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平安喜遊集05偸盗
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平安喜遊集
偸盗
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)呟《つぶや》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)御|寵愛《ちょうあい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JISX0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]
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[#6字下げ]一[#「一」は中見出し]
彼は闇の中で、おちつきなくあるきまわっていた。白川の爽やかな流れの音が、うしろの森にこだまし、その森の中で、ときどき夜鳥の叫ぶのが聞えた。
「もとでは銭二貫文」と彼は口の中で呟《つぶや》いた、「もしこれがまたくわ[#「くわ」に傍点]されたんだとすると、おれはすぐに加茂の社《やしろ》の道つくりの、人夫になって稼《かせ》がなければならないぞ」
彼は立停って、自分の不吉な考えを払いのけるように、胸を張り、大きい呼吸をした。
「わたくしは鬼鮫《おにざめ》と呼ばれるぬすびとです」と彼は云った、「ぬすびとの中での大ぬすびと、わたくしは酷薄無残で、なさけ知らずで、いちどこうと思えば女であろうと童児であろうと、平気で打ち殺し、八つ裂きにすることのできる人間です、これは自慢ではない、むしろ謙遜《けんそん》して申上げているのです」彼は右手で大きく一揖《いちゆう》し、「掛値なしにです」と云った、「もちろん、わたくしがいかに酷薄無残な大ぬすびとにもせよ、人間であるからには全部が全部うまくいくとは限りません、ご存じないかもしれないが、――いや、ご存じだろうと思いますが、唐《から》の国の孔子という物識りおやじが云ったそうですな、知者が千遍おもんぱかっても、その内の一つは必ず寸法が外《はず》れる」
彼は立停り、左の耳のうしろに手を当て、上躰《じょうたい》を傾けてなにかを聞きとめようとしたが、予期したものではなかったとみえ、またおちつきなくあるきまわった。
「要するに」と彼は続けた、「孔子なんという物識りでも、たびたび千に一つはしくじりをやらかしたんでしょう、自己弁護のためにそんなことを云ったんだと思いますが、しぜん、わたくしほどの者がときたま失敗したとしても、当然とは申せないまでも決してふしぎとは云えないでしょう」
彼は鼻の下へ指を当て、そこにあるなにものかを、捻《ひね》りあげるような動作をした。
「正直に云いますが、粟田口の邸ではすかをくわされましたよ、ええ」と彼は云った、「なにしろ大蔵卿を兼ねたことのある大臣《おとど》ですからな、俗に大蔵卿を三年やれば万石太夫になると云うくらいでして、高い声では申せないが、いまをときめく大臣、大将がたの中にも、たらい廻しに大蔵卿を兼任した人たちが少なくない、――粟田口の殿もその一人であり、万石太夫七家の内にかぞえられているので、正《しょう》のところ、わたくしが目星をつけたのはおそすぎたと云ってもいいくらいです」
彼はまた立停り、なにものかを聞きとめようとしたが、なにも聞えないらしく、左手を右手の袖口へ差入れ、右手で顎《あご》を支えながら首をかしげた。おかしいな、彼はそう呟いたが、ふと顔をあげ、両手を勢いよく左右へひろげた。
「さて粟田口のことですが」と彼はあるきだし、あと戻りをしながら云った、「あの邸をさぐるには脳をいためましたよ、ええ、なにしろ広い地内にどかどかと建物があり、どれが寝殿やらどれが便殿やら見当もつかない、肝心なのは金倉で、たいていの第邸《やしき》はほぼその位置がきまっていまず、内裏ならば図書寮の北、兵庫寮の南に当るところ、入道さまの第なら泉殿から便殿に渡る中間の塗籠《ぬりごめ》、また禿《は》げの中将家なら、――ま、いいでしょう、これは聞かないことにしておいて下さい」
「とにかく、予想もしなかったほど脳をいため、ふところもいためた結果、わたくしは首尾よく目的を達しました」と彼は続けた、「ということは、粟田口の大臣の邸へ忍び込み、めざした金袋を盗みだしたわけです、麻の袋に入れたこのくらいの大きさの物を、二十五袋です、わたくしがそれらの獲物を自分の山寨《さんさい》へ持ち帰り、眼の前に積みあげたとき、どんな心持だったかはご想像に任せましょう」
彼はそこで立停り、左足に躰重を預けて右足を前に出し、その爪先で地面を叩いた。
「わたくしは話を進めるまえに、いちおうあなたがたの固定観念を解いておきたい」と彼は云った、「あなたがたは、たぶん、この鬼鮫が大ぬすびとであるということで、わたくしを道徳的に非難されていると思う、が、それはまったくの誤解である、とずばり申上げる、なぜかなら、この世は盗む者があり盗まれる者があって、初めて平衡が保たれているからであります、尤《もっと》も、この両者が等数であってはならない、原則として盗む者、すなわち賢くて血のめぐりの早い者の数が少なくなければならない、たとえばです、京の町を二分してこちらが盗む者、こちらが盗まれる者と考えて下さい、これはもう両者の関係がはっきりするから、平衡を保つわけにはいきません、たちまち騒動になることは明白です、要約して申せば、盗まれる者の数は絶対に多数でなければならない、それは簡単に証明できることですよ、ええ、つまり数が多ければです、その数の多いことに隠れて、誰が現実に盗まれているか、ということがわからなくなる、慥《たし》かに少数の盗むやつらはいる、が、自分が盗まれているという現実感はわき起こらないわけです」
彼は闇をすかしてなにものかを見ようとし、突然、自分の頬を平手で打ち、「蚊のちくしょうか」と呟き、舌打ちをした。
「世間にはこれを不公平だと云う者があります」と彼はまた続けた、「云わせておきましょう、そういう人間は働く気にもならず、また盗む勇気もなく、口だけでああだこうだと云う怠け者にすぎないのです、このあいだも小一条の大臣がすばらしい牛車を作られました、金銀宝珠をちりばめた両眉の牛車でして、たしか宋の国から技官を呼んで作らせたんでしょう、大臣としては、このくらいの牛車を持たなければ、国際的な観点からして日本国の体面にかかわる、と申されたそうです、――そのため、大臣の領地である能登、越前、越後、信濃、甲斐など諸国の農民、漁夫、工匠、人夫人足の末まで、貢《みつぎ》のために膏血《こうけつ》を絞りあげられた結果、大半の者が土地を捨てて流民になったといわれる、それについて搾取であるとか、苛斂誅求《かれんちゅうきゅう》だなどと不穏なことを云う者もあるが、なにこれも云わせておけばいい、かれらもまた盗む勇気のない多数の愚者の幾人かにすぎず、同時に働くことの嫌いな連中なのですから」
「わたくしが盗む側にまわったのは」と彼は左手の掌を右手の拳で打ちながら云った、「はてしなき労働、凶作、疫癘《えきれい》、洪水、地震、などという貧困と災厄によるのではなく、盗む者と盗まれる者とによってこの世の平衡が保たれている、という現実を認識したからであります、こういう認識が頭にうかぶということは、すなわち、わたくしが盗まれる愚者の群にではなく、盗む勇気と知恵のある者、一と口に申せば貴族的少数者に属する、という証拠だと信じたからであります、――貴族的少数者、わたくしはべつにかれらを尊敬するものではない、世の中の釣合を保つということでかれらの側に付いたのだが、かれらはそれを理解しないばかりか、逆にわたくしを偸盗《ちゅうとう》と呼んで追捕《ついぶ》しようとするのです、は、かれらがですよ、盗む者であるところのかれらが、同じ側に立つところのこのわたくしをです、――おそらく、あなた方には信じられないでしょう、だが、不幸なことにこれが現実なのであります」
彼は白川の岸のところまでゆき、闇のかなたを熱心にうかがい見た。反射的に衿首《えりくび》を叩いて蚊を潰《つぶ》し、すると白川の流れの中で急に河鹿が鳴きだしたので、とびあがりそうになって、「ええびっくらした」と呟いた、「たかが河鹿のくせをして、こんな時刻に鳴くっていう法があるか、よく考えてみろ」そして舌打ちをしてうしろへ戻った。
「かれら貴族的少数者には理屈はとおりません」と彼は云った、「どうしようがありますか、かれらの云うとおりわたくしは偸盗となりました、もともと盗んだ物であるところのかれらの財宝から、わたくしの取り分をいただくだけで、これほど道理にかなったはなしはないでしょう、――で、粟田口の邸からいただいて来た、二十五個の砂金の袋を前にして、わたくしはひそかにほくそ笑んだものです」彼は鼻の下へ指を当て、なにかを捻りあげるような動作でもって、どんなにほくそ笑んだかということを演じてみせた、「さて、いよいよ獲物拝見という段になり、わたくしは麻袋の一つを取ってその口紐《くちひも》を切りました、すると、袋の中から茶色みを帯びた白い粒々がざあとこぼれ出たのです、白くて少しばかり茶色がかった粒々です」
彼はもの問いたげに肩をすくめた、「なんでしょう、わたくしも砂金は二度か三度は見たことがあります、けれどもその袋の中から出て来た物とは、色も違うし手ざわりも違う、――ははあ、とわたくしは思いましたな、ええ、これは噂《うわさ》に聞く白金の粒に違いない、色からしてもその見当に相違ないと思ったのです、白金といえば黄金の幾倍か、ときには十倍くらいの値打になるでしょう、さすが大蔵卿を兼ねたことのある大臣だと、わたくしが揉み手をしたとしても人の笑いを買うことはありますまい、ところがです」彼は声をひそめた、「いよいよその手蔓《てづる》をたぐって売りに出してみたところ、なんと、あなた方は想像もされないだろうが、相手はとぼけたような顔で、その粒白金を舐《な》めてみろと差出したものです、ええ、わたくしはそれが白金をためす簡便的選別法だと思い、云われるままに舐めてみました、――すると塩っぱい味がするのです、おそろしく塩っぱい、ふつうの塩とは思えないが、そしてわたくしは白金の味をこころみたことはないが、どちらかというと白金よりは塩の味に近いのではないかと思いました、相手もそれに賛成したのです、塩だよ、鬼鮫、と相手は頷《うなず》きました、これは精《しら》げた塩なんだ、なんでも唐の国あたりから輸入されるそうだがね、日本では粟田口の大臣しか持っていないし、大臣はこれであこぎに儲《もう》けているそうだよ」
彼は憤然と拳をあげた、「わたくしは以前からうすうす、貴族社会は頽廃《たいはい》しつつあると思っていました、しかし、こんなにまでわる賢くあくどいことになっているとは、まったく知らなかった、砂金ならどこの手蔓を通じてもすぐに売れます、黄金はどこから産しても黄金ですからな、ええ、しかし精げた塩となると」彼は振上げた拳ではっし[#「はっし」に傍点]と片手の掌を打った、「――どこへ売れますか、唐来の塩だから内裏か貴族社会なら、ときには黄金よりも高値に捌《さば》けるかもしれない、だが一般社会では単に塩にすぎません、かのみじめな貧民階級――これがいつの世でも最大多数なのだが、かれらには一摘みの荒塩でさえ高価であり、精げた塩などはまったく無用無縁の、ばかげた贅沢《ぜいたく》品にすぎないのです」
「これは危険な品だよ、と手蔓の相手は申しました」彼は太息《といき》をついて続けた、「粟田口の大臣以外に持ち主のない品だからな、ほんの一と摘みでも世間に出せば、すぐに盗んだことがばれてしまう、たとえて云えば、盗んだ松明《たいまつ》を持って町をのしあるくようなものだ。――で、わたくしは二十五袋の獲物を、そっくり粟田口の邸へ戻しにいったわけです」
彼は左の耳のうしろへ手を当て、上躰を一方へかしげてなにかを聞きとめ、すぐに「やっと来おったぞ」と微笑した。
「ちょっと失礼します」と彼はあいそ笑いをして云った、「これから入道さまの彦ぎみ、左大臣の白川の別墅《べっしょ》へ仕事にまいるのです、ご存じでしょう、公の別墅にはかの名高い黄金の観世音像がある、高さ一尺三寸、光背も蓮座もふくめて全体が金無垢《きんむく》であり、価格はおよそ三千八百両余ということです」彼は揉《も》み手をし、声をひそめた、「――これにはもとで[#「もとで」に傍点]をかけましてね、ええ、雑色《ぞうしき》に一人、小舎人《ことねり》に一人、しかるべく握らせましたので、築地塀《ついじべい》から中門、庭を横切って便殿までの道順、妻戸をあけて廂《ひさし》を左へ三十歩、ひいふうみい四つめの障子をあけたところが休息の間、というあんばいに、すべてがたなごころをさすが如く、――ね、ではちょっと失礼」
[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]
「ひい、ふう、みい、四つめだ」と彼は口の中で呟いた、「待て待て、誤ってはならないぞ、いいか」と彼は自分に慥《たし》かめた、「――栗の木のところで築地塀を越した、な、いいか、そして中門を乗り越え、泉池をまわって便殿へ来た、な、それから妻戸だが、これも約束どおりあいていたし、廂の間を左へ三十歩、ひいふうみい四つめの障子がここよ、なんと、銭は使うときに使うものさね、あの雑色も小舎人も、受取った銭だけの義務はちゃんとはたした、さて、かれらがかくも正直に約束を守り義務をはたしたということは、この仕事がいかにさいさきのいいものであるか、ということを証明するものであるが、おちつけ、――これからが肝心なところだ」
「これを、こうあけよう」と彼は障子をそろそろとあける、「それから注意ぶかく、あたりのようすをうかがって、どこにも人けのないのを篤と慥かめてから、足音を忍んで、まず一と足こうはいる、ここが休息の間だ」彼はすり足で中へはいった、「――床板ではない、敷畳が敷いてあるな、向うに几帳《きちょう》があるようだが、暗くてよくわからない、わからないがまっすぐにゆけばいい、な、几帳のうしろに遣戸《やりど》があって、その先が持仏堂へ通じる廊下になっている、気をつけろ」彼は自分に警告した、「音をたてるな、鬼鮫、わかっている、そろそろとまいろう、や、なんだ」
彼は石のように身を固くし、やや暫く、そのままじっと息をころしていた。
「気の迷いだな」とやがて彼は呟いた、「そこらで忍び笑いをするような声がしたと思ったが、そんな筈はないな、誰かいるとすれば、忍び笑いなどするよりも、捉《つか》まえようとしてとびかかるだろうからな、そら耳だ」
彼は用心ぶかく二歩進んだ。すると敷畳の長方形の一方が音もなく外れて落ち、したがって彼も落ちた。彼は仰天して両手をもがき、なにかにつかまろうとしたが、敷畳の外れ落ちるのが早かったため、どこにつかまることもできず、ただ叫び声をあげないことに成功しただけで、六尺ばかり下の板の上へ尻から落ちこんでしまった。――頭から落ちなかったのが不幸ちゅうの幸いだ、と思う暇もなく、打った尻を抱えて彼が起き直ると、それを待っていたように、あたりが夜の明けた如く明るくなり、途方もない笑い声が起こった。明るさも明るかったし、笑い声は百の鈴《れい》と百の鐸《たく》と百の絃をいちどに叩き鳴らすような、やかましく不遠慮なものであった。
彼は初め「悪夢」だと思い、かたく眼をつむってじっとしていた。それから静かに眼をあいた。あたりの明るさは眩《まばゆ》いばかりであり、笑い声はますます高くなっていた。これはどうしたことだ。彼はそっと、用心ぶかく伸びあがって見、「あ」といって、眼を大きくみひらき、口をあいた。座敷の三方に何十何百という燭台《しょくだい》の火が揺れてい、酒肴《しゅこう》の台盤を前にして、きらびやかに着飾った公達《きんだち》や姫たちが並んでいた。
「うだのたかねに、しぎわな張る」と公達の一人がうたいだした、「わが待つや」
すると他の公達や姫たちが、一斉に手拍子を打ち、もろ声にうたいだした。
「わが待つや、しぎはさやらず、しぎはさやらず、はしけやしくじらさやる」そして手拍子が高くなった、「ああしやこしや、ええしやこしや」
そしてひと際《きわ》高く哄笑がまきあがった。彼はぺたりとあぐらをかき、両手で顔を押えて、泣きだした。
「おれには信じられない」と彼は泣きながら云った、「これは現実ではない、現実にこんなことがある筈はない、おれは人間をここまで堕落しているなどとは思えない、おれはこんなことは断じて信じないぞ」
姫や公達は次の歌をうたいだした。
[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]
彼は跛《びっこ》をひきながら、ゆっくりと左へ三歩あるき、次に右へ三歩あるいた。
「失礼しました」と彼は顔をしかめながら、片手できごちなく一揖した、「いや、どうか心配しないで下さい、戻って来る途中て転びまして、この、うしろ腰の骨のどこかを打ったらしいのです、ほんのちょっと打っただけですから」
彼は口の中でなにか呟き、道ばたにある石をみつけて、慎重にそこへ腰をおろした。
「突然のようですが、わたくしは人間というものが好きであります」と彼は自制心を駆りたてるような口ぶりで云った、「但しわたくし以外はですよ、ええ、わたくしは申上げたとおり酷薄無残でなさけ知らずで、いちどこうと思えば赤児をも捻《ひね》り潰《つぶ》すほどの、非人情な男ですからな、ええ、だが一般論としては人間はいいものであり愛すべきものであり、この世界における驚異だと云ってもいいでしょう、わたくしは人間が大好きであります、――そこで考えるんですが、人間とはそもそもいかなるものであるか、ということです」
彼は重おもしく沈黙し、それから冥想《めいそう》的に続けた、「あなた方は蚯蚓《みみず》の身長について考えたことがありますか、うかがいたいのですが、蚯蚓というものは絶えず伸びたり縮んだりしております。こんなふうにですね」彼は右手の拇指と食指とでそんなような動きをやってみせた、「ちょこうして、いちばん長く伸びたとき、またもっとも短く縮んだとき、あるいはその中間、この三つのどれが蚯蚓の真の長さでしょうか。――え、蚯蚓はどの長さにおいても蚯蚓である、と仰《おっ》しゃるのですか、よろしい、その即物的な御意見をここへ置いておきましょう、さて人間ですが、これはもう千人いれば千人ぜんぶが違った性格と風貌《ふうぼう》をもち、五欲もまた同一ではない、千差千別、偉大な者からみじめな者まで、それぞれに考えも行動も生きかたも違っています、しかもこれらをひっくるめて、人間てあるということには些《いささ》かも変りはないし、わたくしはその人間[#「人間」に傍点]を愛しているのであります」
彼は左手を右手の袖口へ入れ、右手で顎《あご》を支えながら、複雑な対数表をまとめあげようとでもするように、暫くのあいだ重厚に黙っていた。
「愛と裏切りとは双生児だと云います」と彼はやがて云った、「わたくしは盗む側、すなわち貴族的少数者の側に属するので、かれらには一倍の愛を感じているわけですが、かれらによるたちの悪い裏切りにぶっつかるたびこと、少しずつあいそがつきるような気分を味わわなければなりません、――さきほどは粟田口の大臣のことを申上げましたな、ええ、じつを云うとあれはこっちの目算ちがいで、大臣の裏切りとは申せないでしょう、しかしそのあと、よりみつ大納言の今出川の別邸では、全身にこむら[#「こむら」に傍点]返りの起こるような、論外の裏切りにあったのです」
彼は立ちあがって、そっとうしろ腰を撫《な》でた、「ご存じのようにかの大納言は、皇太后の宮の御|寵愛《ちょうあい》が篤く、いや、待って下さい、皇太后ではなく中宮さまでしたかな、それとも上東門院か、――たしか上東門院かもしれませんな、それはまあどちらでもいいのですが、要点を申せば、御寵愛が篤いためにしばしば金品を拝領しており、その中に鳩の宝冠がある、ということなのです、それはぜんたいが金の唐草《からくさ》の透《すか》し彫りで、鳳凰《ほうおう》を戴き、日輪をかたどった飾りの中央に、白玉で鳩の打出しがあり、碧玉《へきぎょく》、緑柱玉、紅玉、翡翠《ひすい》その他の玉類のちりばめと、鳩の眼に金剛石が埋められてあるのとで、価三万三千両といわれているのです、三万三千両、ということは、とりも直さず評価しがたいほど高価だという証拠なのですがね、ええ」彼は左へ三歩あるくのに跛をひくことを忘れ、あっといって腰骨を押え、そのまま暫くじっとしていた。やがて「ええ」と自分に頷き、腰骨をさすりながら続けた、「わたくしは辛抱づよく聞きこみをし、情報を集め、それらを詳細に繰り返し検討したうえで、千万誤りなしとみきわめてから、仕事にかかりました。この期間が一年半と二十一日かかったのです、つまり小溝を渡る事に石橋を架けたというあんばいでしたがね、――それだけの辛抱と苦労をしたあげく、わたくしは首尾よく宝冠を盗み出すことに成功しました。金の高蒔絵《たかまきえ》のある冠筺《かんむりばこ》を抱えて、山寨《さんさい》へ帰るときのわたくしの気持がどのようであったか、これはもうあなた方にも想像のつくことでしょう、けれどもそのあとになにが起こったかとなると、――そうです。初めて蚯蚓を見て、それがせいいっぱい伸びたところで、ああそうかと思って次に見ると、てんで短くなっているのを発見したときの、瞞着《まんちゃく》されたような驚きと怒りを想像していただきたい、と申すほかはありません」
彼は注意して左へ三歩あるき、右へ四歩戻り、うしろの森でふくろう[#「ふくろう」に傍点]の鳴きだすのを聞いて、「やかましい」と拳を振って叫んだ。ふくろう[#「ふくろう」に傍点]は鳴くのをやめ、羽ばたきの音を残してどこかへ飛び去った。
「ずばり申上げよう」と彼は云った、「宝冠はなかった、金の高蒔絵の筺《はこ》をあけてみると、宝冠などはなかった、いいですか、宝冠のない代りに藁《わら》の雪沓《ゆきぐつ》がはいっていたのです、藁で編んだ例のごく通俗な雪沓がです」
彼は左手を返し、右手の拳でそれを叩こうとしたが、その拳は途中で止り、彼は両手を力なく垂れた。
「わたくしは宝冠のなかったことは咎《とが》めません」と彼は忍耐づよく云った、「大内裏の政所《まんどころ》にも苦しいときはあるでしょうから、日常が派手な大納言もくらしの必要から、宝冠でいちじを凌《しの》ぐということも、決してあり得ないことではない、わたくしにもそのくらいの推量はできますし、それはそれでよろしい、お気の毒さまと云ってもいいくらいです、――にもかかわらず、大納言は冠筐の中へ宝冠の代りに雪沓を入れておいた、なんのためですか」
彼は拳を頭上にあげてふるわせた、「ぜんたいなんのためにそんなことをするんです、この」と彼は自分自身を指さした、「――この、鬼鮫と呼ばれる冷酷無情でいかなる非道、どんなに残虐なことも敢えて辞さない大ぬすびとであるわたくしが、一年半と二十一日の苦心を重ね、首尾よく盗みだした冠筐の蓋を取ったとき、そこに藁の雪沓をみいだしたらどんな心持になるか、え、あなた方にうかがいますが、そんなとき人はどんな感情をいだかせられると思いますか」
「これは人間性を侮辱し嘲弄《ちょうろう》するものです」と彼は声をはげまして続けた、「貴族社会の道徳心が頽廃しつつあると、わたくしはうすうす感じていましたが、事実は予想以上にひどくなっているようです、――はい、なんですか、――左大臣の白川の別墅はどうした、と仰しゃるんですか」彼は唇を片方へ曲げて、あいまいに肩をすくめた、「いまそれを申上げようとしていたところなんですよ、ええ、かれら貴族階級の頽廃ぶりがいかに増大しつつあるか、その徳義心の乱脈さ、――いや待って下さい、いまそれを申上げるところでして、さよう、左大臣の別墅へはむろん忍び込みました、すべては手筈どおりで、忍び込むのになんの苦労もなかった、本当にそれはぞうさもないことだったのです、しかし」彼はそこで左手をくるっと振り、いかにも救いがたいと云うように顔をしかめた、「しかしですね、そこではまだ少年少女といってもいいとしごろの、公達や姫たちが集まって、台盤を列ね酒肴を並べ、酔っぱらって踊ったりうたったり、という騒ぎを演じていたのです、は、――わたくしは退散しましたな、ええ、まだ乳の香もうせないと思われる少年少女たちが、肴《さかな》を喰《た》べ酒に酔い、人をばかにするような歌をうたって騒ぐとは、――たとえわたくしが大ぬすびとの鬼鮫であっても、とうてい見ているに耐えない、ということはわかっていただけるでしょう、すなわち、鼻を摘んで退散したわけです」
闇の中から、一人の若者があらわれた。
「なんだ」と彼は逃げ腰になって、闇をすかし見た、「誰だ、そこに誰かいるのか」
「鬼鮫どの」若者は走りよって鬼鮫にすがりついた。
「誰だ」彼はとびあがった、「よせ、放せ、きさまはなに者だ」
「耳助です」と若者はけんめいにしがみついて云った、「今宵お手引きをした、左大臣家の小舎人の耳助です」
「や、きさまか」彼は逆に若者の首を掴《つか》んだ、「おのれこの痴《し》れ者、ぬす人までたぶらかす大かたり[#「かたり」に傍点]、いかさま師の恥知らずの、うう、白癩病《びゃくらいや》みの、――あ」と彼は急に若者を突き放した、「きさま、こんどは使庁の役人に手引きをしたんだな」
「どうしたんですか、なんですか」
「使庁の役人に手引きをして、ここでおれを捉まえさせるこんたんだろう」
「それは誤解です、とんでもない」
「こっちへ寄るな」
「聞いて下さい、私は左大臣家から追い出されたのです」若者は身もだえをし、訴えるように声をふり絞って云った、「笞《むち》で七百叩かれたうえ、京から三十里以外へ追放ということになったのです、嘘だと思うなら背中を見せましょう、笞の痕《あと》がまだ火傷《やけど》のように痛んでいて、ま、ちょっと見て下さい」
「よせ、ばか者、やめろ」彼は慌てて手を振った、「おれがいかに酷薄無残でなさけ知らずな男だといっても、そんなものを平気で見られると思うか、人を威《おど》かすのも、いいかげんにしろ」
「あなたが信じて下されば、私だってむりに見てもらおうとは云いませんよ」
「信じるだって」彼は眼を剥《む》いた、「鬼鮫ともいわれるこのおれを、あんなふうにぺてんにかけ笑い者にしておいて、それでもきさま信じろと云うのか」
「ぺてんにかけた、ですって」若者は昂然《こうぜん》と顎をあげた、「失礼ですが、その言葉は聞き捨てになりませんな、いったいそれはどういう意味ですか」
彼はなにか云おうとして声が喉《のど》に詰り、咳《せき》をしてから、吃驚《びっくり》したように相手を見た。
「こっちへ来い」と彼は若者の袖を掴んで森のほうへさがった、「人に聞かれてはおれが二重に恥をかく、こっちへ寄れ、ばか者、よし、――そこで訊《き》くが、きさまはぺてんという意味が本当にわからないのか」
「金輪際」と云って、若者は薄っぺらな肩をそびやかした。
「これでも人間でしょうか」彼は脇を見て眉をしかめ、それから若者に向って云った、「おい、よく聞けよ、いいか、きさまはあのなんとかいう雑色と二人で、白川の別墅へ忍び込む手引きをした、そうだろう」
「その役目はちゃんとはたしましたよ」
「まあ待て、そこでだ、――おれはおまえたち二人に銭二貫文を渡した、な」
「はっきりしてるじゃありませんか」
「問題はこれからだ」彼は左の手を出し、右の食指でその掌を叩きながら云った、「おれはきさまたちに銭二貫文をやって、別墅の持仏堂への手引きを頼んだ、なるほど、きさまたちの手引きは休息の間までは慥かだった、ところがどうだ、休息の間へはいるとたん、畳がどでん返しになってあの始末だ」
若者は大きな声で笑いだしたが、背中の傷にひびいたとみえ、「つつ」と云って、手を背中へやりながら身を跼《かが》めた。
「笑うとはなにごとだ」と彼は怒った、「きさま知っていたんだろう」
「むろんですよ、私たちが申しつけられて作ったんですから、しかし、あんなにうまくゆくとは思いませんでしたね」
「この痴れ者が、むろんだなどと、どの口でぬかせるんだ」
「あなたには関係のないことでしょう、なにが気にいらないんですか」
彼は両手を前へ出し、それをひろげてから、ばたんと腿《もも》へ打ちおろした。ものも云えない、とでも云いたげな動作で、次にかっと頭へ血がのぼったらしく、拳をあげて相手にのしかかった。「あの、この」と彼は吃《ども》り、そして、もうと怒った、「おれに関係がないって、なにが気にいらないかって、きさま、――おい、よく聞け」彼はふりあげた拳で額の汗を拭いた、「きさまたちはおれから二貫文の銭を受取って、持仏堂へ手引きの約束をしたんだぞ、その約束をしておきながら、一方ではおれのために落し穴を作り、おれを落し込んで笑いものにした、これがぺてんでなくってなんだと云うんだ」
「あなたは理にうとい人だ」と若者は屈託したように云った、「いいですか、私どもはあなたと手引きの約束をしました、そして約束はちゃんとはたしました、築地塀も、中門もそれから妻戸もちゃんとあけてあったし、四つ目の障子まで正直に教えました、そうでしょう、――けれどもです、大臣の甥《おい》に当る左少弁つねみち[#「つねみち」に傍点]さまに気づかれて、どういう企みだと訊かれたのだから、これはもう申上げるよりしようがないでしょう」
「正直にだと」
「もちろんです」若者は薄っぺらな肩をまたそびやかした、「あなたとは銭二貫文で正直に約束をはたしましたが、左少弁さまとは主従の契約によってすべてを正直に申上げた、したがって、落し穴の件はあなたとは関係のないことだ、というわけがこれでおわかりでしょう」
「しかし現におれは落し穴へおっこって笑いものにされたぞ」
「落ちたのはあなた自身ですよ」
「落し穴はきさまが作ったんだろう」
「左少弁さまのお云いつけです」
「責任はないと云うのか」
「わからない人だ、いいですか」と若者は噛《か》んで含めるように云った、「私は責任をはたしたんですよ、あなたに対する責任もはたし、左大臣家に対する責任もはたしたんです、私はどちらにも正直に、小|舎人《とねり》耳助として立派に責任を、――どうなさるんです」
「止めるな、おれは山寨へ帰る」と彼は云った、「きさまの云うことを聞いていると、ふしぎなことだが、自分がお人好しのばか者であったために、銭二貫文を出してわざわざ笑い者になった、というふうに思えてきそうだ」
「現実はたいていそんなようなものです」
「黙れ、おれは人も恐れる鬼鮫だそ」と彼は足踏みをしようとして危なく思い止り、片手で腰骨を押えながら云った、「この酷薄無残で血も涙もない大ぬすびとであるおれが、そんなくそ現実などを認めると思うか、見ていろ、いいから見ていろ、おれはもっとずでかい仕事をやってくれるぞ」
「待って下さい」若者は彼のあとを追った、「私にいい考えがあるのです、左大臣家を放逐された以上、これからはあなただけが頼りであり、あなたのために奔走したいと思うのです、お願いです、私をいっしょに伴《つ》れていって下さい」
[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]
「暫くでした」と彼はあいそ笑いをした、「わたくしですか、――ええ、腰骨の痛みはすっかり治りました、このとおり、とんでもはねても大丈夫です、ほら、このとおり」
彼は二三度はねてみせ、岩を削った踏段から、下の地面へとびおりて、一揖した。
「あれがわたくしの山寨です」彼はうしろへ手を振って云った、「ここは鹿谷《ししがやつ》の奥、白川の向うに見えるのが黒谷で、もうちょっとこっちへ寄ると真如堂も見えます、――都には近いしまわりはこのとおりの密林と岩、杣道《そまみち》から少しはずれただけですが、絶対に人の眼にはつかない、大ぬすびと鬼鮫の山寨としては、これ以上うってつけな場所はないでしょうな、ええ、あの入口へ木の枝を立てかけておくだけですが、もう五年というもの誰にも気づかれたことがないんです」
彼は下から杉の梢《こずえ》の伸びている崖《がけ》の端へゆき、そこから下のほうを見おろしたが、頭を振りながら戻って来た。
「あの耳助のやつ」と彼は独り言を云った、「また妙なぐあいに責任をはたすんじゃないかな、とかく貴族の邸などにいると、道義感というものが失われてしまうらしいからな」
彼は急に顔をあげ、とりいるように笑って云った、「いやなに、かくべつ心配ごとがあるわけではありません、じつは耳助と、――ご存じでしょう、左大臣家の小舎人だったあの若者です、彼が左大臣家を放逐され、ゆきどころがないというので山寨に置いてやっていたんですが、こんどわたくしが思いついた仕事のため、四条河原まででかけていったのです、こんどの仕事」彼はいそいそと両手を擦り合せた、「――あなた方に申上げるが、これは前代未聞な仕事であり、わが国の犯罪史に黄金の文字で印されるべき着想なのです」
彼は左手を右の袖口へ差入れ、右手で顎を支えながら、考えぶかそうに左へ三歩あるき、右へ三歩あるいた。
「これは非人情で、残酷で、冷血動物の神経がなければできません」彼は控えめな口ぶりで続けた、「わたくしはこれまで盗む者、すなわち貴族的少数の側に自分を置いており、かれらの取得した物の中からわたくしの取り分を貰う、というふうにやって来ました、しかしこれは誤りであった、わたくしがかれらからそくばくの金品を奪っても、かれらは些《いささ》かも痛痒《つうよう》を感じないのです、かれらは次に盗む率をせりあげることによって、わたくしが奪う以上の物を民百姓から絞りあげればよろしい、かれら自身は飲んでうたって、ばか騒ぎをするのになんの不自由も感じないのです、――わたくしがかれらの側に立っている、は、とんでもない、わたくしは鬼鮫と呼ばれる大ぬすびとであり、わたくし自身以外のなにものでもない、ばかりでなく、むしろどちらかといえば」彼はもっと控えめに云った、「いや、もうはっきり云わなければならないでしょう、わたくしはかれら貴族的少数者と対立する者であり、かれらに現実のきびしさと、生れて来たことを悔むほどの恐怖を与える者でありたいと思う、――これは威しではなく、極めて素朴な宣言なのであります」
彼は声をひそめた、「さよう、こんどの仕事こそ、かれらに現実のぬきさしならぬきびしさと、血の冰《こお》るような恐怖とを、しんそこ感じさせることができるでしょう、はあ、ではなにをするかというとですね、これは秘中の極秘なのですが、さる中将の姫を誘拐《ゆうかい》して、身の代金をゆすり取るというわけです」彼はさらに声をひそめた、「ご存じでしょう内大臣の弟で綾小路に第があり、青瓜と渾名《あだな》のある中将、――たいそうけちん坊で内庫には金銀がぎしぎしいっている、姫が二人あって、末の品子という姫は、やがて内裏へあがるというもっぱらの噂《うわさ》です、なにしろ内大臣の姉ぎみが中宮ですし、姫は美貌と頭のよいのでは都じゅうに隠れもない人ですからね、ええ、もしも噂が事実なら、東宮のきさきに召されるだろうということですが、ええ、おとしはちょうど十五歳です」
彼はまた崖のところへゆき、首を伸ばして黄昏《たそがれ》の濃くなった杉林の下を見おろした。彼はたかまってくる不安のため、右の袖口へ入れていた左手を出しへおちつきなく、両手を振ったり、衿首や頬にたかる蚊を叩きつぶしたり、その手を擦り合せたりした。
「もう蚊のやつ[#「やつ」に傍点]が出はじめた」彼は独り言を呟きながら戻って来た、「おれはふしぎに思うんだが、この蚊というやつ[#「やつ」に傍点]に人間の血を吸うことを教えたのはなに者だろう、やつ[#「やつ」に傍点]はあのとおり虫けら[#「けら」に傍点]の中でも取るに足りないくらい小さくて、ものを考えるほどの脳みそがあるとはとうてい思えない、したがって誰かがそっと耳うちでもしない限り、人間の躯《からだ》に毛穴があり、そこから管を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]《さ》し入れれば、美味《うま》くて滋養分のある血がたっぷり吸える、などということを発見する筈はないだろう、慥かに」彼はうしろ首の蚊を叩きつぶした、「――なに者かがやつ[#「やつ」に傍点]にそれを教え、やつ[#「やつ」に傍点]は同類にそれを弘め、そしていまではそれを自分たちの特権だと信じこんでいるんだ、いまいましい、聞くところによると、血を吸うのは雌の蚊だけであるという、また、血がなければ水を吸うだけでも千万やってゆけるということだ、雌だけが血を吸うというのもいまいましいし、水だけでもちゃんと生きてゆけるというのもいまいましい、――いったいどこのどいつがそんなことをやつ[#「やつ」に傍点]に教えたものか、人間にどんな怨《うら》みがあったのか、うかがいたいくらいのもんだ」
「やあこれは、どうも失礼」と彼はわれに返ったように向き直った、「もちろん蚊の習性などはどっちでもよろしい、わたくしが苛《いら》いらしているのは耳助の帰りのおそいことでしてね、ええ、彼は品子姫を誘拐にいって、もうとっくに帰らなければならない時刻なのです、いや、遠くではありません、姫は大法観寺へ二十一日の参籠《さんろう》をされ、今日が満願で帰られるのです、――世間では、姫が参籠されるのは願掛けや信仰のためではなく、男と密会するのが目的であり、その相手は殿上人《てんじょうびと》から牛飼いの伜《せがれ》にまで及ぶ、などと噂をしているようですが、云うまでもなくそねみやねたみから出たものでしょう、わたくしは一度か二度、輿《こし》とか牛車で通るのを見かけただけですが、その、清楚というかせんぺん[#「せんぺん」に傍点]というかその、あれです」彼は形容の言葉がないというふうに首を振った、「――見ているだけでかなしくなるような、消《け》ぬがにういういしく美しいお姿でしたよ、ですから世間の噂などは根も葉もないことでしょうし、御両親の愛着もひとしお、特に、やがては東宮のきさきに召されようというのですから、身の代金めあての誘拐となれば、都じゅうでもいまこの姫にまさる人はないだろうと信じたわけですよ、ええ、――このたびの参籠はお忍びなので供は少なく、その中に耳助の知っている下人がおり、彼はその下人を酒で買収したうえ、まあ、こまかいことは云う必要もないでしょう、四条河原の渡りで姫をさらって来るという、手筈なのです」
彼はちょっと崖のほうへ耳をすまし、それからまたそわそわと歩きまわった。
「とんだことで、金無垢の仏像の代りにあんな男を背負い込む結果となりましたが」と彼は弁解するように云った、「あれで耳助という男もまんざら捨てたものではありません、またなに者にもせよ、人間は可愛がっておくべきものだと思うのですが、彼はこんどの仕事ではかなりな程度まで役に立ちましたな、ええ、もしも耳助がいなかったら」
彼は突然はねあがり、踏段を駆け登って山寨の中へ身を隠すと、洞穴の口を木の枝で隠した。
「どうしたんだい、早く来なよ」という女の声が、崖のほうから聞えた、「なにさ弱虫、これっぽっちの坂を登るのにふうふういって、あちしなんか見てみな、このとおりだから」
美しい少女が一人、いさましく走り登って来た。略装の掻取《かいどり》すがたながら、裾を捲《まく》っているため、ほっそりとした足の膝《ひざ》の上までがあらわに見え、衿をくつろげた胸は、まだ小さいけれども、形のよい、こっちりと固そうな双の乳房が、半分がた覗《のぞ》いていた。
「こんな話は聞いたこともない」と喘《あえ》ぎながら、若者が苦しそうにあとから追いついて来た、「――誘拐される者が、誘拐者をせきたてるなんて、こんなばかげたことがあるだろうか、おれ自身だって、神かけてこんな話は信じやしないぞ」
「なにをぶつくさ云ってんだい」と美しい乙女は云った、「早く来なよ、いい景色だから、――わあ凄《すご》い、谷間に白いむくむく[#「むくむく」に傍点]がぞろめいて来やあがって、あっち、の山なんざいまにかっ消えちめえそうだぞ」
「静かにして下さい」と若者は荒い息をしながら制止した、「ここは人も恐れる大ぬすびと、鬼鮫と呼ばれる酷薄無残な賊の山寨ですからな、温和《おとな》しくなさらないとどんなひどいめ[#「め」に傍点]にあわされるかしれませんぞ」
「聞き飽きたよ青|瓢箪《びょうたん》」少女は下唇を突き出した、「おめえ同じことをもう百遍もぬかしてるぜ、こっちは聞き飽きてうんざりだ、ここが山寨で本当にそんな野郎がいるんなら、さっさとしょっぴいて来たらどうだい、男のくせに口ばかりたたくんじゃねえよ、この青瓢箪」
洞穴を隠した木の枝の隙間から、そっと彼がこちらを覗いて見、びっくりしたらしく、慌ててまた木の枝を元のように直した。
「もちろん、仰しゃるまでもなく」と若者は答えた、「これから山寨へ御案内を致しますが、一つ姫ぎみにお願い申したいことがあるのです、と申しますのは、率直に云って言葉づかいなんでして」
「そんなこと気にすんな」
「あなたは藤原御一門に生れた高貴な方であり、才色すぐれた佳人と」
「気にすんな気にすんな」あえかに美しき乙女は手を振って遮《さえぎ》った、「おめえたち下賤な人間は言葉づけえにまでびくびくするだろうが、あちしっち社会になるとそんな遠慮はありゃあしねえ、好きなように喰べ好きなように寐《ね》、好きなように饒舌《しゃべ》り好きなようにたのしむのさ、生きている限りたのしむだけたのしむ、万事それだけのことさ、いいからその鬼鮫のところへ伴れてってくんねえ」
「おれは気分がふさいできた」と若者は脇へ向いて呟いた、「このばくれん者を中将の姫ぎみだと、鬼鮫どのが信じてくれるかどうか、このおれ自身でさえ確信がもてなくなってきたからな」
「なにをまたぶつくさ云ってんのさ」
「どうぞこちらへ」若者は腰を跼め、ひらっと手を振って云った、「あれが山寨です」
若者は少女の先に立って踏段を登り、洞穴の口に立てかけてある木の枝をどけ、姫を案内して中へはいっていった。――日はすでに落ちて、谷間から這《は》いのぼってくる夕霧も、灰色から薄墨色に変りつつ、しだいに消え去ってゆき、空に残った茜《あかね》色の雲もたちまち色|褪《あ》せて、かすかに星が光りはじめた。――山寨の中から、若者と彼が出て来、踏段をおりてこちらへ来た。
「なんだあれは、あの化け物はなんだ」
「おちついて下さい、まあおちついて聞いて下さい」と若者は彼をなだめた、「あなたが疑わしく思うだろうということは、私もおよそ察しておりました、私自身でさえ、いかもの[#「いかもの」に傍点]を掴《つか》まされたんではないかと、幾たびも首をひねったくらいなんです、いや、まあ聞いて下さい」若者は両手で彼を押えるような動作をした、「けれどもです、私は中将家の下人とは古い知合いですし、お供のはした[#「はした」に傍点]女たちも中将家の者に相違なく、現に姫ぎみその人が品子であると云って」
「魚と馬とは見わけのつくものだ」と彼は若者の言葉を遮って、懐疑を抑えきれぬように云った、「また、男と女の区別、白黒の違いも判断ができる、人間には誰しもそのくらいの能力はあるものだ、しかしきさまが伴れて来たあのもの[#「もの」に傍点]は」
「誘拐です」と若者が訂正した、「伴れて来たのではなく、かどわかして来たのです」
「それが自慢か」彼は若者にのしかかった、「中将の姫どころか、あれはもっともあばずれたくぐつ[#「くぐつ」に傍点]女、でなければ化性《けしょう》の者というところだぞ」
「あなたはご存じないようだが、そして、あの姫はちょっと度外れてはいるようだが、およそ公卿貴族の公達や姫ぎみというものは、一般が想像するよりはるかに庶民的であり、ものごとに拘泥しない風習があるので」
「あれが庶民的だって」彼はさらに若者へのしかかり、相手を崖のほうへ追い詰めながらどなった、「山寨へはいって来るなりおれに抱きつき、おれの唇へ噛みついて、さすがこの悪虐冷酷な鬼鮫も顔を赤くするようなことを囁《ささや》き、そして、おれのことを押し倒そうとするのを見ただろう、一般庶民があんなまねをすると思うか」
「それがその貴族社会では、生れつき誰に遠慮ということを知らないのだそうでして」若者は崖をよけて脇のほうへまわりながら弁明した、「ここへ来る途中でも立ちいばり[#「いばり」に傍点]をなさるので、私は人が来なければいいがとはらはらしているのに、姫ぎみはまことに正々堂々、いかに素朴な百姓の媼《おうな》も及ばぬ巧みな手際で」
「しっ、黙れ、こら黙れ」彼は狼狽《ろうばい》したようにどなった、「おれはかの社会徳義が紊《みだ》れつつあるとは推察しているが、そこまで話を面白くすると作りごとになるし、もしもそれが事実なら、あれがまやかし者なことを証明するものだぞ」
「証明は簡単です、身の代金の脅迫状でためせばいいでしょう」と若者が云った、「出来ているなら私にください、これからすぐに中将家へ持ってゆきますから」
「それはそうだが」彼は山寨のほうを振返って見、不安そうに口ごもった、「脅迫状は出来ている、ここに持っているが、なにしろこれはこの仕事の要《かなめ》だからな、どうしたら慥かに中将の手に渡るかという手段を考える頭と、それを実行する度胸のある者でなければ」
「それこそ私にうってつけの役目です」
「いや、きさまはまだ若い」
「初めからその約束でしたよ」
「約束は変更されるものだ」彼はふところから書状を出して見、また山寨のほうへ振返って、ゆっくり首を振った、「きさまはともかく宮仕えの経験があるし、姫たちの扱いも少しは心得ているだろう、だがおれはまったくの無経験者であるうえに、相手があんな」
若者は燕《つばめ》のようにすばやく身をひるがえし、彼の手から書状を奪い取った。彼は度胆をぬかれ、次いで怒りのため顔を赤黒く怒張させた。
「怒らないで、ま、怒らないで」若者はあとじさりながら片手を前へ出した、「どうしたってこれは私の役目ですよ、綾小路の第へ近よるにも、これを間違いなく中将の手に届くようにする手段も、あなたより私のほうがずっと詳しいですからね」
「きさまあの姫が恐ろしいんだな」と云って彼はいそいで云い直した、「いや、きさまこの仕事が恐ろしくなってずらかるつもりなんだろう」
「そのつもりならここへ来やあしません、神かけて大丈夫、誓って役目ははたしますよ」
「ちょっと待て」彼はよそ見をしながら、極めてさりげなく若者のほうへ近よろうとした、「まあそう慌てるな、おれが思うのにだな」
「私も思うんですが」と若者もあとじさりながら云った、「初めの約束どおり、この状を早く中将に届けることにしますよ」
「ものには相談ということがある」
「帰ってからにしましょう」と若者は云った、「姫ぎみに用心して下さい」
「やい待て、ちょっと待て」
「すぐ帰ります」若者は走りだした、「もし帰りがおそくなっても、私のことは心配しないで下さい、どうかお大事に」
「卑怯者《ひきょうもの》め」彼は走り去る若者に向って、片手の拳を振りながら叫んだ、「戻って来い、きさまあの姫の側へおれ一人を残して、――いっちまやがった、あのおためごかしの、ごますりの、独善家の、卑怯者が」
[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]
「ねえ鬼助」と姫が云った、「こっちへいらっしゃいよ」
闇の中で彼の鼾声《かんせい》が聞えた。
「ねえ鬼助ったら」と姫が云った、「そら眠りをしたってだめ、眠ってないことはちゃんとわかってるんだもの、ねえー、返辞をしなさいよ」
鼾《いびき》の声が少し高くなった。
「ばかねえ」姫は喉で笑った、「鼾ってそんなに規則正しく出るもんじゃないのよ、本当に眠っているときはもっと身動きをするし、鼾だって高くなったり低くなったり、跡切れたかと思うとまた始まったりっていうぐあいに、不規則で絶えず変化するものなのよ」
彼は闇の中でもぞもぞと寝返り、鼾の声を高めたり低めたり、跡切らせたかと思うと、ちょっと唸《うな》ってみせたりした。
「そうそう、うまくなったわ」と姫が褒《ほ》めた、「それからーと、夢を見るときには笑いもするし、泣くときもあるのよ」
彼は黙っていた。自分の現在おかれた状態をよく検討したのだろう、やがて、眠っている筈であることを忘れて「ばかな」と云った。
「人をばかにしてはいけない」と彼は腹立たしげに云った、「おまえさまはお公卿そだちに似あわず人の悪いことばかり云いなさる、もう時刻もおそいのだから黙ってぎょし[#「ぎょし」に傍点]んならなければいけませんぞ」
「ぎょし[#「ぎょし」に傍点]んってなんのこと、魚心あれば水心っていうことかしら」
「とんでもないことを仰しゃる、お育ちにも似あわない、ぎょし[#「ぎょし」に傍点]なされはおやすみなされでござりましょうが」
「つまらないこと云わないで」と姫は鼻声をだした、「ねえー、こっちへ来てよ、鬼助」
「わたくしの名は鬼鮫です、どうか鬼助なんて呼ばないで下さい」と彼は云った、「それにまた、こっちへ来いなどと、はしたないことを仰しゃってはいけません、御身分にかかわりますぞ」
「じゃあ、あたしがそっちへゆくわ」
「なんですって」彼のはね起きるようなけはいがした。
「あちしがそっちへゆくって云うの」と姫が云った、「これまで一と晩だって独りで寝たことなんかないんだもの、おとこがいなければ侍女でもいい、誰かに抱かれるか抱くかしなければ眠れやしないわ」
「冗談じゃない、冗談を仰しゃってはいけません」彼は慌てて身づくろいをするらしい、しきりにそら咳をし、もぞもぞやりながら云った、「そんなことを云ってわたくしを脅やかすつもりだろうが、御身分とお育ちを考えたら、冗談にもそんな言葉を口になさるものではありませんぞ」
「あらいやだ、あちしっちはみんなこういうふうに育ってるのよ、どこにいるの鬼平」
「あなたは御空腹なんだな」彼はふるえながら燧石《ひうちいし》を打った、「寄ってはいけません、そこにじっとしてて下さい、人間は腹がへってると眠れないし、眠れなければあらぬことを考えるものです、ちょっと待って下さい、いまなにか差上げますから」
彼が灯をつけると、寐莚《ねむしろ》の上に褥《しとね》を掛けて横たわっている姫の、殆んど半裸になった姿が見え、彼は眼をひきつったように脇へそらしながら、立っていった。姫は清絹《すずし》の下衣の裾を捲り、胸許《むなもと》をもっと掻きひろげ、杉のへぎ[#「へぎ」に傍点]板で作った不細工な扇で、はたはたとけだるそうに風を入れながら、あまたるい誘惑的な声で、なにやら俗にくだけた歌をうたった。まもなく、彼は大きなかなまり[#「かなまり」に傍点]を持って戻って来、それを姫に渡した。
「これは粟と小麦を煎《い》って粉にした焼き団子、こちらは乾し桃と乾した猪《いのしし》の肉です」と彼は説明した、「この団子を一と口、次に猪の乾し肉を一とかじり、それに乾し桃をちょっと噛み合せて下さい、あなた方のお口には合わないでしょうが、こういう山寨のことでなにもありませんから、飢えだけ凌《しの》ぐと思って辛抱を願います」
「酒はないの」姫は横になったまま、手づかみで喰べながら云った、「酒を持って来なよ」
「酒なんてとんでもない」
「酒はあるんだろう」
「あることはありますが、あなた方の召上るようなものではないし、それに御身分からいってもおとしからいっても、酒などを召上るべきではないでしょう」
「これはうめえもんだな、うん」姫は舌鼓を打った、「こんなうめえものは初めてだ、喰べたら急に腹がへってきちゃった、よう、酒を持って来なってばさ」
「いけません」と云って彼は脇へ向き、独り言を呟いた、「なんということだ、これが内大臣と中宮の姪、中将の姫、やがてははるの宮のきさきにも直ろうという人だろうか、本当にこれがその人だろうか」
「酒を持って来なって云うのに聞えないのかい」と姫が云った、「もう喰べ物もなくなっちゃったからね、酒といっしょにお代りも持っといで、ぐずぐずするんじゃないよ」
「いまのを喰べちまった、ですって」彼はからになったかなまり[#「かなまり」に傍点]を受取り、仔細にその中を覗きこんだ、「本当だ、胆《きも》が潰れた、すっからかんだ、山賊《やまだち》でも一とかたき[#「かたき」に傍点]には余るくらいの物を、かけらも残さず喰べちまった、あのたおやかにかぼそいお躯の、いったいどこへどうはいったものだろう、おまけに代りをよこせだって」
彼はぞっとしたように肩をすくめ、立ってゆきながら長い溜息《ためいき》をついた。
[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]
「今日でもう五日になる」と闇の中で彼が独り言を呟いた、「耳助はまだ帰らない、あの卑劣漢は五日も経つのに帰っても来ずなんの報告もしない、思ったとおり、やつ[#「やつ」に傍点]はずらかったに相違ない」
姫が寐返るけはいと、鼻にかかったあまい唸り声が聞え、彼はぎょっとしたように口をつぐんだ。山寨の外で夜鳥の鳴く声がし、虫の声が聞えた。
「どうしよう」と彼はまた呟いた、「どうにかしなければならない、いつまでこうしているわけにはいかないぞ、貯蔵食糧も残り少なくなった、おれ一人なら冬まで充分に保つ筈だったが、それでも余るくらいだったのが、姫のおかげですっかり底をついちまった。そればかりではない、酒も飲まれるし毎晩のように身を護らなければならない、うっかり眠りでもすれば、いつ身をけがされるかしれないんだから」
「鬼六、――」と姫が云った、「おめえどこにいるんだい、よう、もっとこっちへ寄んなよ」
彼は躯をちぢめ、息をころして、ようすをうかがった。寐言だったとみえ、姫は短く唸ると、足を投げだす音がし、また軽い寐息が聞えてきた。
「明日はでかけてってみよう」と彼は暫く待ってみてから続けた、「やつ[#「やつ」に傍点]は責任だけははたす男だ、たとえずらかるにしても、あの状を中将の手に届けるという役目だけははたした筈だ、とすれば、五日という日限も、八坂の塔の下という場所も、中将にはわかっているだろう、――そうだ、明日はおれが八坂の社まででかけてゆくとしよう」
彼は太息《といき》をつき、欠伸《あくび》をした。
「こんどの思いつきはすばらしかったな」と彼は呟いた、「僅かばかりの金品を盗むなんてもんじゃない、そんなものはかけだしの泥棒のすることだ、この鬼助――ではない鬼鮫さまはそんな半端な仕事はしない、あの高慢づらをした貴族の心を恐怖でふるえあがらせ、くらい太ったあのなまっ白い躯の血が冰《こお》るようなおもいを味わわせ、おまけに砂金三千両をめしあげてやるんだ、うん」彼はまた欠伸をした、「おれにはいまあの青瓜の中将の顔が眼に見える、最愛の姫、都じゅうに才色ならびなき姫、やがては東宮のきさきに召され、したがって親の中将の華やかな将来をも約束するところの宝、――その姫がかどわかされ、冷酷無残でありなさけ知らずなこの鬼鮫の手に落ちている、ふ、かれらは血の涙を流し神仏に祈り、頭を掻きむしり地だんだを踏んで、泣き喚き狂いまわっていることだろう、あっあー、かれらはいまこそ思い知るのだ、現実がいかに無慈悲できびしく、この世に生きることがどんなに苦しみと悲しみに満ちているか、ということを――そしてかれらは」
かれらは、と云う言葉はそのまま消えてしまい、愛らしい姫の寐息に混って、彼の鼾声が聞えはじめた。闇のどこかで虫の音が高くなり、かれらの幾種類かの恋歌は、互いに競争者を凌駕《りょうが》しようとして技巧を凝らし、あるいは力づよく、あるいは微妙に、それぞれ精根をこめのぼせあがってうたい続けた。すると、どのくらい経ってからか、姫のやわらかな寐息が聞えなくなり、ひそかに衣《きぬ》ずれの音がしたと思うと、「うっ」という彼の苦しそうな声が聞えた。
「うっ、く、――」と闇の中で彼はもがいた、「くるしい、だ、誰だ」
「じっとしてて」と姫の囁くのが闇の中で聞えた、「暴れるんじゃないの、これをこうしなさい、だめっ、じっとしているのよ」
「姫ぎみですね、とんでもない」と彼はなにかに塞《ふさ》がれた唇の端で抗議した、「とんでもない人だ、御身分をお考えなさい、あなたはやがてはるのみやの、うっ、――うっ」
「なにをごたくさするんだい鬼めろう、おめえそれでも男かい」と姫が叱りつけた、「男ならちっとは男らしくしろ、なんだ意気地のねえ、こんなことでうろうろするんじゃねえよ、さあ、温和しくあちしの云うとおりにしな、これをこうするんだってばさ、こう」
「なむ八幡だい菩薩」と彼はもがきながら祈った、「この大難をのがれさせたまえ、あっ、痛い、また腰の骨が折れるぞ、うっ、――なんという力だ、苦しい、おれはどうやら組み敷かれるようだぞ」
「温和しくするか、それとも喉笛を噛みやぶってくれようか、え、――」と姫が云った、「あちしは伊達《だて》や酒落《しゃれ》でかかったんじゃねえ、五つ夜も独りで寝かされたあとだ、躯じゅうの血が羅刹《らせつ》のようにたけり立っているんだから、いやのおうのとほざけば本当に喉笛をくいやぶってくれるぞ」
「夢だ」と彼は云った、「おれはうな[#「うな」に傍点]されてるんだ、――」
[#6字下げ]七[#「七」は中見出し]
「もう夜があけそうだな、うん」と彼は片手で顔を撫《な》でながら云った、「あんなことのあったあとでも、やはり夜があけて朝になるということはふしぎだ、信じかねるような気持だ」彼は肩を撫で胸を撫で、躯じゅうを手で撫でた、「大丈夫、ちゃんと五躰は揃《そろ》ってる」それから足踏みをしてみ、両手を交互に叩いてみた、「骨もどうやら無事らしい、頬ぺたはこけ[#「こけ」に傍点]ちまった、肉がこんなにこけ[#「こけ」に傍点]てくぼんで頬骨が突き出ちまった、――それに少しふらふらするが、まあ命に別条のないだけは儲《もう》けものだ」
彼は山寨のほうへ振返り、暫く耳をすましていて、それから崖のほうへあるいていった。
「安心して下さい、みなさん、姫は鼾をかいて寐ています」と彼は云った、「わたくしがどんな災難にあったかということは申上げられません、べつに隠すわけではありません、なにしろ相手は高貴な家の深窓にそだった、僅か十五歳の少女でしてね、ええ」彼は脇へ向いて、「あのばくれんの不良むすめが」と舌打ちをし、元の声でにこやかに続けた、「――ちょっとばかりやんちゃなところはありますが、芯《しん》は怯《おび》えていたんですな、わたくしは隠れもない大ぬすびと、なさけ知らずで酷薄で血も涙もない鬼鮫ですからな、あまりうるさいので一とこと叱りつけてやったら、べそをかいてちぢみあがりました、そこは育ちが育ちですかね、可愛いもんです」
「へっ、なにが可愛いんだ」と彼は脇を向いてしかめづらをした、「あれでも中将の姫ぎみかえ、え、甲羅を経たくぐつ[#「くぐつ」に傍点]女も顔負けするような色好みで、この鬼鮫さまでさえ恥ずかしくなるような、軽業めいた手練手管《てれんてくだ》を飽きずに押しつけやがった、あれは深窓にそだった姫どころか、てんからの女悪魔だ」
「いや失礼、なんでもありません」と彼はあいそ笑いをし、声に出して云った、「――貴族的少数者に対するわたくしの考えが、些《いささ》かあま過ぎたことについて反省していたのです。いや、姫の話ではない、品子姫はまあ可憐《かれん》な少女でしてね、問題は貴族社会ぜんたいについてなのです、かれらはわたくしが想像していたよりも、道徳的頽廃の度がはるかに深く、その害は子女にまで及んでいるらしい、あの姫、――ではありません、普遍的な話ですが、僅か十四や十五の小娘のくせに、誘拐されても驚かず、親たちから引きはなされ、恐ろしい山寨に押籠《おしこ》められても、悲しみ嘆くどころか、へっ」彼は頭を片方へ振った、「山遊びにでも来たようにはしゃぎまわって、牛飼いや人足でもうんざりするほど喰べくらい、鼻の曲りそうな匂いのする悪酒を呷《あお》っては、むやみと男に絡みついて、――あれです、その、なんと云ったらいいか、わたくしは自分の経験ではないから、詳しいことは申上げかねますが、こんな話は誰も信じないと思う」彼は忿懣《ふんまん》に駆られて声を高めた、「かれらはいったいこの鬼鮫をなんだと思っているのか、粟田口の大臣の塩、大納言の冠筺《かんむりばこ》、藁沓《わらぐつ》、白川の別墅《べっしょ》の落し穴、――そのほかにも数えきれないほど、かれらはこのわたくしをおひゃらかし、ぺてんにかけ、すかをくわせ、嘲弄《ちょうろう》しました、この大ぬすびとである鬼鮫をですよ」
空が明るくなり、谷間から静かに霧が立ちはじめた。
「おそらく」と彼はそこで声をやわらげた、「かれらはわたくしのことを、あの愚かで無力なおん百姓や人足どもと同様にみているのでしょう、よろしい、そう思っているがいい、わたくしはかの愚民どもとは違う、盗まれるために死ぬほど働かされて、不平ひとつ云うことを知らない愚民どもとは違うのです――どう違うか、それをかれらに思い知らせてやろう、十五かそこらの小娘に絡まれて、悲鳴をあげるような男であるかどうか、さよう、耳助に持たせてやった脅迫状には、身の代金をよこさなければ異国の人買いに売りとばすと書きました、けれどもそれではなまぬるい、わたくしは追而状《おってじょう》をやりますよ、ええ、――こんなふうにです」彼は左手を右の袖口に入れ、右手の指で唇を摘んだ、「そうですな」と彼は考え考え云った、「さよう、木の股《また》へ逆|吊《づ》りにかけ、八つ裂きにして犬に食わせる、――どうでしょう、内大臣と中宮の姪、綾小路の中将の姫が逆吊りの八つ裂き、死躰を犬の餌食《えじき》にされるとあってはですな、へっへ」彼は両手を擦り合せた、「かれらがどんなに怯えあがるか、どんなに胆をちぢめ、恐怖のために血の冰るおもいをするか、まあ見ていて下さい、わたくしはいざとなったらなさけ容赦のない人間です、かれらがたとえ地面にひれ伏し、涙をながして哀訴嘆願しても、この冷酷な心を一寸も動かすことはできないでしょう、この鬼鮫はそういう男なのですから、――や、あれはなんだ、誰かやって来るぞ」
彼は身を隠そうとしてあたりを見まわした。山寨の中へはいろうとしたが、危ないところで思いとまり、どこかに藪《やぶ》でもないかと、眼を剥《む》いて見まわすところへ、若者が息を切らしながら走って来た。彼は慌てて地上へ跼みこみ、走って来た若者を認め、そのうしろには若者にかき乱された霧が煙のようにたなびいている以外に、怪しいものはなにもないことを慥かめてから、立ちあがってそっちへいった。
「なにをしていたんだ」と彼は喚いた、「いままでどこでなにをしていたんだ」
「た、た」と若者は喘いだ、「や、やさ」
「きさまは綾小路の中将家へいった、自分でむりやりにその役を買って出た、え」と彼は詰め寄り、のしかかった、「ところがそれっきり音沙汰なしだ、まぬけな鴉《からす》を空へ放したように、ばたばた飛んでいったきりお帰りなしだ、きさま」と彼は叫んだ、「おれを騙《だま》してずらかったんだろう、えっ」
若者は片手に持った書状で、都のほうをさし、自分の足許をさした。息切れがして口がきけないため、そうやって自分の証を立てようというのらしい。都の方角と、いま自分のいる場所をさし示しながら、いたずらに口をあけたり閉じたりし、片手で額から顔へ流れる汗を拭いた。彼のほうはお構いなしで、片手の拳を若者の鼻先へ突きつけながら、ずらかってはみたがうまくいかなかったので、恥知らずにもいまごろ帰って来てまたおれを騙すつもりだろう、と喚きたてた。若者は肩をすくめたり両手をひろげたり、首を振ったり胸を叩いたりしながら、彼の喚きのおさまるのを待っていたが、ふと気がついたようすで、持っている書状の封をあけ、それをひろげて、書いてある文字を彼のほうへ見せ、そこを指で「読め」というふうに叩いた。
「なんだ」と彼は顔をつきだした、「それはなんだ、なんのぺてんだ」
「ちゅうじょう」と若者は云った。
「中将だって、綾小路のか」
若者が頷《うなず》くと、彼はさっと一歩、うしろへさがった。その書状になにか危険な仕掛でもあるかのように、すばやくうしろへさがってから、首を伸ばして、書かれてある文字を読んだ。
「なんだその字は、まるでわからないじゃないか」と彼は云った、「まるっきりめちゃくちゃじゃないか、中将は満足に字を書くこともできないのか」
「唐の文字です」若者はようやく口がきけるようになった、「使いの口上も聞きました」
「ふん、まあおちつけ」と彼はその唐の文字に軽侮の一瞥《いちべつ》をくれて云った、「その、使いとはなんのことだ」
「私はあの状を届けてから、八坂の塔のところで見張っていたのです」若者はまだ少し荒い息をしながら云った、「身の代金を持って来たら、すぐそれを受取って帰るほうが早いと思ったからです」
「ああそうか、つまりその身の代金を持ってずらかる計画だったんだな」彼はそこで絶叫した、「やい、その金はどこにある」
「どの金ですか」と若者はうしろへとびのいて反問し、どの金かということに気づいた、「ああ、身の代金のことを云うんですね、あれはすぐそこの」と若者は崖のほうを指さした、「坂のおり口のところへ置いて来ました、あそこまでは担いで来たんですが、なにしろ重たいし、早くこのことをお知らせしたいと思ったものですから」
「おまえはいいやつだ」彼は若者にとびつき、両手でその肩を親しげに叩いた、「いや、おれはきさまを信じていた、きさまだけは必ず責任をはたす人間、ぬす人なかまに置いても信用のできる男だと思っていたぞ、よくやった、でかしたぞ耳助」
「まあおちついて下さい」
「おまえこそおちつけ」彼は親しみをこめて若者の顎をくすぐった、「そしてまず、その身の代金を拝ませてもらおうか」
「とにかくおちついて、これに書いてあることを聞いて下さい」
「金が先だ、そんなわけのわからない状なんぞ捨てちまえ」彼は走りだした、「さあ、どこにあるかいっしょに来て教えろ」
若者は落胆したように、がくっと両の肩をおとし、気乗りのしないようすで、彼のあとを追っていった。あたりはさらに明るくなり、谷から吹きあげる微風のため、霧は揺れあがったり横になびいたりしながら、しだいに薄くなってゆき、杉林の中で騒がしく鳥が鳴きだした。――二人はすぐに戻って来た、若者が古びた大きな唐櫃《からびつ》を担ぎ、彼は銭袋を片手に持ち、片手でその袋の下を叩きながら喚いていた。
「銭三貫文」と彼は唾をとばして喚いた、「おれは砂金三千両と書いてやったんだぞ」
「状に書いてあります」若者は唐櫃を下へおろした、「その状を読めばわかりますよ」
「状なんぞくそくらえ、砂金三千両の代りに銭三貫文」と彼は袋を叩いた、「中将のけちんぼはこのおれをなんだと思っているんだ、おれは酷薄無残な血も涙もない鬼鮫だぞ、おれが砂金三千両と云ったら三千両、一文欠けてもゆるせないのに銭三貫文とはなにごとだ、中将は姫が可愛くはないのか」そして彼は右足で大地を踏みつけて宣言した、「――おれは姫を長崎へ伴れていって、異国の人買いに売ってしまうと云ってやった、ただの威《おど》しだなどと思ったら後悔するぞ、おれはその気になれば本当に長崎へ伴れていって」
若者はそこへ置いた唐櫃を指さした。
「なんだ」と彼は訊いた、「金はそっちにはいっているのか」
「からっぽです」若者は唐櫃の蓋をあけ、横に倒して、中がからっぽであることを彼に見せた、「――このとおり、ぜんぜんです」
「どうしてからっぽなんだ、謎《なぞ》かけか」
「姫の輿代りだそうです」
彼は漠然と頭のうしろを掻いた、「――輿の代りって、どういう輿だ」
「人買いに売るときは、荷物のように見せて送るものだそうでして、幸い古櫃があるから呉れてやろう、と云っていました」
「は、は」と彼は干からびた笑い声をあげた、「は、は」ともういちど笑って云った、「中将もなかなかやるじゃないか、幸い古櫃があるから呉れてやろうか、あのけちんぼうでも酒落《しゃれ》ぐらいは知っているんだな、人買いに売るときは荷物のようにして送る、――」彼はそこで急に口をつぐみ、ごく静かに、そろそろと、頭をめぐらして若者を見、低い喉声で、囁くように訊いた、「おい、これは酒落だろうな」
若者はゆっくりと、首を左右に振った。
「酒落ではないのか」と彼は囁いた。
若者はまたゆっくりと頷いた。
「はっきりしろ」と彼は声を高めた、「酒落でないとすると、これはどういう意味だ」
「中将の仰しゃるには、と使いの下部《しもべ》が云ったんですが」と若者は答えた、「姫は返すに及ばない、いや、どうかこちらへは返さないで、異国へでもどこへでも売りとばしてくれ」
「ちょっと、ちょっと待て」彼は若者の口を塞ぐような手まねをし、大きな深呼吸を三度やって、気持をしずめてから頷いた、「――よし、もういちどはっきりと云ってくれ」
若者は咳をしてから続けた、「要約して云えば、中将は姫を取戻したくないんですな、姫を誘拐してくれたことは感謝する、恥を話すようだが、姫がいると内裏《だいり》をはじめ都じゅうの風紀が紊《みだ》れるばかりである、人買いに売るもよし、きさまの女房にするもよし、いずれにせよこの都から伴れて立退いてくれ、旅費として銭三貫文をつかわすから、絶対にこちらへ戻さないでくれ、もしもこちらへ戻すようなら、検非《けび》の庁へ訴えて極刑に処するであろう、――というわけです」
彼は蒼《あお》くなり、じっと考えこみ、若者の言葉をよく玩味《がんみ》してから、力まかせに大地を踏みつけた。
「なんということだ」彼はこっちを見て叫んだ、「こんなことがあっていいものでしょうか、え、みなさん、塩をしゃぶらせ雪沓を噛ませ、落し穴をくわせたうえにこの始末です、これは人を侮辱するばかりでなく、人類ぜんたいを冒涜《ぼうとく》するものではありませんか、いつぞやかれらはうたい囃《はや》しました。――うだのたかねにしぎわな張ると、はっ、かれらはしぎ罠《わな》を張ってくじらを捕ったと囃したてました、それは捕まったのがこの鬼鮫だから当然でしょう、ところがわたくしの場合はどう囃してやったらいいか、くじら罠を張ったらくじらさやらず、芥《あくた》さやるとでもいうんでしょうか」彼はまた大地を踏みつけた、「人をばかにするな、と云いたい、あの青瓜のけちんぼ中将め、このおれをなんだと思っているんだ、ええ」彼はこわいろを使って云った、「――人買いに売るもよし、女房にするもよしだって、どうかこちらへ戻さないでくれだって、しかもこれが自分の姫のことなんですぞ、みなさん」彼は左へ三歩あるいた、「自分の血を分けた娘のことを、人買いに売るもよし、女房にするもよし、女房――うっ」
彼は冰りついたように立辣《たちすく》んだ、「あの、恐るべきばくれん[#「ばくれん」に傍点]娘を、女房にですって、このわたくしのでしょうか」
「あんたどこにいるの」と山寨の中から姫の呼ぶあまたるい声が聞えた、「まだ起きちゃいや、もういちどあちしのとこへ来てよ」
「なむさん」と彼は首をちぢめた。
「そもさん」と若者が云った、「どうしよう」
「あんたどこよう」と姫がまた呼んだ、「ねえどこにいるの鬼|鰯《いわし》、早く来てよ」
「なむ八幡だい菩薩」と彼は駆けだしながら祈念した、「この災厄より救いたまえ、お力をもってこの大難をのがれさせたまえ」
「待って下さい、どうするんですか」
「おれはまだ命が惜しい」彼は走りながら銭袋をうしろへ投げた、「姫はきさまに任せる、これをやるから好きなようにしろ」
「そんな薄情な」若者は銭袋には眼もくれず、彼を追って走りだした、「そんな無情なことはよして下さい、私をあの姫ぎみと二人きりにしないで下さい、どうかお願いです、私もいっしょに伴れていって下さい」
「来るな」と彼はどなった、「おれは故郷のつくし[#「つくし」に傍点]へ帰る、おれは敗残者だ、おれは冷酷無情で血も涙もない大ぬすびとだが、とうていあの貴族的少数者のわる賢い残酷さには及ばない、おれはこのとおり這《ほ》う這うのていで逃げだすのだ、このとおりだ」
「待って下さい」と若者は追いつこうとしながら叫んだ、「私をこの恐ろしい都に残しておかないで下さい、お願いだから待って下さい」
二人は崖のほうへ走り去った。まもなく、山寨の外へ姫が出て来、両手を力づよく突きあげながら、健康な大欠伸をし、しなやかな双の腕を代る代る擦った。
「あんたどこにいるの、鬼|鮃《びらめ》」と姫はあまやかな鼻声で呼んだ、「出ていらっしゃいよ、ねえ、あんたどこでなにをしているのよ、え」
杉林のほうで甲高くなにかの鳥の鳴く声がした。
底本:「山本周五郎全集第十三巻 彦左衛門外記・平安喜遊集」新潮社
1983(昭和58)年3月25日 発行
底本の親本:「オール読物」
1961(昭和36)年6月号
初出:「オール読物」
1961(昭和36)年6月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
偸盗
山本周五郎
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[#6字下げ]一[#「一」は中見出し]
彼は闇の中で、おちつきなくあるきまわっていた。白川の爽やかな流れの音が、うしろの森にこだまし、その森の中で、ときどき夜鳥の叫ぶのが聞えた。
「もとでは銭二貫文」と彼は口の中で呟《つぶや》いた、「もしこれがまたくわ[#「くわ」に傍点]されたんだとすると、おれはすぐに加茂の社《やしろ》の道つくりの、人夫になって稼《かせ》がなければならないぞ」
彼は立停って、自分の不吉な考えを払いのけるように、胸を張り、大きい呼吸をした。
「わたくしは鬼鮫《おにざめ》と呼ばれるぬすびとです」と彼は云った、「ぬすびとの中での大ぬすびと、わたくしは酷薄無残で、なさけ知らずで、いちどこうと思えば女であろうと童児であろうと、平気で打ち殺し、八つ裂きにすることのできる人間です、これは自慢ではない、むしろ謙遜《けんそん》して申上げているのです」彼は右手で大きく一揖《いちゆう》し、「掛値なしにです」と云った、「もちろん、わたくしがいかに酷薄無残な大ぬすびとにもせよ、人間であるからには全部が全部うまくいくとは限りません、ご存じないかもしれないが、――いや、ご存じだろうと思いますが、唐《から》の国の孔子という物識りおやじが云ったそうですな、知者が千遍おもんぱかっても、その内の一つは必ず寸法が外《はず》れる」
彼は立停り、左の耳のうしろに手を当て、上躰《じょうたい》を傾けてなにかを聞きとめようとしたが、予期したものではなかったとみえ、またおちつきなくあるきまわった。
「要するに」と彼は続けた、「孔子なんという物識りでも、たびたび千に一つはしくじりをやらかしたんでしょう、自己弁護のためにそんなことを云ったんだと思いますが、しぜん、わたくしほどの者がときたま失敗したとしても、当然とは申せないまでも決してふしぎとは云えないでしょう」
彼は鼻の下へ指を当て、そこにあるなにものかを、捻《ひね》りあげるような動作をした。
「正直に云いますが、粟田口の邸ではすかをくわされましたよ、ええ」と彼は云った、「なにしろ大蔵卿を兼ねたことのある大臣《おとど》ですからな、俗に大蔵卿を三年やれば万石太夫になると云うくらいでして、高い声では申せないが、いまをときめく大臣、大将がたの中にも、たらい廻しに大蔵卿を兼任した人たちが少なくない、――粟田口の殿もその一人であり、万石太夫七家の内にかぞえられているので、正《しょう》のところ、わたくしが目星をつけたのはおそすぎたと云ってもいいくらいです」
彼はまた立停り、なにものかを聞きとめようとしたが、なにも聞えないらしく、左手を右手の袖口へ差入れ、右手で顎《あご》を支えながら首をかしげた。おかしいな、彼はそう呟いたが、ふと顔をあげ、両手を勢いよく左右へひろげた。
「さて粟田口のことですが」と彼はあるきだし、あと戻りをしながら云った、「あの邸をさぐるには脳をいためましたよ、ええ、なにしろ広い地内にどかどかと建物があり、どれが寝殿やらどれが便殿やら見当もつかない、肝心なのは金倉で、たいていの第邸《やしき》はほぼその位置がきまっていまず、内裏ならば図書寮の北、兵庫寮の南に当るところ、入道さまの第なら泉殿から便殿に渡る中間の塗籠《ぬりごめ》、また禿《は》げの中将家なら、――ま、いいでしょう、これは聞かないことにしておいて下さい」
「とにかく、予想もしなかったほど脳をいため、ふところもいためた結果、わたくしは首尾よく目的を達しました」と彼は続けた、「ということは、粟田口の大臣の邸へ忍び込み、めざした金袋を盗みだしたわけです、麻の袋に入れたこのくらいの大きさの物を、二十五袋です、わたくしがそれらの獲物を自分の山寨《さんさい》へ持ち帰り、眼の前に積みあげたとき、どんな心持だったかはご想像に任せましょう」
彼はそこで立停り、左足に躰重を預けて右足を前に出し、その爪先で地面を叩いた。
「わたくしは話を進めるまえに、いちおうあなたがたの固定観念を解いておきたい」と彼は云った、「あなたがたは、たぶん、この鬼鮫が大ぬすびとであるということで、わたくしを道徳的に非難されていると思う、が、それはまったくの誤解である、とずばり申上げる、なぜかなら、この世は盗む者があり盗まれる者があって、初めて平衡が保たれているからであります、尤《もっと》も、この両者が等数であってはならない、原則として盗む者、すなわち賢くて血のめぐりの早い者の数が少なくなければならない、たとえばです、京の町を二分してこちらが盗む者、こちらが盗まれる者と考えて下さい、これはもう両者の関係がはっきりするから、平衡を保つわけにはいきません、たちまち騒動になることは明白です、要約して申せば、盗まれる者の数は絶対に多数でなければならない、それは簡単に証明できることですよ、ええ、つまり数が多ければです、その数の多いことに隠れて、誰が現実に盗まれているか、ということがわからなくなる、慥《たし》かに少数の盗むやつらはいる、が、自分が盗まれているという現実感はわき起こらないわけです」
彼は闇をすかしてなにものかを見ようとし、突然、自分の頬を平手で打ち、「蚊のちくしょうか」と呟き、舌打ちをした。
「世間にはこれを不公平だと云う者があります」と彼はまた続けた、「云わせておきましょう、そういう人間は働く気にもならず、また盗む勇気もなく、口だけでああだこうだと云う怠け者にすぎないのです、このあいだも小一条の大臣がすばらしい牛車を作られました、金銀宝珠をちりばめた両眉の牛車でして、たしか宋の国から技官を呼んで作らせたんでしょう、大臣としては、このくらいの牛車を持たなければ、国際的な観点からして日本国の体面にかかわる、と申されたそうです、――そのため、大臣の領地である能登、越前、越後、信濃、甲斐など諸国の農民、漁夫、工匠、人夫人足の末まで、貢《みつぎ》のために膏血《こうけつ》を絞りあげられた結果、大半の者が土地を捨てて流民になったといわれる、それについて搾取であるとか、苛斂誅求《かれんちゅうきゅう》だなどと不穏なことを云う者もあるが、なにこれも云わせておけばいい、かれらもまた盗む勇気のない多数の愚者の幾人かにすぎず、同時に働くことの嫌いな連中なのですから」
「わたくしが盗む側にまわったのは」と彼は左手の掌を右手の拳で打ちながら云った、「はてしなき労働、凶作、疫癘《えきれい》、洪水、地震、などという貧困と災厄によるのではなく、盗む者と盗まれる者とによってこの世の平衡が保たれている、という現実を認識したからであります、こういう認識が頭にうかぶということは、すなわち、わたくしが盗まれる愚者の群にではなく、盗む勇気と知恵のある者、一と口に申せば貴族的少数者に属する、という証拠だと信じたからであります、――貴族的少数者、わたくしはべつにかれらを尊敬するものではない、世の中の釣合を保つということでかれらの側に付いたのだが、かれらはそれを理解しないばかりか、逆にわたくしを偸盗《ちゅうとう》と呼んで追捕《ついぶ》しようとするのです、は、かれらがですよ、盗む者であるところのかれらが、同じ側に立つところのこのわたくしをです、――おそらく、あなた方には信じられないでしょう、だが、不幸なことにこれが現実なのであります」
彼は白川の岸のところまでゆき、闇のかなたを熱心にうかがい見た。反射的に衿首《えりくび》を叩いて蚊を潰《つぶ》し、すると白川の流れの中で急に河鹿が鳴きだしたので、とびあがりそうになって、「ええびっくらした」と呟いた、「たかが河鹿のくせをして、こんな時刻に鳴くっていう法があるか、よく考えてみろ」そして舌打ちをしてうしろへ戻った。
「かれら貴族的少数者には理屈はとおりません」と彼は云った、「どうしようがありますか、かれらの云うとおりわたくしは偸盗となりました、もともと盗んだ物であるところのかれらの財宝から、わたくしの取り分をいただくだけで、これほど道理にかなったはなしはないでしょう、――で、粟田口の邸からいただいて来た、二十五個の砂金の袋を前にして、わたくしはひそかにほくそ笑んだものです」彼は鼻の下へ指を当て、なにかを捻りあげるような動作でもって、どんなにほくそ笑んだかということを演じてみせた、「さて、いよいよ獲物拝見という段になり、わたくしは麻袋の一つを取ってその口紐《くちひも》を切りました、すると、袋の中から茶色みを帯びた白い粒々がざあとこぼれ出たのです、白くて少しばかり茶色がかった粒々です」
彼はもの問いたげに肩をすくめた、「なんでしょう、わたくしも砂金は二度か三度は見たことがあります、けれどもその袋の中から出て来た物とは、色も違うし手ざわりも違う、――ははあ、とわたくしは思いましたな、ええ、これは噂《うわさ》に聞く白金の粒に違いない、色からしてもその見当に相違ないと思ったのです、白金といえば黄金の幾倍か、ときには十倍くらいの値打になるでしょう、さすが大蔵卿を兼ねたことのある大臣だと、わたくしが揉み手をしたとしても人の笑いを買うことはありますまい、ところがです」彼は声をひそめた、「いよいよその手蔓《てづる》をたぐって売りに出してみたところ、なんと、あなた方は想像もされないだろうが、相手はとぼけたような顔で、その粒白金を舐《な》めてみろと差出したものです、ええ、わたくしはそれが白金をためす簡便的選別法だと思い、云われるままに舐めてみました、――すると塩っぱい味がするのです、おそろしく塩っぱい、ふつうの塩とは思えないが、そしてわたくしは白金の味をこころみたことはないが、どちらかというと白金よりは塩の味に近いのではないかと思いました、相手もそれに賛成したのです、塩だよ、鬼鮫、と相手は頷《うなず》きました、これは精《しら》げた塩なんだ、なんでも唐の国あたりから輸入されるそうだがね、日本では粟田口の大臣しか持っていないし、大臣はこれであこぎに儲《もう》けているそうだよ」
彼は憤然と拳をあげた、「わたくしは以前からうすうす、貴族社会は頽廃《たいはい》しつつあると思っていました、しかし、こんなにまでわる賢くあくどいことになっているとは、まったく知らなかった、砂金ならどこの手蔓を通じてもすぐに売れます、黄金はどこから産しても黄金ですからな、ええ、しかし精げた塩となると」彼は振上げた拳ではっし[#「はっし」に傍点]と片手の掌を打った、「――どこへ売れますか、唐来の塩だから内裏か貴族社会なら、ときには黄金よりも高値に捌《さば》けるかもしれない、だが一般社会では単に塩にすぎません、かのみじめな貧民階級――これがいつの世でも最大多数なのだが、かれらには一摘みの荒塩でさえ高価であり、精げた塩などはまったく無用無縁の、ばかげた贅沢《ぜいたく》品にすぎないのです」
「これは危険な品だよ、と手蔓の相手は申しました」彼は太息《といき》をついて続けた、「粟田口の大臣以外に持ち主のない品だからな、ほんの一と摘みでも世間に出せば、すぐに盗んだことがばれてしまう、たとえて云えば、盗んだ松明《たいまつ》を持って町をのしあるくようなものだ。――で、わたくしは二十五袋の獲物を、そっくり粟田口の邸へ戻しにいったわけです」
彼は左の耳のうしろへ手を当て、上躰を一方へかしげてなにかを聞きとめ、すぐに「やっと来おったぞ」と微笑した。
「ちょっと失礼します」と彼はあいそ笑いをして云った、「これから入道さまの彦ぎみ、左大臣の白川の別墅《べっしょ》へ仕事にまいるのです、ご存じでしょう、公の別墅にはかの名高い黄金の観世音像がある、高さ一尺三寸、光背も蓮座もふくめて全体が金無垢《きんむく》であり、価格はおよそ三千八百両余ということです」彼は揉《も》み手をし、声をひそめた、「――これにはもとで[#「もとで」に傍点]をかけましてね、ええ、雑色《ぞうしき》に一人、小舎人《ことねり》に一人、しかるべく握らせましたので、築地塀《ついじべい》から中門、庭を横切って便殿までの道順、妻戸をあけて廂《ひさし》を左へ三十歩、ひいふうみい四つめの障子をあけたところが休息の間、というあんばいに、すべてがたなごころをさすが如く、――ね、ではちょっと失礼」
[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]
「ひい、ふう、みい、四つめだ」と彼は口の中で呟いた、「待て待て、誤ってはならないぞ、いいか」と彼は自分に慥《たし》かめた、「――栗の木のところで築地塀を越した、な、いいか、そして中門を乗り越え、泉池をまわって便殿へ来た、な、それから妻戸だが、これも約束どおりあいていたし、廂の間を左へ三十歩、ひいふうみい四つめの障子がここよ、なんと、銭は使うときに使うものさね、あの雑色も小舎人も、受取った銭だけの義務はちゃんとはたした、さて、かれらがかくも正直に約束を守り義務をはたしたということは、この仕事がいかにさいさきのいいものであるか、ということを証明するものであるが、おちつけ、――これからが肝心なところだ」
「これを、こうあけよう」と彼は障子をそろそろとあける、「それから注意ぶかく、あたりのようすをうかがって、どこにも人けのないのを篤と慥かめてから、足音を忍んで、まず一と足こうはいる、ここが休息の間だ」彼はすり足で中へはいった、「――床板ではない、敷畳が敷いてあるな、向うに几帳《きちょう》があるようだが、暗くてよくわからない、わからないがまっすぐにゆけばいい、な、几帳のうしろに遣戸《やりど》があって、その先が持仏堂へ通じる廊下になっている、気をつけろ」彼は自分に警告した、「音をたてるな、鬼鮫、わかっている、そろそろとまいろう、や、なんだ」
彼は石のように身を固くし、やや暫く、そのままじっと息をころしていた。
「気の迷いだな」とやがて彼は呟いた、「そこらで忍び笑いをするような声がしたと思ったが、そんな筈はないな、誰かいるとすれば、忍び笑いなどするよりも、捉《つか》まえようとしてとびかかるだろうからな、そら耳だ」
彼は用心ぶかく二歩進んだ。すると敷畳の長方形の一方が音もなく外れて落ち、したがって彼も落ちた。彼は仰天して両手をもがき、なにかにつかまろうとしたが、敷畳の外れ落ちるのが早かったため、どこにつかまることもできず、ただ叫び声をあげないことに成功しただけで、六尺ばかり下の板の上へ尻から落ちこんでしまった。――頭から落ちなかったのが不幸ちゅうの幸いだ、と思う暇もなく、打った尻を抱えて彼が起き直ると、それを待っていたように、あたりが夜の明けた如く明るくなり、途方もない笑い声が起こった。明るさも明るかったし、笑い声は百の鈴《れい》と百の鐸《たく》と百の絃をいちどに叩き鳴らすような、やかましく不遠慮なものであった。
彼は初め「悪夢」だと思い、かたく眼をつむってじっとしていた。それから静かに眼をあいた。あたりの明るさは眩《まばゆ》いばかりであり、笑い声はますます高くなっていた。これはどうしたことだ。彼はそっと、用心ぶかく伸びあがって見、「あ」といって、眼を大きくみひらき、口をあいた。座敷の三方に何十何百という燭台《しょくだい》の火が揺れてい、酒肴《しゅこう》の台盤を前にして、きらびやかに着飾った公達《きんだち》や姫たちが並んでいた。
「うだのたかねに、しぎわな張る」と公達の一人がうたいだした、「わが待つや」
すると他の公達や姫たちが、一斉に手拍子を打ち、もろ声にうたいだした。
「わが待つや、しぎはさやらず、しぎはさやらず、はしけやしくじらさやる」そして手拍子が高くなった、「ああしやこしや、ええしやこしや」
そしてひと際《きわ》高く哄笑がまきあがった。彼はぺたりとあぐらをかき、両手で顔を押えて、泣きだした。
「おれには信じられない」と彼は泣きながら云った、「これは現実ではない、現実にこんなことがある筈はない、おれは人間をここまで堕落しているなどとは思えない、おれはこんなことは断じて信じないぞ」
姫や公達は次の歌をうたいだした。
[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]
彼は跛《びっこ》をひきながら、ゆっくりと左へ三歩あるき、次に右へ三歩あるいた。
「失礼しました」と彼は顔をしかめながら、片手できごちなく一揖した、「いや、どうか心配しないで下さい、戻って来る途中て転びまして、この、うしろ腰の骨のどこかを打ったらしいのです、ほんのちょっと打っただけですから」
彼は口の中でなにか呟き、道ばたにある石をみつけて、慎重にそこへ腰をおろした。
「突然のようですが、わたくしは人間というものが好きであります」と彼は自制心を駆りたてるような口ぶりで云った、「但しわたくし以外はですよ、ええ、わたくしは申上げたとおり酷薄無残でなさけ知らずで、いちどこうと思えば赤児をも捻《ひね》り潰《つぶ》すほどの、非人情な男ですからな、ええ、だが一般論としては人間はいいものであり愛すべきものであり、この世界における驚異だと云ってもいいでしょう、わたくしは人間が大好きであります、――そこで考えるんですが、人間とはそもそもいかなるものであるか、ということです」
彼は重おもしく沈黙し、それから冥想《めいそう》的に続けた、「あなた方は蚯蚓《みみず》の身長について考えたことがありますか、うかがいたいのですが、蚯蚓というものは絶えず伸びたり縮んだりしております。こんなふうにですね」彼は右手の拇指と食指とでそんなような動きをやってみせた、「ちょこうして、いちばん長く伸びたとき、またもっとも短く縮んだとき、あるいはその中間、この三つのどれが蚯蚓の真の長さでしょうか。――え、蚯蚓はどの長さにおいても蚯蚓である、と仰《おっ》しゃるのですか、よろしい、その即物的な御意見をここへ置いておきましょう、さて人間ですが、これはもう千人いれば千人ぜんぶが違った性格と風貌《ふうぼう》をもち、五欲もまた同一ではない、千差千別、偉大な者からみじめな者まで、それぞれに考えも行動も生きかたも違っています、しかもこれらをひっくるめて、人間てあるということには些《いささ》かも変りはないし、わたくしはその人間[#「人間」に傍点]を愛しているのであります」
彼は左手を右手の袖口へ入れ、右手で顎《あご》を支えながら、複雑な対数表をまとめあげようとでもするように、暫くのあいだ重厚に黙っていた。
「愛と裏切りとは双生児だと云います」と彼はやがて云った、「わたくしは盗む側、すなわち貴族的少数者の側に属するので、かれらには一倍の愛を感じているわけですが、かれらによるたちの悪い裏切りにぶっつかるたびこと、少しずつあいそがつきるような気分を味わわなければなりません、――さきほどは粟田口の大臣のことを申上げましたな、ええ、じつを云うとあれはこっちの目算ちがいで、大臣の裏切りとは申せないでしょう、しかしそのあと、よりみつ大納言の今出川の別邸では、全身にこむら[#「こむら」に傍点]返りの起こるような、論外の裏切りにあったのです」
彼は立ちあがって、そっとうしろ腰を撫《な》でた、「ご存じのようにかの大納言は、皇太后の宮の御|寵愛《ちょうあい》が篤く、いや、待って下さい、皇太后ではなく中宮さまでしたかな、それとも上東門院か、――たしか上東門院かもしれませんな、それはまあどちらでもいいのですが、要点を申せば、御寵愛が篤いためにしばしば金品を拝領しており、その中に鳩の宝冠がある、ということなのです、それはぜんたいが金の唐草《からくさ》の透《すか》し彫りで、鳳凰《ほうおう》を戴き、日輪をかたどった飾りの中央に、白玉で鳩の打出しがあり、碧玉《へきぎょく》、緑柱玉、紅玉、翡翠《ひすい》その他の玉類のちりばめと、鳩の眼に金剛石が埋められてあるのとで、価三万三千両といわれているのです、三万三千両、ということは、とりも直さず評価しがたいほど高価だという証拠なのですがね、ええ」彼は左へ三歩あるくのに跛をひくことを忘れ、あっといって腰骨を押え、そのまま暫くじっとしていた。やがて「ええ」と自分に頷き、腰骨をさすりながら続けた、「わたくしは辛抱づよく聞きこみをし、情報を集め、それらを詳細に繰り返し検討したうえで、千万誤りなしとみきわめてから、仕事にかかりました。この期間が一年半と二十一日かかったのです、つまり小溝を渡る事に石橋を架けたというあんばいでしたがね、――それだけの辛抱と苦労をしたあげく、わたくしは首尾よく宝冠を盗み出すことに成功しました。金の高蒔絵《たかまきえ》のある冠筺《かんむりばこ》を抱えて、山寨《さんさい》へ帰るときのわたくしの気持がどのようであったか、これはもうあなた方にも想像のつくことでしょう、けれどもそのあとになにが起こったかとなると、――そうです。初めて蚯蚓を見て、それがせいいっぱい伸びたところで、ああそうかと思って次に見ると、てんで短くなっているのを発見したときの、瞞着《まんちゃく》されたような驚きと怒りを想像していただきたい、と申すほかはありません」
彼は注意して左へ三歩あるき、右へ四歩戻り、うしろの森でふくろう[#「ふくろう」に傍点]の鳴きだすのを聞いて、「やかましい」と拳を振って叫んだ。ふくろう[#「ふくろう」に傍点]は鳴くのをやめ、羽ばたきの音を残してどこかへ飛び去った。
「ずばり申上げよう」と彼は云った、「宝冠はなかった、金の高蒔絵の筺《はこ》をあけてみると、宝冠などはなかった、いいですか、宝冠のない代りに藁《わら》の雪沓《ゆきぐつ》がはいっていたのです、藁で編んだ例のごく通俗な雪沓がです」
彼は左手を返し、右手の拳でそれを叩こうとしたが、その拳は途中で止り、彼は両手を力なく垂れた。
「わたくしは宝冠のなかったことは咎《とが》めません」と彼は忍耐づよく云った、「大内裏の政所《まんどころ》にも苦しいときはあるでしょうから、日常が派手な大納言もくらしの必要から、宝冠でいちじを凌《しの》ぐということも、決してあり得ないことではない、わたくしにもそのくらいの推量はできますし、それはそれでよろしい、お気の毒さまと云ってもいいくらいです、――にもかかわらず、大納言は冠筐の中へ宝冠の代りに雪沓を入れておいた、なんのためですか」
彼は拳を頭上にあげてふるわせた、「ぜんたいなんのためにそんなことをするんです、この」と彼は自分自身を指さした、「――この、鬼鮫と呼ばれる冷酷無情でいかなる非道、どんなに残虐なことも敢えて辞さない大ぬすびとであるわたくしが、一年半と二十一日の苦心を重ね、首尾よく盗みだした冠筐の蓋を取ったとき、そこに藁の雪沓をみいだしたらどんな心持になるか、え、あなた方にうかがいますが、そんなとき人はどんな感情をいだかせられると思いますか」
「これは人間性を侮辱し嘲弄《ちょうろう》するものです」と彼は声をはげまして続けた、「貴族社会の道徳心が頽廃しつつあると、わたくしはうすうす感じていましたが、事実は予想以上にひどくなっているようです、――はい、なんですか、――左大臣の白川の別墅はどうした、と仰しゃるんですか」彼は唇を片方へ曲げて、あいまいに肩をすくめた、「いまそれを申上げようとしていたところなんですよ、ええ、かれら貴族階級の頽廃ぶりがいかに増大しつつあるか、その徳義心の乱脈さ、――いや待って下さい、いまそれを申上げるところでして、さよう、左大臣の別墅へはむろん忍び込みました、すべては手筈どおりで、忍び込むのになんの苦労もなかった、本当にそれはぞうさもないことだったのです、しかし」彼はそこで左手をくるっと振り、いかにも救いがたいと云うように顔をしかめた、「しかしですね、そこではまだ少年少女といってもいいとしごろの、公達や姫たちが集まって、台盤を列ね酒肴を並べ、酔っぱらって踊ったりうたったり、という騒ぎを演じていたのです、は、――わたくしは退散しましたな、ええ、まだ乳の香もうせないと思われる少年少女たちが、肴《さかな》を喰《た》べ酒に酔い、人をばかにするような歌をうたって騒ぐとは、――たとえわたくしが大ぬすびとの鬼鮫であっても、とうてい見ているに耐えない、ということはわかっていただけるでしょう、すなわち、鼻を摘んで退散したわけです」
闇の中から、一人の若者があらわれた。
「なんだ」と彼は逃げ腰になって、闇をすかし見た、「誰だ、そこに誰かいるのか」
「鬼鮫どの」若者は走りよって鬼鮫にすがりついた。
「誰だ」彼はとびあがった、「よせ、放せ、きさまはなに者だ」
「耳助です」と若者はけんめいにしがみついて云った、「今宵お手引きをした、左大臣家の小舎人の耳助です」
「や、きさまか」彼は逆に若者の首を掴《つか》んだ、「おのれこの痴《し》れ者、ぬす人までたぶらかす大かたり[#「かたり」に傍点]、いかさま師の恥知らずの、うう、白癩病《びゃくらいや》みの、――あ」と彼は急に若者を突き放した、「きさま、こんどは使庁の役人に手引きをしたんだな」
「どうしたんですか、なんですか」
「使庁の役人に手引きをして、ここでおれを捉まえさせるこんたんだろう」
「それは誤解です、とんでもない」
「こっちへ寄るな」
「聞いて下さい、私は左大臣家から追い出されたのです」若者は身もだえをし、訴えるように声をふり絞って云った、「笞《むち》で七百叩かれたうえ、京から三十里以外へ追放ということになったのです、嘘だと思うなら背中を見せましょう、笞の痕《あと》がまだ火傷《やけど》のように痛んでいて、ま、ちょっと見て下さい」
「よせ、ばか者、やめろ」彼は慌てて手を振った、「おれがいかに酷薄無残でなさけ知らずな男だといっても、そんなものを平気で見られると思うか、人を威《おど》かすのも、いいかげんにしろ」
「あなたが信じて下されば、私だってむりに見てもらおうとは云いませんよ」
「信じるだって」彼は眼を剥《む》いた、「鬼鮫ともいわれるこのおれを、あんなふうにぺてんにかけ笑い者にしておいて、それでもきさま信じろと云うのか」
「ぺてんにかけた、ですって」若者は昂然《こうぜん》と顎をあげた、「失礼ですが、その言葉は聞き捨てになりませんな、いったいそれはどういう意味ですか」
彼はなにか云おうとして声が喉《のど》に詰り、咳《せき》をしてから、吃驚《びっくり》したように相手を見た。
「こっちへ来い」と彼は若者の袖を掴んで森のほうへさがった、「人に聞かれてはおれが二重に恥をかく、こっちへ寄れ、ばか者、よし、――そこで訊《き》くが、きさまはぺてんという意味が本当にわからないのか」
「金輪際」と云って、若者は薄っぺらな肩をそびやかした。
「これでも人間でしょうか」彼は脇を見て眉をしかめ、それから若者に向って云った、「おい、よく聞けよ、いいか、きさまはあのなんとかいう雑色と二人で、白川の別墅へ忍び込む手引きをした、そうだろう」
「その役目はちゃんとはたしましたよ」
「まあ待て、そこでだ、――おれはおまえたち二人に銭二貫文を渡した、な」
「はっきりしてるじゃありませんか」
「問題はこれからだ」彼は左の手を出し、右の食指でその掌を叩きながら云った、「おれはきさまたちに銭二貫文をやって、別墅の持仏堂への手引きを頼んだ、なるほど、きさまたちの手引きは休息の間までは慥かだった、ところがどうだ、休息の間へはいるとたん、畳がどでん返しになってあの始末だ」
若者は大きな声で笑いだしたが、背中の傷にひびいたとみえ、「つつ」と云って、手を背中へやりながら身を跼《かが》めた。
「笑うとはなにごとだ」と彼は怒った、「きさま知っていたんだろう」
「むろんですよ、私たちが申しつけられて作ったんですから、しかし、あんなにうまくゆくとは思いませんでしたね」
「この痴れ者が、むろんだなどと、どの口でぬかせるんだ」
「あなたには関係のないことでしょう、なにが気にいらないんですか」
彼は両手を前へ出し、それをひろげてから、ばたんと腿《もも》へ打ちおろした。ものも云えない、とでも云いたげな動作で、次にかっと頭へ血がのぼったらしく、拳をあげて相手にのしかかった。「あの、この」と彼は吃《ども》り、そして、もうと怒った、「おれに関係がないって、なにが気にいらないかって、きさま、――おい、よく聞け」彼はふりあげた拳で額の汗を拭いた、「きさまたちはおれから二貫文の銭を受取って、持仏堂へ手引きの約束をしたんだぞ、その約束をしておきながら、一方ではおれのために落し穴を作り、おれを落し込んで笑いものにした、これがぺてんでなくってなんだと云うんだ」
「あなたは理にうとい人だ」と若者は屈託したように云った、「いいですか、私どもはあなたと手引きの約束をしました、そして約束はちゃんとはたしました、築地塀も、中門もそれから妻戸もちゃんとあけてあったし、四つ目の障子まで正直に教えました、そうでしょう、――けれどもです、大臣の甥《おい》に当る左少弁つねみち[#「つねみち」に傍点]さまに気づかれて、どういう企みだと訊かれたのだから、これはもう申上げるよりしようがないでしょう」
「正直にだと」
「もちろんです」若者は薄っぺらな肩をまたそびやかした、「あなたとは銭二貫文で正直に約束をはたしましたが、左少弁さまとは主従の契約によってすべてを正直に申上げた、したがって、落し穴の件はあなたとは関係のないことだ、というわけがこれでおわかりでしょう」
「しかし現におれは落し穴へおっこって笑いものにされたぞ」
「落ちたのはあなた自身ですよ」
「落し穴はきさまが作ったんだろう」
「左少弁さまのお云いつけです」
「責任はないと云うのか」
「わからない人だ、いいですか」と若者は噛《か》んで含めるように云った、「私は責任をはたしたんですよ、あなたに対する責任もはたし、左大臣家に対する責任もはたしたんです、私はどちらにも正直に、小|舎人《とねり》耳助として立派に責任を、――どうなさるんです」
「止めるな、おれは山寨へ帰る」と彼は云った、「きさまの云うことを聞いていると、ふしぎなことだが、自分がお人好しのばか者であったために、銭二貫文を出してわざわざ笑い者になった、というふうに思えてきそうだ」
「現実はたいていそんなようなものです」
「黙れ、おれは人も恐れる鬼鮫だそ」と彼は足踏みをしようとして危なく思い止り、片手で腰骨を押えながら云った、「この酷薄無残で血も涙もない大ぬすびとであるおれが、そんなくそ現実などを認めると思うか、見ていろ、いいから見ていろ、おれはもっとずでかい仕事をやってくれるぞ」
「待って下さい」若者は彼のあとを追った、「私にいい考えがあるのです、左大臣家を放逐された以上、これからはあなただけが頼りであり、あなたのために奔走したいと思うのです、お願いです、私をいっしょに伴《つ》れていって下さい」
[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]
「暫くでした」と彼はあいそ笑いをした、「わたくしですか、――ええ、腰骨の痛みはすっかり治りました、このとおり、とんでもはねても大丈夫です、ほら、このとおり」
彼は二三度はねてみせ、岩を削った踏段から、下の地面へとびおりて、一揖した。
「あれがわたくしの山寨です」彼はうしろへ手を振って云った、「ここは鹿谷《ししがやつ》の奥、白川の向うに見えるのが黒谷で、もうちょっとこっちへ寄ると真如堂も見えます、――都には近いしまわりはこのとおりの密林と岩、杣道《そまみち》から少しはずれただけですが、絶対に人の眼にはつかない、大ぬすびと鬼鮫の山寨としては、これ以上うってつけな場所はないでしょうな、ええ、あの入口へ木の枝を立てかけておくだけですが、もう五年というもの誰にも気づかれたことがないんです」
彼は下から杉の梢《こずえ》の伸びている崖《がけ》の端へゆき、そこから下のほうを見おろしたが、頭を振りながら戻って来た。
「あの耳助のやつ」と彼は独り言を云った、「また妙なぐあいに責任をはたすんじゃないかな、とかく貴族の邸などにいると、道義感というものが失われてしまうらしいからな」
彼は急に顔をあげ、とりいるように笑って云った、「いやなに、かくべつ心配ごとがあるわけではありません、じつは耳助と、――ご存じでしょう、左大臣家の小舎人だったあの若者です、彼が左大臣家を放逐され、ゆきどころがないというので山寨に置いてやっていたんですが、こんどわたくしが思いついた仕事のため、四条河原まででかけていったのです、こんどの仕事」彼はいそいそと両手を擦り合せた、「――あなた方に申上げるが、これは前代未聞な仕事であり、わが国の犯罪史に黄金の文字で印されるべき着想なのです」
彼は左手を右の袖口へ差入れ、右手で顎を支えながら、考えぶかそうに左へ三歩あるき、右へ三歩あるいた。
「これは非人情で、残酷で、冷血動物の神経がなければできません」彼は控えめな口ぶりで続けた、「わたくしはこれまで盗む者、すなわち貴族的少数の側に自分を置いており、かれらの取得した物の中からわたくしの取り分を貰う、というふうにやって来ました、しかしこれは誤りであった、わたくしがかれらからそくばくの金品を奪っても、かれらは些《いささ》かも痛痒《つうよう》を感じないのです、かれらは次に盗む率をせりあげることによって、わたくしが奪う以上の物を民百姓から絞りあげればよろしい、かれら自身は飲んでうたって、ばか騒ぎをするのになんの不自由も感じないのです、――わたくしがかれらの側に立っている、は、とんでもない、わたくしは鬼鮫と呼ばれる大ぬすびとであり、わたくし自身以外のなにものでもない、ばかりでなく、むしろどちらかといえば」彼はもっと控えめに云った、「いや、もうはっきり云わなければならないでしょう、わたくしはかれら貴族的少数者と対立する者であり、かれらに現実のきびしさと、生れて来たことを悔むほどの恐怖を与える者でありたいと思う、――これは威しではなく、極めて素朴な宣言なのであります」
彼は声をひそめた、「さよう、こんどの仕事こそ、かれらに現実のぬきさしならぬきびしさと、血の冰《こお》るような恐怖とを、しんそこ感じさせることができるでしょう、はあ、ではなにをするかというとですね、これは秘中の極秘なのですが、さる中将の姫を誘拐《ゆうかい》して、身の代金をゆすり取るというわけです」彼はさらに声をひそめた、「ご存じでしょう内大臣の弟で綾小路に第があり、青瓜と渾名《あだな》のある中将、――たいそうけちん坊で内庫には金銀がぎしぎしいっている、姫が二人あって、末の品子という姫は、やがて内裏へあがるというもっぱらの噂《うわさ》です、なにしろ内大臣の姉ぎみが中宮ですし、姫は美貌と頭のよいのでは都じゅうに隠れもない人ですからね、ええ、もしも噂が事実なら、東宮のきさきに召されるだろうということですが、ええ、おとしはちょうど十五歳です」
彼はまた崖のところへゆき、首を伸ばして黄昏《たそがれ》の濃くなった杉林の下を見おろした。彼はたかまってくる不安のため、右の袖口へ入れていた左手を出しへおちつきなく、両手を振ったり、衿首や頬にたかる蚊を叩きつぶしたり、その手を擦り合せたりした。
「もう蚊のやつ[#「やつ」に傍点]が出はじめた」彼は独り言を呟きながら戻って来た、「おれはふしぎに思うんだが、この蚊というやつ[#「やつ」に傍点]に人間の血を吸うことを教えたのはなに者だろう、やつ[#「やつ」に傍点]はあのとおり虫けら[#「けら」に傍点]の中でも取るに足りないくらい小さくて、ものを考えるほどの脳みそがあるとはとうてい思えない、したがって誰かがそっと耳うちでもしない限り、人間の躯《からだ》に毛穴があり、そこから管を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]《さ》し入れれば、美味《うま》くて滋養分のある血がたっぷり吸える、などということを発見する筈はないだろう、慥かに」彼はうしろ首の蚊を叩きつぶした、「――なに者かがやつ[#「やつ」に傍点]にそれを教え、やつ[#「やつ」に傍点]は同類にそれを弘め、そしていまではそれを自分たちの特権だと信じこんでいるんだ、いまいましい、聞くところによると、血を吸うのは雌の蚊だけであるという、また、血がなければ水を吸うだけでも千万やってゆけるということだ、雌だけが血を吸うというのもいまいましいし、水だけでもちゃんと生きてゆけるというのもいまいましい、――いったいどこのどいつがそんなことをやつ[#「やつ」に傍点]に教えたものか、人間にどんな怨《うら》みがあったのか、うかがいたいくらいのもんだ」
「やあこれは、どうも失礼」と彼はわれに返ったように向き直った、「もちろん蚊の習性などはどっちでもよろしい、わたくしが苛《いら》いらしているのは耳助の帰りのおそいことでしてね、ええ、彼は品子姫を誘拐にいって、もうとっくに帰らなければならない時刻なのです、いや、遠くではありません、姫は大法観寺へ二十一日の参籠《さんろう》をされ、今日が満願で帰られるのです、――世間では、姫が参籠されるのは願掛けや信仰のためではなく、男と密会するのが目的であり、その相手は殿上人《てんじょうびと》から牛飼いの伜《せがれ》にまで及ぶ、などと噂をしているようですが、云うまでもなくそねみやねたみから出たものでしょう、わたくしは一度か二度、輿《こし》とか牛車で通るのを見かけただけですが、その、清楚というかせんぺん[#「せんぺん」に傍点]というかその、あれです」彼は形容の言葉がないというふうに首を振った、「――見ているだけでかなしくなるような、消《け》ぬがにういういしく美しいお姿でしたよ、ですから世間の噂などは根も葉もないことでしょうし、御両親の愛着もひとしお、特に、やがては東宮のきさきに召されようというのですから、身の代金めあての誘拐となれば、都じゅうでもいまこの姫にまさる人はないだろうと信じたわけですよ、ええ、――このたびの参籠はお忍びなので供は少なく、その中に耳助の知っている下人がおり、彼はその下人を酒で買収したうえ、まあ、こまかいことは云う必要もないでしょう、四条河原の渡りで姫をさらって来るという、手筈なのです」
彼はちょっと崖のほうへ耳をすまし、それからまたそわそわと歩きまわった。
「とんだことで、金無垢の仏像の代りにあんな男を背負い込む結果となりましたが」と彼は弁解するように云った、「あれで耳助という男もまんざら捨てたものではありません、またなに者にもせよ、人間は可愛がっておくべきものだと思うのですが、彼はこんどの仕事ではかなりな程度まで役に立ちましたな、ええ、もしも耳助がいなかったら」
彼は突然はねあがり、踏段を駆け登って山寨の中へ身を隠すと、洞穴の口を木の枝で隠した。
「どうしたんだい、早く来なよ」という女の声が、崖のほうから聞えた、「なにさ弱虫、これっぽっちの坂を登るのにふうふういって、あちしなんか見てみな、このとおりだから」
美しい少女が一人、いさましく走り登って来た。略装の掻取《かいどり》すがたながら、裾を捲《まく》っているため、ほっそりとした足の膝《ひざ》の上までがあらわに見え、衿をくつろげた胸は、まだ小さいけれども、形のよい、こっちりと固そうな双の乳房が、半分がた覗《のぞ》いていた。
「こんな話は聞いたこともない」と喘《あえ》ぎながら、若者が苦しそうにあとから追いついて来た、「――誘拐される者が、誘拐者をせきたてるなんて、こんなばかげたことがあるだろうか、おれ自身だって、神かけてこんな話は信じやしないぞ」
「なにをぶつくさ云ってんだい」と美しい乙女は云った、「早く来なよ、いい景色だから、――わあ凄《すご》い、谷間に白いむくむく[#「むくむく」に傍点]がぞろめいて来やあがって、あっち、の山なんざいまにかっ消えちめえそうだぞ」
「静かにして下さい」と若者は荒い息をしながら制止した、「ここは人も恐れる大ぬすびと、鬼鮫と呼ばれる酷薄無残な賊の山寨ですからな、温和《おとな》しくなさらないとどんなひどいめ[#「め」に傍点]にあわされるかしれませんぞ」
「聞き飽きたよ青|瓢箪《びょうたん》」少女は下唇を突き出した、「おめえ同じことをもう百遍もぬかしてるぜ、こっちは聞き飽きてうんざりだ、ここが山寨で本当にそんな野郎がいるんなら、さっさとしょっぴいて来たらどうだい、男のくせに口ばかりたたくんじゃねえよ、この青瓢箪」
洞穴を隠した木の枝の隙間から、そっと彼がこちらを覗いて見、びっくりしたらしく、慌ててまた木の枝を元のように直した。
「もちろん、仰しゃるまでもなく」と若者は答えた、「これから山寨へ御案内を致しますが、一つ姫ぎみにお願い申したいことがあるのです、と申しますのは、率直に云って言葉づかいなんでして」
「そんなこと気にすんな」
「あなたは藤原御一門に生れた高貴な方であり、才色すぐれた佳人と」
「気にすんな気にすんな」あえかに美しき乙女は手を振って遮《さえぎ》った、「おめえたち下賤な人間は言葉づけえにまでびくびくするだろうが、あちしっち社会になるとそんな遠慮はありゃあしねえ、好きなように喰べ好きなように寐《ね》、好きなように饒舌《しゃべ》り好きなようにたのしむのさ、生きている限りたのしむだけたのしむ、万事それだけのことさ、いいからその鬼鮫のところへ伴れてってくんねえ」
「おれは気分がふさいできた」と若者は脇へ向いて呟いた、「このばくれん者を中将の姫ぎみだと、鬼鮫どのが信じてくれるかどうか、このおれ自身でさえ確信がもてなくなってきたからな」
「なにをまたぶつくさ云ってんのさ」
「どうぞこちらへ」若者は腰を跼め、ひらっと手を振って云った、「あれが山寨です」
若者は少女の先に立って踏段を登り、洞穴の口に立てかけてある木の枝をどけ、姫を案内して中へはいっていった。――日はすでに落ちて、谷間から這《は》いのぼってくる夕霧も、灰色から薄墨色に変りつつ、しだいに消え去ってゆき、空に残った茜《あかね》色の雲もたちまち色|褪《あ》せて、かすかに星が光りはじめた。――山寨の中から、若者と彼が出て来、踏段をおりてこちらへ来た。
「なんだあれは、あの化け物はなんだ」
「おちついて下さい、まあおちついて聞いて下さい」と若者は彼をなだめた、「あなたが疑わしく思うだろうということは、私もおよそ察しておりました、私自身でさえ、いかもの[#「いかもの」に傍点]を掴《つか》まされたんではないかと、幾たびも首をひねったくらいなんです、いや、まあ聞いて下さい」若者は両手で彼を押えるような動作をした、「けれどもです、私は中将家の下人とは古い知合いですし、お供のはした[#「はした」に傍点]女たちも中将家の者に相違なく、現に姫ぎみその人が品子であると云って」
「魚と馬とは見わけのつくものだ」と彼は若者の言葉を遮って、懐疑を抑えきれぬように云った、「また、男と女の区別、白黒の違いも判断ができる、人間には誰しもそのくらいの能力はあるものだ、しかしきさまが伴れて来たあのもの[#「もの」に傍点]は」
「誘拐です」と若者が訂正した、「伴れて来たのではなく、かどわかして来たのです」
「それが自慢か」彼は若者にのしかかった、「中将の姫どころか、あれはもっともあばずれたくぐつ[#「くぐつ」に傍点]女、でなければ化性《けしょう》の者というところだぞ」
「あなたはご存じないようだが、そして、あの姫はちょっと度外れてはいるようだが、およそ公卿貴族の公達や姫ぎみというものは、一般が想像するよりはるかに庶民的であり、ものごとに拘泥しない風習があるので」
「あれが庶民的だって」彼はさらに若者へのしかかり、相手を崖のほうへ追い詰めながらどなった、「山寨へはいって来るなりおれに抱きつき、おれの唇へ噛みついて、さすがこの悪虐冷酷な鬼鮫も顔を赤くするようなことを囁《ささや》き、そして、おれのことを押し倒そうとするのを見ただろう、一般庶民があんなまねをすると思うか」
「それがその貴族社会では、生れつき誰に遠慮ということを知らないのだそうでして」若者は崖をよけて脇のほうへまわりながら弁明した、「ここへ来る途中でも立ちいばり[#「いばり」に傍点]をなさるので、私は人が来なければいいがとはらはらしているのに、姫ぎみはまことに正々堂々、いかに素朴な百姓の媼《おうな》も及ばぬ巧みな手際で」
「しっ、黙れ、こら黙れ」彼は狼狽《ろうばい》したようにどなった、「おれはかの社会徳義が紊《みだ》れつつあるとは推察しているが、そこまで話を面白くすると作りごとになるし、もしもそれが事実なら、あれがまやかし者なことを証明するものだぞ」
「証明は簡単です、身の代金の脅迫状でためせばいいでしょう」と若者が云った、「出来ているなら私にください、これからすぐに中将家へ持ってゆきますから」
「それはそうだが」彼は山寨のほうを振返って見、不安そうに口ごもった、「脅迫状は出来ている、ここに持っているが、なにしろこれはこの仕事の要《かなめ》だからな、どうしたら慥かに中将の手に渡るかという手段を考える頭と、それを実行する度胸のある者でなければ」
「それこそ私にうってつけの役目です」
「いや、きさまはまだ若い」
「初めからその約束でしたよ」
「約束は変更されるものだ」彼はふところから書状を出して見、また山寨のほうへ振返って、ゆっくり首を振った、「きさまはともかく宮仕えの経験があるし、姫たちの扱いも少しは心得ているだろう、だがおれはまったくの無経験者であるうえに、相手があんな」
若者は燕《つばめ》のようにすばやく身をひるがえし、彼の手から書状を奪い取った。彼は度胆をぬかれ、次いで怒りのため顔を赤黒く怒張させた。
「怒らないで、ま、怒らないで」若者はあとじさりながら片手を前へ出した、「どうしたってこれは私の役目ですよ、綾小路の第へ近よるにも、これを間違いなく中将の手に届くようにする手段も、あなたより私のほうがずっと詳しいですからね」
「きさまあの姫が恐ろしいんだな」と云って彼はいそいで云い直した、「いや、きさまこの仕事が恐ろしくなってずらかるつもりなんだろう」
「そのつもりならここへ来やあしません、神かけて大丈夫、誓って役目ははたしますよ」
「ちょっと待て」彼はよそ見をしながら、極めてさりげなく若者のほうへ近よろうとした、「まあそう慌てるな、おれが思うのにだな」
「私も思うんですが」と若者もあとじさりながら云った、「初めの約束どおり、この状を早く中将に届けることにしますよ」
「ものには相談ということがある」
「帰ってからにしましょう」と若者は云った、「姫ぎみに用心して下さい」
「やい待て、ちょっと待て」
「すぐ帰ります」若者は走りだした、「もし帰りがおそくなっても、私のことは心配しないで下さい、どうかお大事に」
「卑怯者《ひきょうもの》め」彼は走り去る若者に向って、片手の拳を振りながら叫んだ、「戻って来い、きさまあの姫の側へおれ一人を残して、――いっちまやがった、あのおためごかしの、ごますりの、独善家の、卑怯者が」
[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]
「ねえ鬼助」と姫が云った、「こっちへいらっしゃいよ」
闇の中で彼の鼾声《かんせい》が聞えた。
「ねえ鬼助ったら」と姫が云った、「そら眠りをしたってだめ、眠ってないことはちゃんとわかってるんだもの、ねえー、返辞をしなさいよ」
鼾《いびき》の声が少し高くなった。
「ばかねえ」姫は喉で笑った、「鼾ってそんなに規則正しく出るもんじゃないのよ、本当に眠っているときはもっと身動きをするし、鼾だって高くなったり低くなったり、跡切れたかと思うとまた始まったりっていうぐあいに、不規則で絶えず変化するものなのよ」
彼は闇の中でもぞもぞと寝返り、鼾の声を高めたり低めたり、跡切らせたかと思うと、ちょっと唸《うな》ってみせたりした。
「そうそう、うまくなったわ」と姫が褒《ほ》めた、「それからーと、夢を見るときには笑いもするし、泣くときもあるのよ」
彼は黙っていた。自分の現在おかれた状態をよく検討したのだろう、やがて、眠っている筈であることを忘れて「ばかな」と云った。
「人をばかにしてはいけない」と彼は腹立たしげに云った、「おまえさまはお公卿そだちに似あわず人の悪いことばかり云いなさる、もう時刻もおそいのだから黙ってぎょし[#「ぎょし」に傍点]んならなければいけませんぞ」
「ぎょし[#「ぎょし」に傍点]んってなんのこと、魚心あれば水心っていうことかしら」
「とんでもないことを仰しゃる、お育ちにも似あわない、ぎょし[#「ぎょし」に傍点]なされはおやすみなされでござりましょうが」
「つまらないこと云わないで」と姫は鼻声をだした、「ねえー、こっちへ来てよ、鬼助」
「わたくしの名は鬼鮫です、どうか鬼助なんて呼ばないで下さい」と彼は云った、「それにまた、こっちへ来いなどと、はしたないことを仰しゃってはいけません、御身分にかかわりますぞ」
「じゃあ、あたしがそっちへゆくわ」
「なんですって」彼のはね起きるようなけはいがした。
「あちしがそっちへゆくって云うの」と姫が云った、「これまで一と晩だって独りで寝たことなんかないんだもの、おとこがいなければ侍女でもいい、誰かに抱かれるか抱くかしなければ眠れやしないわ」
「冗談じゃない、冗談を仰しゃってはいけません」彼は慌てて身づくろいをするらしい、しきりにそら咳をし、もぞもぞやりながら云った、「そんなことを云ってわたくしを脅やかすつもりだろうが、御身分とお育ちを考えたら、冗談にもそんな言葉を口になさるものではありませんぞ」
「あらいやだ、あちしっちはみんなこういうふうに育ってるのよ、どこにいるの鬼平」
「あなたは御空腹なんだな」彼はふるえながら燧石《ひうちいし》を打った、「寄ってはいけません、そこにじっとしてて下さい、人間は腹がへってると眠れないし、眠れなければあらぬことを考えるものです、ちょっと待って下さい、いまなにか差上げますから」
彼が灯をつけると、寐莚《ねむしろ》の上に褥《しとね》を掛けて横たわっている姫の、殆んど半裸になった姿が見え、彼は眼をひきつったように脇へそらしながら、立っていった。姫は清絹《すずし》の下衣の裾を捲り、胸許《むなもと》をもっと掻きひろげ、杉のへぎ[#「へぎ」に傍点]板で作った不細工な扇で、はたはたとけだるそうに風を入れながら、あまたるい誘惑的な声で、なにやら俗にくだけた歌をうたった。まもなく、彼は大きなかなまり[#「かなまり」に傍点]を持って戻って来、それを姫に渡した。
「これは粟と小麦を煎《い》って粉にした焼き団子、こちらは乾し桃と乾した猪《いのしし》の肉です」と彼は説明した、「この団子を一と口、次に猪の乾し肉を一とかじり、それに乾し桃をちょっと噛み合せて下さい、あなた方のお口には合わないでしょうが、こういう山寨のことでなにもありませんから、飢えだけ凌《しの》ぐと思って辛抱を願います」
「酒はないの」姫は横になったまま、手づかみで喰べながら云った、「酒を持って来なよ」
「酒なんてとんでもない」
「酒はあるんだろう」
「あることはありますが、あなた方の召上るようなものではないし、それに御身分からいってもおとしからいっても、酒などを召上るべきではないでしょう」
「これはうめえもんだな、うん」姫は舌鼓を打った、「こんなうめえものは初めてだ、喰べたら急に腹がへってきちゃった、よう、酒を持って来なってばさ」
「いけません」と云って彼は脇へ向き、独り言を呟いた、「なんということだ、これが内大臣と中宮の姪、中将の姫、やがてははるの宮のきさきにも直ろうという人だろうか、本当にこれがその人だろうか」
「酒を持って来なって云うのに聞えないのかい」と姫が云った、「もう喰べ物もなくなっちゃったからね、酒といっしょにお代りも持っといで、ぐずぐずするんじゃないよ」
「いまのを喰べちまった、ですって」彼はからになったかなまり[#「かなまり」に傍点]を受取り、仔細にその中を覗きこんだ、「本当だ、胆《きも》が潰れた、すっからかんだ、山賊《やまだち》でも一とかたき[#「かたき」に傍点]には余るくらいの物を、かけらも残さず喰べちまった、あのたおやかにかぼそいお躯の、いったいどこへどうはいったものだろう、おまけに代りをよこせだって」
彼はぞっとしたように肩をすくめ、立ってゆきながら長い溜息《ためいき》をついた。
[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]
「今日でもう五日になる」と闇の中で彼が独り言を呟いた、「耳助はまだ帰らない、あの卑劣漢は五日も経つのに帰っても来ずなんの報告もしない、思ったとおり、やつ[#「やつ」に傍点]はずらかったに相違ない」
姫が寐返るけはいと、鼻にかかったあまい唸り声が聞え、彼はぎょっとしたように口をつぐんだ。山寨の外で夜鳥の鳴く声がし、虫の声が聞えた。
「どうしよう」と彼はまた呟いた、「どうにかしなければならない、いつまでこうしているわけにはいかないぞ、貯蔵食糧も残り少なくなった、おれ一人なら冬まで充分に保つ筈だったが、それでも余るくらいだったのが、姫のおかげですっかり底をついちまった。そればかりではない、酒も飲まれるし毎晩のように身を護らなければならない、うっかり眠りでもすれば、いつ身をけがされるかしれないんだから」
「鬼六、――」と姫が云った、「おめえどこにいるんだい、よう、もっとこっちへ寄んなよ」
彼は躯をちぢめ、息をころして、ようすをうかがった。寐言だったとみえ、姫は短く唸ると、足を投げだす音がし、また軽い寐息が聞えてきた。
「明日はでかけてってみよう」と彼は暫く待ってみてから続けた、「やつ[#「やつ」に傍点]は責任だけははたす男だ、たとえずらかるにしても、あの状を中将の手に届けるという役目だけははたした筈だ、とすれば、五日という日限も、八坂の塔の下という場所も、中将にはわかっているだろう、――そうだ、明日はおれが八坂の社まででかけてゆくとしよう」
彼は太息《といき》をつき、欠伸《あくび》をした。
「こんどの思いつきはすばらしかったな」と彼は呟いた、「僅かばかりの金品を盗むなんてもんじゃない、そんなものはかけだしの泥棒のすることだ、この鬼助――ではない鬼鮫さまはそんな半端な仕事はしない、あの高慢づらをした貴族の心を恐怖でふるえあがらせ、くらい太ったあのなまっ白い躯の血が冰《こお》るようなおもいを味わわせ、おまけに砂金三千両をめしあげてやるんだ、うん」彼はまた欠伸をした、「おれにはいまあの青瓜の中将の顔が眼に見える、最愛の姫、都じゅうに才色ならびなき姫、やがては東宮のきさきに召され、したがって親の中将の華やかな将来をも約束するところの宝、――その姫がかどわかされ、冷酷無残でありなさけ知らずなこの鬼鮫の手に落ちている、ふ、かれらは血の涙を流し神仏に祈り、頭を掻きむしり地だんだを踏んで、泣き喚き狂いまわっていることだろう、あっあー、かれらはいまこそ思い知るのだ、現実がいかに無慈悲できびしく、この世に生きることがどんなに苦しみと悲しみに満ちているか、ということを――そしてかれらは」
かれらは、と云う言葉はそのまま消えてしまい、愛らしい姫の寐息に混って、彼の鼾声が聞えはじめた。闇のどこかで虫の音が高くなり、かれらの幾種類かの恋歌は、互いに競争者を凌駕《りょうが》しようとして技巧を凝らし、あるいは力づよく、あるいは微妙に、それぞれ精根をこめのぼせあがってうたい続けた。すると、どのくらい経ってからか、姫のやわらかな寐息が聞えなくなり、ひそかに衣《きぬ》ずれの音がしたと思うと、「うっ」という彼の苦しそうな声が聞えた。
「うっ、く、――」と闇の中で彼はもがいた、「くるしい、だ、誰だ」
「じっとしてて」と姫の囁くのが闇の中で聞えた、「暴れるんじゃないの、これをこうしなさい、だめっ、じっとしているのよ」
「姫ぎみですね、とんでもない」と彼はなにかに塞《ふさ》がれた唇の端で抗議した、「とんでもない人だ、御身分をお考えなさい、あなたはやがてはるのみやの、うっ、――うっ」
「なにをごたくさするんだい鬼めろう、おめえそれでも男かい」と姫が叱りつけた、「男ならちっとは男らしくしろ、なんだ意気地のねえ、こんなことでうろうろするんじゃねえよ、さあ、温和しくあちしの云うとおりにしな、これをこうするんだってばさ、こう」
「なむ八幡だい菩薩」と彼はもがきながら祈った、「この大難をのがれさせたまえ、あっ、痛い、また腰の骨が折れるぞ、うっ、――なんという力だ、苦しい、おれはどうやら組み敷かれるようだぞ」
「温和しくするか、それとも喉笛を噛みやぶってくれようか、え、――」と姫が云った、「あちしは伊達《だて》や酒落《しゃれ》でかかったんじゃねえ、五つ夜も独りで寝かされたあとだ、躯じゅうの血が羅刹《らせつ》のようにたけり立っているんだから、いやのおうのとほざけば本当に喉笛をくいやぶってくれるぞ」
「夢だ」と彼は云った、「おれはうな[#「うな」に傍点]されてるんだ、――」
[#6字下げ]七[#「七」は中見出し]
「もう夜があけそうだな、うん」と彼は片手で顔を撫《な》でながら云った、「あんなことのあったあとでも、やはり夜があけて朝になるということはふしぎだ、信じかねるような気持だ」彼は肩を撫で胸を撫で、躯じゅうを手で撫でた、「大丈夫、ちゃんと五躰は揃《そろ》ってる」それから足踏みをしてみ、両手を交互に叩いてみた、「骨もどうやら無事らしい、頬ぺたはこけ[#「こけ」に傍点]ちまった、肉がこんなにこけ[#「こけ」に傍点]てくぼんで頬骨が突き出ちまった、――それに少しふらふらするが、まあ命に別条のないだけは儲《もう》けものだ」
彼は山寨のほうへ振返り、暫く耳をすましていて、それから崖のほうへあるいていった。
「安心して下さい、みなさん、姫は鼾をかいて寐ています」と彼は云った、「わたくしがどんな災難にあったかということは申上げられません、べつに隠すわけではありません、なにしろ相手は高貴な家の深窓にそだった、僅か十五歳の少女でしてね、ええ」彼は脇へ向いて、「あのばくれんの不良むすめが」と舌打ちをし、元の声でにこやかに続けた、「――ちょっとばかりやんちゃなところはありますが、芯《しん》は怯《おび》えていたんですな、わたくしは隠れもない大ぬすびと、なさけ知らずで酷薄で血も涙もない鬼鮫ですからな、あまりうるさいので一とこと叱りつけてやったら、べそをかいてちぢみあがりました、そこは育ちが育ちですかね、可愛いもんです」
「へっ、なにが可愛いんだ」と彼は脇を向いてしかめづらをした、「あれでも中将の姫ぎみかえ、え、甲羅を経たくぐつ[#「くぐつ」に傍点]女も顔負けするような色好みで、この鬼鮫さまでさえ恥ずかしくなるような、軽業めいた手練手管《てれんてくだ》を飽きずに押しつけやがった、あれは深窓にそだった姫どころか、てんからの女悪魔だ」
「いや失礼、なんでもありません」と彼はあいそ笑いをし、声に出して云った、「――貴族的少数者に対するわたくしの考えが、些《いささ》かあま過ぎたことについて反省していたのです。いや、姫の話ではない、品子姫はまあ可憐《かれん》な少女でしてね、問題は貴族社会ぜんたいについてなのです、かれらはわたくしが想像していたよりも、道徳的頽廃の度がはるかに深く、その害は子女にまで及んでいるらしい、あの姫、――ではありません、普遍的な話ですが、僅か十四や十五の小娘のくせに、誘拐されても驚かず、親たちから引きはなされ、恐ろしい山寨に押籠《おしこ》められても、悲しみ嘆くどころか、へっ」彼は頭を片方へ振った、「山遊びにでも来たようにはしゃぎまわって、牛飼いや人足でもうんざりするほど喰べくらい、鼻の曲りそうな匂いのする悪酒を呷《あお》っては、むやみと男に絡みついて、――あれです、その、なんと云ったらいいか、わたくしは自分の経験ではないから、詳しいことは申上げかねますが、こんな話は誰も信じないと思う」彼は忿懣《ふんまん》に駆られて声を高めた、「かれらはいったいこの鬼鮫をなんだと思っているのか、粟田口の大臣の塩、大納言の冠筺《かんむりばこ》、藁沓《わらぐつ》、白川の別墅《べっしょ》の落し穴、――そのほかにも数えきれないほど、かれらはこのわたくしをおひゃらかし、ぺてんにかけ、すかをくわせ、嘲弄《ちょうろう》しました、この大ぬすびとである鬼鮫をですよ」
空が明るくなり、谷間から静かに霧が立ちはじめた。
「おそらく」と彼はそこで声をやわらげた、「かれらはわたくしのことを、あの愚かで無力なおん百姓や人足どもと同様にみているのでしょう、よろしい、そう思っているがいい、わたくしはかの愚民どもとは違う、盗まれるために死ぬほど働かされて、不平ひとつ云うことを知らない愚民どもとは違うのです――どう違うか、それをかれらに思い知らせてやろう、十五かそこらの小娘に絡まれて、悲鳴をあげるような男であるかどうか、さよう、耳助に持たせてやった脅迫状には、身の代金をよこさなければ異国の人買いに売りとばすと書きました、けれどもそれではなまぬるい、わたくしは追而状《おってじょう》をやりますよ、ええ、――こんなふうにです」彼は左手を右の袖口に入れ、右手の指で唇を摘んだ、「そうですな」と彼は考え考え云った、「さよう、木の股《また》へ逆|吊《づ》りにかけ、八つ裂きにして犬に食わせる、――どうでしょう、内大臣と中宮の姪、綾小路の中将の姫が逆吊りの八つ裂き、死躰を犬の餌食《えじき》にされるとあってはですな、へっへ」彼は両手を擦り合せた、「かれらがどんなに怯えあがるか、どんなに胆をちぢめ、恐怖のために血の冰るおもいをするか、まあ見ていて下さい、わたくしはいざとなったらなさけ容赦のない人間です、かれらがたとえ地面にひれ伏し、涙をながして哀訴嘆願しても、この冷酷な心を一寸も動かすことはできないでしょう、この鬼鮫はそういう男なのですから、――や、あれはなんだ、誰かやって来るぞ」
彼は身を隠そうとしてあたりを見まわした。山寨の中へはいろうとしたが、危ないところで思いとまり、どこかに藪《やぶ》でもないかと、眼を剥《む》いて見まわすところへ、若者が息を切らしながら走って来た。彼は慌てて地上へ跼みこみ、走って来た若者を認め、そのうしろには若者にかき乱された霧が煙のようにたなびいている以外に、怪しいものはなにもないことを慥かめてから、立ちあがってそっちへいった。
「なにをしていたんだ」と彼は喚いた、「いままでどこでなにをしていたんだ」
「た、た」と若者は喘いだ、「や、やさ」
「きさまは綾小路の中将家へいった、自分でむりやりにその役を買って出た、え」と彼は詰め寄り、のしかかった、「ところがそれっきり音沙汰なしだ、まぬけな鴉《からす》を空へ放したように、ばたばた飛んでいったきりお帰りなしだ、きさま」と彼は叫んだ、「おれを騙《だま》してずらかったんだろう、えっ」
若者は片手に持った書状で、都のほうをさし、自分の足許をさした。息切れがして口がきけないため、そうやって自分の証を立てようというのらしい。都の方角と、いま自分のいる場所をさし示しながら、いたずらに口をあけたり閉じたりし、片手で額から顔へ流れる汗を拭いた。彼のほうはお構いなしで、片手の拳を若者の鼻先へ突きつけながら、ずらかってはみたがうまくいかなかったので、恥知らずにもいまごろ帰って来てまたおれを騙すつもりだろう、と喚きたてた。若者は肩をすくめたり両手をひろげたり、首を振ったり胸を叩いたりしながら、彼の喚きのおさまるのを待っていたが、ふと気がついたようすで、持っている書状の封をあけ、それをひろげて、書いてある文字を彼のほうへ見せ、そこを指で「読め」というふうに叩いた。
「なんだ」と彼は顔をつきだした、「それはなんだ、なんのぺてんだ」
「ちゅうじょう」と若者は云った。
「中将だって、綾小路のか」
若者が頷《うなず》くと、彼はさっと一歩、うしろへさがった。その書状になにか危険な仕掛でもあるかのように、すばやくうしろへさがってから、首を伸ばして、書かれてある文字を読んだ。
「なんだその字は、まるでわからないじゃないか」と彼は云った、「まるっきりめちゃくちゃじゃないか、中将は満足に字を書くこともできないのか」
「唐の文字です」若者はようやく口がきけるようになった、「使いの口上も聞きました」
「ふん、まあおちつけ」と彼はその唐の文字に軽侮の一瞥《いちべつ》をくれて云った、「その、使いとはなんのことだ」
「私はあの状を届けてから、八坂の塔のところで見張っていたのです」若者はまだ少し荒い息をしながら云った、「身の代金を持って来たら、すぐそれを受取って帰るほうが早いと思ったからです」
「ああそうか、つまりその身の代金を持ってずらかる計画だったんだな」彼はそこで絶叫した、「やい、その金はどこにある」
「どの金ですか」と若者はうしろへとびのいて反問し、どの金かということに気づいた、「ああ、身の代金のことを云うんですね、あれはすぐそこの」と若者は崖のほうを指さした、「坂のおり口のところへ置いて来ました、あそこまでは担いで来たんですが、なにしろ重たいし、早くこのことをお知らせしたいと思ったものですから」
「おまえはいいやつだ」彼は若者にとびつき、両手でその肩を親しげに叩いた、「いや、おれはきさまを信じていた、きさまだけは必ず責任をはたす人間、ぬす人なかまに置いても信用のできる男だと思っていたぞ、よくやった、でかしたぞ耳助」
「まあおちついて下さい」
「おまえこそおちつけ」彼は親しみをこめて若者の顎をくすぐった、「そしてまず、その身の代金を拝ませてもらおうか」
「とにかくおちついて、これに書いてあることを聞いて下さい」
「金が先だ、そんなわけのわからない状なんぞ捨てちまえ」彼は走りだした、「さあ、どこにあるかいっしょに来て教えろ」
若者は落胆したように、がくっと両の肩をおとし、気乗りのしないようすで、彼のあとを追っていった。あたりはさらに明るくなり、谷から吹きあげる微風のため、霧は揺れあがったり横になびいたりしながら、しだいに薄くなってゆき、杉林の中で騒がしく鳥が鳴きだした。――二人はすぐに戻って来た、若者が古びた大きな唐櫃《からびつ》を担ぎ、彼は銭袋を片手に持ち、片手でその袋の下を叩きながら喚いていた。
「銭三貫文」と彼は唾をとばして喚いた、「おれは砂金三千両と書いてやったんだぞ」
「状に書いてあります」若者は唐櫃を下へおろした、「その状を読めばわかりますよ」
「状なんぞくそくらえ、砂金三千両の代りに銭三貫文」と彼は袋を叩いた、「中将のけちんぼはこのおれをなんだと思っているんだ、おれは酷薄無残な血も涙もない鬼鮫だぞ、おれが砂金三千両と云ったら三千両、一文欠けてもゆるせないのに銭三貫文とはなにごとだ、中将は姫が可愛くはないのか」そして彼は右足で大地を踏みつけて宣言した、「――おれは姫を長崎へ伴れていって、異国の人買いに売ってしまうと云ってやった、ただの威《おど》しだなどと思ったら後悔するぞ、おれはその気になれば本当に長崎へ伴れていって」
若者はそこへ置いた唐櫃を指さした。
「なんだ」と彼は訊いた、「金はそっちにはいっているのか」
「からっぽです」若者は唐櫃の蓋をあけ、横に倒して、中がからっぽであることを彼に見せた、「――このとおり、ぜんぜんです」
「どうしてからっぽなんだ、謎《なぞ》かけか」
「姫の輿代りだそうです」
彼は漠然と頭のうしろを掻いた、「――輿の代りって、どういう輿だ」
「人買いに売るときは、荷物のように見せて送るものだそうでして、幸い古櫃があるから呉れてやろう、と云っていました」
「は、は」と彼は干からびた笑い声をあげた、「は、は」ともういちど笑って云った、「中将もなかなかやるじゃないか、幸い古櫃があるから呉れてやろうか、あのけちんぼうでも酒落《しゃれ》ぐらいは知っているんだな、人買いに売るときは荷物のようにして送る、――」彼はそこで急に口をつぐみ、ごく静かに、そろそろと、頭をめぐらして若者を見、低い喉声で、囁くように訊いた、「おい、これは酒落だろうな」
若者はゆっくりと、首を左右に振った。
「酒落ではないのか」と彼は囁いた。
若者はまたゆっくりと頷いた。
「はっきりしろ」と彼は声を高めた、「酒落でないとすると、これはどういう意味だ」
「中将の仰しゃるには、と使いの下部《しもべ》が云ったんですが」と若者は答えた、「姫は返すに及ばない、いや、どうかこちらへは返さないで、異国へでもどこへでも売りとばしてくれ」
「ちょっと、ちょっと待て」彼は若者の口を塞ぐような手まねをし、大きな深呼吸を三度やって、気持をしずめてから頷いた、「――よし、もういちどはっきりと云ってくれ」
若者は咳をしてから続けた、「要約して云えば、中将は姫を取戻したくないんですな、姫を誘拐してくれたことは感謝する、恥を話すようだが、姫がいると内裏《だいり》をはじめ都じゅうの風紀が紊《みだ》れるばかりである、人買いに売るもよし、きさまの女房にするもよし、いずれにせよこの都から伴れて立退いてくれ、旅費として銭三貫文をつかわすから、絶対にこちらへ戻さないでくれ、もしもこちらへ戻すようなら、検非《けび》の庁へ訴えて極刑に処するであろう、――というわけです」
彼は蒼《あお》くなり、じっと考えこみ、若者の言葉をよく玩味《がんみ》してから、力まかせに大地を踏みつけた。
「なんということだ」彼はこっちを見て叫んだ、「こんなことがあっていいものでしょうか、え、みなさん、塩をしゃぶらせ雪沓を噛ませ、落し穴をくわせたうえにこの始末です、これは人を侮辱するばかりでなく、人類ぜんたいを冒涜《ぼうとく》するものではありませんか、いつぞやかれらはうたい囃《はや》しました。――うだのたかねにしぎわな張ると、はっ、かれらはしぎ罠《わな》を張ってくじらを捕ったと囃したてました、それは捕まったのがこの鬼鮫だから当然でしょう、ところがわたくしの場合はどう囃してやったらいいか、くじら罠を張ったらくじらさやらず、芥《あくた》さやるとでもいうんでしょうか」彼はまた大地を踏みつけた、「人をばかにするな、と云いたい、あの青瓜のけちんぼ中将め、このおれをなんだと思っているんだ、ええ」彼はこわいろを使って云った、「――人買いに売るもよし、女房にするもよしだって、どうかこちらへ戻さないでくれだって、しかもこれが自分の姫のことなんですぞ、みなさん」彼は左へ三歩あるいた、「自分の血を分けた娘のことを、人買いに売るもよし、女房にするもよし、女房――うっ」
彼は冰りついたように立辣《たちすく》んだ、「あの、恐るべきばくれん[#「ばくれん」に傍点]娘を、女房にですって、このわたくしのでしょうか」
「あんたどこにいるの」と山寨の中から姫の呼ぶあまたるい声が聞えた、「まだ起きちゃいや、もういちどあちしのとこへ来てよ」
「なむさん」と彼は首をちぢめた。
「そもさん」と若者が云った、「どうしよう」
「あんたどこよう」と姫がまた呼んだ、「ねえどこにいるの鬼|鰯《いわし》、早く来てよ」
「なむ八幡だい菩薩」と彼は駆けだしながら祈念した、「この災厄より救いたまえ、お力をもってこの大難をのがれさせたまえ」
「待って下さい、どうするんですか」
「おれはまだ命が惜しい」彼は走りながら銭袋をうしろへ投げた、「姫はきさまに任せる、これをやるから好きなようにしろ」
「そんな薄情な」若者は銭袋には眼もくれず、彼を追って走りだした、「そんな無情なことはよして下さい、私をあの姫ぎみと二人きりにしないで下さい、どうかお願いです、私もいっしょに伴れていって下さい」
「来るな」と彼はどなった、「おれは故郷のつくし[#「つくし」に傍点]へ帰る、おれは敗残者だ、おれは冷酷無情で血も涙もない大ぬすびとだが、とうていあの貴族的少数者のわる賢い残酷さには及ばない、おれはこのとおり這《ほ》う這うのていで逃げだすのだ、このとおりだ」
「待って下さい」と若者は追いつこうとしながら叫んだ、「私をこの恐ろしい都に残しておかないで下さい、お願いだから待って下さい」
二人は崖のほうへ走り去った。まもなく、山寨の外へ姫が出て来、両手を力づよく突きあげながら、健康な大欠伸をし、しなやかな双の腕を代る代る擦った。
「あんたどこにいるの、鬼|鮃《びらめ》」と姫はあまやかな鼻声で呼んだ、「出ていらっしゃいよ、ねえ、あんたどこでなにをしているのよ、え」
杉林のほうで甲高くなにかの鳥の鳴く声がした。
底本:「山本周五郎全集第十三巻 彦左衛門外記・平安喜遊集」新潮社
1983(昭和58)年3月25日 発行
底本の親本:「オール読物」
1961(昭和36)年6月号
初出:「オール読物」
1961(昭和36)年6月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ