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月の出峠
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月の出峠
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)悪戯《いたずら》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)君|堀山城守親言《ほりやましろのかみちかこと》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#8字下げ]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
「……伯父上がお呼びですから、柳小路へ行っておいでなさい」
母からそう云われたとき、真之助はまたお小言かと思ってうんざりした。
なにしろ伯父の井上仁右衛門はこわい、信濃国飯田藩で、「えへん[#「えへん」に傍点]の仁右衛門殿」と云えば、家中の若侍たちでもたいていは一目おいている。小言を云うときには扇子を突いてえへん[#「えへん」に傍点]と咳払いをするのだが、その咳払いを聞いただけでも冷汗が出るという者さえあった。
真之助は二男坊で兄は啓一郎と云う。父が数年まえに死んでから、兄弟は伯父の監督をうけていたが、兄の方は温和しい性質でよく可愛がられているのに真之助は暴れん坊で悪戯《いたずら》がはげしいため、よく呼びつけられては叱られた。
――十六歳にもなるのになんだ。
というのが伯父の口癖である。
――そんなに悪戯がやまぬと本当に恵那山の番所へやってしまうぞ。
美濃との国境に恵那山といって七千呎ほどの高さの山がある、そこに番所があるのだが人里はなれたひどい場所で、なにか不都合なことがあると恵那へやるというのが、子供を叱るのに納戸《なんど》へ入れるぞというほどの意味をもっていた。
今日もまた恵那へやるぞと云われるのか、そう思いながら柳小路の家を訪れた真之助は、伯父の顔つきがいつもと違っているのを見て驚いた。……仁右衛門は眼の上へ蔽いかぶさるような濃くて厚い眉毛をもっている、もう半分は白髪であるが、その垂れさがるような深い眉毛の下にある眼は、いつも閻魔様のように大きく怒っているのに、どうしたことか今日はそれが曾て見たことのない優しい光をおびているのだ。
「よく来た、さあずっと寄るがよい」
「……はい」
「遠慮しなくともよい、さあ」
言葉つきまでが温かである。
真之助は云われるままにずっと近く寄って坐った。……仁右衛門は色の黒い、骨ばった手を膝に置いて暫く真之助の眼を見ていたが、やがて静かな声で意外なことを云った。
「今日はおまえに大切な頼みがある、……それはほかでもないが、おまえの命をこの仁右衛門に貰いたいのだ」
「……伯父上、真之助が悪うございましたらお詫びを」
「いや叱るのではない」
仁右衛門は静かに手をあげて、
「小言を云うのではない、お家のためにおまえの命を貰いたいのだ」
「……それで安心いたしました」
真之助は明るい眼で微笑した。
「私の命がお役に立ちますならよろこんで差上げます、ここで切腹をいたしますか」
「いい覚悟だ、しかし切腹をするのではない、加納与右衛門の屋敷へ行って、藤姫君のお命を頂戴して参るのだ」
「……なんと仰せられます」
「藤姫君のお命を縮め申上げるのだ」真之助の額からみるみる血の気がひいた。命をくれと云われても驚きはしない、お家のために命を捨てるのは武士の本望である。けれど仁右衛門の言葉はあまりに意外であった。藤姫というのは主君|堀山城守親言《ほりやましろのかみちかこと》の息女で、早くから飯田で育てられ、もう十五歳になる美しい姫君である。
その頃、大名の奥方やお子たちは、幕府の掟としてみんな江戸に置く定めであったが、なかには色々な事情から国許で育てられるものも少なくはなかった。藤姫もその例で、山城守の初めの奥方から生れたが、その奥方が藤姫を生むとすぐ亡くなられて二度めの奥方が来、間もなく幸之進という男子が生れたので、藤姫は国許で育てられるようになったのである。
「そう申しただけでは分るまい」
仁右衛門は静かに続けた。
「おまえも知っている通り、山城守様には江戸表で御重病、いつ大変の知らせが来るか分らない有様だ。……もし万一のことがあれば、お世継はむろん幸之進様お一人にきまっておる、おまえにもそれは分るであろう」
「仰せまでもございません」
「そうだ、云うまでもないことだ、しかしそれにもかかわらず、いま家中では幸之進様を押しのけて藤姫君を立て、よそから婿君を迎えてお世継にしようと企む者がある」
「……初めて承ります」
「それもひと通りの企みではない、うしろに幕府の老中たちがついているのだ」
真之助は思わずぐっと唾をのんだ。……ようやく事情が分りかけて来たのである。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
亡くなった藤姫の母は、老中田沼主殿頭の親類から来た人であった。その頃の田沼主殿頭意次は、将軍に次ぐ威勢のあった人で、幕府の重臣たちから大名旗本に至るまで、唯々その機嫌をそこねまいと苦心していたほどである。
藤姫の母が田沼意次の親類に当るというので、老中のよからぬ者たちが堀家の悪人と心を合せ、幸之進という立派な世継がいるのに構わず藤姫に婿を取って飯田二万石を継がせ、したがって田沼意次の機嫌を取ろうとしているのだ。
「これが二人や三人の悪企みなら、その悪人たちを捕えて無事におさめる法もあるが、幕府の老中たちが附いているのではどうしようもない。……それで、殿にも覚悟をあそばし、姫を刺せとお命じになったのだ」
「では姫君のお命をお縮め申すのはお殿様のお言附《ことづけ》なのでございますか」
「お墨付を拝むがよい」
仁右衛門は立って、床間の三宝に載せてあった文筥《ふばこ》をとりおろして来た。
真之助は少し座をさがって平伏し、仁右衛門が押し戴いて披くのをじっ[#「じっ」に傍点]と眼をあげて見た。……山城守親言の華押《かきはん》のある上意書である。重病に臥しながらも、由緒正しい堀家の血統を守ろうとして、可愛い姫を刺せと命ずる苦しい心が、そのまま墨色に滲んでいるかと思われるのだった。
「……伯父上、承知仕りました」
「よく、得心がまいったら今宵のうちに保賀田へ行け、警護はきびしいであろうから充分に注意してやるがよい」
「はい。……それから、仕果しましたあとは、その場で切腹して宜しゅうございますか」
仁右衛門はそれには答えず、じっと真之助の眼をみつめていたが、「おまえの父井上源兵衛は忠臣と云われた。父の名を辱めぬよう、立派にしなくてはいけないぞ。……母親へは伯父から申してやる。家へは帰らずに行くがよい」
「承知いたしました」
「それでは祝いの盃をとらそう」
そう云って仁右衛門は妻を呼んだ。生きて帰らぬ首途《かどで》である。伯父から袂別を祝って貰った真之助は、日の暮れるのを待ってそっと飯田の城下をぬけ出した。城下の町から北西へ三里ほど行くと保賀田という村郷《むらざと》へ出る。そこに老臣加納与右衛門の別荘があるのだ。……与右衛門は藤姫のお守役で、こんどの悪企みにも張本人のひとりであり、姫君の身に万一のことがあってはという用心から、その別荘にお移しして厳重に護っているのだった。
保賀田へ着いた真之助は、それから二日のあいだ屋敷のまわりをよく調べ、姫君のお仮屋のある場所や、どこにどう警護人数が配ってあるかということなどを知った。
別荘のうしろは段々登りの山で松が一面に生い茂っている。そちらの方に下部《しもべ》たちの出入りをする小さな戸口があって、土塀を越すのに丁度いい足懸りがあった。
二日めの夜、真之助はそこから屋敷のなかへ忍びこんだ。
今の時間にすると深夜の十一時頃である。夜番の者が地内をひと廻りしたあと、犬の声も聞えずひっそりと鎮まるのを見定めて静かに土塀を乗り越えると、そこで襷をかけ、汗止めをしめ、袴の股立をしっかりと取って、……姫のお仮屋の外へ近寄って行った。
雨戸を開けて中へはいろうとした時である。廊下の向うから手燭を持った三人の侍女に護られて、美しい少女がこっちへ来るのをみつけた。……寝殿へ行こうとするのであろう、ひと眼で藤姫君と察した真之助は、
――天の助けだ。
とすばやく刀を抜いた。
「お姫様、お命を頂戴いたします」
そう叫びながら、広縁へぱっとおどりあがった真之助、あっと叫んで、侍女たちが姫を中に取巻くのと同時に、
「狼籍者だ、出合え」
「曲者だ、曲者だ、いずれも出合え」
わっと叫び交わす声がして、廊下の左右から七八名の家来がばらばらと現われた。……お仮屋のなかには警護の武士がいないものと思っていた真之助は、この有様を見て息づまるほど驚いた。
――これは駄目だ。
そう感じたので、思わず庭へとび下りる、ところがそちらにも四五人の家来がはせつけて来ていた。
「そやつだ逃がすな」
「斬ってしまえ」
喚きながら前と後から詰寄って来た。
縁先から侍女のさしだす手燭をうつして、ぎらりぎらりと刃が光った、踏出す足音や、凄じい掛声が夜気をつんざいた。
人影は入り乱れ、もつれて、喉の裂けるような声が二度三度聞えた。……庭のかなたでけたたましく犬が吠えはじめた。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
「お気がつきましたか……もし」
どこか遠くで人の声がする。
「お薬をおあがりなさいませ」
「…………」
真之助は深い深い海の底から浮きあがるような、おぼろな暗さのなかから次第に意識をとり戻した。
夢からさめたような気持である。
「お気がつきなさいましたのね」
そう云われて振返ると、十四五になる色白の少女が、すぐ側に可愛く微笑していた。
――これはどうしたことだ。
そう思って見廻すと、どこか農家の隠居所と見えるひと間に、自分はちゃんと夜具を敷いて寝かされているのだ。
「もう御心配ありませんわ」
少女は労わるように、「ここはわたくしと爺やの二人きりの住居です、決して誰も来はいたしませんから安心して御養生なさいまし」
「……いったい、私はどうしたのでしょうか」
「保賀田の松林のなかに倒れていらっしゃいました、足に少しお怪我をなすっているので、爺やとここへお運び申して来たのですわ」
「……そうでしたか」
ではともかくも死なずに逃れ出ることは出来たのだ。真之助はほっと太息をついた、……命さえあればもういちどやれる、いや、二度でも三度でも、目的を果すまではなんどでもやってみせる。
「さ、お薬湯でございます」
「……有難う」
真之助は起き直った、すると右足の太腿が刺すように痛んだので、思わず呻《うな》りそうになったが、歯をくいしばって我慢した。
「倒れていたところを助けて下すったうえ、こんな手篤いお世話になってお礼の申上げようがありません、……少し事情があって人に追われています。もし捜しに来たらどうか」
「そのことなら心配なさいますな、爺やにもよく申付けておきましたから、どうぞお心安くお思いになって……」
「重ね重ね有難う」
真之助は心から頭を下げた。
少女はおつな[#「おつな」に傍点]という名で、この近くの大百姓の娘であるが、体が弱いのでこの山の隠居所へ養生をしに来ているのだと云った。
爺やというのにも会った。もうよほどの老人と見えるのに、しっかりした体つきで、起居《たちい》の礼儀も正しく、どこかに奥床しい人品をしていた。……真之助の傷口は右の太腿を刀で斬られたものだが、骨には達していなかったので四五日すると傷口はふさがって来た。
そのあいだ傷の手当や、薬煎じや、粥つくりなどはみんな爺やと少女がしてくれた。
――なんという親切な人たちだろう。
そう思うと泣けそうになることも屡々だった。
「傷が膿みはしないかと心配いたしましたけれど、これならもう大丈夫でございますわね」
「みんな貴女のおかげです」
「……そうお思いになりまして?」
おつな[#「おつな」に傍点]はふと美しい眸《ひとみ》をあげて云った。
「むろんです、あのときもし貴女が助けて下さらなかったら、私はこの傷口から血を出しきって死ぬか、そうでなければ悪者たちにみつけられて斬られてしまうところでした」
「悪者たちとは誰のことですの」
「それは申上げられませんが」
「……真之助さま」
少女が意外にも名を呼んだので、真之助はびっくりしながら顔をあげた。……するとおつな[#「おつな」に傍点]は静かに坐り直して、黒い宝石のような眸でじっと真之助をみつめながら、
「あなたはまだ名をお教えになりませんでした、けれどわたくし存じておりますの。……あなたは井上真之助とおっしゃるのでございましょう」
「……どうしてそれを」
「それから保賀田へいらしったのは、加納の屋敷においで遊ばす藤姫さまを」
「しっ! なにを云うのです」
あわてて止めようとする真之助を、おつな[#「おつな」に傍点]は烈しくさえぎって云った。
「嘘だとおっしゃいますか、藤姫さまを討つために加納の屋敷へ忍びいり、家来たちに斬られて逃げたのだと申上げたら……あなたは嘘だとおっしゃいますか」
「……貴女はなに者です」
真之助は思わず枕元の刀を掴んだ。
「お静かになさいませ」おつな[#「おつな」に傍点]は淋しげに云った。
「こう申上げたからとて、わたくし決してあなたの不為になるようなことは致しません。けれどただひとつ、……どうして姫君をお討ちになるのか、そのわけを話して頂きたいのです、悪者とは誰のことなのですか」
「貴女は誓って下さるだろうか」真之助は低く云った、「これは飯田城二万石の安危にかかわる大事です、命の恩人である貴女には本当のことを申上げるが、他の人にはどんなことがあっても知られてはなりません」
「お誓いいたします」少女は神を念ずるようにそっと眼を閉じた。真之助は静かに膝を置いた。
「ではよくお聞き下さい」
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
真之助は先ず領主山城守親言の病気が危篤であることから話し始めた。
藤姫のお守役たる加納与右衛門が、一味をかたらって幕府の老中とふかく企み、幸之進を廃して藤姫に婿君を迎えようとしていること、それはみな田沼主殿頭の御機嫌とりのためで、堀家にとっては正しい血統が乱されるかどうかの大変な瀬戸際だということなど、順序分りよく話し聞かせた。
「そういう訳で、お殿様も御病気の重いなかからお家のことを案ぜられ、なによりも可愛がっておいでになる藤姫様も、家のためにはしかたなしとお覚悟のうえ、お命をお縮め申すようお墨附を賜わったのです」
「まあ」聞いているうちに少女の顔はいたましく蒼ざめて来ましたが、姫の命を縮めよという申付が主君山城守から出たことだと聞くと、そのやさしい肩をぶるぶると震わした。
「そればかりか悪人たちは藤姫様をお立て申上げる企みから、お世継幸之進様を亡き者にしようとさえしているのです」
「まあ、……そんな恐しいことまで、……」
「私はお殿様のお墨附を拝み、またその事情を聞いたので、お家のためにお痛わしくはあるが姫君をお刺し申し上げようと決心したのです。むろん……お命を縮め申したあかつきにはその場を去らず自分も切腹する覚悟です」
おつな[#「おつな」に傍点]はいつか顔を低くさげていた。
そして、哀れな姫の身上をかなしむのか、長い睫毛のあいだから露のように涙がはらはらとこぼれた。……けれどそれは僅かの間のことで、すぐにまたその美しい眼をあげて、
「よくお話し下さいました」と咽ぶように云った。
「わたくしも藤姫さまをあいだに、御家中の方々がなにか争っているという噂を聞いていましたけれど、いまのお話でよくわけが分りましたし、……またお殿さまがそうお覚悟をあそばしたのも、どんなにお辛いことであったかをお察しすることが出来ますわ」
「では私の役目の苦しさも分って頂けるのですね」
「よく分りました、真之助さま」
少女はそう頷いて声をひそめ、
「あなたのお立派なお覚悟をうかがって、わたくしからも申上げることがございます、それは……藤姫さまに近づくお手引きをして差上げたいのです」
「……なんとおっしゃる?」
「二三日うちに、この岡の向うにあるわたくしの家へ、姫君がお山遊びの途中お立寄りになるんですの、そのお帰りのとき大平峠に待ちうけていらっしゃいましたら、姫君はお乗物から下りておひろいになりますゆえ、お討ち申上げることが出来ることと存じますが」
「それは本当ですか」
「御接待役がわたくしなのですもの、間違いございませんわ」真之助は思わず、頭を下げ、
「命を助けてもらったうえに、こんどはその命にも代え難いお手引きを、お礼は言葉で申せません、この通りです」
そう云ってそこへ両手をついた。
「お手をおあげ下さいまし、飯田のお城のためですものお礼をおっしゃることはございませんわ……そして、首尾よくお果しなさいましたら、切腹なぞあそばさず、国を立退いて時期をお待ちなさいましたら如何でしょう、お家のためにあそばすのですもの、いつかは」
「いや! 例えお家のためお殿様の申付けでも、姫君のお命をお縮め申すことは大罪、切腹するのは武士としてあたりまえのことです」「でもお母上がさぞお歎きなさいましょう」「むしろ喜んでくれると思います」真之助はちらと母の顔を思いうかべたが、すぐにきつく頭を振って、
「それよりその日のことをお頼みいたします」
「はい、……必ず、……」
少女の眼には再び優しい微笑が戻っていた。その日から数えて七日め、……天明五年九月十三日の朝、おつな[#「おつな」に傍点]はいよいよ明日、藤姫が家へ来ることになったと知らせて来た。「わたくしはお接待役でこれからまた家の方へまいります、姫君のおいでは朝の十時、それから一日山遊びをなすって、夕暮れ月の出を待ってお帰りとうかがいました、どうぞおぬかり[#「おぬかり」に傍点]なく」
「有難う、明日こそはきっと!」
そう云って真之助は眉をあげた。
明くる十四日は朝からよく晴れていた。午《ひる》過ぎてから山の隠居所を出た真之助は、裏道を通って大平峠へ登り、どこから出てどう動くかという、足場をいろいろと見定めて歩いた。
峠の片側は切立った崖で、片側は谷になっている、それを登りつめたところが峠の頂上で、高原を美濃の方へと続いている、……真之助はその峠の頂上を選んだ。
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
秋の日がようやく暮れかかって来た。真之助は充分に身拵えを済まし、草鞋《わらじ》の緒をなんども踏み試しながら、道から四五間はいった松林のなかに身をひそめていた。
かさかさ! 不意にうしろで草の揺れる音がしたので、なに気なく振返ってみると、笹原のなかにいつかおつな[#「おつな」に傍点]の爺やが来て立っていた。「おう、おまえも来ていたのか」
「お嬢様のお言い付けで、首尾よくあそばすのをお見届けにまいりました」
「それはよく来てくれた、後見があれば心強い、そこでよく見届けてくれ。……供の人数はどれほどか知っておるか」
「みなお女中衆でございます」
「なに、女中ばかりだと?」
「……井上の若様」
爺やはなにか云おうとしたが、それより早く、真之助は向うから来る一団の人々を遠くみつけて、しっ[#「しっ」に傍点]とさえぎった。「おいでだ、隠れろ爺や」松の蔭から見ると、僅か六七人の侍女に護られた姫が、美しい被衣《かつぎ》を額のうえにひきおろしつつ、静かに秋草の道を歩いて来る。
――しめた、絶好の機だ。真之助はおどりあがる心を抑えながら、じっと近づくのを待っていた。……と、そのとき、うしろにいた爺やが、足音を忍ばして近寄ったと思うと、いきなり刀を抜いて真之助の背へ斬りつけた。
「――あっ!」叫びながら危くかわした真之助は、「なにをする、血迷ったか」と老人の利腕をしっかと掴んだ。
「放せ、放せ」老人は必死にもがいて、「わけはどうあろうとも、姫君をお死なせ申すことは出来ぬ、あなたの心は鬼か、悪魔か、……姫君はあなたが御自分の命を覘っている者と御存じでいながら、なおあなたの命をお助けになった、それなのにあなたは」
「なにを、なにを云うか、姫が私の命を救ったとはなんのことだ」
「あなたは御存じないのか」老人は涙と共に叫んだ、「加納の家来たちに斬倒されていたのを、お救いあそばしたのは姫君ですぞ、……十四五日というあいだ、馴れぬお手で傷の手当てから粥つくりまで、あなたを今日のような丈夫な体にしたのはみんな、みんな姫君のお心尽しなのですぞ」
「それではもしやあのおつな[#「おつな」に傍点]という人が」
「堀山城守様の御息女藤姫さまでございます、加納の家にいるのは偽の姫、あれこそまことの藤姫さまでござります」
真之助はたじたじとよろめいた。
すぐそこへ姫の一行が近づいて来たのである、待女たちは少しうしろにさがり、姫は唯ひとり静かに真之助の方へ歩み寄った。……覚悟をきめた人の態度である、しかしそのとき、真之助はひたとそこへ膝をついてしまった。
「……どうしました」被衣の中から姫の声がした。
「覚悟はできています、さあ」
「……姫君」真之助は哀願するように云った。「いま爺からなにもかもうかがいました。真之助は不忠の臣かも知れませぬが、……姫をお刺し申す刀は持てませぬ」
「……真之助」
「御前を汚して恐れ入りまするが、真之助はこの場で切腹を仕ります。その代りに……姫、唯ひとつのお願いをお聞き届け下さいませ、どうかこれよりすぐ御領地をお立退きのうえ、仏門にはいって頂きたいのです、……御出家あそばせばお家も無事、姫君のお体もながく御安泰のことと存じまする」
御免といって脇差の柄へ手をかけたとき、姫は静かに、
「真之助お待ち」と云いながら被衣をとった。
「この姿を見ておくれ、藤は今朝……菩提寺で剃髪をしました」
「……や」
「藤を斬らぬのならそなたも死ぬには及びませぬ、藤の供をして京へおいで。……智恩院の畔に庵室を建てて終るつもりです。そなたは藤の一生を護ってくれましょうね」
黒髪をなかばから切った姫の顔に、折から東の空へのぼった十四日の月が、淡くかなしげな光をそそぎ始めた。
「……お供を仕ります」
真之助は咽びながら平伏した。侍女たちも泣いた。爺やも泣いた。夕月の光を千万に砕いた秋草のなかで、虫の声までが咽びあげるように絶え絶えであった。姫は出家した。このまま再び飯田へは帰るまい、悪人たちの悪企みも、出家した姫を取戻すことは出来ないだろう。……幸い勤めは果たす必要がなくなった。これからは姫の一生を護るのである。
――これからはどんなことがあっても、姫のお体に指一本ささせはせぬぞ。真之助は晴れあがる心いっぱいに叫んだ。
姫の乗物を護って、月の出の峠路を、いま人々は静かに美濃の方へ出発した。
底本:「滑稽小説集」実業之日本社
1975(昭和50)年1月10日 初版発行
1979(昭和54)年2月15日 11版発行
底本の親本:「少女之友増刊号」
1939(昭和14)年7月号
初出:「少女之友増刊号」
1939(昭和14)年7月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)悪戯《いたずら》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)君|堀山城守親言《ほりやましろのかみちかこと》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#8字下げ]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
「……伯父上がお呼びですから、柳小路へ行っておいでなさい」
母からそう云われたとき、真之助はまたお小言かと思ってうんざりした。
なにしろ伯父の井上仁右衛門はこわい、信濃国飯田藩で、「えへん[#「えへん」に傍点]の仁右衛門殿」と云えば、家中の若侍たちでもたいていは一目おいている。小言を云うときには扇子を突いてえへん[#「えへん」に傍点]と咳払いをするのだが、その咳払いを聞いただけでも冷汗が出るという者さえあった。
真之助は二男坊で兄は啓一郎と云う。父が数年まえに死んでから、兄弟は伯父の監督をうけていたが、兄の方は温和しい性質でよく可愛がられているのに真之助は暴れん坊で悪戯《いたずら》がはげしいため、よく呼びつけられては叱られた。
――十六歳にもなるのになんだ。
というのが伯父の口癖である。
――そんなに悪戯がやまぬと本当に恵那山の番所へやってしまうぞ。
美濃との国境に恵那山といって七千呎ほどの高さの山がある、そこに番所があるのだが人里はなれたひどい場所で、なにか不都合なことがあると恵那へやるというのが、子供を叱るのに納戸《なんど》へ入れるぞというほどの意味をもっていた。
今日もまた恵那へやるぞと云われるのか、そう思いながら柳小路の家を訪れた真之助は、伯父の顔つきがいつもと違っているのを見て驚いた。……仁右衛門は眼の上へ蔽いかぶさるような濃くて厚い眉毛をもっている、もう半分は白髪であるが、その垂れさがるような深い眉毛の下にある眼は、いつも閻魔様のように大きく怒っているのに、どうしたことか今日はそれが曾て見たことのない優しい光をおびているのだ。
「よく来た、さあずっと寄るがよい」
「……はい」
「遠慮しなくともよい、さあ」
言葉つきまでが温かである。
真之助は云われるままにずっと近く寄って坐った。……仁右衛門は色の黒い、骨ばった手を膝に置いて暫く真之助の眼を見ていたが、やがて静かな声で意外なことを云った。
「今日はおまえに大切な頼みがある、……それはほかでもないが、おまえの命をこの仁右衛門に貰いたいのだ」
「……伯父上、真之助が悪うございましたらお詫びを」
「いや叱るのではない」
仁右衛門は静かに手をあげて、
「小言を云うのではない、お家のためにおまえの命を貰いたいのだ」
「……それで安心いたしました」
真之助は明るい眼で微笑した。
「私の命がお役に立ちますならよろこんで差上げます、ここで切腹をいたしますか」
「いい覚悟だ、しかし切腹をするのではない、加納与右衛門の屋敷へ行って、藤姫君のお命を頂戴して参るのだ」
「……なんと仰せられます」
「藤姫君のお命を縮め申上げるのだ」真之助の額からみるみる血の気がひいた。命をくれと云われても驚きはしない、お家のために命を捨てるのは武士の本望である。けれど仁右衛門の言葉はあまりに意外であった。藤姫というのは主君|堀山城守親言《ほりやましろのかみちかこと》の息女で、早くから飯田で育てられ、もう十五歳になる美しい姫君である。
その頃、大名の奥方やお子たちは、幕府の掟としてみんな江戸に置く定めであったが、なかには色々な事情から国許で育てられるものも少なくはなかった。藤姫もその例で、山城守の初めの奥方から生れたが、その奥方が藤姫を生むとすぐ亡くなられて二度めの奥方が来、間もなく幸之進という男子が生れたので、藤姫は国許で育てられるようになったのである。
「そう申しただけでは分るまい」
仁右衛門は静かに続けた。
「おまえも知っている通り、山城守様には江戸表で御重病、いつ大変の知らせが来るか分らない有様だ。……もし万一のことがあれば、お世継はむろん幸之進様お一人にきまっておる、おまえにもそれは分るであろう」
「仰せまでもございません」
「そうだ、云うまでもないことだ、しかしそれにもかかわらず、いま家中では幸之進様を押しのけて藤姫君を立て、よそから婿君を迎えてお世継にしようと企む者がある」
「……初めて承ります」
「それもひと通りの企みではない、うしろに幕府の老中たちがついているのだ」
真之助は思わずぐっと唾をのんだ。……ようやく事情が分りかけて来たのである。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
亡くなった藤姫の母は、老中田沼主殿頭の親類から来た人であった。その頃の田沼主殿頭意次は、将軍に次ぐ威勢のあった人で、幕府の重臣たちから大名旗本に至るまで、唯々その機嫌をそこねまいと苦心していたほどである。
藤姫の母が田沼意次の親類に当るというので、老中のよからぬ者たちが堀家の悪人と心を合せ、幸之進という立派な世継がいるのに構わず藤姫に婿を取って飯田二万石を継がせ、したがって田沼意次の機嫌を取ろうとしているのだ。
「これが二人や三人の悪企みなら、その悪人たちを捕えて無事におさめる法もあるが、幕府の老中たちが附いているのではどうしようもない。……それで、殿にも覚悟をあそばし、姫を刺せとお命じになったのだ」
「では姫君のお命をお縮め申すのはお殿様のお言附《ことづけ》なのでございますか」
「お墨付を拝むがよい」
仁右衛門は立って、床間の三宝に載せてあった文筥《ふばこ》をとりおろして来た。
真之助は少し座をさがって平伏し、仁右衛門が押し戴いて披くのをじっ[#「じっ」に傍点]と眼をあげて見た。……山城守親言の華押《かきはん》のある上意書である。重病に臥しながらも、由緒正しい堀家の血統を守ろうとして、可愛い姫を刺せと命ずる苦しい心が、そのまま墨色に滲んでいるかと思われるのだった。
「……伯父上、承知仕りました」
「よく、得心がまいったら今宵のうちに保賀田へ行け、警護はきびしいであろうから充分に注意してやるがよい」
「はい。……それから、仕果しましたあとは、その場で切腹して宜しゅうございますか」
仁右衛門はそれには答えず、じっと真之助の眼をみつめていたが、「おまえの父井上源兵衛は忠臣と云われた。父の名を辱めぬよう、立派にしなくてはいけないぞ。……母親へは伯父から申してやる。家へは帰らずに行くがよい」
「承知いたしました」
「それでは祝いの盃をとらそう」
そう云って仁右衛門は妻を呼んだ。生きて帰らぬ首途《かどで》である。伯父から袂別を祝って貰った真之助は、日の暮れるのを待ってそっと飯田の城下をぬけ出した。城下の町から北西へ三里ほど行くと保賀田という村郷《むらざと》へ出る。そこに老臣加納与右衛門の別荘があるのだ。……与右衛門は藤姫のお守役で、こんどの悪企みにも張本人のひとりであり、姫君の身に万一のことがあってはという用心から、その別荘にお移しして厳重に護っているのだった。
保賀田へ着いた真之助は、それから二日のあいだ屋敷のまわりをよく調べ、姫君のお仮屋のある場所や、どこにどう警護人数が配ってあるかということなどを知った。
別荘のうしろは段々登りの山で松が一面に生い茂っている。そちらの方に下部《しもべ》たちの出入りをする小さな戸口があって、土塀を越すのに丁度いい足懸りがあった。
二日めの夜、真之助はそこから屋敷のなかへ忍びこんだ。
今の時間にすると深夜の十一時頃である。夜番の者が地内をひと廻りしたあと、犬の声も聞えずひっそりと鎮まるのを見定めて静かに土塀を乗り越えると、そこで襷をかけ、汗止めをしめ、袴の股立をしっかりと取って、……姫のお仮屋の外へ近寄って行った。
雨戸を開けて中へはいろうとした時である。廊下の向うから手燭を持った三人の侍女に護られて、美しい少女がこっちへ来るのをみつけた。……寝殿へ行こうとするのであろう、ひと眼で藤姫君と察した真之助は、
――天の助けだ。
とすばやく刀を抜いた。
「お姫様、お命を頂戴いたします」
そう叫びながら、広縁へぱっとおどりあがった真之助、あっと叫んで、侍女たちが姫を中に取巻くのと同時に、
「狼籍者だ、出合え」
「曲者だ、曲者だ、いずれも出合え」
わっと叫び交わす声がして、廊下の左右から七八名の家来がばらばらと現われた。……お仮屋のなかには警護の武士がいないものと思っていた真之助は、この有様を見て息づまるほど驚いた。
――これは駄目だ。
そう感じたので、思わず庭へとび下りる、ところがそちらにも四五人の家来がはせつけて来ていた。
「そやつだ逃がすな」
「斬ってしまえ」
喚きながら前と後から詰寄って来た。
縁先から侍女のさしだす手燭をうつして、ぎらりぎらりと刃が光った、踏出す足音や、凄じい掛声が夜気をつんざいた。
人影は入り乱れ、もつれて、喉の裂けるような声が二度三度聞えた。……庭のかなたでけたたましく犬が吠えはじめた。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
「お気がつきましたか……もし」
どこか遠くで人の声がする。
「お薬をおあがりなさいませ」
「…………」
真之助は深い深い海の底から浮きあがるような、おぼろな暗さのなかから次第に意識をとり戻した。
夢からさめたような気持である。
「お気がつきなさいましたのね」
そう云われて振返ると、十四五になる色白の少女が、すぐ側に可愛く微笑していた。
――これはどうしたことだ。
そう思って見廻すと、どこか農家の隠居所と見えるひと間に、自分はちゃんと夜具を敷いて寝かされているのだ。
「もう御心配ありませんわ」
少女は労わるように、「ここはわたくしと爺やの二人きりの住居です、決して誰も来はいたしませんから安心して御養生なさいまし」
「……いったい、私はどうしたのでしょうか」
「保賀田の松林のなかに倒れていらっしゃいました、足に少しお怪我をなすっているので、爺やとここへお運び申して来たのですわ」
「……そうでしたか」
ではともかくも死なずに逃れ出ることは出来たのだ。真之助はほっと太息をついた、……命さえあればもういちどやれる、いや、二度でも三度でも、目的を果すまではなんどでもやってみせる。
「さ、お薬湯でございます」
「……有難う」
真之助は起き直った、すると右足の太腿が刺すように痛んだので、思わず呻《うな》りそうになったが、歯をくいしばって我慢した。
「倒れていたところを助けて下すったうえ、こんな手篤いお世話になってお礼の申上げようがありません、……少し事情があって人に追われています。もし捜しに来たらどうか」
「そのことなら心配なさいますな、爺やにもよく申付けておきましたから、どうぞお心安くお思いになって……」
「重ね重ね有難う」
真之助は心から頭を下げた。
少女はおつな[#「おつな」に傍点]という名で、この近くの大百姓の娘であるが、体が弱いのでこの山の隠居所へ養生をしに来ているのだと云った。
爺やというのにも会った。もうよほどの老人と見えるのに、しっかりした体つきで、起居《たちい》の礼儀も正しく、どこかに奥床しい人品をしていた。……真之助の傷口は右の太腿を刀で斬られたものだが、骨には達していなかったので四五日すると傷口はふさがって来た。
そのあいだ傷の手当や、薬煎じや、粥つくりなどはみんな爺やと少女がしてくれた。
――なんという親切な人たちだろう。
そう思うと泣けそうになることも屡々だった。
「傷が膿みはしないかと心配いたしましたけれど、これならもう大丈夫でございますわね」
「みんな貴女のおかげです」
「……そうお思いになりまして?」
おつな[#「おつな」に傍点]はふと美しい眸《ひとみ》をあげて云った。
「むろんです、あのときもし貴女が助けて下さらなかったら、私はこの傷口から血を出しきって死ぬか、そうでなければ悪者たちにみつけられて斬られてしまうところでした」
「悪者たちとは誰のことですの」
「それは申上げられませんが」
「……真之助さま」
少女が意外にも名を呼んだので、真之助はびっくりしながら顔をあげた。……するとおつな[#「おつな」に傍点]は静かに坐り直して、黒い宝石のような眸でじっと真之助をみつめながら、
「あなたはまだ名をお教えになりませんでした、けれどわたくし存じておりますの。……あなたは井上真之助とおっしゃるのでございましょう」
「……どうしてそれを」
「それから保賀田へいらしったのは、加納の屋敷においで遊ばす藤姫さまを」
「しっ! なにを云うのです」
あわてて止めようとする真之助を、おつな[#「おつな」に傍点]は烈しくさえぎって云った。
「嘘だとおっしゃいますか、藤姫さまを討つために加納の屋敷へ忍びいり、家来たちに斬られて逃げたのだと申上げたら……あなたは嘘だとおっしゃいますか」
「……貴女はなに者です」
真之助は思わず枕元の刀を掴んだ。
「お静かになさいませ」おつな[#「おつな」に傍点]は淋しげに云った。
「こう申上げたからとて、わたくし決してあなたの不為になるようなことは致しません。けれどただひとつ、……どうして姫君をお討ちになるのか、そのわけを話して頂きたいのです、悪者とは誰のことなのですか」
「貴女は誓って下さるだろうか」真之助は低く云った、「これは飯田城二万石の安危にかかわる大事です、命の恩人である貴女には本当のことを申上げるが、他の人にはどんなことがあっても知られてはなりません」
「お誓いいたします」少女は神を念ずるようにそっと眼を閉じた。真之助は静かに膝を置いた。
「ではよくお聞き下さい」
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
真之助は先ず領主山城守親言の病気が危篤であることから話し始めた。
藤姫のお守役たる加納与右衛門が、一味をかたらって幕府の老中とふかく企み、幸之進を廃して藤姫に婿君を迎えようとしていること、それはみな田沼主殿頭の御機嫌とりのためで、堀家にとっては正しい血統が乱されるかどうかの大変な瀬戸際だということなど、順序分りよく話し聞かせた。
「そういう訳で、お殿様も御病気の重いなかからお家のことを案ぜられ、なによりも可愛がっておいでになる藤姫様も、家のためにはしかたなしとお覚悟のうえ、お命をお縮め申すようお墨附を賜わったのです」
「まあ」聞いているうちに少女の顔はいたましく蒼ざめて来ましたが、姫の命を縮めよという申付が主君山城守から出たことだと聞くと、そのやさしい肩をぶるぶると震わした。
「そればかりか悪人たちは藤姫様をお立て申上げる企みから、お世継幸之進様を亡き者にしようとさえしているのです」
「まあ、……そんな恐しいことまで、……」
「私はお殿様のお墨附を拝み、またその事情を聞いたので、お家のためにお痛わしくはあるが姫君をお刺し申し上げようと決心したのです。むろん……お命を縮め申したあかつきにはその場を去らず自分も切腹する覚悟です」
おつな[#「おつな」に傍点]はいつか顔を低くさげていた。
そして、哀れな姫の身上をかなしむのか、長い睫毛のあいだから露のように涙がはらはらとこぼれた。……けれどそれは僅かの間のことで、すぐにまたその美しい眼をあげて、
「よくお話し下さいました」と咽ぶように云った。
「わたくしも藤姫さまをあいだに、御家中の方々がなにか争っているという噂を聞いていましたけれど、いまのお話でよくわけが分りましたし、……またお殿さまがそうお覚悟をあそばしたのも、どんなにお辛いことであったかをお察しすることが出来ますわ」
「では私の役目の苦しさも分って頂けるのですね」
「よく分りました、真之助さま」
少女はそう頷いて声をひそめ、
「あなたのお立派なお覚悟をうかがって、わたくしからも申上げることがございます、それは……藤姫さまに近づくお手引きをして差上げたいのです」
「……なんとおっしゃる?」
「二三日うちに、この岡の向うにあるわたくしの家へ、姫君がお山遊びの途中お立寄りになるんですの、そのお帰りのとき大平峠に待ちうけていらっしゃいましたら、姫君はお乗物から下りておひろいになりますゆえ、お討ち申上げることが出来ることと存じますが」
「それは本当ですか」
「御接待役がわたくしなのですもの、間違いございませんわ」真之助は思わず、頭を下げ、
「命を助けてもらったうえに、こんどはその命にも代え難いお手引きを、お礼は言葉で申せません、この通りです」
そう云ってそこへ両手をついた。
「お手をおあげ下さいまし、飯田のお城のためですものお礼をおっしゃることはございませんわ……そして、首尾よくお果しなさいましたら、切腹なぞあそばさず、国を立退いて時期をお待ちなさいましたら如何でしょう、お家のためにあそばすのですもの、いつかは」
「いや! 例えお家のためお殿様の申付けでも、姫君のお命をお縮め申すことは大罪、切腹するのは武士としてあたりまえのことです」「でもお母上がさぞお歎きなさいましょう」「むしろ喜んでくれると思います」真之助はちらと母の顔を思いうかべたが、すぐにきつく頭を振って、
「それよりその日のことをお頼みいたします」
「はい、……必ず、……」
少女の眼には再び優しい微笑が戻っていた。その日から数えて七日め、……天明五年九月十三日の朝、おつな[#「おつな」に傍点]はいよいよ明日、藤姫が家へ来ることになったと知らせて来た。「わたくしはお接待役でこれからまた家の方へまいります、姫君のおいでは朝の十時、それから一日山遊びをなすって、夕暮れ月の出を待ってお帰りとうかがいました、どうぞおぬかり[#「おぬかり」に傍点]なく」
「有難う、明日こそはきっと!」
そう云って真之助は眉をあげた。
明くる十四日は朝からよく晴れていた。午《ひる》過ぎてから山の隠居所を出た真之助は、裏道を通って大平峠へ登り、どこから出てどう動くかという、足場をいろいろと見定めて歩いた。
峠の片側は切立った崖で、片側は谷になっている、それを登りつめたところが峠の頂上で、高原を美濃の方へと続いている、……真之助はその峠の頂上を選んだ。
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
秋の日がようやく暮れかかって来た。真之助は充分に身拵えを済まし、草鞋《わらじ》の緒をなんども踏み試しながら、道から四五間はいった松林のなかに身をひそめていた。
かさかさ! 不意にうしろで草の揺れる音がしたので、なに気なく振返ってみると、笹原のなかにいつかおつな[#「おつな」に傍点]の爺やが来て立っていた。「おう、おまえも来ていたのか」
「お嬢様のお言い付けで、首尾よくあそばすのをお見届けにまいりました」
「それはよく来てくれた、後見があれば心強い、そこでよく見届けてくれ。……供の人数はどれほどか知っておるか」
「みなお女中衆でございます」
「なに、女中ばかりだと?」
「……井上の若様」
爺やはなにか云おうとしたが、それより早く、真之助は向うから来る一団の人々を遠くみつけて、しっ[#「しっ」に傍点]とさえぎった。「おいでだ、隠れろ爺や」松の蔭から見ると、僅か六七人の侍女に護られた姫が、美しい被衣《かつぎ》を額のうえにひきおろしつつ、静かに秋草の道を歩いて来る。
――しめた、絶好の機だ。真之助はおどりあがる心を抑えながら、じっと近づくのを待っていた。……と、そのとき、うしろにいた爺やが、足音を忍ばして近寄ったと思うと、いきなり刀を抜いて真之助の背へ斬りつけた。
「――あっ!」叫びながら危くかわした真之助は、「なにをする、血迷ったか」と老人の利腕をしっかと掴んだ。
「放せ、放せ」老人は必死にもがいて、「わけはどうあろうとも、姫君をお死なせ申すことは出来ぬ、あなたの心は鬼か、悪魔か、……姫君はあなたが御自分の命を覘っている者と御存じでいながら、なおあなたの命をお助けになった、それなのにあなたは」
「なにを、なにを云うか、姫が私の命を救ったとはなんのことだ」
「あなたは御存じないのか」老人は涙と共に叫んだ、「加納の家来たちに斬倒されていたのを、お救いあそばしたのは姫君ですぞ、……十四五日というあいだ、馴れぬお手で傷の手当てから粥つくりまで、あなたを今日のような丈夫な体にしたのはみんな、みんな姫君のお心尽しなのですぞ」
「それではもしやあのおつな[#「おつな」に傍点]という人が」
「堀山城守様の御息女藤姫さまでございます、加納の家にいるのは偽の姫、あれこそまことの藤姫さまでござります」
真之助はたじたじとよろめいた。
すぐそこへ姫の一行が近づいて来たのである、待女たちは少しうしろにさがり、姫は唯ひとり静かに真之助の方へ歩み寄った。……覚悟をきめた人の態度である、しかしそのとき、真之助はひたとそこへ膝をついてしまった。
「……どうしました」被衣の中から姫の声がした。
「覚悟はできています、さあ」
「……姫君」真之助は哀願するように云った。「いま爺からなにもかもうかがいました。真之助は不忠の臣かも知れませぬが、……姫をお刺し申す刀は持てませぬ」
「……真之助」
「御前を汚して恐れ入りまするが、真之助はこの場で切腹を仕ります。その代りに……姫、唯ひとつのお願いをお聞き届け下さいませ、どうかこれよりすぐ御領地をお立退きのうえ、仏門にはいって頂きたいのです、……御出家あそばせばお家も無事、姫君のお体もながく御安泰のことと存じまする」
御免といって脇差の柄へ手をかけたとき、姫は静かに、
「真之助お待ち」と云いながら被衣をとった。
「この姿を見ておくれ、藤は今朝……菩提寺で剃髪をしました」
「……や」
「藤を斬らぬのならそなたも死ぬには及びませぬ、藤の供をして京へおいで。……智恩院の畔に庵室を建てて終るつもりです。そなたは藤の一生を護ってくれましょうね」
黒髪をなかばから切った姫の顔に、折から東の空へのぼった十四日の月が、淡くかなしげな光をそそぎ始めた。
「……お供を仕ります」
真之助は咽びながら平伏した。侍女たちも泣いた。爺やも泣いた。夕月の光を千万に砕いた秋草のなかで、虫の声までが咽びあげるように絶え絶えであった。姫は出家した。このまま再び飯田へは帰るまい、悪人たちの悪企みも、出家した姫を取戻すことは出来ないだろう。……幸い勤めは果たす必要がなくなった。これからは姫の一生を護るのである。
――これからはどんなことがあっても、姫のお体に指一本ささせはせぬぞ。真之助は晴れあがる心いっぱいに叫んだ。
姫の乗物を護って、月の出の峠路を、いま人々は静かに美濃の方へ出発した。
底本:「滑稽小説集」実業之日本社
1975(昭和50)年1月10日 初版発行
1979(昭和54)年2月15日 11版発行
底本の親本:「少女之友増刊号」
1939(昭和14)年7月号
初出:「少女之友増刊号」
1939(昭和14)年7月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ