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一念不退転
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一念不退転
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)佐世得十郎《させとくじゅうろう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)六|緡《さし》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#8字下げ]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
佐世得十郎《させとくじゅうろう》はきょうも仕事にあぶれた。
仕事といっても、大してむずかしいことではない。大阪が亡んで徳川家の礎が微塵動かぬものとなってから、江戸の方々に急速に建てまされてゆく大名屋敷の工事に雇われて、もっこ[#「もっこ」に傍点]をかついだり、土を掘ったりすることなのだから、体力さえあれば誰だってできることなのだ。だから、しばらくの間は得十郎も毎日のように仕事があってくれたのだが、近頃になって江戸は景気がよいというので、近国からどっとたくさんの人足どもが入りこんできたために、使うほうで気をつかわねばならぬ得十郎のような浪人者は敬遠されがちになった。
きのうもあぶれ、一昨日《おととい》もあぶれ――きょうで三日あぶれつづきなのである。
さわやかな秋の朝だ。かなり高く昇った陽がきらきらと露をきらめかしている所々の空地の叢《くさむら》にはまだ虫が鳴いているというのに、もう赤とんぼがすいすいと飛んでいる。
「帰ったら、さて、どうしよう、釣にでも出かけるか」
真青な空に一きれ浮いている白い雲を仰ぎながら辻を曲ったときだった。
「おじさあーん」
突然、うしろのほうから呼びかける者があった。
「おお、三吉《さんきち》か」
得十郎は血色のよい顔をにとりと綻《ほころ》ばして十ばかりの少年の走り寄って来るのを待った。
「おじさん、またあぶれたんだろう」
小さな呼吸《いき》をはあはあ弾ませながら、いたずらっぽい眼をくるりとむいて見上げる。
「うん、まあ」
「いけないね。お婆さんが心配するじゃないか」
「しかたがないて」
「そいで、きょうはまた釣魚《つり》に行く」
「うん。どうしようかと思っているんだが」
「行こうよ。どうせうちにいたってしかたがないんだろ。行こうよ。行こうよ」
「行ってもいいが……」
「行こうよ。行こうねッ。おいら帰ってしたくをして来るから、おじさんは家で待っててよ。きっとね。一人で行っちまっちゃ駄目だよ」
云いたいだけ云って、少年は走り去った。
この少年はこの近くの左官職の家の小せがれだ。姉にお雪《ゆき》というのがあって、得十郎の老母に縫物を教わりに来るので、いつの間にか得十郎を友達あつかいにしてしまった。
少年は、大人と、わけても、たとえ浪人者にもせよ侍と友達であるというのが得意なのだ。
(おいらにゃお侍の友達があるんだぞ)
子供仲間にこう云って誇っているのである。
得十郎の住居は一軒建ちにはなっているがひどく狭い。入口の二畳、その奥が客間にも得十郎の居間にもなる六畳で、その横が勝手につづく四畳半で、そこが、老母の居間になっている。六畳には狭いながら竹の濡縁もついているし、庭もあるが、その庭はひどく狭い。縁に坐ったまま手をのばせば杉の生垣が届くのである。
老母は、いつものとおり、三人の針子を相手に自分の室で賃仕事をしていたが、得十郎の姿を見ると、針を置いて微笑した。
「ただ今帰りました。きょうも仕事がございません」
得十郎は、敷居際に坐って、折目正しく挨拶した。
「おおそうかい。それはそれは。御苦労でした。では、これから釣にでもおじゃるかえ」
老母も折目正しい。
母のこの態度にはいつものことながら、のんきな得十郎もまいる。自分に仕事がなければそれだけ母は余分に稼がなければならないのだ。六十を越えた母に食わしてもらっていると思うと、得十郎は身を切られるような気がするのだが、ちっとも愚痴めいたことを云わない母なのだ。気にしているようすも見せないのだ。それだけに、こちらはかえってつらい。
「はあ、いや」
すぐれてたくましいからだをすくませて、生返事して、得十郎は自分の居間に引き取った。
母のほうから云い出されただけに、ちょいと釣のしたくがしにくい。あまえていると思われそうだし、自分ながらのんきなのが気がさすし――それで、杉の生垣を眺めて、ぼんやりと坐っていると、表で三吉の声がした。
「おじさあーん、おじさあーん」
困ったと思って黙っていると、無遠慮に大きな声で云っているのだ。
「あれ、しようのないおじさんだな。行っちゃったのかい。あんなに、一緒に行こうと約束したくせに」
そして、一際、声を張り上げて、
「お婆さん。お婆さん。おじさんもう行っちゃったの」
「はいはい。いますよ。いますよ」
老母は答えたが、聞こえなかったらしい。なお大きな声で、
「お婆さん、お婆さん、お婆さんたら」
くすくすと針子たちのわらう声が聞こえた。
「しょうのない子どもだことねえ」
つぶやきながら、真赤な顔をして、三吉の姉が出て行った。
何やら、小さい声でたしなめているようすだったが、三吉はひるまない。
「何だい。女なんてスッこんでろい。おいらおじさんに用事があるんだい。おじさんいるのかい。おじさあーん。おじさあーん。いるんだったら返事をしなよ」
老母が得十郎に云った。
「行ってあげなさい。お約束したのなら、子供衆でもそのとおりにせねばなりませぬ」
竿をかつぎ、魚籠《びく》と餌壺をさげて、威張り返っている三吉である。お雪はその前にはらはらして立っている。
「何だって返事をしないんだい」
得十郎を見ると少年は早速に口を尖らす。
「餌はあるのか」
「あらあ。きのうのやつがうんと残ってらあ」
少年は、餌壺からうじゃうじゃと赤い蚯蚓《みみず》をつかみ出して見せた。
「行くんだろうね」
「行くから大きな声を出すな」
「だってはっきり云わないからさ。はっきり云えば黙ってらい」
「三ちゃん!」
お雪は、弟をたしなめて、得十郎にわびた。
「すみません」
真赤になって、涙さえ浮かべておどおどしているのだ。
得十郎は、赤くなった娘の顔を美しいと見た。そのためであったろうか、かねてはこだわりなく闊達な口をきく彼だったのに、
「いや、なに……」
と妙に口ごもったのである。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
日なみの悪いせいか、ちっとも釣れない。来て一刻ほどもなるのに、浮木《うき》はびりりとも動かないのである。
三吉はすぐ退屈した。あくびをしたり、口笛をふいたり、とんぼを追っかけたり、最後には、竿でぴしゃぴしゃ水面を叩きはじめた。
こうなっては駄目だ。
「三吉、帰ろうか」
「うん」
待っていましたとばかり、三吉は帰りじたくにかかった。
場所は不忍《しのばず》の池から神田川に流れこむ小溝、後世の黒門町といったあたりだ。そのころは、まだ開けずに、田圃《たんぼ》があったり、原っぱがあったり、畠があったり、かと思うと、ところによっては木口の新らしい家が立並んで、どうやら市街地になろうとするようすを見せていた。田圃には稲の花が白い粉をばら撒いたように咲いていたし、原っぱには夏草が先端《さき》のほうがほんの少し黄ばんだだけで凄まじく繁っていたし、畠には大根か、菜か、表面だけ白く乾いた土の上に小さい芽がぎっしりと出ていた。
家は神田の柳原にある。
神田川の近くになって、家並が繁くなりかけたところまで来たときだった。
行く手の道の真中に、真黒に人が群って、何やらわいわい騒いでいるのが見えた。
三吉が知っていて教える。
「ありゃあ角力《すもう》だよ。辻角力だよ。この辺の若い衆がはじめたんだけど、近頃ではずいぶん遠いところから取りに来るんだってさ。それで、褒美が出るんだよ。十人勝ち抜けば銭が一貫、米が四斗俵で一俵もらえるんだよ」
「ふうん」
なるほど、土俵のわきに四斗俵を六俵山形につんで、その上に永楽銭が五六|緡《さし》のっけてある。土俵を取り巻いている見物人はいろいろだ。百姓体の者、人足体の者、町人、職人、浪人、なかには供奴を連れた身分ありげな立派な武士《さむらい》までいる。さすがに女はいない。女の角力見物は凄まじきものに数えられている時代のことだ。
土俵の上ではちょうど一勝負終ったところで、額に刀痕のある荒々しい顔立の五分|月代《さかやき》の浪人体の男が次を待って、土俵際にしゃがんでいる。
「四人目、四人目、次はないか、次はないか」
行司――といっても、どれも角力取の一人であろう、素っ裸の角力じたくのまま扇子《せんす》を握ったのがしきりに呼び立てていたが、急に出る者がいないと見ると、
「誰も出ねえのか――じゃ、おいらが取る」
と云って、溜りにいた一人に扇子を渡した。
勝負はあっけなくついてまた浪人の勝になった。
次には鎌髭の生えた奴体の男が出たが、これもあっさりとうっちゃりを食ってしまった。
強い男である。出る相手、出る相手、器用にこなして、呼吸ぎれ一つ見せないのだ。
あと一番で十人勝抜きという場になった。
「どうだどうだ、出ねえか出ねえか、あと一番の勝負となりおったぜ」
行司は声をからして呼びたてる。
得十郎は、先刻《さっき》からむずむずしていた。角力は得意なのだ。長い浪人ぐらしで生活に追われているために、この近年試みたことがないが、見ているうちに、全身に力瘤が入って、むずがゆいような気がしてきたのである。米も銭も格別ほしいとは思わなかったが、いきなり叫んでいた。
「わしが出る!」
三吉は驚いた。
「おじさん取るのかい」
「うむ。やってみる」
いささかてれくさい感じだった。
釣道具を少年に渡して、締込を貸してもらって、裸になって土俵に出た。
いいからだだ。たて横ともにがっしりとした骨組に鉄片を叩きつけたように強靱な筋肉のうねりが、鍛えのほどを思わせる。
「凄いの」
「浪人衆らしいが、どこの人じゃろう」
人々は覚えず驚嘆の声を放った。
得意なのは三吉だ。
「柳原だい。おいらの友達だい」
聞かれもしないのに、そばの人に説明しているのである。
からだはよし、技はたくみなり、じりじりと押して行って、土俵でうっちゃろうとするのを、ぽんと無造作に押し出した。
一番の取り手がこの調子だ。あとはもう敵でなかった。またたくまに十人|薙《な》ぎ倒してしまった。
「強いなあ、おじさん、えらいなあ、おじさん」
さすがに汗ばんだ顔を拭き拭き土俵を下りて来ると、三吉は熱狂しきっている。前に廻り、後ろに廻り、のぞきこんだり、見上げたりして、きまりの悪いほどほめそやすのである。
「ああ、強いよ、強いよ」
汗も拭わず、そこそこに着物を着た。
「さあ、帰ろう」
「だって、おじさん……」
「なんだ」
「米と銭……」
「いらない、いらない。さあ、帰ろう」
「だけど、せっかく……」
おしそうに、賞品のほうをにらんでいるのである。
「いいんだ、いいんだ」
さっさと歩き出すと、後から呼びとめられた。
「あ、もし、御浪人衆」
世話人だと先刻からみていたが、磨いた銅《あかがね》のように色艶よく禿げた頭に、ほとんど真白になった髪をちょんとからげた老爺《おやじ》が小腰をかがめている。
「何だ」
「米と銭を持って行ってくだされ」
「わしはいらん。わしは米や銭がほしくて出たのではない。わしはただ……」
なぜか、得十郎は赤くなって云いかけたが、相手は手を振って全部を云わせなかった。
「いけませぬ。ぜひお持ちかえり願わんことには。お前様がその約束を御承知であろうと御承知でなかろうと、十人勝抜きの人には差し上げると広く人々にふれ出して約束してあるのでござるによって、ぜひともお持ちかえり願いたいのですじゃ」
「しかし……」
「しかしも何もござらぬじゃ。ぜひお持ちかえりくだされたい」
今こそ貧しい生活をしていても、得十郎は賭角力など平気で取るようには育てられていない。侍というものは意地と名誉のためにのみ動くものである。利欲のために動くのは百姓町人のことと、生れ落ちたときから教えられてきている男である。得十郎はどう答えてよいかわからなかった。
「もらいなよ。せっかく、くれるというんじゃねえか」
三吉が大人みたいな小生意気な口をきく。
「いや、その……お前は黙っとれ」
ますますまごついた得十郎である。
見物人も、角力取たちも、角力はそっちのけにして、この懸合を見ている。
(どうしたんだね、この浪人者は、せっかくあれほど骨折っていながら、賭物はいらないなんて)
(大して工面のよさそうなようすもしていねえじゃねえか。見栄張ってるのかね)
(見栄張るがらでもなかろう)
どうやら、彼らの眼つきはこう語っているのである。
それを意識すると、得十郎はかっとのぼせて、目がぐらぐらして、耳ががんがん鳴り出した。
「いただいてまいる、いただいてまいる」
汗をかいて、そう云ってしまったのである。俵をかついで、銭は三吉に持たせて、歩き出して五六間のところで、また呼び止められた。
最初から見ていた、供奴を連れた身分ありげな武士だ。
「卒爾《そつじ》ながら、御姓名と御住所をお明しくださりますまいか。身共は……」
鄭重な態度だったが、得十郎はあわてて云った。
「お名乗するほどの者ではござらぬ。失礼、失礼、平に失礼」
重ねて問い返されるのを恐れるもののごとく、三吉を追いたてるようにして急ぎ足になった。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
「分捕《ぶんどり》だア、分捕だア、角力に勝って分捕だア」
家の近くになると、いきなり走り出して三吉は叫び出した。
「これ!」
叱ったが、小耳にもかけない。得十郎が重い荷をかついで身の自由のきかないのをいいことにして、からかうように逃げ廻りながら、
「分捕だア、分捕だア、米が四斗に銭一貫、角力に勝って分捕だア」
と叫びながら家に走りこんだ。
「ね、そうだったね。十人とも、ぽんぽんぽんぽん、おじさんが投げ飛ばしたんだね」
一同の前に坐って、三吉は昂奮しきってしゃべっているのだ。
てれくさげに得十郎は笑って自分の居間に引きとって、縁側に坐っていると、老母が入って来た。
老母の顔を一目見たとき、得十郎ははっとした。いつになく、さびしくひきしまった顔をしているのである。子供のころ、悪戯《いたずら》をして叱られたことがよくあったが、ちょうどそんな顔をしているのである。
「得十郎や」
ぴたっと端座して、まずこう云うのである。
「はい」
得十郎には、なぜ母がこんな態度を見せるか、よくわかっている。賭角力など取ったことを怒っているのである。
「わかりますね」
こうだ。ほかに何も云わない。
「何でしょうか」
いつにないことだ。得十郎はしらばくれてしまった。そして自分でもしまったと気のついたときには、母の顔はいっそうひきしまって、まるで刺すような眼で得十郎の眼を見つめていたのである。
「わかりませぬかや」
おだやか過ぎるほどおだやかな調子の言葉だったが、同時に、その眼がうるんできた。
得十郎はうつ向いた。
「情ない心におなりだね。お前は佐世得十郎ですよ。それを知っておいでかい」
得十郎はもう平気を装っていることはできなかった。両手をつくと、自分も涙ぐんで、
「申しわけありませぬ。かえしてまいります」
襖一重の向うはしんとしている。咳の声一つしないのである。おしゃべり小僧の三吉までが居竦んだようになっているらしいのである。
銭を懐《ふところ》に入れて、俵をかついで、西日のさしこんでいる戸口を出かかったときだった。
ふと、足許に人の影がさしたと思うと、
「もし」
と呼びかけられた、四十五六、実直そうな武家の用人風の男である。
「ちょいとものをおたずねいたしまするが、御当家は佐世得十郎様お住居でござりましょうか」
「さよう、佐世は拙者でござるが」
得十郎はけげんな顔をして相手を見たが、相手は返事も忘れたように、あたふたと引返して行った。
家の前を五六間離れたところに小溝があって、その縁にあらかた葉が落ちて青空が透いて見える柳が二三本、植っているが、そこに被衣《かつぎ》姿の女が向うを向いて立っている。用人は女の側によって、小声で何やらささやいた。
すると、その女ははげしい動作でこちらをふり返って、じっと見つめているようだったが、急いで近づいて来た。
「おお!」
白の練絹の被衣に包まれたその顔を見たとき、得十郎は驚きのあまり、肩にのせていた俵を取り落すところであった。
「お芳《よし》どのではないか」
「得十郎様」
娘の美しい眼には見る間に涙があふれた。
「どうしてここへ、どうしてここへ」
得十郎は狼狽していた。一旦、俵を下へおろしたが、何のためか、またひょいとかついでしまった。
「やっとのことでたずね当てました。去年の夏からこちらに出てきて、ほうぼうたずね歩いていたのでございます」
「そうか、そうか、それで兄者は、孫兵衛《まごべえ》は達者でござるかの。孫兵衛がこちらに来て見えるということは存じているが、何せ、今も御覧のとおりのこの始末で。つい、気になりながらり伺いもせざった」
「達者でおります。いつもあなた様のことを……」
娘はまた涙ぐんだ。
「母がおりますゆえ、母を呼びましょう。拙者はこれからちょいと出かけなければならぬ。なにすぐ帰ってまいる。茶なと上って、ゆっくりと待っていてくだされ」
老母を呼ぶと、老母も驚いた。
「まあ、お芳どの」
かねての沈着にも似ず、ぺたりと上框《あがりがまち》に居坐ったまま眼をしばたいているのである。
「では、行ってまいります」
得十郎は斜めな赤い陽ざしの中を歩いて行きながら、ちと弱ったと思った。
得十郎は元来|豊臣《とよとみ》家の遺臣である。大阪両度の戦争には相当めざましい働きもした。落城後、大阪残党の詮索は相当にきびしかった。捕えられればたいてい斬られた。だから、その間は、彼も母とともに伊賀の山奥に恥を忍んでいたが、間もなく探索令が撤廃され、大阪の残党といえども召しかかえてさしつかえなしということになったので、江戸に出て来たのである。
お芳の兄の結城《ゆうき》孫兵衛は、得十郎が豊臣家にいたとろの同僚である。親の代から懇意にしていた両家であったために、孫兵衛と得十郎とが兄弟同然の親しい仲であったのみならず、お芳は得十郎の嫁にという約束までできていたのである。
二人とも年頃になって、いよいよの話が進められたころ、戦争がはじまった。さらに戦後はちりじりばらばら自分の身の安全をはかるよりほかのことができない状態となったので、祝言などというのんきな沙汰はどこかへ飛んでしまった。
孫兵衛は早く仕官した。残党詮議が撤廃されるとほとんど同時に、浅野家からの招きがあって、以前の千石の禄と同じで仕えることができた。
そのとき、孫兵衛の推挙で、得十郎にも浅野家から口がかかってきたが、得十郎は思うところがあるといって断ってしまった。
禄高も気に食わなかったが、何よりも女の縁によって用いられたと思われそうなのがいやだった。
「芳をどうしてくれるのだ」
孫兵衛は日文《ひぶみ》矢文《やぶみ》でせめたてた。
それがうるさかったので、得十郎は母を連れて江戸に出て来た。思うところがあるから江戸へ行く、お芳どののことは今しばらく頼む――という知らせやら、依頼やらはしておいたが、江戸へついてからは手紙一つ出さなかった。どうにも、話にならぬ貧しい生活がつづいたので、最初からのゆきがかり上、それ見たことか、だから云わぬことではないと云われそうで、云ってやれなかったのだ。が、とうとう見つかってしまった。
「ちと弱ったな、ちと弱ったな……」
口の中で拍子を取って歩いているうちに、貧乏は恥でないと気がついたし、また、俵をかついだ自分を見ていったいどう思っただろうと考えておかしくなった。
「おおかた、かわいそうに米|搗《つ》きに自分で行く――とでも思ったろうて」
朗らかに、大きな声で笑ったのである。
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
受取るの、受取らぬと交渉はかなりに面倒だったが、結局、喧嘩ごしにおいて、帰ってみると、驚いたことに、もう一組客が来ているのである。
先刻、角力場で、こちらの名前と宿所を聞いた武士だった。例の客間兼居間に坐って、落ちつきはらって茶を喫している。
「これはこれは」
「ほうぼうたずねたずね来ていただいたのだそうです。こちらの様は、御直参衆の大久保但馬守《おおくぼたじまのかみ》様」
相手をしていた母が説明してくれる。
針子たちも、三吉も、きょうはもう帰って行ったのだろう。勝手のほうはしんとしている。芳はそこに待っているのだろうが、衣摺の音一つさせない。
得十郎が帰って来たので、母は勝手に退って行く。
「先刻は失礼いたしました」
「いや、当方こそ」
武士の態度は至って鷹揚である。年頃三十五六、大久保但馬守というのははじめて聞く名だが、かなり大身――五六千石の風格は十分にある。
「早速でござるが、御仕官のお志はござるまいか」
挨拶が済むと、武士はすぐ用談にかかった。
江戸へ出て来てはじめて聞く仕官の口である。のんきそうにしてはいても、心の奥ではあせって待ち設けていたものがとうとう来たのである。が、不思議に、大して心は騒がなかった。
「ないことはござらぬが……」
落ちつきはらって受けたのである。
「ござるか」
相手は勢いこんで膝を乗り出してきた。
「ござることはござるが……」
「では、拙者の家に来ていただけまいか」
「御貴殿のお家に?」
得十郎はあきれた。直参に召し出すか、でなくとも、しかるべき大名へ推挙してくれるつもりなのかと思っていたのに、旗本の家の家来にとは……。答えもしなかった。
「禄のところは三百俵ほど進ぜるゆえ、曲げて御承引願いたい」
「…………」
黙っているとますますむきになってきた。
「拙者の知行が五千石、三百俵と申せば、ほぼ二百石の知行に相当する。五千石の拙者が二百石出そうというのだ。執心のほど酌んでほしゅうござるの」
気の毒だとは思った。ありがたいとも思った。が、気がすすまなかった。
「せっかくのお言葉ながら……」
そういうよりほかはなかった。
「禄に御不足か。それならば、御所望の額を申してくだされ。拙者も何とか考えましょうゆえ」
得十郎は黙っていた。云っても無駄だと思ったし、かえって、この好意を持てる人物に腹を立てさせるのみに過ぎないと思ったし――。
が、相手はぜひにと促すのである。
「申しても所詮無駄でござる」
「いや、ぜひ承りたい。拙者の身に負うことなら、御望みのとおりにして差上げたい」
「お腹立になるかも知れぬと存ずるゆえ……」
「さようなことはござらぬ。ぜひ承ろう」
「では、申しましょう――千石」
「なに?」
「千石――それに一粒かけても、御奉公はいたしかねます」
「千石? 千石? 千石? ……」
相手は茫然としてくりかえしていたが、急に笑い出した。
「冗談はおかれい。千石などと……」
「冗談ではござらぬ。大真面目で申しております。拙者は千石もらわぬかぎり奉公いたさぬ覚悟。また、千石の値打はある男と自負しております」
怒りの色が微かに相手の顔を染めた。
「貴殿は拙者を愚弄しておられる」
得十郎は微笑した。
「お腹立ちになっては約束が違い申そう」
「うむ、うむ、うむ……」
相手は下を向いてうめいていたが、気が静まると、
「失礼申しました。無い縁でござったろう、くれぐれも惜しくは存ずるが、千石とあっては拙者の身上ではあきらめるよりほかはござらぬ」
と挨拶して帰って行った。心を残して行くようすだった。得十郎は気の毒だとは思ったが、しかたはなかった。どんなに今の生活が苦しくとも、気の毒であろうとも、自分を安売りすることは誇りが許さなかったのである。
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
(待てど暮らせど何の便りもないので、たまりきれなくなって無理に兄に頼んで江戸に出て来た。江戸に出て来てからは、いろいろ手をつくしたが、一向手がかりが得られないので、近頃ではもう絶望しきっていた。ひょっとして、もう江戸にはいらっしゃらないのではないかとまで思っていたのだった。しかし、ついきのうのことだ。兄が、お屋敷に出入の人足元締から、あなた様ではないかと思われる浪人衆のことを聞いてきたので、きょうは夜の明けるのを待ちかねる気持で家を出てきたところ、あなた様だったので、うれしい云々――」
泣きつ、笑いつ、芳は物語るのである。
得十郎はあわれだとも思ったし、気の毒だとも思ったし、すまなかったとも思ったが、同時に、一種不愉快な感情が微かな煙のように胸に動いてくるのを抑えることができなかった。それは、お芳の態度に露骨なまでに現われているあせり抜いている心のためであったろうか。
お芳は昔のとおり、いや、いや、昔よりも美しいとさえ云えた。昔は、わずかに綻《ほころ》びそめた蕾《つぼみ》のように、可憐ではあっても、どこかに、まだ青く生々しい固さがあったが、今見る彼女は、爛慢と咲き誇った美しさであった。薄青く線の細かった、弱々しげな頸筋は膩《あぶら》をたたえて乳色に張っているし、頬にも唇にも力と絢爛さが充ち充ちしているし、眼は挑みかかるようなはげしい光を点じて、瞬間ごとにその顔を明るくしたり暗くしたりしている。限のくらむほどの美しさだといえよう。
だが――。
その美しさの底には、何かしら一脈の哀感があった。ものほしそうなと云うか、追いたてられているようなと云おうか、そういったものがからみ合って醸《かも》し出される哀感が、泣くときにも、笑うときにも、淡い翳《かげり》のように顔についていて離れないのである。
それが、得十郎には不愉快だった。
(無理もない。女盛りが過ぎかけているのだ)
と思いはしても、何となく、さもしい、と感ぜずにおられないのだ。
(盛りが過ぎようと、散ろうと、一旦|盟《ちか》ったことを無にする俺か、兄貴の側にじっとして待っていることがなぜできないのだ)
とにかく、得十郎は、
「すまぬことでござった。最前も出かけるとき入口で申したが、御覧のごとく尾羽打ち枯らした浪人ぐらし、気にかかっていながらも、つい恥しさが先に立って、お便りも差し上げられませなんだ。ま、ゆるしてくだされ」
とおとなしくわびはしたが、すこし容を改めて、
「しかし、そもじなぜ待っていることができぬのかな。いくらそもじがあせったところで、わしに運が向いて来ぬ以上、どうにもならぬこととは知っていやろうに」
この得十郎の言葉がどう聞こえたのであろう、お芳の顔が変った。黙って、じっと見つめていたが、
「得十郎様、あなた様はいったい、わたくしをお迎えくださるお心がおありなのでございましょうか」
と聞いた。
「妙なことを云いやるの。そもじの目には、わしは約束を重んぜぬ男に見えるかの」
こちらはおだやかに答えたが、相手は切り裂くように鋭く叫んだ。
「見えまする!」
「どうして?」
お芳ははらはらと涙をこぼした。
「あなた様はお好きで、いいえ、わたくしを迎えるのがいやさに浪人ぐらしをなされているのです。でなくて、前に兄があなた様を浅野家に御きもいりしたとき、どうしてお断りなさりましょう。今もまたこちらで聞いていますれば、御奉公の口をお断りなされました。あなた様はわたくしがおきらいなのです。御主取なされば、わたくしをお迎えにならねばならぬので、わざと断っていらっしゃるのです。いいえ、それに相違ありませぬ。それに相違ありませぬ」
これは、これは……
得十郎はあきれるばかりだった。よくもこんな持って廻った考えかたができるもの――馬鹿馬鹿しすぎて、真面目に弁解する気にもなれなかった。
老母もあきれているようだったが、息子がいつまでも黙っているので、
「お芳どの、なんでそのようなことがあろうぞいの。得十郎はさような軽薄な男ではないはず、得十郎は武士の誇のため……」
と口を出して慰めにかかったが、お芳は受け付けなかった。
「いいえ、いいえ、聞きませぬ。聞きませぬ。わたしはもう二十三でございます。女の盛りは過ぎようとしています。こうして、頼りない約束に縛られて盛りの過ぎてゆくのを見ていなければならないことが、どんなにつらいことか。さびしいことか。わたくしの身にもなって考えてくださいまし。わたくしにはもうこれ以上待てませぬ。嫌いなら嫌いとはっきり云ってくださいまし」
半狂乱の体だ。狂人のように眼を光らせ、青白くなった頬をひきつらして、すすり泣きながらしゃくり上げながら、食ってかかるのだ。人の違うように醜く見えた。
老母もあぐねたらしく、黙ってしまった。黙って、静まるのを待つつもりだったが、お芳はいっそう逆上した。
「なぜ黙っていらっしゃるんです。嫌いなら嫌いと仰っしゃってください。なぜ黙っていらっしゃるんです」
と食ってかかるし、微笑してなだめようとすると、今度はそれに腹を立てるのだ。
「なにがおかしいのでしょう。ええ、知ってますとも、わたくしは今笑われるようなことをしています。けど、これが無理でしょうか。笑われようと笑われようと――云ってくださいまし、得十郎様はわたくしがお嫌いなのでしょう。お嫌いなのでしょう」
手がつけられないのだ。
最初のうち、得十郎はにやにや笑っていたが、しだいにその眼は刺すようにきびしい光を帯びてきた。
「云ってくださいまし」
とお芳がつめ寄ったとき、切って放つように云った。「おお、嫌いだ!」
どきっとしたらしい。お芳は穴のあくほど得十郎の顔を見つめていたが、たちまち、声を上げて泣き伏した。
「今までは嫌いでなかった。が、たった今嫌いになった。なぜ、わしを信じて待っていることができぬか。たとえ盛りが過ぎて、そもじの顔に皺がたたもうと、そもじの髪が白くなろうと、それをいとうわしか。時さえくればきっと迎えようと思う心に何のゆるぎがあろう。待遠しくとも、つらくとも、じっとこらえて待つこそ武士の娘の嗜《たしなみ》だ。それを、そのように取り乱してあられもないことを口走るなど、愛想もこそもつきはてた。たった今、約束は捨てた。盛りの過ぐるがさびしくば、急いでどこへなりと縁づかれい!」
母が取りなそうとして口をききかけたが、いつになくきびしく、得十郎は遮った。
「御無用になさりませ。武士らしからぬ性根のものは、得十郎が嫁には似合わしくござりませぬ」
そして、立上ると、入口の二畳にはらはらして坐ったり立ったりしている用人を呼んだ。
「お芳殿がお帰りになる。用意さっしゃい」
[#8字下げ]六[#「六」は中見出し]
お芳が泣いて帰った翌日、早朝だった。
得十郎はお芳の兄孫兵衛の訪問を受けた。
五年ぶりの会見である。
一は千石の武士、一は素浪人と――その身分にへだたりができていたが、顔を合せれば昔のなつかしさがたがいの胸によみがえった。
久濶を叙する挨拶、四方山の話がすむと、孫兵衛は容をあらためた。
「きのうは妹が来て、何か失礼を申したらしくあいすまぬことであった」
「いや」
来たな――と思いながらも、得十郎はさりげなく受けた。
「女というものはしかたのないもので、とかく情に激して取りとめもないことを云うものじゃ。気にかけてくれるまい」
「気にはかけぬが、いささかむかっとしての。ははははは」
「申訳ない。が、あれもあせっていての。兄として、あわれと思うこともある」
「それはわかる。しかし、わしとしては致しかたがないでの」
「…………」
黙っているのである。これも、いたしかたのないことと思っていない点はお芳と同じらしいのである。結婚を嫌って主取をしないのだとはまさか思いもしなかろうが、好きで浪人しているのではないかぐらいのところは考えているらしいのである。
「孫兵衛、きのう、お芳どのは、わしがいつまでも浪人でいるのを、お芳どのを嫌っているゆえと申されたが、さようなことは誓ってないのだ。この世のどんな女にもまして、わしはお芳どのが好きだ。これは神明に盟っていつわりのないところだ。それを信じてくれようの」
孫兵衛は信ずるとも信じないとも云わないで、こう聞いた。
「芳に聞いたが、おぬし千石でないと奉公せぬと云うたそうの」
「云うた。わしは豊臣家へ仕えて千石いただいていたし、また自分の身に千石の値打はずんとあると自負しているゆえに、千石以下で人に召し使われようとは思わぬのじゃ」
「千石のう。――それで、おぬしは前にわしが推挙したとき、断ったのだの」
「そうじゃ」
「千石のう」
孫兵衛は溜息まじりに云ってうつ向いた。それを見ると、得十郎はかあっとしたものが胸にこみ上げてくるのを感じた。
「千石の禄を望むが過当だとおぬしは思うか。わしの己惚れじゃと思うか」
詰るような調子になったのである。
孫兵衛はあわてた。
「いやいや、そうは思わぬ。そうは思わぬが――戦国の乱世のときと違って、こう世が太平になり、また仕えを求める浪人者が多過ぎて困る今日、千石という大禄を出す大名があろうかと疑うのじゃ」
「おぬしはみごと千石得たではないか。おれとおぬしと何の変る所がある。同じく豊臣家で千石取ったのじゃし、高名とても同じようなものじゃぞ。おぬしが千石取りになれて、おれがなれぬという道理があろうか」
「おれは千石取ることになった。が、おれは運が好かったのじゃ。好過ぎたと云おう。それゆえ、同じ力、同じ閲歴があろうと、おれと同じ運がおぬしにも恵まれようとは考えられぬのじゃ」
「おれはそうは思わぬ。おぬしは運じゃというが、おれはそうは思わぬ。おぬしに千石の値打があったればこそ、千石出す大名も出てきたのだ。じゃによって、おれにもきっとそんな大名が出てくるに相違ないと信じて疑わぬのだ」
孫兵衛はうめいた。そして低い声で云った。
「可愛いや、お芳は一生嫁に行けぬそうな」
「なに?」
「おれは妹が可愛い。お芳があわれでならぬのだ」
しみじみと胸に迫るものがあった。瞬間、得十郎はたじろいだように黙ったが、頑固に云ってのけた。
「おれも気の毒じゃとは思う。が、おれは自分を安売りする気にはどうしてもなれぬのだ。おれを信じてくれ。おぬしも、お芳どのも、おぬしらがおれを信じてくれるなら、きっと今までのことを笑い話にするときがくるに相違ない。おれは信じて待っていてほしいのだ」
孫兵衛はまた溜息をついた。
得十郎は眼をつぶって思案していたが、不意に、不思議な微笑を浮かべて云った。
「今、わしがお芳殿に来てもらおうと云ったら、おぬしもお芳殿も承知してくれようか。この貧しい浪人ぐらしの中に、おぬしはお芳殿をくれることができるか、お芳殿はよう来ることができようか。それができるなら、いつでも来てもらおう。ここに来て、米の一升買いしながら、千石の口のかかってくるのをわしとともども待つのだ」
「…………」
黙っている。
「どうじゃ。それができるなら、来てもらおう」
孫兵衛はややためらった後、低く云った。
「それはできぬ。わしもできぬが、お芳もできぬであろう。お芳は侍の娘じゃ。おぬしが薄禄をいとうと同じように、お芳にも誇りがある」
「誇は形にはないぞ、心にあるものだぞ。侍とて貧すれば土もかつぐ、鍬鋤もにぎる。亭主がもっこをかつぐのだ。その女房が米の一升買い、何でもないことでないか」
「できぬことをおぬしは云っている。おぬしの心の持ちざまではさようなことをせずともすむ話ではないか。さようなことをおぬしの云うところを聞くと、そう思いたくはなくても、おぬしが妹を嫌っているのではないかと思わんではおられぬ」
「きらってはおらぬ」
「では、なぜ、千石などという高望みをするのだ……」
「なに! 千石が高望みだと?」
きらりと得十郎の眼が光って、顔色が変った。
「悪かった。口が辷《すべ》ったのだ。おぬしの力量才幹に千石の値打がないというのではない。世間一統が近頃のありさまなのだ……」
孫兵衛はあわてて弁解にかかったが、得十郎はもう一言も云わなくなった。きびしく口を結び鋭い眼を光らして、相手の顔を見つめているだけであった。
それで、孫兵衛も取着場がなくて、
「では、よく考え直してくれ」
と云って辞去しようとした。すると、得十郎は云った。
「きのう、お芳どのには申したが、きょう、おぬしにも云っておく。この縁談これきりにしてもらいたい。わしは夫の信じて疑わぬことを信ぜぬような女を妻にしたいとは思わぬゆえ」
[#8字下げ]七[#「七」は中見出し]
世の中というものはおかしなものである。
これまで評判のよかった佐世母子の評判がにわかに悪くなった。
どこからどう漏れたものか、得十郎が千石でなければ仕官せぬといってせっかくの口を一|蹴《しゅう》したという噂がひろがると、近所では驚いたが、その驚きは感心にはならずに呆れになった。
「千石? べらぼうめ! ちっとござってやしないかい。この御時勢に千石なんて正気の沙汰じゃねえぜ」
千石浪人――
千石婆ア――
云うまでもなく、前者は得十郎に、後者は母親に近所の者がつけたあだ名であった。
こんなあだ名のついていることは、三吉が教えてくれた。この少年はこのあだ名が嘲弄の意味を持っていることを知らないで、尊敬の意味を寓しているものと思ったらしいのである。
「知ってるかい、おじさん。みんな、おじさんのことを千石浪人と云ってるんだぜ。お婆さんのことを千石婆アてのさ。だけど、婆アなんて言葉が悪いじゃないか。なんだって婆さんと云わないんだろうね。千石婆さんと云ったほうが品がいいじゃないか。ねえ、おじさん」
得十郎は笑っていた。
仕事に出て行くのを見るとこう云った。
「ほほッ、千石浪人が人足かせぎに行かア」
あぶれて帰ると、
「千石浪人が小鮒釣りに行くて。小鮒を釣っているうちに千石釣り上げるつもりかの。いい気なものだ」
どれにもこれにも、得十郎は笑っていた。いっそう愛想よく、いっそう暢気そうに、人々に挨拶したのである。
得十郎がそうであっただけでなく、母もそうだった。仕立物をとどけに行ったり、注文をもらって帰ったりする老婆の姿を見るたびに、人々は辛辣な評言を浴びせかけるのであったが、これもまた微笑で受け流しているのだった。
依然たる敬意を失わないのは、三吉姉弟であった。この姉弟は、あの事件以来、いっそう親しみをもって、しかしいっそうのまめまめしさをもって母子の者に交った。
「姉さんたら、近頃ずいぶん泣虫になってね。よくめそめそ泣いているんだぜ」
ある日、いつものとおり釣りに行く途中、思い出したように三吉が云った。
「ふうん――どう泣虫なのだ」
「どうってね。おいらにゃなぜ泣くんだかよくわかんないけど……たとえばこうなんだ。――佐世様がたは立派な御身分のかたなのにおいたわしい。それでめそめそ。千石の御武家といえば、とてもあたしらはお側にも寄れないような立派な御身分、それでまたしくしく――おいら不思議なんだ。だって、毎日おじさんところに行ってるじゃないか。お側にも寄れないも何もないじゃないか、ねえ――そうそう、この泣癖は、あんときからはじまったんだ。それ、おいらがおじさんと魚釣りに行って帰りに角力取ったことがあるね。あの日、綺麗なお嬢さんが来たじゃないか。あの日からだよ。あのお嬢さんはおじさんの嫁さんになるんじゃないかい。おいら思うんだが、どうも、姉さんはあのお嬢さんを見てから悲しくなったらしい。つまり、姉さんはおじさんにほれてたらしいんだね。つまり、おじさんの嫁さんになりたがっていたんだね」
調子に乗ってぺらぺらしゃべり立てるのである。
「こら!」
得十郎は叱りつけた。
「何を云う。子供というものはそんなことを云うものでない」
叱りつけたが、胸をときめかすものがあって、覚えず頬があつくなった。
いつにない得十郎の声の激しさに、三吉はびくっとしたが、相手の赤くなったのを見ると、
「やあ、赤くなってらあい。赤くなってらあい。千石浪人が赤くなってらあい」
囃《はや》し立てて、走り出したのである。
[#8字下げ]八[#「八」は中見出し]
すっかり秋になって、よく晴れた空に毎日のように雪をいただいた富士の山の見える日がつづいた。
このごろ、得十郎も仕事にあぶれることがなくなった。収穫季節《とりいれどき》なので、近郊から人足に来ている百姓たちが自分の家に帰って行ったところに、幕府が諸大名に命じて外濠の大工事にかかったので、人手が足りなくなったのである。
「いい具合だ。当分母にも楽をさせられる」
得十郎は毎日、星空をいただいて家を出、星空をいただいて家に帰って、秋晴の日に照らされて、終日、土を掘り、もっこをかついだ。
昼飯休みのときだった。
牛車の並んでいるわきに一かたまりかたまっていた人どもの間にわっという叫びが起った。
「あ! 牛じゃ! 牛じゃ!」
「牛が放れた!」
「危い、危い!」
どこにもかしこにも叫びが上って、人足どもはばらばらと走り寄った。
何に驚いたか、大きな真黒な牛が道に躍り出して、気の狂ったようにこちらに狂奔して来るのである。
四五人の牛方が飛び出して追いかけたが、牛はその短い脚を眼にもとまらないほど急速に動かして見る見る距離を引きはなして行く。
前に立ち塞ってとめようとした勇敢な人足もあったが、あまりにも物凄い勢いに怯えて牛の近づく前に逃げ出したし、もっとも勇敢なやつが横合から飛びかかって、わずかにちぎれ残っている鼻綱を掴もうとしたが、牛がその巨大な頭を一ふり振ると、三間ほども刎ね飛ばされて長くのびたまま起き上ることはできなかった。刎《は》ね飛ばされただけではない。横腹から血が噴き出して、白く乾いた土を見る見る赤黒く染めていった。
「牛が離れたぞーッ」
「危ないぞーッ」
「避けろーい、避けろーい」
誰も彼も、今はもうこう叫ぶだけであった。
そのとき、前方から大名行列が近づいて来た。緋房の毛槍、金紋の挾箱《はさみばこ》、威儀を正しく粛々と近づいて来たのであるが、牛はそれを眼がけて飛んで行く。
ぴたりと行列の行進は止まった。
そして、揃いの小紋の麻裃を着た武士たちが、それぞれの位置からばらばらと走り出して来て、前方に横に並んだ。が、凄まじい牛の勢いである。逃げこそしなかったが、心の動揺の色はかくし切れずに、秋の陽に照らされてさわやかなの列が波のようにひしめいた。
そのとき、得十郎は、つい行列の側の葉をふるいつくした枯柳の側に立っていたが、とてもこの連中では食いとめることはできないと見てとった。
「やられるな!」
そう思った。が、そう思った途端に、得十郎はおどり出していた。無意識の動作だった。いきなり、からだが内部から弾機《ばね》で刎ねあげられるように跳び出していたのである。
この突然の障碍に、牛は一瞬瞠目したらしかった。前脚を基点にしてもんどり打つようにからだを跳らしてつんのめったが、たちまち前にもまさる勢いで、下からすくい上げるように突進してきた。
まともに受けては鉄壁、とてたまるものではない。得十郎はからだを右にひねってそれをかわすと、右手を上げて思い切り横面をなぐりつけた。そして、相手のたじろぐ間に、左右の手で角を抑えた。
それは眼にもとまらない速さであった。一瞬の後、牛と人とのからだは刻みつけた石像のように動かなくなった。両方、必死の力で押しているのである。得十郎の足も、牛の脚も、踝《くるぶし》まで砂の中にめりこんだ。
今まで声をからして叫んでいた群衆は一時に黙った。誰も彼も眼を瞠り、奥歯を噛みしめ、手に汗にぎって、この動きのない、しかし、気力と力のあらんかぎりをつくした凄まじい格闘を見つめていた。
嵐の吹き落ちた後のような寂寞である。
空の高いところで鳶《とび》が二三羽舞っている。のばせるだけ翼をのばして思いきり悠々《ゆうゆう》と舞っているのであるが、誰もそれに眼をとめる者はない、ひょろひょろと長閑《のどか》な鳴声が落ちてくるのだが、それも聞く者はない……。
一瞬――
二瞬――
三瞬――
…………
陽に灼《や》けて色が褪せ、つぎをあてて至るところ雑巾のように刺した針目のある半袖の襦袢から出ている、得十郎の両腕に瘤々に出ている逞しい筋肉がぶるぶると小刻みにふるえはじめたかと思うと、額に玉のように噴き出していた汗がしずくとなってこめかみを流れた。同時に、牛の腹があえぎはじめた。少しずつ、少しずつ、急速に、そして、大きくなって、最後には波を打つようにあえいできた。
「えいッ」
得十郎の両腕の筋肉がひときわ瘤立った途端、低い含み気味の矢声がその口をほとばしると、牛は前脚を地面にひざまづき、そして、巨大なからだは、どたりと横倒しになった。
もう立つ気力もないらしかった。横になったまま、大きな腹を波立たせ、涎《よだれ》だらけの鼻や口は激しい呼吸を喘いでいるのであった。
得十郎は、額の汗を横なぐりに袖で拭いて、
「牛方、牛方はいぬか」
と呼んで鼻綱を牛方に渡した。
このときになって、はじめて歓声が上った。呪縛が解かれたように、一時に、思い思いに、どっとほめそやしたのであった。
得十郎は少しきまりが悪くなった。
それで、人々の間を分けて立去ろうとすると、
「待て」
凛《りん》とした武家の言葉がうしろから呼びとめた。得十郎は何気なくふりかえったが、相手が誰であるかを知ると、さっと顔色を変えた。
熨斗目《のしめ》黒羽重の小袖に水色小紋の麻裃、堂々たる威儀のある三十年輩の武士なのである。牛に荒らされようとした行列の主なのである。金紋の乗物を舁《か》きすえさして、扉を開いて、微笑を含んでこちらを見ているのである。
「久しいの、佐世丹波」
「お人違い、お人違い、お人違いでござる」
どうしたものか、得十郎は、あわてふためいて、うしろも見ずに逃げ出した。
「待て、これ、待てというに――追え、引きとどめい!」
「はッ」
家来たちは先を争って追いかけた。
「お人違いだと申すに、お人違いだと申すに」
足のかぎり、得十郎は逃げ走った。
[#8字下げ]九[#「九」は中見出し]
どこまで逃げても追って来る。
とうとう、得十郎は自分の家のほうに向った。
「おじさあーん」
柳原の近くまで来ると、その辺で遊んでいた三吉が飛んで来て腰にしがみついた。
「おお、お前か」
呼吸を弾ませながらもほっとしたとき、追手は辻を曲って姿を現わした。
「あ!」
得十郎は三吉を振りはなして走り出した。
三吉もついて走って来る。
「どうしたんだい。逃げてるのかい」
「うむ」
「借金《かり》があるんだね。昔の借金があるんだろ」
「ついて来るな!」
「そうだろ。昔の借金が、それで逃げているんだろ」
「そんなものだ。ついてくるな。いい子だからわしの家を教えるんじゃないぞ!」
「云わないよ。うまくおいらがごまかして帰してやらア」
撃退せんと、健気《けなげ》に三吉は踏みとどまった。
得十郎は、大廻りして、一旦下谷のほうに行って、それから自分の家に帰って来た。
「おや、どうしました。気分でも悪いのではありませぬかや。顔色が悪いようですよ」
母はいつものとおりまめまめしく迎える。
「いや、気分は悪うごりざませぬが、少し理由《わけ》があって早く、そして無断で帰ってまいりました」
「そうですか」
母は注意深く息子の顔を見たが、それ以外には何とも云わずに、また裁縫にかかった。
母の前を退って、自分の居間に帰って、仕事着を普段着に換えて、坐る間もなかった。
「頼もう」
どかどかと足音がしたかと思うと、訪う声がしたのである。
来た!
今はもう得十郎も観念した。
「母様、拙者が出ます」
と云って立上るともう母は襖を開けて出て来た。
「いいえ。お前はこの家の主人です。外に人がいぬなら知らぬこと、人がいるのに、取り次ぎなどに出てはなりませぬ。わたしが出ます」
母はこうたしなめて、裾さばきもしやかに入口のほうに出て行って、何やら応対するようすだったが、すぐ帰って来た。
「備後福山の御領主、水野日向守勝成《みずのひゅうがのかみかつなり》様、ごじきじきの御訪問です。お会いなさるかや」
「会います。お通しくださいまし」
今はもう得十郎も観念して、水のように落ちついていた。
「丹波、久しいの」
先刻、裃姿のままの日向守勝成は、五六人の家来を引連れて入って来たが、座敷の入口からこう声をかけた。
「お久しぶりでござる」
得十郎は微笑して迎えた。
「なぜ逃げた。妙な男だの」
勝成も笑いながら坐る。
「あまりにも無慚な落魄の身の恥かしきまま、つい無我夢中で逃げましたが、本城まで攻めかけられては致しかたござらぬ」
勝成は豪放に笑った。
「はははははは、浮き沈みは世の習い、志だに逞しくば何の恥ずるところがあろう。我らも若いとき、親許を勘当になって武者修業して天下を歩いたことがあったが、中国あたりにいたときには、わずか三十石の糊米知行で暮らしたこともあった。が、わしはけっしてそれを恥じなんだぞ。家老であれ、国主であれ、申すだけのことははばからず申したものじゃ」
「心至りませぬ」
「ははははは、殊勝そうに申しおる。昔の元気はないか」
「ないこともござりませぬが」
勝成の家来たちはいぶかしげな顔をして、この異様な応対を眺めていた――礼儀は失わぬながら、十万石の大名たるわれらが主人と心易げに応対しているこのそぼろな素浪人は何者であろうか、しかも、われらが主公《との》のほうも朋輩に対するがごとくうちとけ切っていらせられるではないか。――すると、それに気づいたのであろう、勝成は家来たちのほうをふりかえった。
「そのほうども、異様に思うであろうの」
家来たちは黙ったまま微笑していたが、知りたげなようすはありありと現われていた。
「話して聞かそう。――いいの」
勝成は得十郎に向って同意を求める。
「やくたいもなきこと、やめてくだされ」
微笑して、得十郎は制《と》めたが、勝成は一笑いに笑い飛ばして坐り直した。
「この男、ただ今では何と申しているか知らぬが、世にあるときの名は佐世丹波守正幸《させたんばのかみまさゆき》、大阪の残党じゃ。こいつがため、わしは二つない生命《いのち》を取られようとしたことがあるのじゃ」
「やめてくだされ。昔のこと、昔のこと」
迷惑そうに、得十郎は遮ったが、勝成は頭を振って、
「夏の御陣のときのことじゃ。元和元年五月、暑い盛りであった。すでに前夜より、お陣触れあって、明日こそ城は落つるぞ、下知なきに先駆げすな、固く御軍法を守って功を争うな、とはあったけれど、戦場の習い、聞くものかは。表べはうやうやしくお受けはしつれど、心の底はきょうこそ最後ぞ、この日を外していつの日にか功名手柄を立てんと、手ぐすね引いて待ちかまえた、なかにもわしは、この気象なり、死ぬまで父の許さざった勘当を父に代ってお許しくだされて、父が遺跡仔細なく下したまわった大御所様への報恩の機、このときぞと思い切ったることなれば、夜もまだ白まぬころより、家来一統に命じて早くも馬にまたがり、槍をそばめて、戦機の至るを撓《た》めに撓めて待ちかまえた」
「…………」
「夜は明けた。陽は上った。がまだ戦いのはじまるけはいを見ぬ。敵も味方もひしと押ししずまっているのじゃ。すると、辰の刻ばかりであったか、後陣にあたってにわかに凄まじき人馬の音するかと思う間もなく、中陣先陣にひかえたる伊達、最上の勢の真中かけて駆け破り潮のごとく城めがけ行く勢がある。
『誰ぞ! 御軍法のきびしきをわきまえぬか』
『狼藉なり』
と呼ばわれど小耳にもかけるものかは、真一文字に楔子《くさび》のものに食い入るごとく、城壁めがけて取りついた。越前勢じゃ。
『エイヤ、エイヤ』
鬨《とき》の声を合わせて、無二無三に乗り入らんとする。
『すわや! 越前勢に先を越されな!』
総軍|雪崩《なだれ》を打って走り出す。
『続けや者ども!』
と呼ばわって、わしはその前に走り出していた。平安城長吉が鍛えたるかねて自慢の二間柄大身の槍、前に立塞がる者は、敵味方の嫌いもなく、叩き伏せ叩き伏せ城壁前の逆茂木《さかもぎ》にかかったときじゃ。崩れ立つ敵勢のなかより、花々しく鎧うたる武者三騎、馬を乗りめぐらし、槍を揃えての働きめざましく、三騎に駆け立てられて、勝ちに乗ったる味方も色めいてぞ見えた。なかにも、桃形の冑に黒糸縅《くろいとおどし》の具足、鹿毛《かげ》なる馬に緋の厚房かけて乗ったる武者の槍の働き眼にもとまらず。青貝摺ったる十文字の大槍を苧殻《おがら》のごとくふりまわして、薙ぎ伏せ薙ぎ伏せ、右に左に馬を飛ばして駆け悩ますさま、摩利支尊天の働きもかくやと疑うばかり。
『ものものしや』
と歯がみをして馬をかけ寄せ、名乗りを上げてついてかかれば、武者は二三間がほど馬を退いて、心にくくも輪乗りをかけて名乗る。冑の眉庇《まびさし》の下に見れば、男ぶり逞しき顔ながらまだ二十を越えて間もなきらしき若者。それがこの男じゃ。佐世丹波守正幸じゃ」
「おお」
家来たちは一様にうめくように歎息して、得十郎の顔を見た。
得十郎はそれには気がつかない。最初のうちの迷惑そうな顔は今は消えて、頬に血の色がさし、眼には燃えるような光がきらめいて、唇を噛みしめて勝成の顔を見つめていた。
「名乗りが済んで、槍を合わせた。一合、二合、三合、たがいに馬を馳せちがい、人まぜもせず戦った。四合、五合……」
「そうじゃ、六合目であった」
昂奮に駆られて、得十郎が口を出した。
勝成が答える。
「おおさ、六合目であった」
「六合目に、おぬしはついて出た。ついて出たところを、わしは大上段に振りかぶって、横にはらった。おぬしの槍は……」
「おお、俺が自慢の皆朱《かいしゅ》の大槍、平安城長吉が鍛えたる二間柄皆朱のの槍は、俺が手を離れて飛びおった。不覚であった」
勝成ははらはらと涙を流した。
「――しなしたり――おぬしは叫んで、刀の柄に手をかけたが、透かさず、おれはまた横様にひっぱたいた。一度で落ちぬ。二度で落ちぬ。三度で落ちぬ。一度二度三度四度、おれはつるべ打ちに薙いだ」
「打たれた、打たれた、板屋を打つ霰《あられ》よりもまだ急であった。こらえようとしたが、たまらぬ。おれは刀のつかに手をかけたまま、どっと落馬した」
「おれはそこをめがけてついた。一突きに息の根をとめてくれようと、内冑めがけて突いたが、おぬしはごろごろ転っては逃げる」
「一度目は空を突いた。二度目は冑にすべった。三度目はたしかに地べたに突きこんだ。逃げながら、おれはようく見ていた」
「そうじゃ。三度がほど突き損じて、おれは叢腹立てた。ええい、このうえは犬のように叩きころしてくれべいと、大上段にふりかざし、風を切って打ち下ろしたとき」
「どっと味方の勢が寄せて来て、二人の間をへだててくれた。生くまじき辛き命を助かって槍をひろって立上って見ると、こいつはもうその辺にはいぬ。硝煙《たまけむり》の中に消えて行く後ろ姿が見えた。おれは生れ落ちてから、ついぞ恐ろしいと思うたことのない不具者《かたわもの》じゃが、あのときはじめて恐ろしいということを知った。丹波、恐ろしかったぞ。恐ろしかったぞ。はははははは」
勝成はそれが持前らしい響きの強い明るい声で濶達に笑いかけたが、得十郎は微笑もしないで、
「詮ないこと、詮ないこと。何事も夢でござる」
と云ってうつ向いた。
そのとき、一人の家来が外から入って来て、勝成の側に寄って、低い声でなにごとか話しはじめた。勝成は幾度かうなずきながら聞いていたが、突然、また大きな声で笑い出した。
「ははははは、ははははは、さすがだ。さすがだ」
そして得十郎のほうを向いた。
「丹波」
得十郎はしずかな眼を向けた。
「おぬしのあだ名、千石浪人というのじゃそうの」
「やくたいもない」
得十郎は苦笑して、そのとき、こわごわと庭先に入って来た三吉のほうを見ていた。
「いや、わしはそれに感服しているのじゃ。おのれの値打をよく知って、窮すればとて安売をせぬは、さすがに佐世丹波と、わしは感服しているのじゃ。――袖摺り合うも他生の縁《えにし》という。おれとそちは生命のやりとりをした間柄じゃ。仲々の縁というべきであろう。どうじゃ、わしの家に来ぬか。わしが千石出そうではないか」
「何と云われる?」
「わしの家に来い。わしが千石出す」
二人はにらみ合うように、無言のままたがいに相手を見合っていたが、急に得十郎はにこりと笑った。
「面白うござろう。昔首にするはずであった人に随身する浮世の面白さ。一番、家来にしていただこうか」
「来てくれるか」
「行きましょうぞ」
「ははははは」
「ははははは」
二人は、天井を仰いで、咽喉仏の見えるほど大きな口を開いて、からからと笑った。
明後日、お目見得――ときめて、勝成は帰って行った。
得十郎は、勝成を送り出して、また座敷へ帰ってみると、濡縁のところに、ぼんやりと三吉が腰をかけていた。
「おじさん。お前、千石取りのお侍になると、もうおいらとは遊んでくれないだろうな」
向うを向いたまま、元気無さそうに云うのである。
「馬鹿を云え。ひまなときにはいつでも遊んでやる」
と答えたが、それでも浮かない顔をしているので、しみじみあわれになって、得十郎は力をこめて云った。
「そうだ。あしたはわしが暇だから、一緒に釣りに行こうじゃないか」
「ほんとかい」
「ほんとだとも」
「じゃ、おいら、これから餌を掘っておかア」
眼をかがやかして、三吉は飛んで行った。
[#8字下げ]十[#「十」は中見出し]
その翌日、
思いもかけない訪問者があった。
孫兵衛とお芳の二人であった。
「めでたいのう。けさほど噂に聞いたじゃ。とうとう望みどおりに千石の約束ができたというの。いや、めでたい、めでたい。嬉しくての、飛んで来た。妹など、嬉し泣きに泣き出す始末だ。ははははは」
入って来るやいなや、真向から浴びせかけて、ひとりで嬉しそうに笑っているのである。
得十郎はわずかに微笑しただけだった。
「よかった、よかった、さすがにおぬしの自負はえらいものじゃ。文句なしにわしは冑を脱ぐ、それにしても、人は志を高く持たねばならぬものじゃの」
「運じゃよ。運が好過ぎたのじゃ」
「それを云うな。わしの負けじゃ。ところで、妹の件じゃが、おぬしが望みどおり千石になった以上、これで何一つとして差しつかえがなくなったわけじゃが、いつ引き取ってくれるかな」
得十郎の顔はひきしまった。黙って、孫兵衛の顔から、お芳の顔へ、鋭い視線を移したのである。その視線に会って、二人の顔には、それまで必死に現わすまいと抑えていた不安な表情がかくしようもなく出てきた。孫兵衛は落ちつきもなくきょときょとと視線をうろつかしたし、お芳は真赤になり、そして真青になってうつ向いた。
つめたく、ゆっくりと得十郎は云う。
「約束はもう解いてあるはずじゃと記憶しているがのう」
「それじゃ。いや、しかし、あれはその場の言葉の行き違いで――幼いときからずっとつづいてきた約束じゃ。腹も立とうが、そう短気なことを申さず……」
「悪うござりました。私が悪うござりました。けど、けど……」
泣き伏してお芳も云った。
が、得十郎の表情は動かなかった。依然としてつめたい顔、つめたい調子で、
「お気の毒じゃが、わしにはもう妻となるように定まる人がある」
「何じゃと?」
兄妹は等しく顔を上げた。
得十郎は、ゆっくりと立上って、母の居間を隔てる襖を開けた。
そこには、母と三吉の姉のお雪とが、明日の晴れのお目見得に得十郎の着て行くべき小袖や裃をせっせと縫っていた。
「このお娘御」
得十郎は真直にお雪に指をさした。
「わしはこのお娘御を妻としてもらうことに心をきめているのだ」
突嗟の間、お雪には得十郎の言葉の意味がわからなかったらしい。黒い瞳を不審そうに得十郎のほうに向け、それから老母の顔を見たが、その顔に微かな笑いが浮かんでいるのを見ると、たちまち、頸筋から髪の中まで赤くなってうつ向いた。わなわなとふるえ出した。
そこに、外で呼ぶ声が聞こえた。
「おじさーん。約束だよ。行こうよ。きょうは釣れるぜ。おじさーん。返事しないかい」
お雪は立って出て行こうとした。弟の無躾けをたしなめるつもりもあったが、なによりも羞恥にいたたまらなかったのである。
得十郎はそれを制めた。
「いいのだ。お雪どの。わしは昨日約束した。子供との約束であっても、履《ふ》まぬと母者に叱られますでな」
そして、孫兵衛兄妹に向って、
「追い立てるようですまぬが、約束で釣りに行かねばならぬゆえ、きょうは失礼したい。御祝儀ありがたくお礼申す」
そのあいだも、三吉の呼び立てる声はやまない。
「おじさあん。約束だよ。いるのかい。いないのかい。返事しなよ……」
底本:「抵抗小説集」実業之日本社
1979(昭和54)年2月10日 初版発行
1979(昭和54)年3月1日 二版発行
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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《》:ルビ
(例)佐世得十郎《させとくじゅうろう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)六|緡《さし》
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(例)[#8字下げ]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
佐世得十郎《させとくじゅうろう》はきょうも仕事にあぶれた。
仕事といっても、大してむずかしいことではない。大阪が亡んで徳川家の礎が微塵動かぬものとなってから、江戸の方々に急速に建てまされてゆく大名屋敷の工事に雇われて、もっこ[#「もっこ」に傍点]をかついだり、土を掘ったりすることなのだから、体力さえあれば誰だってできることなのだ。だから、しばらくの間は得十郎も毎日のように仕事があってくれたのだが、近頃になって江戸は景気がよいというので、近国からどっとたくさんの人足どもが入りこんできたために、使うほうで気をつかわねばならぬ得十郎のような浪人者は敬遠されがちになった。
きのうもあぶれ、一昨日《おととい》もあぶれ――きょうで三日あぶれつづきなのである。
さわやかな秋の朝だ。かなり高く昇った陽がきらきらと露をきらめかしている所々の空地の叢《くさむら》にはまだ虫が鳴いているというのに、もう赤とんぼがすいすいと飛んでいる。
「帰ったら、さて、どうしよう、釣にでも出かけるか」
真青な空に一きれ浮いている白い雲を仰ぎながら辻を曲ったときだった。
「おじさあーん」
突然、うしろのほうから呼びかける者があった。
「おお、三吉《さんきち》か」
得十郎は血色のよい顔をにとりと綻《ほころ》ばして十ばかりの少年の走り寄って来るのを待った。
「おじさん、またあぶれたんだろう」
小さな呼吸《いき》をはあはあ弾ませながら、いたずらっぽい眼をくるりとむいて見上げる。
「うん、まあ」
「いけないね。お婆さんが心配するじゃないか」
「しかたがないて」
「そいで、きょうはまた釣魚《つり》に行く」
「うん。どうしようかと思っているんだが」
「行こうよ。どうせうちにいたってしかたがないんだろ。行こうよ。行こうよ」
「行ってもいいが……」
「行こうよ。行こうねッ。おいら帰ってしたくをして来るから、おじさんは家で待っててよ。きっとね。一人で行っちまっちゃ駄目だよ」
云いたいだけ云って、少年は走り去った。
この少年はこの近くの左官職の家の小せがれだ。姉にお雪《ゆき》というのがあって、得十郎の老母に縫物を教わりに来るので、いつの間にか得十郎を友達あつかいにしてしまった。
少年は、大人と、わけても、たとえ浪人者にもせよ侍と友達であるというのが得意なのだ。
(おいらにゃお侍の友達があるんだぞ)
子供仲間にこう云って誇っているのである。
得十郎の住居は一軒建ちにはなっているがひどく狭い。入口の二畳、その奥が客間にも得十郎の居間にもなる六畳で、その横が勝手につづく四畳半で、そこが、老母の居間になっている。六畳には狭いながら竹の濡縁もついているし、庭もあるが、その庭はひどく狭い。縁に坐ったまま手をのばせば杉の生垣が届くのである。
老母は、いつものとおり、三人の針子を相手に自分の室で賃仕事をしていたが、得十郎の姿を見ると、針を置いて微笑した。
「ただ今帰りました。きょうも仕事がございません」
得十郎は、敷居際に坐って、折目正しく挨拶した。
「おおそうかい。それはそれは。御苦労でした。では、これから釣にでもおじゃるかえ」
老母も折目正しい。
母のこの態度にはいつものことながら、のんきな得十郎もまいる。自分に仕事がなければそれだけ母は余分に稼がなければならないのだ。六十を越えた母に食わしてもらっていると思うと、得十郎は身を切られるような気がするのだが、ちっとも愚痴めいたことを云わない母なのだ。気にしているようすも見せないのだ。それだけに、こちらはかえってつらい。
「はあ、いや」
すぐれてたくましいからだをすくませて、生返事して、得十郎は自分の居間に引き取った。
母のほうから云い出されただけに、ちょいと釣のしたくがしにくい。あまえていると思われそうだし、自分ながらのんきなのが気がさすし――それで、杉の生垣を眺めて、ぼんやりと坐っていると、表で三吉の声がした。
「おじさあーん、おじさあーん」
困ったと思って黙っていると、無遠慮に大きな声で云っているのだ。
「あれ、しようのないおじさんだな。行っちゃったのかい。あんなに、一緒に行こうと約束したくせに」
そして、一際、声を張り上げて、
「お婆さん。お婆さん。おじさんもう行っちゃったの」
「はいはい。いますよ。いますよ」
老母は答えたが、聞こえなかったらしい。なお大きな声で、
「お婆さん、お婆さん、お婆さんたら」
くすくすと針子たちのわらう声が聞こえた。
「しょうのない子どもだことねえ」
つぶやきながら、真赤な顔をして、三吉の姉が出て行った。
何やら、小さい声でたしなめているようすだったが、三吉はひるまない。
「何だい。女なんてスッこんでろい。おいらおじさんに用事があるんだい。おじさんいるのかい。おじさあーん。おじさあーん。いるんだったら返事をしなよ」
老母が得十郎に云った。
「行ってあげなさい。お約束したのなら、子供衆でもそのとおりにせねばなりませぬ」
竿をかつぎ、魚籠《びく》と餌壺をさげて、威張り返っている三吉である。お雪はその前にはらはらして立っている。
「何だって返事をしないんだい」
得十郎を見ると少年は早速に口を尖らす。
「餌はあるのか」
「あらあ。きのうのやつがうんと残ってらあ」
少年は、餌壺からうじゃうじゃと赤い蚯蚓《みみず》をつかみ出して見せた。
「行くんだろうね」
「行くから大きな声を出すな」
「だってはっきり云わないからさ。はっきり云えば黙ってらい」
「三ちゃん!」
お雪は、弟をたしなめて、得十郎にわびた。
「すみません」
真赤になって、涙さえ浮かべておどおどしているのだ。
得十郎は、赤くなった娘の顔を美しいと見た。そのためであったろうか、かねてはこだわりなく闊達な口をきく彼だったのに、
「いや、なに……」
と妙に口ごもったのである。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
日なみの悪いせいか、ちっとも釣れない。来て一刻ほどもなるのに、浮木《うき》はびりりとも動かないのである。
三吉はすぐ退屈した。あくびをしたり、口笛をふいたり、とんぼを追っかけたり、最後には、竿でぴしゃぴしゃ水面を叩きはじめた。
こうなっては駄目だ。
「三吉、帰ろうか」
「うん」
待っていましたとばかり、三吉は帰りじたくにかかった。
場所は不忍《しのばず》の池から神田川に流れこむ小溝、後世の黒門町といったあたりだ。そのころは、まだ開けずに、田圃《たんぼ》があったり、原っぱがあったり、畠があったり、かと思うと、ところによっては木口の新らしい家が立並んで、どうやら市街地になろうとするようすを見せていた。田圃には稲の花が白い粉をばら撒いたように咲いていたし、原っぱには夏草が先端《さき》のほうがほんの少し黄ばんだだけで凄まじく繁っていたし、畠には大根か、菜か、表面だけ白く乾いた土の上に小さい芽がぎっしりと出ていた。
家は神田の柳原にある。
神田川の近くになって、家並が繁くなりかけたところまで来たときだった。
行く手の道の真中に、真黒に人が群って、何やらわいわい騒いでいるのが見えた。
三吉が知っていて教える。
「ありゃあ角力《すもう》だよ。辻角力だよ。この辺の若い衆がはじめたんだけど、近頃ではずいぶん遠いところから取りに来るんだってさ。それで、褒美が出るんだよ。十人勝ち抜けば銭が一貫、米が四斗俵で一俵もらえるんだよ」
「ふうん」
なるほど、土俵のわきに四斗俵を六俵山形につんで、その上に永楽銭が五六|緡《さし》のっけてある。土俵を取り巻いている見物人はいろいろだ。百姓体の者、人足体の者、町人、職人、浪人、なかには供奴を連れた身分ありげな立派な武士《さむらい》までいる。さすがに女はいない。女の角力見物は凄まじきものに数えられている時代のことだ。
土俵の上ではちょうど一勝負終ったところで、額に刀痕のある荒々しい顔立の五分|月代《さかやき》の浪人体の男が次を待って、土俵際にしゃがんでいる。
「四人目、四人目、次はないか、次はないか」
行司――といっても、どれも角力取の一人であろう、素っ裸の角力じたくのまま扇子《せんす》を握ったのがしきりに呼び立てていたが、急に出る者がいないと見ると、
「誰も出ねえのか――じゃ、おいらが取る」
と云って、溜りにいた一人に扇子を渡した。
勝負はあっけなくついてまた浪人の勝になった。
次には鎌髭の生えた奴体の男が出たが、これもあっさりとうっちゃりを食ってしまった。
強い男である。出る相手、出る相手、器用にこなして、呼吸ぎれ一つ見せないのだ。
あと一番で十人勝抜きという場になった。
「どうだどうだ、出ねえか出ねえか、あと一番の勝負となりおったぜ」
行司は声をからして呼びたてる。
得十郎は、先刻《さっき》からむずむずしていた。角力は得意なのだ。長い浪人ぐらしで生活に追われているために、この近年試みたことがないが、見ているうちに、全身に力瘤が入って、むずがゆいような気がしてきたのである。米も銭も格別ほしいとは思わなかったが、いきなり叫んでいた。
「わしが出る!」
三吉は驚いた。
「おじさん取るのかい」
「うむ。やってみる」
いささかてれくさい感じだった。
釣道具を少年に渡して、締込を貸してもらって、裸になって土俵に出た。
いいからだだ。たて横ともにがっしりとした骨組に鉄片を叩きつけたように強靱な筋肉のうねりが、鍛えのほどを思わせる。
「凄いの」
「浪人衆らしいが、どこの人じゃろう」
人々は覚えず驚嘆の声を放った。
得意なのは三吉だ。
「柳原だい。おいらの友達だい」
聞かれもしないのに、そばの人に説明しているのである。
からだはよし、技はたくみなり、じりじりと押して行って、土俵でうっちゃろうとするのを、ぽんと無造作に押し出した。
一番の取り手がこの調子だ。あとはもう敵でなかった。またたくまに十人|薙《な》ぎ倒してしまった。
「強いなあ、おじさん、えらいなあ、おじさん」
さすがに汗ばんだ顔を拭き拭き土俵を下りて来ると、三吉は熱狂しきっている。前に廻り、後ろに廻り、のぞきこんだり、見上げたりして、きまりの悪いほどほめそやすのである。
「ああ、強いよ、強いよ」
汗も拭わず、そこそこに着物を着た。
「さあ、帰ろう」
「だって、おじさん……」
「なんだ」
「米と銭……」
「いらない、いらない。さあ、帰ろう」
「だけど、せっかく……」
おしそうに、賞品のほうをにらんでいるのである。
「いいんだ、いいんだ」
さっさと歩き出すと、後から呼びとめられた。
「あ、もし、御浪人衆」
世話人だと先刻からみていたが、磨いた銅《あかがね》のように色艶よく禿げた頭に、ほとんど真白になった髪をちょんとからげた老爺《おやじ》が小腰をかがめている。
「何だ」
「米と銭を持って行ってくだされ」
「わしはいらん。わしは米や銭がほしくて出たのではない。わしはただ……」
なぜか、得十郎は赤くなって云いかけたが、相手は手を振って全部を云わせなかった。
「いけませぬ。ぜひお持ちかえり願わんことには。お前様がその約束を御承知であろうと御承知でなかろうと、十人勝抜きの人には差し上げると広く人々にふれ出して約束してあるのでござるによって、ぜひともお持ちかえり願いたいのですじゃ」
「しかし……」
「しかしも何もござらぬじゃ。ぜひお持ちかえりくだされたい」
今こそ貧しい生活をしていても、得十郎は賭角力など平気で取るようには育てられていない。侍というものは意地と名誉のためにのみ動くものである。利欲のために動くのは百姓町人のことと、生れ落ちたときから教えられてきている男である。得十郎はどう答えてよいかわからなかった。
「もらいなよ。せっかく、くれるというんじゃねえか」
三吉が大人みたいな小生意気な口をきく。
「いや、その……お前は黙っとれ」
ますますまごついた得十郎である。
見物人も、角力取たちも、角力はそっちのけにして、この懸合を見ている。
(どうしたんだね、この浪人者は、せっかくあれほど骨折っていながら、賭物はいらないなんて)
(大して工面のよさそうなようすもしていねえじゃねえか。見栄張ってるのかね)
(見栄張るがらでもなかろう)
どうやら、彼らの眼つきはこう語っているのである。
それを意識すると、得十郎はかっとのぼせて、目がぐらぐらして、耳ががんがん鳴り出した。
「いただいてまいる、いただいてまいる」
汗をかいて、そう云ってしまったのである。俵をかついで、銭は三吉に持たせて、歩き出して五六間のところで、また呼び止められた。
最初から見ていた、供奴を連れた身分ありげな武士だ。
「卒爾《そつじ》ながら、御姓名と御住所をお明しくださりますまいか。身共は……」
鄭重な態度だったが、得十郎はあわてて云った。
「お名乗するほどの者ではござらぬ。失礼、失礼、平に失礼」
重ねて問い返されるのを恐れるもののごとく、三吉を追いたてるようにして急ぎ足になった。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
「分捕《ぶんどり》だア、分捕だア、角力に勝って分捕だア」
家の近くになると、いきなり走り出して三吉は叫び出した。
「これ!」
叱ったが、小耳にもかけない。得十郎が重い荷をかついで身の自由のきかないのをいいことにして、からかうように逃げ廻りながら、
「分捕だア、分捕だア、米が四斗に銭一貫、角力に勝って分捕だア」
と叫びながら家に走りこんだ。
「ね、そうだったね。十人とも、ぽんぽんぽんぽん、おじさんが投げ飛ばしたんだね」
一同の前に坐って、三吉は昂奮しきってしゃべっているのだ。
てれくさげに得十郎は笑って自分の居間に引きとって、縁側に坐っていると、老母が入って来た。
老母の顔を一目見たとき、得十郎ははっとした。いつになく、さびしくひきしまった顔をしているのである。子供のころ、悪戯《いたずら》をして叱られたことがよくあったが、ちょうどそんな顔をしているのである。
「得十郎や」
ぴたっと端座して、まずこう云うのである。
「はい」
得十郎には、なぜ母がこんな態度を見せるか、よくわかっている。賭角力など取ったことを怒っているのである。
「わかりますね」
こうだ。ほかに何も云わない。
「何でしょうか」
いつにないことだ。得十郎はしらばくれてしまった。そして自分でもしまったと気のついたときには、母の顔はいっそうひきしまって、まるで刺すような眼で得十郎の眼を見つめていたのである。
「わかりませぬかや」
おだやか過ぎるほどおだやかな調子の言葉だったが、同時に、その眼がうるんできた。
得十郎はうつ向いた。
「情ない心におなりだね。お前は佐世得十郎ですよ。それを知っておいでかい」
得十郎はもう平気を装っていることはできなかった。両手をつくと、自分も涙ぐんで、
「申しわけありませぬ。かえしてまいります」
襖一重の向うはしんとしている。咳の声一つしないのである。おしゃべり小僧の三吉までが居竦んだようになっているらしいのである。
銭を懐《ふところ》に入れて、俵をかついで、西日のさしこんでいる戸口を出かかったときだった。
ふと、足許に人の影がさしたと思うと、
「もし」
と呼びかけられた、四十五六、実直そうな武家の用人風の男である。
「ちょいとものをおたずねいたしまするが、御当家は佐世得十郎様お住居でござりましょうか」
「さよう、佐世は拙者でござるが」
得十郎はけげんな顔をして相手を見たが、相手は返事も忘れたように、あたふたと引返して行った。
家の前を五六間離れたところに小溝があって、その縁にあらかた葉が落ちて青空が透いて見える柳が二三本、植っているが、そこに被衣《かつぎ》姿の女が向うを向いて立っている。用人は女の側によって、小声で何やらささやいた。
すると、その女ははげしい動作でこちらをふり返って、じっと見つめているようだったが、急いで近づいて来た。
「おお!」
白の練絹の被衣に包まれたその顔を見たとき、得十郎は驚きのあまり、肩にのせていた俵を取り落すところであった。
「お芳《よし》どのではないか」
「得十郎様」
娘の美しい眼には見る間に涙があふれた。
「どうしてここへ、どうしてここへ」
得十郎は狼狽していた。一旦、俵を下へおろしたが、何のためか、またひょいとかついでしまった。
「やっとのことでたずね当てました。去年の夏からこちらに出てきて、ほうぼうたずね歩いていたのでございます」
「そうか、そうか、それで兄者は、孫兵衛《まごべえ》は達者でござるかの。孫兵衛がこちらに来て見えるということは存じているが、何せ、今も御覧のとおりのこの始末で。つい、気になりながらり伺いもせざった」
「達者でおります。いつもあなた様のことを……」
娘はまた涙ぐんだ。
「母がおりますゆえ、母を呼びましょう。拙者はこれからちょいと出かけなければならぬ。なにすぐ帰ってまいる。茶なと上って、ゆっくりと待っていてくだされ」
老母を呼ぶと、老母も驚いた。
「まあ、お芳どの」
かねての沈着にも似ず、ぺたりと上框《あがりがまち》に居坐ったまま眼をしばたいているのである。
「では、行ってまいります」
得十郎は斜めな赤い陽ざしの中を歩いて行きながら、ちと弱ったと思った。
得十郎は元来|豊臣《とよとみ》家の遺臣である。大阪両度の戦争には相当めざましい働きもした。落城後、大阪残党の詮索は相当にきびしかった。捕えられればたいてい斬られた。だから、その間は、彼も母とともに伊賀の山奥に恥を忍んでいたが、間もなく探索令が撤廃され、大阪の残党といえども召しかかえてさしつかえなしということになったので、江戸に出て来たのである。
お芳の兄の結城《ゆうき》孫兵衛は、得十郎が豊臣家にいたとろの同僚である。親の代から懇意にしていた両家であったために、孫兵衛と得十郎とが兄弟同然の親しい仲であったのみならず、お芳は得十郎の嫁にという約束までできていたのである。
二人とも年頃になって、いよいよの話が進められたころ、戦争がはじまった。さらに戦後はちりじりばらばら自分の身の安全をはかるよりほかのことができない状態となったので、祝言などというのんきな沙汰はどこかへ飛んでしまった。
孫兵衛は早く仕官した。残党詮議が撤廃されるとほとんど同時に、浅野家からの招きがあって、以前の千石の禄と同じで仕えることができた。
そのとき、孫兵衛の推挙で、得十郎にも浅野家から口がかかってきたが、得十郎は思うところがあるといって断ってしまった。
禄高も気に食わなかったが、何よりも女の縁によって用いられたと思われそうなのがいやだった。
「芳をどうしてくれるのだ」
孫兵衛は日文《ひぶみ》矢文《やぶみ》でせめたてた。
それがうるさかったので、得十郎は母を連れて江戸に出て来た。思うところがあるから江戸へ行く、お芳どののことは今しばらく頼む――という知らせやら、依頼やらはしておいたが、江戸へついてからは手紙一つ出さなかった。どうにも、話にならぬ貧しい生活がつづいたので、最初からのゆきがかり上、それ見たことか、だから云わぬことではないと云われそうで、云ってやれなかったのだ。が、とうとう見つかってしまった。
「ちと弱ったな、ちと弱ったな……」
口の中で拍子を取って歩いているうちに、貧乏は恥でないと気がついたし、また、俵をかついだ自分を見ていったいどう思っただろうと考えておかしくなった。
「おおかた、かわいそうに米|搗《つ》きに自分で行く――とでも思ったろうて」
朗らかに、大きな声で笑ったのである。
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
受取るの、受取らぬと交渉はかなりに面倒だったが、結局、喧嘩ごしにおいて、帰ってみると、驚いたことに、もう一組客が来ているのである。
先刻、角力場で、こちらの名前と宿所を聞いた武士だった。例の客間兼居間に坐って、落ちつきはらって茶を喫している。
「これはこれは」
「ほうぼうたずねたずね来ていただいたのだそうです。こちらの様は、御直参衆の大久保但馬守《おおくぼたじまのかみ》様」
相手をしていた母が説明してくれる。
針子たちも、三吉も、きょうはもう帰って行ったのだろう。勝手のほうはしんとしている。芳はそこに待っているのだろうが、衣摺の音一つさせない。
得十郎が帰って来たので、母は勝手に退って行く。
「先刻は失礼いたしました」
「いや、当方こそ」
武士の態度は至って鷹揚である。年頃三十五六、大久保但馬守というのははじめて聞く名だが、かなり大身――五六千石の風格は十分にある。
「早速でござるが、御仕官のお志はござるまいか」
挨拶が済むと、武士はすぐ用談にかかった。
江戸へ出て来てはじめて聞く仕官の口である。のんきそうにしてはいても、心の奥ではあせって待ち設けていたものがとうとう来たのである。が、不思議に、大して心は騒がなかった。
「ないことはござらぬが……」
落ちつきはらって受けたのである。
「ござるか」
相手は勢いこんで膝を乗り出してきた。
「ござることはござるが……」
「では、拙者の家に来ていただけまいか」
「御貴殿のお家に?」
得十郎はあきれた。直参に召し出すか、でなくとも、しかるべき大名へ推挙してくれるつもりなのかと思っていたのに、旗本の家の家来にとは……。答えもしなかった。
「禄のところは三百俵ほど進ぜるゆえ、曲げて御承引願いたい」
「…………」
黙っているとますますむきになってきた。
「拙者の知行が五千石、三百俵と申せば、ほぼ二百石の知行に相当する。五千石の拙者が二百石出そうというのだ。執心のほど酌んでほしゅうござるの」
気の毒だとは思った。ありがたいとも思った。が、気がすすまなかった。
「せっかくのお言葉ながら……」
そういうよりほかはなかった。
「禄に御不足か。それならば、御所望の額を申してくだされ。拙者も何とか考えましょうゆえ」
得十郎は黙っていた。云っても無駄だと思ったし、かえって、この好意を持てる人物に腹を立てさせるのみに過ぎないと思ったし――。
が、相手はぜひにと促すのである。
「申しても所詮無駄でござる」
「いや、ぜひ承りたい。拙者の身に負うことなら、御望みのとおりにして差上げたい」
「お腹立になるかも知れぬと存ずるゆえ……」
「さようなことはござらぬ。ぜひ承ろう」
「では、申しましょう――千石」
「なに?」
「千石――それに一粒かけても、御奉公はいたしかねます」
「千石? 千石? 千石? ……」
相手は茫然としてくりかえしていたが、急に笑い出した。
「冗談はおかれい。千石などと……」
「冗談ではござらぬ。大真面目で申しております。拙者は千石もらわぬかぎり奉公いたさぬ覚悟。また、千石の値打はある男と自負しております」
怒りの色が微かに相手の顔を染めた。
「貴殿は拙者を愚弄しておられる」
得十郎は微笑した。
「お腹立ちになっては約束が違い申そう」
「うむ、うむ、うむ……」
相手は下を向いてうめいていたが、気が静まると、
「失礼申しました。無い縁でござったろう、くれぐれも惜しくは存ずるが、千石とあっては拙者の身上ではあきらめるよりほかはござらぬ」
と挨拶して帰って行った。心を残して行くようすだった。得十郎は気の毒だとは思ったが、しかたはなかった。どんなに今の生活が苦しくとも、気の毒であろうとも、自分を安売りすることは誇りが許さなかったのである。
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
(待てど暮らせど何の便りもないので、たまりきれなくなって無理に兄に頼んで江戸に出て来た。江戸に出て来てからは、いろいろ手をつくしたが、一向手がかりが得られないので、近頃ではもう絶望しきっていた。ひょっとして、もう江戸にはいらっしゃらないのではないかとまで思っていたのだった。しかし、ついきのうのことだ。兄が、お屋敷に出入の人足元締から、あなた様ではないかと思われる浪人衆のことを聞いてきたので、きょうは夜の明けるのを待ちかねる気持で家を出てきたところ、あなた様だったので、うれしい云々――」
泣きつ、笑いつ、芳は物語るのである。
得十郎はあわれだとも思ったし、気の毒だとも思ったし、すまなかったとも思ったが、同時に、一種不愉快な感情が微かな煙のように胸に動いてくるのを抑えることができなかった。それは、お芳の態度に露骨なまでに現われているあせり抜いている心のためであったろうか。
お芳は昔のとおり、いや、いや、昔よりも美しいとさえ云えた。昔は、わずかに綻《ほころ》びそめた蕾《つぼみ》のように、可憐ではあっても、どこかに、まだ青く生々しい固さがあったが、今見る彼女は、爛慢と咲き誇った美しさであった。薄青く線の細かった、弱々しげな頸筋は膩《あぶら》をたたえて乳色に張っているし、頬にも唇にも力と絢爛さが充ち充ちしているし、眼は挑みかかるようなはげしい光を点じて、瞬間ごとにその顔を明るくしたり暗くしたりしている。限のくらむほどの美しさだといえよう。
だが――。
その美しさの底には、何かしら一脈の哀感があった。ものほしそうなと云うか、追いたてられているようなと云おうか、そういったものがからみ合って醸《かも》し出される哀感が、泣くときにも、笑うときにも、淡い翳《かげり》のように顔についていて離れないのである。
それが、得十郎には不愉快だった。
(無理もない。女盛りが過ぎかけているのだ)
と思いはしても、何となく、さもしい、と感ぜずにおられないのだ。
(盛りが過ぎようと、散ろうと、一旦|盟《ちか》ったことを無にする俺か、兄貴の側にじっとして待っていることがなぜできないのだ)
とにかく、得十郎は、
「すまぬことでござった。最前も出かけるとき入口で申したが、御覧のごとく尾羽打ち枯らした浪人ぐらし、気にかかっていながらも、つい恥しさが先に立って、お便りも差し上げられませなんだ。ま、ゆるしてくだされ」
とおとなしくわびはしたが、すこし容を改めて、
「しかし、そもじなぜ待っていることができぬのかな。いくらそもじがあせったところで、わしに運が向いて来ぬ以上、どうにもならぬこととは知っていやろうに」
この得十郎の言葉がどう聞こえたのであろう、お芳の顔が変った。黙って、じっと見つめていたが、
「得十郎様、あなた様はいったい、わたくしをお迎えくださるお心がおありなのでございましょうか」
と聞いた。
「妙なことを云いやるの。そもじの目には、わしは約束を重んぜぬ男に見えるかの」
こちらはおだやかに答えたが、相手は切り裂くように鋭く叫んだ。
「見えまする!」
「どうして?」
お芳ははらはらと涙をこぼした。
「あなた様はお好きで、いいえ、わたくしを迎えるのがいやさに浪人ぐらしをなされているのです。でなくて、前に兄があなた様を浅野家に御きもいりしたとき、どうしてお断りなさりましょう。今もまたこちらで聞いていますれば、御奉公の口をお断りなされました。あなた様はわたくしがおきらいなのです。御主取なされば、わたくしをお迎えにならねばならぬので、わざと断っていらっしゃるのです。いいえ、それに相違ありませぬ。それに相違ありませぬ」
これは、これは……
得十郎はあきれるばかりだった。よくもこんな持って廻った考えかたができるもの――馬鹿馬鹿しすぎて、真面目に弁解する気にもなれなかった。
老母もあきれているようだったが、息子がいつまでも黙っているので、
「お芳どの、なんでそのようなことがあろうぞいの。得十郎はさような軽薄な男ではないはず、得十郎は武士の誇のため……」
と口を出して慰めにかかったが、お芳は受け付けなかった。
「いいえ、いいえ、聞きませぬ。聞きませぬ。わたしはもう二十三でございます。女の盛りは過ぎようとしています。こうして、頼りない約束に縛られて盛りの過ぎてゆくのを見ていなければならないことが、どんなにつらいことか。さびしいことか。わたくしの身にもなって考えてくださいまし。わたくしにはもうこれ以上待てませぬ。嫌いなら嫌いとはっきり云ってくださいまし」
半狂乱の体だ。狂人のように眼を光らせ、青白くなった頬をひきつらして、すすり泣きながらしゃくり上げながら、食ってかかるのだ。人の違うように醜く見えた。
老母もあぐねたらしく、黙ってしまった。黙って、静まるのを待つつもりだったが、お芳はいっそう逆上した。
「なぜ黙っていらっしゃるんです。嫌いなら嫌いと仰っしゃってください。なぜ黙っていらっしゃるんです」
と食ってかかるし、微笑してなだめようとすると、今度はそれに腹を立てるのだ。
「なにがおかしいのでしょう。ええ、知ってますとも、わたくしは今笑われるようなことをしています。けど、これが無理でしょうか。笑われようと笑われようと――云ってくださいまし、得十郎様はわたくしがお嫌いなのでしょう。お嫌いなのでしょう」
手がつけられないのだ。
最初のうち、得十郎はにやにや笑っていたが、しだいにその眼は刺すようにきびしい光を帯びてきた。
「云ってくださいまし」
とお芳がつめ寄ったとき、切って放つように云った。「おお、嫌いだ!」
どきっとしたらしい。お芳は穴のあくほど得十郎の顔を見つめていたが、たちまち、声を上げて泣き伏した。
「今までは嫌いでなかった。が、たった今嫌いになった。なぜ、わしを信じて待っていることができぬか。たとえ盛りが過ぎて、そもじの顔に皺がたたもうと、そもじの髪が白くなろうと、それをいとうわしか。時さえくればきっと迎えようと思う心に何のゆるぎがあろう。待遠しくとも、つらくとも、じっとこらえて待つこそ武士の娘の嗜《たしなみ》だ。それを、そのように取り乱してあられもないことを口走るなど、愛想もこそもつきはてた。たった今、約束は捨てた。盛りの過ぐるがさびしくば、急いでどこへなりと縁づかれい!」
母が取りなそうとして口をききかけたが、いつになくきびしく、得十郎は遮った。
「御無用になさりませ。武士らしからぬ性根のものは、得十郎が嫁には似合わしくござりませぬ」
そして、立上ると、入口の二畳にはらはらして坐ったり立ったりしている用人を呼んだ。
「お芳殿がお帰りになる。用意さっしゃい」
[#8字下げ]六[#「六」は中見出し]
お芳が泣いて帰った翌日、早朝だった。
得十郎はお芳の兄孫兵衛の訪問を受けた。
五年ぶりの会見である。
一は千石の武士、一は素浪人と――その身分にへだたりができていたが、顔を合せれば昔のなつかしさがたがいの胸によみがえった。
久濶を叙する挨拶、四方山の話がすむと、孫兵衛は容をあらためた。
「きのうは妹が来て、何か失礼を申したらしくあいすまぬことであった」
「いや」
来たな――と思いながらも、得十郎はさりげなく受けた。
「女というものはしかたのないもので、とかく情に激して取りとめもないことを云うものじゃ。気にかけてくれるまい」
「気にはかけぬが、いささかむかっとしての。ははははは」
「申訳ない。が、あれもあせっていての。兄として、あわれと思うこともある」
「それはわかる。しかし、わしとしては致しかたがないでの」
「…………」
黙っているのである。これも、いたしかたのないことと思っていない点はお芳と同じらしいのである。結婚を嫌って主取をしないのだとはまさか思いもしなかろうが、好きで浪人しているのではないかぐらいのところは考えているらしいのである。
「孫兵衛、きのう、お芳どのは、わしがいつまでも浪人でいるのを、お芳どのを嫌っているゆえと申されたが、さようなことは誓ってないのだ。この世のどんな女にもまして、わしはお芳どのが好きだ。これは神明に盟っていつわりのないところだ。それを信じてくれようの」
孫兵衛は信ずるとも信じないとも云わないで、こう聞いた。
「芳に聞いたが、おぬし千石でないと奉公せぬと云うたそうの」
「云うた。わしは豊臣家へ仕えて千石いただいていたし、また自分の身に千石の値打はずんとあると自負しているゆえに、千石以下で人に召し使われようとは思わぬのじゃ」
「千石のう。――それで、おぬしは前にわしが推挙したとき、断ったのだの」
「そうじゃ」
「千石のう」
孫兵衛は溜息まじりに云ってうつ向いた。それを見ると、得十郎はかあっとしたものが胸にこみ上げてくるのを感じた。
「千石の禄を望むが過当だとおぬしは思うか。わしの己惚れじゃと思うか」
詰るような調子になったのである。
孫兵衛はあわてた。
「いやいや、そうは思わぬ。そうは思わぬが――戦国の乱世のときと違って、こう世が太平になり、また仕えを求める浪人者が多過ぎて困る今日、千石という大禄を出す大名があろうかと疑うのじゃ」
「おぬしはみごと千石得たではないか。おれとおぬしと何の変る所がある。同じく豊臣家で千石取ったのじゃし、高名とても同じようなものじゃぞ。おぬしが千石取りになれて、おれがなれぬという道理があろうか」
「おれは千石取ることになった。が、おれは運が好かったのじゃ。好過ぎたと云おう。それゆえ、同じ力、同じ閲歴があろうと、おれと同じ運がおぬしにも恵まれようとは考えられぬのじゃ」
「おれはそうは思わぬ。おぬしは運じゃというが、おれはそうは思わぬ。おぬしに千石の値打があったればこそ、千石出す大名も出てきたのだ。じゃによって、おれにもきっとそんな大名が出てくるに相違ないと信じて疑わぬのだ」
孫兵衛はうめいた。そして低い声で云った。
「可愛いや、お芳は一生嫁に行けぬそうな」
「なに?」
「おれは妹が可愛い。お芳があわれでならぬのだ」
しみじみと胸に迫るものがあった。瞬間、得十郎はたじろいだように黙ったが、頑固に云ってのけた。
「おれも気の毒じゃとは思う。が、おれは自分を安売りする気にはどうしてもなれぬのだ。おれを信じてくれ。おぬしも、お芳どのも、おぬしらがおれを信じてくれるなら、きっと今までのことを笑い話にするときがくるに相違ない。おれは信じて待っていてほしいのだ」
孫兵衛はまた溜息をついた。
得十郎は眼をつぶって思案していたが、不意に、不思議な微笑を浮かべて云った。
「今、わしがお芳殿に来てもらおうと云ったら、おぬしもお芳殿も承知してくれようか。この貧しい浪人ぐらしの中に、おぬしはお芳殿をくれることができるか、お芳殿はよう来ることができようか。それができるなら、いつでも来てもらおう。ここに来て、米の一升買いしながら、千石の口のかかってくるのをわしとともども待つのだ」
「…………」
黙っている。
「どうじゃ。それができるなら、来てもらおう」
孫兵衛はややためらった後、低く云った。
「それはできぬ。わしもできぬが、お芳もできぬであろう。お芳は侍の娘じゃ。おぬしが薄禄をいとうと同じように、お芳にも誇りがある」
「誇は形にはないぞ、心にあるものだぞ。侍とて貧すれば土もかつぐ、鍬鋤もにぎる。亭主がもっこをかつぐのだ。その女房が米の一升買い、何でもないことでないか」
「できぬことをおぬしは云っている。おぬしの心の持ちざまではさようなことをせずともすむ話ではないか。さようなことをおぬしの云うところを聞くと、そう思いたくはなくても、おぬしが妹を嫌っているのではないかと思わんではおられぬ」
「きらってはおらぬ」
「では、なぜ、千石などという高望みをするのだ……」
「なに! 千石が高望みだと?」
きらりと得十郎の眼が光って、顔色が変った。
「悪かった。口が辷《すべ》ったのだ。おぬしの力量才幹に千石の値打がないというのではない。世間一統が近頃のありさまなのだ……」
孫兵衛はあわてて弁解にかかったが、得十郎はもう一言も云わなくなった。きびしく口を結び鋭い眼を光らして、相手の顔を見つめているだけであった。
それで、孫兵衛も取着場がなくて、
「では、よく考え直してくれ」
と云って辞去しようとした。すると、得十郎は云った。
「きのう、お芳どのには申したが、きょう、おぬしにも云っておく。この縁談これきりにしてもらいたい。わしは夫の信じて疑わぬことを信ぜぬような女を妻にしたいとは思わぬゆえ」
[#8字下げ]七[#「七」は中見出し]
世の中というものはおかしなものである。
これまで評判のよかった佐世母子の評判がにわかに悪くなった。
どこからどう漏れたものか、得十郎が千石でなければ仕官せぬといってせっかくの口を一|蹴《しゅう》したという噂がひろがると、近所では驚いたが、その驚きは感心にはならずに呆れになった。
「千石? べらぼうめ! ちっとござってやしないかい。この御時勢に千石なんて正気の沙汰じゃねえぜ」
千石浪人――
千石婆ア――
云うまでもなく、前者は得十郎に、後者は母親に近所の者がつけたあだ名であった。
こんなあだ名のついていることは、三吉が教えてくれた。この少年はこのあだ名が嘲弄の意味を持っていることを知らないで、尊敬の意味を寓しているものと思ったらしいのである。
「知ってるかい、おじさん。みんな、おじさんのことを千石浪人と云ってるんだぜ。お婆さんのことを千石婆アてのさ。だけど、婆アなんて言葉が悪いじゃないか。なんだって婆さんと云わないんだろうね。千石婆さんと云ったほうが品がいいじゃないか。ねえ、おじさん」
得十郎は笑っていた。
仕事に出て行くのを見るとこう云った。
「ほほッ、千石浪人が人足かせぎに行かア」
あぶれて帰ると、
「千石浪人が小鮒釣りに行くて。小鮒を釣っているうちに千石釣り上げるつもりかの。いい気なものだ」
どれにもこれにも、得十郎は笑っていた。いっそう愛想よく、いっそう暢気そうに、人々に挨拶したのである。
得十郎がそうであっただけでなく、母もそうだった。仕立物をとどけに行ったり、注文をもらって帰ったりする老婆の姿を見るたびに、人々は辛辣な評言を浴びせかけるのであったが、これもまた微笑で受け流しているのだった。
依然たる敬意を失わないのは、三吉姉弟であった。この姉弟は、あの事件以来、いっそう親しみをもって、しかしいっそうのまめまめしさをもって母子の者に交った。
「姉さんたら、近頃ずいぶん泣虫になってね。よくめそめそ泣いているんだぜ」
ある日、いつものとおり釣りに行く途中、思い出したように三吉が云った。
「ふうん――どう泣虫なのだ」
「どうってね。おいらにゃなぜ泣くんだかよくわかんないけど……たとえばこうなんだ。――佐世様がたは立派な御身分のかたなのにおいたわしい。それでめそめそ。千石の御武家といえば、とてもあたしらはお側にも寄れないような立派な御身分、それでまたしくしく――おいら不思議なんだ。だって、毎日おじさんところに行ってるじゃないか。お側にも寄れないも何もないじゃないか、ねえ――そうそう、この泣癖は、あんときからはじまったんだ。それ、おいらがおじさんと魚釣りに行って帰りに角力取ったことがあるね。あの日、綺麗なお嬢さんが来たじゃないか。あの日からだよ。あのお嬢さんはおじさんの嫁さんになるんじゃないかい。おいら思うんだが、どうも、姉さんはあのお嬢さんを見てから悲しくなったらしい。つまり、姉さんはおじさんにほれてたらしいんだね。つまり、おじさんの嫁さんになりたがっていたんだね」
調子に乗ってぺらぺらしゃべり立てるのである。
「こら!」
得十郎は叱りつけた。
「何を云う。子供というものはそんなことを云うものでない」
叱りつけたが、胸をときめかすものがあって、覚えず頬があつくなった。
いつにない得十郎の声の激しさに、三吉はびくっとしたが、相手の赤くなったのを見ると、
「やあ、赤くなってらあい。赤くなってらあい。千石浪人が赤くなってらあい」
囃《はや》し立てて、走り出したのである。
[#8字下げ]八[#「八」は中見出し]
すっかり秋になって、よく晴れた空に毎日のように雪をいただいた富士の山の見える日がつづいた。
このごろ、得十郎も仕事にあぶれることがなくなった。収穫季節《とりいれどき》なので、近郊から人足に来ている百姓たちが自分の家に帰って行ったところに、幕府が諸大名に命じて外濠の大工事にかかったので、人手が足りなくなったのである。
「いい具合だ。当分母にも楽をさせられる」
得十郎は毎日、星空をいただいて家を出、星空をいただいて家に帰って、秋晴の日に照らされて、終日、土を掘り、もっこをかついだ。
昼飯休みのときだった。
牛車の並んでいるわきに一かたまりかたまっていた人どもの間にわっという叫びが起った。
「あ! 牛じゃ! 牛じゃ!」
「牛が放れた!」
「危い、危い!」
どこにもかしこにも叫びが上って、人足どもはばらばらと走り寄った。
何に驚いたか、大きな真黒な牛が道に躍り出して、気の狂ったようにこちらに狂奔して来るのである。
四五人の牛方が飛び出して追いかけたが、牛はその短い脚を眼にもとまらないほど急速に動かして見る見る距離を引きはなして行く。
前に立ち塞ってとめようとした勇敢な人足もあったが、あまりにも物凄い勢いに怯えて牛の近づく前に逃げ出したし、もっとも勇敢なやつが横合から飛びかかって、わずかにちぎれ残っている鼻綱を掴もうとしたが、牛がその巨大な頭を一ふり振ると、三間ほども刎ね飛ばされて長くのびたまま起き上ることはできなかった。刎《は》ね飛ばされただけではない。横腹から血が噴き出して、白く乾いた土を見る見る赤黒く染めていった。
「牛が離れたぞーッ」
「危ないぞーッ」
「避けろーい、避けろーい」
誰も彼も、今はもうこう叫ぶだけであった。
そのとき、前方から大名行列が近づいて来た。緋房の毛槍、金紋の挾箱《はさみばこ》、威儀を正しく粛々と近づいて来たのであるが、牛はそれを眼がけて飛んで行く。
ぴたりと行列の行進は止まった。
そして、揃いの小紋の麻裃を着た武士たちが、それぞれの位置からばらばらと走り出して来て、前方に横に並んだ。が、凄まじい牛の勢いである。逃げこそしなかったが、心の動揺の色はかくし切れずに、秋の陽に照らされてさわやかなの列が波のようにひしめいた。
そのとき、得十郎は、つい行列の側の葉をふるいつくした枯柳の側に立っていたが、とてもこの連中では食いとめることはできないと見てとった。
「やられるな!」
そう思った。が、そう思った途端に、得十郎はおどり出していた。無意識の動作だった。いきなり、からだが内部から弾機《ばね》で刎ねあげられるように跳び出していたのである。
この突然の障碍に、牛は一瞬瞠目したらしかった。前脚を基点にしてもんどり打つようにからだを跳らしてつんのめったが、たちまち前にもまさる勢いで、下からすくい上げるように突進してきた。
まともに受けては鉄壁、とてたまるものではない。得十郎はからだを右にひねってそれをかわすと、右手を上げて思い切り横面をなぐりつけた。そして、相手のたじろぐ間に、左右の手で角を抑えた。
それは眼にもとまらない速さであった。一瞬の後、牛と人とのからだは刻みつけた石像のように動かなくなった。両方、必死の力で押しているのである。得十郎の足も、牛の脚も、踝《くるぶし》まで砂の中にめりこんだ。
今まで声をからして叫んでいた群衆は一時に黙った。誰も彼も眼を瞠り、奥歯を噛みしめ、手に汗にぎって、この動きのない、しかし、気力と力のあらんかぎりをつくした凄まじい格闘を見つめていた。
嵐の吹き落ちた後のような寂寞である。
空の高いところで鳶《とび》が二三羽舞っている。のばせるだけ翼をのばして思いきり悠々《ゆうゆう》と舞っているのであるが、誰もそれに眼をとめる者はない、ひょろひょろと長閑《のどか》な鳴声が落ちてくるのだが、それも聞く者はない……。
一瞬――
二瞬――
三瞬――
…………
陽に灼《や》けて色が褪せ、つぎをあてて至るところ雑巾のように刺した針目のある半袖の襦袢から出ている、得十郎の両腕に瘤々に出ている逞しい筋肉がぶるぶると小刻みにふるえはじめたかと思うと、額に玉のように噴き出していた汗がしずくとなってこめかみを流れた。同時に、牛の腹があえぎはじめた。少しずつ、少しずつ、急速に、そして、大きくなって、最後には波を打つようにあえいできた。
「えいッ」
得十郎の両腕の筋肉がひときわ瘤立った途端、低い含み気味の矢声がその口をほとばしると、牛は前脚を地面にひざまづき、そして、巨大なからだは、どたりと横倒しになった。
もう立つ気力もないらしかった。横になったまま、大きな腹を波立たせ、涎《よだれ》だらけの鼻や口は激しい呼吸を喘いでいるのであった。
得十郎は、額の汗を横なぐりに袖で拭いて、
「牛方、牛方はいぬか」
と呼んで鼻綱を牛方に渡した。
このときになって、はじめて歓声が上った。呪縛が解かれたように、一時に、思い思いに、どっとほめそやしたのであった。
得十郎は少しきまりが悪くなった。
それで、人々の間を分けて立去ろうとすると、
「待て」
凛《りん》とした武家の言葉がうしろから呼びとめた。得十郎は何気なくふりかえったが、相手が誰であるかを知ると、さっと顔色を変えた。
熨斗目《のしめ》黒羽重の小袖に水色小紋の麻裃、堂々たる威儀のある三十年輩の武士なのである。牛に荒らされようとした行列の主なのである。金紋の乗物を舁《か》きすえさして、扉を開いて、微笑を含んでこちらを見ているのである。
「久しいの、佐世丹波」
「お人違い、お人違い、お人違いでござる」
どうしたものか、得十郎は、あわてふためいて、うしろも見ずに逃げ出した。
「待て、これ、待てというに――追え、引きとどめい!」
「はッ」
家来たちは先を争って追いかけた。
「お人違いだと申すに、お人違いだと申すに」
足のかぎり、得十郎は逃げ走った。
[#8字下げ]九[#「九」は中見出し]
どこまで逃げても追って来る。
とうとう、得十郎は自分の家のほうに向った。
「おじさあーん」
柳原の近くまで来ると、その辺で遊んでいた三吉が飛んで来て腰にしがみついた。
「おお、お前か」
呼吸を弾ませながらもほっとしたとき、追手は辻を曲って姿を現わした。
「あ!」
得十郎は三吉を振りはなして走り出した。
三吉もついて走って来る。
「どうしたんだい。逃げてるのかい」
「うむ」
「借金《かり》があるんだね。昔の借金があるんだろ」
「ついて来るな!」
「そうだろ。昔の借金が、それで逃げているんだろ」
「そんなものだ。ついてくるな。いい子だからわしの家を教えるんじゃないぞ!」
「云わないよ。うまくおいらがごまかして帰してやらア」
撃退せんと、健気《けなげ》に三吉は踏みとどまった。
得十郎は、大廻りして、一旦下谷のほうに行って、それから自分の家に帰って来た。
「おや、どうしました。気分でも悪いのではありませぬかや。顔色が悪いようですよ」
母はいつものとおりまめまめしく迎える。
「いや、気分は悪うごりざませぬが、少し理由《わけ》があって早く、そして無断で帰ってまいりました」
「そうですか」
母は注意深く息子の顔を見たが、それ以外には何とも云わずに、また裁縫にかかった。
母の前を退って、自分の居間に帰って、仕事着を普段着に換えて、坐る間もなかった。
「頼もう」
どかどかと足音がしたかと思うと、訪う声がしたのである。
来た!
今はもう得十郎も観念した。
「母様、拙者が出ます」
と云って立上るともう母は襖を開けて出て来た。
「いいえ。お前はこの家の主人です。外に人がいぬなら知らぬこと、人がいるのに、取り次ぎなどに出てはなりませぬ。わたしが出ます」
母はこうたしなめて、裾さばきもしやかに入口のほうに出て行って、何やら応対するようすだったが、すぐ帰って来た。
「備後福山の御領主、水野日向守勝成《みずのひゅうがのかみかつなり》様、ごじきじきの御訪問です。お会いなさるかや」
「会います。お通しくださいまし」
今はもう得十郎も観念して、水のように落ちついていた。
「丹波、久しいの」
先刻、裃姿のままの日向守勝成は、五六人の家来を引連れて入って来たが、座敷の入口からこう声をかけた。
「お久しぶりでござる」
得十郎は微笑して迎えた。
「なぜ逃げた。妙な男だの」
勝成も笑いながら坐る。
「あまりにも無慚な落魄の身の恥かしきまま、つい無我夢中で逃げましたが、本城まで攻めかけられては致しかたござらぬ」
勝成は豪放に笑った。
「はははははは、浮き沈みは世の習い、志だに逞しくば何の恥ずるところがあろう。我らも若いとき、親許を勘当になって武者修業して天下を歩いたことがあったが、中国あたりにいたときには、わずか三十石の糊米知行で暮らしたこともあった。が、わしはけっしてそれを恥じなんだぞ。家老であれ、国主であれ、申すだけのことははばからず申したものじゃ」
「心至りませぬ」
「ははははは、殊勝そうに申しおる。昔の元気はないか」
「ないこともござりませぬが」
勝成の家来たちはいぶかしげな顔をして、この異様な応対を眺めていた――礼儀は失わぬながら、十万石の大名たるわれらが主人と心易げに応対しているこのそぼろな素浪人は何者であろうか、しかも、われらが主公《との》のほうも朋輩に対するがごとくうちとけ切っていらせられるではないか。――すると、それに気づいたのであろう、勝成は家来たちのほうをふりかえった。
「そのほうども、異様に思うであろうの」
家来たちは黙ったまま微笑していたが、知りたげなようすはありありと現われていた。
「話して聞かそう。――いいの」
勝成は得十郎に向って同意を求める。
「やくたいもなきこと、やめてくだされ」
微笑して、得十郎は制《と》めたが、勝成は一笑いに笑い飛ばして坐り直した。
「この男、ただ今では何と申しているか知らぬが、世にあるときの名は佐世丹波守正幸《させたんばのかみまさゆき》、大阪の残党じゃ。こいつがため、わしは二つない生命《いのち》を取られようとしたことがあるのじゃ」
「やめてくだされ。昔のこと、昔のこと」
迷惑そうに、得十郎は遮ったが、勝成は頭を振って、
「夏の御陣のときのことじゃ。元和元年五月、暑い盛りであった。すでに前夜より、お陣触れあって、明日こそ城は落つるぞ、下知なきに先駆げすな、固く御軍法を守って功を争うな、とはあったけれど、戦場の習い、聞くものかは。表べはうやうやしくお受けはしつれど、心の底はきょうこそ最後ぞ、この日を外していつの日にか功名手柄を立てんと、手ぐすね引いて待ちかまえた、なかにもわしは、この気象なり、死ぬまで父の許さざった勘当を父に代ってお許しくだされて、父が遺跡仔細なく下したまわった大御所様への報恩の機、このときぞと思い切ったることなれば、夜もまだ白まぬころより、家来一統に命じて早くも馬にまたがり、槍をそばめて、戦機の至るを撓《た》めに撓めて待ちかまえた」
「…………」
「夜は明けた。陽は上った。がまだ戦いのはじまるけはいを見ぬ。敵も味方もひしと押ししずまっているのじゃ。すると、辰の刻ばかりであったか、後陣にあたってにわかに凄まじき人馬の音するかと思う間もなく、中陣先陣にひかえたる伊達、最上の勢の真中かけて駆け破り潮のごとく城めがけ行く勢がある。
『誰ぞ! 御軍法のきびしきをわきまえぬか』
『狼藉なり』
と呼ばわれど小耳にもかけるものかは、真一文字に楔子《くさび》のものに食い入るごとく、城壁めがけて取りついた。越前勢じゃ。
『エイヤ、エイヤ』
鬨《とき》の声を合わせて、無二無三に乗り入らんとする。
『すわや! 越前勢に先を越されな!』
総軍|雪崩《なだれ》を打って走り出す。
『続けや者ども!』
と呼ばわって、わしはその前に走り出していた。平安城長吉が鍛えたるかねて自慢の二間柄大身の槍、前に立塞がる者は、敵味方の嫌いもなく、叩き伏せ叩き伏せ城壁前の逆茂木《さかもぎ》にかかったときじゃ。崩れ立つ敵勢のなかより、花々しく鎧うたる武者三騎、馬を乗りめぐらし、槍を揃えての働きめざましく、三騎に駆け立てられて、勝ちに乗ったる味方も色めいてぞ見えた。なかにも、桃形の冑に黒糸縅《くろいとおどし》の具足、鹿毛《かげ》なる馬に緋の厚房かけて乗ったる武者の槍の働き眼にもとまらず。青貝摺ったる十文字の大槍を苧殻《おがら》のごとくふりまわして、薙ぎ伏せ薙ぎ伏せ、右に左に馬を飛ばして駆け悩ますさま、摩利支尊天の働きもかくやと疑うばかり。
『ものものしや』
と歯がみをして馬をかけ寄せ、名乗りを上げてついてかかれば、武者は二三間がほど馬を退いて、心にくくも輪乗りをかけて名乗る。冑の眉庇《まびさし》の下に見れば、男ぶり逞しき顔ながらまだ二十を越えて間もなきらしき若者。それがこの男じゃ。佐世丹波守正幸じゃ」
「おお」
家来たちは一様にうめくように歎息して、得十郎の顔を見た。
得十郎はそれには気がつかない。最初のうちの迷惑そうな顔は今は消えて、頬に血の色がさし、眼には燃えるような光がきらめいて、唇を噛みしめて勝成の顔を見つめていた。
「名乗りが済んで、槍を合わせた。一合、二合、三合、たがいに馬を馳せちがい、人まぜもせず戦った。四合、五合……」
「そうじゃ、六合目であった」
昂奮に駆られて、得十郎が口を出した。
勝成が答える。
「おおさ、六合目であった」
「六合目に、おぬしはついて出た。ついて出たところを、わしは大上段に振りかぶって、横にはらった。おぬしの槍は……」
「おお、俺が自慢の皆朱《かいしゅ》の大槍、平安城長吉が鍛えたる二間柄皆朱のの槍は、俺が手を離れて飛びおった。不覚であった」
勝成ははらはらと涙を流した。
「――しなしたり――おぬしは叫んで、刀の柄に手をかけたが、透かさず、おれはまた横様にひっぱたいた。一度で落ちぬ。二度で落ちぬ。三度で落ちぬ。一度二度三度四度、おれはつるべ打ちに薙いだ」
「打たれた、打たれた、板屋を打つ霰《あられ》よりもまだ急であった。こらえようとしたが、たまらぬ。おれは刀のつかに手をかけたまま、どっと落馬した」
「おれはそこをめがけてついた。一突きに息の根をとめてくれようと、内冑めがけて突いたが、おぬしはごろごろ転っては逃げる」
「一度目は空を突いた。二度目は冑にすべった。三度目はたしかに地べたに突きこんだ。逃げながら、おれはようく見ていた」
「そうじゃ。三度がほど突き損じて、おれは叢腹立てた。ええい、このうえは犬のように叩きころしてくれべいと、大上段にふりかざし、風を切って打ち下ろしたとき」
「どっと味方の勢が寄せて来て、二人の間をへだててくれた。生くまじき辛き命を助かって槍をひろって立上って見ると、こいつはもうその辺にはいぬ。硝煙《たまけむり》の中に消えて行く後ろ姿が見えた。おれは生れ落ちてから、ついぞ恐ろしいと思うたことのない不具者《かたわもの》じゃが、あのときはじめて恐ろしいということを知った。丹波、恐ろしかったぞ。恐ろしかったぞ。はははははは」
勝成はそれが持前らしい響きの強い明るい声で濶達に笑いかけたが、得十郎は微笑もしないで、
「詮ないこと、詮ないこと。何事も夢でござる」
と云ってうつ向いた。
そのとき、一人の家来が外から入って来て、勝成の側に寄って、低い声でなにごとか話しはじめた。勝成は幾度かうなずきながら聞いていたが、突然、また大きな声で笑い出した。
「ははははは、ははははは、さすがだ。さすがだ」
そして得十郎のほうを向いた。
「丹波」
得十郎はしずかな眼を向けた。
「おぬしのあだ名、千石浪人というのじゃそうの」
「やくたいもない」
得十郎は苦笑して、そのとき、こわごわと庭先に入って来た三吉のほうを見ていた。
「いや、わしはそれに感服しているのじゃ。おのれの値打をよく知って、窮すればとて安売をせぬは、さすがに佐世丹波と、わしは感服しているのじゃ。――袖摺り合うも他生の縁《えにし》という。おれとそちは生命のやりとりをした間柄じゃ。仲々の縁というべきであろう。どうじゃ、わしの家に来ぬか。わしが千石出そうではないか」
「何と云われる?」
「わしの家に来い。わしが千石出す」
二人はにらみ合うように、無言のままたがいに相手を見合っていたが、急に得十郎はにこりと笑った。
「面白うござろう。昔首にするはずであった人に随身する浮世の面白さ。一番、家来にしていただこうか」
「来てくれるか」
「行きましょうぞ」
「ははははは」
「ははははは」
二人は、天井を仰いで、咽喉仏の見えるほど大きな口を開いて、からからと笑った。
明後日、お目見得――ときめて、勝成は帰って行った。
得十郎は、勝成を送り出して、また座敷へ帰ってみると、濡縁のところに、ぼんやりと三吉が腰をかけていた。
「おじさん。お前、千石取りのお侍になると、もうおいらとは遊んでくれないだろうな」
向うを向いたまま、元気無さそうに云うのである。
「馬鹿を云え。ひまなときにはいつでも遊んでやる」
と答えたが、それでも浮かない顔をしているので、しみじみあわれになって、得十郎は力をこめて云った。
「そうだ。あしたはわしが暇だから、一緒に釣りに行こうじゃないか」
「ほんとかい」
「ほんとだとも」
「じゃ、おいら、これから餌を掘っておかア」
眼をかがやかして、三吉は飛んで行った。
[#8字下げ]十[#「十」は中見出し]
その翌日、
思いもかけない訪問者があった。
孫兵衛とお芳の二人であった。
「めでたいのう。けさほど噂に聞いたじゃ。とうとう望みどおりに千石の約束ができたというの。いや、めでたい、めでたい。嬉しくての、飛んで来た。妹など、嬉し泣きに泣き出す始末だ。ははははは」
入って来るやいなや、真向から浴びせかけて、ひとりで嬉しそうに笑っているのである。
得十郎はわずかに微笑しただけだった。
「よかった、よかった、さすがにおぬしの自負はえらいものじゃ。文句なしにわしは冑を脱ぐ、それにしても、人は志を高く持たねばならぬものじゃの」
「運じゃよ。運が好過ぎたのじゃ」
「それを云うな。わしの負けじゃ。ところで、妹の件じゃが、おぬしが望みどおり千石になった以上、これで何一つとして差しつかえがなくなったわけじゃが、いつ引き取ってくれるかな」
得十郎の顔はひきしまった。黙って、孫兵衛の顔から、お芳の顔へ、鋭い視線を移したのである。その視線に会って、二人の顔には、それまで必死に現わすまいと抑えていた不安な表情がかくしようもなく出てきた。孫兵衛は落ちつきもなくきょときょとと視線をうろつかしたし、お芳は真赤になり、そして真青になってうつ向いた。
つめたく、ゆっくりと得十郎は云う。
「約束はもう解いてあるはずじゃと記憶しているがのう」
「それじゃ。いや、しかし、あれはその場の言葉の行き違いで――幼いときからずっとつづいてきた約束じゃ。腹も立とうが、そう短気なことを申さず……」
「悪うござりました。私が悪うござりました。けど、けど……」
泣き伏してお芳も云った。
が、得十郎の表情は動かなかった。依然としてつめたい顔、つめたい調子で、
「お気の毒じゃが、わしにはもう妻となるように定まる人がある」
「何じゃと?」
兄妹は等しく顔を上げた。
得十郎は、ゆっくりと立上って、母の居間を隔てる襖を開けた。
そこには、母と三吉の姉のお雪とが、明日の晴れのお目見得に得十郎の着て行くべき小袖や裃をせっせと縫っていた。
「このお娘御」
得十郎は真直にお雪に指をさした。
「わしはこのお娘御を妻としてもらうことに心をきめているのだ」
突嗟の間、お雪には得十郎の言葉の意味がわからなかったらしい。黒い瞳を不審そうに得十郎のほうに向け、それから老母の顔を見たが、その顔に微かな笑いが浮かんでいるのを見ると、たちまち、頸筋から髪の中まで赤くなってうつ向いた。わなわなとふるえ出した。
そこに、外で呼ぶ声が聞こえた。
「おじさーん。約束だよ。行こうよ。きょうは釣れるぜ。おじさーん。返事しないかい」
お雪は立って出て行こうとした。弟の無躾けをたしなめるつもりもあったが、なによりも羞恥にいたたまらなかったのである。
得十郎はそれを制めた。
「いいのだ。お雪どの。わしは昨日約束した。子供との約束であっても、履《ふ》まぬと母者に叱られますでな」
そして、孫兵衛兄妹に向って、
「追い立てるようですまぬが、約束で釣りに行かねばならぬゆえ、きょうは失礼したい。御祝儀ありがたくお礼申す」
そのあいだも、三吉の呼び立てる声はやまない。
「おじさあん。約束だよ。いるのかい。いないのかい。返事しなよ……」
底本:「抵抗小説集」実業之日本社
1979(昭和54)年2月10日 初版発行
1979(昭和54)年3月1日 二版発行
入力:特定非営利活動法人はるかぜ