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肌匂う
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肌匂う
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)夭折《ようせつ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)方|塞《ふさ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#6字下げ]
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[#6字下げ]一[#「一」は中見出し]
沢木甲午は四人きょうだいの三男であったが、二人の兄が夭折《ようせつ》し、姉も十二歳で死んだため、彼は九歳で一人っ子になった。
沢木家は九百五十石あまりの永代老職で、父は主計《かずえ》といい、母は同藩庄司氏の出で、いそ[#「いそ」に傍点]といった。四人の子供のうち、三人まで早くとられたので、甲午を育てるのには、夫婦はひどく大事をとった。あまやかしたとはいわないまでも、相当わがままを許したことはたしかで、そのためだけではないだろうが、彼はすぐれた躰格《たいかく》と健康にめぐまれながら、敏感で、衝動的で、傷つきやすい、神経質な性格に育った。――しかしこういうことは、その後の彼の、江戸における放蕩《ほうとう》や帰国してから遭遇した出来事とは無関係かもしれない。多くの人の中には、境遇や教育によっても、その性格を変えることのできないものがあるからだ。
甲午は十七歳の年から五年間、江戸屋敷で暮した。初めの二年は藩主の側で勤め、あとの三年は留守役に預けられた。永代老職の長男は、たいていこの経路をとるし、留守役に預けられている期間が、その人物の価値をきめる基準になるようであった。いうまでもないことだが、留守役は外交官で、他藩との交際や、商人たちとの折衝をするため、饗応《きょうおう》に招かれたり、招宴を設けたりすることが多い。もちろん遊里にも出入りするので、つい身を誤る者も少なくなかった。
甲午が身を誤らずに済んだのは、国許《くにもと》の母と、家扶《かふ》の桑川五郎兵衛と、そして預けられた留守役島田兵庫との、巧みな庇護《ひご》によるものであったが、それでもなお、彼の放蕩の評を隠すことはできなかったし、もう一年も江戸にいたら、無事には済まなかったかもしれない。――父の主計の病死によって、甲午は江戸詰を解かれ、二十三歳の二月に、国許へ帰った。
帰国してから二年ちかいあいだ、彼は八方|塞《ふさ》がりなような、気まずい、鬱陶しい気分ですごした。家庭の中では、母と家扶とが、彼のために、江戸の然るべき筋へ奔走し、多額な金を遣った、ということがわかって、これが相当な負担になったし、外では外で、友人知己に限らず、極めて多くの人が彼の放蕩ぶりを知っていて、――むろん誇張され、尾鰭《おひれ》が付いていたが、機会のあるごとに彼をからかったり、皮肉を云ったり、くさらせたりするのであった。その中の一例をあげると、友達が五六人で、吉田大六の家に招かれたとき、岸井兵馬がいやなことを云いだした。
「沢木はもう嫁を貰うんだろうが、気をつけないといけないぞ」と兵馬が云った、「ずいぶん道楽をして女を知っているようだが、しょうばい女と生娘ではぜんぜん違うからな」
すると吉田大六が、「うん」と考え深そうに頷《うなず》き、「それは忠告しておかなければならない、淀野《よどの》のこともあるからな」と、語尾を濁すように云った。甲午は黙って聞いていたが、他の友人たちも代る代る、同じようなことを云いだした。要するに新婚の夜が、いかにむずかしく困難なものであるかということ。男が不注意である場合はもちろん、花嫁の躰質によっては、非常な苦痛と危険の伴うものであること。その実例はいくらもあるし、現に自分たちも多かれ少なかれ、似たような経験をもっている、などということであった。甲午はかれらがいつもの手でからかっているのだと思ったが、そこにいる者の多くがすでに妻帯者であるのと、放蕩ちゅうにも、女たちからそんなふうな話を聞いた覚えがあるので、少しばかり不安な気分になり、それでもできるだけ平静に苦笑しながら、「淀野がどうかしたのかね」と訊《き》き返した。
「それはよそう、淀野のことは訊くな」と大六が首を振った、「あれは例外だ、あれはあまりにひどい」
うん、あれはひどい、とみんなが云い、岸井兵馬が、ひどいけれども「それほど稀《まれ》なことでもないんだ」と云った。甲午は怯《ひる》んだような気持になり、それ以上は訊かなかった。
だが、すべてがそんなぐあいだというのではなく、彼に同情と好意をよせる者もいた。その一人は庄司家のちや[#「ちや」に傍点]である。彼女は甲午の母の兄の娘だ。甲午より一つ年が多く、幼いときから親しかった。ちや[#「ちや」に傍点]には伝八という兄があり、妻そで[#「そで」に傍点]とのあいだに子供が二人いた。庄司は母の実家だから、ずいぶん遠慮なく往き来をしたが、伝八は甲午より八歳も年長なので、彼には従姉のほうに親しみがもてたし、ちや[#「ちや」に傍点]もまた姉さまぶって、彼をあまやかしたものであった。
「噂《うわさ》なんか気にしなくってもいいことよ」とちや[#「ちや」に傍点]は甲午に云った、「みんなは甲さんがわる遊びをしながら、ぼろを出さなかったことを妬《ねた》んでいるんでしょ、そうでなくっても、わる遊びをなすったことに間違いはないんですもの、いまさら人の噂なんか気にしたって、しようがないじゃありませんか」
それから暫く経ってのち、ちや[#「ちや」に傍点]は彼をにらんで、「甲さん、お気をつけなさい」と気をもたせるように云った。夫人や令嬢たちが、彼に興味をもち、好意をよせている、というのである。放蕩者だった、ということが、逆に好奇心を唆《そそ》るらしい。そういう点では、女性たちも相当なものなので「中にはあなたを誘惑してみようかなどという人さえある」とちや[#「ちや」に傍点]は告げた。
「だから早くお嫁さんを貰っておしまいなさい」とちや[#「ちや」に傍点]は云った、「さもないと本当に誰かに誘惑されてしまってよ」
「自分こそ早く嫁にゆけばいい」と甲午はやり返した、「私は男だからいいが、貴女はもう二十四にもなるじゃないか、どうしてお嫁にゆかないんだ」
[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]
「ひとのことはいいの」とちや[#「ちや」に傍点]が云った、「気にいった縁がなければ、三十が四十になったってお嫁になんかゆきはしないわ」
気にいらない結婚をして、失望したり苦労したりすらいなら、一生独身でくらすほうが気楽である、とちや[#「ちや」に傍点]は云った。
「それよりどうして甲さんはお嫁を貰わないの、ずいぶんほうぼうから縁談があるんでしょ」
甲午はあいまいに口を濁した。
友人たちから聞かされた新婚の話が、彼を臆病にしてしまったのである。かれらの話のあとで、べつの機会に淀野幸也のことを聞いたが、それは甲午の胆を冷やすに充分なものであった。要約すれば、幸也は新婚の翌日と、その翌日いっぱい、寝所の中で屏風《びょうぶ》をまわしたまま、新妻《にいづま》とともに、動くことができなかったというのである。そしてそのあとには、医者とか、切開とか、非常な出血などということが続き、なお、幸也自身は「不具になった」ということであった。
――それほど稀なことではない。
という、岸井兵馬の言葉と思いあわせて、甲午は(生娘との結婚に)ほとんど恐怖をさえ感じるようになった。
その年の九月、大谷新左衛門の家で、新宅びらきの祝いがあり、甲午もその祝宴に招かれた。大谷は次席家老で、招かれた客は中老以上の七家、みな妻女や娘を同伴していた。甲午のほかに村上総兵衛、木内平内、吉岡忠之進という、三人の独身者もいたが、女性のほうがはるかに多く、たいそう華やいだ宴席になった。――その席へゆくまえに、控えの間で支度を直していると、庄司のちや[#「ちや」に傍点]があらわれた。彼女は客ではなく、頼まれて手伝いに来たのだそうだが、甲午の支度を直すのを助けながら、「娘さんたちをよくごらんなさい」と囁《ささや》いた。招かれた客の中の娘たちは、みな甲午の嫁の候補者だ、というのである。甲午は信じかねたが、ちや[#「ちや」に傍点]は事実だと云い、「しっかりとよく見てお選びなさい」とき、やさしくにらんで、奥へ去った。
甲午はまだ信じられなかったが、席へついて酒が始まると、あるじの大谷新左衛門が、「沢木どのは長い江戸詰で疎遠になっていたから」と云って、彼を他の客たちに紹介し、客は客で、各自の家族、――特に(と思われたが)その娘たちを彼にひきあわせた。そればかりではない、やがてその娘たちは、代る代る出て、琴、鼓、小謡、仕舞などの芸を披露した。彼女たちの介添には、大谷家の嫁と、庄司のちや[#「ちや」に傍点]が当り、衣裳《いしょう》を直すのや、楽器の出し入れを手伝っていたが、娘が代るたびに、ちや[#「ちや」に傍点]はすばやく甲午のほうへ眼くばせをした。すると、隣りに坐っていた村上総兵衛が、「気をつけろよ沢木」と囁いた。
「田島と宮川の娘は美人で評判だが、あんまり頭のいいほうじゃないからな」
「それがどうしたというんだ」
「とぼけるなよ」と総兵衛が云った、「おれはちゃんと知ってるんだから」
甲午は酒を飲むことに専念した。
ちや[#「ちや」に傍点]の云ったことが、ほぼ事実らしいとわかると、酔ってしまうほかに手のないほど、気づまりな当惑を感じたのである。彼はいさましく飲み、娘たちを無視した。他の客たちが話しかけても、ろくさま相手にはならず、ひたすら飲むことにかかっていた。――酒には自信があったが、やがて手洗いに立ち、廊下へ出ると、ふらふらするほど酔っているのに気がついた。久しくそんな飲みかたをしなかったので、それだけ躯《からだ》にこたえたのであろう。暗い廊下に紛れこんで、手洗い場がわからなくなり、大きな声で人を呼んだ。すると、下女とみえる娘が来て、忍び笑いをしながら彼を案内し、「こちらは内で使うのだが」と断わりを云った。
「結構だ」と彼は頷いた、「そんな区別をしていられる場合じゃないんだから」
彼は手洗い場で、独り言を呟《つぶや》いたり、唄をうたったりした。
さっぱりした気分になって、見当をつけておいた廊下を、戻って来ると、途中の暗がりに跼《かが》んでいる者があった。近よっていって、「どうしました」と訊くと、苦しそうな喘《あえ》ぎと、かなりつよい香料の匂いが感じられた。甲午は「お酔いになったんですか」と覗《のぞ》き、相手はもっと苦しげに喘いで、彼のほうへ凭《もた》れかかった。客の中の婦人であろう、甲午はすぐ脇に小座敷のあるのを見て、「少し横になって休まれるがいいでしょう」と云い、婦人をたすけ起こして、その小座敷へ入れてやった。
「ここで横になっていて下さい」と彼が云った、「いま誰か来るように云います」
そして立とうとすると、女は甲午にしがみついて来た。突然であり、意外に強い力で、甲午は思わず膝《ひざ》をついた。女は彼を抱き緊めながら、片手で自分の帯をぐっと押し下げ、甲午の手を取って、乱暴に、自分の胸へひき入れた。押し下げるとさ、帯がきゅっと鳴り、衿《えり》のひろがった胸元から、香料とも肌の香ともわからない、刺戟的《しげきてき》な匂いがつよく匂った。甲午は眼が昏《くら》んだ。吸いつくように軟らかく、ひんやりと温かい乳房の、まるみと重みとが、掌《てのひら》から全身に伝わって、感覚を痺《しび》れさせ、燃え立たせた。抑制心も、意識さえも熔《と》けてしまい、女が「閉めて」と囁くのを聞いたが、障子を閉めたのも、それからの動作も夢中のようであった。すべてが現実のようではなく、火のような感覚と、反射神経だけが彼を支配し、彼は殆んど失神した。
苦痛を抑えかねたような痙攣《けいれん》のなかで、「あなたが好き」だという意味のことを、女は囁いた。その声は喉《のど》の奥でかすれ、聞きとるのが困難なほど、わなわなとふるえた。そしてさらに、「まえからあなたが好きであった」というように囁いたが、その声はもっと乱れていて、殆んど言葉をなさなかった。彼は女の肌の、蒸れるような熱さと、あまい刺戟的な匂いのなかで、もういちど失神した。
[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]
甲午は庭に立っていた。
女の「もういらしって」という、かすれた囁きが、耳に灼《や》きついていた。「あちらへいらしって、――」彼はその小座敷からぬけだし、袴《はかま》の紐《ひも》をしめ直しながら、廊下をまわって庭へおりた。こんどは迷わずに廊下を戻ることができたし、履物もすぐにみつかった。祝宴は賑《にぎ》やかに続いており、その座敷の灯で、庭はかなり明るかった。
――たいへんなことをした。
甲午はにがい悔恨と罪悪感にとらわれ、うろたえた。とりとめのない考えのなかに、自分を見失いながら、惘然《もうぜん》と立ちつくしていた。誰だろう、どの娘だろう、いや、娘ではないかもしれない。娘ならあんなふうにはできない筈だ。すると誰かの夫人だろうか、人の妻女だとすると、どうなる。彼は長い太息をし「どうなるだろう」と口の中で呟いた。向うに夕顔が咲いていて、ぼうと白く、幻のように浮いて見えた。彼はそれがなんの花とも思わず、ぼんやりと見まもったまま、同じことを、繰り返し考え続けていた。「そこにいるのは沢木か」とやがて廊下から村上総兵衛の呼ぶのが聞えた、「なにをしているんだ、酔ったのか」
「ああ」と甲午が答えた、「いまゆくよ」
彼はおずおずと振向いた。
席へ戻ったが、彼は眼をあげることができなかった。そこにいる客たちの中に、いまの女がいるのである。女は「まえからあなたが好きであった」と云った。女のほうでは彼を知っていたのだ。いまも彼のほうを見ているかもしれない。おそらく、その席から、彼のほうを見ているにちがいない。甲午は群衆の前で裸にされるような、恥ずかしさと屈辱を感じ、すぐにもそこから逃げだしたくなった。
――誰だろう、誰だったろう。
彼はおちつかない不安な日をすごした。
祝宴の日から、二日、三日と経つうちに、不安はうすらぐどころか、反対に強くなるばかりであった。娘なら、嫁に貰えばいい。好ましくあろうとなかろうと、嫁に貰えばあやまちの償いはできる。しかし娘ではなかったようだ。自分で帯を押しさげ、彼の手を取って胸へひきいれ、そうして、大胆に抱きついて来た態度は、どうしても娘のようではなかった。すると、――すると、どうなる、彼女はどうするだろう。たとえ酔っていたにしても、あれほどひたむきな情熱を持っているとすると、いちど限りで済むとは思えない。彼は江戸における放蕩の経験で、女がそういう情熱を持った場合、いちど限りでは済まない、ということを知っていた。
「誰だかわかればいいんだ」と甲午は呟いた、「相手さえわかれば、なんとか手を打つことができるんだ」
彼は女がなにかいって来ると思った。
母のいそ[#「いそ」に傍点]女は、大谷家の招宴の意味を知っていたのだろう、「誰か気にいった人がいたか」と訊き、「もういいかげんに嫁をきめなければいけない」とせきたてた。甲午は思案に余って、庄司のちや[#「ちや」に傍点]を訪ねた。ほかのことならともかく、こういう秘めごとをうちあけるにはちや[#「ちや」に傍点]のほかになかったからである。――ちや[#「ちや」に傍点]は甲午をあいそよく迎え、「誰かいい方をみつけて」と微笑した。それどころではない、「じつはとんでもないことになったのだ」と甲午は答えた。どうしたの、なにがとんでもないことなの。なにがって、それが、と甲午は口ごもり、自分でもそれとわかるほど、赤くなった。
「赤くなったりして、いやな甲さん」とちや[#「ちや」に傍点]はにらんだ、「さっさとお話しなさいな、どうしたというの」
甲午は思いきって話しだした。すると、終りまで聞かずに、ちや[#「ちや」に傍点]は「まあいやらしい」と両手で耳を塞いだ。「まあいやらしい、いやらしい甲さん」ちや[#「ちや」に傍点]は憤然とした口ぶりで云った、「そんな話、聞きたくもないわ、聞いているほうで恥ずかしいわ、よしてちょうだい」
甲午はあやまった。ちや[#「ちや」に傍点]の口ぶりがあまり激しく、容赦しない調子だったので、彼はすっかり狼狽《ろうばい》し、そのまま立って帰ろうとした。するとちや[#「ちや」に傍点]が「お坐りなさい」と呼びとめた。
「いいからお坐りなさい」とちや[#「ちや」に傍点]がいった。彼女の眼にはもう赦免の色があった、「しようのない人ね、しようのない人よ、甲さんは」とちや[#「ちや」に傍点]は云った、「それでいったい、どうなさろうというの」
「どうしたらいいか」と彼は口ごもった、「母には嫁をきめろとせめられるし、嫁を貰うにはそのほうを解決しなければならないしね」
「なぜ解決しなければならないの」
「だって、その人が黙っているかどうかわからないもの」と彼が云った、「嫁を貰ってから、その人があの晩のことを云いだしでもしたら、みんなに迷惑をかけることになるからな」
「いいきみだわ」とちや[#「ちや」に傍点]は彼をにらんだ、「その心配は充分にあってよ、まえから好きだったなんて云ったとすれば、これからも逢おうとして、きっかけを覘《ねら》っているにちがいないことよ、いいきみだわ」
「わかったよ」と甲午はがまんをきらした、「そのほかに云ってくれることがないのなら、私はもう帰るよ」
「云うことはあってよ」とちや[#「ちや」に傍点]は初めて坐り直した、「まじめに相談をしましょう、あの晩はあたしもお手伝いにいっていたから、ことによると見当がつくかもしれないわ、あなた、その人に、なにか特徴があったら、思いだしてごらんなさい」
甲午は思いだそうとした。暗い庭の向うに白く、ぼんやりと夕顔の花が咲いていた。だがあれはあとのことだ、女とは関係がない。あの小座敷を出たあとだ。ちや[#「ちや」に傍点]は彼の顔を見まもり、甲午は首を傾《かし》げた。
「特徴といえるかどうかわからないが」とやがて彼が云った、「かなり強く、からだが匂っていたのを覚えている」
[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]
「肌の匂いなの、それとも香料なの」
「わからない、どっちともわからないが、かなり強く匂ったことはたしかだ」
ちや[#「ちや」に傍点]は溜息《ためいき》をつき、「こころぼそいのね」と呟いた。それから暫く、なにか思案していたが、「そうね」といって甲午を見た。
「こうなさいな」とちや[#「ちや」に傍点]は云った、「あのとき集まった客の家を順に訪ねてみるの、そうすればわかるかもしれないわ」
「どうしてわかる、――」
「その人の家へゆけば、きっとその人が出て来るわ、そしてなにか眼顔で知らせるかもしれないし、さもなければその匂いでわかるかもしれないでしょ」
それがいちばん早い、そのほかに手だてはない。そしてその人がわかったら、改めて相談することにしよう、とちや[#「ちや」に傍点]が云った。甲午は考えていて、ようやく頷いた。
「うん」と彼は云った、「ためしてみよう」
彼は云われたとおりにした。
その人とはっきりわかることも、おそろしいような気持だったが、わからないままで、絶えず不安になやまされるよりもいい、と思ったからである。しかし結果は徒労だった。どの家でも彼は歓迎され、鄭重《ていちょう》にもてなされた。いつかちや[#「ちや」に傍点]は、――女性たちが彼に興味をもち、好意をよせている、と云ったが、訪ねた家では主人よりも、妻女や娘たちのほうが、おもに彼の接待をした。もちろん、甲午は永代老職の若い当主であり、これから嫁を選ぶという立場だから、好奇心だけの歓待である筈はない。むしろもっと現実的な意味をもっていたであろうが、それらの女性たちからは、これとおぼしい人はみつからなかった。疑えば、疑える人もいたし、香料なども似たように、感じられるものがあった。立ち居のとき、ほのかに香って来る匂いは、どれも似ているようであり、またどれも違うようであった。
「もうしようがないわ」とちや[#「ちや」に傍点]は報告を聞いて云った、「度胸を据えてお嫁さんを貰いなさい、なにか云って来たとしても、そのときはそのときでどうにかなるわよ」
「そうはいかないよ」
「男は度胸よ、当って砕けなさい」
「そうはいかないよ」と彼は首を振った、「嫁に来る人を傷つけるわけにはいかないからね、もう少しようすをみることにするよ」
こうして、彼は待った。
甲午にとって、その年の冬ほど寒さがきびしく、北風の吹き続いたためしはないように思えた。彼は家の中にひきこもって、興もなく本を読んだり、字を書いたりしながら、いつ投げられるかもしれない飛礫《つぶて》を待って、ときに度胸を据え、多くは不安な、おちつかない日々をおくった。
年があけて、三月になった或る日、――甲午は一通の(署名のない)手紙を受取った。ふしぎなことに、彼はその封書を手にしたとき、おそろしさよりも一種の安堵《あんど》と、よろこばしいような感情に浸された。それは、待っていた恋文を受取ったときの感じに似ていた。
「ようやく幕か」と彼は呟いた、「これでようやく幕になるわけか」
甲午は封を切った。
その手紙は短いものであった。「わたくしはあなたが好きだったが、あなたにはわたくしがわからないようだ、あの一夜の契りは夢だったと諦《あきら》めよう、わたくしのことは気になさらずに、いい方があったら結婚してもらいたい、あなたが独身でいると、却《かえ》ってみれんが残るから、――」という意味のことが、明らかに手跡を紛らわして書いてあった。
「誰だろう」と甲午は呟いた、「これだけでは誰だかわからない、娘だろうか、それとも人の妻だろうか」
手紙は外から門内へ投げ込んであったという。使いの者でも持って来たのならべつだが、これではその主の捜しようがなかった。――甲午は手紙を持って庄司へいった。ちや[#「ちや」に傍点]はその手紙を読むと、「手が変えてあるわね」と云った。
「いいじゃないの、諦めるって書いて来たんですもの」とちや[#「ちや」に傍点]が云った、「これで大丈夫よ、いいからお嫁さんをお貰いなさいな」
「しかし、誰だかわからないとなるとね」
「そんなこと忘れなさい、自分のことは気にするなって書いてあるじゃないの、これでも安心ができないとすると、甲さんは男とはいえなくってよ」
「ひとのことならなんとでも云えるさ」
「いくじなしね」とちや[#「ちや」に傍点]は彼をにらんだ、「女ひとりぐらいがそんなに怖いんですか、江戸でさんざん遊んで来たくせに、いまさらそんな殊勝なことが云えた義理ではないでしょ、しっかりしなさい」
そうして、手紙を甲午に返した。
甲午はその六月に結婚した。相手は梶井《かじい》藤右衛門の二女で、年は十八歳、名は小雪といった。梶井は三百石あまりの物頭で、もちろん大谷家の祝宴に招かれはしなかった。あのとき招待された客の中からは、どうしても嫁を選ぶ気になれなかったのである。――なかだちをしたのは中老の瀬川市郎兵衛で、仲人役は大谷新左衛門が買って出た。祝言にはむろん庄司の家族も来、ちや[#「ちや」に傍点]は甲午の支度をたすけながら、「よかったわね、おめでとう」と浮き浮きしたようすで云った。
「あの人ならきっといいお嫁さんになるわ、甲さんもいい旦那さまにならなければだめよ」
「それが問題さ」
「甲さん」とちや[#「ちや」に傍点]が白い眼をした。
「いや違うんだ」と甲午は顔をそむけた、「それとは違うんだ、しかしわかった、なるべくいい良人《おっと》になるようにするよ」
ちや[#「ちや」に傍点]はけげんそうに彼をみつめ、甲午はそら咳《ぜき》をしながら、裃《かみしも》の前をくいと直した。――祝言は無事に終り、新婚の夜はなにごともなく明けた。
[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]
祝言の日から三日めに、甲午はごく親しい友人たちだけ六人を招き、妻の紹介を兼ねて、小酒宴をひらいた。――かれらのほうでは忘れていたらしい、かなり酒がまわったころ、妻が座をはずしたときを覘って、甲午はまず岸井兵馬に「なにか云うことはないか」と訊いた。
「なにかって」と兵馬は訝《いぶか》しそうな眼をした、「祝いはもう述べたぞ」
「そっちはどうだ」と甲午は吉田大六を見、他の友人たちを見た、「おれは新婚三日めだ、なにか云うことはないのか」
みんな黙った。甲午がまじめな顔をしているので、かれらはなにごとかと思い、互いに眼を見交わした。
「忘れたんだな、こいつら」と甲午はかれらに云った、「ひどいやつらだ、おれはしんけんに心配したんだぞ」
かれらにはまだわからなかった。
「岸井が初めに云ったんだ、思いだしてみろ岸井、思いだしてみろ」と甲午が云った、「おれが江戸から帰ってまもなくのころだ、吉田の家でみんなが集まったとき、岸井が先立ちになっておれを威《おど》したことがあるだろう」
岸井兵馬が「あ」という眼をした。
「そうか」と大六が微笑した、「わかった、思いだしたよ」
「あやまれ」と甲午が云った、「おれはしんけんに聞き、本気で心配した、本当だぞ、おれは結婚というものに恐怖さえ感じた、こんどの祝言の夜も、じつを云うと逃げだしたくなったくらいなんだ」
岸井兵馬が、「だってわれわれは友情から」と云いかけ、甲午が、「たくさんだ」と遮《さえぎ》った。
「云いわけはたくさんだ、あやまれ」と甲午は云った、「新婚の夜は無事に済んだ、なにごともなかった、なにごともだ、困難といったっておどろくほどのものじゃなかった、それをきさまたちは、――いいからあやまれ、なんでもなかったぞ」
「いやどうも」と吉田大六が頭を下げた、「そいつはどうも、失礼」そしてみんなが声をあげて笑いだした。
結婚生活は平穏に過ぎていった。甲午は七月に「年寄役」に任じ、納戸方取締を兼ねることになった。妻の小雪は、明るいはきはきした性分で、母の気にもいったし、親族の評判もよく、甲午にとっても不足はなかった。――中一年おいて長男が生れ、仲人役の大谷新左衛門が名付け親になって、鶴之助と名付けた。
鶴之助が生れた明くる年、庄司のちや[#「ちや」に傍点]が結婚した。相手は国許|祐筆《ゆうひつ》の森島|斎宮《いつき》というのだが、斎宮は若いときから固疾があって、弟の大学に家督を譲り、一年の大半は寝ている、という状態であった。――甲午はそういうことは知らなかった。ちょっと役所の事務が多忙なときで、話は聞いたかもしれないが、うわのそらだったろう。ちや[#「ちや」に傍点]が訪ねて来たときも、「三十|白歯《しろば》などといわれずに済みましたね」とからかったものであった。なにかやり返すだろうと思ったが、そのときちや[#「ちや」に傍点]は淋しげに「そうなのよ」と微笑し、「これがきっと割れ鍋《なべ》にとじ蓋っていうんでしょ」と云った。
事情を聞いたのは、その年の秋のことであった。秋といっても八月初旬の、まだ残暑のきびしいときであった。到来物の梨があり、あまりにみごとだったので、森島へ少し届けさせた。その日は午後にひどい夕立があって、甲午が下城したときは、小雪もちょうど森島から帰ったところだった。
「途中で夕立にあったものですから、ちや[#「ちや」に傍点]さまのお召物を拝借してまいりましたの」
小雪はそう云って、借りて来たという、その単衣《ひとえ》をたたんでいた。薄い藤色の地に萩を染めた、絽《ろ》の単衣だったが、――たたみながら、小雪はそれを二度ばかり鼻に当てた。
「ちや[#「ちや」に傍点]さまお気の毒ね」と小雪が云った、「森島さまは寝たっきりで、このさきも丈夫におなりなさるかどうか、医者にもわからないんですって」
「森島が」と彼は妻を見た、「いつからだ」
「初めからですって、ちや[#「ちや」に傍点]さまはそれを承知でいらしったんですってよ」と小雪が云った、「あんなにお縹緻《きりょう》よしだし、ほかにいい御縁もあったでしょうのに、御夫婦とは名ばかりでお子を産むこともできず、一生ただ御病人の看護をして暮すようなお家へ、どうしていらっしゃる気におなりなすったのでしょう」
そのとき甲午の頭の中でなにかが起こった。音のような、光りのようななにかが、頭の中でくるくると、渦を巻きだすように感じた。
「やっぱりこれだわ」と小雪はまた、たたんだ単衣を鼻に当て、「なにかしらと思ったら」と独り言を云った、「やっぱりこのお召に付いた匂いだったのね」
「どうしたんだ」と甲午が訊いた。
「このお召物が匂いますの」と小雪は立ちあがった、「お香の匂いでもないし、なにが匂うのかと思ったんですの」
甲午は妻のほうへ手を出し、その単衣を受取って嗅《か》いだが、「あの人には昔から軽いわきががあったんだ」と云って、妻にその単衣を返そうとして、突然うっと息をのんだ。
甲午は眼をさました。彼は長いこと眠っていて、いま初めて眼をさましたように感じた。――その、萩の模様の単衣に、かすかにしみついているのは、あの夜の人の、肌の匂いであった。あの夜の、大谷家の小座敷で、眼の昏むようなひとときに、彼を包んだあの匂いであった。
「わきがって、もっといやな匂いなのでしょう」と小雪が云った、「それとも、こういう匂いもあるものなのでしょうか」
「これはあの人の匂いだよ」と甲午は単衣を妻に返しながら云った、「すっかり忘れていたけれども、小さいじぶんに嗅いだ覚えがある、この匂いならすぐわかる筈だったのに、――ばかなものだ」
「なにがばかですの」
「いや」と彼は首を振り、「なんでもない」と云って立ちあがった、「――その匂いのことは、あの人に云わないほうがいいよ」
そして、彼は一人になるために、縁側を庭へとおりていった。
底本:「山本周五郎全集第二十七巻 将監さまの細みち・並木河岸」新潮社
1982(昭和57)年8月25日 発行
底本の親本:「週刊新潮」
1956(昭和31)年7月30日号
初出:「週刊新潮」
1956(昭和31)年7月30日号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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(例)方|塞《ふさ》
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(例)[#6字下げ]
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[#6字下げ]一[#「一」は中見出し]
沢木甲午は四人きょうだいの三男であったが、二人の兄が夭折《ようせつ》し、姉も十二歳で死んだため、彼は九歳で一人っ子になった。
沢木家は九百五十石あまりの永代老職で、父は主計《かずえ》といい、母は同藩庄司氏の出で、いそ[#「いそ」に傍点]といった。四人の子供のうち、三人まで早くとられたので、甲午を育てるのには、夫婦はひどく大事をとった。あまやかしたとはいわないまでも、相当わがままを許したことはたしかで、そのためだけではないだろうが、彼はすぐれた躰格《たいかく》と健康にめぐまれながら、敏感で、衝動的で、傷つきやすい、神経質な性格に育った。――しかしこういうことは、その後の彼の、江戸における放蕩《ほうとう》や帰国してから遭遇した出来事とは無関係かもしれない。多くの人の中には、境遇や教育によっても、その性格を変えることのできないものがあるからだ。
甲午は十七歳の年から五年間、江戸屋敷で暮した。初めの二年は藩主の側で勤め、あとの三年は留守役に預けられた。永代老職の長男は、たいていこの経路をとるし、留守役に預けられている期間が、その人物の価値をきめる基準になるようであった。いうまでもないことだが、留守役は外交官で、他藩との交際や、商人たちとの折衝をするため、饗応《きょうおう》に招かれたり、招宴を設けたりすることが多い。もちろん遊里にも出入りするので、つい身を誤る者も少なくなかった。
甲午が身を誤らずに済んだのは、国許《くにもと》の母と、家扶《かふ》の桑川五郎兵衛と、そして預けられた留守役島田兵庫との、巧みな庇護《ひご》によるものであったが、それでもなお、彼の放蕩の評を隠すことはできなかったし、もう一年も江戸にいたら、無事には済まなかったかもしれない。――父の主計の病死によって、甲午は江戸詰を解かれ、二十三歳の二月に、国許へ帰った。
帰国してから二年ちかいあいだ、彼は八方|塞《ふさ》がりなような、気まずい、鬱陶しい気分ですごした。家庭の中では、母と家扶とが、彼のために、江戸の然るべき筋へ奔走し、多額な金を遣った、ということがわかって、これが相当な負担になったし、外では外で、友人知己に限らず、極めて多くの人が彼の放蕩ぶりを知っていて、――むろん誇張され、尾鰭《おひれ》が付いていたが、機会のあるごとに彼をからかったり、皮肉を云ったり、くさらせたりするのであった。その中の一例をあげると、友達が五六人で、吉田大六の家に招かれたとき、岸井兵馬がいやなことを云いだした。
「沢木はもう嫁を貰うんだろうが、気をつけないといけないぞ」と兵馬が云った、「ずいぶん道楽をして女を知っているようだが、しょうばい女と生娘ではぜんぜん違うからな」
すると吉田大六が、「うん」と考え深そうに頷《うなず》き、「それは忠告しておかなければならない、淀野《よどの》のこともあるからな」と、語尾を濁すように云った。甲午は黙って聞いていたが、他の友人たちも代る代る、同じようなことを云いだした。要するに新婚の夜が、いかにむずかしく困難なものであるかということ。男が不注意である場合はもちろん、花嫁の躰質によっては、非常な苦痛と危険の伴うものであること。その実例はいくらもあるし、現に自分たちも多かれ少なかれ、似たような経験をもっている、などということであった。甲午はかれらがいつもの手でからかっているのだと思ったが、そこにいる者の多くがすでに妻帯者であるのと、放蕩ちゅうにも、女たちからそんなふうな話を聞いた覚えがあるので、少しばかり不安な気分になり、それでもできるだけ平静に苦笑しながら、「淀野がどうかしたのかね」と訊《き》き返した。
「それはよそう、淀野のことは訊くな」と大六が首を振った、「あれは例外だ、あれはあまりにひどい」
うん、あれはひどい、とみんなが云い、岸井兵馬が、ひどいけれども「それほど稀《まれ》なことでもないんだ」と云った。甲午は怯《ひる》んだような気持になり、それ以上は訊かなかった。
だが、すべてがそんなぐあいだというのではなく、彼に同情と好意をよせる者もいた。その一人は庄司家のちや[#「ちや」に傍点]である。彼女は甲午の母の兄の娘だ。甲午より一つ年が多く、幼いときから親しかった。ちや[#「ちや」に傍点]には伝八という兄があり、妻そで[#「そで」に傍点]とのあいだに子供が二人いた。庄司は母の実家だから、ずいぶん遠慮なく往き来をしたが、伝八は甲午より八歳も年長なので、彼には従姉のほうに親しみがもてたし、ちや[#「ちや」に傍点]もまた姉さまぶって、彼をあまやかしたものであった。
「噂《うわさ》なんか気にしなくってもいいことよ」とちや[#「ちや」に傍点]は甲午に云った、「みんなは甲さんがわる遊びをしながら、ぼろを出さなかったことを妬《ねた》んでいるんでしょ、そうでなくっても、わる遊びをなすったことに間違いはないんですもの、いまさら人の噂なんか気にしたって、しようがないじゃありませんか」
それから暫く経ってのち、ちや[#「ちや」に傍点]は彼をにらんで、「甲さん、お気をつけなさい」と気をもたせるように云った。夫人や令嬢たちが、彼に興味をもち、好意をよせている、というのである。放蕩者だった、ということが、逆に好奇心を唆《そそ》るらしい。そういう点では、女性たちも相当なものなので「中にはあなたを誘惑してみようかなどという人さえある」とちや[#「ちや」に傍点]は告げた。
「だから早くお嫁さんを貰っておしまいなさい」とちや[#「ちや」に傍点]は云った、「さもないと本当に誰かに誘惑されてしまってよ」
「自分こそ早く嫁にゆけばいい」と甲午はやり返した、「私は男だからいいが、貴女はもう二十四にもなるじゃないか、どうしてお嫁にゆかないんだ」
[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]
「ひとのことはいいの」とちや[#「ちや」に傍点]が云った、「気にいった縁がなければ、三十が四十になったってお嫁になんかゆきはしないわ」
気にいらない結婚をして、失望したり苦労したりすらいなら、一生独身でくらすほうが気楽である、とちや[#「ちや」に傍点]は云った。
「それよりどうして甲さんはお嫁を貰わないの、ずいぶんほうぼうから縁談があるんでしょ」
甲午はあいまいに口を濁した。
友人たちから聞かされた新婚の話が、彼を臆病にしてしまったのである。かれらの話のあとで、べつの機会に淀野幸也のことを聞いたが、それは甲午の胆を冷やすに充分なものであった。要約すれば、幸也は新婚の翌日と、その翌日いっぱい、寝所の中で屏風《びょうぶ》をまわしたまま、新妻《にいづま》とともに、動くことができなかったというのである。そしてそのあとには、医者とか、切開とか、非常な出血などということが続き、なお、幸也自身は「不具になった」ということであった。
――それほど稀なことではない。
という、岸井兵馬の言葉と思いあわせて、甲午は(生娘との結婚に)ほとんど恐怖をさえ感じるようになった。
その年の九月、大谷新左衛門の家で、新宅びらきの祝いがあり、甲午もその祝宴に招かれた。大谷は次席家老で、招かれた客は中老以上の七家、みな妻女や娘を同伴していた。甲午のほかに村上総兵衛、木内平内、吉岡忠之進という、三人の独身者もいたが、女性のほうがはるかに多く、たいそう華やいだ宴席になった。――その席へゆくまえに、控えの間で支度を直していると、庄司のちや[#「ちや」に傍点]があらわれた。彼女は客ではなく、頼まれて手伝いに来たのだそうだが、甲午の支度を直すのを助けながら、「娘さんたちをよくごらんなさい」と囁《ささや》いた。招かれた客の中の娘たちは、みな甲午の嫁の候補者だ、というのである。甲午は信じかねたが、ちや[#「ちや」に傍点]は事実だと云い、「しっかりとよく見てお選びなさい」とき、やさしくにらんで、奥へ去った。
甲午はまだ信じられなかったが、席へついて酒が始まると、あるじの大谷新左衛門が、「沢木どのは長い江戸詰で疎遠になっていたから」と云って、彼を他の客たちに紹介し、客は客で、各自の家族、――特に(と思われたが)その娘たちを彼にひきあわせた。そればかりではない、やがてその娘たちは、代る代る出て、琴、鼓、小謡、仕舞などの芸を披露した。彼女たちの介添には、大谷家の嫁と、庄司のちや[#「ちや」に傍点]が当り、衣裳《いしょう》を直すのや、楽器の出し入れを手伝っていたが、娘が代るたびに、ちや[#「ちや」に傍点]はすばやく甲午のほうへ眼くばせをした。すると、隣りに坐っていた村上総兵衛が、「気をつけろよ沢木」と囁いた。
「田島と宮川の娘は美人で評判だが、あんまり頭のいいほうじゃないからな」
「それがどうしたというんだ」
「とぼけるなよ」と総兵衛が云った、「おれはちゃんと知ってるんだから」
甲午は酒を飲むことに専念した。
ちや[#「ちや」に傍点]の云ったことが、ほぼ事実らしいとわかると、酔ってしまうほかに手のないほど、気づまりな当惑を感じたのである。彼はいさましく飲み、娘たちを無視した。他の客たちが話しかけても、ろくさま相手にはならず、ひたすら飲むことにかかっていた。――酒には自信があったが、やがて手洗いに立ち、廊下へ出ると、ふらふらするほど酔っているのに気がついた。久しくそんな飲みかたをしなかったので、それだけ躯《からだ》にこたえたのであろう。暗い廊下に紛れこんで、手洗い場がわからなくなり、大きな声で人を呼んだ。すると、下女とみえる娘が来て、忍び笑いをしながら彼を案内し、「こちらは内で使うのだが」と断わりを云った。
「結構だ」と彼は頷いた、「そんな区別をしていられる場合じゃないんだから」
彼は手洗い場で、独り言を呟《つぶや》いたり、唄をうたったりした。
さっぱりした気分になって、見当をつけておいた廊下を、戻って来ると、途中の暗がりに跼《かが》んでいる者があった。近よっていって、「どうしました」と訊くと、苦しそうな喘《あえ》ぎと、かなりつよい香料の匂いが感じられた。甲午は「お酔いになったんですか」と覗《のぞ》き、相手はもっと苦しげに喘いで、彼のほうへ凭《もた》れかかった。客の中の婦人であろう、甲午はすぐ脇に小座敷のあるのを見て、「少し横になって休まれるがいいでしょう」と云い、婦人をたすけ起こして、その小座敷へ入れてやった。
「ここで横になっていて下さい」と彼が云った、「いま誰か来るように云います」
そして立とうとすると、女は甲午にしがみついて来た。突然であり、意外に強い力で、甲午は思わず膝《ひざ》をついた。女は彼を抱き緊めながら、片手で自分の帯をぐっと押し下げ、甲午の手を取って、乱暴に、自分の胸へひき入れた。押し下げるとさ、帯がきゅっと鳴り、衿《えり》のひろがった胸元から、香料とも肌の香ともわからない、刺戟的《しげきてき》な匂いがつよく匂った。甲午は眼が昏《くら》んだ。吸いつくように軟らかく、ひんやりと温かい乳房の、まるみと重みとが、掌《てのひら》から全身に伝わって、感覚を痺《しび》れさせ、燃え立たせた。抑制心も、意識さえも熔《と》けてしまい、女が「閉めて」と囁くのを聞いたが、障子を閉めたのも、それからの動作も夢中のようであった。すべてが現実のようではなく、火のような感覚と、反射神経だけが彼を支配し、彼は殆んど失神した。
苦痛を抑えかねたような痙攣《けいれん》のなかで、「あなたが好き」だという意味のことを、女は囁いた。その声は喉《のど》の奥でかすれ、聞きとるのが困難なほど、わなわなとふるえた。そしてさらに、「まえからあなたが好きであった」というように囁いたが、その声はもっと乱れていて、殆んど言葉をなさなかった。彼は女の肌の、蒸れるような熱さと、あまい刺戟的な匂いのなかで、もういちど失神した。
[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]
甲午は庭に立っていた。
女の「もういらしって」という、かすれた囁きが、耳に灼《や》きついていた。「あちらへいらしって、――」彼はその小座敷からぬけだし、袴《はかま》の紐《ひも》をしめ直しながら、廊下をまわって庭へおりた。こんどは迷わずに廊下を戻ることができたし、履物もすぐにみつかった。祝宴は賑《にぎ》やかに続いており、その座敷の灯で、庭はかなり明るかった。
――たいへんなことをした。
甲午はにがい悔恨と罪悪感にとらわれ、うろたえた。とりとめのない考えのなかに、自分を見失いながら、惘然《もうぜん》と立ちつくしていた。誰だろう、どの娘だろう、いや、娘ではないかもしれない。娘ならあんなふうにはできない筈だ。すると誰かの夫人だろうか、人の妻女だとすると、どうなる。彼は長い太息をし「どうなるだろう」と口の中で呟いた。向うに夕顔が咲いていて、ぼうと白く、幻のように浮いて見えた。彼はそれがなんの花とも思わず、ぼんやりと見まもったまま、同じことを、繰り返し考え続けていた。「そこにいるのは沢木か」とやがて廊下から村上総兵衛の呼ぶのが聞えた、「なにをしているんだ、酔ったのか」
「ああ」と甲午が答えた、「いまゆくよ」
彼はおずおずと振向いた。
席へ戻ったが、彼は眼をあげることができなかった。そこにいる客たちの中に、いまの女がいるのである。女は「まえからあなたが好きであった」と云った。女のほうでは彼を知っていたのだ。いまも彼のほうを見ているかもしれない。おそらく、その席から、彼のほうを見ているにちがいない。甲午は群衆の前で裸にされるような、恥ずかしさと屈辱を感じ、すぐにもそこから逃げだしたくなった。
――誰だろう、誰だったろう。
彼はおちつかない不安な日をすごした。
祝宴の日から、二日、三日と経つうちに、不安はうすらぐどころか、反対に強くなるばかりであった。娘なら、嫁に貰えばいい。好ましくあろうとなかろうと、嫁に貰えばあやまちの償いはできる。しかし娘ではなかったようだ。自分で帯を押しさげ、彼の手を取って胸へひきいれ、そうして、大胆に抱きついて来た態度は、どうしても娘のようではなかった。すると、――すると、どうなる、彼女はどうするだろう。たとえ酔っていたにしても、あれほどひたむきな情熱を持っているとすると、いちど限りで済むとは思えない。彼は江戸における放蕩の経験で、女がそういう情熱を持った場合、いちど限りでは済まない、ということを知っていた。
「誰だかわかればいいんだ」と甲午は呟いた、「相手さえわかれば、なんとか手を打つことができるんだ」
彼は女がなにかいって来ると思った。
母のいそ[#「いそ」に傍点]女は、大谷家の招宴の意味を知っていたのだろう、「誰か気にいった人がいたか」と訊き、「もういいかげんに嫁をきめなければいけない」とせきたてた。甲午は思案に余って、庄司のちや[#「ちや」に傍点]を訪ねた。ほかのことならともかく、こういう秘めごとをうちあけるにはちや[#「ちや」に傍点]のほかになかったからである。――ちや[#「ちや」に傍点]は甲午をあいそよく迎え、「誰かいい方をみつけて」と微笑した。それどころではない、「じつはとんでもないことになったのだ」と甲午は答えた。どうしたの、なにがとんでもないことなの。なにがって、それが、と甲午は口ごもり、自分でもそれとわかるほど、赤くなった。
「赤くなったりして、いやな甲さん」とちや[#「ちや」に傍点]はにらんだ、「さっさとお話しなさいな、どうしたというの」
甲午は思いきって話しだした。すると、終りまで聞かずに、ちや[#「ちや」に傍点]は「まあいやらしい」と両手で耳を塞いだ。「まあいやらしい、いやらしい甲さん」ちや[#「ちや」に傍点]は憤然とした口ぶりで云った、「そんな話、聞きたくもないわ、聞いているほうで恥ずかしいわ、よしてちょうだい」
甲午はあやまった。ちや[#「ちや」に傍点]の口ぶりがあまり激しく、容赦しない調子だったので、彼はすっかり狼狽《ろうばい》し、そのまま立って帰ろうとした。するとちや[#「ちや」に傍点]が「お坐りなさい」と呼びとめた。
「いいからお坐りなさい」とちや[#「ちや」に傍点]がいった。彼女の眼にはもう赦免の色があった、「しようのない人ね、しようのない人よ、甲さんは」とちや[#「ちや」に傍点]は云った、「それでいったい、どうなさろうというの」
「どうしたらいいか」と彼は口ごもった、「母には嫁をきめろとせめられるし、嫁を貰うにはそのほうを解決しなければならないしね」
「なぜ解決しなければならないの」
「だって、その人が黙っているかどうかわからないもの」と彼が云った、「嫁を貰ってから、その人があの晩のことを云いだしでもしたら、みんなに迷惑をかけることになるからな」
「いいきみだわ」とちや[#「ちや」に傍点]は彼をにらんだ、「その心配は充分にあってよ、まえから好きだったなんて云ったとすれば、これからも逢おうとして、きっかけを覘《ねら》っているにちがいないことよ、いいきみだわ」
「わかったよ」と甲午はがまんをきらした、「そのほかに云ってくれることがないのなら、私はもう帰るよ」
「云うことはあってよ」とちや[#「ちや」に傍点]は初めて坐り直した、「まじめに相談をしましょう、あの晩はあたしもお手伝いにいっていたから、ことによると見当がつくかもしれないわ、あなた、その人に、なにか特徴があったら、思いだしてごらんなさい」
甲午は思いだそうとした。暗い庭の向うに白く、ぼんやりと夕顔の花が咲いていた。だがあれはあとのことだ、女とは関係がない。あの小座敷を出たあとだ。ちや[#「ちや」に傍点]は彼の顔を見まもり、甲午は首を傾《かし》げた。
「特徴といえるかどうかわからないが」とやがて彼が云った、「かなり強く、からだが匂っていたのを覚えている」
[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]
「肌の匂いなの、それとも香料なの」
「わからない、どっちともわからないが、かなり強く匂ったことはたしかだ」
ちや[#「ちや」に傍点]は溜息《ためいき》をつき、「こころぼそいのね」と呟いた。それから暫く、なにか思案していたが、「そうね」といって甲午を見た。
「こうなさいな」とちや[#「ちや」に傍点]は云った、「あのとき集まった客の家を順に訪ねてみるの、そうすればわかるかもしれないわ」
「どうしてわかる、――」
「その人の家へゆけば、きっとその人が出て来るわ、そしてなにか眼顔で知らせるかもしれないし、さもなければその匂いでわかるかもしれないでしょ」
それがいちばん早い、そのほかに手だてはない。そしてその人がわかったら、改めて相談することにしよう、とちや[#「ちや」に傍点]が云った。甲午は考えていて、ようやく頷いた。
「うん」と彼は云った、「ためしてみよう」
彼は云われたとおりにした。
その人とはっきりわかることも、おそろしいような気持だったが、わからないままで、絶えず不安になやまされるよりもいい、と思ったからである。しかし結果は徒労だった。どの家でも彼は歓迎され、鄭重《ていちょう》にもてなされた。いつかちや[#「ちや」に傍点]は、――女性たちが彼に興味をもち、好意をよせている、と云ったが、訪ねた家では主人よりも、妻女や娘たちのほうが、おもに彼の接待をした。もちろん、甲午は永代老職の若い当主であり、これから嫁を選ぶという立場だから、好奇心だけの歓待である筈はない。むしろもっと現実的な意味をもっていたであろうが、それらの女性たちからは、これとおぼしい人はみつからなかった。疑えば、疑える人もいたし、香料なども似たように、感じられるものがあった。立ち居のとき、ほのかに香って来る匂いは、どれも似ているようであり、またどれも違うようであった。
「もうしようがないわ」とちや[#「ちや」に傍点]は報告を聞いて云った、「度胸を据えてお嫁さんを貰いなさい、なにか云って来たとしても、そのときはそのときでどうにかなるわよ」
「そうはいかないよ」
「男は度胸よ、当って砕けなさい」
「そうはいかないよ」と彼は首を振った、「嫁に来る人を傷つけるわけにはいかないからね、もう少しようすをみることにするよ」
こうして、彼は待った。
甲午にとって、その年の冬ほど寒さがきびしく、北風の吹き続いたためしはないように思えた。彼は家の中にひきこもって、興もなく本を読んだり、字を書いたりしながら、いつ投げられるかもしれない飛礫《つぶて》を待って、ときに度胸を据え、多くは不安な、おちつかない日々をおくった。
年があけて、三月になった或る日、――甲午は一通の(署名のない)手紙を受取った。ふしぎなことに、彼はその封書を手にしたとき、おそろしさよりも一種の安堵《あんど》と、よろこばしいような感情に浸された。それは、待っていた恋文を受取ったときの感じに似ていた。
「ようやく幕か」と彼は呟いた、「これでようやく幕になるわけか」
甲午は封を切った。
その手紙は短いものであった。「わたくしはあなたが好きだったが、あなたにはわたくしがわからないようだ、あの一夜の契りは夢だったと諦《あきら》めよう、わたくしのことは気になさらずに、いい方があったら結婚してもらいたい、あなたが独身でいると、却《かえ》ってみれんが残るから、――」という意味のことが、明らかに手跡を紛らわして書いてあった。
「誰だろう」と甲午は呟いた、「これだけでは誰だかわからない、娘だろうか、それとも人の妻だろうか」
手紙は外から門内へ投げ込んであったという。使いの者でも持って来たのならべつだが、これではその主の捜しようがなかった。――甲午は手紙を持って庄司へいった。ちや[#「ちや」に傍点]はその手紙を読むと、「手が変えてあるわね」と云った。
「いいじゃないの、諦めるって書いて来たんですもの」とちや[#「ちや」に傍点]が云った、「これで大丈夫よ、いいからお嫁さんをお貰いなさいな」
「しかし、誰だかわからないとなるとね」
「そんなこと忘れなさい、自分のことは気にするなって書いてあるじゃないの、これでも安心ができないとすると、甲さんは男とはいえなくってよ」
「ひとのことならなんとでも云えるさ」
「いくじなしね」とちや[#「ちや」に傍点]は彼をにらんだ、「女ひとりぐらいがそんなに怖いんですか、江戸でさんざん遊んで来たくせに、いまさらそんな殊勝なことが云えた義理ではないでしょ、しっかりしなさい」
そうして、手紙を甲午に返した。
甲午はその六月に結婚した。相手は梶井《かじい》藤右衛門の二女で、年は十八歳、名は小雪といった。梶井は三百石あまりの物頭で、もちろん大谷家の祝宴に招かれはしなかった。あのとき招待された客の中からは、どうしても嫁を選ぶ気になれなかったのである。――なかだちをしたのは中老の瀬川市郎兵衛で、仲人役は大谷新左衛門が買って出た。祝言にはむろん庄司の家族も来、ちや[#「ちや」に傍点]は甲午の支度をたすけながら、「よかったわね、おめでとう」と浮き浮きしたようすで云った。
「あの人ならきっといいお嫁さんになるわ、甲さんもいい旦那さまにならなければだめよ」
「それが問題さ」
「甲さん」とちや[#「ちや」に傍点]が白い眼をした。
「いや違うんだ」と甲午は顔をそむけた、「それとは違うんだ、しかしわかった、なるべくいい良人《おっと》になるようにするよ」
ちや[#「ちや」に傍点]はけげんそうに彼をみつめ、甲午はそら咳《ぜき》をしながら、裃《かみしも》の前をくいと直した。――祝言は無事に終り、新婚の夜はなにごともなく明けた。
[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]
祝言の日から三日めに、甲午はごく親しい友人たちだけ六人を招き、妻の紹介を兼ねて、小酒宴をひらいた。――かれらのほうでは忘れていたらしい、かなり酒がまわったころ、妻が座をはずしたときを覘って、甲午はまず岸井兵馬に「なにか云うことはないか」と訊いた。
「なにかって」と兵馬は訝《いぶか》しそうな眼をした、「祝いはもう述べたぞ」
「そっちはどうだ」と甲午は吉田大六を見、他の友人たちを見た、「おれは新婚三日めだ、なにか云うことはないのか」
みんな黙った。甲午がまじめな顔をしているので、かれらはなにごとかと思い、互いに眼を見交わした。
「忘れたんだな、こいつら」と甲午はかれらに云った、「ひどいやつらだ、おれはしんけんに心配したんだぞ」
かれらにはまだわからなかった。
「岸井が初めに云ったんだ、思いだしてみろ岸井、思いだしてみろ」と甲午が云った、「おれが江戸から帰ってまもなくのころだ、吉田の家でみんなが集まったとき、岸井が先立ちになっておれを威《おど》したことがあるだろう」
岸井兵馬が「あ」という眼をした。
「そうか」と大六が微笑した、「わかった、思いだしたよ」
「あやまれ」と甲午が云った、「おれはしんけんに聞き、本気で心配した、本当だぞ、おれは結婚というものに恐怖さえ感じた、こんどの祝言の夜も、じつを云うと逃げだしたくなったくらいなんだ」
岸井兵馬が、「だってわれわれは友情から」と云いかけ、甲午が、「たくさんだ」と遮《さえぎ》った。
「云いわけはたくさんだ、あやまれ」と甲午は云った、「新婚の夜は無事に済んだ、なにごともなかった、なにごともだ、困難といったっておどろくほどのものじゃなかった、それをきさまたちは、――いいからあやまれ、なんでもなかったぞ」
「いやどうも」と吉田大六が頭を下げた、「そいつはどうも、失礼」そしてみんなが声をあげて笑いだした。
結婚生活は平穏に過ぎていった。甲午は七月に「年寄役」に任じ、納戸方取締を兼ねることになった。妻の小雪は、明るいはきはきした性分で、母の気にもいったし、親族の評判もよく、甲午にとっても不足はなかった。――中一年おいて長男が生れ、仲人役の大谷新左衛門が名付け親になって、鶴之助と名付けた。
鶴之助が生れた明くる年、庄司のちや[#「ちや」に傍点]が結婚した。相手は国許|祐筆《ゆうひつ》の森島|斎宮《いつき》というのだが、斎宮は若いときから固疾があって、弟の大学に家督を譲り、一年の大半は寝ている、という状態であった。――甲午はそういうことは知らなかった。ちょっと役所の事務が多忙なときで、話は聞いたかもしれないが、うわのそらだったろう。ちや[#「ちや」に傍点]が訪ねて来たときも、「三十|白歯《しろば》などといわれずに済みましたね」とからかったものであった。なにかやり返すだろうと思ったが、そのときちや[#「ちや」に傍点]は淋しげに「そうなのよ」と微笑し、「これがきっと割れ鍋《なべ》にとじ蓋っていうんでしょ」と云った。
事情を聞いたのは、その年の秋のことであった。秋といっても八月初旬の、まだ残暑のきびしいときであった。到来物の梨があり、あまりにみごとだったので、森島へ少し届けさせた。その日は午後にひどい夕立があって、甲午が下城したときは、小雪もちょうど森島から帰ったところだった。
「途中で夕立にあったものですから、ちや[#「ちや」に傍点]さまのお召物を拝借してまいりましたの」
小雪はそう云って、借りて来たという、その単衣《ひとえ》をたたんでいた。薄い藤色の地に萩を染めた、絽《ろ》の単衣だったが、――たたみながら、小雪はそれを二度ばかり鼻に当てた。
「ちや[#「ちや」に傍点]さまお気の毒ね」と小雪が云った、「森島さまは寝たっきりで、このさきも丈夫におなりなさるかどうか、医者にもわからないんですって」
「森島が」と彼は妻を見た、「いつからだ」
「初めからですって、ちや[#「ちや」に傍点]さまはそれを承知でいらしったんですってよ」と小雪が云った、「あんなにお縹緻《きりょう》よしだし、ほかにいい御縁もあったでしょうのに、御夫婦とは名ばかりでお子を産むこともできず、一生ただ御病人の看護をして暮すようなお家へ、どうしていらっしゃる気におなりなすったのでしょう」
そのとき甲午の頭の中でなにかが起こった。音のような、光りのようななにかが、頭の中でくるくると、渦を巻きだすように感じた。
「やっぱりこれだわ」と小雪はまた、たたんだ単衣を鼻に当て、「なにかしらと思ったら」と独り言を云った、「やっぱりこのお召に付いた匂いだったのね」
「どうしたんだ」と甲午が訊いた。
「このお召物が匂いますの」と小雪は立ちあがった、「お香の匂いでもないし、なにが匂うのかと思ったんですの」
甲午は妻のほうへ手を出し、その単衣を受取って嗅《か》いだが、「あの人には昔から軽いわきががあったんだ」と云って、妻にその単衣を返そうとして、突然うっと息をのんだ。
甲午は眼をさました。彼は長いこと眠っていて、いま初めて眼をさましたように感じた。――その、萩の模様の単衣に、かすかにしみついているのは、あの夜の人の、肌の匂いであった。あの夜の、大谷家の小座敷で、眼の昏むようなひとときに、彼を包んだあの匂いであった。
「わきがって、もっといやな匂いなのでしょう」と小雪が云った、「それとも、こういう匂いもあるものなのでしょうか」
「これはあの人の匂いだよ」と甲午は単衣を妻に返しながら云った、「すっかり忘れていたけれども、小さいじぶんに嗅いだ覚えがある、この匂いならすぐわかる筈だったのに、――ばかなものだ」
「なにがばかですの」
「いや」と彼は首を振り、「なんでもない」と云って立ちあがった、「――その匂いのことは、あの人に云わないほうがいいよ」
そして、彼は一人になるために、縁側を庭へとおりていった。
底本:「山本周五郎全集第二十七巻 将監さまの細みち・並木河岸」新潮社
1982(昭和57)年8月25日 発行
底本の親本:「週刊新潮」
1956(昭和31)年7月30日号
初出:「週刊新潮」
1956(昭和31)年7月30日号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ