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謎の頸飾事件
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謎の頸飾事件
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)春田龍介《はるたりゅうすけ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)黒|天鵞絨《ビロウド》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#感嘆符二つ、1-8-75]
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[#3字下げ]新年宴会[#「新年宴会」は中見出し]
正月七日の宵。――七草粥の祝儀をそのままに、牧野子爵邸では親族知友を招待して、新年宴会を催した。
集る者十人。その中でも特に人々の注意をひいたのは、少年探偵としてめきめき名をひろめた春田龍介《はるたりゅうすけ》君とその助手である拳骨《メリケン》壮太、それから警視庁での名探偵と呼ばれる樫田《かしだ》刑事の三人があることだった。
この三人は、去年東京を中心にして行われた大きな犯罪を探偵して、立派な功績をのこした両大関で、その夜はたがいに初めて会うのであった。
「僕春田です」伯父《おじ》である牧野子爵から紹介された時、春田君は謙遜して自分から握手を求めながら、言葉ひくく話しかけた。
「お噂はいつも伺っております、どうぞよろしく」
しかし樫田刑事は、なにをこの小僧がといわんばかりに、ちらと眼をくれただけで、
「やあ!」といったまま、春田君のさし出した手を握ろうともせず、さっさと自分の椅子《いす》の方へ立去《たちさ》っていった。
傍にいてこの無礼な態度を見ていた拳骨《メリケン》壮太は、ぎりぎり歯噛みをして「坊っちゃん、あっしゃあ彼奴《あいつ》をのしちゃうからね!」と腕をまくった。しかし春田少年はそんなことで怒るような小胆者ではない。立去って行く刑事の後姿を見送って肩を竦《すく》めてふふんと笑いながらいった。
「よし給え、あの人はいつか自分から僕の手を握りにくるようになるよ、ここが我慢のしどころさ」
そして壮太の肩を叩いた。
「さあ皆さん」牧野子爵は集った客たちに向って叫んだ。
「食堂の用意ができたそうです、今夜は北京《ペキン》亭から腕利の料理人《コック》を呼んできて、邸《やしき》で料理させた純粋の北京《ペキン》料理を御馳走いたします。さあ、どうぞお席へ」
客達は話しながら子爵の後から食堂へ入って行った。
[#3字下げ]黄色ダイヤの頸飾[#「黄色ダイヤの頸飾」は中見出し]
食事の間、お客達の話は春田君の手柄話に賑わった。
牧野子爵はむろん自分の甥の自慢だから、黙ってひきさがっているはずはない。例の潜水艦の秘密事件だの、幽霊殺人事件だの、それからつい最近に解決したばかりの、あのメトラス博士《はかせ》一味の骸骨島の事件だの。自分の邸に珍蔵してある黄色ダイヤの頸飾《くびかざり》を中心にして、ヤンセン牧師との一騎討事件だのを、我ことのように話しつづけるのであった。
「ですがねえ子爵!」客の中から秋山という若い紳士が声をあげた。
「その問題の黄色ダイヤの頸飾が、まだお邸にあるのでしたら、我々に見せて頂きたいものですねえ!」
すると一座の客たちも、それに賛成して、どうぞ頸飾を見せて貰いたいというのであった。
「よろしい、諸君、では物語の中心となったその頸飾をごらんに入れましょう」
子爵はすぐに小間使を招いて、夫人の化粧室から、頸飾を持ってくるように命じた。
間もなく小間使は黒|天鵞絨《ビロウド》張の小筐《こばこ》を持って帰って来た。人々は世界的に有名な頸飾を見たいというので、子爵のそばへ寄っていった。
「これです」子爵はやがて小筐の中から、燦然《さんぜん》と輝き光る一連のダイヤの頸飾をとりだして人々に示した。
「この頸飾は初めトルコの王宮に秘蔵されていたもので、古い伝説によると、あのギリシャの英雄アレキサンダア大王が、自分の頸にかけていたものだということです」
子爵の話に耳をかたむけながら、人々は驚きの眼を瞠《みは》ってその頸飾をみつめるのであった。
[#3字下げ]ダイヤ奪わる[#「ダイヤ奪わる」は中見出し]
やがて人々が見終ると、子爵は頸飾を小筐に戻して小間使にわたした。
「元の場所へしまっておいで」
小間使は小筐を持って客間を出ていった。
それから客達が自分自分の席に戻って、がやがやと頸飾の噂話をはじめた時だった。
「きゃっ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」という女の叫び声が聞えて、夫人の化粧室の方に荒々しく人の倒れる音がした。瞬間、人たちは愕然として佇《たたず》んだが、樫田刑事が真先《まっさき》に駈出すと、はっと気づいてその後から、悲鳴の聞えた方へ、ばらばらと走っていった。
樫田刑事が駈けつけて見ると、夫人の化粧室の外に、蒼白《まっさお》な顔をして例の秋山という紳士が突立《つった》っていた。刑事はちらと秋山を見たが、すぐに真暗な化粧室の中へ踏《ふみ》こんで、そして電灯のスイッチを捻《ひね》った時、
「あっ、やられた※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
刑事は思わず叫んで立停った。
見よ、床の上には小間使が仰反《あおむけ》に倒れて気絶している。そしてその傍には、既に空になった黒|天鵞絨《ビロウド》張の小筐が落ちていたではないか。
そこへ子爵はじめ客達がどやどやと駈けつけてきたので、刑事はあわてて叫んだ。
「子爵、重大な事件です、誰もこの化粧室へ入れないで下さい。また今夜のお客様は、御迷惑でも事件の解決するまで一歩も外へ出てはなりません、――それから」と刑事は慄《ふる》えながら立っている客の秋山に、鋭い眼を向けながらいった。
「秋山氏はどうぞお入り下さい」
「僕も入れて頂きたいですね、名探偵閣下」そういう声がして、客達の間から、にやにや笑いながら龍介君があらわれた。刑事は不愉快そうに眉をよせたが、ぶっきら棒に、
「どうぞご随意に」といって、扉《ドア》をびっしり閉めた。
[#3字下げ]怪紳士秋山[#「怪紳士秋山」は中見出し]
化粧室には、樫田探偵と、子爵と、龍介君とが残った。怪しい紳士秋山は、室《へや》の片隅に不安な顔をして立っていた。
小間使は樫田刑事の介抱で、すぐに正気にかえった。そして打たれた額を濡れ手拭《てぬぐい》で押えながら、ぽつりぽつり話しだした。
「私、このお部屋へ入ってきますと、突然夜会服を召した紳士の方が、真暗な扉《ドア》の蔭から跳出《とびだ》してきました。あっと思って引返《ひきかえ》そうとしましたが、そのとたん棒のような物で額をひどく打たれましたので、そのまま気を失ってしまいましたのです」
「ふむ――」樫田刑事は小間使の倒れていた場所に落ちていた長さ二尺くらいの棍棒を拾いとった。そしてポケットから指紋帳を取り出して、手早く棍棒に印されてある指紋をとった。
「さて、秋山さん」刑事は室《へや》の隅に、先ほどから顫《ふる》えながら立っている紳士を呼んだ。
「失礼ですが貴方《あなた》の指紋を取らせていただきたいものですね」
秋山紳士は恐る恐る近寄った。刑事は顫えている秋山紳士の指を握って、指紋帳の上に押しつけてから、棍棒に印されていた指紋を合せて見た。樫田刑事の顔には、得意然とした微笑があらわれた。
「合う、この二つの指紋はぴったり合う、同一の指紋だ」
「それは間違《まちがい》だ※[#感嘆符二つ、1-8-75] 誤解だ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
秋山紳士は突然どなりはじめた。
「僕はなにも知らぬ、僕はそんなことはしゃしない、間違だ、失敬な※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
「指紋がなによりの証拠ですよ」
刑事は冷笑しながらいった。
「しかし、説明を承りましょう秋山さん。さっき小間使がおそわれた時、この室《へや》の外に立っていたのは貴方《あなた》だ。その時|貴方《あなた》はここでなにをしていたのですか※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「僕は、僕は頭が痛むので、それで、庭へ出ようとしていたのだ。それで出口がわからないで困っていると、突然女の悲鳴が聞えたので駈けつけてきたんだ、そこへ貴方《あなた》が……」
秋山紳士がいいきらぬうちに、樫田刑事は大声に笑出《わりだ》した。
「いや秋山さん、嘘をつくならもっと上手にやらんといかんよ、そんな馬鹿気《ばかげ》た話を、おいそれと私が信用すると思うかね。来たまえ、身体検査をさせていただく※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
樫田刑事は慄えている秋山紳士をひきよせて、残る隈なく身体検査をした。が不思議や、ダイヤの頸飾はどこにもなかった。
「さてはどこかへ隠したに相違ない」というので、部屋の隅々、小間使の体まで探し求めたが、ついに頸飾は出てこなかった。
[#3字下げ]龍介の番だ[#「龍介の番だ」は中見出し]
「樫田さん、事件は解決しましたか?」
いままで、樫田刑事の訊問などは見向きもせずに、化粧室の中をくわしく綿密にしらべていた春田龍介君が、にこにこ笑いながら進み出てきた。
「解決しとるよ。女中が何者かに襲われた、そばに女中を殴った棍棒が落ちていた、そして部屋の外に紳士が立っていた、棍棒には指紋があった、その指紋が紳士の指紋であった、女中は自分を殴ったのは夜会服をきた紳士だといった。でその紳士は夜会服を着ている……こんな簡単明白な事件は子供にだって片がつくさ!」
「そうですか」
龍介少年は相変らず笑いながら、
「しかし、こういう疑《うたがい》をお持ちになりませんか樫田さん。小間使が入ってきた時には、電灯が消えていた。それなのにどうして、扉《と》の蔭から跳び出した男が夜会服をきていたとわかったのでしょう。それからまた犯人がどうして自分の指紋のついている棍棒を、犯罪の場所へ放りだしておいたのでしょう。そして自分が逃げる間さえなかったのに、どうしてダイヤを隠すことができたでしょう……※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
龍介君の静かなしっかりした意見を聞いていた刑事は、その立派な言葉にたじたじとなったが、まだ龍介君の本当の偉さがわかっていないので、
「ふん、君はなかなか立派な意見を持っている、では君には事件はもう分っているのかね」
「ええ、そうですよ樫田さん!」
龍介は軽く笑って答えた。
「僕にはもう誰が犯人で頸飾がどこに隠してあるかということまで分っているんです」
樫田刑事は、まるで櫟《くす》ぐられたゴリラのような珍妙な顔をして、まじまじと龍介君を見守るばかりだった。
その時、寝椅子の上に休んでいた小間使は立上って、ふらふらと洗面台の方へ近よった。龍介君は急いでそれをさえぎって、
「どうするんだね、君」
「私、打たれた傷が痛みますから、お水で冷やさせて頂こうと存じまして」
「あとで!」と龍介君はいった。そして小間使を元の寝椅子におい帰した。
「そんなことはあとでたくさんできるよ、まあ静かに坐ってい給え。そこで秋山さん、失礼ですが、今夜この宴会へくる途中、どこか外《ほか》にお立寄りになったところはないかお話し下さいませんか」
秋山紳士は、自分にかけられた疑《うたがい》が解かれそうになったので、元気を取戻《とりもど》しながら話した。
「そうです、家を出まして銀座で二軒用事をたしました、一軒は日本屋という洋服屋で、春服の仕立を頼んだのです。それから泰昌軒《たいしょうけん》という支那人の陶器店へよって、七宝焼の壺を買いました、それだけです」
「有難《ありがとう》う存じました」
龍介はきっと唇をむすんで立上った。
「もう事件は解決しました。三十分の後、僕はこの事件の主謀者をつれてここへ帰ってきます。伯父さん、あなたは料理部屋へいって、今夜|北京《ペキン》亭からきている料理人《コック》を一人も逃がさないで下さい、その中《うち》の左利きの男が犯人です。それから樫田さん、あなたは警視庁へ電話をかけて、腕力のある警官を十人ばかり、大至急銀座の泰昌軒へ派遣するように命じて下さい、さあ僕がどんな風に解決するかごらんに入れましょう!」
あっけに取られている一同をあとに、化粧室をとび出した龍介は、大声に喚いた。
「壮太君、さあ君の拳骨《メリケン》がまた入用だ、行こう※[#感嘆符二つ、1-8-75] 今夜は大物だぞ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
[#3字下げ][#中見出し]殴れ※[#感嘆符二つ、1-8-75] 壮太※[#感嘆符二つ、1-8-75][#中見出し終わり]
それから三十分後だ、樫田刑事が、警官隊をつれて、夜更《よふ》けの銀座の、泰昌軒へ駈けつけた時、中ではすばらしい大格闘最中だった。
「野郎共束になってかかってこい、拳骨《メリケン》壮太さまがお相手だ、サア来い※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
怪しい支那人に取巻かれた真中に仁王立になって、喚いているのは拳骨《メリケン》壮太だ。見ると龍介君は自動拳銃《ブロオニング》を片手に、にやにや笑いながら、一段高いところに立って誰も逃げださぬように見張りをしている。
「やれ※[#感嘆符二つ、1-8-75] 壮太君、今夜は僕は邪魔をしないよ、思う存分暴れろ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
「有難えぞ、メトラス博士の時にゃ、坊ちゃんにお株をとられたから、今夜こん畜生め、壮太さまがどれくらい強いか見せてやるんだ。さあ豚共、かかってこいっ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
叫びざま、いきなり取巻いている支那人の荒くれ男の一人に跳掛っていった。がしゃん※[#感嘆符二つ、1-8-75] ぴしり※[#感嘆符二つ、1-8-75] めりめり※[#感嘆符二つ、1-8-75] がらがらがら※[#感嘆符二つ、1-8-75]
「やれ※[#感嘆符二つ、1-8-75] やれ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」龍介君はそれを見下しながら叫んだ。
「素晴しいぞ、そら、殴れ※[#感嘆符二つ、1-8-75] 殴れ壮太※[#感嘆符三つ、113-14]」
傍からけしかけられるので、壮太得意絶頂だ。
「この野郎※[#感嘆符二つ、1-8-75] こん畜生※[#感嘆符二つ、1-8-75] どうだ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
とばかり、取っては投げ、掴んでは投げ、まるで阿修羅のように家の中を縦横無尽に暴れまわった。
かくして、泰昌軒の地下室に隠れていた怪支那人の一団は、間もなく樫田刑事一行のために捕縛された。
「へん、どんなもんだい」
壮太は流れおちる汗を横なぐりに拭きながら、数珠《じゅず》つなぎにされた悪漢の前で喚いた。
「おいらの親分は龍介様だ、そしておいらは拳骨《メリケン》の壮太様よ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
[#3字下げ]洗面器のカラクリ[#「洗面器のカラクリ」は中見出し]
樫田刑事と春田君とは、ふたたび牧野子爵邸の化粧室に戻ってきた。
「さて、まず頸飾を出しましょう」
龍介君はそういって、書生を呼んだ。
「君、すまないがね、料理《コック》部屋へいって、水の流れでる溝口へ網を張っていてくれたまえ」
書生はかしこまって出ていった。
「さて小間使君、どうか額の傷を冷やしてくれたまえ」
龍介は小間使にいった。小間使はその瞬間|何故《なぜ》かさっと顔色をかえた。そして慄えながら云《い》った。
「いえ、私、もうよろしゅうございますの。もう痛みはいたしませんから」
「では、僕が手を洗わしていただこうかな」
龍介君はつかつかと洗面台へ近よって、勢《いきおい》よく水を出しながら、ていねいに手を洗いはじめた。すると間もなく、大声で喚きながら廊下を書生が駈けてきた。
「出ました、出ました先生、ダイヤの頸飾が流元《ながしもと》から出てきました」
そう叫んで室内へとびこんできた書生の両手の間には、なんと燦然と輝く黄色ダイヤの頸飾がゆれていたではないか。
「ねえ、樫田さん」
龍介君は皮肉に笑いながら云った。
「僕はさっき云ったでしょう、頸飾の隠し場所も、そして犯人もわかっているって。犯人は小間使と北京《ペキン》亭からきた左利きの料理人《コック》ですよ、あははは、これが僕の探偵の仕方です」
「どうしてこの事件を解決したか」
やがてもう一度客間へ人たちが集った時、龍介は静かに話しだした。
「あの女中の殴られた傷を見ると、右の額です。向合《むきあ》って相手の右の額を殴るには、左利きの人でなければできません。そうでしょう径田さん。ところが棍棒についていた指紋は秋山さんの右手の指紋だし、秋山さんは右利きだ。彼等が秋山さんを犯人だと思わせようとした第一の失敗はこれです。
第二には、女中が自分を殴ったのは、夜会服を着た紳士だといった、ところが暗闇の扉《と》の蔭から跳出した人が、夜会服を着ていたかどうか、分るわけがない、なんなら試してごらんなさい。つまり女中は秋山さんを犯人に思わせようとして焦って、かえってぼろを出したのです。樫田さんが秋山さんを訊問している間に、僕は部屋を検《しら》べてみました。ところが女中が秋山さんの隠れていたといった扉の蔭には、かえって秋山さんの無罪を証拠だてる物が落ちていたのです、それは小さな玉葱《たまねぎ》の片端《きれはし》です。つまりそこに隠れていた者の体からその玉葱の小さな片端《きれはし》か落ちたのです。玉葱の片端《きれはし》、それは支那料理には附物だ。そうでしょう、皆さん、そして今夜は支那料理のコックがきている。これだけで事件は解決したも同じです。それからもう一つ、室内を検《しら》べてみると洗面器が濡れていたんです。夫人が洗面器を使ったのは夕方お化粧の時で五時間も経っているから乾いているはずのところが、見るとひどく濡れている。そこで僕は頸飾の隠し場所もわかったのです。要するに彼等はこんな風に企んだのです。秋山さんが銀座の泰昌軒によった時、何かの機会にあの棍棒を秋山さんに掴ませて、秋山さんの指紋をそっと取っておいたのです。それから仲間の一人を料理人《コック》に化けさして邸へ入りこませ、小間使とぐるになって、化粧室へ入ったところをわざと例の秋山さんの指紋のついている棍棒で殴った、(その時|料理人《コック》は自分が左利きであるのを忘れていたんですね)そして女中は気絶したように見せかけ、その棍棒は見えるようにそこへ放り出しておいたんです。
その時|料理人《コック》が頸飾を持っていれば、身体検査をされた場合すぐにわかってしまうから、洗面台から水流しの鉛管の中へいれておいて、秋山さんが犯人として警察へひかれていったあとで、洗面台から水を流して、料理部屋で、料理人《コック》が溝口から流れ出るのを受取って逃げようと計画してあったのですね」
聴いていた客たちはじめ、さすがの樫田刑事も思わずあっといって春田君の名探偵ぶりに舌を巻いた。伯父である牧野子爵が、その時、どんなに得意然と髭を捻っていたか、皆さんにも想像できることでしょう※[#感嘆符疑問符、1-8-78]
「失敬しました春田君」
樫田刑事は立ってきて、進んで春田君に手をさし出しながら云った。
「先ほど私はあんたを軽蔑しておった。しかし今では私自身を軽蔑しております、どうか先程の無礼をお許し下さい」
それを見ていた拳骨《メリケン》壮太、思わず拳骨《メリケン》で鼻をぐっと擦《こす》りながらいったものです。
「どうでえ、おいらの親分は春田さんだ、そこでおいらは拳骨《メリケン》壮太よ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
さて読者諸君。私は残念ながらひとつのお知らせをしなければなりません。こうして春田君は続けざまに五つの重大事件を解決しましたが、今度ある方面からの命令で、一年間外国へ見学に派遣されることになったのです。
我等の少年探偵春田龍介君は、来る三月、二年級を修了すると同時に、まず欧羅巴《ヨウロッパ》へ向けて出発します。ドイツ、フランス、イギリス、アメリカ、これらの国々の見学を終えて帰朝した時、日本の探偵界に春田君がどんな活躍をするか、それを楽《たのし》みに、どうぞお忘れなくお待ち下さい。いずれまたその時に。
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第一巻 少年探偵・春田龍介」作品社
2007(平成19)年10月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1931(昭和6)年1月
初出:「少年少女譚海」
1931(昭和6)年1月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)春田龍介《はるたりゅうすけ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)黒|天鵞絨《ビロウド》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#感嘆符二つ、1-8-75]
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[#3字下げ]新年宴会[#「新年宴会」は中見出し]
正月七日の宵。――七草粥の祝儀をそのままに、牧野子爵邸では親族知友を招待して、新年宴会を催した。
集る者十人。その中でも特に人々の注意をひいたのは、少年探偵としてめきめき名をひろめた春田龍介《はるたりゅうすけ》君とその助手である拳骨《メリケン》壮太、それから警視庁での名探偵と呼ばれる樫田《かしだ》刑事の三人があることだった。
この三人は、去年東京を中心にして行われた大きな犯罪を探偵して、立派な功績をのこした両大関で、その夜はたがいに初めて会うのであった。
「僕春田です」伯父《おじ》である牧野子爵から紹介された時、春田君は謙遜して自分から握手を求めながら、言葉ひくく話しかけた。
「お噂はいつも伺っております、どうぞよろしく」
しかし樫田刑事は、なにをこの小僧がといわんばかりに、ちらと眼をくれただけで、
「やあ!」といったまま、春田君のさし出した手を握ろうともせず、さっさと自分の椅子《いす》の方へ立去《たちさ》っていった。
傍にいてこの無礼な態度を見ていた拳骨《メリケン》壮太は、ぎりぎり歯噛みをして「坊っちゃん、あっしゃあ彼奴《あいつ》をのしちゃうからね!」と腕をまくった。しかし春田少年はそんなことで怒るような小胆者ではない。立去って行く刑事の後姿を見送って肩を竦《すく》めてふふんと笑いながらいった。
「よし給え、あの人はいつか自分から僕の手を握りにくるようになるよ、ここが我慢のしどころさ」
そして壮太の肩を叩いた。
「さあ皆さん」牧野子爵は集った客たちに向って叫んだ。
「食堂の用意ができたそうです、今夜は北京《ペキン》亭から腕利の料理人《コック》を呼んできて、邸《やしき》で料理させた純粋の北京《ペキン》料理を御馳走いたします。さあ、どうぞお席へ」
客達は話しながら子爵の後から食堂へ入って行った。
[#3字下げ]黄色ダイヤの頸飾[#「黄色ダイヤの頸飾」は中見出し]
食事の間、お客達の話は春田君の手柄話に賑わった。
牧野子爵はむろん自分の甥の自慢だから、黙ってひきさがっているはずはない。例の潜水艦の秘密事件だの、幽霊殺人事件だの、それからつい最近に解決したばかりの、あのメトラス博士《はかせ》一味の骸骨島の事件だの。自分の邸に珍蔵してある黄色ダイヤの頸飾《くびかざり》を中心にして、ヤンセン牧師との一騎討事件だのを、我ことのように話しつづけるのであった。
「ですがねえ子爵!」客の中から秋山という若い紳士が声をあげた。
「その問題の黄色ダイヤの頸飾が、まだお邸にあるのでしたら、我々に見せて頂きたいものですねえ!」
すると一座の客たちも、それに賛成して、どうぞ頸飾を見せて貰いたいというのであった。
「よろしい、諸君、では物語の中心となったその頸飾をごらんに入れましょう」
子爵はすぐに小間使を招いて、夫人の化粧室から、頸飾を持ってくるように命じた。
間もなく小間使は黒|天鵞絨《ビロウド》張の小筐《こばこ》を持って帰って来た。人々は世界的に有名な頸飾を見たいというので、子爵のそばへ寄っていった。
「これです」子爵はやがて小筐の中から、燦然《さんぜん》と輝き光る一連のダイヤの頸飾をとりだして人々に示した。
「この頸飾は初めトルコの王宮に秘蔵されていたもので、古い伝説によると、あのギリシャの英雄アレキサンダア大王が、自分の頸にかけていたものだということです」
子爵の話に耳をかたむけながら、人々は驚きの眼を瞠《みは》ってその頸飾をみつめるのであった。
[#3字下げ]ダイヤ奪わる[#「ダイヤ奪わる」は中見出し]
やがて人々が見終ると、子爵は頸飾を小筐に戻して小間使にわたした。
「元の場所へしまっておいで」
小間使は小筐を持って客間を出ていった。
それから客達が自分自分の席に戻って、がやがやと頸飾の噂話をはじめた時だった。
「きゃっ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」という女の叫び声が聞えて、夫人の化粧室の方に荒々しく人の倒れる音がした。瞬間、人たちは愕然として佇《たたず》んだが、樫田刑事が真先《まっさき》に駈出すと、はっと気づいてその後から、悲鳴の聞えた方へ、ばらばらと走っていった。
樫田刑事が駈けつけて見ると、夫人の化粧室の外に、蒼白《まっさお》な顔をして例の秋山という紳士が突立《つった》っていた。刑事はちらと秋山を見たが、すぐに真暗な化粧室の中へ踏《ふみ》こんで、そして電灯のスイッチを捻《ひね》った時、
「あっ、やられた※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
刑事は思わず叫んで立停った。
見よ、床の上には小間使が仰反《あおむけ》に倒れて気絶している。そしてその傍には、既に空になった黒|天鵞絨《ビロウド》張の小筐が落ちていたではないか。
そこへ子爵はじめ客達がどやどやと駈けつけてきたので、刑事はあわてて叫んだ。
「子爵、重大な事件です、誰もこの化粧室へ入れないで下さい。また今夜のお客様は、御迷惑でも事件の解決するまで一歩も外へ出てはなりません、――それから」と刑事は慄《ふる》えながら立っている客の秋山に、鋭い眼を向けながらいった。
「秋山氏はどうぞお入り下さい」
「僕も入れて頂きたいですね、名探偵閣下」そういう声がして、客達の間から、にやにや笑いながら龍介君があらわれた。刑事は不愉快そうに眉をよせたが、ぶっきら棒に、
「どうぞご随意に」といって、扉《ドア》をびっしり閉めた。
[#3字下げ]怪紳士秋山[#「怪紳士秋山」は中見出し]
化粧室には、樫田探偵と、子爵と、龍介君とが残った。怪しい紳士秋山は、室《へや》の片隅に不安な顔をして立っていた。
小間使は樫田刑事の介抱で、すぐに正気にかえった。そして打たれた額を濡れ手拭《てぬぐい》で押えながら、ぽつりぽつり話しだした。
「私、このお部屋へ入ってきますと、突然夜会服を召した紳士の方が、真暗な扉《ドア》の蔭から跳出《とびだ》してきました。あっと思って引返《ひきかえ》そうとしましたが、そのとたん棒のような物で額をひどく打たれましたので、そのまま気を失ってしまいましたのです」
「ふむ――」樫田刑事は小間使の倒れていた場所に落ちていた長さ二尺くらいの棍棒を拾いとった。そしてポケットから指紋帳を取り出して、手早く棍棒に印されてある指紋をとった。
「さて、秋山さん」刑事は室《へや》の隅に、先ほどから顫《ふる》えながら立っている紳士を呼んだ。
「失礼ですが貴方《あなた》の指紋を取らせていただきたいものですね」
秋山紳士は恐る恐る近寄った。刑事は顫えている秋山紳士の指を握って、指紋帳の上に押しつけてから、棍棒に印されていた指紋を合せて見た。樫田刑事の顔には、得意然とした微笑があらわれた。
「合う、この二つの指紋はぴったり合う、同一の指紋だ」
「それは間違《まちがい》だ※[#感嘆符二つ、1-8-75] 誤解だ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
秋山紳士は突然どなりはじめた。
「僕はなにも知らぬ、僕はそんなことはしゃしない、間違だ、失敬な※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
「指紋がなによりの証拠ですよ」
刑事は冷笑しながらいった。
「しかし、説明を承りましょう秋山さん。さっき小間使がおそわれた時、この室《へや》の外に立っていたのは貴方《あなた》だ。その時|貴方《あなた》はここでなにをしていたのですか※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「僕は、僕は頭が痛むので、それで、庭へ出ようとしていたのだ。それで出口がわからないで困っていると、突然女の悲鳴が聞えたので駈けつけてきたんだ、そこへ貴方《あなた》が……」
秋山紳士がいいきらぬうちに、樫田刑事は大声に笑出《わりだ》した。
「いや秋山さん、嘘をつくならもっと上手にやらんといかんよ、そんな馬鹿気《ばかげ》た話を、おいそれと私が信用すると思うかね。来たまえ、身体検査をさせていただく※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
樫田刑事は慄えている秋山紳士をひきよせて、残る隈なく身体検査をした。が不思議や、ダイヤの頸飾はどこにもなかった。
「さてはどこかへ隠したに相違ない」というので、部屋の隅々、小間使の体まで探し求めたが、ついに頸飾は出てこなかった。
[#3字下げ]龍介の番だ[#「龍介の番だ」は中見出し]
「樫田さん、事件は解決しましたか?」
いままで、樫田刑事の訊問などは見向きもせずに、化粧室の中をくわしく綿密にしらべていた春田龍介君が、にこにこ笑いながら進み出てきた。
「解決しとるよ。女中が何者かに襲われた、そばに女中を殴った棍棒が落ちていた、そして部屋の外に紳士が立っていた、棍棒には指紋があった、その指紋が紳士の指紋であった、女中は自分を殴ったのは夜会服をきた紳士だといった。でその紳士は夜会服を着ている……こんな簡単明白な事件は子供にだって片がつくさ!」
「そうですか」
龍介少年は相変らず笑いながら、
「しかし、こういう疑《うたがい》をお持ちになりませんか樫田さん。小間使が入ってきた時には、電灯が消えていた。それなのにどうして、扉《と》の蔭から跳び出した男が夜会服をきていたとわかったのでしょう。それからまた犯人がどうして自分の指紋のついている棍棒を、犯罪の場所へ放りだしておいたのでしょう。そして自分が逃げる間さえなかったのに、どうしてダイヤを隠すことができたでしょう……※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
龍介君の静かなしっかりした意見を聞いていた刑事は、その立派な言葉にたじたじとなったが、まだ龍介君の本当の偉さがわかっていないので、
「ふん、君はなかなか立派な意見を持っている、では君には事件はもう分っているのかね」
「ええ、そうですよ樫田さん!」
龍介は軽く笑って答えた。
「僕にはもう誰が犯人で頸飾がどこに隠してあるかということまで分っているんです」
樫田刑事は、まるで櫟《くす》ぐられたゴリラのような珍妙な顔をして、まじまじと龍介君を見守るばかりだった。
その時、寝椅子の上に休んでいた小間使は立上って、ふらふらと洗面台の方へ近よった。龍介君は急いでそれをさえぎって、
「どうするんだね、君」
「私、打たれた傷が痛みますから、お水で冷やさせて頂こうと存じまして」
「あとで!」と龍介君はいった。そして小間使を元の寝椅子におい帰した。
「そんなことはあとでたくさんできるよ、まあ静かに坐ってい給え。そこで秋山さん、失礼ですが、今夜この宴会へくる途中、どこか外《ほか》にお立寄りになったところはないかお話し下さいませんか」
秋山紳士は、自分にかけられた疑《うたがい》が解かれそうになったので、元気を取戻《とりもど》しながら話した。
「そうです、家を出まして銀座で二軒用事をたしました、一軒は日本屋という洋服屋で、春服の仕立を頼んだのです。それから泰昌軒《たいしょうけん》という支那人の陶器店へよって、七宝焼の壺を買いました、それだけです」
「有難《ありがとう》う存じました」
龍介はきっと唇をむすんで立上った。
「もう事件は解決しました。三十分の後、僕はこの事件の主謀者をつれてここへ帰ってきます。伯父さん、あなたは料理部屋へいって、今夜|北京《ペキン》亭からきている料理人《コック》を一人も逃がさないで下さい、その中《うち》の左利きの男が犯人です。それから樫田さん、あなたは警視庁へ電話をかけて、腕力のある警官を十人ばかり、大至急銀座の泰昌軒へ派遣するように命じて下さい、さあ僕がどんな風に解決するかごらんに入れましょう!」
あっけに取られている一同をあとに、化粧室をとび出した龍介は、大声に喚いた。
「壮太君、さあ君の拳骨《メリケン》がまた入用だ、行こう※[#感嘆符二つ、1-8-75] 今夜は大物だぞ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
[#3字下げ][#中見出し]殴れ※[#感嘆符二つ、1-8-75] 壮太※[#感嘆符二つ、1-8-75][#中見出し終わり]
それから三十分後だ、樫田刑事が、警官隊をつれて、夜更《よふ》けの銀座の、泰昌軒へ駈けつけた時、中ではすばらしい大格闘最中だった。
「野郎共束になってかかってこい、拳骨《メリケン》壮太さまがお相手だ、サア来い※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
怪しい支那人に取巻かれた真中に仁王立になって、喚いているのは拳骨《メリケン》壮太だ。見ると龍介君は自動拳銃《ブロオニング》を片手に、にやにや笑いながら、一段高いところに立って誰も逃げださぬように見張りをしている。
「やれ※[#感嘆符二つ、1-8-75] 壮太君、今夜は僕は邪魔をしないよ、思う存分暴れろ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
「有難えぞ、メトラス博士の時にゃ、坊ちゃんにお株をとられたから、今夜こん畜生め、壮太さまがどれくらい強いか見せてやるんだ。さあ豚共、かかってこいっ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
叫びざま、いきなり取巻いている支那人の荒くれ男の一人に跳掛っていった。がしゃん※[#感嘆符二つ、1-8-75] ぴしり※[#感嘆符二つ、1-8-75] めりめり※[#感嘆符二つ、1-8-75] がらがらがら※[#感嘆符二つ、1-8-75]
「やれ※[#感嘆符二つ、1-8-75] やれ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」龍介君はそれを見下しながら叫んだ。
「素晴しいぞ、そら、殴れ※[#感嘆符二つ、1-8-75] 殴れ壮太※[#感嘆符三つ、113-14]」
傍からけしかけられるので、壮太得意絶頂だ。
「この野郎※[#感嘆符二つ、1-8-75] こん畜生※[#感嘆符二つ、1-8-75] どうだ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
とばかり、取っては投げ、掴んでは投げ、まるで阿修羅のように家の中を縦横無尽に暴れまわった。
かくして、泰昌軒の地下室に隠れていた怪支那人の一団は、間もなく樫田刑事一行のために捕縛された。
「へん、どんなもんだい」
壮太は流れおちる汗を横なぐりに拭きながら、数珠《じゅず》つなぎにされた悪漢の前で喚いた。
「おいらの親分は龍介様だ、そしておいらは拳骨《メリケン》の壮太様よ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
[#3字下げ]洗面器のカラクリ[#「洗面器のカラクリ」は中見出し]
樫田刑事と春田君とは、ふたたび牧野子爵邸の化粧室に戻ってきた。
「さて、まず頸飾を出しましょう」
龍介君はそういって、書生を呼んだ。
「君、すまないがね、料理《コック》部屋へいって、水の流れでる溝口へ網を張っていてくれたまえ」
書生はかしこまって出ていった。
「さて小間使君、どうか額の傷を冷やしてくれたまえ」
龍介は小間使にいった。小間使はその瞬間|何故《なぜ》かさっと顔色をかえた。そして慄えながら云《い》った。
「いえ、私、もうよろしゅうございますの。もう痛みはいたしませんから」
「では、僕が手を洗わしていただこうかな」
龍介君はつかつかと洗面台へ近よって、勢《いきおい》よく水を出しながら、ていねいに手を洗いはじめた。すると間もなく、大声で喚きながら廊下を書生が駈けてきた。
「出ました、出ました先生、ダイヤの頸飾が流元《ながしもと》から出てきました」
そう叫んで室内へとびこんできた書生の両手の間には、なんと燦然と輝く黄色ダイヤの頸飾がゆれていたではないか。
「ねえ、樫田さん」
龍介君は皮肉に笑いながら云った。
「僕はさっき云ったでしょう、頸飾の隠し場所も、そして犯人もわかっているって。犯人は小間使と北京《ペキン》亭からきた左利きの料理人《コック》ですよ、あははは、これが僕の探偵の仕方です」
「どうしてこの事件を解決したか」
やがてもう一度客間へ人たちが集った時、龍介は静かに話しだした。
「あの女中の殴られた傷を見ると、右の額です。向合《むきあ》って相手の右の額を殴るには、左利きの人でなければできません。そうでしょう径田さん。ところが棍棒についていた指紋は秋山さんの右手の指紋だし、秋山さんは右利きだ。彼等が秋山さんを犯人だと思わせようとした第一の失敗はこれです。
第二には、女中が自分を殴ったのは、夜会服を着た紳士だといった、ところが暗闇の扉《と》の蔭から跳出した人が、夜会服を着ていたかどうか、分るわけがない、なんなら試してごらんなさい。つまり女中は秋山さんを犯人に思わせようとして焦って、かえってぼろを出したのです。樫田さんが秋山さんを訊問している間に、僕は部屋を検《しら》べてみました。ところが女中が秋山さんの隠れていたといった扉の蔭には、かえって秋山さんの無罪を証拠だてる物が落ちていたのです、それは小さな玉葱《たまねぎ》の片端《きれはし》です。つまりそこに隠れていた者の体からその玉葱の小さな片端《きれはし》か落ちたのです。玉葱の片端《きれはし》、それは支那料理には附物だ。そうでしょう、皆さん、そして今夜は支那料理のコックがきている。これだけで事件は解決したも同じです。それからもう一つ、室内を検《しら》べてみると洗面器が濡れていたんです。夫人が洗面器を使ったのは夕方お化粧の時で五時間も経っているから乾いているはずのところが、見るとひどく濡れている。そこで僕は頸飾の隠し場所もわかったのです。要するに彼等はこんな風に企んだのです。秋山さんが銀座の泰昌軒によった時、何かの機会にあの棍棒を秋山さんに掴ませて、秋山さんの指紋をそっと取っておいたのです。それから仲間の一人を料理人《コック》に化けさして邸へ入りこませ、小間使とぐるになって、化粧室へ入ったところをわざと例の秋山さんの指紋のついている棍棒で殴った、(その時|料理人《コック》は自分が左利きであるのを忘れていたんですね)そして女中は気絶したように見せかけ、その棍棒は見えるようにそこへ放り出しておいたんです。
その時|料理人《コック》が頸飾を持っていれば、身体検査をされた場合すぐにわかってしまうから、洗面台から水流しの鉛管の中へいれておいて、秋山さんが犯人として警察へひかれていったあとで、洗面台から水を流して、料理部屋で、料理人《コック》が溝口から流れ出るのを受取って逃げようと計画してあったのですね」
聴いていた客たちはじめ、さすがの樫田刑事も思わずあっといって春田君の名探偵ぶりに舌を巻いた。伯父である牧野子爵が、その時、どんなに得意然と髭を捻っていたか、皆さんにも想像できることでしょう※[#感嘆符疑問符、1-8-78]
「失敬しました春田君」
樫田刑事は立ってきて、進んで春田君に手をさし出しながら云った。
「先ほど私はあんたを軽蔑しておった。しかし今では私自身を軽蔑しております、どうか先程の無礼をお許し下さい」
それを見ていた拳骨《メリケン》壮太、思わず拳骨《メリケン》で鼻をぐっと擦《こす》りながらいったものです。
「どうでえ、おいらの親分は春田さんだ、そこでおいらは拳骨《メリケン》壮太よ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
さて読者諸君。私は残念ながらひとつのお知らせをしなければなりません。こうして春田君は続けざまに五つの重大事件を解決しましたが、今度ある方面からの命令で、一年間外国へ見学に派遣されることになったのです。
我等の少年探偵春田龍介君は、来る三月、二年級を修了すると同時に、まず欧羅巴《ヨウロッパ》へ向けて出発します。ドイツ、フランス、イギリス、アメリカ、これらの国々の見学を終えて帰朝した時、日本の探偵界に春田君がどんな活躍をするか、それを楽《たのし》みに、どうぞお忘れなくお待ち下さい。いずれまたその時に。
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第一巻 少年探偵・春田龍介」作品社
2007(平成19)年10月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1931(昭和6)年1月
初出:「少年少女譚海」
1931(昭和6)年1月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ