り姫
148:sola (後編) クリス・ヴェルティン 163:hope


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