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紅扱帯一番首
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紅扱帯一番首
山本周五郎
山本周五郎
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)幔幕《まんまく》
(例)幔幕《まんまく》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)臣|大曽根源八《おおそねげんぱち》
(例)臣|大曽根源八《おおそねげんぱち》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56]
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56]
[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
薄紫色の、眼の眩むような電光が闇をひき裂いた。すると、豪雨を透してすぐ間近に、五曜星の紋打った幔幕《まんまく》が、烈風に煽られて凄じくはためいているのが見えた。
「――幕営だ」
伊臣小平太《いおみこへいた》はそう気付いて、
「小次郎《こじろう》!」
と振返った。――その端へ、叩きつけるような雷鳴が起り、再び電光が走った。その閃光はちょうど、五六間あまり後で三人の敵兵に取囲まれた小次郎が、高腿を斬られてどうと横ざまに倒れる姿をうつしだした。
「あっ――」
咄嗟《とっさ》に小平太は槍を執直して駈戻ると、敵兵の一人を脇壺から突伏せ、一人の咽喉輪《のどわ》を刺通した。残る一人は手出しもならず、転げるように逃げだした、小平太は急いで弟小次郎を抱起して、
「小次郎、本営はそこだ、確りしろ」
と声を励まして云った。
「構わずに行ってください」
小次郎は苦痛を耐えながら叫んだ。
「高腿の番いをやられた、とても歩けない、私に構わず、早く……」
「弱い事を云うな、おまえにとっては初陣も同様の戦だ、せめて一番槍の名乗りだけはあげなければならぬ、さあ起て」
「駄目です、兄上だけ早く行ってください、でないと二人とも後れをとります」
身悶えをしながら、力任せに兄の体を突放したが、痛手にたまらず仰《あおのけ》さまに倒れた。小平太が驚いて援起そうとした――その時、敵兵を追詰めてきた味方の一隊が、喚声をあげながら敵将の幕営へ殺到していったと思うと、疾風豪雨のなかに高々と名乗りをあげる声が聞えてきた。
「甲斐守《かいのかみ》殿に見参申す、これは美作守伊達政宗《みまさかのかみだてまさむね》の家臣|大曽根源八《おおそねげんぱち》、見参、見参!」
「あ、兄上……あれは?」
小次郎が愕然と面を揚げた。
「源八めが遣《や》りおった」
小平太は事もなげに云った。
「大曽根なら必ず甲斐守を仕止めるだろう。さあ――肩にかかれ、どこかそこらで傷の手当をしよう」
「そんな場合ではない、早く行かなければ『一番槍小平太』の名を源八に取られてしまうではありませんか」
「たまには譲るさ。もう小平太の出る迄もなく、戦は勝に定まっている、さあ――」
神経を痺れさせるような雷鳴が、びしーっと頭上に襲いかかった。未明の空を八千にひき裂いて走る稲妻、――車軸を流すような雨のなかに、刃が閃めき、槍が飛び、叫びと、呻《うめ》きと、血しぶきと。悽惨に展開する白兵戦の渦から脱《のが》れて、――弟を背負った小平太は二三丁あまり西へ行った。
豪雨を集めた濁水が、岸をひたして流れている小川の畔へ来ると、向う岸に深い竹藪があって、その蔭のところに雨戸から燈火《あかり》のもれている民家があるのをみつけた。――この激戦を前に逃後れた人でもあるかと、小平太は近寄っていって、
「頼む――頼む」
と声をかけた。しかし豪雨と雷鳴に消されて聞えそうもない、小平太は槍の石突を返して雨戸の一枚をこじ放すと、弟を肩に揺上げて土間の内へ入った。その刹那、
「あれ、助けて!」
と女の叫ぶ声がして、だだ! と人の揉合う気配がする、見ると、――襖《ふすま》の明いている向うの座敷で、敵の雑兵と見える者が三人、今しも一人の娘を手籠《てごめ》にしようとするところだ。
「うぬ、痴者《しれもの》――」
小平太はそこへ弟を下すと、いきなり大剣を抜いて跳上り、
「この馬鹿者っ」
と叫びざま、踏込んでいっていきなり一人を袈裟がけに斬放した。不意を食って仰天した残りの二人が、手向う事も忘れて逃げだす、それを縁先まで追って、
「えい! とうっ」
一刀ずつ、脇と背へあびせかけた、二人はだらしのない悲鳴と共に雨戸を押倒してどうと庭へ転げ落ちた。小平太は戻ってくると、片隅に慄《ふる》えている娘の方へ、
「もう大丈夫だ」
と労《いた》わるように云った。
「我々は寄手の者だが、決して乱暴はせぬから安心するがよい」
「は、はい」
「それから、弟の傷の手当をしたいのだ、酒があったら少しと、汚れのない木綿が欲しい、あるだろうか」
「はい、お持ちいたします」
まだ慄えの止まらぬ様子で、娘は納戸の方へ立っていった。
「――幕営だ」
伊臣小平太《いおみこへいた》はそう気付いて、
「小次郎《こじろう》!」
と振返った。――その端へ、叩きつけるような雷鳴が起り、再び電光が走った。その閃光はちょうど、五六間あまり後で三人の敵兵に取囲まれた小次郎が、高腿を斬られてどうと横ざまに倒れる姿をうつしだした。
「あっ――」
咄嗟《とっさ》に小平太は槍を執直して駈戻ると、敵兵の一人を脇壺から突伏せ、一人の咽喉輪《のどわ》を刺通した。残る一人は手出しもならず、転げるように逃げだした、小平太は急いで弟小次郎を抱起して、
「小次郎、本営はそこだ、確りしろ」
と声を励まして云った。
「構わずに行ってください」
小次郎は苦痛を耐えながら叫んだ。
「高腿の番いをやられた、とても歩けない、私に構わず、早く……」
「弱い事を云うな、おまえにとっては初陣も同様の戦だ、せめて一番槍の名乗りだけはあげなければならぬ、さあ起て」
「駄目です、兄上だけ早く行ってください、でないと二人とも後れをとります」
身悶えをしながら、力任せに兄の体を突放したが、痛手にたまらず仰《あおのけ》さまに倒れた。小平太が驚いて援起そうとした――その時、敵兵を追詰めてきた味方の一隊が、喚声をあげながら敵将の幕営へ殺到していったと思うと、疾風豪雨のなかに高々と名乗りをあげる声が聞えてきた。
「甲斐守《かいのかみ》殿に見参申す、これは美作守伊達政宗《みまさかのかみだてまさむね》の家臣|大曽根源八《おおそねげんぱち》、見参、見参!」
「あ、兄上……あれは?」
小次郎が愕然と面を揚げた。
「源八めが遣《や》りおった」
小平太は事もなげに云った。
「大曽根なら必ず甲斐守を仕止めるだろう。さあ――肩にかかれ、どこかそこらで傷の手当をしよう」
「そんな場合ではない、早く行かなければ『一番槍小平太』の名を源八に取られてしまうではありませんか」
「たまには譲るさ。もう小平太の出る迄もなく、戦は勝に定まっている、さあ――」
神経を痺れさせるような雷鳴が、びしーっと頭上に襲いかかった。未明の空を八千にひき裂いて走る稲妻、――車軸を流すような雨のなかに、刃が閃めき、槍が飛び、叫びと、呻《うめ》きと、血しぶきと。悽惨に展開する白兵戦の渦から脱《のが》れて、――弟を背負った小平太は二三丁あまり西へ行った。
豪雨を集めた濁水が、岸をひたして流れている小川の畔へ来ると、向う岸に深い竹藪があって、その蔭のところに雨戸から燈火《あかり》のもれている民家があるのをみつけた。――この激戦を前に逃後れた人でもあるかと、小平太は近寄っていって、
「頼む――頼む」
と声をかけた。しかし豪雨と雷鳴に消されて聞えそうもない、小平太は槍の石突を返して雨戸の一枚をこじ放すと、弟を肩に揺上げて土間の内へ入った。その刹那、
「あれ、助けて!」
と女の叫ぶ声がして、だだ! と人の揉合う気配がする、見ると、――襖《ふすま》の明いている向うの座敷で、敵の雑兵と見える者が三人、今しも一人の娘を手籠《てごめ》にしようとするところだ。
「うぬ、痴者《しれもの》――」
小平太はそこへ弟を下すと、いきなり大剣を抜いて跳上り、
「この馬鹿者っ」
と叫びざま、踏込んでいっていきなり一人を袈裟がけに斬放した。不意を食って仰天した残りの二人が、手向う事も忘れて逃げだす、それを縁先まで追って、
「えい! とうっ」
一刀ずつ、脇と背へあびせかけた、二人はだらしのない悲鳴と共に雨戸を押倒してどうと庭へ転げ落ちた。小平太は戻ってくると、片隅に慄《ふる》えている娘の方へ、
「もう大丈夫だ」
と労《いた》わるように云った。
「我々は寄手の者だが、決して乱暴はせぬから安心するがよい」
「は、はい」
「それから、弟の傷の手当をしたいのだ、酒があったら少しと、汚れのない木綿が欲しい、あるだろうか」
「はい、お持ちいたします」
まだ慄えの止まらぬ様子で、娘は納戸の方へ立っていった。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
天明と共に雷雨は去った。
戦は伊達軍の大捷《たいしょう》に帰した。藻苅谷城の大手に仮本陣を設けた政宗は、馬寄せの貝の音を快く聞きながら、集ってくる諸将たちの祝辞を受けていた。
天正十二年、父|輝宗《てるむね》を畠山義継《はたけやまよしつぐ》の為に討たれた政宗は、弱冠十九歳を以て奮起し、まず仇敵畠山義継を二本松城に破り、それに続いて会津四郡を征服すると、更に馬首を回して仙道六郡の諸豪を下し、大崎城に拠る大崎右京太夫義治《おおさきうきょうだいうよしはる》を攻略すべく、精鋭すぐって北上したのである、――その大崎攻めの第一着手、藻刈谷の出城を未明の奇襲にひと堪りもなく押破り、城主|小名河甲斐守《おながわかいのかみ》を討取ったのだから、政宗の得意は勿論、一軍の士気もすばらしいものだった。
鎧下《よろいした》に寛いだ政宗は、ゆったりと床几《しょうぎ》にかけながら、
「一番槍は誰だ」
と機嫌の良い調子で訊いた。
「は、恐れながら大曽根源八仕りました」
「――なに源八?」
軍監の言葉を意外そうに、
「源八が小名河甲斐を討ったというか」
「御意にござります」
「ふーむ。小平太はどうした」
「それが、大手口へ斬込んだまま誰も姿を見なかったと申すことで……」
政宗は眉をひそめた。――伊臣小平太は二十五歳の若年ながら、政宗寵愛の一人、旗本に属して七百貫の禄を喰み、一方の部将としてどの戦場にも必ず一番槍の功名を挙げていた。「一番槍小平太」と云えば他国にまで聞えた伊達家自慢の勇士なのだ。
「誰か見て参れ」
政宗はそう命じて、軍監の功名呼上げを続けさせた。
一番槍の大曽根源八を始め、殊勲の士に恩賞の申渡しがあって、それがひとまず終った頃、――捜しにいった使番が、伊臣小平太を伴って帰った。
「めでたき勝戦、御祝着申上げまする」
小平太が兜《かぶと》を脇に置いて、平伏しながら祝辞を述べると、政宗は不機嫌に遮った。
「どうしたのだ小平太、その方こそ甲斐を仕止めるであろうと思っていたのに、一番槍どころか決戦の場に姿も見せなかったと申すではないか、今度に限って何とした事だ」
「申訳ござりませぬ――」
「何か仔細があろう、申してみい」
「実は、初陣の弟小次郎に一番駈けをさせたく、幕営間近まで共々斬込みましたところ、いま一歩のところにて小次郎が手を負い、既に危しと見ましたので……」
「助勢に引返したと云うか」
「は、如何にも見捨て難く」
「さりとは日頃のその方にも似合わぬ、大事の戦場を私事の為に怠るとは許し難いぞ、どうだ申開きあるか」
「恐入り奉りまする」
小平太は平伏して云った、
「合戦大事の場合なれば、例え父を討たれましょうとも心惹かれはいたしませぬが、――たかが藻苅谷の出城ひとつ、それも既に勝利と決しておりまするし、またひと足違いにて大曽根氏が一番槍の名乗りをあげましたので、もはや小平太の出る幕ならずと存じました」
「こいつ……小平太――」
勝戦と決ったし一番槍を他人にされたから、もう自分の出る幕ではない、――さすがに肚《はら》の大きい政宗も、この大胆な言葉には呆れた。
「よし」
政宗はにやりと笑って云った。
「たかが藻苅谷の出城ひとつ、一番槍を源八に取らせた代りに、この出城その方に預けるぞ」
「――何と、何と仰せられます」
「我等はこれより大崎城へ寄せるあいだ、その方に藻苅谷の留守を申付ける、予が凱陣するまで相違なく護っておれ、よいか」
「申上げます」
小平太は驚いて云った。
「御上意忝くは存じまするが、この儀はたってお赦しを願います、大崎城の一戦こそ私が年来の望み、――だいいち小平太、留守役には全く不馴れでござります」
「泣面をしても駄目だぞ、不馴れなら馴れるまでの事よ、起て!」
「そこを枉《ま》げて……」
「ならん!」
政宗は叱りつけるように云ったが、小平太のがっくり落胆する様を見ると、少し言葉を柔らげて、
「たかが藻苅谷などと云ったが、この出城ひとつ護り通すには骨が折れるぞ小平太、――その方の手勢二百と、介添に貝塚軍兵衛《かいづかぐんべえ》の百騎を残しておく、それで無事に留守ができれば手柄だ。それから……一日も早く小次郎の手傷を治しておくがよい」
最後のひと言はぐさと小平太の胸を刺した。小平太は眼に熱いものを感じながら平伏した。
戦は伊達軍の大捷《たいしょう》に帰した。藻苅谷城の大手に仮本陣を設けた政宗は、馬寄せの貝の音を快く聞きながら、集ってくる諸将たちの祝辞を受けていた。
天正十二年、父|輝宗《てるむね》を畠山義継《はたけやまよしつぐ》の為に討たれた政宗は、弱冠十九歳を以て奮起し、まず仇敵畠山義継を二本松城に破り、それに続いて会津四郡を征服すると、更に馬首を回して仙道六郡の諸豪を下し、大崎城に拠る大崎右京太夫義治《おおさきうきょうだいうよしはる》を攻略すべく、精鋭すぐって北上したのである、――その大崎攻めの第一着手、藻刈谷の出城を未明の奇襲にひと堪りもなく押破り、城主|小名河甲斐守《おながわかいのかみ》を討取ったのだから、政宗の得意は勿論、一軍の士気もすばらしいものだった。
鎧下《よろいした》に寛いだ政宗は、ゆったりと床几《しょうぎ》にかけながら、
「一番槍は誰だ」
と機嫌の良い調子で訊いた。
「は、恐れながら大曽根源八仕りました」
「――なに源八?」
軍監の言葉を意外そうに、
「源八が小名河甲斐を討ったというか」
「御意にござります」
「ふーむ。小平太はどうした」
「それが、大手口へ斬込んだまま誰も姿を見なかったと申すことで……」
政宗は眉をひそめた。――伊臣小平太は二十五歳の若年ながら、政宗寵愛の一人、旗本に属して七百貫の禄を喰み、一方の部将としてどの戦場にも必ず一番槍の功名を挙げていた。「一番槍小平太」と云えば他国にまで聞えた伊達家自慢の勇士なのだ。
「誰か見て参れ」
政宗はそう命じて、軍監の功名呼上げを続けさせた。
一番槍の大曽根源八を始め、殊勲の士に恩賞の申渡しがあって、それがひとまず終った頃、――捜しにいった使番が、伊臣小平太を伴って帰った。
「めでたき勝戦、御祝着申上げまする」
小平太が兜《かぶと》を脇に置いて、平伏しながら祝辞を述べると、政宗は不機嫌に遮った。
「どうしたのだ小平太、その方こそ甲斐を仕止めるであろうと思っていたのに、一番槍どころか決戦の場に姿も見せなかったと申すではないか、今度に限って何とした事だ」
「申訳ござりませぬ――」
「何か仔細があろう、申してみい」
「実は、初陣の弟小次郎に一番駈けをさせたく、幕営間近まで共々斬込みましたところ、いま一歩のところにて小次郎が手を負い、既に危しと見ましたので……」
「助勢に引返したと云うか」
「は、如何にも見捨て難く」
「さりとは日頃のその方にも似合わぬ、大事の戦場を私事の為に怠るとは許し難いぞ、どうだ申開きあるか」
「恐入り奉りまする」
小平太は平伏して云った、
「合戦大事の場合なれば、例え父を討たれましょうとも心惹かれはいたしませぬが、――たかが藻苅谷の出城ひとつ、それも既に勝利と決しておりまするし、またひと足違いにて大曽根氏が一番槍の名乗りをあげましたので、もはや小平太の出る幕ならずと存じました」
「こいつ……小平太――」
勝戦と決ったし一番槍を他人にされたから、もう自分の出る幕ではない、――さすがに肚《はら》の大きい政宗も、この大胆な言葉には呆れた。
「よし」
政宗はにやりと笑って云った。
「たかが藻苅谷の出城ひとつ、一番槍を源八に取らせた代りに、この出城その方に預けるぞ」
「――何と、何と仰せられます」
「我等はこれより大崎城へ寄せるあいだ、その方に藻苅谷の留守を申付ける、予が凱陣するまで相違なく護っておれ、よいか」
「申上げます」
小平太は驚いて云った。
「御上意忝くは存じまするが、この儀はたってお赦しを願います、大崎城の一戦こそ私が年来の望み、――だいいち小平太、留守役には全く不馴れでござります」
「泣面をしても駄目だぞ、不馴れなら馴れるまでの事よ、起て!」
「そこを枉《ま》げて……」
「ならん!」
政宗は叱りつけるように云ったが、小平太のがっくり落胆する様を見ると、少し言葉を柔らげて、
「たかが藻苅谷などと云ったが、この出城ひとつ護り通すには骨が折れるぞ小平太、――その方の手勢二百と、介添に貝塚軍兵衛《かいづかぐんべえ》の百騎を残しておく、それで無事に留守ができれば手柄だ。それから……一日も早く小次郎の手傷を治しておくがよい」
最後のひと言はぐさと小平太の胸を刺した。小平太は眼に熱いものを感じながら平伏した。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
[#ここから1字下げ]
――落花の雪に踏迷ふ
交野《かたの》の春の桜狩
紅葉の錦を衣《き》て帰る
嵐の山の秋の暮……
[#ここで字下げ終わり]
寂しげに平家朗味する声が、小川に添った櫟林のなかを近づいてくる。
藻苅谷の高原はすっかり秋になっていた。城館のある大仏台から白石川まで、なだらかな斜面をなす一望の草地には、萩や桔梗や尾花が咲乱れて、昼のうちから嫋々《じょうじょう》と虫の音がしている、――ふた月まえの惨澹たる戦闘を思うとまるで夢のような静かさだ。
櫟林のなかから、やがて一人の若い武士が現われた。左の脇へ撞木杖《しゅもくづえ》を突き、左足を不自由そうに引摺っている、顔色は蒼白く、落窪んだ眼は神経質に苛々《いらいら》と光っている、――これが六十余日まえに、先頭きって敵陣へ斬込んだ伊臣小次郎の痛ましい姿だ。
小川の畔を二三十歩も下った時、――向うから貧しい身なりをした農家の娘らしいのが来て、つつましく行過ぎようとしたが、ふと小次郎の顔を見ると、
「……あ、――」
と微かに驚きの声をあげた。小次郎の方でもどこかで見覚えのある顔なので、思わず足を停めると、娘は頬を染めながら、
「いつぞやは危いところをお助けくださいまして、有難う存じました」
と小腰を跼《かが》めた、
「おお、――」
小次郎はようやく思い出した。あの未明の決戦に傷ついて、兄の小平太に負われていった農家の中に、敵の雑兵の手籠に遭おうとしていた娘、――それを兄が助けてやると、朝まで甲斐甲斐しく傷の手当てをしてくれた娘である。
「いまどこに――?」
「はい、戦も落着いたとの噂ゆえ、二三日まえから家へ戻っております」
娘は臆病そうに小次郎の足を見て、
「お怪我は如何でございますか」
「あの時は雑作をかけました、もう痛みは取れたが、……どうやら元通りにはならぬらしく、まだかように杖をついている始末です」
「まあ、――それは、さぞ……」
初々しい娘の顔に、心から痛ましげな色が動いた。そして小次郎の胸は、それを見た刹那から、自分にも不思議なほど妖しい動揺を始めたもである。
「――あのう、……」
と娘が眩しそうに見上げた。
「まだずっとお城においで遊ばしますの」
「大崎攻めが思いのほかの難戦で、どうやら兵糧攻めにかかった様子ですから、まだ当分はここにおることでしょう」
「それでは御退屈の折にはお運びくださいませ、不手際ながら粗茶の御接待なといたしまする」
「はあ、そのうちにぜひ」
「申後れましたが、わたくし小菊《こぎく》と申します、父は亡くなりましたけれど深田常右衛門《ふかだつねえもん》と申して代々長田郡の郷士でどざいました、――秘蔵の刀などもございますゆえ、お運びの折にはお眼汚しに――」
農家の育ちにしては執成し態度に奥床しさがあると思ったら、果して郷士の娘であった。小次郎はひとしおもの懐しく、
「拙者は伊臣小次郎と申します、お言葉に甘えてぜひお邪魔にあがります」
「どうぞ、お待ち申しております」
娘に別れた小次郎は、足さえ不自由でなかったら跳りだしたいような気持で、眼も活々と城へ帰ってきた。――小馬場で軍兵の槍調練をしていた兄の小平太は、弟の戻ってきた姿をみつけると、
「おーい」
と手を挙げて呼びかけながら走ってきた。
「どこまで行ったのだ、帰りが遅いので見にいこうとしていたところだぞ」
「二岐の櫟林まで行きました」
「そんな遠歩きをして無理ではないか、また痛みがぶり返したらどうする」
「なにもう平気です。あのへんは秋草のまっ盛りで、草地では降るように虫が鳴いているし、澄透るような小川の水に千切れ雲の浮いているのを見ていると、まるで……」
「おいおい」
小平太は慌てて遮りながら、
「ちっと顔を見せろ」
と弟の顎へ指をかけた。
「どうしたんだ、出かける時まで石仏のようにむっつりしていた奴が、急に雀のようなお饒舌《しゃべ》りになったじゃないか。――顔色まで見違えるほどよいぞ、何か訳があるな?」
小次郎はぎくりとした。そして、帰ったらすぐ話そうと思っていた娘の事が、そう云われると妙に切出しにくくなって、
「多分、――秋景色に酔ったのでしょう」
と苦笑に紛らしてしまった。
――落花の雪に踏迷ふ
交野《かたの》の春の桜狩
紅葉の錦を衣《き》て帰る
嵐の山の秋の暮……
[#ここで字下げ終わり]
寂しげに平家朗味する声が、小川に添った櫟林のなかを近づいてくる。
藻苅谷の高原はすっかり秋になっていた。城館のある大仏台から白石川まで、なだらかな斜面をなす一望の草地には、萩や桔梗や尾花が咲乱れて、昼のうちから嫋々《じょうじょう》と虫の音がしている、――ふた月まえの惨澹たる戦闘を思うとまるで夢のような静かさだ。
櫟林のなかから、やがて一人の若い武士が現われた。左の脇へ撞木杖《しゅもくづえ》を突き、左足を不自由そうに引摺っている、顔色は蒼白く、落窪んだ眼は神経質に苛々《いらいら》と光っている、――これが六十余日まえに、先頭きって敵陣へ斬込んだ伊臣小次郎の痛ましい姿だ。
小川の畔を二三十歩も下った時、――向うから貧しい身なりをした農家の娘らしいのが来て、つつましく行過ぎようとしたが、ふと小次郎の顔を見ると、
「……あ、――」
と微かに驚きの声をあげた。小次郎の方でもどこかで見覚えのある顔なので、思わず足を停めると、娘は頬を染めながら、
「いつぞやは危いところをお助けくださいまして、有難う存じました」
と小腰を跼《かが》めた、
「おお、――」
小次郎はようやく思い出した。あの未明の決戦に傷ついて、兄の小平太に負われていった農家の中に、敵の雑兵の手籠に遭おうとしていた娘、――それを兄が助けてやると、朝まで甲斐甲斐しく傷の手当てをしてくれた娘である。
「いまどこに――?」
「はい、戦も落着いたとの噂ゆえ、二三日まえから家へ戻っております」
娘は臆病そうに小次郎の足を見て、
「お怪我は如何でございますか」
「あの時は雑作をかけました、もう痛みは取れたが、……どうやら元通りにはならぬらしく、まだかように杖をついている始末です」
「まあ、――それは、さぞ……」
初々しい娘の顔に、心から痛ましげな色が動いた。そして小次郎の胸は、それを見た刹那から、自分にも不思議なほど妖しい動揺を始めたもである。
「――あのう、……」
と娘が眩しそうに見上げた。
「まだずっとお城においで遊ばしますの」
「大崎攻めが思いのほかの難戦で、どうやら兵糧攻めにかかった様子ですから、まだ当分はここにおることでしょう」
「それでは御退屈の折にはお運びくださいませ、不手際ながら粗茶の御接待なといたしまする」
「はあ、そのうちにぜひ」
「申後れましたが、わたくし小菊《こぎく》と申します、父は亡くなりましたけれど深田常右衛門《ふかだつねえもん》と申して代々長田郡の郷士でどざいました、――秘蔵の刀などもございますゆえ、お運びの折にはお眼汚しに――」
農家の育ちにしては執成し態度に奥床しさがあると思ったら、果して郷士の娘であった。小次郎はひとしおもの懐しく、
「拙者は伊臣小次郎と申します、お言葉に甘えてぜひお邪魔にあがります」
「どうぞ、お待ち申しております」
娘に別れた小次郎は、足さえ不自由でなかったら跳りだしたいような気持で、眼も活々と城へ帰ってきた。――小馬場で軍兵の槍調練をしていた兄の小平太は、弟の戻ってきた姿をみつけると、
「おーい」
と手を挙げて呼びかけながら走ってきた。
「どこまで行ったのだ、帰りが遅いので見にいこうとしていたところだぞ」
「二岐の櫟林まで行きました」
「そんな遠歩きをして無理ではないか、また痛みがぶり返したらどうする」
「なにもう平気です。あのへんは秋草のまっ盛りで、草地では降るように虫が鳴いているし、澄透るような小川の水に千切れ雲の浮いているのを見ていると、まるで……」
「おいおい」
小平太は慌てて遮りながら、
「ちっと顔を見せろ」
と弟の顎へ指をかけた。
「どうしたんだ、出かける時まで石仏のようにむっつりしていた奴が、急に雀のようなお饒舌《しゃべ》りになったじゃないか。――顔色まで見違えるほどよいぞ、何か訳があるな?」
小次郎はぎくりとした。そして、帰ったらすぐ話そうと思っていた娘の事が、そう云われると妙に切出しにくくなって、
「多分、――秋景色に酔ったのでしょう」
と苦笑に紛らしてしまった。
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
「秋景色に酔うとはまた……」
小平太がなおも云いかけようとした時、大股に貝塚軍兵衛が近づいてきて、
「伊臣氏、専断が過ぎるぞ」
と得意のどら声で詰《なじ》るように云った。
「どうした、何を怒っている」
「拙者の組下|矢内甚平《やうちじんべい》を監禁にしたそうではないか」
「あああれか」
小平太は苦笑して、
「あれなら貴公は知らぬ顔でいてくれ、あの男は性のよくない悪さをするのだ。二度まで注意をしたのに肯《き》かぬから監禁を命じた」
「いったいどのような罪を犯したのか」
「まあ拙者に任せておいてくれ」
腕が立つ上に乱暴で一国者の軍兵衛だ、訳を知ったら殴殺しもしかねよう、――そう思ったから小平太は知らせずに済まそうとした。しかし軍兵衛は意外な態度に出た、
「云わぬものなら訊かぬが、訳は大方知っている。たかが百姓女に悪戯《いたずら》をしたくらいの事で、監禁とはちと大仰ではないか」
「それは違うぞ」
「いや違わん」
軍兵衛は押切って云った。
「我等はじめいつ死ぬか明日の命を知らぬ戦場のことだ、女をからかうぐらいの事は大眼に見てやるのが当然、そんなことを一々咎めていては兵たちの士気にも関する……」
「待て、それは違うぞ」
小平太は強く遮って、
「一死を期した戦場なればこそ、軍規は最も厳にしなければなるまい、たかが百姓女の一人や二人と芸うが、その一人が大事ではないのか、戦に勝っても民の心を収むる事ができなければ治国平天下は望まれぬ、今は何より領民に安堵を与えなければならぬ時だ」
「それは理窟だ、殺伐になっている兵たちを理窟で縛る訳にはいかぬ」
「理窟で縛ろうとは云わぬ、雑兵といえども武士なら武道の面目は知っている筈だ、たとえ戦場だからとて地獄だからとて、武道を汚してよいと云う法はあるまい、――あの矢内甚平も二度まで注意を与えたのに、性のよくない悪さを止めぬから監禁したので、本来なれば詰腹を切らせるべき奴なのだ」
「しかし彼は拙者の組下だ、罰してよいなら貝塚軍兵衛が罰する、貴公一人の専断で」
「専断とは云わさぬ」
小平太は頭を振って云った。
「殿の御上意で藻苅谷城を預った以上、賞罰は伊臣小平太の行うが当然、貴公に知らさなかったのはむしろ遠慮をしたつもりだ」
「そうか、なるほど貴公は正城代、――拙者はただの介添に過ぎぬからのう。失礼した」
貝塚軍兵衛は癇癪筋をぴくぴくさせて云うと、足踏みならして立去った。――この様子をはらはらしながら見ていた小次郎は、
「あんなに怒らせてよいのですか」
と気遣わしげに訊いた。
「なに、軍兵衛とて理非を知らぬ男ではない、今日は虫の居所でも悪かったのだろう、――まあいずれにしてもおまえが心配する事はない、さあ行って休むがよい」
小平太は小馬場の方へ戻っていった。
小次郎は妙な胸苦しさを感じながら小屋へ戻った。矢内甚平らが、付近の村へ出かけては、しばしば女たちに悪さをするという事は聞いていた、戦場にはとかく有り勝ちのことで、苦々しくはあるが――組頭の軍兵衛にも計らず厳科を行った兄の態度を思うと、小次郎にはすぐ自分の事が考えられたのである。
「小菊どのを訪ねる事も控えなければなるまい」
そう呟くと共に、優しい同情に顫える娘の眸子《ひとみ》に触れて、初めて知った二十歳の悦びが、どんなに抗《あらが》い難い力をもっているかと云うことを、小次郎は知った。
しかしその心配は、かえって意外な方から割れてきたのである、……三日ほどたったある日、野廻りから戻った兄が、
「おい小次郎」
と、にこにこしながらやってきて、
「おまえ猜《ずる》いぞ」
「何ですか猜いとは――?」
「二三日まえ秋景色に酔ったなどと云って、ばかに元気の良い顔をしていたが、あれにはやはり曰《いわく》があったのじゃないか」
「どうしてそんな事を」
小次郎は思わず赧くなった。
「隠すな隠すな、野廻りの途中あの娘に会ってすっかり聞いてきたのだ」
小平太は弟の肩を叩いて、
「それからたって勧められるので、家へ寄って母親というのにも会い、茶を馳走になりながら半刻ほども話込んでしまった、素性を聞くとこの近在きって古い家柄の郷士と云うことだし、母娘とも実によい人柄で……」
「兄上、――」
小次郎が皮肉に遮って云った、「どうやら兄上も雀の仲間入りですね」
「や、こいつ見事に仇を討ったな」
肩を揺って明るく笑う兄の様子を見て、小次郎の胸には不意に鋭い痛みがつき上げてきた、――苦い嫉妬の味を小次郎は初めて知ったのである。
小平太がなおも云いかけようとした時、大股に貝塚軍兵衛が近づいてきて、
「伊臣氏、専断が過ぎるぞ」
と得意のどら声で詰《なじ》るように云った。
「どうした、何を怒っている」
「拙者の組下|矢内甚平《やうちじんべい》を監禁にしたそうではないか」
「あああれか」
小平太は苦笑して、
「あれなら貴公は知らぬ顔でいてくれ、あの男は性のよくない悪さをするのだ。二度まで注意をしたのに肯《き》かぬから監禁を命じた」
「いったいどのような罪を犯したのか」
「まあ拙者に任せておいてくれ」
腕が立つ上に乱暴で一国者の軍兵衛だ、訳を知ったら殴殺しもしかねよう、――そう思ったから小平太は知らせずに済まそうとした。しかし軍兵衛は意外な態度に出た、
「云わぬものなら訊かぬが、訳は大方知っている。たかが百姓女に悪戯《いたずら》をしたくらいの事で、監禁とはちと大仰ではないか」
「それは違うぞ」
「いや違わん」
軍兵衛は押切って云った。
「我等はじめいつ死ぬか明日の命を知らぬ戦場のことだ、女をからかうぐらいの事は大眼に見てやるのが当然、そんなことを一々咎めていては兵たちの士気にも関する……」
「待て、それは違うぞ」
小平太は強く遮って、
「一死を期した戦場なればこそ、軍規は最も厳にしなければなるまい、たかが百姓女の一人や二人と芸うが、その一人が大事ではないのか、戦に勝っても民の心を収むる事ができなければ治国平天下は望まれぬ、今は何より領民に安堵を与えなければならぬ時だ」
「それは理窟だ、殺伐になっている兵たちを理窟で縛る訳にはいかぬ」
「理窟で縛ろうとは云わぬ、雑兵といえども武士なら武道の面目は知っている筈だ、たとえ戦場だからとて地獄だからとて、武道を汚してよいと云う法はあるまい、――あの矢内甚平も二度まで注意を与えたのに、性のよくない悪さを止めぬから監禁したので、本来なれば詰腹を切らせるべき奴なのだ」
「しかし彼は拙者の組下だ、罰してよいなら貝塚軍兵衛が罰する、貴公一人の専断で」
「専断とは云わさぬ」
小平太は頭を振って云った。
「殿の御上意で藻苅谷城を預った以上、賞罰は伊臣小平太の行うが当然、貴公に知らさなかったのはむしろ遠慮をしたつもりだ」
「そうか、なるほど貴公は正城代、――拙者はただの介添に過ぎぬからのう。失礼した」
貝塚軍兵衛は癇癪筋をぴくぴくさせて云うと、足踏みならして立去った。――この様子をはらはらしながら見ていた小次郎は、
「あんなに怒らせてよいのですか」
と気遣わしげに訊いた。
「なに、軍兵衛とて理非を知らぬ男ではない、今日は虫の居所でも悪かったのだろう、――まあいずれにしてもおまえが心配する事はない、さあ行って休むがよい」
小平太は小馬場の方へ戻っていった。
小次郎は妙な胸苦しさを感じながら小屋へ戻った。矢内甚平らが、付近の村へ出かけては、しばしば女たちに悪さをするという事は聞いていた、戦場にはとかく有り勝ちのことで、苦々しくはあるが――組頭の軍兵衛にも計らず厳科を行った兄の態度を思うと、小次郎にはすぐ自分の事が考えられたのである。
「小菊どのを訪ねる事も控えなければなるまい」
そう呟くと共に、優しい同情に顫える娘の眸子《ひとみ》に触れて、初めて知った二十歳の悦びが、どんなに抗《あらが》い難い力をもっているかと云うことを、小次郎は知った。
しかしその心配は、かえって意外な方から割れてきたのである、……三日ほどたったある日、野廻りから戻った兄が、
「おい小次郎」
と、にこにこしながらやってきて、
「おまえ猜《ずる》いぞ」
「何ですか猜いとは――?」
「二三日まえ秋景色に酔ったなどと云って、ばかに元気の良い顔をしていたが、あれにはやはり曰《いわく》があったのじゃないか」
「どうしてそんな事を」
小次郎は思わず赧くなった。
「隠すな隠すな、野廻りの途中あの娘に会ってすっかり聞いてきたのだ」
小平太は弟の肩を叩いて、
「それからたって勧められるので、家へ寄って母親というのにも会い、茶を馳走になりながら半刻ほども話込んでしまった、素性を聞くとこの近在きって古い家柄の郷士と云うことだし、母娘とも実によい人柄で……」
「兄上、――」
小次郎が皮肉に遮って云った、「どうやら兄上も雀の仲間入りですね」
「や、こいつ見事に仇を討ったな」
肩を揺って明るく笑う兄の様子を見て、小次郎の胸には不意に鋭い痛みがつき上げてきた、――苦い嫉妬の味を小次郎は初めて知ったのである。
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
「小次郎さま――」
思いがけぬ声だった。道から隠れた櫟林のなかで、じっと小川の流れを見ていた小次郎、――振返ると小菊が草を踏分けてくる。
「おお、――」
どきんと高鳴る胸、我にもなく頬が熱くなって、不自由な足を杖に助けられながら立上った。娘は眼にいっぱいのうるみ[#「うるみ」に傍点]を見せながら近寄ってくると、
「どうしてお見えになりませんの、あれから毎日お待ちしていましたのに」
「はあ、少し具合が悪かったもので……」
「お傷がお痛みになりまして?」
「ええ、どうも少し」
痛むのは足の傷でなく、この胸なのだ、
――と小次郎は独り心に呟いてみた。
「先日兄がお邪魔したそうですね」
「はい、無理においでを願いましたけれど、何のお雑作もなくてかえって御迷惑でしたろうと存じます」
「いや兄は悦んでいました」
「昨日はぜひお二人でと申上げておきましたのに、貴方様がお見えなさらないので、母も残念がっておりました」
「――昨日?」
小次郎はぎくりとして、「兄は、――昨日もお伺いしたのですか」
「御存じありませんの――?」
小菊は疑うように、妖しく光る眼で小次郎を見つめながら云った、
「知りません、何か用でもあったのですか」
「ええ、わたくしに縁談を……」
云いかけては、羞《はじらい》に耐えぬ如く、袖を弄びながらくるりと外向いた。
足下の土が崩落ちるような驚きと絶望であった、小次郎は杖に縋《すが》って辛くも踏みこたえながら、強いて心を落着けようとした、――その時である、林の外の道を馬上の武士が二人、こちらへ驀地《まっしぐら》に駆ってきたが、
「どこまで行くのだ」
と後の方が声をかけた、――伊臣小平太である。先駆している貝塚軍兵衛は、
「もうすぐそこだよ」
と云って林の中へ乗入れると、馬から下りて振返った。小平太もそれに続いて、
「いったい何を見せると云うのだ」
「なに別に大した事ではない」
軍兵衛はにやりとして云った。
「いま通りがかりに見たから、一応貴公の眼に入れておこうと思ったのだ、――覚られてはいかんから静かに来てくれ」
様子あり気だ。所用で長田郷まで行こうとしているところへ、馬を飛ばしてやってきた軍兵衛が訳も云わずにここまで引張ってきたのである、いったい何を見せようと云うか――、
「それ見ろ、あすとだ」
櫟林を小川の畔へ出ようとする処で、軍兵衛が足を停めて指差した。見ると――弟小次郎が郷士の娘小菊と二人、近々と身を寄せて話合っている姿……。
「城中の武士が、村方の娘とこんな場所で逢曳をしている、伊臣氏、――これはやはり監禁ものだと思うが、どうだ」
「ふふふ、ふふふふふ」
小平太は急に笑いだした。
「何を笑う」
軍兵衛はきっと睨《ね》めつけて、「それとも貴公、城代の弟なら不義をしても構わぬと云うか、もしそうなら拙者にも覚悟がある」
「まあ待たれい」
小平太は笑いを納めて、
「これは貴公の思違いだ」
そう云うと、大股に近寄っていって、やあと声をかけながら、いきなり小菊の肩を抱寄せた。
「あ、――兄上」
と驚く小次郎、不意のことで娘も狼狽《ろうばい》しながら身を※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56]《のが》れようとしたが、小平太は逞しい腕にがっちりと抱締めたまま、
「貝塚氏、御覧の通りだ、これは長田村の郷士深田家の息女で小菊どのと云う、実は昨日正式に縁談を申入れて親御より承諾を得た、――伊臣家の新嫁でござるよ」
「なに、この陣中で縁組とな」
「昨夜のうち大崎攻めの殿へ御裁可願いの使者も立ててある。不義でない事これでよくお分りでござろう」
悠然と笑いながら小平太が云いおわると、貝塚軍兵衛は頬を真赧にふくらませ、腹立ちまぎれにを踏みしだきながら、足音も荒々しく立去った。と――その後から小次郎も去ろうとする。
「ああ待て、話がある」
小平太は慌てて呼止めた。
思いがけぬ声だった。道から隠れた櫟林のなかで、じっと小川の流れを見ていた小次郎、――振返ると小菊が草を踏分けてくる。
「おお、――」
どきんと高鳴る胸、我にもなく頬が熱くなって、不自由な足を杖に助けられながら立上った。娘は眼にいっぱいのうるみ[#「うるみ」に傍点]を見せながら近寄ってくると、
「どうしてお見えになりませんの、あれから毎日お待ちしていましたのに」
「はあ、少し具合が悪かったもので……」
「お傷がお痛みになりまして?」
「ええ、どうも少し」
痛むのは足の傷でなく、この胸なのだ、
――と小次郎は独り心に呟いてみた。
「先日兄がお邪魔したそうですね」
「はい、無理においでを願いましたけれど、何のお雑作もなくてかえって御迷惑でしたろうと存じます」
「いや兄は悦んでいました」
「昨日はぜひお二人でと申上げておきましたのに、貴方様がお見えなさらないので、母も残念がっておりました」
「――昨日?」
小次郎はぎくりとして、「兄は、――昨日もお伺いしたのですか」
「御存じありませんの――?」
小菊は疑うように、妖しく光る眼で小次郎を見つめながら云った、
「知りません、何か用でもあったのですか」
「ええ、わたくしに縁談を……」
云いかけては、羞《はじらい》に耐えぬ如く、袖を弄びながらくるりと外向いた。
足下の土が崩落ちるような驚きと絶望であった、小次郎は杖に縋《すが》って辛くも踏みこたえながら、強いて心を落着けようとした、――その時である、林の外の道を馬上の武士が二人、こちらへ驀地《まっしぐら》に駆ってきたが、
「どこまで行くのだ」
と後の方が声をかけた、――伊臣小平太である。先駆している貝塚軍兵衛は、
「もうすぐそこだよ」
と云って林の中へ乗入れると、馬から下りて振返った。小平太もそれに続いて、
「いったい何を見せると云うのだ」
「なに別に大した事ではない」
軍兵衛はにやりとして云った。
「いま通りがかりに見たから、一応貴公の眼に入れておこうと思ったのだ、――覚られてはいかんから静かに来てくれ」
様子あり気だ。所用で長田郷まで行こうとしているところへ、馬を飛ばしてやってきた軍兵衛が訳も云わずにここまで引張ってきたのである、いったい何を見せようと云うか――、
「それ見ろ、あすとだ」
櫟林を小川の畔へ出ようとする処で、軍兵衛が足を停めて指差した。見ると――弟小次郎が郷士の娘小菊と二人、近々と身を寄せて話合っている姿……。
「城中の武士が、村方の娘とこんな場所で逢曳をしている、伊臣氏、――これはやはり監禁ものだと思うが、どうだ」
「ふふふ、ふふふふふ」
小平太は急に笑いだした。
「何を笑う」
軍兵衛はきっと睨《ね》めつけて、「それとも貴公、城代の弟なら不義をしても構わぬと云うか、もしそうなら拙者にも覚悟がある」
「まあ待たれい」
小平太は笑いを納めて、
「これは貴公の思違いだ」
そう云うと、大股に近寄っていって、やあと声をかけながら、いきなり小菊の肩を抱寄せた。
「あ、――兄上」
と驚く小次郎、不意のことで娘も狼狽《ろうばい》しながら身を※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56]《のが》れようとしたが、小平太は逞しい腕にがっちりと抱締めたまま、
「貝塚氏、御覧の通りだ、これは長田村の郷士深田家の息女で小菊どのと云う、実は昨日正式に縁談を申入れて親御より承諾を得た、――伊臣家の新嫁でござるよ」
「なに、この陣中で縁組とな」
「昨夜のうち大崎攻めの殿へ御裁可願いの使者も立ててある。不義でない事これでよくお分りでござろう」
悠然と笑いながら小平太が云いおわると、貝塚軍兵衛は頬を真赧にふくらませ、腹立ちまぎれにを踏みしだきながら、足音も荒々しく立去った。と――その後から小次郎も去ろうとする。
「ああ待て、話がある」
小平太は慌てて呼止めた。
[#8字下げ]六[#「六」は中見出し]
しかし小次郎は見向きもせず、杖に身を支えながら足早に去ってゆく、小平太は二三歩追って、
「小次郎、待てと云うに、これには仔細があるのだ、兄は――」
「退《ど》いてください」
小次郎は血の気の失せた顔を振向け、凄まじいばかりに憎しみの籠った眼で兄を睨みつけると、皮肉な冷笑を唇に浮べながら云った。
「話はいま小菊どのから聞いたところです。おめでとう――兄上」
「何を云う、それは違うのだ」
「退いてください」
小次郎は鋭く叫んで歩き出した。
「待てと云うのに、おまえは早合点をしているのだ、小菊どのにどう聴いたか知らぬが、兄はおまえの身上を……」
だが、小次郎は耳もかさずに、不自由な足を引摺りながら去ってゆく、小平太は追いながら弟の袖を掴んで、
「小次郎、訳を聞かぬか」
「放してください」
小次郎は殺気のある眼で見返った。
「でないと……何をするか分りませんぞ」
「おまえ、小次郎――」
何をも仕かねまじい気色に、茫然と手を放す小平太。小次郎は息を喘がせながら、跳ぶようにして、林の彼方へ去っていった。
小平太は軍兵衛と弟の面前で、何故あんな思い切った所作をしたか、それには云うまでもなく理由があるのだ。小平太はその理由を話そうとした、しかし物事が縺《もつ》れかかると云う時は仕方のないものである。小次郎は兄の説明を聞こうともせずに去っていった。
「おれは片輪者だ、跛《びっこ》だ」
小次郎は独り慟哭した。
「こんな体で、美しい人を想うなどと云うことが既に間違いのもとなのだ、――兄は伊達家屈指の勇者だし、端麗な男振りだし、それに藻苅谷の城代も勤めている。小菊どのには似合いの人物だ、しかし……しかし、片輪者のおれの面前で、あんな見せつけがましい振舞をする事があろうか、おれが、小菊どのにどんな感じを持っているか――兄弟ならば少しは察しもついていように、あまりだ」
思詰めてゆくと、あの決戦の夜、なまじ命を助けられた事が怨めしい、あのとき討死をしていたら、生きてこんな苦しみを忍ばずともよいものを。
「武士として戦場に働くこともできなくなった癈《すた》れ者、生きて恥を晒すより、ひと思いに死んだ方が――」
小次郎は草の上に身を投出しながら、刻のたつのも忘れて呻吟を続けた。
ちょうど同じ頃である、――藻刈谷城は突如として捲起った事件に大混乱をきたしていた。それは北方三里あまりの峡間にある黒谷の出丸が、前夜半、不意に敵の逆襲を受けて、守備頭渡辺総造《わたなべそうぞう》は戦死、兵三百ほとんど全滅して、出丸は完全に占領されたと云う報知《しらせ》がきたのである。――生残った兵が七騎、命からがらその報告に帰ったのであるが、逆襲してきた敵が何者の軍勢で、兵数がどれほどなのか、また藻苅谷への軍配はどうなっているかまるで見当がつかない、――気の早い者は、
「今にもこの城へ押寄せてくるぞ」
「木戸を閉せ」
「兵を集めろ、馬を、武器を」
とどよめき立った。
伊臣小平太はその報知を聞いた時、――たかが藻苅谷の城ひとつと云うが、この出城ひとつ無事に護り通すのは難事だぞ、と云った政宗の言葉を思出した。
「――迂濶《うかつ》に動くと罠に墜ちるぞ」
そう思ったから、ただちに四方へ物見の兵を出しておいて、貝塚軍兵衛はじめ組頭たちを呼寄せ、厳重に城兵の鎮撫を命じた。
物見の兵からは半刻毎に報告がきた。それに依ると藻苅谷へ攻寄せる様子はなくて、新たに塁を築いたり壕を穿ったり柵を厳にしたり、しきりに黒谷の防備を急いでいるとの事だった。これを聞いた貝塚軍兵衛は膝を打って、
「敵は小勢に極った」
と云って乗出した。
「城代、逆寄せをすべきだ、彼等はいずれ藻苅谷の落武者共に相違ない、防備の成らぬ内に総攻めをかけて、ひと揉みに揉潰してしまうがよい、すぐに出陣を命じよう」
「まあ待て」
小平太は静かに制して云った。
「敵の本体も知らずに乗出して、万一の事があってはならぬ、彼等とてこの藻苅谷に兵のいる事は知っていよう、また往復|三日路《みっかみち》足らずの場所に伊達軍の本勢のある事も承知の筈だ。もし小勢なら、黒谷を破った勢に乗じて藻苅谷へ押寄すべきが当然、それをせずに防備を急ぐと見せるのは、我等が押出すのを待って野詰にする計略《はかりごと》に相違ない。とにかく本勢へ援軍の急使を差立てて、もう少し黒谷の様子を見る事にしよう」
「迂遠だ、手ぬるい!」
軍兵衛は頭を振って喚いた。
「第一本勢へ援軍を乞うなどと云うのが不面目極まる、藻刈谷を預けられた以上は、我等の手で事を処理するが当然、敵わずば同勢五百余騎枕を並べて討死すれば足りる」
「今は我等の面目、不面目を論ずべき期ではない、この出城は大崎攻めの咽喉元《のどもと》とも云うべき要害で、万一にも敵に奪取されたら大崎攻めの策戦も根本から覆えされてしまう、――不面目なら死ぬべき場所に不足はない、今はただこの出城を万全にするのが何より大切な事なのだ」
小次郎が城へ帰ってきたのは、ちょうどこの激論の最中であった。軍兵衛はあくまで逆寄せを主張するし、小平太は断乎として許さぬ、両者とも一刻にわたって論争したが、結局小平太は城代の権威を以て軍兵衛の説を拒《しりぞ》けてしまった。
軍兵衛が席を蹴って退出するのを、じっと見ていた小次郎、――兄の小平太がはじめてそれに気付いて、
「おお小次郎帰っていたのか」
と声をかけた。
「午《ひる》過ぎから姿が見えぬので案じていた、思い懸けぬ事が起って見る通りの騒ぎだ、おまえも行って若い者たちを鎮めてくれ」
「――厭です」
小次郎は冷やかに云った。
「兄上は御城代、片輪者の私などが出る幕ではないと思います」
「?――小次郎!」
驚いて見上げる兄の眼を、鋭く睨み返しながら小次郎は柱に縋って立った。――大庭の方で兵たちの騒動する声が聞えていた。
「小次郎、待てと云うに、これには仔細があるのだ、兄は――」
「退《ど》いてください」
小次郎は血の気の失せた顔を振向け、凄まじいばかりに憎しみの籠った眼で兄を睨みつけると、皮肉な冷笑を唇に浮べながら云った。
「話はいま小菊どのから聞いたところです。おめでとう――兄上」
「何を云う、それは違うのだ」
「退いてください」
小次郎は鋭く叫んで歩き出した。
「待てと云うのに、おまえは早合点をしているのだ、小菊どのにどう聴いたか知らぬが、兄はおまえの身上を……」
だが、小次郎は耳もかさずに、不自由な足を引摺りながら去ってゆく、小平太は追いながら弟の袖を掴んで、
「小次郎、訳を聞かぬか」
「放してください」
小次郎は殺気のある眼で見返った。
「でないと……何をするか分りませんぞ」
「おまえ、小次郎――」
何をも仕かねまじい気色に、茫然と手を放す小平太。小次郎は息を喘がせながら、跳ぶようにして、林の彼方へ去っていった。
小平太は軍兵衛と弟の面前で、何故あんな思い切った所作をしたか、それには云うまでもなく理由があるのだ。小平太はその理由を話そうとした、しかし物事が縺《もつ》れかかると云う時は仕方のないものである。小次郎は兄の説明を聞こうともせずに去っていった。
「おれは片輪者だ、跛《びっこ》だ」
小次郎は独り慟哭した。
「こんな体で、美しい人を想うなどと云うことが既に間違いのもとなのだ、――兄は伊達家屈指の勇者だし、端麗な男振りだし、それに藻苅谷の城代も勤めている。小菊どのには似合いの人物だ、しかし……しかし、片輪者のおれの面前で、あんな見せつけがましい振舞をする事があろうか、おれが、小菊どのにどんな感じを持っているか――兄弟ならば少しは察しもついていように、あまりだ」
思詰めてゆくと、あの決戦の夜、なまじ命を助けられた事が怨めしい、あのとき討死をしていたら、生きてこんな苦しみを忍ばずともよいものを。
「武士として戦場に働くこともできなくなった癈《すた》れ者、生きて恥を晒すより、ひと思いに死んだ方が――」
小次郎は草の上に身を投出しながら、刻のたつのも忘れて呻吟を続けた。
ちょうど同じ頃である、――藻刈谷城は突如として捲起った事件に大混乱をきたしていた。それは北方三里あまりの峡間にある黒谷の出丸が、前夜半、不意に敵の逆襲を受けて、守備頭渡辺総造《わたなべそうぞう》は戦死、兵三百ほとんど全滅して、出丸は完全に占領されたと云う報知《しらせ》がきたのである。――生残った兵が七騎、命からがらその報告に帰ったのであるが、逆襲してきた敵が何者の軍勢で、兵数がどれほどなのか、また藻苅谷への軍配はどうなっているかまるで見当がつかない、――気の早い者は、
「今にもこの城へ押寄せてくるぞ」
「木戸を閉せ」
「兵を集めろ、馬を、武器を」
とどよめき立った。
伊臣小平太はその報知を聞いた時、――たかが藻苅谷の城ひとつと云うが、この出城ひとつ無事に護り通すのは難事だぞ、と云った政宗の言葉を思出した。
「――迂濶《うかつ》に動くと罠に墜ちるぞ」
そう思ったから、ただちに四方へ物見の兵を出しておいて、貝塚軍兵衛はじめ組頭たちを呼寄せ、厳重に城兵の鎮撫を命じた。
物見の兵からは半刻毎に報告がきた。それに依ると藻苅谷へ攻寄せる様子はなくて、新たに塁を築いたり壕を穿ったり柵を厳にしたり、しきりに黒谷の防備を急いでいるとの事だった。これを聞いた貝塚軍兵衛は膝を打って、
「敵は小勢に極った」
と云って乗出した。
「城代、逆寄せをすべきだ、彼等はいずれ藻苅谷の落武者共に相違ない、防備の成らぬ内に総攻めをかけて、ひと揉みに揉潰してしまうがよい、すぐに出陣を命じよう」
「まあ待て」
小平太は静かに制して云った。
「敵の本体も知らずに乗出して、万一の事があってはならぬ、彼等とてこの藻苅谷に兵のいる事は知っていよう、また往復|三日路《みっかみち》足らずの場所に伊達軍の本勢のある事も承知の筈だ。もし小勢なら、黒谷を破った勢に乗じて藻苅谷へ押寄すべきが当然、それをせずに防備を急ぐと見せるのは、我等が押出すのを待って野詰にする計略《はかりごと》に相違ない。とにかく本勢へ援軍の急使を差立てて、もう少し黒谷の様子を見る事にしよう」
「迂遠だ、手ぬるい!」
軍兵衛は頭を振って喚いた。
「第一本勢へ援軍を乞うなどと云うのが不面目極まる、藻刈谷を預けられた以上は、我等の手で事を処理するが当然、敵わずば同勢五百余騎枕を並べて討死すれば足りる」
「今は我等の面目、不面目を論ずべき期ではない、この出城は大崎攻めの咽喉元《のどもと》とも云うべき要害で、万一にも敵に奪取されたら大崎攻めの策戦も根本から覆えされてしまう、――不面目なら死ぬべき場所に不足はない、今はただこの出城を万全にするのが何より大切な事なのだ」
小次郎が城へ帰ってきたのは、ちょうどこの激論の最中であった。軍兵衛はあくまで逆寄せを主張するし、小平太は断乎として許さぬ、両者とも一刻にわたって論争したが、結局小平太は城代の権威を以て軍兵衛の説を拒《しりぞ》けてしまった。
軍兵衛が席を蹴って退出するのを、じっと見ていた小次郎、――兄の小平太がはじめてそれに気付いて、
「おお小次郎帰っていたのか」
と声をかけた。
「午《ひる》過ぎから姿が見えぬので案じていた、思い懸けぬ事が起って見る通りの騒ぎだ、おまえも行って若い者たちを鎮めてくれ」
「――厭です」
小次郎は冷やかに云った。
「兄上は御城代、片輪者の私などが出る幕ではないと思います」
「?――小次郎!」
驚いて見上げる兄の眼を、鋭く睨み返しながら小次郎は柱に縋って立った。――大庭の方で兵たちの騒動する声が聞えていた。
[#8字下げ]七[#「七」は中見出し]
「集ったか」
「みんな揃った筈だ」
「鉄砲の方は首尾よくいった、これは威撃《おどしうち》をかけるだけだから、弾薬は一発ずつでよい」
「気取られはしなかった?」
「大丈夫だ」
藻刈谷城の搦手、雨催いの闇夜に、――二人の武士が密語を交している、一人は貝塚軍兵衛、一人は伊臣小次郎である。
小菊を兄に奪われたと知ってから、急に片輪の身の置処なき苦しみを感じはじめた小次郎は、――小平太の因循説に不服な軍兵衛と計り、黒谷奪還の密謀を企て、秘策をめぐらすこと二夜、今宵三更を期していよいよ夜襲を敢行するに決したのである。しかし小次郎の気持の半分は兄に対する反逆であった。小菊を獲《え》た兄の悦びの心へ、片輪の身の華々しい討死を叩きつけてやりたいのだ。
「死んでやろう、跛武士にどれほどの働きができるか、腕の続く限り斬りまくって、骸骨を野に晒してやるのだ」
そう決心していたのである。
手筈は決った、総勢すぐって二百余騎、既に城外へ脱出して刻を待っている。
「では九つの刻を合図に」
と軍兵衛、
「心得た、――」
小次郎は微笑しながら頷いた。
身支度をすべく、やがて軍兵衛に別れて、自分の小屋の方へ戻ろうとした小次郎、鉄砲矢倉の下まで来ると、不意に――背後へ人の忍寄る気配を感じた。
「――誰だ」
足を停めて振返る、刹那であった。闇のなかから跳出た一人の男が、いきなり だ[#「だ」に傍点]! と体当りをくれた、思いがけぬ事で、
「な、何をする」
と躱そうとしたが、足が不自由なのでよろよろと躊《よろ》めく、とたんに脇へかかった杖を取落したから、だあっと後へ尻をついた。
「狼狽するな、伊臣小次郎だぞ」
喚きながら大剣の柄へ手をかける、しかし相手は無言のまま踏込むと、すばらしい力で小次郎を捻伏せ、両手を体へ縛りつけたうえ確りと猿轡《さるぐつわ》を噛ませてしまった。
「何者が、何者がこんな――?」
狂うばかりに身悶えする小次郎を、怪しい男は軽々と肩に担いで、闇のなかを大股に行ったが、やがて矢倉の脇にある番小舎の前へ来ると、その中へ小次郎を押込めて、表から戸を閉してどこかへ立去ってしまった。
すべてが無言の裡に行われた。
「――畜生!」
小次郎は必死になって、縛られた手をゆるめようとした、猿轡を外そうとした、しかしどっちもちょっとやそっとでできる事ではない、――万一の望みは人の来ることだが、平常《ふだん》番士を置いてない小舎へ、この夜陰に誰が来る筈があろう。
「何者だろう、何のためにおれをこんな処へ閉籠めたのだ? 名を名乗ったからには小次郎と知っての仕事に相違ない、――もしや、もしや敵方の諜者《まわしもの》でも入込んだのでは?」
そう思うと慄然とした。
「しかし敵兵なら有無なく斬る筈ではないか、おのれ一人ここへ押籠めて何になる、――違う、敵方ではない、とすると誰だ、誰なのだ?」
まるで謎のような出来事である。それとも軍兵衛が功を独りのものにする為、間際になって変心したものか?――あれかこれかと思惑っている裡に刻はずんずんたっていって遠く九つを告げる夜廻りの柝の音が聞えはじめた。
「今だ、いま行かなければ大事に後れる、同志二百はまさに夜襲を決行しようとしているのだ、それなのにおれ一人はこんな態《ざま》で……鳴呼、折角の死場所にも後れるのか、残念だ」
歯噛みをしながら、小舎の中を転げるのだった。
「誰か来てくれ、誰か……」
猿轡のまま懸命に叫ぶが、例え外まで聞えたところでどうしよう、夜陰と云い殊には、――催していた空がいつか雨になったものとみえて、ざあざあと云う音が軒に伝わってくる。
「駄目だ、神にも仏にも見放された、こんな態で生恥を晒すほどなら、いっそ舌を噛切ってでも死にたいが――それもできぬ」
絶望と苦悩に、小次郎は身を投出して凄まじく慟哭するばかりだった。
九つの柝を聞いてどのくらいたったろう、骨身を削る悶えに、疲れきって横わっていた小次郎は、――愕然として顔をあげた。
突然、小舎の戸が外から明いて、提灯《ちょうちん》の光がさっと流入ると思うや、
「小次郎さま!」
と息をせいて呼ぶ声。
「みんな揃った筈だ」
「鉄砲の方は首尾よくいった、これは威撃《おどしうち》をかけるだけだから、弾薬は一発ずつでよい」
「気取られはしなかった?」
「大丈夫だ」
藻刈谷城の搦手、雨催いの闇夜に、――二人の武士が密語を交している、一人は貝塚軍兵衛、一人は伊臣小次郎である。
小菊を兄に奪われたと知ってから、急に片輪の身の置処なき苦しみを感じはじめた小次郎は、――小平太の因循説に不服な軍兵衛と計り、黒谷奪還の密謀を企て、秘策をめぐらすこと二夜、今宵三更を期していよいよ夜襲を敢行するに決したのである。しかし小次郎の気持の半分は兄に対する反逆であった。小菊を獲《え》た兄の悦びの心へ、片輪の身の華々しい討死を叩きつけてやりたいのだ。
「死んでやろう、跛武士にどれほどの働きができるか、腕の続く限り斬りまくって、骸骨を野に晒してやるのだ」
そう決心していたのである。
手筈は決った、総勢すぐって二百余騎、既に城外へ脱出して刻を待っている。
「では九つの刻を合図に」
と軍兵衛、
「心得た、――」
小次郎は微笑しながら頷いた。
身支度をすべく、やがて軍兵衛に別れて、自分の小屋の方へ戻ろうとした小次郎、鉄砲矢倉の下まで来ると、不意に――背後へ人の忍寄る気配を感じた。
「――誰だ」
足を停めて振返る、刹那であった。闇のなかから跳出た一人の男が、いきなり だ[#「だ」に傍点]! と体当りをくれた、思いがけぬ事で、
「な、何をする」
と躱そうとしたが、足が不自由なのでよろよろと躊《よろ》めく、とたんに脇へかかった杖を取落したから、だあっと後へ尻をついた。
「狼狽するな、伊臣小次郎だぞ」
喚きながら大剣の柄へ手をかける、しかし相手は無言のまま踏込むと、すばらしい力で小次郎を捻伏せ、両手を体へ縛りつけたうえ確りと猿轡《さるぐつわ》を噛ませてしまった。
「何者が、何者がこんな――?」
狂うばかりに身悶えする小次郎を、怪しい男は軽々と肩に担いで、闇のなかを大股に行ったが、やがて矢倉の脇にある番小舎の前へ来ると、その中へ小次郎を押込めて、表から戸を閉してどこかへ立去ってしまった。
すべてが無言の裡に行われた。
「――畜生!」
小次郎は必死になって、縛られた手をゆるめようとした、猿轡を外そうとした、しかしどっちもちょっとやそっとでできる事ではない、――万一の望みは人の来ることだが、平常《ふだん》番士を置いてない小舎へ、この夜陰に誰が来る筈があろう。
「何者だろう、何のためにおれをこんな処へ閉籠めたのだ? 名を名乗ったからには小次郎と知っての仕事に相違ない、――もしや、もしや敵方の諜者《まわしもの》でも入込んだのでは?」
そう思うと慄然とした。
「しかし敵兵なら有無なく斬る筈ではないか、おのれ一人ここへ押籠めて何になる、――違う、敵方ではない、とすると誰だ、誰なのだ?」
まるで謎のような出来事である。それとも軍兵衛が功を独りのものにする為、間際になって変心したものか?――あれかこれかと思惑っている裡に刻はずんずんたっていって遠く九つを告げる夜廻りの柝の音が聞えはじめた。
「今だ、いま行かなければ大事に後れる、同志二百はまさに夜襲を決行しようとしているのだ、それなのにおれ一人はこんな態《ざま》で……鳴呼、折角の死場所にも後れるのか、残念だ」
歯噛みをしながら、小舎の中を転げるのだった。
「誰か来てくれ、誰か……」
猿轡のまま懸命に叫ぶが、例え外まで聞えたところでどうしよう、夜陰と云い殊には、――催していた空がいつか雨になったものとみえて、ざあざあと云う音が軒に伝わってくる。
「駄目だ、神にも仏にも見放された、こんな態で生恥を晒すほどなら、いっそ舌を噛切ってでも死にたいが――それもできぬ」
絶望と苦悩に、小次郎は身を投出して凄まじく慟哭するばかりだった。
九つの柝を聞いてどのくらいたったろう、骨身を削る悶えに、疲れきって横わっていた小次郎は、――愕然として顔をあげた。
突然、小舎の戸が外から明いて、提灯《ちょうちん》の光がさっと流入ると思うや、
「小次郎さま!」
と息をせいて呼ぶ声。
[#8字下げ]八[#「八」は中見出し]
――あ! 小菊※[#感嘆符二つ、1-8-75]
夢のような出来事に、茫然としている小次郎の側へ、全身雨に濡れた小菊が駈寄ると、わななく手に素早く縛《いましめ》を、猿轡を解いた。
「小、小菊どの!」
「は、はい」
「どうして、どうしてここへ――?」
額へ垂れかかる濡髪を掻上げることも忘れて、小菊は懐中《ふところ》から一封の書状を取出し、小次郎の手へ押つけるように、
「お兄上さまから」
と渡した。
「兄から、拙者に――?」
訝りながら封を切ると、意外な文字がそこにひろげられた。
――急ぎの場合だ、首尾ととのわぬところは判読を乞う。まずおれはおまえに二度詫びなければならぬ、一度はおまえに悲しい誤解をさせた、そして今宵また退引《のっぴき》ならぬ仕儀でおまえを手籠にした。訳は読むに順《したが》って分るだろうが、まずこの二つを詫びておく、どうか赦してくれ。
四五日まえ、櫟林の中で兄はあるまじき振舞をした、しかしあれは当座を切抜ける苦肉の一手だったのだ、おまえも知っていよう、――あの数日前、軍兵衛は兄が矢内甚平を監禁した事でひどく腹を立てていた、そしておまえと小菊どのがあそこで話しているのをみつけるや、好餌とばかり兄を誘い出し現場を押えたのだ。軍兵衛の底意は、――甚平らが監禁されるなら、当然おまえにも同じ咎がある筈と云うにある、兄は咄嗟《とっさ》の思案で……これは正式に縁談の成立った伊臣家の新嫁だと云って切抜けた。
小次郎、兄は本当の事を云おう、あの時もしおまえが五体満足であったら、はっきり「小次郎の嫁だ」と云えたのだ、しかし、――兄はその後へくる軍兵衛の嘲笑が怖ろしかった。「片足失って今は戦にも出られぬ癖に、嫁の心配とは笑止な」もしそう云われたら……心弱いがそう云う言葉が頭に閃いたのだ。そして軍兵衛の胆をぬく為にあんな思切った態度に出たのだ。
兄はどんなにその理由《わけ》を話したかったか知れない、しかしおまえは兄に一顧も与えず去ってしまった。おまえは兄の説明を聞いてくれるべきだった、小菊どのの婿はおまえだったのだ、――おまえは察しもしなかったろうが、兄はずいぶん考え悩んだぞ、戦国の武士として到底人に伍してゆけぬ体になったおまえを、どう更生させたらよいかと、――そこへ小菊どのが現われた、奇縁だった、家柄は源氏の流れを汲む土地の旧い郷士で、母娘二人の豊かな地所持ち、これこそ小次郎の落着く場所と、すぐに母御へ相談をした、母御にも小菊どのにも異存はなかった。そこで大崎攻めの本陣にある殿へお伺いを立てたのだ。
こう話せば、今は分ってくれた事と思う、殿からは昨日御裁可が来た、しかも――長田郷の墾田兵として、伊達家直属の郷士たれと云う望外の恩命に、田地五百町歩を賜わるとの仔細、同封のお墨付を拝するがよい。
「ああ――小次郎は愚者だった」
小次郎は呻くように叫んだ。
「兄はこんなに、こんなにまでおれの事を案じていたのに、このおれは――今の今まで逆恨みに恨んでいた、馬鹿だ、馬鹿者だ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
「小次郎さま」
小菊の声に、再び手紙を読む。
――後は云うまでもなかろう、兄は今宵になっておまえと軍兵衛の企てを知った。もう止めて止まる場合ではない、兄はおまえの代りに夜襲隊へ加わる、この手紙は小菊どのに托して送るから、おまえは短気を起さず、後に遺《のこ》って小菊どのと無事に暮してくれ、兄がもし武運拙く討死したら、長田郷へ伊臣家の家名を残すのがおまえの責任だぞ、――」
あとは読みも終らず、
「小菊どの」
と小次郎が片膝立て、
「この手紙は何刻頃――!」
「はい、九つ前かと存じました、一刻したら届けてくれと仰せられ、城内出入りの切手と場所を教えて」
「し、して今の刻は」
「一刻後とは伺いましたけれど、気が急《せ》きましたゆえ、半刻ばかりして参りましたから、……今」
「間に合う」
小次郎は膝を打って、
「小菊どの、肩をおかしください」
「――どう遊ばします」
「黒谷へ行くのです、万一このまま兄に死なれては――むう」
と苦痛に呻きながら、小菊の肩に縋って起つ、きっと北の方を見やって、肺腑を絞るように云った。
「兄上、小次郎の参るまで死んではなりませんぞ、ひと言、――会ってひと言」
「あれ危い!」
だ! とよろめくのを、支えざまに確り抱止める小菊。小次郎はその手を砕けよと握りしめながら、
「馬小舎へ、馬小舎へ」
と叫んだ。
夢のような出来事に、茫然としている小次郎の側へ、全身雨に濡れた小菊が駈寄ると、わななく手に素早く縛《いましめ》を、猿轡を解いた。
「小、小菊どの!」
「は、はい」
「どうして、どうしてここへ――?」
額へ垂れかかる濡髪を掻上げることも忘れて、小菊は懐中《ふところ》から一封の書状を取出し、小次郎の手へ押つけるように、
「お兄上さまから」
と渡した。
「兄から、拙者に――?」
訝りながら封を切ると、意外な文字がそこにひろげられた。
――急ぎの場合だ、首尾ととのわぬところは判読を乞う。まずおれはおまえに二度詫びなければならぬ、一度はおまえに悲しい誤解をさせた、そして今宵また退引《のっぴき》ならぬ仕儀でおまえを手籠にした。訳は読むに順《したが》って分るだろうが、まずこの二つを詫びておく、どうか赦してくれ。
四五日まえ、櫟林の中で兄はあるまじき振舞をした、しかしあれは当座を切抜ける苦肉の一手だったのだ、おまえも知っていよう、――あの数日前、軍兵衛は兄が矢内甚平を監禁した事でひどく腹を立てていた、そしておまえと小菊どのがあそこで話しているのをみつけるや、好餌とばかり兄を誘い出し現場を押えたのだ。軍兵衛の底意は、――甚平らが監禁されるなら、当然おまえにも同じ咎がある筈と云うにある、兄は咄嗟《とっさ》の思案で……これは正式に縁談の成立った伊臣家の新嫁だと云って切抜けた。
小次郎、兄は本当の事を云おう、あの時もしおまえが五体満足であったら、はっきり「小次郎の嫁だ」と云えたのだ、しかし、――兄はその後へくる軍兵衛の嘲笑が怖ろしかった。「片足失って今は戦にも出られぬ癖に、嫁の心配とは笑止な」もしそう云われたら……心弱いがそう云う言葉が頭に閃いたのだ。そして軍兵衛の胆をぬく為にあんな思切った態度に出たのだ。
兄はどんなにその理由《わけ》を話したかったか知れない、しかしおまえは兄に一顧も与えず去ってしまった。おまえは兄の説明を聞いてくれるべきだった、小菊どのの婿はおまえだったのだ、――おまえは察しもしなかったろうが、兄はずいぶん考え悩んだぞ、戦国の武士として到底人に伍してゆけぬ体になったおまえを、どう更生させたらよいかと、――そこへ小菊どのが現われた、奇縁だった、家柄は源氏の流れを汲む土地の旧い郷士で、母娘二人の豊かな地所持ち、これこそ小次郎の落着く場所と、すぐに母御へ相談をした、母御にも小菊どのにも異存はなかった。そこで大崎攻めの本陣にある殿へお伺いを立てたのだ。
こう話せば、今は分ってくれた事と思う、殿からは昨日御裁可が来た、しかも――長田郷の墾田兵として、伊達家直属の郷士たれと云う望外の恩命に、田地五百町歩を賜わるとの仔細、同封のお墨付を拝するがよい。
「ああ――小次郎は愚者だった」
小次郎は呻くように叫んだ。
「兄はこんなに、こんなにまでおれの事を案じていたのに、このおれは――今の今まで逆恨みに恨んでいた、馬鹿だ、馬鹿者だ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
「小次郎さま」
小菊の声に、再び手紙を読む。
――後は云うまでもなかろう、兄は今宵になっておまえと軍兵衛の企てを知った。もう止めて止まる場合ではない、兄はおまえの代りに夜襲隊へ加わる、この手紙は小菊どのに托して送るから、おまえは短気を起さず、後に遺《のこ》って小菊どのと無事に暮してくれ、兄がもし武運拙く討死したら、長田郷へ伊臣家の家名を残すのがおまえの責任だぞ、――」
あとは読みも終らず、
「小菊どの」
と小次郎が片膝立て、
「この手紙は何刻頃――!」
「はい、九つ前かと存じました、一刻したら届けてくれと仰せられ、城内出入りの切手と場所を教えて」
「し、して今の刻は」
「一刻後とは伺いましたけれど、気が急《せ》きましたゆえ、半刻ばかりして参りましたから、……今」
「間に合う」
小次郎は膝を打って、
「小菊どの、肩をおかしください」
「――どう遊ばします」
「黒谷へ行くのです、万一このまま兄に死なれては――むう」
と苦痛に呻きながら、小菊の肩に縋って起つ、きっと北の方を見やって、肺腑を絞るように云った。
「兄上、小次郎の参るまで死んではなりませんぞ、ひと言、――会ってひと言」
「あれ危い!」
だ! とよろめくのを、支えざまに確り抱止める小菊。小次郎はその手を砕けよと握りしめながら、
「馬小舎へ、馬小舎へ」
と叫んだ。
篠衝く雨の中だ。
※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]々《えんえん》と燃えている黒谷城の館を囲んで、地獄のように悽惨な死闘が展開している。烈風に煽られて、火※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]は天を焼くかとばかり、敵味方の阿鼻叫喚は大地をゆるがして轟きわたった。黒谷城を占領した敵は、果して藻苅谷の残党と付近の野武士たちらしく、後詰もないとみえて、不意に襲われるとたちまち苦戦に陥ったのである。
小平太は真先駈けて大手を踏破り、馬上に大槍を執って阿修羅の如く奮戦した。と、――今し崩れたつ敵兵を追って、内曲輪へ突進しようとした時である、
「兄上ーっ」
と叫ぶ声に、はっとして振返ると、
「兄上、兄上※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
狂わんばかりに絶叫しながら、乱軍のなかを驀地に駆ってきた馬上の小次郎。
「や、小次郎※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
「間に合った、間に合った、兄上」
「どうして……」
「兄上、小次郎を赦してください」
万感をただ双の眸子に籠めて、じっと覓《みつ》める一瞬、それを受ける兄の眼には、沸然として光るものがあった。
「――小次郎」
「これで本望です!」
小次郎は小具足もつけぬ常着のまま、小脇にした槍を執直すと、
「兄上、今宵の一番首は小次郎が貰いますぞ」
「見事やるか」
と小平太が明るく笑う、
「何でもない事」
「落馬するなよ」
「――この通りです」
叩くところを見ると、腰骨から鞍へかけて紅の色鮮かな扱帯で確りと縛りつけてある様、地獄の如き戦闘の中に、ぱっと咲出でた一輪の花のようである、――その主は云わずと知れていよう。小平太は鞍を叩いて、
「やったな小次郎」
「新嫁の心尽しです」
「こいつ!」
わっはっはと、声高らかに笑うや、
「――いざ後れな」
とばかり兄弟は轡を揃えて、悪鬼の如く敵陣へ殺到していった。館を焼く火はいよいよさかんに、戦闘は今や絶頂に達している。――この時、火に焦がされた雨空高く、驚かされて巣を立った一羽の鷹が、大きく円を描きながら舞っていた。
※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]々《えんえん》と燃えている黒谷城の館を囲んで、地獄のように悽惨な死闘が展開している。烈風に煽られて、火※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]は天を焼くかとばかり、敵味方の阿鼻叫喚は大地をゆるがして轟きわたった。黒谷城を占領した敵は、果して藻苅谷の残党と付近の野武士たちらしく、後詰もないとみえて、不意に襲われるとたちまち苦戦に陥ったのである。
小平太は真先駈けて大手を踏破り、馬上に大槍を執って阿修羅の如く奮戦した。と、――今し崩れたつ敵兵を追って、内曲輪へ突進しようとした時である、
「兄上ーっ」
と叫ぶ声に、はっとして振返ると、
「兄上、兄上※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
狂わんばかりに絶叫しながら、乱軍のなかを驀地に駆ってきた馬上の小次郎。
「や、小次郎※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
「間に合った、間に合った、兄上」
「どうして……」
「兄上、小次郎を赦してください」
万感をただ双の眸子に籠めて、じっと覓《みつ》める一瞬、それを受ける兄の眼には、沸然として光るものがあった。
「――小次郎」
「これで本望です!」
小次郎は小具足もつけぬ常着のまま、小脇にした槍を執直すと、
「兄上、今宵の一番首は小次郎が貰いますぞ」
「見事やるか」
と小平太が明るく笑う、
「何でもない事」
「落馬するなよ」
「――この通りです」
叩くところを見ると、腰骨から鞍へかけて紅の色鮮かな扱帯で確りと縛りつけてある様、地獄の如き戦闘の中に、ぱっと咲出でた一輪の花のようである、――その主は云わずと知れていよう。小平太は鞍を叩いて、
「やったな小次郎」
「新嫁の心尽しです」
「こいつ!」
わっはっはと、声高らかに笑うや、
「――いざ後れな」
とばかり兄弟は轡を揃えて、悪鬼の如く敵陣へ殺到していった。館を焼く火はいよいよさかんに、戦闘は今や絶頂に達している。――この時、火に焦がされた雨空高く、驚かされて巣を立った一羽の鷹が、大きく円を描きながら舞っていた。
底本:「婦道小説集」実業之日本社
1977(昭和52)年9月25日 初版発行
1978(昭和53)年11月10日 四版発行
底本の親本:「キング増刊号」
1937(昭和12)年4月
初出:「キング増刊号」
1937(昭和12)年4月
※表題は底本では、「紅扱帯《べにしごき》一番首」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
1977(昭和52)年9月25日 初版発行
1978(昭和53)年11月10日 四版発行
底本の親本:「キング増刊号」
1937(昭和12)年4月
初出:「キング増刊号」
1937(昭和12)年4月
※表題は底本では、「紅扱帯《べにしごき》一番首」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ