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牡丹花譜
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牡丹花譜
山本周五郎
山本周五郎
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)単衣《ひとえ》
(例)単衣《ひとえ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)家|黒上《くろかみ》
(例)家|黒上《くろかみ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]
[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
「――もう止そう」
「未だ、未だです、えいっ」
「あ!」
ぱちんと良い音がした。
「痛い、――」
「弱いことを、や!」
「止しだと云ったら、あ、危い」
新緑の下枝を押分けて、一人の若者が木剣を片手に草の窪地へ逃出してくる、その後から紫色の単衣《ひとえ》の袖を背に絞り、馬乗袴を着けた美しい乙女が、稽古用の樫の薙刀を持って現われた。
「お逃げになるなんて弱いお従兄《にい》さま」
「おれが弱いより奈々《なな》の方が乱暴すぎるんだ。ああ暑い、――こんな汗だ」
「奈々もよ、ほら……」
乙女はそう云いながら、単衣の衿を煽って風を入れた。無造作に寛げた衿元から、しっとりと汗ばんだ桃色の肌が、可愛い胸のふくらみを匂うばかりに覗《のぞ》かせている、――若者は眩しそうに外向いて草の上へ坐った。
「ここへ来てお坐りよ」
「厭、もっとお稽古をしなくては厭」
「ひと休みしてからさ、――それに少し話もあるんだ」
乙女は薙刀を措いて、しなやかな体を乱暴にそこへ投出した。
その窪地は周囲を樹立で取囲まれ、外からは見ることのできない隠れ家のような場所であった。みっしり重なり合った木々の緑や、毛氈を敷いたような若草が、五月の陽を吸って噎《む》せるように匂っている、――乙女は両手を後へつき、絖《ぬめ》のように艶やかな咽頭を露わにしながら、ぐっと身を仰反《のけぞ》らして、
「ああ良い気持」
と叫ぶように云った。
「若葉の匂ってなんだか躰を擽《くすぐ》られるようねえ、こうしていると独りでに、声いっぱい笑いたくなってくるわ」
「ねえ奈々、――話があるんだよ」
「話なんて詰らないわ、それより体が痺れるくらい疲れることないかしら」
乙女の眸子《ひとみ》は妖しく光った。
「疲れて疲れて身動きもできなくなるような荒稽古がしたいわ。奈々の体って変ねえ、幾ら暴れたってすこしも草臥《くたび》れないのですもの、考えるとむずむずするわ」
「そんな事を云うと笑われるよ、奈々はもう十八にもなったのじゃないか、もっと女らしくしなくちゃ駄目だ」
「厭、厭、女らしくなんて大嫌い」
乙女はそう云いながら、草を※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]《むし》って若者の顔へ投げつけた。
「こいつ、やるか」
「ほほほ――草仏!」
と云って逃げようとするのを、若者はすばやく起上って肩を掴んだ、乙女の足許がよろめいた、若者は逞しい腕で乙女の体を抱寄せた。薄い清絹《すずし》の単衣を透して、燃えるような血の温みが伝わり、汗ばんだ肌の香が嬌《なま》めかしく鼻をうった。――一瞬、若者の腕の中で、乙女の体がぐったりと力を失うように思われたが、しかし次の刹那には、
「――厭!」
と鋭く叫んで、若者の腕から巧みにすり脱け、低く垂れた樹立の下枝の蔭へ、若い牝鹿のように走込んでいた。
若者は追おうとしたが、すぐ思止まって、元の場所へ仰反《あおのけ》に倒れ、
「駄目だ、奈々はおれを嫌っている」
と苦しげに呻いた。
ここは仙台伊達領、阿武隈川の北岸にある岩沼の町はずれ、九里の森の中である。――乙女は岩沼の豪家|黒上《くろかみ》家の奈々と云って今年十八、若者は郷士|城田銕兵衛《しろたてつべえ》の二男で常次郎《つねじろう》と云う、年は二十歳で奈々とは従兄妹《いとこ》同志になっていた。
奈々は早く父母を失い、叔父銕兵衛の後見で育ってきたが、幼い頃から武張った事が好きで、小太刀や薙刀をよく遣うし、馬にかけては男も及ばぬ腕を持っていた。――黒上家の広大な屋敷内には、近郷でも有名な牡丹畑があって、毎年初夏の頃には千余株の花が繚乱と咲き誇るのだが、奈々の美しさはその花にも勝るとて、
「黒上の牡丹姫」
と呼ばれているくらいだった。
常次郎が美しい従妹の姿に胸を焦がしはじめたのは前年の夏頃からであった。生命ほどあやしきはない、それまでは相見ても身を触れても、そんな気持はかつてなかったのに、ひとたび恋の想が芽《きざ》してからは、黒耀石のような奈々の眸子や、韻の深い声や、折にふれて匂う肌の香などが……まるで初めて見るように生々と新しく、その度に常次郎の心は悩ましい歓びと苦しさとに顫《ふる》えるのだった。――彼は日毎につのってゆく胸の想を、どうかして相手に訴えたいと思った、しかし奈々の心は固い蕾のように、確りと閉じてひらかない、手に掴んだと思うといつかするりと身を躱していた。
「――今日こそは」
と思って馬を列ねてきたのだが、森の中で薙刀の稽古をする他にはどうしても奈々は彼の側へ寄ろうとはしないのだ。
「嫌っているんだ、奈々は、――」
燃えるような息吹と共に常次郎は呟いた。
「未だ、未だです、えいっ」
「あ!」
ぱちんと良い音がした。
「痛い、――」
「弱いことを、や!」
「止しだと云ったら、あ、危い」
新緑の下枝を押分けて、一人の若者が木剣を片手に草の窪地へ逃出してくる、その後から紫色の単衣《ひとえ》の袖を背に絞り、馬乗袴を着けた美しい乙女が、稽古用の樫の薙刀を持って現われた。
「お逃げになるなんて弱いお従兄《にい》さま」
「おれが弱いより奈々《なな》の方が乱暴すぎるんだ。ああ暑い、――こんな汗だ」
「奈々もよ、ほら……」
乙女はそう云いながら、単衣の衿を煽って風を入れた。無造作に寛げた衿元から、しっとりと汗ばんだ桃色の肌が、可愛い胸のふくらみを匂うばかりに覗《のぞ》かせている、――若者は眩しそうに外向いて草の上へ坐った。
「ここへ来てお坐りよ」
「厭、もっとお稽古をしなくては厭」
「ひと休みしてからさ、――それに少し話もあるんだ」
乙女は薙刀を措いて、しなやかな体を乱暴にそこへ投出した。
その窪地は周囲を樹立で取囲まれ、外からは見ることのできない隠れ家のような場所であった。みっしり重なり合った木々の緑や、毛氈を敷いたような若草が、五月の陽を吸って噎《む》せるように匂っている、――乙女は両手を後へつき、絖《ぬめ》のように艶やかな咽頭を露わにしながら、ぐっと身を仰反《のけぞ》らして、
「ああ良い気持」
と叫ぶように云った。
「若葉の匂ってなんだか躰を擽《くすぐ》られるようねえ、こうしていると独りでに、声いっぱい笑いたくなってくるわ」
「ねえ奈々、――話があるんだよ」
「話なんて詰らないわ、それより体が痺れるくらい疲れることないかしら」
乙女の眸子《ひとみ》は妖しく光った。
「疲れて疲れて身動きもできなくなるような荒稽古がしたいわ。奈々の体って変ねえ、幾ら暴れたってすこしも草臥《くたび》れないのですもの、考えるとむずむずするわ」
「そんな事を云うと笑われるよ、奈々はもう十八にもなったのじゃないか、もっと女らしくしなくちゃ駄目だ」
「厭、厭、女らしくなんて大嫌い」
乙女はそう云いながら、草を※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]《むし》って若者の顔へ投げつけた。
「こいつ、やるか」
「ほほほ――草仏!」
と云って逃げようとするのを、若者はすばやく起上って肩を掴んだ、乙女の足許がよろめいた、若者は逞しい腕で乙女の体を抱寄せた。薄い清絹《すずし》の単衣を透して、燃えるような血の温みが伝わり、汗ばんだ肌の香が嬌《なま》めかしく鼻をうった。――一瞬、若者の腕の中で、乙女の体がぐったりと力を失うように思われたが、しかし次の刹那には、
「――厭!」
と鋭く叫んで、若者の腕から巧みにすり脱け、低く垂れた樹立の下枝の蔭へ、若い牝鹿のように走込んでいた。
若者は追おうとしたが、すぐ思止まって、元の場所へ仰反《あおのけ》に倒れ、
「駄目だ、奈々はおれを嫌っている」
と苦しげに呻いた。
ここは仙台伊達領、阿武隈川の北岸にある岩沼の町はずれ、九里の森の中である。――乙女は岩沼の豪家|黒上《くろかみ》家の奈々と云って今年十八、若者は郷士|城田銕兵衛《しろたてつべえ》の二男で常次郎《つねじろう》と云う、年は二十歳で奈々とは従兄妹《いとこ》同志になっていた。
奈々は早く父母を失い、叔父銕兵衛の後見で育ってきたが、幼い頃から武張った事が好きで、小太刀や薙刀をよく遣うし、馬にかけては男も及ばぬ腕を持っていた。――黒上家の広大な屋敷内には、近郷でも有名な牡丹畑があって、毎年初夏の頃には千余株の花が繚乱と咲き誇るのだが、奈々の美しさはその花にも勝るとて、
「黒上の牡丹姫」
と呼ばれているくらいだった。
常次郎が美しい従妹の姿に胸を焦がしはじめたのは前年の夏頃からであった。生命ほどあやしきはない、それまでは相見ても身を触れても、そんな気持はかつてなかったのに、ひとたび恋の想が芽《きざ》してからは、黒耀石のような奈々の眸子や、韻の深い声や、折にふれて匂う肌の香などが……まるで初めて見るように生々と新しく、その度に常次郎の心は悩ましい歓びと苦しさとに顫《ふる》えるのだった。――彼は日毎につのってゆく胸の想を、どうかして相手に訴えたいと思った、しかし奈々の心は固い蕾のように、確りと閉じてひらかない、手に掴んだと思うといつかするりと身を躱していた。
「――今日こそは」
と思って馬を列ねてきたのだが、森の中で薙刀の稽古をする他にはどうしても奈々は彼の側へ寄ろうとはしないのだ。
「嫌っているんだ、奈々は、――」
燃えるような息吹と共に常次郎は呟いた。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
「お従兄さま、早く来て!」
樹立の向うから奈々の叫ぶ声がした。
「早く、早く!」
「――どうしたんだ」
常次郎が起上ってゆくと、奈々は繋いであった愛馬へ跳乗って、
「あすこで斬合いをやっているんです」
「なに斬合い?」
「一人を五人で取囲んでいます、早く来てください!」
そう云い捨てると、
「あ、危いお待ち」
と呼止める暇もなく、奈々は馬腹を蹴ってだあっと丘を駈下りていった。
丘の下では、まだうら若い白面の青年が、五人の荒武者に取巻かれ閃めく白刃の下にかろうじて身を支えているところだった。――奈々は馬を煽って駆けつけると、
「大勢で一人を取籠めるとは卑怯」
呼びながら争闘の中へ馬を乗入れた。荒武者たちは不意を打たれて思わず左右へひらいたが、見ると相手はか弱い乙女なので、
「ええ、何をする、退《ど》きおれ」
「小娘の分限で差出た事をするな」
「邪魔すると汝も共に斬捨てるぞ」
口々に喚きながら猛然と詰寄った。
奈々は一瞥のうちに、白面の青年の弱々しい眼が、縋《すが》るように自分を見上げるのを見た、その刹那に彼女の心は暴々《あらあら》しく決った。――奈々は小脇の薙刀を執直すと、踏込んできた一人の剣を戞《かつ》! とばかりにはね上げ、返しざま右手の男の横面へ烈しい一撃をくれた。
「あ、痛つつ」
「やりおったな」
意外な早業に、はっとなる刹那。馬首を回《かえ》すと左手の一人が、正に斬込もうとする脇壺へ、これまた骨に徹する打を入れた。
「がっ!」
横ざまにのめる、
「――くそっ」
「斬ってしまえ!」
と殺気だつ端へ、ぱっと馬を跳躍させる、驚いて散る隙、奈々は青年の方へ片手を差延べて、
「早くお乗りなさい」
と叫んだ、実にみごとな動作である。青年が云われるままに跳着いてくるのを、ひっ抱えるようにして諸角《もろかく》をいれる、
「うぬ、逃げるか」
「待て!」
と盛返したが、既に疾く馬は囲を突破していた、その時ようやく常次郎が馬を煽ってきた、奈々はそれを見ると、
「お従兄さま、殿《しんがり》をお願い!」
と叫んで疾風のように南へ駆去った。
道へは出ずに、草地をそのまま二十丁あまり駆ってゆくと、槇の生垣を取廻した黒上家の、広い屋敷裏へ着いた。――そのまま乗入れた処は牡丹畑で、すでにふくらみかかった蕾が、輝かしい五月の日光を浴びて、めざめるような彩色を見せていた。
奈々は青年と共に馬から下りて、
「わたくしの家でございます」
と云った。
「そう、――」
青年は軽く頷き、
「危いところを免れて、過分でした」
と応えて四辺を見廻し、「ずいぶん沢山の牡丹ですね、みなお許《もと》の丹精ですか」
「――はい」
「満開の期はさぞ見事でしょう」
おっとりとした態度だった。――生命を救われたのに、過分でしたという挨拶は珍しい、半ば呆れて見上げた奈々は、青年の相貌が女のように弱々としていながら、高い額、濃い眉のどこやらに、冒し難い高貴な威の閃めくのを感じた。
青年はたったいま危難から※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56]《のが》れてきた人とは思えぬくらい、落着いた静かな眼で奈々を見かえり、
「お許の名は何と云いますか」
「はい、奈々と申します」
「奈々、――優しい良い名ですね。そしてそんな優しい名を持っているのにずいぶん強い」
「まあ……」
青年の美しい眸子でじっと見られて、奈々は全身の血が一時に顔へ集るような羞かしさを覚えた。――青年は愕《おどろ》いたような眼で、しばらく奈々の面を見まもっていたが、やがてふいと外向き、
「牡丹をひと枝切ってください」
と云った。――しみ入るように淋しい声であった。
樹立の向うから奈々の叫ぶ声がした。
「早く、早く!」
「――どうしたんだ」
常次郎が起上ってゆくと、奈々は繋いであった愛馬へ跳乗って、
「あすこで斬合いをやっているんです」
「なに斬合い?」
「一人を五人で取囲んでいます、早く来てください!」
そう云い捨てると、
「あ、危いお待ち」
と呼止める暇もなく、奈々は馬腹を蹴ってだあっと丘を駈下りていった。
丘の下では、まだうら若い白面の青年が、五人の荒武者に取巻かれ閃めく白刃の下にかろうじて身を支えているところだった。――奈々は馬を煽って駆けつけると、
「大勢で一人を取籠めるとは卑怯」
呼びながら争闘の中へ馬を乗入れた。荒武者たちは不意を打たれて思わず左右へひらいたが、見ると相手はか弱い乙女なので、
「ええ、何をする、退《ど》きおれ」
「小娘の分限で差出た事をするな」
「邪魔すると汝も共に斬捨てるぞ」
口々に喚きながら猛然と詰寄った。
奈々は一瞥のうちに、白面の青年の弱々しい眼が、縋《すが》るように自分を見上げるのを見た、その刹那に彼女の心は暴々《あらあら》しく決った。――奈々は小脇の薙刀を執直すと、踏込んできた一人の剣を戞《かつ》! とばかりにはね上げ、返しざま右手の男の横面へ烈しい一撃をくれた。
「あ、痛つつ」
「やりおったな」
意外な早業に、はっとなる刹那。馬首を回《かえ》すと左手の一人が、正に斬込もうとする脇壺へ、これまた骨に徹する打を入れた。
「がっ!」
横ざまにのめる、
「――くそっ」
「斬ってしまえ!」
と殺気だつ端へ、ぱっと馬を跳躍させる、驚いて散る隙、奈々は青年の方へ片手を差延べて、
「早くお乗りなさい」
と叫んだ、実にみごとな動作である。青年が云われるままに跳着いてくるのを、ひっ抱えるようにして諸角《もろかく》をいれる、
「うぬ、逃げるか」
「待て!」
と盛返したが、既に疾く馬は囲を突破していた、その時ようやく常次郎が馬を煽ってきた、奈々はそれを見ると、
「お従兄さま、殿《しんがり》をお願い!」
と叫んで疾風のように南へ駆去った。
道へは出ずに、草地をそのまま二十丁あまり駆ってゆくと、槇の生垣を取廻した黒上家の、広い屋敷裏へ着いた。――そのまま乗入れた処は牡丹畑で、すでにふくらみかかった蕾が、輝かしい五月の日光を浴びて、めざめるような彩色を見せていた。
奈々は青年と共に馬から下りて、
「わたくしの家でございます」
と云った。
「そう、――」
青年は軽く頷き、
「危いところを免れて、過分でした」
と応えて四辺を見廻し、「ずいぶん沢山の牡丹ですね、みなお許《もと》の丹精ですか」
「――はい」
「満開の期はさぞ見事でしょう」
おっとりとした態度だった。――生命を救われたのに、過分でしたという挨拶は珍しい、半ば呆れて見上げた奈々は、青年の相貌が女のように弱々としていながら、高い額、濃い眉のどこやらに、冒し難い高貴な威の閃めくのを感じた。
青年はたったいま危難から※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56]《のが》れてきた人とは思えぬくらい、落着いた静かな眼で奈々を見かえり、
「お許の名は何と云いますか」
「はい、奈々と申します」
「奈々、――優しい良い名ですね。そしてそんな優しい名を持っているのにずいぶん強い」
「まあ……」
青年の美しい眸子でじっと見られて、奈々は全身の血が一時に顔へ集るような羞かしさを覚えた。――青年は愕《おどろ》いたような眼で、しばらく奈々の面を見まもっていたが、やがてふいと外向き、
「牡丹をひと枝切ってください」
と云った。――しみ入るように淋しい声であった。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
奈々の一番好きな「春雪」という牡丹が、そこからは遠い母屋の前の方にある、奈々は走っていって、咲きかかったひと枝を切ってきた、――戻ってみると、常次郎に導かれてきたらしい七八名の立派な騎馬武者が、かの青年を守護するように取巻き、今しも連銭蘆毛のみごとな馬に援け乗せているところだった。
奈々がはっとして立停まると、青年は馬上から手を差出して、
「これへ――」
と云った。騎馬武者たちが振返って見る中を、奈々は近寄っていって花を渡した。
「美しい花だ、過分に思います」
「――恐入りまする」
「また、会いましょう」
奈々は思切って振仰いだ。青年は淋しげな、むしろ悲しげでさえある眼ざしで、じっと馬上から見下ろした。そのとき奈々は、不意に裂けるような胸の痛みを感じた。
青年は騎馬武者たちに護られて去ったが、奈々は常次郎に呼びかけられるまで、放心したようにそこへ立尽していた。
「おまえの乱暴にも呆れるぞ、奈々」
「――お従兄さま」
奈々は常次郎を遮って云った。
「あの方はどなたですの」
「知らない、教えなかったのだ」
常次郎は不機嫌に答えた、「礼儀を知らない奴等だ、誰だと訊いたらその方などの知る事ではないと云いおった」
「よほど身分の高いお方なのね」
「なあに、たかだか三千石か五千石の城代の息子だろうさ。――遠乗りに出て独り駈抜けたところへ、あの男たちが喧嘩を仕掛けたのだそうだ、五人とも捕えられていったよ」
奈々は半ばうわの空で聞きながら、心の内ではあの青年の云った、
――また会いましょう。
という声音を繰返していた。
この付近の城代、館主と云えば、亘理郡の伊達安房《だてあわ》か、柴田の館主|本多伊賀《ほんだいが》、遠くは白石城の片倉《かたくら》家、伊具郡内田の石川駿河《いしかわするが》など、いずれも錚々《そうそう》たる伊達家の重臣である、――せめて名だけでも聞いていたら、どこの若様か分ったであろうに。そう思うと奈々は、あの青年の前に立った自分が、日頃に似ず臆れていたことに気付いて驚いた。
その明くる日、例の通り常次郎が遠乗の誘いにくると、奈々はもの憂げな様子で、
「――今日は出たくありません」
と答えた。
「どうしたのさ、具合でも悪いのか」
「――いいえ、ただ……」
顔色も冴えないし、眼は暗くうるんでいるし、体の線にも妙に嫋々《なよなよ》としたところが現われている、常次郎は初め病気かと思った、しかしすぐにそうでないことを感じた。
――病気ではない、もっと別な、もっと悪いことだ。
恋する者の敏感である。病気よりもっと悪いもの、それが何であるかは分らないが、彼女の乾いた唇や、けだるそうな身振りや、遠くを見ている放心したような眼ざしは、捉え難なく邪々《まがまが》しい翳に包まれていた。
「ねえ奈々、いったいどうしたのだ、おまえのそんな様子って初めてではないか、どうしたのか云ってごらん」
「お願いですから黙っていてください」
奈々は眉をひそめて云った、「――でなかったらお帰りになってくださいまし」
「何をそんなに怒るのさ、おれは別になにも……」
「――――」
奈々は厭わしそうに外向いた。――常次郎はその横顔に氷のような冷たさを見ると、もう言葉を続ける気も挫け、悄然と眼を伏せながら去っていった。
奈々は終日牡丹畑で暮した。
生れて以来かつて知らなかった悩み、胸いっぱいに脹れあがってくる情熱、鳥の声も、風に戦《そよ》ぐ木の葉の音も、みんなあの青年の声音に聞える。花を見ても雲を見ても、眼を遮るものはあの青年の面影なのだ。
「――あの方はきっと又いらっしゃる、きっときっといらっしゃる」
蜜のように甘い切なさのなかで、奈々は同じ言葉を繰返し呟くのであった。
青年は約束通りやってきた。それはあの日から七日余りたったある黄昏どきであったが、奈々が牡丹畑のはずれにある亭《ちん》の中で、暮靄の濃くなる花園を恍惚と見ていたとき、後に静かな人の跫音《あしおと》を聞いた。振返ると青年がこっちへやってくる。
「――まあ!」
奈々は弾かれたように起上った、――青年は白いしなやかな手に鞭を持ち、細面の寂しい頬をぽっと染めて、
「すぐ帰らなければならない」
そう云いながら近寄ってきた。
奈々がはっとして立停まると、青年は馬上から手を差出して、
「これへ――」
と云った。騎馬武者たちが振返って見る中を、奈々は近寄っていって花を渡した。
「美しい花だ、過分に思います」
「――恐入りまする」
「また、会いましょう」
奈々は思切って振仰いだ。青年は淋しげな、むしろ悲しげでさえある眼ざしで、じっと馬上から見下ろした。そのとき奈々は、不意に裂けるような胸の痛みを感じた。
青年は騎馬武者たちに護られて去ったが、奈々は常次郎に呼びかけられるまで、放心したようにそこへ立尽していた。
「おまえの乱暴にも呆れるぞ、奈々」
「――お従兄さま」
奈々は常次郎を遮って云った。
「あの方はどなたですの」
「知らない、教えなかったのだ」
常次郎は不機嫌に答えた、「礼儀を知らない奴等だ、誰だと訊いたらその方などの知る事ではないと云いおった」
「よほど身分の高いお方なのね」
「なあに、たかだか三千石か五千石の城代の息子だろうさ。――遠乗りに出て独り駈抜けたところへ、あの男たちが喧嘩を仕掛けたのだそうだ、五人とも捕えられていったよ」
奈々は半ばうわの空で聞きながら、心の内ではあの青年の云った、
――また会いましょう。
という声音を繰返していた。
この付近の城代、館主と云えば、亘理郡の伊達安房《だてあわ》か、柴田の館主|本多伊賀《ほんだいが》、遠くは白石城の片倉《かたくら》家、伊具郡内田の石川駿河《いしかわするが》など、いずれも錚々《そうそう》たる伊達家の重臣である、――せめて名だけでも聞いていたら、どこの若様か分ったであろうに。そう思うと奈々は、あの青年の前に立った自分が、日頃に似ず臆れていたことに気付いて驚いた。
その明くる日、例の通り常次郎が遠乗の誘いにくると、奈々はもの憂げな様子で、
「――今日は出たくありません」
と答えた。
「どうしたのさ、具合でも悪いのか」
「――いいえ、ただ……」
顔色も冴えないし、眼は暗くうるんでいるし、体の線にも妙に嫋々《なよなよ》としたところが現われている、常次郎は初め病気かと思った、しかしすぐにそうでないことを感じた。
――病気ではない、もっと別な、もっと悪いことだ。
恋する者の敏感である。病気よりもっと悪いもの、それが何であるかは分らないが、彼女の乾いた唇や、けだるそうな身振りや、遠くを見ている放心したような眼ざしは、捉え難なく邪々《まがまが》しい翳に包まれていた。
「ねえ奈々、いったいどうしたのだ、おまえのそんな様子って初めてではないか、どうしたのか云ってごらん」
「お願いですから黙っていてください」
奈々は眉をひそめて云った、「――でなかったらお帰りになってくださいまし」
「何をそんなに怒るのさ、おれは別になにも……」
「――――」
奈々は厭わしそうに外向いた。――常次郎はその横顔に氷のような冷たさを見ると、もう言葉を続ける気も挫け、悄然と眼を伏せながら去っていった。
奈々は終日牡丹畑で暮した。
生れて以来かつて知らなかった悩み、胸いっぱいに脹れあがってくる情熱、鳥の声も、風に戦《そよ》ぐ木の葉の音も、みんなあの青年の声音に聞える。花を見ても雲を見ても、眼を遮るものはあの青年の面影なのだ。
「――あの方はきっと又いらっしゃる、きっときっといらっしゃる」
蜜のように甘い切なさのなかで、奈々は同じ言葉を繰返し呟くのであった。
青年は約束通りやってきた。それはあの日から七日余りたったある黄昏どきであったが、奈々が牡丹畑のはずれにある亭《ちん》の中で、暮靄の濃くなる花園を恍惚と見ていたとき、後に静かな人の跫音《あしおと》を聞いた。振返ると青年がこっちへやってくる。
「――まあ!」
奈々は弾かれたように起上った、――青年は白いしなやかな手に鞭を持ち、細面の寂しい頬をぽっと染めて、
「すぐ帰らなければならない」
そう云いながら近寄ってきた。
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
本当に何を話す間もなかった。――亭の後は四五間はなれて生垣になっている、その向うからしきりと、馬の噺きや、憚るような人の咳払いが聞えてきた。
「九里の森まで遠乗りに来たのだけれど、途中で暇取ったのでもう帰る刻限になってしまったのです。――ああ、僅かの間に牡丹がずいぶん咲いたようですね」
「……また、お切りいたしましょうか」
「先日のは良い花でした、あんな気高い白さは初めて見ました」
「もう散りまして、――?」
「いや未だ咲いています」
「強い花でございますから、……咲きしより散りはつるまで見しほどに花のもとにて二十日へにけり、と云う歌もございますわね」
「法性寺の忠通《ただみち》ですね、たしか」
「貴方さまも遊ばしますの――?」
「いや……」
青年は微《かす》かに頭を振った。――黄昏はいよいよ濃くなって、牡丹の葉に静かな夕風がたちはじめた。青年はほっと溜息をついて、
「ああ静かだなあ。こんな処で、歌書でも見ながら、人知れず一生を送れたらどんなによいだろう」
沁々とした、胸底から滲出るような呟きだった。
「何か御心配事でもございますの?」
「絶えずありますよ」
青年は素直に頷いた。
「生れてこの方、一日として心の休まる暇はなかった。表に出ても奥へ入っても、何十何百という人の眼が、片時も放さず私を取巻いている、私はもう四つ五つの時分から、その沢山な人の眼を読むことを覚えた、――殊に私を憎んでいる者の眼つきは、今でも忘れることができない」
「そんな、若様を憎むなんてそんな……」
我事のように慌てて打消す乙女の顔を、青年は寂しげに微笑しながら見やった。
「憎むくらいなら未だよい、私はこれまで何度も殺されかかった事さえあります」
「――嘘、嘘ですわ」
「貴女は忘れましたか、先日の事を」
青年は奈々の答えを待たずに、ふいと立上って右手の鞭を神経質に撓わせながら、
「しかし。そう――貴女の云う通り、私を憎むと云っては当らないかも知れない。私がもし足軽か平武士ででもあったら、誰の憎みも受けずにいられたに違いない、彼等が悩むのはこの私ではなくて、私の地位なのだ、それは私にも分っている、だが……私は自分でこの地位を望んだのではない、私はむしろ僧にでもなって遁世の暮しをしたいとさえ思っているのです、けれど私にはその自由は許されていない、好むと好まぬとにかかわらず、私はこの位置に立って生涯を過さなければならないのです。――幾十幾百の憎しみの眼に瞶《みつ》められ、いつ殺されるとも知れぬ不安に怯えながら、そして……誰一人としてこの心細さを訴える人もなく」
青年は突然、唇を慄わせ、鞭で空を撃ちながら叫んだ。
「なんのために、なんのために私はこんな苦しい立場に立たせられたのだ、私にどんな罪があるのだ!」
「若様、――」
青年は奈々の哀願するような声を聞くと、自分の昂奮したことを恥じるように苦笑し、弱々しく肩を揺上げて云った。
「許してください、誰にも聞いてもらえない苦しさを、つい貴女に訴えたくなったのです、――でも、これで幾らか心が軽くなりました」
「――奈々にはお言葉の意味がよく分りません、けれどそんなにお辛いお身上とは少しも存じませんでした。……もしできることなら、わたくしの命に代えても――」
「そう思ってくれますか」
青年は燃えるような眸子で、熱く熱く乙女の眼を覓《もと》めた。奈々は自分の全身が、青年の眸子の方へ恐ろしい力で惹着けられるのを感じた、――しかしその時、生垣の向うから咳払いの声が聞え、青年ははっとして身を離した。
「もう、もう帰らなくては」
「若様、――」
奈々は縋《すが》るようにして云った、
「どうぞお名前をお聞かせくださいませ」
「それは訊かないでください」
「いいえどうぞ、ぜひ――ねえ」
青年は唇を噛んで茶々の眼を見たが、やがて静かに頷いて云った。
「では、先日の牡丹をひと枝ください」
「はい、――」
奈々は小走りに畑の中へ去ったが、待つほどもなく「春雪」のひと枝を切って戻ってきた。青年はそれを鞭と一緒に持つと、それが特徴の寂しい声で云った、
「それでは、明かしたくないのだが云います、その代りこの場限り忘れてください、――貴女にだけは普通の人間で話がしたいのです」
「――はい」
「私は、陸奥守綱柄《むつのかみつなむら》です」
「…………」
奈々は愕然と立ちすくんだ。
「九里の森まで遠乗りに来たのだけれど、途中で暇取ったのでもう帰る刻限になってしまったのです。――ああ、僅かの間に牡丹がずいぶん咲いたようですね」
「……また、お切りいたしましょうか」
「先日のは良い花でした、あんな気高い白さは初めて見ました」
「もう散りまして、――?」
「いや未だ咲いています」
「強い花でございますから、……咲きしより散りはつるまで見しほどに花のもとにて二十日へにけり、と云う歌もございますわね」
「法性寺の忠通《ただみち》ですね、たしか」
「貴方さまも遊ばしますの――?」
「いや……」
青年は微《かす》かに頭を振った。――黄昏はいよいよ濃くなって、牡丹の葉に静かな夕風がたちはじめた。青年はほっと溜息をついて、
「ああ静かだなあ。こんな処で、歌書でも見ながら、人知れず一生を送れたらどんなによいだろう」
沁々とした、胸底から滲出るような呟きだった。
「何か御心配事でもございますの?」
「絶えずありますよ」
青年は素直に頷いた。
「生れてこの方、一日として心の休まる暇はなかった。表に出ても奥へ入っても、何十何百という人の眼が、片時も放さず私を取巻いている、私はもう四つ五つの時分から、その沢山な人の眼を読むことを覚えた、――殊に私を憎んでいる者の眼つきは、今でも忘れることができない」
「そんな、若様を憎むなんてそんな……」
我事のように慌てて打消す乙女の顔を、青年は寂しげに微笑しながら見やった。
「憎むくらいなら未だよい、私はこれまで何度も殺されかかった事さえあります」
「――嘘、嘘ですわ」
「貴女は忘れましたか、先日の事を」
青年は奈々の答えを待たずに、ふいと立上って右手の鞭を神経質に撓わせながら、
「しかし。そう――貴女の云う通り、私を憎むと云っては当らないかも知れない。私がもし足軽か平武士ででもあったら、誰の憎みも受けずにいられたに違いない、彼等が悩むのはこの私ではなくて、私の地位なのだ、それは私にも分っている、だが……私は自分でこの地位を望んだのではない、私はむしろ僧にでもなって遁世の暮しをしたいとさえ思っているのです、けれど私にはその自由は許されていない、好むと好まぬとにかかわらず、私はこの位置に立って生涯を過さなければならないのです。――幾十幾百の憎しみの眼に瞶《みつ》められ、いつ殺されるとも知れぬ不安に怯えながら、そして……誰一人としてこの心細さを訴える人もなく」
青年は突然、唇を慄わせ、鞭で空を撃ちながら叫んだ。
「なんのために、なんのために私はこんな苦しい立場に立たせられたのだ、私にどんな罪があるのだ!」
「若様、――」
青年は奈々の哀願するような声を聞くと、自分の昂奮したことを恥じるように苦笑し、弱々しく肩を揺上げて云った。
「許してください、誰にも聞いてもらえない苦しさを、つい貴女に訴えたくなったのです、――でも、これで幾らか心が軽くなりました」
「――奈々にはお言葉の意味がよく分りません、けれどそんなにお辛いお身上とは少しも存じませんでした。……もしできることなら、わたくしの命に代えても――」
「そう思ってくれますか」
青年は燃えるような眸子で、熱く熱く乙女の眼を覓《もと》めた。奈々は自分の全身が、青年の眸子の方へ恐ろしい力で惹着けられるのを感じた、――しかしその時、生垣の向うから咳払いの声が聞え、青年ははっとして身を離した。
「もう、もう帰らなくては」
「若様、――」
奈々は縋《すが》るようにして云った、
「どうぞお名前をお聞かせくださいませ」
「それは訊かないでください」
「いいえどうぞ、ぜひ――ねえ」
青年は唇を噛んで茶々の眼を見たが、やがて静かに頷いて云った。
「では、先日の牡丹をひと枝ください」
「はい、――」
奈々は小走りに畑の中へ去ったが、待つほどもなく「春雪」のひと枝を切って戻ってきた。青年はそれを鞭と一緒に持つと、それが特徴の寂しい声で云った、
「それでは、明かしたくないのだが云います、その代りこの場限り忘れてください、――貴女にだけは普通の人間で話がしたいのです」
「――はい」
「私は、陸奥守綱柄《むつのかみつなむら》です」
「…………」
奈々は愕然と立ちすくんだ。
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
寛文年間の最も大きな事件として、「伊達騒動」の評判を聞かぬ者はあるまい、ましてその中心人物たる幼名|亀千代《かめちよ》、即ち綱村の名は奈々もかねてからよく知っていた。
「――あれが綱村さまか、あの淋しい眼をした方が、あんな悲しそうな御顔をした方が六十余万石の御領主さまか」
奈々は夢見るように呟いた。
そうだ、それでこそよく分る、あの方の淋しげな眼、頼りなげな悲しい顔、あれはあの恐ろしい騒動の傷手なのだ。噂に依ると原田甲斐《はらだかい》一味のために、幾度か毒殺されようとした事さえあると云う、現にあの方自身、
――私はこれまで、何度も殺されかかったことがある。
と仰せられた。
しかも、しかも、――寛文十一年、幕府の裁決に依って原田甲斐一味が罪せられ、騒動はひとまず落着したようなものの、世上伝うるところに依れば、その後も原田甲斐一味の残徒は処々に隠れ、今なお、綱村の首を狙っていると云う。――その風評を真とすれば、
「そうだ、そうすると先日、綱村さまを取詰めていた五人の男も、噂の通り原田一味の残党に違いない」
すべてが符を合せるように分ってきた。
「お可哀そうな綱村さま」
奈々は胸も裂けんばかりに泣いたけれどその涙は、若き領主の痛ましい身上を悲しむだけではなかった。
――十八にして乙女の胸に初めて萌えた恋の相手が、余りに身分の違う高貴な人であると知って、はかなく散るべき自分の哀しい恋のための涙でもあったのだ。
「お可哀そうな綱村さま」
奈々は何度も呟いた、
「――そして、可哀そうな奈々……」
彼女の様子は驚くほど変った。
その日から後、奈々は来る日も来る日も引籠っていた。馬は繋がれたきりだし、木剣も薙刀も顧みられなくなった。顔色は蒼ざめるばかりである、虚ろな眼はいつもどこかしら遠い彼方を見ている、そして艶を喪った唇からもれるのは、命を削るような溜息であった。
かくて十日あまりたった。
五月二十六日の暮れ方のことである。――今日もまた牡丹畑の亭で、奈々が惘然《ぼうぜん》と物思いに耽っていた時、
「奈々、話をしてもよいかい」
遠慮がちな声がするので、振返ると従兄の常次郎が立っていた。
「お従兄さまでしたの?」
「奈々――」
常次郎も蒼ざめた顔をしていた。そしてその紙のように生気のない顔を外向けたまま低い声で云った。
「常次郎はね、二三日うちに江戸へ立つことにしたよ」
「――――」
思いがけぬ言葉だった、奈々は自分の耳を疑うように従兄の顔を窺った。常次郎は外向いたまま、
「これは云うべき事でないかも知れない、云うのは未練かも知れない、けれどこれでもう一生会えなくなると思うと、やはり云わずにいられないのだ。奈々……常次郎はね」
「お従兄さま!」
「いや、云わせてくれ、常次郎はおまえを想っていた、この半年あまりはこの一言を云いたいために、どんなに苦しんだか知れない、しかし……もうおれは諦めた」
奈々はもの問いたげに眼をあげた。常次郎はそれをじっと※[#「目+台」、第3水準1-88-79]《みつ》め、無言の問いに答える如く頷きながら云った。
「そうだよ、おれは見てしまったのだ」
「――――」
「おれはもっと早く察すべきだった。おまえの様子が変ったのは、九里の森外であの人を救った日からだった。――それを、十日ほどまえにここで、二人が会っているのをみつけた時に初めて気付いたのだ」
「――お従兄さま」
奈々は耐えかねて、わっと泣きながら常次郎の胸へ縋りついた。
「赦して……赦して――」
「いいんだ、いいんだよ奈々」
常次郎は従妹の背へ優しく手を廻した。
「誰が悪いのでもない、運命《めぐりあわせ》なんだ、みんな運命なんだ、おれは誰をも怨みはしない。嘘じゃない。あの人がどんな身分かおれは知らないが、おまえなら決して選み違いはないと思う、常次郎は安心して江戸へ行く、――そして二人の仕合せを祈っているよ」
「待って、待って、お従兄さま」
「さようなら、立つ時には寄らない、仕合せにお暮らし」
咽ぶように云うと、奈々の手を振切って、走るように常次郎は去っていった。――奈々は四五間追って走ったが、力尽きてばったり牡丹畑の中へ倒れると、そのまま土にうち伏して泣き沈んだ。
「――あれが綱村さまか、あの淋しい眼をした方が、あんな悲しそうな御顔をした方が六十余万石の御領主さまか」
奈々は夢見るように呟いた。
そうだ、それでこそよく分る、あの方の淋しげな眼、頼りなげな悲しい顔、あれはあの恐ろしい騒動の傷手なのだ。噂に依ると原田甲斐《はらだかい》一味のために、幾度か毒殺されようとした事さえあると云う、現にあの方自身、
――私はこれまで、何度も殺されかかったことがある。
と仰せられた。
しかも、しかも、――寛文十一年、幕府の裁決に依って原田甲斐一味が罪せられ、騒動はひとまず落着したようなものの、世上伝うるところに依れば、その後も原田甲斐一味の残徒は処々に隠れ、今なお、綱村の首を狙っていると云う。――その風評を真とすれば、
「そうだ、そうすると先日、綱村さまを取詰めていた五人の男も、噂の通り原田一味の残党に違いない」
すべてが符を合せるように分ってきた。
「お可哀そうな綱村さま」
奈々は胸も裂けんばかりに泣いたけれどその涙は、若き領主の痛ましい身上を悲しむだけではなかった。
――十八にして乙女の胸に初めて萌えた恋の相手が、余りに身分の違う高貴な人であると知って、はかなく散るべき自分の哀しい恋のための涙でもあったのだ。
「お可哀そうな綱村さま」
奈々は何度も呟いた、
「――そして、可哀そうな奈々……」
彼女の様子は驚くほど変った。
その日から後、奈々は来る日も来る日も引籠っていた。馬は繋がれたきりだし、木剣も薙刀も顧みられなくなった。顔色は蒼ざめるばかりである、虚ろな眼はいつもどこかしら遠い彼方を見ている、そして艶を喪った唇からもれるのは、命を削るような溜息であった。
かくて十日あまりたった。
五月二十六日の暮れ方のことである。――今日もまた牡丹畑の亭で、奈々が惘然《ぼうぜん》と物思いに耽っていた時、
「奈々、話をしてもよいかい」
遠慮がちな声がするので、振返ると従兄の常次郎が立っていた。
「お従兄さまでしたの?」
「奈々――」
常次郎も蒼ざめた顔をしていた。そしてその紙のように生気のない顔を外向けたまま低い声で云った。
「常次郎はね、二三日うちに江戸へ立つことにしたよ」
「――――」
思いがけぬ言葉だった、奈々は自分の耳を疑うように従兄の顔を窺った。常次郎は外向いたまま、
「これは云うべき事でないかも知れない、云うのは未練かも知れない、けれどこれでもう一生会えなくなると思うと、やはり云わずにいられないのだ。奈々……常次郎はね」
「お従兄さま!」
「いや、云わせてくれ、常次郎はおまえを想っていた、この半年あまりはこの一言を云いたいために、どんなに苦しんだか知れない、しかし……もうおれは諦めた」
奈々はもの問いたげに眼をあげた。常次郎はそれをじっと※[#「目+台」、第3水準1-88-79]《みつ》め、無言の問いに答える如く頷きながら云った。
「そうだよ、おれは見てしまったのだ」
「――――」
「おれはもっと早く察すべきだった。おまえの様子が変ったのは、九里の森外であの人を救った日からだった。――それを、十日ほどまえにここで、二人が会っているのをみつけた時に初めて気付いたのだ」
「――お従兄さま」
奈々は耐えかねて、わっと泣きながら常次郎の胸へ縋りついた。
「赦して……赦して――」
「いいんだ、いいんだよ奈々」
常次郎は従妹の背へ優しく手を廻した。
「誰が悪いのでもない、運命《めぐりあわせ》なんだ、みんな運命なんだ、おれは誰をも怨みはしない。嘘じゃない。あの人がどんな身分かおれは知らないが、おまえなら決して選み違いはないと思う、常次郎は安心して江戸へ行く、――そして二人の仕合せを祈っているよ」
「待って、待って、お従兄さま」
「さようなら、立つ時には寄らない、仕合せにお暮らし」
咽ぶように云うと、奈々の手を振切って、走るように常次郎は去っていった。――奈々は四五間追って走ったが、力尽きてばったり牡丹畑の中へ倒れると、そのまま土にうち伏して泣き沈んだ。
[#8字下げ]六[#「六」は中見出し]
常次郎は「運命だ」と云った、
それにしても何という無慈悲な運命であろう、九里の森で綱村と会うまえに、常次郎が心を打明けていたら、こんな悲しいことにはならなかったであろう。――奈々にしても、常次郎の気持がまるで分らなかった訳ではなかった、朧ろ気にはそれと察した事もある、しかし蕾かたき乙女の心は、もっと強く、うちつけに明かされるのを待っていたのだ。
「なぜ、なぜお従兄さまはもっと早く仰有《おっしゃ》ってくださらなかったのです。――お従兄さまもお苦しいでしょう、けれど……奈々も苦しいのです。貴方は御存じないでしょうが、仕合せに暮らせと仰有ったあの人は、奈々には手も届かぬ御身分の方でした」
どのくらいの刻がたったであろう。
小さい胸ひとつには包みきれぬ悲しさに、泣き尽すだけ泣き尽した奈々は、――ふと、もうさっきからどこか近くで、しきりに人の話し声のしていることに気付いた。
――誰か牡丹畑の中にいる。
取乱した様を見られてはならぬと、静かに身を起そうとした。その時、――ひどく抑えつけるような声音で、
「――なに、綱村侯が?」
と云うのを耳にした。
さっきまで奈々のいた亭の中に、五人の男が向合って掛けている、――正面にいるのは常次郎の父で奈々の叔父城田銕兵衛だ。それに対して三人、浪人態の武士の端から原田市九郎《はらだいちくろう》、蓬谷伝蔵《よもぎだにでんぞう》、村越曹次《むらこしそうじ》、宮内松之丞《みやうちまつのじょう》――いずれも五年前までは伊達家に仕え、相当の禄を食んだ武士であったが、騒動の時原田甲斐の罪に連座して放逐された者たちである。
「噂には聞かぬでもない、しかし綱村侯が嘉心《かしん》様(綱村の父|綱宗《つなむね》のこと)の御子でないと云うのは、それでは事実なのか」
「云う迄もない」
原田市九郎が答えた。
「御令室は将軍家御養女として入輿になったのだが、西の丸にいるあいだは将軍家御側室であった。これは江戸表で誰知らぬ者なき事実だ、そして――御入與になると半年余りして亀千代御出産だ」
「うむ、――」
「嘉心様には、かねて御令室が将軍家御側室であった事を御承知だから、御入輿になってもかつて奥へお渡りはなかった――それは御側に仕えていた拙者が存じておる」
「あれだけ英明の嘉心様が、なぜ廓通いの放埒を遊ばしたか、――それを思合せてこそ合点が参るであろう」
側から蓬谷伝蔵が口を挿んだ、「――亀千代を世継にしては伊達の血統が絶えるのだ。原田甲斐ほどの器量人が、命を抛《なげう》って事を計ったのはこのためなのだ。綱村は斬らねばならぬ、このまま置けばお家は徳川家の血統になってしまうのだ」
「城田氏――」
原田市九郎は膝を打って、「明日、綱村侯は参覲のため出府する、第一日の宿は貴公の屋敷だ、――今日まで途上を狙ったが、警護に妨げられていつも失敗、殊に先日は九里の森で首尾よく取詰めながら、一歩の違いで仕損い、あまつさえ五名の同志は捕えられた」
「今度出府すれば、かねての御縁組が取結ばれるに違いない、すれば万事休すだ」
「どうでも明日は※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56]《のが》せぬ場合、泊りを待って手引を頼む」
「貴公の家は郷士ながら、政宗公以来の恩恵がある筈、我々のためにとは云わぬ、伊達家のために手引をしてくれ、――頼む」
はたと声が絶えた。銕兵衛は意志の強そうな眼で、じっと空を睨んだまま、ややしばらく黙っていたが、――やがて呻くように云った。
「拙者は、亡き原田氏の為人《ひととなり》をよく存じておる、したがって今日まで、幕府の裁決がどうであろうとかの仁《じん》の誠忠を疑った事はない、――しかし各々《おのおの》から仔細を聞いて、始めて甲斐殿の非常の苦衷が分った、……如何にもお手引申そう」
「おお御承引か――忝い」
「忝い、忝い!」
四名はつきあげるような声で云った。
「しかし、綱村侯の御命をお縮め申すとして、お家に瑕のつくような事はあるまいな」
「それは既に手配ができておる、先年裁決の大勢を制した板倉重矩《いたくらしげのり》は既に死んだ、今度こそ酒井《さかい》侯の御威勢が物を言うだろう、御内意もとっくに伺ってあるのだ」
「よし、それを聞いて安堵した、みごと明夜こそ御本望せられい」
その時、牡丹畑の牡丹が、微かに戦《そよ》いだ、――風が渡ったのであろうか。
それにしても何という無慈悲な運命であろう、九里の森で綱村と会うまえに、常次郎が心を打明けていたら、こんな悲しいことにはならなかったであろう。――奈々にしても、常次郎の気持がまるで分らなかった訳ではなかった、朧ろ気にはそれと察した事もある、しかし蕾かたき乙女の心は、もっと強く、うちつけに明かされるのを待っていたのだ。
「なぜ、なぜお従兄さまはもっと早く仰有《おっしゃ》ってくださらなかったのです。――お従兄さまもお苦しいでしょう、けれど……奈々も苦しいのです。貴方は御存じないでしょうが、仕合せに暮らせと仰有ったあの人は、奈々には手も届かぬ御身分の方でした」
どのくらいの刻がたったであろう。
小さい胸ひとつには包みきれぬ悲しさに、泣き尽すだけ泣き尽した奈々は、――ふと、もうさっきからどこか近くで、しきりに人の話し声のしていることに気付いた。
――誰か牡丹畑の中にいる。
取乱した様を見られてはならぬと、静かに身を起そうとした。その時、――ひどく抑えつけるような声音で、
「――なに、綱村侯が?」
と云うのを耳にした。
さっきまで奈々のいた亭の中に、五人の男が向合って掛けている、――正面にいるのは常次郎の父で奈々の叔父城田銕兵衛だ。それに対して三人、浪人態の武士の端から原田市九郎《はらだいちくろう》、蓬谷伝蔵《よもぎだにでんぞう》、村越曹次《むらこしそうじ》、宮内松之丞《みやうちまつのじょう》――いずれも五年前までは伊達家に仕え、相当の禄を食んだ武士であったが、騒動の時原田甲斐の罪に連座して放逐された者たちである。
「噂には聞かぬでもない、しかし綱村侯が嘉心《かしん》様(綱村の父|綱宗《つなむね》のこと)の御子でないと云うのは、それでは事実なのか」
「云う迄もない」
原田市九郎が答えた。
「御令室は将軍家御養女として入輿になったのだが、西の丸にいるあいだは将軍家御側室であった。これは江戸表で誰知らぬ者なき事実だ、そして――御入與になると半年余りして亀千代御出産だ」
「うむ、――」
「嘉心様には、かねて御令室が将軍家御側室であった事を御承知だから、御入輿になってもかつて奥へお渡りはなかった――それは御側に仕えていた拙者が存じておる」
「あれだけ英明の嘉心様が、なぜ廓通いの放埒を遊ばしたか、――それを思合せてこそ合点が参るであろう」
側から蓬谷伝蔵が口を挿んだ、「――亀千代を世継にしては伊達の血統が絶えるのだ。原田甲斐ほどの器量人が、命を抛《なげう》って事を計ったのはこのためなのだ。綱村は斬らねばならぬ、このまま置けばお家は徳川家の血統になってしまうのだ」
「城田氏――」
原田市九郎は膝を打って、「明日、綱村侯は参覲のため出府する、第一日の宿は貴公の屋敷だ、――今日まで途上を狙ったが、警護に妨げられていつも失敗、殊に先日は九里の森で首尾よく取詰めながら、一歩の違いで仕損い、あまつさえ五名の同志は捕えられた」
「今度出府すれば、かねての御縁組が取結ばれるに違いない、すれば万事休すだ」
「どうでも明日は※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56]《のが》せぬ場合、泊りを待って手引を頼む」
「貴公の家は郷士ながら、政宗公以来の恩恵がある筈、我々のためにとは云わぬ、伊達家のために手引をしてくれ、――頼む」
はたと声が絶えた。銕兵衛は意志の強そうな眼で、じっと空を睨んだまま、ややしばらく黙っていたが、――やがて呻くように云った。
「拙者は、亡き原田氏の為人《ひととなり》をよく存じておる、したがって今日まで、幕府の裁決がどうであろうとかの仁《じん》の誠忠を疑った事はない、――しかし各々《おのおの》から仔細を聞いて、始めて甲斐殿の非常の苦衷が分った、……如何にもお手引申そう」
「おお御承引か――忝い」
「忝い、忝い!」
四名はつきあげるような声で云った。
「しかし、綱村侯の御命をお縮め申すとして、お家に瑕のつくような事はあるまいな」
「それは既に手配ができておる、先年裁決の大勢を制した板倉重矩《いたくらしげのり》は既に死んだ、今度こそ酒井《さかい》侯の御威勢が物を言うだろう、御内意もとっくに伺ってあるのだ」
「よし、それを聞いて安堵した、みごと明夜こそ御本望せられい」
その時、牡丹畑の牡丹が、微かに戦《そよ》いだ、――風が渡ったのであろうか。
[#8字下げ]七[#「七」は中見出し]
明くる日の、既に黄昏近く。
岩沼の本宿にある城田家は、その日参覲のため出府する綱村侯の第一夜の宿を勤めるために、あらゆる準備が調えられていた。――もう行列の見える時分なのだが、道次に故障でもあったか、どうやら少々遅着の様子である。
八文字に開かれた門には、定紋入りの高張が掲げられ、棒を持った警衛の者たちが、落着かぬ様子で幕の外に右往左往している。こうした表の光景に反して、――この家の奥のひと間では、行列の到着を待つ別の人たちがいた。
すでに暗くなった部屋の中で、原田市九郎はじめ蓬谷、宮内、村越の四名、それに城田銕兵衛を加えて五名が、しめやかに別盃を交している。
「それでは寝所に拙者」
原田市九郎が言葉を継いだ、「――蓬谷氏も拙者と共にお願い申したい。宮内、村越の御両所は宿直《とのい》の備え、起つ者があったら構わず仕止める事、遠慮は無用でござる」
「――承知仕った」
「合図は八つ半(午前三時)、城田氏が厨口《くりやぐち》へ火をかけられるゆえ、警護の者が騒ぎたつ隙に決行仕ろう」
その部屋の隅に屏風が立廻してあった、――その屏風の蔭から影のように、音もなくすべり出た者がある、黒い覆面をして、右手に小薙刀を提げていた。
「首尾よく参ったら他人に構わず、身を以って遁れる事、落合う場所は」
そう云いかけた刹那! 部屋の中の夕闇を截ってぎらりと光が飛んだ。ばっという無気味な音、
「がっ、あうーっ」
喉を鳴らして市九郎が横ざまに倒れた。全く不意のことなので四人とも気を抜かれたが、一瞬あっと眼を瞠る、――倒れた市九郎の頸根から凄じく血が噴出るのと、それを見て始めて事態を知った四人が、
「――曲者!」
と仰天して刀を執るのと同時だった。――しかし怪しい人物はそれより疾く、大きく踏込みざま蓬谷伝蔵の右手を二の腕から斬放し、返しざまに宮内松之丞の横面を薙いでいた。「あっ!」
「あっ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
と二人が倒れる、同時に村越曹次が、
「くそっ!」
と抜打ちに一刀、曲者の脾腹へ斬込む、刹那! ほとんど同じ刹那に曲者の薙刀も村越曹次の真向を割りつけていた。――だあっ[#「だあっ」に傍点]と仰《のけ》ざまにのめる曹次、曲者も脾腹の重傷に堪らず、
「う、うーむ」
と呻きながら膝をついた。
「や!」
脇から打込もうとしていた銕兵衛は、曲者の呻きを聞き、袖口からこぼれる紅色の女衣装を初めてみつけると、愕然。――刀を措《お》いて、走寄り、覆面を剥いでみた、
「あ、あ、其方《そち》は奈々……」
奈々であった。――余りの事に茫然となる、そこへ、ただならぬ物音を聞きつけて常次郎が走りこんできた。
「父上、――父上!」
一歩入ったが暗い、暗い中にぷんと鼻を衝く血の臭だ。
「父上、何事でございます。父上」
「――常次郎……ここだ」
銕兵衛の喘ぐような声がした。――眼をとめて見ると哀れ、父の手に抱かれて奈々の、気息奄々たる姿――。四辺を見れば血の海に、四人の手負いが倒れている。
「どうした、どうした事です」
「――お、お従兄さま」
奈々が呼んだ。
「奈々、常次郎だ、おれだ」
常次郎は狂ったように、父の手から従妹《いもうと》を抱取って叫んだ。――奈々はしげしげと常次郎の顔を見上げながら、
「お従兄さま、叔父さまに、お詫びを申上げてくださいませ、奈々のした事は、間違っていたかも知れません、けれど、――けれど、奈々は、綱村さまの殺されるのを、黙って見てはいられませんでした……あの方は殺されるような悪い事は、これほどもしてはいないのです、――あの方には何の罪もないのです。どんな事情があろうと、あんなお気の毒な、お可哀そうな方を殺すなんて、無道です、無慈悲です」
「――奈々!」
常次郎は押|拉《ひし》がれた声で云った。
「おまえ、おまえ――それでは、あの人は綱村侯だったのか」
「ええ、陸奥守綱村さまでした」
そう云って奈々はがくりと崩折れた。
岩沼の本宿にある城田家は、その日参覲のため出府する綱村侯の第一夜の宿を勤めるために、あらゆる準備が調えられていた。――もう行列の見える時分なのだが、道次に故障でもあったか、どうやら少々遅着の様子である。
八文字に開かれた門には、定紋入りの高張が掲げられ、棒を持った警衛の者たちが、落着かぬ様子で幕の外に右往左往している。こうした表の光景に反して、――この家の奥のひと間では、行列の到着を待つ別の人たちがいた。
すでに暗くなった部屋の中で、原田市九郎はじめ蓬谷、宮内、村越の四名、それに城田銕兵衛を加えて五名が、しめやかに別盃を交している。
「それでは寝所に拙者」
原田市九郎が言葉を継いだ、「――蓬谷氏も拙者と共にお願い申したい。宮内、村越の御両所は宿直《とのい》の備え、起つ者があったら構わず仕止める事、遠慮は無用でござる」
「――承知仕った」
「合図は八つ半(午前三時)、城田氏が厨口《くりやぐち》へ火をかけられるゆえ、警護の者が騒ぎたつ隙に決行仕ろう」
その部屋の隅に屏風が立廻してあった、――その屏風の蔭から影のように、音もなくすべり出た者がある、黒い覆面をして、右手に小薙刀を提げていた。
「首尾よく参ったら他人に構わず、身を以って遁れる事、落合う場所は」
そう云いかけた刹那! 部屋の中の夕闇を截ってぎらりと光が飛んだ。ばっという無気味な音、
「がっ、あうーっ」
喉を鳴らして市九郎が横ざまに倒れた。全く不意のことなので四人とも気を抜かれたが、一瞬あっと眼を瞠る、――倒れた市九郎の頸根から凄じく血が噴出るのと、それを見て始めて事態を知った四人が、
「――曲者!」
と仰天して刀を執るのと同時だった。――しかし怪しい人物はそれより疾く、大きく踏込みざま蓬谷伝蔵の右手を二の腕から斬放し、返しざまに宮内松之丞の横面を薙いでいた。「あっ!」
「あっ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
と二人が倒れる、同時に村越曹次が、
「くそっ!」
と抜打ちに一刀、曲者の脾腹へ斬込む、刹那! ほとんど同じ刹那に曲者の薙刀も村越曹次の真向を割りつけていた。――だあっ[#「だあっ」に傍点]と仰《のけ》ざまにのめる曹次、曲者も脾腹の重傷に堪らず、
「う、うーむ」
と呻きながら膝をついた。
「や!」
脇から打込もうとしていた銕兵衛は、曲者の呻きを聞き、袖口からこぼれる紅色の女衣装を初めてみつけると、愕然。――刀を措《お》いて、走寄り、覆面を剥いでみた、
「あ、あ、其方《そち》は奈々……」
奈々であった。――余りの事に茫然となる、そこへ、ただならぬ物音を聞きつけて常次郎が走りこんできた。
「父上、――父上!」
一歩入ったが暗い、暗い中にぷんと鼻を衝く血の臭だ。
「父上、何事でございます。父上」
「――常次郎……ここだ」
銕兵衛の喘ぐような声がした。――眼をとめて見ると哀れ、父の手に抱かれて奈々の、気息奄々たる姿――。四辺を見れば血の海に、四人の手負いが倒れている。
「どうした、どうした事です」
「――お、お従兄さま」
奈々が呼んだ。
「奈々、常次郎だ、おれだ」
常次郎は狂ったように、父の手から従妹《いもうと》を抱取って叫んだ。――奈々はしげしげと常次郎の顔を見上げながら、
「お従兄さま、叔父さまに、お詫びを申上げてくださいませ、奈々のした事は、間違っていたかも知れません、けれど、――けれど、奈々は、綱村さまの殺されるのを、黙って見てはいられませんでした……あの方は殺されるような悪い事は、これほどもしてはいないのです、――あの方には何の罪もないのです。どんな事情があろうと、あんなお気の毒な、お可哀そうな方を殺すなんて、無道です、無慈悲です」
「――奈々!」
常次郎は押|拉《ひし》がれた声で云った。
「おまえ、おまえ――それでは、あの人は綱村侯だったのか」
「ええ、陸奥守綱村さまでした」
そう云って奈々はがくりと崩折れた。
[#8字下げ]八[#「八」は中見出し]
本陣の城田家に不浄の事があったというので、綱村の宿所は急に牡丹屋敷、即ち黒上家に変更された。
綱村はそれを聞いて、そこが奈々の家である事をすぐに気付いた。出府のまえにひと眼会いたいと思っていたのだが、うまい機会がなくて来られなかった。明日出立すれば二年のあいだ会うことはできない。
――会って行きたいな。
そう思ったが、鋭い眼で見まもっている老臣たちのことを考えると、とても云い出す気はしなかった。――しかし晩餐の後で寝所へ入ると、床に活けてある牡丹をみつけて、
――そうだ。
と賢しくも一案を思いつき、
「この牡丹は赤すぎて眼触りだ、白があったら活換えるように申せ」
と命じた。
花を活換えるとすれば、当然この家の娘がするであろう、そう思ったのである。しかしその予想は外れた、畏って退った近習の若侍はしばらくすると自分で、白牡丹を活けた花籠を捧げてきた、そして前の花と換えて去った。
それ以上、もう思案はなかった。――綱村は満足りぬ思いで寝についた。
綱村はそれを聞いて、そこが奈々の家である事をすぐに気付いた。出府のまえにひと眼会いたいと思っていたのだが、うまい機会がなくて来られなかった。明日出立すれば二年のあいだ会うことはできない。
――会って行きたいな。
そう思ったが、鋭い眼で見まもっている老臣たちのことを考えると、とても云い出す気はしなかった。――しかし晩餐の後で寝所へ入ると、床に活けてある牡丹をみつけて、
――そうだ。
と賢しくも一案を思いつき、
「この牡丹は赤すぎて眼触りだ、白があったら活換えるように申せ」
と命じた。
花を活換えるとすれば、当然この家の娘がするであろう、そう思ったのである。しかしその予想は外れた、畏って退った近習の若侍はしばらくすると自分で、白牡丹を活けた花籠を捧げてきた、そして前の花と換えて去った。
それ以上、もう思案はなかった。――綱村は満足りぬ思いで寝についた。
乳色の濃い霧が、早朝の空いっぱいに渦を巻いて流れている、――
黒上家の門前には、すでに出立の供揃えがすっかりできて、街並には一刻も前から、綱村の行列を見送ろうとする町人や農夫たちが土下座のまま待兼ねていた。
午前六時《むつ》が鳴った、玄関口の人々が一斉に平伏して、旅装の綱村が現われた。
――奈々は?
綱村は式台のところで、振返ったが、すぐ思切ったように駕へ身を入れた。――と、それを待兼ねたように、玄関脇から奈々が、常次郎に抱かれるようにして現われた。
「ああ奈々――」
口まで出たが抑えた。
「申上げます」
駕脇の伊達式部《だてしきぶ》が式台して、「当家の娘、奈々と申す者、御旅のお慰めに丹精の牡丹を献上仕りたいと申しまする」
「――許す、近う」
頷いて綱村は奈々を見た。
奈々は化粧をしていた、生れて十八年、かつて手にしたこともない化粧を、それも厚めに装っていた。――でなかったら、彼女の顔は死人のように見えたであろう。
「許す、近う」
綱村はもう一度云った。云いながら無量の思いを籠めて奈々の顔を覓《みつ》めた、――奈々は常次郎に授けられながら静かにひと膝進み、満身の力を絞って――微かに笑顔を作った。
「いや、卑しき身をもちまして、御前を汚し、恐入りまする」
「――――」
「これは、わたくしの、丹精いたしました牡丹、名を『春雪』と申しまする、御旅路のお慰めに……」
それだけ云うのが精いっぱいだった。
「――過分じゃ」
綱村は、奈々が慄える手で捧げる牡丹を取ると、眼ざしだけに万言の意を籠めて云った。
「美しい花じゃな、江戸へ着くまで散らぬよういたすであろう」
「――忝のう……」
喘ぐように云って低頭《おじぎ》すると、もう奈々は再び顔を挙げることができなかった。――綱村はしかし、会ったことの悦しさと、別れることの名残り惜しさがいっぱいで、それほど変っている奈々の様子には気付かなかったのである。
「帰国の折もこの花を見せよ」
そう云った時、駕の戸は伊達式部の手で静かに閉された。
「――お立ち」
駕が上った。
「奈々、お駕が行くぞ」
常次郎は平伏したまま奈々の耳へ囁いた。奈々は必死の力を振って面をあげた。
「奈々、見えるか」
「――お従兄さま」
奈々はもつれる舌で云った。
「あの方は、もういらしった、――お駕が遠くなる、お駕が……」
云いたいことの千万をもちながらひと言も許されず、――生きて再び会うことのない、別れだった。奈々の胸を引裂く悲しさがどんなものか常次郎だけにはよく分った。
「御武運長久に……」
そう呟くのを最期に、奈々は従兄の腕の中へ崩折れた。――その夜を待たず、奈々は死んだ。二年後の国入りに、綱村はどんな気持で黒上家の牡丹を見たであろうか? 千余株の牡丹花は、今もなお「岩沼の牡丹屋敷」と呼ばれて、年毎に撩乱と咲き誇っている。
黒上家の門前には、すでに出立の供揃えがすっかりできて、街並には一刻も前から、綱村の行列を見送ろうとする町人や農夫たちが土下座のまま待兼ねていた。
午前六時《むつ》が鳴った、玄関口の人々が一斉に平伏して、旅装の綱村が現われた。
――奈々は?
綱村は式台のところで、振返ったが、すぐ思切ったように駕へ身を入れた。――と、それを待兼ねたように、玄関脇から奈々が、常次郎に抱かれるようにして現われた。
「ああ奈々――」
口まで出たが抑えた。
「申上げます」
駕脇の伊達式部《だてしきぶ》が式台して、「当家の娘、奈々と申す者、御旅のお慰めに丹精の牡丹を献上仕りたいと申しまする」
「――許す、近う」
頷いて綱村は奈々を見た。
奈々は化粧をしていた、生れて十八年、かつて手にしたこともない化粧を、それも厚めに装っていた。――でなかったら、彼女の顔は死人のように見えたであろう。
「許す、近う」
綱村はもう一度云った。云いながら無量の思いを籠めて奈々の顔を覓《みつ》めた、――奈々は常次郎に授けられながら静かにひと膝進み、満身の力を絞って――微かに笑顔を作った。
「いや、卑しき身をもちまして、御前を汚し、恐入りまする」
「――――」
「これは、わたくしの、丹精いたしました牡丹、名を『春雪』と申しまする、御旅路のお慰めに……」
それだけ云うのが精いっぱいだった。
「――過分じゃ」
綱村は、奈々が慄える手で捧げる牡丹を取ると、眼ざしだけに万言の意を籠めて云った。
「美しい花じゃな、江戸へ着くまで散らぬよういたすであろう」
「――忝のう……」
喘ぐように云って低頭《おじぎ》すると、もう奈々は再び顔を挙げることができなかった。――綱村はしかし、会ったことの悦しさと、別れることの名残り惜しさがいっぱいで、それほど変っている奈々の様子には気付かなかったのである。
「帰国の折もこの花を見せよ」
そう云った時、駕の戸は伊達式部の手で静かに閉された。
「――お立ち」
駕が上った。
「奈々、お駕が行くぞ」
常次郎は平伏したまま奈々の耳へ囁いた。奈々は必死の力を振って面をあげた。
「奈々、見えるか」
「――お従兄さま」
奈々はもつれる舌で云った。
「あの方は、もういらしった、――お駕が遠くなる、お駕が……」
云いたいことの千万をもちながらひと言も許されず、――生きて再び会うことのない、別れだった。奈々の胸を引裂く悲しさがどんなものか常次郎だけにはよく分った。
「御武運長久に……」
そう呟くのを最期に、奈々は従兄の腕の中へ崩折れた。――その夜を待たず、奈々は死んだ。二年後の国入りに、綱村はどんな気持で黒上家の牡丹を見たであろうか? 千余株の牡丹花は、今もなお「岩沼の牡丹屋敷」と呼ばれて、年毎に撩乱と咲き誇っている。
底本:「婦道小説集」実業之日本社
1977(昭和52)年9月25日 初版発行
1978(昭和53)年11月10日 四版発行
底本の親本:「婦人倶楽部」
1938(昭和13)年3月
初出:「婦人倶楽部」
1938(昭和13)年3月
※表題は底本では、「牡丹《ぼたん》花譜」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
1977(昭和52)年9月25日 初版発行
1978(昭和53)年11月10日 四版発行
底本の親本:「婦人倶楽部」
1938(昭和13)年3月
初出:「婦人倶楽部」
1938(昭和13)年3月
※表題は底本では、「牡丹《ぼたん》花譜」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ