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茅寺由来
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茅寺由来
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)甲斐国《かいのくに》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)蔵|正名《まさな》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「えいっ」に傍点]
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甲斐国《かいのくに》巨摩郡《こまごおり》日野春《ひのはる》奥に、茅寺《かやでら》と云う小さな寺がある、本来は万遍寺と云われていたものであるが、それに就《つい》て斯《こ》う云う伝説がある。
いつの頃か此《この》寺の住職が、山賊の為に非業の死を遂げた事があった。それからと云うものは後から来て住む僧と云う僧は、誰彼の差別なく怪死を遂げるか、行衛《ゆくえ》不明になるかするので遂《つい》には、其《その》寺に住む者は無くなり、永い間無住寺となって荒れ果てて了《しま》った。
すると、此処《ここ》を通りかかる武芸者が是《これ》を聴いて、――そりゃ面白い、俺が一つ捻《ひね》ってくれべえてな事で、此の無住寺へ出掛けて行ったものである。ところがそう簡単には行かなかった。一度出掛けて行ったが最後決して帰って来ない。
そして終《しま》いには通りかかる多くの武芸者達も見て見ぬ振りで行き過ぎて了うようになった。
ところで我々の宮本武蔵《みやもとむさし》が登場する。武蔵は(土俗の伝説によると彼は片眼で、また片足が短かかったと云う)此寺の物語を聴いて否《いや》応《おう》なしに怪物退治にと出掛ける。(武蔵は伊吹山《いぶきやま》であの有名な大蛇《だいじゃ》を退治た後だったから、頗《すこぶ》る思いあがっていたらしい)。
さて武蔵は草木を掻《か》き分けて其寺へ行った。全くそれは酷《ひど》い荒寺で、屋根も半分はなく、縁は落ち柱は傾き、見る影もない有様であった。
夜は更《ふ》けて行った。草木も眠り家《や》の棟も――尤《もっと》も此寺の棟はもう十年来というもの五尺がた下がっていたが、――三寸下る丑満刻《うしみつどき》、いましも武蔵はうつらうつらとしかかった。
出た。ひょいと小さな小坊主が闇《やみ》の中へ現れた、そしてげらげらと笑った。それが口火となって、出るわ出るわ、俄然《がぜん》この荒寺の中に化物の百科辞典が現出したのである。武蔵の有名な旅日記に、此時の化物の名称を最初の五百三十二種までは挙げてあるが、それから後は、流石《さすが》の武蔵も呆《あき》れ返って、記録を断念したと伝えられて居る。
かくては果てじと、武蔵|正名《まさな》、膝元《ひざもと》へ引寄せた愛剣、大和国宗《やまとくにむね》、呼吸を計って抜くよと見ると此処《ここ》ぞと思うあたりを斬《き》った。――ぎゃあと云う異様な叫び。ばたばたばた、と苦しむ物音。
とたんに別の方へまた化物が現われる、えいぎゃあ。ばたばたばたと藻掻《もが》く手耐《てごた》え。ところで又別な化物がにゅっと出る。えいっ[#「えいっ」に傍点]と云う叫び、白刃《しらは》の閃《ひらめ》き、ぎゃあっ。
斬ったこと斬ったこと。蒲鉾《かまぼこ》を拵《こしら》えるのに魚を庖丁《ほうちょう》で叩《た》き斬っているが、あれだって其|夜《よ》の武蔵には敵《かな》わなかった。武蔵の自筆の日記に拠《よ》ると、三千八百二十までは覚えていた(何故《なぜ》なら翌朝村人に助けられた時、彼は失神しながら未《ま》だ斬り続けていたのだから)と書いてある、が尠《すくな》くとも彼は謙遜家《けんそんか》であった。実際|若《も》し精密に算《かぞ》えたなら、恐らくそれは何万、何十万と云う数《すう》であったのだろうから。
村人達に助けられた彼は、生涯の失敗を後に愴慌《そうこう》として此|山間《さんかん》の土地を去って行った。そして有名な宮本武蔵の――「刈り取って呉れた茅[#「刈り取って呉れた茅」に傍点]」は庄屋の六兵衛の主唱で其寺の屋根を葺《ふ》き、猶《なお》外《ほか》に村中の屋根を葺くに充分だったと云う。
此の物語で武蔵は唯《ただ》道化を勤めているように見えるが、それは勘くとも偏見である。何故ならその茅で屋根を葺いて以来其寺には怪異がなくなった、つまり武蔵は間接に化物退治を為《し》たのである――茅寺の名の起りである。
[#地から2字上げ](「日本魂」昭和三年八月号)
底本:「怒らぬ慶之助」新潮社
1999(平成11)年9月1日発行
2006(平成18)年4月10日八刷
底本の親本:「日本魂」
1928(昭和3)年8月号
初出:「日本魂」
1928(昭和3)年8月号
※表題は底本では、「茅寺《かやでら》由来《ゆらい》」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)甲斐国《かいのくに》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)蔵|正名《まさな》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「えいっ」に傍点]
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甲斐国《かいのくに》巨摩郡《こまごおり》日野春《ひのはる》奥に、茅寺《かやでら》と云う小さな寺がある、本来は万遍寺と云われていたものであるが、それに就《つい》て斯《こ》う云う伝説がある。
いつの頃か此《この》寺の住職が、山賊の為に非業の死を遂げた事があった。それからと云うものは後から来て住む僧と云う僧は、誰彼の差別なく怪死を遂げるか、行衛《ゆくえ》不明になるかするので遂《つい》には、其《その》寺に住む者は無くなり、永い間無住寺となって荒れ果てて了《しま》った。
すると、此処《ここ》を通りかかる武芸者が是《これ》を聴いて、――そりゃ面白い、俺が一つ捻《ひね》ってくれべえてな事で、此の無住寺へ出掛けて行ったものである。ところがそう簡単には行かなかった。一度出掛けて行ったが最後決して帰って来ない。
そして終《しま》いには通りかかる多くの武芸者達も見て見ぬ振りで行き過ぎて了うようになった。
ところで我々の宮本武蔵《みやもとむさし》が登場する。武蔵は(土俗の伝説によると彼は片眼で、また片足が短かかったと云う)此寺の物語を聴いて否《いや》応《おう》なしに怪物退治にと出掛ける。(武蔵は伊吹山《いぶきやま》であの有名な大蛇《だいじゃ》を退治た後だったから、頗《すこぶ》る思いあがっていたらしい)。
さて武蔵は草木を掻《か》き分けて其寺へ行った。全くそれは酷《ひど》い荒寺で、屋根も半分はなく、縁は落ち柱は傾き、見る影もない有様であった。
夜は更《ふ》けて行った。草木も眠り家《や》の棟も――尤《もっと》も此寺の棟はもう十年来というもの五尺がた下がっていたが、――三寸下る丑満刻《うしみつどき》、いましも武蔵はうつらうつらとしかかった。
出た。ひょいと小さな小坊主が闇《やみ》の中へ現れた、そしてげらげらと笑った。それが口火となって、出るわ出るわ、俄然《がぜん》この荒寺の中に化物の百科辞典が現出したのである。武蔵の有名な旅日記に、此時の化物の名称を最初の五百三十二種までは挙げてあるが、それから後は、流石《さすが》の武蔵も呆《あき》れ返って、記録を断念したと伝えられて居る。
かくては果てじと、武蔵|正名《まさな》、膝元《ひざもと》へ引寄せた愛剣、大和国宗《やまとくにむね》、呼吸を計って抜くよと見ると此処《ここ》ぞと思うあたりを斬《き》った。――ぎゃあと云う異様な叫び。ばたばたばた、と苦しむ物音。
とたんに別の方へまた化物が現われる、えいぎゃあ。ばたばたばたと藻掻《もが》く手耐《てごた》え。ところで又別な化物がにゅっと出る。えいっ[#「えいっ」に傍点]と云う叫び、白刃《しらは》の閃《ひらめ》き、ぎゃあっ。
斬ったこと斬ったこと。蒲鉾《かまぼこ》を拵《こしら》えるのに魚を庖丁《ほうちょう》で叩《た》き斬っているが、あれだって其|夜《よ》の武蔵には敵《かな》わなかった。武蔵の自筆の日記に拠《よ》ると、三千八百二十までは覚えていた(何故《なぜ》なら翌朝村人に助けられた時、彼は失神しながら未《ま》だ斬り続けていたのだから)と書いてある、が尠《すくな》くとも彼は謙遜家《けんそんか》であった。実際|若《も》し精密に算《かぞ》えたなら、恐らくそれは何万、何十万と云う数《すう》であったのだろうから。
村人達に助けられた彼は、生涯の失敗を後に愴慌《そうこう》として此|山間《さんかん》の土地を去って行った。そして有名な宮本武蔵の――「刈り取って呉れた茅[#「刈り取って呉れた茅」に傍点]」は庄屋の六兵衛の主唱で其寺の屋根を葺《ふ》き、猶《なお》外《ほか》に村中の屋根を葺くに充分だったと云う。
此の物語で武蔵は唯《ただ》道化を勤めているように見えるが、それは勘くとも偏見である。何故ならその茅で屋根を葺いて以来其寺には怪異がなくなった、つまり武蔵は間接に化物退治を為《し》たのである――茅寺の名の起りである。
[#地から2字上げ](「日本魂」昭和三年八月号)
底本:「怒らぬ慶之助」新潮社
1999(平成11)年9月1日発行
2006(平成18)年4月10日八刷
底本の親本:「日本魂」
1928(昭和3)年8月号
初出:「日本魂」
1928(昭和3)年8月号
※表題は底本では、「茅寺《かやでら》由来《ゆらい》」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ