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大塩平八郎
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大塩平八郎
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)大塩平八郎《おおしおへいはちろう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)行|矢部駿河守《やべするがのかみ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#8字下げ]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
大塩平八郎《おおしおへいはちろう》は偉人伝中の人ではない、悪く云うと一種の奇人であろう。
王陽明《おうようめい》の人となりを敬慕してもっぱらその学を修め、大坂与力として活躍した期間には、町奉行|矢部駿河守《やべするがのかみ》という俊英な上官を得て、その才腕を充分に揮《ふる》った。彼が治獄の術に長じていたのはたしかで、なかにも文政十年に断行した天主教徒の検挙と、同じく十二年、奸吏が豪商等と結托して政治を紊《みだ》していた事実を摘発、その私した金三千両を市民に与えた果敢ぶりとは有名である。しかしそれは上官に矢部駿河守という名伯楽を得たからで、駿河守が勘定奉行として江戸へ去り、後任に跡部山城守《あとべやましろのかみ》という凡愚漢が来ってからは、その鋭鋒もとみに生色を喪ったのである。
平八郎が有用の材であって、巧みに活動せしむればおおいに治績を挙げ得るということを知っていたのも、もしその操縦を誤れば大事をもしでかすべき人物であると見透していたのも、じつに矢部駿河守その人であった。つまり平八郎は名馬であって名騎手ではなかった。従って駿河守が去ると間もなく、跡目を伜《せがれ》柄之助《とものすけ》に譲って隠居し、決心洞《せんしんどう》書院(学校)を興して諸生の教育に当ったが、原来教育などという地味な仕事が性に合うはずはなく、その講筵は常に時流を忿る彼の悲憤慷慨をもって終始し、ついに特記すべき業績なくして終ったのである。
平八郎はひとたび怒りを発すると、自らこれを抑えることのできない質であった。その良き現れが奸吏の涜職摘発となり、他の現れが天保事件となったのである。――矢部駿河守は大坂町奉行として在任中、控えの間でしばしば平八郎と会ったが、ある時、食事をともにしながら時局を論じたことがあった。
当時、幕府は財政窮乏の極に達していた。上は将軍家より旗本、諸大小名、諸富豪、庶民に至るまで、淫逸《いんいつ》驕奢《きょうしゃ》の流れは一世を風靡《ふうび》し、遊里、戯場の発達、軟文学の汎濫、富籤《とみくじ》の隆盛等、未曽有の活況を呈し――世はあげて刹那的に、投機的に、享楽的に趣いていた。かかる状態が国家の財政にどう影響するかは言うをまつまい。これを一家に考えてみても、主人主婦から子供、奴婢《どひ》に至るまでが、もしかような逸楽に耽っていて家政の成立つわけがないのである。はたして、憲政十一年から文化十三年に至る十八年間に、幕府は五十余万両に達する財用不足を生じた。
幕府は窮策して、諸侯たちはじめ一般庶民にまで献上金を要求し、大坂の富商たちに前後約百万両の御用金を命じた。これらが下層階級にどう響いてゆくかは分りきったことである。しかしなお足らず、文政元年新たに二分判金を鋳造し、二枚をもって小判一枚換えとしたが、元禄の改鋳以来、数次のことで、すでに世界最悪の貨幣となっていたものを、さらに粗悪に吹返したのだから、一般にこれを、
「――元文小判」
と云ってはなはだしくこれを嫌った。
悪貨の流通に従って物価の騰貴を招く、庶民の生活は日に日に窮乏してきた。しかも幕府はいささかも済民の策を計らず、政治は停頓し、秩序は紊《みだ》れ、一人としてこれを匡救《きょうきゅう》しようとする者がなかったのである。
矢部駿河守と会食したとき、平八郎はこの事実をあげて痛論した。彼はやや肥り肉で髪が濃く、大きなよく光る双眸をもっていたが、論旨が時弊の核心に触れると、
「かようなことでは国が亡び申すぞ」
と、食卓を叩きたて、満面に朱を注いで、怒髪衝冠《どはつしょうかん》という形相になった。駿河守はあまりに平八郎の忿激が烈しかったので、勉めてこれを慰撫するようにしていたが、彼はいつかな鎮まるようすもなく、――食卓上にあった金頭の焼魚を採ると、いきなりその頭から尾までぶりぶりと噛砕いてしまった。
平八郎は偉人ではなかったのだ、忿激の理由が国家を憂えてのことではあっても、こういう奇矯な表現はいわゆる大人物のすべきところではないのである。しかし同時にまた平八郎が偉人英雄でなく、一個|峻侠《しゅんきょう》の人物であったところに、その存在の価値と大いなる意義があったということはできよう。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
矢部駿河守は、勘定奉行として去るに臨み、後任の跡部山城守に向って、
「与力大塩平八郎は傑物である、彼を信任して良く用うれば、必ず治績があがるに相違ない、しかしもし奉行の威をもって御駕せんとすれば、必ず禍を将来するであろう」
と云った。
跡部山城は凡俗人であったから、
「駿河侯は器量人と聞いていたが、大任の継伝に当って一与力の操縦をことごとしく議するところを見ると、噂ほどの者ではない」
と空嘯《そらうそぶ》いていたという。こんな人間ゆえ平八郎の才幹を看《み》る明がなく、平八郎もその下に仕うることを潔しとしなかったので、跡目を保柄之助に譲って退隠した。
致仕した彼は、洗心洞を開校してもっぱら教育のことに当ったが、しかし眼は絶えず時勢の上に注がれていた。
この時、世相はいよいよ険悪を加えるばかりだった。天保三年以来、不作、凶作あい続き、そのうえ新鋳の悪貨が汎濫したので、諸物価――ことに米価の騰貴は驚くべきものがあり、江戸市中においてさえ餓死者道に横たわるというありさまであったから、地方の惨状は云うまでもない、窮民は集団的に土地を捨て、これに武士の牢人たちが加わって群盗となり、諸所に出没して富豪を襲撃したり良民を掠奪したりし始めた。
この状態は天保七、八年に至って極まり、すでに幕府、諸侯もこれを鎮圧する手段に困惑するありさまとなった。
かかる世態をなんで平八郎が黙視し得よう、彼は再三奉行所を叩いて善処すべきを進言した。しかし山城守はてんで耳を傾けようともしないのである。平八郎はついに怒って、
「そもそも奉行職はいかなるが本務であるか、国を治め民を安んずること能《あた》わずば、冠せる沐猴《もっこう》に過ぎぬではないか、――巷《ちまた》に斃死する餓死者を見られい、街《ちまた》にどよむ窮民の叫びを聞かれい、尊公もし今にしてなすところ無くんば、大事は大坂城下より発するであろう」
と怒号した。山城守もさすがにその語勢の猛なるに辟易して、
「そういうことなればただちに関東の指令を乞うて方策をたてよう」
と答えた。
「手温《てぬる》いことを!」
平八郎は膝を叩いて詰寄った、「ことは危急に迫っている、今日救いの手を下さなければ今日餓死する人間が群れているのに、関東へ伺いをたてるなどとは迂遠極まる話だ、よろしく尊公の裁量をもって救民の法を断行されたい」
「しかし、たんに奉行職として専断にことを行うわけには参らぬ」
「なぜいかんのか」
平八郎は膝を進めて、「おそらく尊公は専断の罪に問われるのを惧《おそ》れるのであろうが、身を殺して仁をなすということもある、ぜひとも断行していただきたい」
「なる程、身を殺して仁をなすとはある。しかしそれなら他人に進めるまえに、なにゆえそともとがそれを実践しないのか」
小人の云いそうな揚足取りである。これが平八郎をすっかり怒らせた。
「よろしゅうござる」
彼は面色を変じながら答えた、「身を殺せとあれば殺しましょう、しかしいちおうお断り申しておくが、平八郎が身を殺すとちと[#「ちと」に傍点]うるそうござりまするぞ」
云い捨てて起った。
そのとき、彼はすでに大事を決行すべき肚を決めていたのである。しかし、――彼はそれからも富豪たちを歴訪して、救民の業を計ったのである。かつて与力として辣腕をふるっていた時分には、唯々諾々《いいだくだく》と彼の意を迎えた連中も、洗心洞主としての彼には一顧も与えなかった。
「――もはや穏便の策及ばず」
彼の公憤は激発した。
平八郎は幼少より書物を愛し、生涯に買い求めた希書珍籍は棟に充ちていた、そして彼は何よりもその蔵書に愛着をもち、珍重していたのであるが、――それらを断然売却した。
伜の柄之助が訝って、
「御愛蔵の書籍をどう遊ばします」
「書籍のみではない、売れる物は家具什器ことごとく売却する所存だ、この危急存亡の期《とき》に当って万巻の書が何になる」
柄之助は父が例の癇癪を起しているのに気付いた。
「しかし、父上、当家を全部裸にしても、救うことのできる者はわずかな数ではございませぬか、窮民は天下に充満しております。さように短気を遊ばさずとも、万人を救う策を講ずるのが本当ではございませぬか」
「父はできるだけのことをしたのだ」
平八郎は黙念と云った、「しかし駄目だ、上には一人として、人間がいない、みんな眠れる豚だ。城中に千万の黄金を擁し、御蔵に万石の米を死蔵しながら、一指も救恤のために動かそうとせぬ、――大塩家の微財をもってどれほどの人が救えるか、そちの言に俟《ま》たずともよく知っている、しかし万民を救うことができないとしたら一隣人だけでも救わねばならぬ、そのうえで父にはさらに思案があるのだ」
柄之助は父の眉宇《びう》に閃く不穏の色を見てとったが、もはやなにも云わなかった。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
書籍その他を売って得た金は七百両あまりになった。
平八郎はその金の半分で米を買い、半分を一朱金に換えた。そして家の門を開いて積上げ、困窮の人たちを招いて分配したが、そのとき密かに一枚ずつ刷物を添えて、
「――天満橋、天神橋のあたりに火事が起ったら、志のある者はすぐ集って来るよう」
と伝えた。
かくて天保八年二月十九日、平八郎は旧僚友の与力、同心のうち、風をしたってはせ参じた潮田《うしおだ》、小泉《こいずみ》、渡辺《わたなべ》、荘司《しょうじ》、近藤《こんどう》、平山《ひらやま》らを中心に、摂津《せっつ》、河内《かわち》の農民合せて五百余をもって蹶起《けっき》したのである。
まず天満組屋敷へ火が放たれた。かねてこのことあらんと待受けていた窮民たちは、火の手を見るよりたちまち群集して来る、一味は鉄砲、火矢、棒、刀、竹槍を揮《ふる》って進撃。建国寺を焼いて猛然と奉行所へ肉薄した。
しかし奉行所においても、はやく内通する者があって防戦の準備はできていたから、とっさに天満、天神の三橋を撤して拒み、一党が難波橋へ廻るうちに急遽兵を催してこれに当った。かくて大塩方は二た手に別れ、城兵と大坂在番の諸侯とを合した軍を相手に、果敢な市街戦を展開したのである。
もちろん、戦いに利の無いのは分っている。悪闘苦戦の後、同志を次々に討たれ、挙に加わった衆もまた形勢の悪化を見て敗走するなど、月を越えて三月に入るや、ほとんど擾乱は屏息するに至ったのである。かくて同月二十七日、大塩父子は油掛町|五郎兵衛《ごろべえ》なる者の別宅に隠れているところを幕吏に襲われて、遁れざるを知り、自ら火を放って焚死し、ことにまったく天保の乱は鎮定したのである。
こうした事実だけからみると、平八郎の挙は失敗に終っているが、ここでいちおう、――彼の真意を考えてみたい。この事件に当って彼の採った戦法はまったく無謀であった、凡愚でない平八郎がどうしてこんな不態《ぶざま》な失敗を演じたかという点を理解しなければならぬ。
『東湖随筆《とうこずいひつ》』という書物に、彼の人となりをもっともよく識っている矢部駿河守の言葉が載っているが、それには彼の言行を評した後、
「大坂城の仔細は平八郎のもっとも精通するところである。もし彼にしてじつに叛逆の大望があったならば、何を措いても大坂城へ立籠るべきで、彼ならそれができたのである、しかるに城へはよらず、かえって不利になる戦法を採ったことは何故であるか……?」
と言葉を濁している。
この「何故不利な戦いをしたか!」というところに真相があるのだ。
思うに彼がことを起したのは、警世の木鐸《もくたく》を打鳴らすためだったのである、眠れる豚どもの耳へ冷水《れいすい》一|斛《こく》を注いだのである。始めから戦に勝つ意志も無かったし、自分が賊名の下に死ぬことも承知のうえだった、身を殺して正義のあるところを顕章すれば足りたのだ。
彼がもし偉大な人物であったら、おそらくこんなことはやらなかったに違いない、彼が陽明学に通じ、自らの中斉と号しながら、性来の僑激剛偏《きょうげきごうへん》を抑制することができず、ひとたび怒を発すれば利害を弁ぜず起ち、その奇僑なる性のゆえにこのことに及んでのである、そしてじつに、大塩中斉の存在価値もそこにあったのである、竹越与三郎《たけこしよさぶろう》氏はその『日本経済史』において、
「――かく民乱を生ずるに至ったる一事は、幕府が経済上より同一原因をもって倒れざるべからず運命を暗示したので、このことたるや陳勝呉広《ちんしょうごこう》にも比すべきものである」
という意味のことを云っている。かく仔細に案ずれば、彼もまた無くてはならぬ人物の一人であった。
底本:「抵抗小説集」実業之日本社
1979(昭和54)年2月10日 初版発行
1979(昭和54)年3月1日 二版発行
底本の親本:「青年太陽」
1937(昭和12)年1月号
初出:「青年太陽」
1937(昭和12)年1月号
※表題は底本では、「大塩平八郎《おおしおへいはちろう》」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)大塩平八郎《おおしおへいはちろう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)行|矢部駿河守《やべするがのかみ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#8字下げ]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
大塩平八郎《おおしおへいはちろう》は偉人伝中の人ではない、悪く云うと一種の奇人であろう。
王陽明《おうようめい》の人となりを敬慕してもっぱらその学を修め、大坂与力として活躍した期間には、町奉行|矢部駿河守《やべするがのかみ》という俊英な上官を得て、その才腕を充分に揮《ふる》った。彼が治獄の術に長じていたのはたしかで、なかにも文政十年に断行した天主教徒の検挙と、同じく十二年、奸吏が豪商等と結托して政治を紊《みだ》していた事実を摘発、その私した金三千両を市民に与えた果敢ぶりとは有名である。しかしそれは上官に矢部駿河守という名伯楽を得たからで、駿河守が勘定奉行として江戸へ去り、後任に跡部山城守《あとべやましろのかみ》という凡愚漢が来ってからは、その鋭鋒もとみに生色を喪ったのである。
平八郎が有用の材であって、巧みに活動せしむればおおいに治績を挙げ得るということを知っていたのも、もしその操縦を誤れば大事をもしでかすべき人物であると見透していたのも、じつに矢部駿河守その人であった。つまり平八郎は名馬であって名騎手ではなかった。従って駿河守が去ると間もなく、跡目を伜《せがれ》柄之助《とものすけ》に譲って隠居し、決心洞《せんしんどう》書院(学校)を興して諸生の教育に当ったが、原来教育などという地味な仕事が性に合うはずはなく、その講筵は常に時流を忿る彼の悲憤慷慨をもって終始し、ついに特記すべき業績なくして終ったのである。
平八郎はひとたび怒りを発すると、自らこれを抑えることのできない質であった。その良き現れが奸吏の涜職摘発となり、他の現れが天保事件となったのである。――矢部駿河守は大坂町奉行として在任中、控えの間でしばしば平八郎と会ったが、ある時、食事をともにしながら時局を論じたことがあった。
当時、幕府は財政窮乏の極に達していた。上は将軍家より旗本、諸大小名、諸富豪、庶民に至るまで、淫逸《いんいつ》驕奢《きょうしゃ》の流れは一世を風靡《ふうび》し、遊里、戯場の発達、軟文学の汎濫、富籤《とみくじ》の隆盛等、未曽有の活況を呈し――世はあげて刹那的に、投機的に、享楽的に趣いていた。かかる状態が国家の財政にどう影響するかは言うをまつまい。これを一家に考えてみても、主人主婦から子供、奴婢《どひ》に至るまでが、もしかような逸楽に耽っていて家政の成立つわけがないのである。はたして、憲政十一年から文化十三年に至る十八年間に、幕府は五十余万両に達する財用不足を生じた。
幕府は窮策して、諸侯たちはじめ一般庶民にまで献上金を要求し、大坂の富商たちに前後約百万両の御用金を命じた。これらが下層階級にどう響いてゆくかは分りきったことである。しかしなお足らず、文政元年新たに二分判金を鋳造し、二枚をもって小判一枚換えとしたが、元禄の改鋳以来、数次のことで、すでに世界最悪の貨幣となっていたものを、さらに粗悪に吹返したのだから、一般にこれを、
「――元文小判」
と云ってはなはだしくこれを嫌った。
悪貨の流通に従って物価の騰貴を招く、庶民の生活は日に日に窮乏してきた。しかも幕府はいささかも済民の策を計らず、政治は停頓し、秩序は紊《みだ》れ、一人としてこれを匡救《きょうきゅう》しようとする者がなかったのである。
矢部駿河守と会食したとき、平八郎はこの事実をあげて痛論した。彼はやや肥り肉で髪が濃く、大きなよく光る双眸をもっていたが、論旨が時弊の核心に触れると、
「かようなことでは国が亡び申すぞ」
と、食卓を叩きたて、満面に朱を注いで、怒髪衝冠《どはつしょうかん》という形相になった。駿河守はあまりに平八郎の忿激が烈しかったので、勉めてこれを慰撫するようにしていたが、彼はいつかな鎮まるようすもなく、――食卓上にあった金頭の焼魚を採ると、いきなりその頭から尾までぶりぶりと噛砕いてしまった。
平八郎は偉人ではなかったのだ、忿激の理由が国家を憂えてのことではあっても、こういう奇矯な表現はいわゆる大人物のすべきところではないのである。しかし同時にまた平八郎が偉人英雄でなく、一個|峻侠《しゅんきょう》の人物であったところに、その存在の価値と大いなる意義があったということはできよう。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
矢部駿河守は、勘定奉行として去るに臨み、後任の跡部山城守に向って、
「与力大塩平八郎は傑物である、彼を信任して良く用うれば、必ず治績があがるに相違ない、しかしもし奉行の威をもって御駕せんとすれば、必ず禍を将来するであろう」
と云った。
跡部山城は凡俗人であったから、
「駿河侯は器量人と聞いていたが、大任の継伝に当って一与力の操縦をことごとしく議するところを見ると、噂ほどの者ではない」
と空嘯《そらうそぶ》いていたという。こんな人間ゆえ平八郎の才幹を看《み》る明がなく、平八郎もその下に仕うることを潔しとしなかったので、跡目を保柄之助に譲って退隠した。
致仕した彼は、洗心洞を開校してもっぱら教育のことに当ったが、しかし眼は絶えず時勢の上に注がれていた。
この時、世相はいよいよ険悪を加えるばかりだった。天保三年以来、不作、凶作あい続き、そのうえ新鋳の悪貨が汎濫したので、諸物価――ことに米価の騰貴は驚くべきものがあり、江戸市中においてさえ餓死者道に横たわるというありさまであったから、地方の惨状は云うまでもない、窮民は集団的に土地を捨て、これに武士の牢人たちが加わって群盗となり、諸所に出没して富豪を襲撃したり良民を掠奪したりし始めた。
この状態は天保七、八年に至って極まり、すでに幕府、諸侯もこれを鎮圧する手段に困惑するありさまとなった。
かかる世態をなんで平八郎が黙視し得よう、彼は再三奉行所を叩いて善処すべきを進言した。しかし山城守はてんで耳を傾けようともしないのである。平八郎はついに怒って、
「そもそも奉行職はいかなるが本務であるか、国を治め民を安んずること能《あた》わずば、冠せる沐猴《もっこう》に過ぎぬではないか、――巷《ちまた》に斃死する餓死者を見られい、街《ちまた》にどよむ窮民の叫びを聞かれい、尊公もし今にしてなすところ無くんば、大事は大坂城下より発するであろう」
と怒号した。山城守もさすがにその語勢の猛なるに辟易して、
「そういうことなればただちに関東の指令を乞うて方策をたてよう」
と答えた。
「手温《てぬる》いことを!」
平八郎は膝を叩いて詰寄った、「ことは危急に迫っている、今日救いの手を下さなければ今日餓死する人間が群れているのに、関東へ伺いをたてるなどとは迂遠極まる話だ、よろしく尊公の裁量をもって救民の法を断行されたい」
「しかし、たんに奉行職として専断にことを行うわけには参らぬ」
「なぜいかんのか」
平八郎は膝を進めて、「おそらく尊公は専断の罪に問われるのを惧《おそ》れるのであろうが、身を殺して仁をなすということもある、ぜひとも断行していただきたい」
「なる程、身を殺して仁をなすとはある。しかしそれなら他人に進めるまえに、なにゆえそともとがそれを実践しないのか」
小人の云いそうな揚足取りである。これが平八郎をすっかり怒らせた。
「よろしゅうござる」
彼は面色を変じながら答えた、「身を殺せとあれば殺しましょう、しかしいちおうお断り申しておくが、平八郎が身を殺すとちと[#「ちと」に傍点]うるそうござりまするぞ」
云い捨てて起った。
そのとき、彼はすでに大事を決行すべき肚を決めていたのである。しかし、――彼はそれからも富豪たちを歴訪して、救民の業を計ったのである。かつて与力として辣腕をふるっていた時分には、唯々諾々《いいだくだく》と彼の意を迎えた連中も、洗心洞主としての彼には一顧も与えなかった。
「――もはや穏便の策及ばず」
彼の公憤は激発した。
平八郎は幼少より書物を愛し、生涯に買い求めた希書珍籍は棟に充ちていた、そして彼は何よりもその蔵書に愛着をもち、珍重していたのであるが、――それらを断然売却した。
伜の柄之助が訝って、
「御愛蔵の書籍をどう遊ばします」
「書籍のみではない、売れる物は家具什器ことごとく売却する所存だ、この危急存亡の期《とき》に当って万巻の書が何になる」
柄之助は父が例の癇癪を起しているのに気付いた。
「しかし、父上、当家を全部裸にしても、救うことのできる者はわずかな数ではございませぬか、窮民は天下に充満しております。さように短気を遊ばさずとも、万人を救う策を講ずるのが本当ではございませぬか」
「父はできるだけのことをしたのだ」
平八郎は黙念と云った、「しかし駄目だ、上には一人として、人間がいない、みんな眠れる豚だ。城中に千万の黄金を擁し、御蔵に万石の米を死蔵しながら、一指も救恤のために動かそうとせぬ、――大塩家の微財をもってどれほどの人が救えるか、そちの言に俟《ま》たずともよく知っている、しかし万民を救うことができないとしたら一隣人だけでも救わねばならぬ、そのうえで父にはさらに思案があるのだ」
柄之助は父の眉宇《びう》に閃く不穏の色を見てとったが、もはやなにも云わなかった。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
書籍その他を売って得た金は七百両あまりになった。
平八郎はその金の半分で米を買い、半分を一朱金に換えた。そして家の門を開いて積上げ、困窮の人たちを招いて分配したが、そのとき密かに一枚ずつ刷物を添えて、
「――天満橋、天神橋のあたりに火事が起ったら、志のある者はすぐ集って来るよう」
と伝えた。
かくて天保八年二月十九日、平八郎は旧僚友の与力、同心のうち、風をしたってはせ参じた潮田《うしおだ》、小泉《こいずみ》、渡辺《わたなべ》、荘司《しょうじ》、近藤《こんどう》、平山《ひらやま》らを中心に、摂津《せっつ》、河内《かわち》の農民合せて五百余をもって蹶起《けっき》したのである。
まず天満組屋敷へ火が放たれた。かねてこのことあらんと待受けていた窮民たちは、火の手を見るよりたちまち群集して来る、一味は鉄砲、火矢、棒、刀、竹槍を揮《ふる》って進撃。建国寺を焼いて猛然と奉行所へ肉薄した。
しかし奉行所においても、はやく内通する者があって防戦の準備はできていたから、とっさに天満、天神の三橋を撤して拒み、一党が難波橋へ廻るうちに急遽兵を催してこれに当った。かくて大塩方は二た手に別れ、城兵と大坂在番の諸侯とを合した軍を相手に、果敢な市街戦を展開したのである。
もちろん、戦いに利の無いのは分っている。悪闘苦戦の後、同志を次々に討たれ、挙に加わった衆もまた形勢の悪化を見て敗走するなど、月を越えて三月に入るや、ほとんど擾乱は屏息するに至ったのである。かくて同月二十七日、大塩父子は油掛町|五郎兵衛《ごろべえ》なる者の別宅に隠れているところを幕吏に襲われて、遁れざるを知り、自ら火を放って焚死し、ことにまったく天保の乱は鎮定したのである。
こうした事実だけからみると、平八郎の挙は失敗に終っているが、ここでいちおう、――彼の真意を考えてみたい。この事件に当って彼の採った戦法はまったく無謀であった、凡愚でない平八郎がどうしてこんな不態《ぶざま》な失敗を演じたかという点を理解しなければならぬ。
『東湖随筆《とうこずいひつ》』という書物に、彼の人となりをもっともよく識っている矢部駿河守の言葉が載っているが、それには彼の言行を評した後、
「大坂城の仔細は平八郎のもっとも精通するところである。もし彼にしてじつに叛逆の大望があったならば、何を措いても大坂城へ立籠るべきで、彼ならそれができたのである、しかるに城へはよらず、かえって不利になる戦法を採ったことは何故であるか……?」
と言葉を濁している。
この「何故不利な戦いをしたか!」というところに真相があるのだ。
思うに彼がことを起したのは、警世の木鐸《もくたく》を打鳴らすためだったのである、眠れる豚どもの耳へ冷水《れいすい》一|斛《こく》を注いだのである。始めから戦に勝つ意志も無かったし、自分が賊名の下に死ぬことも承知のうえだった、身を殺して正義のあるところを顕章すれば足りたのだ。
彼がもし偉大な人物であったら、おそらくこんなことはやらなかったに違いない、彼が陽明学に通じ、自らの中斉と号しながら、性来の僑激剛偏《きょうげきごうへん》を抑制することができず、ひとたび怒を発すれば利害を弁ぜず起ち、その奇僑なる性のゆえにこのことに及んでのである、そしてじつに、大塩中斉の存在価値もそこにあったのである、竹越与三郎《たけこしよさぶろう》氏はその『日本経済史』において、
「――かく民乱を生ずるに至ったる一事は、幕府が経済上より同一原因をもって倒れざるべからず運命を暗示したので、このことたるや陳勝呉広《ちんしょうごこう》にも比すべきものである」
という意味のことを云っている。かく仔細に案ずれば、彼もまた無くてはならぬ人物の一人であった。
底本:「抵抗小説集」実業之日本社
1979(昭和54)年2月10日 初版発行
1979(昭和54)年3月1日 二版発行
底本の親本:「青年太陽」
1937(昭和12)年1月号
初出:「青年太陽」
1937(昭和12)年1月号
※表題は底本では、「大塩平八郎《おおしおへいはちろう》」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ