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骨牌会の惨劇
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骨牌会の惨劇
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)振《ふる》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)人|真平《まっぴら》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#感嘆符疑問符、1-8-78]
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[#3字下げ]思いがけぬ招待状[#「思いがけぬ招待状」は中見出し]
「おやおや、こいつは振《ふる》ってるぞ」
「なあに――?」
「権田《ごんだ》のどら[#「どら」に傍点]息子から骨牌《かるた》会の招待だ。君も一緒に来いってさ」
年賀状のあいだに挟《はさま》っていた贅沢《ぜいたく》な招待状を、兄から渡された啓子は、
「あたし厭《いや》よ、あんな人|真平《まっぴら》だわ」
「だってそれに依《よ》ると、横山の節ちゃんも招待されているぜ」
「あらほんと……」
招待状には、招く人たちの名がずらりと印刷されていて、権田家と親類関係にある家族の、若い男女は殆《ほとん》ど招待される事になっていた。
「お節さん本当に行くかどうか、あたし電話で訊《き》いてみるわ」
そう云って啓子は電話をかけに去った。
どら[#「どら」に傍点]息子とか、どら先生とか云われている権田青年は、名を安敦《やすあつ》という。父の権田六助が馬来《マレイ》半島のタランで大きな護謨《ゴム》園を経営しているが、彼はそこで生れ其処《そこ》で育った。安敦はアントンとも読むのである。
一体、権田六助というのが変屈な吝嗇家《りんしょくか》で、親類づきあいも好《よ》くなかった結果、三十年以前単身で馬来《マレイ》へ渡り、非常に成功して英国婦人と結婚した、そのあいだに安敦を生んだのである。――ところが安敦も父に劣らぬ変人で、少年時代から昆蟲学《こんちゅうがく》に凝りその方では相当の学識もあった。それで三年まえに、東京の理科大学で勉強するため日本へ来たが、吝嗇なこと驚くばかり、本郷の根津権現裏に大きな洋館を借りて、すばらしい温室を造り、昆蟲類や熱帯植物に埋まって研究と学問に没頭する他、殆ど親類とのつきあいをしないのである。
それだけなら別に仔細もなかったが、深くつきあいもせぬ癖に、日本へ来ると間もなく、啓子を嫁に呉《く》れと申込《もうしこ》んだ。
――結婚すれば馬来《マレイ》へ行って、王妃様のような生活をさせてやる。
と云うのである。
そんな野蛮な土地へ行って王妃様のような生活をしても始《はじま》らないし、相手が昆蟲狂人で天下の吝嗇家ときているから、無論のこと直《す》ぐ断って了《しま》った。――然《しか》し安敦はそれにも懲りず、親類中の美しい娘へ片端《かたっぱし》から結婚を申込んだのである。そしてみんなにあっさり[#「あっさり」に傍点]と拒絶された。是《これ》がまたお互いに知れたので、
――貴女《あなた》も申込まれたの?
――まあ貴女《あなた》も?
――吝嗇坊《けちんぼう》のくせに大変などら[#「どら」に傍点]息子ね。
と親類中の評判になって了《しま》った。
その吝嗇坊《けちんぼう》のどら[#「どら」に傍点]息子が、十五六人の若い男女を骨牌《かるた》会に招待するというのだから、精一《せいいち》と啓子が驚いたのも無理はない。
「お節さん行くんですって」
啓子が戻って来て云った。
「そして笑ってたわ」
「なんだって?」
「招待して置いて、もう一度みんなに結婚を申込むんじゃないかしら、って」
「はははは、そいつは洒落《しゃれ》てるぞ」
「洒落てるもんですか、身震いがするわ」
「兎《と》に角《かく》お土産《みやげ》を考えよう」
精一は椅子《いす》から立って、
「あの吝嗇坊《けちんぼう》の事だから、土産も持たずに御馳走だけ喰《た》べて行ったなんて云われるぜ」
「じゃあ何かうんと安いのを持って行きましょうよ。どうせ安敦《アントン》のお振舞《ふるまい》じゃ高が知れているわ」
「さすがに女はがっちりしてらあ」
「その筈《はず》よ、安敦《アントン》のお嫁さんに成るところだったんですもの」
啓子も陽気に笑って部屋を出た。
権田邸の招待会は、その翌日の午後六時から始まる予定だったが、精一は友達を訪ねる用があったので、根津の家へ行ったのは七時を過ぎていた。――先約があって来られない二人ばかりを除いて、十四人の若い男女は賑《にぎや》かに広い客間を占めていた。
「やあ、おめでとう」
「今年は喧嘩するのよそうぜ」
「どうぞ相変らず」
皆と親しく挨拶しながら、精一が一遇の椅子へ掛けようとすると、妹の啓子が節子を伴《つ》れてやって来た。
――節子はつい最近、精一と許婚《いいなずけ》の約束が定《きま》った少女である。
「やあ、遅刻して失礼」
精一に手を出されて、節子がぽっと頬を染めながら握手をする側から、
「お兄さま、些《ちょ》っと来て……」と妹の啓子が囁《ささや》いた。
[#3字下げ]血まみれの花束[#「血まみれの花束」は中見出し]
何だか訳がありそうなので、客間に続いている植物室の方へ、精一は二人を促して行った。
「なんだい変な顔をして」
「長谷部の不良が来ているのよ」
「え? 謙三が」
長谷部謙三というのは矢張《やは》り親類の一人であるが、ひどい不良青年で、殊《こと》に去年の春、槇山節子を嫁に貰いたいと申込んだのをぴったり断られると、短刀を持って節子の後を跟《つ》け廻したりしたほど、実に手に負えぬ乱暴者なので、今では親からも勘当されているのだった。
「それで、何か云ったのかい」
「別に何も云やあしないけど、にやにや笑いながら節さんの方を厭な眼つきで見ているのよ」
「それに……」節子が声を顫《ふる》わせながら、
「なんですか、さっき|隠し《ポケット》から拳銃《ピストル》のような物を出して見せてましたわ」
「ねえお兄さま、今のうちにお節さんを帰す方が宜《い》いんじゃなくって?」
「馬鹿な!」精一は強く頭を振った。
「そんな事をすれば益々奴をつけあがらせる許《ばか》りだ。如何《いか》に謙三が不良だって、此方《こっち》が何もしないのにまさかいきなり拳銃《ピストル》を射つ筈もなかろう――僕がついているから安心していて宜いよ」
「でも、大丈夫かしら」啓子は尚《なお》も不安そうに、
「なんだか今夜は不吉な事が起りそうで、あたし胸がどきどきするわ」
「まあ僕を信じてい給え」
そう云った時、客間の方で安敦の声がしたので、三人は植物室から出て行った。
権田安敦は五|呎《フィート》七|吋《インチ》に余る長身に洒落た夜会服《タキシード》を着て、褐色の頭髪を綺麗になでつけ、碧《あお》い眼に日本人ばなれのした愛嬌を湛《たた》えながら、流暢な日本語で挨拶をしていた。
「|御目出度う《ボナネ》、みなさん、宜《よ》うこそお集り下さいました。親類同志の事ですから何誰《どなた》も御遠慮なく、今夜は楽しくお寛《くつろ》ぎ下さい――先《ま》ず乾杯を致しましょう」
そう云うところへ、此《この》家にいる唯《ただ》一人の侍僕で、馬来《マレイ》土人のカロスという男が琥珀《こはく》色の酒を満たした杯《グラス》を運んで来て一同に配って廻った。
「是はパパイアの果汁で醸《かも》したモック酒という滋養酒です。酒精《アルコール》分が少いですから、令嬢方もどうぞ召上《めしあが》って下さい。――では新しき年の幸福を祈ります」
「プロオジット」
「プロオジット、安敦《アントン》の健康のために」
「有難《ありがと》う、有難う」
杯《グラス》が快い音を立てて触合《ふれあ》った。――その時、一度さがったカロスが、手に小さな花束を持って入って来て、
「マキヤマ、お嬢サマニオ届け物デス」と云う。啓子が椅子から立って、
「ああ此方《こっち》よ」
「ハイ、是ヲ、オ使イノ人ガ」
カロスは恭々《うやうや》しく近寄って来て、加密列花《カミツレ》の花束を節子に渡した、――節子は精一からだと思って振返ると、精一は不審そうに覗込《のぞきこ》んで、
「誰からだい?」
「あら、精さんじゃないんですの?」
「僕じゃないよ」
「じゃ誰かしら」
節子は名刺でも入っているかと思って、花束の中を見たが、突然、
「あ! 血、血だわ」と云って花束を投出《なげだ》した。――血と云う言葉に驚いた精一が、花束を拾って検《あらた》めてみるとなるほど花束の中央のところが、気味悪くべっとりと鮮血にまみれている。
――血まみれの花束。
精一は思わず慄然とした。
――誰かが血まみれの花束を節子に贈った、是は恐ろしい脅迫に違いない。誰だ、誰がこんな事を……。そう思い惑っていた時、
「お節さん、しばらくですね」
と不意に後で声がした。恟《ぎょっ》として振返る三人の前に、長谷部謙三が蒼白い顔に、薄ら笑いをうかべながら立っていた。
「精一君も啓ちゃんも、そんな変な顔をするなよ――僕はもう知っているんだ。お節さんが精一君と許嫁《いいなずけ》に成ったという事をね。おめでとう、僕は心からお祝いを云うよ」
そこで急に啓子の方へにやっと笑い、
「啓ちゃん可をそんなに見るんだい? ああ僕の手の繃帯《ほうたい》だね」
と云って、左の手頸に巻いた真新しい繃帯を見やり、
「ふふふふ是はね、今日ちょいとした喧嘩があって怪我《けが》をしたんだ、動脈が切れたんで血は沢山《たくさん》出たがね、なに大した事じゃないよ、――僕も此頃はいっぱし[#「いっぱし」に傍点]の悪党になった、何《いず》れは刑務所行きと覚悟をきめているさ、ふふふふ」
嘲るような眼で、節子と精一の顔を見やりながら、謙三はふっ[#「ふっ」に傍点]と向うへ去って行った。啓子は始終の様子を見ていたが、やがて声を震わせながら云った。
「彼奴《あいつ》だわ、お兄さま、――あの手頸の傷で、この花束を血に染めたのよ、――きっとそうに違いないわ」
「まあ待て、どうするか見ていてやる」
精一は強く拳を握った。
[#3字下げ][#中見出し]扉《ドア》の外で女の悲鳴[#中見出し終わり]
啓子が見縊《みくび》ったのとは違って、その夜の晩餐はすばらしく豪奢なものだった。高価な葡萄酒《ぶどうしゅ》、贅を尽した仏蘭西《フランス》料理、実のところどんな金持《かねもち》の夜会にも劣らぬ献立《こんだて》である。
「さて一言御挨拶を申します」
最初の葡萄酒があけられた時、安敦は起上《たちあが》って云った。
「実は今夜の晩餐は、皆さんとお別れのために設けたのであります。僕は来週の金曜日に馬来《マレイ》へ帰る事にしました。日本へ来てから今日まで色々とお世話にもなり、――殊に、お集り下すった令嬢方には、みんな一度ずつ失礼な結婚の申込を致しまして、夫々《それぞれ》あっさりお断りを頂戴しました」
そう云って、自分を嘲るように苦笑を見せながら続けた。
「つまり、安敦《アントン》は敗北して馬来《マレイ》へ帰るのでございます。どうぞこの哀れな敗残兵のために、もう一度御乾杯を願います」
「いや敗残兵などと云う事はない」
精一が起上って云った。
「権田安敦は昆蟲学者として輝かしい将来を有《も》っているのだ。馬来《マレイ》へ帰ったら益々勉強して、我々一族の名をあげて貰いたいと思う。安敦《アントン》のために乾杯!」
「ありがとう精一君」安敦は弱々しく微笑して、
「君は美しい節子さんと許婚《いいなずけ》になったそうですね。――僕も節子さんには、熱心に結婚をお願いしたが駄目でした。非常に、……非常に残念です。しかし、――まあこんな話は止《よ》しにしましょう。皆さん」
そう云って安敦は一座の方へ振返った。
「食事にかかる前に、何誰《どなた》も盛花の花を一輪ずつ胸へお飾り下さい。和服の令嬢方は髪へお挿《さ》し願います。是は僕の習慣ですから」
客たちは互いに笑いさざめきながら、食卓を飾っている花籠から、夫々好みの花を摘取《つみと》って、釦穴《ボタンあな》や髪毛へ飾った。
晩餐が終ると、一同は再び客間へ集って、三組に分れて賑かに骨牌《かるた》を始めた。精一はその時、別の方の組に加わったので知らなかったが、安敦は節子の組にいて、何くれとなく親切に立廻り、節子が白いカーネーションを胸につけているのを見るや、
「ああ、その花は淋しすぎますね。僕が良いのを持って来てあげましょう」
と急いで立って行ったが、間もなく植物室から紫色をした蘭科の珍しい花を摘んで来て、
「是をつけて下さい。是は馬来《マレイ》産の蘭で『命がけの愛情』という名を持っているんです。貴女《あなた》と精一君を祝福するために差上《さしあ》げます」
そう云いながら、節子の夜会服の胸へ自ら飾ってやった。――この様子を、隅の方から謙三が、鋭く睨んでいた事には、誰も気付かなかったのである。
時は娯《たの》しく過ぎて行った。始めのうちは精一も、謙三が何か乱暴をしはせぬかと注意を怠らなかったが、どうやらそんな様子も見えないので、いつか気を許して骨牌《かるた》に熱中していた――すると、時計が九時を打って間もなく、客間の扉《ドア》の外で突然、
「きゃーッ」という女の悲鳴が起った。
精一は恟《ぎょっ》としながら客の中を見廻して、そこに節子の姿が見えないのを知ると、椅子を蹴倒すように客間を横切って扉《ドア》の外へ出た、――すると手洗場へ通う廊下に節子が、真蒼《まっさお》な顔をして立竦《たちすく》み、その側に謙三が何やら頻《しき》りに詫びている。
「ど、どうしたんだ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」精一が喚きながら駈寄《かけよ》るのを見て節子はぶるぶる震えながら縋《すが》りついた。
「どうしたんだ、節ちゃん」
「あたし、あたしがお手洗いに行って帰ろうとすると、謙三さんがその蔭から出て来て、いきなり、あたしに突当《つきあた》ったんですの」
「なに、ほんの些《ちょ》っとぶつかった許《ばかり》だよ」
謙三は太々《ふてぶて》しく冷笑して、
「葡萄酒を少し飲過《のみす》ぎたものだから、足がふらふらするんだ。そんなに騒ぐ事はないじゃないか」
「おい長谷部、――」精一は鋭く睨みながら云った。
「変な真似はしない方が宜いぜ、君はさっきから大分悪党ぶっているが、僕だって喧嘩の三度や五度はしていない訳じゃない、文句があるなら男と男で堂々とやろうじゃないか」
「そう怒るなよ、僕は別に文句なんか有りやしないさ。ただ少し酔っているだけなんだ。さっきの葡萄酒が強過ぎたんだよ」
そう云ったまま、謙三はふらふらと客間の方へ戻って行った、――その時、扉口《とぐち》にはみんな、何事が起ったのかと集っていたが、謙三は本当に酔っていたかして、よろよろと安敦の体へ倒れかかった、そして安敦が、
「――危い、確《しっか》りし給え」
と驚いて支えると、急に低く笑いながら自分の椅子の方へよろめいて行った。
[#3字下げ]飛びまわる毒蟲[#「飛びまわる毒蟲」は中見出し]
「怖いからもう側を離れないでね」
「うん、君もなるべく僕の側から動かないようにし給え。なんだか様子が変になって来た」
「もう帰りましょうか」
「いけない、いま帰っては此方《こっち》の弱味につけこまれる。隙を見せないように堂々としているんだ、さあ……」
精一は確りと節子の手を執《と》って、自分の卓子《テーブル》へ伴《つ》れて行った。
表面は些《ちょ》っとした出来事だったが、なにしろ場所が安敦の家だし、相手が不良の謙三なので、早くも一座の人たちは不安を感じ始め、今までの娯《たの》しさとは違って、みんな妙に落着《おちつ》かぬ様子を見せ始めた。――それを気付いたか、安敦はやおら起上って、
「もう九時も過ぎたようですから、是でお茶にする事にしましょう」
と云った。人々はほっとしながら骨牌《かるた》を措《お》き、カロスの運んで来た紅茶とビスケットを受取《うけと》って、賑かに雑談を始めた。――安敦はみんなと離れて、片隅の飾り箪笥《たんす》をがたがた云わせていたが、やがて精一たちのいる方へやって来て、
「精一君、済まないが節子さんに贈物《おくりもの》をさせて呉れたまえ」
「ああどうぞ」
「是は馬来《マレイ》にいる甲蟲科《かぶとむしか》の『金星』という蟲の殻だ。生きている時は猛毒を持っていて、着物の上からでも人を刺す。刺されたら十秒のうちに死ぬという毒蟲なんだがこの通り宝石のように美しい翅《はね》をしているので、南洋では襟飾《えりかざり》として非常に珍重するんだ。――これを節子さんへ差上げてくれ給え」
「有難う、しかし気味が悪いね」
「いや、もう死んでいるんだから気味の悪いことはないさ、これは……」と云いかけた時、――安敦は突然、
「きゃッ」と叫んで突立上った。
突然のことで、皆は何事が起ったのかと見ると、安敦は気でも狂ったように、両手を烈《はげ》しく振廻しながら、
「あ! 助けて、誰か、早く、ああッ、早く助けて、みんな、助けてッ」
凄《すさま》じい声で喚きながら、客間の中を右へ左へ走廻《はしりまわ》っていたが、やがて椅子に躓《つまず》いて※[#「てへん+堂」、第4水準2-13-41]《どう》と仰《のけ》ざまに倒れた。――その時はじめて、人々は恐るべき物を見た。たった今、安敦が節子に贈った毒蟲の「金星」それと同じ生きているのが、安敦の体の周囲を、不気味に唸《うな》りながら飛廻っているのである。
「あ! 毒蟲だ」
「金星だ、金星だ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
人々は総立ちになった。――刺されたら十秒のうちに死ぬという猛毒蟲である。若《も》し襲われたら最期と何れも先を争って植物室の方へ雪崩れこんだ。
安敦は獣のように叫びながら、手足を振って追払《おいはら》おうとするが「金星」は執拗に、ぶるるぶるる、と低い翅音《はおと》を立て立て二度、三度と襲いかかり、遂《つい》にひたッと安敦の胸へ喰付《くいつ》いた。
「ひーッ」凄じい悲鳴と共に、安敦は狂気のようにはね起きると、いきなり飾り箪笥の抽出《ひきだし》から小型|拳銃《ピストル》を取出《とりだ》し、
「もう、お了《しま》いだ、斯《こ》うなれば」と云いざま、よろよろと植物室の方へ進んで来ながら、拳銃《ピストル》を挙げて、恐怖のあまり茫然としている節子の方へ、突然狙いをつけた。
耳を劈《つんざ》く銃声。刹那! 弾丸《たま》は、節子の前へ飛礫《つぶて》のように立塞がった長谷部謙三の胸を射抜いた。
「きゃーッ」
令嬢たちは悲鳴と共に思わず外向《そむ》く、――謙三はよろよろとなったが、
「うッ」と踏耐《ふみこた》えるや、咄嗟《とっさ》に|隠し《ポケット》から拳銃《ピストル》を取出し、方《まさ》に二発めを射とうとする安敦の胸を狙ってがん[#「がん」に傍点]と放ち、
「精ちゃん」と苦痛を忍ぶ声で叫んだ。
「みんなを外へ伴出《つれだ》して呉れ、安敦《アントン》と毒蟲は僕が引受《ひきう》けた。早く早くしないと危い」
「だって君独りで」
「大丈夫だ、早くしないと毒蟲にやられる。お節さんが死んでも宜いのか、早く、早くみんなを外へ!」
精一は頷くと、節子を抱えるようにして、植物室の窓を開け、素早く皆を家の外へ出した。部屋の中では安敦が死物狂いで、
がん[#「がん」に傍点]! がん[#「がん」に傍点]※[#感嘆符二つ、1-8-75]
と射つ。謙三がその弾丸《たま》を避けながら、突進しようとした時、扉《ドア》を押開《おしあ》けて侍僕の馬来《マレイ》人カロスが、鋭い半月形の短刀を持って入って来た。そして弱っている謙三の肩へ、力任せに一撃、打下ろそうとする刹那、
「待て蕃人ッ」
と叫びながら、戻って来た精一が、だっ[#「だっ」に傍点]と体当りに跳びかかった。
[#3字下げ]恐ろしき死の花の謎[#「恐ろしき死の花の謎」は中見出し]
カロスは不意を喰《くら》って、烈しく横さまに顛倒《てんとう》したが、跳起《はねお》きざま、異様な叫びと共に、猛然と短刀を振って襲いかかる。その鋭い切尖《きっさき》を危く右に躱《かわ》した精一、流れる利腕《ききうで》を逆に取ると、大きく足払いをくれながら、
「やっ!」とばかり引落す。
「あーッ」
だっ[#「だっ」に傍点]とのめるところを、隙《す》かさず乗掛《のりかか》ってがっ[#「がっ」に傍点]と脾腹へ一拳当てた。熱帯人は殊に脾腹の弱いものである。
「むうっ」と気絶するのを見済《みすま》して立ち、第一に毒蟲はどうしたかと見ると、謙三の射った第一弾が、よく毒蟲を射殺《いころ》したうえ安敦に命中している、――振返ると謙三もそこに倒れているので、
「――謙ちゃん、確りし給え」と駈寄って抱起《だきおこ》した。
「謙ちゃん、僕だ、精一だ」
「ああ、ああ、精ちゃんか」
「いま医者を呼ぶから」
「いや待って呉れ」謙三は苦しげに頭を振った。
「医者には及ばない、迚《とて》も僕は駄目だ、それより、話したい事があるから、済まないが、節ちゃんを……」
「宜し」精一は走って行って、直ぐに節子を伴れて来た。
「節ちゃん……」
謙三は、節子の方へ力無い微笑を投げながら、喘ぎ喘ぎ云った。
「今夜の事は、みんな安敦の悪企《わるだく》みだったんだよ。彼奴《あいつ》は、貴女《あなた》をお嫁さんに、欲しかったんだ。それが、駄目になったうえ、精ちゃんと許婚《いいなずけ》に定《きま》ったのを知って、苦しまぎれに貴女《あなた》を殺そうとしたんだ」
「どうして殺すんだ、節子を殺せば自分も生きてはいられないぜ」
「だから、誰にも分らないようにさ」
謙三は息をついて続けた。
「僕は、安敦が今夜なにか、悪企《わるだく》みをやると思った。それで、注意していると、奴は節ちゃんにだけ、白い花は淋しすぎると云って、特別の花を摘んで来て、胸飾りにしてやった、――僕はそれを見ていた。そして、是は何かトリックがあるな、と睨んだ、だから節ちゃんが手洗いに立った時、態《わざ》と突当って、花をすり[#「すり」に傍点]替え、その花を安敦の胸へ附けてやったのさ」
「それは安敦に倒れかかった時だな」
「そうだ。後で分った事だが、あの花には特別の匂《におい》がある、つまり、つまり、――毒蟲『金星』を誘い寄せる匂だ。その証拠には、あの毒蟲は安敦を刺した」
恐るべき罠、あの美しい蘭科の花には、そんな恐ろしい罠が隠してあったのか、――精一も節子も今更《いまさら》ながら慄然とした。
「奴はあの花が節ちゃんの胸に附いている積《つもり》で、毒蟲を放したんだ。節ちゃんが毒蟲に刺されて死んだって、奴が殺したという証拠は残りやしない、――犯人は昆蟲室から逃出した『金星』だ。奴は手を濡らさずして節ちゃんに怨《うらみ》を晴し、大威張《おおいば》りで日本を去る考えだったのさ。……ところか天罰だ。奴は自分の作った罠で、自分の命を喪《うしな》ったのだ」
「そしてあの血まみれの花束は、あれも奴が寄来《よこ》したんだろうか」
「あれか、あれは僕だよ」
謙三はにっと笑った。「――僕は、今夜の会が臭いと思ったから、態《わざ》とこの手頸を傷《きずつ》けて、血まみれの花束を贈ったんだ。そうすれば節ちゃんが気味悪がって、早く帰って呉れると考えたんだ。――然し是で宜いんだ。僕のやくざな命が君たち二人のために役立てば、こんな本望な事はないよ」
「謙三さん……済みません」
節子は堪《たま》りかねて泣伏《なきふ》した。――謙三は静かに眼をあけて、
「泣かないで呉れよ節ちゃん、どうせ僕は終《しま》いには刑務所へ行くより他にない奴だ。それが、それが斯うして、節ちゃんのために死ねるのは嬉しいんだ、――本当に、本当に嬉しいんだぜ」
「謙ちゃん!」
精一も思わず謙三の肩を抱緊《だきし》めた。
「精ちゃん、仕合せに暮して呉れ、二人とも仕合せになって呉れ。僕ぁ、死んでも、君たち二人を護っているぜ……護って――」
謙三の声はかすれるように弱くなった。
精一と節子は、堅く手を握合《にぎりあ》いながら、この不良だった友の命がけの、最後の友情に、ただ感謝の涙を注ぐばかりだった。
――かくて、正月五日|骨牌《かるた》会の夜、九時二十分の惨劇は戦慄と涙のうちに終った。
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第三巻 怪奇探偵小説」作品社
2007(平成19)年12月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1938(昭和13)年2月
初出:「少年少女譚海」
1938(昭和13)年2月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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(例)振《ふる》
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[#3字下げ]思いがけぬ招待状[#「思いがけぬ招待状」は中見出し]
「おやおや、こいつは振《ふる》ってるぞ」
「なあに――?」
「権田《ごんだ》のどら[#「どら」に傍点]息子から骨牌《かるた》会の招待だ。君も一緒に来いってさ」
年賀状のあいだに挟《はさま》っていた贅沢《ぜいたく》な招待状を、兄から渡された啓子は、
「あたし厭《いや》よ、あんな人|真平《まっぴら》だわ」
「だってそれに依《よ》ると、横山の節ちゃんも招待されているぜ」
「あらほんと……」
招待状には、招く人たちの名がずらりと印刷されていて、権田家と親類関係にある家族の、若い男女は殆《ほとん》ど招待される事になっていた。
「お節さん本当に行くかどうか、あたし電話で訊《き》いてみるわ」
そう云って啓子は電話をかけに去った。
どら[#「どら」に傍点]息子とか、どら先生とか云われている権田青年は、名を安敦《やすあつ》という。父の権田六助が馬来《マレイ》半島のタランで大きな護謨《ゴム》園を経営しているが、彼はそこで生れ其処《そこ》で育った。安敦はアントンとも読むのである。
一体、権田六助というのが変屈な吝嗇家《りんしょくか》で、親類づきあいも好《よ》くなかった結果、三十年以前単身で馬来《マレイ》へ渡り、非常に成功して英国婦人と結婚した、そのあいだに安敦を生んだのである。――ところが安敦も父に劣らぬ変人で、少年時代から昆蟲学《こんちゅうがく》に凝りその方では相当の学識もあった。それで三年まえに、東京の理科大学で勉強するため日本へ来たが、吝嗇なこと驚くばかり、本郷の根津権現裏に大きな洋館を借りて、すばらしい温室を造り、昆蟲類や熱帯植物に埋まって研究と学問に没頭する他、殆ど親類とのつきあいをしないのである。
それだけなら別に仔細もなかったが、深くつきあいもせぬ癖に、日本へ来ると間もなく、啓子を嫁に呉《く》れと申込《もうしこ》んだ。
――結婚すれば馬来《マレイ》へ行って、王妃様のような生活をさせてやる。
と云うのである。
そんな野蛮な土地へ行って王妃様のような生活をしても始《はじま》らないし、相手が昆蟲狂人で天下の吝嗇家ときているから、無論のこと直《す》ぐ断って了《しま》った。――然《しか》し安敦はそれにも懲りず、親類中の美しい娘へ片端《かたっぱし》から結婚を申込んだのである。そしてみんなにあっさり[#「あっさり」に傍点]と拒絶された。是《これ》がまたお互いに知れたので、
――貴女《あなた》も申込まれたの?
――まあ貴女《あなた》も?
――吝嗇坊《けちんぼう》のくせに大変などら[#「どら」に傍点]息子ね。
と親類中の評判になって了《しま》った。
その吝嗇坊《けちんぼう》のどら[#「どら」に傍点]息子が、十五六人の若い男女を骨牌《かるた》会に招待するというのだから、精一《せいいち》と啓子が驚いたのも無理はない。
「お節さん行くんですって」
啓子が戻って来て云った。
「そして笑ってたわ」
「なんだって?」
「招待して置いて、もう一度みんなに結婚を申込むんじゃないかしら、って」
「はははは、そいつは洒落《しゃれ》てるぞ」
「洒落てるもんですか、身震いがするわ」
「兎《と》に角《かく》お土産《みやげ》を考えよう」
精一は椅子《いす》から立って、
「あの吝嗇坊《けちんぼう》の事だから、土産も持たずに御馳走だけ喰《た》べて行ったなんて云われるぜ」
「じゃあ何かうんと安いのを持って行きましょうよ。どうせ安敦《アントン》のお振舞《ふるまい》じゃ高が知れているわ」
「さすがに女はがっちりしてらあ」
「その筈《はず》よ、安敦《アントン》のお嫁さんに成るところだったんですもの」
啓子も陽気に笑って部屋を出た。
権田邸の招待会は、その翌日の午後六時から始まる予定だったが、精一は友達を訪ねる用があったので、根津の家へ行ったのは七時を過ぎていた。――先約があって来られない二人ばかりを除いて、十四人の若い男女は賑《にぎや》かに広い客間を占めていた。
「やあ、おめでとう」
「今年は喧嘩するのよそうぜ」
「どうぞ相変らず」
皆と親しく挨拶しながら、精一が一遇の椅子へ掛けようとすると、妹の啓子が節子を伴《つ》れてやって来た。
――節子はつい最近、精一と許婚《いいなずけ》の約束が定《きま》った少女である。
「やあ、遅刻して失礼」
精一に手を出されて、節子がぽっと頬を染めながら握手をする側から、
「お兄さま、些《ちょ》っと来て……」と妹の啓子が囁《ささや》いた。
[#3字下げ]血まみれの花束[#「血まみれの花束」は中見出し]
何だか訳がありそうなので、客間に続いている植物室の方へ、精一は二人を促して行った。
「なんだい変な顔をして」
「長谷部の不良が来ているのよ」
「え? 謙三が」
長谷部謙三というのは矢張《やは》り親類の一人であるが、ひどい不良青年で、殊《こと》に去年の春、槇山節子を嫁に貰いたいと申込んだのをぴったり断られると、短刀を持って節子の後を跟《つ》け廻したりしたほど、実に手に負えぬ乱暴者なので、今では親からも勘当されているのだった。
「それで、何か云ったのかい」
「別に何も云やあしないけど、にやにや笑いながら節さんの方を厭な眼つきで見ているのよ」
「それに……」節子が声を顫《ふる》わせながら、
「なんですか、さっき|隠し《ポケット》から拳銃《ピストル》のような物を出して見せてましたわ」
「ねえお兄さま、今のうちにお節さんを帰す方が宜《い》いんじゃなくって?」
「馬鹿な!」精一は強く頭を振った。
「そんな事をすれば益々奴をつけあがらせる許《ばか》りだ。如何《いか》に謙三が不良だって、此方《こっち》が何もしないのにまさかいきなり拳銃《ピストル》を射つ筈もなかろう――僕がついているから安心していて宜いよ」
「でも、大丈夫かしら」啓子は尚《なお》も不安そうに、
「なんだか今夜は不吉な事が起りそうで、あたし胸がどきどきするわ」
「まあ僕を信じてい給え」
そう云った時、客間の方で安敦の声がしたので、三人は植物室から出て行った。
権田安敦は五|呎《フィート》七|吋《インチ》に余る長身に洒落た夜会服《タキシード》を着て、褐色の頭髪を綺麗になでつけ、碧《あお》い眼に日本人ばなれのした愛嬌を湛《たた》えながら、流暢な日本語で挨拶をしていた。
「|御目出度う《ボナネ》、みなさん、宜《よ》うこそお集り下さいました。親類同志の事ですから何誰《どなた》も御遠慮なく、今夜は楽しくお寛《くつろ》ぎ下さい――先《ま》ず乾杯を致しましょう」
そう云うところへ、此《この》家にいる唯《ただ》一人の侍僕で、馬来《マレイ》土人のカロスという男が琥珀《こはく》色の酒を満たした杯《グラス》を運んで来て一同に配って廻った。
「是はパパイアの果汁で醸《かも》したモック酒という滋養酒です。酒精《アルコール》分が少いですから、令嬢方もどうぞ召上《めしあが》って下さい。――では新しき年の幸福を祈ります」
「プロオジット」
「プロオジット、安敦《アントン》の健康のために」
「有難《ありがと》う、有難う」
杯《グラス》が快い音を立てて触合《ふれあ》った。――その時、一度さがったカロスが、手に小さな花束を持って入って来て、
「マキヤマ、お嬢サマニオ届け物デス」と云う。啓子が椅子から立って、
「ああ此方《こっち》よ」
「ハイ、是ヲ、オ使イノ人ガ」
カロスは恭々《うやうや》しく近寄って来て、加密列花《カミツレ》の花束を節子に渡した、――節子は精一からだと思って振返ると、精一は不審そうに覗込《のぞきこ》んで、
「誰からだい?」
「あら、精さんじゃないんですの?」
「僕じゃないよ」
「じゃ誰かしら」
節子は名刺でも入っているかと思って、花束の中を見たが、突然、
「あ! 血、血だわ」と云って花束を投出《なげだ》した。――血と云う言葉に驚いた精一が、花束を拾って検《あらた》めてみるとなるほど花束の中央のところが、気味悪くべっとりと鮮血にまみれている。
――血まみれの花束。
精一は思わず慄然とした。
――誰かが血まみれの花束を節子に贈った、是は恐ろしい脅迫に違いない。誰だ、誰がこんな事を……。そう思い惑っていた時、
「お節さん、しばらくですね」
と不意に後で声がした。恟《ぎょっ》として振返る三人の前に、長谷部謙三が蒼白い顔に、薄ら笑いをうかべながら立っていた。
「精一君も啓ちゃんも、そんな変な顔をするなよ――僕はもう知っているんだ。お節さんが精一君と許嫁《いいなずけ》に成ったという事をね。おめでとう、僕は心からお祝いを云うよ」
そこで急に啓子の方へにやっと笑い、
「啓ちゃん可をそんなに見るんだい? ああ僕の手の繃帯《ほうたい》だね」
と云って、左の手頸に巻いた真新しい繃帯を見やり、
「ふふふふ是はね、今日ちょいとした喧嘩があって怪我《けが》をしたんだ、動脈が切れたんで血は沢山《たくさん》出たがね、なに大した事じゃないよ、――僕も此頃はいっぱし[#「いっぱし」に傍点]の悪党になった、何《いず》れは刑務所行きと覚悟をきめているさ、ふふふふ」
嘲るような眼で、節子と精一の顔を見やりながら、謙三はふっ[#「ふっ」に傍点]と向うへ去って行った。啓子は始終の様子を見ていたが、やがて声を震わせながら云った。
「彼奴《あいつ》だわ、お兄さま、――あの手頸の傷で、この花束を血に染めたのよ、――きっとそうに違いないわ」
「まあ待て、どうするか見ていてやる」
精一は強く拳を握った。
[#3字下げ][#中見出し]扉《ドア》の外で女の悲鳴[#中見出し終わり]
啓子が見縊《みくび》ったのとは違って、その夜の晩餐はすばらしく豪奢なものだった。高価な葡萄酒《ぶどうしゅ》、贅を尽した仏蘭西《フランス》料理、実のところどんな金持《かねもち》の夜会にも劣らぬ献立《こんだて》である。
「さて一言御挨拶を申します」
最初の葡萄酒があけられた時、安敦は起上《たちあが》って云った。
「実は今夜の晩餐は、皆さんとお別れのために設けたのであります。僕は来週の金曜日に馬来《マレイ》へ帰る事にしました。日本へ来てから今日まで色々とお世話にもなり、――殊に、お集り下すった令嬢方には、みんな一度ずつ失礼な結婚の申込を致しまして、夫々《それぞれ》あっさりお断りを頂戴しました」
そう云って、自分を嘲るように苦笑を見せながら続けた。
「つまり、安敦《アントン》は敗北して馬来《マレイ》へ帰るのでございます。どうぞこの哀れな敗残兵のために、もう一度御乾杯を願います」
「いや敗残兵などと云う事はない」
精一が起上って云った。
「権田安敦は昆蟲学者として輝かしい将来を有《も》っているのだ。馬来《マレイ》へ帰ったら益々勉強して、我々一族の名をあげて貰いたいと思う。安敦《アントン》のために乾杯!」
「ありがとう精一君」安敦は弱々しく微笑して、
「君は美しい節子さんと許婚《いいなずけ》になったそうですね。――僕も節子さんには、熱心に結婚をお願いしたが駄目でした。非常に、……非常に残念です。しかし、――まあこんな話は止《よ》しにしましょう。皆さん」
そう云って安敦は一座の方へ振返った。
「食事にかかる前に、何誰《どなた》も盛花の花を一輪ずつ胸へお飾り下さい。和服の令嬢方は髪へお挿《さ》し願います。是は僕の習慣ですから」
客たちは互いに笑いさざめきながら、食卓を飾っている花籠から、夫々好みの花を摘取《つみと》って、釦穴《ボタンあな》や髪毛へ飾った。
晩餐が終ると、一同は再び客間へ集って、三組に分れて賑かに骨牌《かるた》を始めた。精一はその時、別の方の組に加わったので知らなかったが、安敦は節子の組にいて、何くれとなく親切に立廻り、節子が白いカーネーションを胸につけているのを見るや、
「ああ、その花は淋しすぎますね。僕が良いのを持って来てあげましょう」
と急いで立って行ったが、間もなく植物室から紫色をした蘭科の珍しい花を摘んで来て、
「是をつけて下さい。是は馬来《マレイ》産の蘭で『命がけの愛情』という名を持っているんです。貴女《あなた》と精一君を祝福するために差上《さしあ》げます」
そう云いながら、節子の夜会服の胸へ自ら飾ってやった。――この様子を、隅の方から謙三が、鋭く睨んでいた事には、誰も気付かなかったのである。
時は娯《たの》しく過ぎて行った。始めのうちは精一も、謙三が何か乱暴をしはせぬかと注意を怠らなかったが、どうやらそんな様子も見えないので、いつか気を許して骨牌《かるた》に熱中していた――すると、時計が九時を打って間もなく、客間の扉《ドア》の外で突然、
「きゃーッ」という女の悲鳴が起った。
精一は恟《ぎょっ》としながら客の中を見廻して、そこに節子の姿が見えないのを知ると、椅子を蹴倒すように客間を横切って扉《ドア》の外へ出た、――すると手洗場へ通う廊下に節子が、真蒼《まっさお》な顔をして立竦《たちすく》み、その側に謙三が何やら頻《しき》りに詫びている。
「ど、どうしたんだ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」精一が喚きながら駈寄《かけよ》るのを見て節子はぶるぶる震えながら縋《すが》りついた。
「どうしたんだ、節ちゃん」
「あたし、あたしがお手洗いに行って帰ろうとすると、謙三さんがその蔭から出て来て、いきなり、あたしに突当《つきあた》ったんですの」
「なに、ほんの些《ちょ》っとぶつかった許《ばかり》だよ」
謙三は太々《ふてぶて》しく冷笑して、
「葡萄酒を少し飲過《のみす》ぎたものだから、足がふらふらするんだ。そんなに騒ぐ事はないじゃないか」
「おい長谷部、――」精一は鋭く睨みながら云った。
「変な真似はしない方が宜いぜ、君はさっきから大分悪党ぶっているが、僕だって喧嘩の三度や五度はしていない訳じゃない、文句があるなら男と男で堂々とやろうじゃないか」
「そう怒るなよ、僕は別に文句なんか有りやしないさ。ただ少し酔っているだけなんだ。さっきの葡萄酒が強過ぎたんだよ」
そう云ったまま、謙三はふらふらと客間の方へ戻って行った、――その時、扉口《とぐち》にはみんな、何事が起ったのかと集っていたが、謙三は本当に酔っていたかして、よろよろと安敦の体へ倒れかかった、そして安敦が、
「――危い、確《しっか》りし給え」
と驚いて支えると、急に低く笑いながら自分の椅子の方へよろめいて行った。
[#3字下げ]飛びまわる毒蟲[#「飛びまわる毒蟲」は中見出し]
「怖いからもう側を離れないでね」
「うん、君もなるべく僕の側から動かないようにし給え。なんだか様子が変になって来た」
「もう帰りましょうか」
「いけない、いま帰っては此方《こっち》の弱味につけこまれる。隙を見せないように堂々としているんだ、さあ……」
精一は確りと節子の手を執《と》って、自分の卓子《テーブル》へ伴《つ》れて行った。
表面は些《ちょ》っとした出来事だったが、なにしろ場所が安敦の家だし、相手が不良の謙三なので、早くも一座の人たちは不安を感じ始め、今までの娯《たの》しさとは違って、みんな妙に落着《おちつ》かぬ様子を見せ始めた。――それを気付いたか、安敦はやおら起上って、
「もう九時も過ぎたようですから、是でお茶にする事にしましょう」
と云った。人々はほっとしながら骨牌《かるた》を措《お》き、カロスの運んで来た紅茶とビスケットを受取《うけと》って、賑かに雑談を始めた。――安敦はみんなと離れて、片隅の飾り箪笥《たんす》をがたがた云わせていたが、やがて精一たちのいる方へやって来て、
「精一君、済まないが節子さんに贈物《おくりもの》をさせて呉れたまえ」
「ああどうぞ」
「是は馬来《マレイ》にいる甲蟲科《かぶとむしか》の『金星』という蟲の殻だ。生きている時は猛毒を持っていて、着物の上からでも人を刺す。刺されたら十秒のうちに死ぬという毒蟲なんだがこの通り宝石のように美しい翅《はね》をしているので、南洋では襟飾《えりかざり》として非常に珍重するんだ。――これを節子さんへ差上げてくれ給え」
「有難う、しかし気味が悪いね」
「いや、もう死んでいるんだから気味の悪いことはないさ、これは……」と云いかけた時、――安敦は突然、
「きゃッ」と叫んで突立上った。
突然のことで、皆は何事が起ったのかと見ると、安敦は気でも狂ったように、両手を烈《はげ》しく振廻しながら、
「あ! 助けて、誰か、早く、ああッ、早く助けて、みんな、助けてッ」
凄《すさま》じい声で喚きながら、客間の中を右へ左へ走廻《はしりまわ》っていたが、やがて椅子に躓《つまず》いて※[#「てへん+堂」、第4水準2-13-41]《どう》と仰《のけ》ざまに倒れた。――その時はじめて、人々は恐るべき物を見た。たった今、安敦が節子に贈った毒蟲の「金星」それと同じ生きているのが、安敦の体の周囲を、不気味に唸《うな》りながら飛廻っているのである。
「あ! 毒蟲だ」
「金星だ、金星だ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
人々は総立ちになった。――刺されたら十秒のうちに死ぬという猛毒蟲である。若《も》し襲われたら最期と何れも先を争って植物室の方へ雪崩れこんだ。
安敦は獣のように叫びながら、手足を振って追払《おいはら》おうとするが「金星」は執拗に、ぶるるぶるる、と低い翅音《はおと》を立て立て二度、三度と襲いかかり、遂《つい》にひたッと安敦の胸へ喰付《くいつ》いた。
「ひーッ」凄じい悲鳴と共に、安敦は狂気のようにはね起きると、いきなり飾り箪笥の抽出《ひきだし》から小型|拳銃《ピストル》を取出《とりだ》し、
「もう、お了《しま》いだ、斯《こ》うなれば」と云いざま、よろよろと植物室の方へ進んで来ながら、拳銃《ピストル》を挙げて、恐怖のあまり茫然としている節子の方へ、突然狙いをつけた。
耳を劈《つんざ》く銃声。刹那! 弾丸《たま》は、節子の前へ飛礫《つぶて》のように立塞がった長谷部謙三の胸を射抜いた。
「きゃーッ」
令嬢たちは悲鳴と共に思わず外向《そむ》く、――謙三はよろよろとなったが、
「うッ」と踏耐《ふみこた》えるや、咄嗟《とっさ》に|隠し《ポケット》から拳銃《ピストル》を取出し、方《まさ》に二発めを射とうとする安敦の胸を狙ってがん[#「がん」に傍点]と放ち、
「精ちゃん」と苦痛を忍ぶ声で叫んだ。
「みんなを外へ伴出《つれだ》して呉れ、安敦《アントン》と毒蟲は僕が引受《ひきう》けた。早く早くしないと危い」
「だって君独りで」
「大丈夫だ、早くしないと毒蟲にやられる。お節さんが死んでも宜いのか、早く、早くみんなを外へ!」
精一は頷くと、節子を抱えるようにして、植物室の窓を開け、素早く皆を家の外へ出した。部屋の中では安敦が死物狂いで、
がん[#「がん」に傍点]! がん[#「がん」に傍点]※[#感嘆符二つ、1-8-75]
と射つ。謙三がその弾丸《たま》を避けながら、突進しようとした時、扉《ドア》を押開《おしあ》けて侍僕の馬来《マレイ》人カロスが、鋭い半月形の短刀を持って入って来た。そして弱っている謙三の肩へ、力任せに一撃、打下ろそうとする刹那、
「待て蕃人ッ」
と叫びながら、戻って来た精一が、だっ[#「だっ」に傍点]と体当りに跳びかかった。
[#3字下げ]恐ろしき死の花の謎[#「恐ろしき死の花の謎」は中見出し]
カロスは不意を喰《くら》って、烈しく横さまに顛倒《てんとう》したが、跳起《はねお》きざま、異様な叫びと共に、猛然と短刀を振って襲いかかる。その鋭い切尖《きっさき》を危く右に躱《かわ》した精一、流れる利腕《ききうで》を逆に取ると、大きく足払いをくれながら、
「やっ!」とばかり引落す。
「あーッ」
だっ[#「だっ」に傍点]とのめるところを、隙《す》かさず乗掛《のりかか》ってがっ[#「がっ」に傍点]と脾腹へ一拳当てた。熱帯人は殊に脾腹の弱いものである。
「むうっ」と気絶するのを見済《みすま》して立ち、第一に毒蟲はどうしたかと見ると、謙三の射った第一弾が、よく毒蟲を射殺《いころ》したうえ安敦に命中している、――振返ると謙三もそこに倒れているので、
「――謙ちゃん、確りし給え」と駈寄って抱起《だきおこ》した。
「謙ちゃん、僕だ、精一だ」
「ああ、ああ、精ちゃんか」
「いま医者を呼ぶから」
「いや待って呉れ」謙三は苦しげに頭を振った。
「医者には及ばない、迚《とて》も僕は駄目だ、それより、話したい事があるから、済まないが、節ちゃんを……」
「宜し」精一は走って行って、直ぐに節子を伴れて来た。
「節ちゃん……」
謙三は、節子の方へ力無い微笑を投げながら、喘ぎ喘ぎ云った。
「今夜の事は、みんな安敦の悪企《わるだく》みだったんだよ。彼奴《あいつ》は、貴女《あなた》をお嫁さんに、欲しかったんだ。それが、駄目になったうえ、精ちゃんと許婚《いいなずけ》に定《きま》ったのを知って、苦しまぎれに貴女《あなた》を殺そうとしたんだ」
「どうして殺すんだ、節子を殺せば自分も生きてはいられないぜ」
「だから、誰にも分らないようにさ」
謙三は息をついて続けた。
「僕は、安敦が今夜なにか、悪企《わるだく》みをやると思った。それで、注意していると、奴は節ちゃんにだけ、白い花は淋しすぎると云って、特別の花を摘んで来て、胸飾りにしてやった、――僕はそれを見ていた。そして、是は何かトリックがあるな、と睨んだ、だから節ちゃんが手洗いに立った時、態《わざ》と突当って、花をすり[#「すり」に傍点]替え、その花を安敦の胸へ附けてやったのさ」
「それは安敦に倒れかかった時だな」
「そうだ。後で分った事だが、あの花には特別の匂《におい》がある、つまり、つまり、――毒蟲『金星』を誘い寄せる匂だ。その証拠には、あの毒蟲は安敦を刺した」
恐るべき罠、あの美しい蘭科の花には、そんな恐ろしい罠が隠してあったのか、――精一も節子も今更《いまさら》ながら慄然とした。
「奴はあの花が節ちゃんの胸に附いている積《つもり》で、毒蟲を放したんだ。節ちゃんが毒蟲に刺されて死んだって、奴が殺したという証拠は残りやしない、――犯人は昆蟲室から逃出した『金星』だ。奴は手を濡らさずして節ちゃんに怨《うらみ》を晴し、大威張《おおいば》りで日本を去る考えだったのさ。……ところか天罰だ。奴は自分の作った罠で、自分の命を喪《うしな》ったのだ」
「そしてあの血まみれの花束は、あれも奴が寄来《よこ》したんだろうか」
「あれか、あれは僕だよ」
謙三はにっと笑った。「――僕は、今夜の会が臭いと思ったから、態《わざ》とこの手頸を傷《きずつ》けて、血まみれの花束を贈ったんだ。そうすれば節ちゃんが気味悪がって、早く帰って呉れると考えたんだ。――然し是で宜いんだ。僕のやくざな命が君たち二人のために役立てば、こんな本望な事はないよ」
「謙三さん……済みません」
節子は堪《たま》りかねて泣伏《なきふ》した。――謙三は静かに眼をあけて、
「泣かないで呉れよ節ちゃん、どうせ僕は終《しま》いには刑務所へ行くより他にない奴だ。それが、それが斯うして、節ちゃんのために死ねるのは嬉しいんだ、――本当に、本当に嬉しいんだぜ」
「謙ちゃん!」
精一も思わず謙三の肩を抱緊《だきし》めた。
「精ちゃん、仕合せに暮して呉れ、二人とも仕合せになって呉れ。僕ぁ、死んでも、君たち二人を護っているぜ……護って――」
謙三の声はかすれるように弱くなった。
精一と節子は、堅く手を握合《にぎりあ》いながら、この不良だった友の命がけの、最後の友情に、ただ感謝の涙を注ぐばかりだった。
――かくて、正月五日|骨牌《かるた》会の夜、九時二十分の惨劇は戦慄と涙のうちに終った。
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第三巻 怪奇探偵小説」作品社
2007(平成19)年12月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1938(昭和13)年2月
初出:「少年少女譚海」
1938(昭和13)年2月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ